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2013年10月18日金曜日

「私はあなたを愛しています」

私が話すとき、私自身が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティーの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭い”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。

When I speak, it is never directly “myself” who speaks—I have to have recourse to a fiction which is my symbolic identity. In this sense, all speech is “indirect”: “I love you” has the structure of: “my identity as lover is telling you that it loves you.”(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

これはクレタ人エピメニデスの発話を「私は嘘をつく」として説明する『同一化セミネール』のラカンの変奏のようにみえるが、すこし違う。そこでのラカンは、「私は嘘をつく」=「私は思う」の「私」は、イマジネールな自己である「私」であり、そこから「私は思う」は、「彼女は私を愛していると私は思う」と同じであるとする。


「すべてのクレタ人はうそつきである、とクレタ人エピメニデスが言った」という場合、そこにはこまのように回転して止まることのない論理があることがわかる(……)

言表と言表行為の区別を曖昧にすることによって、「私は嘘をつく」の袋小路に至るあのパラドックスに遭遇するのに十分なのだ。(……)

「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている」という意味。これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(デカルトの「我思う」と「私は嘘をつく」  (ラカン)

「自己」とは、フェティッシュな「空想」だ……

《the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing. This is why, for Buddhism, the point is not to discover one's “true Self,” but to accept that there is no such thing, that the “Self” as such is an illusion, an imposture.(zizek"LESS THAN NOTHING")》


いずれにせよ(ジジェクの例の象徴的同一化にしろ、ラカンの礼の想像的同一化にしろ)、「私は思う」やら「私の意見では」「私は好きです」のたぐいには上のような構造がある。


もっともここで異なった側面からの見解を挿入すれば、「私は思う」がいつも非難されるわけでは決してない。ただしそれは趣味判断なのではないか、との疑いはつねにもたなければならない。趣味判断、あるいはたんなるイデオロギーであるにもかかわらず、倫理的=実践的主体としての<わたくし>は、その発話に責任をもって、「私は思う」と言明する(医師や政治家はそうでなくてはならない)。


たとえば、『純粋理性批判』や『実践理性批判』において、彼は経験的なものにもとづく「一般的な」規則に対して、普遍的な法則を求めている。では、科学認識や道徳にそれがあるが、芸術にはないということになるだろうか。否、美的判断において普遍性が疑わしいのであれば、他の領域においてもそうなのだ。少なくとも、カントはそこから出発した。彼の「批判」がラディカルなのは、とりあえずすべてを趣味判断において出会うような問題から考え直したということにあったのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』「カント的転回」P67)

さらに、ジジェクの朋友であるカントとラカンの書『リアルの倫理』の著者アレンカ・ジュパンチッチであるならば、想像界でも象徴界でもなく、現実界(リアル)による発話行為側面から、次のようにいうだろう、--「汝の生み出した発話行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ」、と。






アレンカ・ズパンチッチも指摘するように、人間は時としてみずから全く望まない(したがって一切の感性的動機を免れた)行為をなすのである。ただしカントの考える道徳的行為とは異なり、それは自覚的な意志に基づく行為ではない。たとえば神経症者に見られる失策行為や強迫的行動がその典型的な例である。それが「ひとつの行為」と見なされるのは、症状に苦しむ当人のあずかりしらぬ享楽の表現がそこに認められるからである。そのような行為へと人を駆り立てている」のは、倒錯の場合と同様、死の欲動である。

ところで、神経症の症状ほどあからさまではないにせよ、いかなる行為の場合にも同様の仕方による意志と行為との齟齬が存すると精神分析は考える。そこから精神分析は主体と行為の概念を一変させ、主体とはそれを生み出した行為を通して遡及的にそれと規定されるものであり、行為とはそのつど新しい主体を出現させるものである、という見解を引き出す。この見解にしたがえば、天使や悪魔ならいざしらず人間には不可能だとカントが考えた行為も、十分人間には可能であるとみなされる。また、それにともなって、主体はみずからを生み出した行為の責任を負わなければならないという倫理的見解が導き出される。いわば精神分析は「汝を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ」という定言命法を差し出しているのである。(ハンナ・アーレントがいわなかったこと  伊藤正博)

…………

ところで、ーー

あきらかな馬鹿があなたの話は面白いといった場合と、
あきらかな馬鹿があなたの話はくだらないといった場合と、
どっちが好ましいかい?

