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2014年2月13日木曜日

「である」と「ですます」調

前投稿から文章や文体をめぐって書いているのだが、どうも読み返す習慣がなくていけない。iPADの修理中でいまようやく戻ってきたので、寝転がって読み返すことにする。コンピューターのスクリーンというのは、どうも読み返す気がおこらないのだ。ーーと書いているのは、実は前投稿の冒頭に小学生並の主語と述語の不一致を見出し、文章などとえらそうなことを書ける身ではない、ということが言いたいのだが、また書いてしまった。いささか垂れ流し気味だが、ある意図があって続けて投稿する。

…………

〈である調〉と〈ですます調〉の両方を、ぼくは気分によって使い分けています。であるで始めて、なんだかちょっと上から目線みたいな文章になりかけたら、ですますで書き直すこともあります。もちろん文章の音の流れを考えて混ぜて使うこともある――こんな感じ。

ぼくの『わらべうた』に〈であるとあるで〉というノンセンスな詩があって、これをユニット名にした木管四重奏団のCD『あるでんて』が出ました。武満徹が賢作の誕生を祝って書いてくれた曲や、谷川・林光コンビの校歌、ぼくが楽器に合わせて書いた詩の朗読も入ってます。

ボーナストラックの子どもたちが歌う賢作作曲の〈うんこ〉がぼくは気に入ってます。乞御一聴……これはである調だな、ですます調なら、一度聴いてみてください、かな。 (谷川俊太郎

ーー谷川俊太郎の《大学の教師とか定職を持たずに職業としての詩人を貫いた態度をめぐっては、ここにいくらかのまとめがある。


かつて批評家中村光夫の「ですます調」というのがあって、おそらく当時猖獗した小林秀雄風の究極の「である」「だ」調の文体の反動・反発としてもあったのではないか。加藤周一や森有正の硬質な文体にも若いころ魅せられた身であり、わたくしにはどうも中村光夫のスタイルは気に入らなかった(では谷崎潤一郎の『文章読本』の「ですます調」はどうなのか、といえば、あれはあれで気にならない、いや、あの啓蒙的な部分も多い内容にはむしろふさわしいという感があるので一概には言えないのだが、やはり谷崎の技倆というしかないもので、おそらく末尾に書かれる「含蓄について」の節における「意味のつながりに間隙を置くこと」という工夫が味気なさを生まない秘訣のひとつだろう、流麗ななかにも読み手を立ちどまって振り返らせる工夫があるのだ。)。

わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)

吉本隆明による中村光夫の「ですます」調批判は次の如し。

…「です」とか「ます」とかいう口調で、対象とする作品あるいは作家に批評の言葉が思い入れをすることを回避したこと。しかしそれが同時に味もそっけもない、これほど読んでつまらないものはないというスタイルになった一つの理由だとぼくは理解しています。(吉本隆明

もっとも蓮實重彦などは中村光夫の批評を小林秀雄より評価している。蓮實重彦の小林批判は、高橋悠治による小林秀雄批判に続くもので、ーー高橋の文は、小林の安っぽいトリックへのもっとも鮮烈な批判として有名だがーー、それににまさるとも劣らない辛辣さをもっていおり、小林秀雄の文章の「メロドラマ」性を批判する、ーー《名高い小林秀雄のランボー体験、モーツァルト体験などは、いずれも遭遇の物語であり、舞台装置や背景までが詳述されている。これは風景の中での制度的な遭遇にすぎず、いわばよくできた思考のメロドラマだ。》(『表層批判宣言』)

※蓮實重彦の小林秀雄をめぐっては以前抜き書きしたものがあるので、末尾にやや詳細に附記する。

そして浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士は、中村光夫を吉本隆明の上におく(『近代日本の批評  昭和篇(下)』)。もちろん一時的に吉本隆明が無闇に崇められたへの時代の風潮への反発もあったはずだ。70年代の柄谷行人や蓮實重彦の批評文には、吉本隆明賛とも受けとれる文がある。『マス・イメージ論』(84年)前後から吉本隆明の発言への失望があったこともあるだろう。ようするに吉本のポストモダン的風潮への媚態に嫌気がさした人たちがいた。