ひとによるだろうな

営業活動をしてるのなら、馬鹿にでも好まれたほうがいい
そうでなかったら、
馬鹿にはくだらないと判断してもらったほうが好むひともいるだろうな

この「馬鹿」には、「悪趣味」とか「野暮」「下品」な人、あるいは「妄想者」を代入してもいいのだけれどね

…また、私は、民衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同時に不可能であることを知っている。最後に、民衆が自己の考えを変えようとしないのは恒心ではなくて我執なのであること、また民衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされることを知っている。ゆえに、民衆ならびに民衆とともにこうした感情にとらわれているすべての人々に私は本書を読んでもらいたくない、否、私は、彼らが本書を、すべてのものごとに対してそうであるように、見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい。彼らは本書を見当違いに読んで自らに何の益がないばかりか、他の人々に、――理性は神学の婢でなければならぬという思想にさまたげられさえしなかったらもっと自由に哲学しえただろう人々に、邪魔立てするだろう。実にそうした人々にこそ本書は最も有益であると、私は確信するのに。(スピノザ『神学・政治論』1670年序文)


ーーさて、こうやって書かれ引用された文の「言表内容」ではなく「言表行為」は次のようかもしれないぜ

馬鹿である<私>が、あきらかな馬鹿と判断せざるをえない人物から、あなたの話は面白いと言われて、頭にきているーーというのはクレタ人エピメニデスの変奏だ……

あるいは馬鹿ではないにしろ、ごく凡庸人にただちに面白いとされれば己の限界を悟って静かに退けねばならない、とも凡庸な<私>は呟いてみる……

《フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。》(中井久夫「書評の書評」『リテレール』創刊号 1992)


…………


妄想者(パラノイア的人格者)や病的ナルシシストは、次のような特徴があるようだ。

まず自らの「我思う」に、全く疑いをもたない、つまり妄執する。

そして、彼もしくは彼女の意見に賛同するもの(フォロワーやら信者)が馬鹿であっても、そられの人を求めるざるをえない構造がある。

・the divided hysteric is looking for a guaranteeing big Other without a lack, who knows for certain; the paranoid subject is looking for followers and believers.

・Where the hysterical subject is always in doubt and is never sure about the choices he/she has made, by contrast, the paranoid subject knows for certain and transforms this knowledge into a system. From a psychiatric point of view, this typically gives rise to delusion and to megalomania, lack of doubt, lack of self-reflection and complete certainty. The message is clear: he is a master without any lack whatever.

・In Freudian terms, psychosis is a narcissistic neurosis-that is, a neurosis without the normal object relations. The paradoxical result of this situation is that it is the paranoiac who is most in need of an audience such as a group, in order to "keep his sanity," i.e., to avoid a psychotic breakdown(.Paul Verlweghe「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles 」)

そしてそれは場合によって治療効果があるらしいから、けっして貶してはいけないと、唐突に「正義面」の仮面を被って誤魔化してみる……


…………

・一部のラカン派(ミレール派)曰く、《二〇世紀の神経症の時代から、二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ》、であるなら、ひょっとして現在、ほとんどの人がパラノイア的人格の「構造」を持ちつつあるのかもしれない、と「妄想者」である<私>が言う……

ーーフロイトやラカン用語では、幻想(ファンタジー)という語が、神経症をめぐって多用されることから、ここでは語句の定義などはうっちゃって、「幻想の時代」から「妄想の時代」へ変わりつつあると、この妄想的な<私>は言う……

・フォロワーの増減で一喜一憂せざるをえない構造をかかえるツイッターは、妄想者の育成機械である、と<私>が言う……

・パラノイアである<私>は、己れのことを妄想者ではなく倒錯者と確信して疑いをもたない……

・<私>が自らパラノイア症者とか、倒錯者と称するのは、「ほんとうのことを言って騙す」ーー、つまり「実は違うと思わせたい」ということだと<私>は言う……

・「妄想」の語源はラテン語 dēlūsiō(dēlūdere「だます」より)であり、 dēlūdere だます, 裏切る=dē- DE- + lūdere 振る舞うであると、ときには辞書をみて、この<私>は真面目腐ってみる……だが冒頭近くに出てきた「空想」と「幻想」「妄想」の区別などは考えてみようとはしない怠慢さを誇っている…とりあえず、それぞれ想像界、象徴界、現実界にかかわる語彙だと、嘘出鱈目を書いてみる…
ほかにも「夢想」「理想」等々…、「神」は「空想」だろうか、あるいは「妄想」であろうか? 女のロマンティックな「夢想」は、「空想」であろうか「幻想」であろうか…などともっともらしく問いをつけ加えてもよい…レイプファンタジー(幻想)というのがあるな…フロイト人文書院旧訳『ある幻想の未来』Die Zukunft einer Illusion, (The Future of an Illusion )では、宗教は Illusionと断言されているが、これは「幻想」と訳されており、だがいままでの慣例ならば「空想」であることはよく知られている…岩波全集の新訳では『ある錯覚の未来』だぜ…混乱をふせぐには「錯覚」という味気ない訳でも致し方なく、まあ文句はいうまい…


あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』)

※参照→ 真実の仮面による欺瞞


…………

パラノイア症者が、象徴的共同体や「一般の意見」の〈他者〉をどうしても信用しないのは、騙されていない、手綱を握っている「〈他者〉の〈他者〉」の存在を信じているからである。パラノイア症者の誤りは、その徹底した不信や、すべては欺瞞に満ちているという確信にあるのではない。その点では彼は全く正しいのだ。象徴的秩序は究極的には根本的に欺瞞に基づいた秩序なのだから。そうではなく、彼の誤りは、この欺瞞を操作している隠れた存在がいるという信念にある。 (ジジェク『斜めから見る』p156)
今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信、つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり,すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)







2013年6月22日土曜日

「うまくいっている」カップルの構造  ロラン・バルト

以下引用される『恋愛のディスクール』におけるロラン・バルトの「わたし」は、ロラン・バルト自身のことではない。それは、自伝的な『彼自身によるロラン・バルト』の「わたし」--《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》とは、また違った意味で。


つまり、《恋愛のディスクールを記述するかわりにその模擬物をおき、これに”わたし”という基本的人称を与え、分析ではなく発話行為そのものが上演されるようにしてみた。(……)この活写文は心理的なものではない、構造的なものなのだ。それが読みとらせようとしているのはことばの場である。語ろうとせぬ他者(恋愛の対象)を前に、おのが内部で恋情のままに語りつつある誰かの場、なのである》(ロラン・バルト「この書物はどのように作られているか」)


あなたに欲望のありどころを教えようとしたら、当の欲望をほんの少し禁じてやればよい(禁止のないところに欲望はないというのが本当なら)。 Xは、わたしがいつも身近におり、しかも、 “ほんの少し” は自由にさせてくれるよう望んでいる。おりおりに姿を消す柔軟な存在であって、しかも、 “あまり遠くへは”離れてゆかぬよう、望んでいるのだ。つまり、このわたしが、常に禁じられたもの(それがなければ良き欲望もない)として現前していなければならないというのである。しかもまたわたしは、ひとたび Xの欲望が形成されてしまい、これ以上はわたしの存在が邪魔になりかねないようなときがくれば、ただちに遠ざかるのではなけれならないだろう。静かに編物をしながら子供を遊ばせている申し分のない母親(保護者であってしかも放任的な)でなければならないのだ。「うまくいっている」カップルの構造とはそうしたものであるだろう。いささかの禁止と多くの自由。欲望を教示し、あとは自由にさせておく。道は教えてくれるが、一緒に行ってやるなどとは言い出さぬ、親切な土地の人たちのように。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』P208


ーー「うまくいっている」カップルでさえも、《わたしの存在が邪魔になりかねないようなときがくれば、ただちに遠ざかるのではなけれならない》。


だが、愛しあうカップル(その片方)が、つねに、《静かに編物をしながら子供を遊ばせている申し分のない母親》でありえようはずがない。

…… わたしは「母親」である(あの人はわたしに心配をかける)が、不十分な母親なのだ。しかし、それほど慎重に身を持しているにしては、わたしの感じる動揺はあまりにも激しい。それというのも、あの人の不幸に「真摯に」同一化しようとするまさにそのとき、わたしは、この不幸の中に “わたしぬき” という事態のあること、あの人が自分だけのことで不幸になったのであり、したがってわたしは見捨てられているのだということを、読みとってしまうからなのだ。わたし以外のことで苦しんでいるからには、わたしなどものの数に入っていないということだろう。あの人の苦痛は、あの人をわたしの外部で存立せしめるものであり、したがってわたしを無力にするものなのである。 P87


《わたしぬき》、ーーたとえばパラノイア型(あるいはナルシシズム型)の人物に「よそよそしく」したら、どんな目にあうか。


(追跡妄想をもつパラノイアは)、他人が彼らに全然無関心ではないことを知り、見知らぬ他人たちが彼らにしめす些細な徴候を「関係妄想」の中で評価している。関係妄想の意味するところは、彼らがすべての見知らぬ人から、なにか愛情のごときものを期待していることである。ところが他人たちはそういう素振りをしめすこともなく、なにげなくひとりで笑ってみたり、通りすがりにステッキを振りまわしたり、あるいは地面に唾をはいたりする。かりに親しい気持ちを傍の人にたいしてもつ場合に、そういう仕事をするはずがない。傍の人にまったく無関心のときや、それをかるくあしらうときだけにそういうことをするものである。「よそよそしい」ことと「敵意がある」ということは根本的には似ているので、パラノイア患者が、他人の無関心を敵意があると感ずるのは、彼らの愛情を期待することの強さに照らし合わせてみて、さほど不思議ではない。

ところで、嫉妬妄想をもつ患者や追跡妄想をもつ患者が、内心に認めたくないことがあって、それをほかの他人に投射するのだと、われわれがいっても、それだけでは彼らの態度を十分には述べていないように思われる。

投射することは確かだが、彼らはあてなしに投射するわけではないし、似ても似つかぬもののあるところに投射するのでもない。彼らは他人の無意識なものについて知っていて、その知恵にみちびかれている。彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。われわれの見た前記の嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。この実例を有力なものとすると、追跡される者が他人のうちに見つけた敵意もまた、この他人にたいする彼自身の敵対感情の反射であると結論してよいだろう。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)

もっとも、この文は、後半箇所がより肝要なのかもしれない。他人を観察して悦に入っている人物の、自らの無意識的なものから注意をそらして、他人の無意識的なものに注意をむけていることが。

《…ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。》(プルースト「花さく乙女たちのかげに」Ⅱ 井上究一郎訳)


つまりは、《人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。》(プルースト『囚われの女』)ーー鋭利な「他者分析」を得意がって開陳する人間の心性には、つねに、この機微があるのではないか、と疑うことを忘れてはならない。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。(フロイト『症例ドラ』)

もちろん、このあたりの消息は、「至高の心理学者」のひとりニーチェにさえあるといえる(「ニーチェの骨抜き」)。ましてや、<わたくし>のような「どこかの馬の骨」にないわけがない。


すこし異なった側面からいえば、そもそも心理的なある側面に通暁している人物は、そのことに苦しめられた証しであることが多い。フロイトのエディプス・コンプレックス理論は、フロイトの「敬愛する」父の死の直後からその著作の前面に出てきている。そして、ラカンの「母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなもの」(「ファルス」と「享楽」をめぐって)とするファルス理論が、どこから出てきているのかは言うを俟たない。

※いささか退屈な箇所もあるどこかの博士論文だが、このあたりのことが長々しく(時系列的に精緻を極めて)書かれている→
「Freud, Lacan, and the Oedipus Complex」http://scholar.sun.ac.za/bitstream/handle/10019.1/17843/vandermerwe_freud_2011.pdf?sequence=2
ーーこの論に行き当たったのは、過日、引用したRussell GriggThe Concept of Semblant in Lacan's Teaching” の著作'Beyond the Oedipus Complex'を追うなかでのこと。


あるいはまた、中井久夫はカヴァフィスのエロス詩を引用したあと、次のように書いている、《現実の詩人のエロスはどうだったかはあまりわかっていない。しかし、ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(「現代ギリシャ詩人の肖像」)


…………

プラトンの『パイドロス』におけるソフィスト・リュシアスの物語と、最初のソクラテス(前言取消をおこなう前)の物語とは、いずれも次のような原則にのっとっている。すなわち、愛される者にとって、愛してくれる者の存在は耐えがたいもの(その重々しさのため)である。そのあとに、愛する者の望ましからざる特性の一覧表がでてくる。いわく、恋をしている者は、いとしい人の眼に誰かが自分と同等か優越した存在に映ることが耐えられない。そこで、あらゆる競争相手の価値を低めようと努める。愛する人をもろもろの対人関係から遠ざけようとする。あれこれと奸策を弄してまで、愛する人を無知のままにしておこう、恋人である自分から出たもの以外、なにも識らぬままにしておこうとする。愛する人が一番親しい人たちを、父を、母を、親戚を、友人を、失えばよいとひそかに望んでいる。家を失い、子を失えばよいと思っている。この調子で精励に日々を送るのは、いかにも大変なことであろう。恋する者は、昼であれ夜であれ、一刻といえども、ひとりにされることに我慢できない。どれほど年をとった恋人(そのこと自体が望ましからざることであるが)でも、みな、横暴な警官のように振舞うだろう。疑い深く抜け目のないスパイに、愛する人を見張らせるだろう。しかも、自分はというと、やがていつの日か、裏切りを犯したり、恩知らずなことをしでかしたりしかねないのである。つまり、本人がどう考えていようと、恋する者の心にはいろいろと正しからざる思いがつまっている。彼の愛は高潔とはいえないのである。

( ……)恋をしているわたしとは、好ましからざる人間なのだ。なにかにつけて押しつけがましく、相手の迷惑をかえりみず、その好意につけこみ、あっさりしたところがなく、いろいろと要求の多い、脅迫的なところのある(もっと簡単に言えば、おしゃべりな)、不愉快きわまる連中の一人なのだ。……(『恋愛のディスクール』 P249~)


《ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。》(ジジェク『ラカンはこう読め』 P83


いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似ではなく相同を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、双数構造のあるところならどこででもわたしを捕捉するのだ。さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気晴らしによって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうからだ。今や、この不幸の能動的主辞はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。

(恋愛小説がなりたつーー売れるーーのも、こうした相同性によるのである。) P196

そう、愛されぬままに愛している人の内に、自分の「幼少の砌の髑髏」を見てしまうことだってあり得る。そして傷がいまだ疼く。《体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。――ボール・ヴァレリー『カイエ』よりーー》


 …………


《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)


自由意志などない。《すべての行為は、それが意欲される以前に、可能なものとしてまず機械的に準備されていなければならない。ないしは、「目的」は、たいてい、その遂行の準備がととのえられたときにはじめて思い浮かぶ》(ニーチェ「権力への意志」)



情念などコントロールできない。だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由である。

……


プルーストは、《われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴〔シーニュ〕であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる》とする。

悲しみが協力した作品が未来の苦しみの不吉な表徴だと解する第一の見方からすると、作品はもっぱら一つの不幸な愛と考えられ、その愛はさらにほかの不幸な愛を宿命的にまえぶれし、その結果、生活は作品に似ることになり、詩人にはもう書く必要がほとんどなくなるほど、彼はすでに書いたもののなかにこれから起ることの先どりされた形を見出すだろう。そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような相違を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていたのであ(る)。(「見出された時」井上究一郎訳 P381)

そう、作品にあらわれた「悲しみ」や、他者観察における「悲しみ」の現われが、「不吉な苦しみのシーニュ」であるのは、言うをまたない。

「不幸・不満」をめぐって、かつてのモラリストなら次のように言う、《不幸ないし不満でいるのはむつかしいことではない。ひとが楽しませてくれるのを待っている君主のするように、じっとして座っているだけで十分なのである。市の売物であるかのように幸福をねらい、値ぶみしているあの目つきは、その見るものすべてのうえに退屈の色を投げかける》(アラン「プロポ」)

…幸福になりたいと思わずして幸福たりうることなどありえないのである。だから、自己の幸福を欲し、かつそれを作り出さなくてはならぬ。

幸福たることは、自己以外の人々にたいする義務でもある。このことは、まだ十分にいわれたためしがない。幸福な人間しかひとに愛されない、とは至言である。

しかし、この褒美が正当なもの、まさに当然のものだ、という点は忘れられている。不幸、退屈、それに絶望は、われわれが例外なしに吸っているこの大気のなかにある。だから空気中のこの毒気を処理してくれる人々、その精力的な模範によって共同生活をいわば浄化してくれる人々を、われわれが戦士として厚く遇し、彼らに褒美をあたえてそれは当然なのである。こういうわけで、愛のうちには、幸福になろうという誓いより以上に深いものはひとつもない。愛する人たちの退屈、悲しみのない不幸、これほど克服しがたいものがあろうか。男性のがわでも女性のがわでも、何ごとにつけ、いつも、つぎのことをよく考えねばならない。幸福、さらにいうならば自己のためにかちとる幸福こそ、与えうるもっともすばらしくそしてもっとも気前のよい贈物だということ。(アラン「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳 弥生選書 1978)

ひとは、常にこのようにはあり得ぬことはたしかだが(たとえばジジェクが言うように、二一世紀に入って世界の到る所に、《新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》の出現が明らかになっているとき、どうして幸福でいられよう)それにもかかわらず、「人生」への態度の基本はまずは、アランのいうようであろう(もっとも、第二次世界大戦前のアランのギリギリまでの楽観主義は、アランの名声を地に落としたのだが)。だが、そのためには、《「見たくないもの」を見ない》振りをせねばならぬなら?



なんのために見たくないものを見なければならないのか? ーーー《彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、また少なくとも、出発することがある、ということにすぎない》(「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より


そして、残されている僅かな「幸福な」態度のひとつは、《たとえ明日この世界が滅びることを知っていても、私は、それでもなお、今日、私のリンゴの若木を植えるだろう。》ーーー第二次大戦が始まる直前に、ドイツでひそかに呟かれることが多くなったらしいこの格言は、《ルターの言葉》と言われてきたが、実際はそうではないらしい(3.11を心に刻んで 宮田光雄 岩波書店)。


さてプルーストに戻る。

ーーーなぜ「悲しみが協力した作品」が「なぐさめの幸福なシーニュ」ともなりうるのか。

…しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。P382
ドゥルーズは『プルーストとシーニュ』「セリーとグループ」の章で、この《幸福な表徴》箇所を引用して次のように続ける。

われわれが反復するのは、そのたびごとに、ひとつの個別的な苦しみである。しかし、反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する。あるいは、事実は常に悲しく、個別的であるが、そこから抽出される観念は一般的で楽しいものである。なぜならば、愛の反復は、苦しみを歓びに変えるような意識の把握にわれわれが近づく、進行の法則と不可分だからである。われわれは、苦しみが対象に依存しなかったことを認める。それはわれわれが自分自身に向ってする《芸》であり、《道化》でありあるいはむしろ、イデアの罠と媚態と、本質の陽気さであった。反復するひとには悲劇的なものがあるが、反復の行為には喜劇的なものがあり、もっと深いところでは、法則に含まれた反復、あるいは法則の理解からえられる歓びが存在する。(宇波彰訳 P91)

欲望ではなく、欲動を語るときのラカンが、《主体は幸福である》とするのは、このドゥルーズのいう反復の行為の陽気さの謂であろう。(参照:「資料:欲望と欲動」



2011年3月28日月曜日

情報とコミュニケーション、あるいは倫理をめぐって (蓮實重彦/柄谷行人)

以下、蓮實重彦/柄谷行人対談集『闘争のエチカ』(1988)より抜粋。

◆国際化時代といわれたりしているけど、情報といわれているもののほとんどは、国内的に消費されるものばかりです。また、発信者のほうでも、そのつもりで記号を送っている。その意味じゃ非常に政治化されやすい情報ばかりが流通していますね。

僕が批評家として位置しているコミュニケーション空間にあるのは、情報交換とは違う運動です。さっきもちょっといったけど、日米経済摩擦にしても、国内的な情報としてしか交換されていないし、けっしてコミュニケーションとして体験されていない。つまり、物語として共同体的に消費されているだけ(蓮實)

◆さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それは、また文学対言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層のことです。だから、ここでの階級闘争は、言語対文学だというべきかもしれない。言語は、作品を自分の中に閉じ込めようとする。作品はその外に出ようとする。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるとき、コミュニケーションが起こる。つまり、そこで初めてインターテクストの問題が語りうるわけです。(蓮實)

◆インターナショナルが共同体の外で問題であるように、インターテクストも言語の外の問題なんです。インターナショナルというのは、複数の国家の集合ではなく、そのいずれにとっても外にある現象でしょう。インターテクストというのも同じですよね。だから、インターテクストは作品についてしか語りえず、言語の問題ではない。批評とは、そうした意味でのコミュニケーションに加担することでしょう。(つまり、ここでのインターナショナルは、柄谷行人が後年使用する「トランスナショナル」であり、そしてここで語られている「批評」が、トランスクリティークであるだろう。;引用者)(蓮實)

◆たぶんスピノザの『エチカ』(倫理学)は、認識そのものの倫理性をいったのだと思うんです。人間がたえず表象(想像)にとらわれていること―――「自由意志」もまた想像物です―――に対して、徹底的にその「原因」を探ろうとする態度、それがスピノザの倫理です。スピノザにとっては、道徳、つまり善悪の区別も、想像物なのですね。マルクスは、スピノザが「表象」とよんだものを、「イデオロギー」とよんでいる。そして、彼は、人間の考えることはすべてイデオロギーだと考えている。それに対して可能なのは、別の真理(イデオロギー)を立てることではなくて、この「表象」をもたらす「原因」を見出そうとすることだけだと考える。そこから彼の徹底性が出てくる。そこから彼の徹底性が出てくる。そういう徹底性が彼の倫理なのですね。『資本論』の序文で、彼は自分は「自然史的立場」、いわば「善悪の彼岸」に立つといっていますけれど、まさに、それが彼の倫理性ではないかと思うんです。(柄谷)

※参照:柄谷行人『探求Ⅱ』

スピノザは、身体からくる受動感情(情念)意志によって克服しようとする姿勢を否定する。感情に対しては、われわれはその原因を知ろうと努めることしかできない。感情にとってかわるのは、意志ではなく、もう一つの感情である。いいかえれば、意志そのものが、われわれが複雑すぎるがゆえにその原因を知らないところの欲望(意識された衝動)にほかならない。くりかえしていうが、スピノザはそのような感情や欲望の不可避性を承認しようとするのであって、それを理性や意志によって克服しようとする態度を否定するのである。

《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』)。これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が。彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。

《受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成するば、ただちに受動の感情ではなくなる》(『エチカ』)。

つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。この場合、彼は感情のみについて語っているけれども、「受動性」はすべての「意識」についてあてはまる。真理の意識さえでも表象であり、受動性においてある。真理としてのイデオロギーを越えるのは、いつも別の真理のイデオロギーである。

こで、すでに示唆してきたように、いくつかの疑問が生じる。それは先ず、真理の意識そのものを表象とみなす「観念」は、それ自体意識ではないのか、という ことだ。これはつぎのようにもいいかえられる。われわれが自然史のなかにあり、受動性=表象のなかにあって、それを超越しうるという考えそのものが表象に すぎないとするならば、そのようにいうこと自体は超越なのではないか、と。あるいは、個としての主体を受動的な表象とみなすとき、なおそれをそのようにみ なす主体があるのではないか、と。


説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。
……

れわれは、説話論的な磁場の生成(……)があたかも自然現象であるかにみなされる世界に暮らしている。もっとも、その無自覚なさまを、たとえば「イデオロ ギー」と呼ぶことで覚醒させようとした試みがなかったわけではない。しかし、説話論的磁場にあっては、この概念すらがたちどころに自然化されて、過剰なる ものの隆起として人を戸惑わせる力を失ってしまう。それはおそらく、同時代にふさわしい戦略性がそこに欠落していたからであろう。

※参照3:柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス――

カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である。普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べ たように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいていることではなく、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審判 にさらされていることを前提している。これもで私はそれを空間的に考えてきたが、むしろそれは時間的に考えられねばならない。われわれが先取りすることが できない他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。 在から想定できるような未来は、未来ではない。このように見れば、普遍性を公共的合意によって基礎づけることはできない。公共的合意はたかだか現在のひとつの共同体――それがどんなに広いものであれ――に妥当するものでしかない。