――などということをメモしているのは、新垣隆という方が話題になっているので、どんな人なのか、と検索している中に、大野左紀子氏の文章の「ですます」調に当たったからだ。大野さんはかつて美術活動の実践者で、「なんでもアート」と呼ばれることに鬱憤を抱いてその業界から去ったとある。





いまは教師と批評活動をされている方だが、わたくしと同年輩の「芸術」に関心のある方がどんな見方をもっているのか、あるいは教師の目で、いまの若い人への対応の苦慮、あるいは考え方の異和などをブログで書いておられ、数年前からほぼ全記事を読む習慣をもっていた。が、このところiPADを修理に出していたことがあり、テト休みをはさんで二週間ほどご無沙汰していたところでの「新垣隆」の記事である。

ここでは「新垣隆」をめぐってはメモするつもりはない。ただブログでは「ですます」調で書くことはたしか稀であったはずなのに、著書では「ですます」調で書いているのだな、ということにいささか意外感を覚えた。記事内容も演奏家たちの苦闘ぶりが書かれており、やや関心のあるところなので、その個所を引用しよう。

数年前、あるシンポジウム で音楽プロデューサー の平井洋さんとご一緒したことがあります。五嶋みどり をはじめ日本を代表する音楽家のマネジメント やコンサートのプロデュースを、長年やってこられた方です。平井さんによれば、クラシック音楽の分野では「今は一握りの人を除いて、プロがなかなか食っていけない時代」。

 伺ったお話をまとめると、「少し前ならトップクラスは演奏家 で、二番手ならオーケストラに入り、三番手の人はヤマハ音楽教室 で教え、その次は自宅でピアノ教師をするというように、食べていく手段が皆それなりにあった。今はオーケストラのバイオリン の空きポスト一つに人が殺到し、少子化 で音楽教室には人が集まらない。住宅事情も悪く騒音問題もあるので、ピアノを買える家が少なくなった。どこの音楽ホールもお金が無く運営に苦心している。でも、これが当たり前なんだと思うべき。この状況で何ができるかを考え工夫することが大切」。

 ここから二つのことが言えると思います。一つは、これまでの「芸術の振興」は社会全体の安定と豊かさを前提としてきた。二つ目は、単に芸術だから守られるべきだということは言えない。一番目については、低迷する景気と政治的閉塞感の中での橋下氏当選[2011年、大阪市長 に橋下徹 が当選したことを指す]といった現象が端的に示していますし、詳しい説明は不要でしょう。

二つ目について。現在は、ポピュラー音楽 が低俗な娯楽でクラシック音楽が高級な芸術、あるいはポピュラーがわかりやすくクラシック は難しい、とはならなくなりました。趣味嗜好や価値観が多様化 している中で、クラシックもポップスもジャズ もロックもヒップホップ も現代音楽も歌謡曲も民謡 も、音楽としてはどれも同等。どれが重要でどれがそれほどでもないという言い方は、できないのです。そんな中で、かつてはヨーロッパ貴族の庇護のもとにあり、次いで「文化となった芸術」[近代以降の芸術は当初は既成の文化に対抗する「前衛」として現れ、やがて文化となっていくという意味]として制度の恩恵を受けてきたクラシック音楽は、売れなければ生き残れないポピュラー音楽に比べると、経済活動 が貧弱です。日本発の文化ではないので、能や歌舞伎 のような伝統芸能 としての保護は望めません。海外で活躍する日本人アーティストに期待がかけられますが、国内で強い存在感を示すには「工夫」が必要ということになるのでしょう。(『アート・ヒステリー 』第一章 アートがわからなくてもあたりまえp.79~p.80

こういった文体で書くのは、編集者からの要請もあったのかもしれない、若い人に受け入れ易くとか親しみやすくとかの類の。だがわたくしの古い感覚ではいささか失望感を覚える。《「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい》(中井久夫)のだ。

「なんでもアート」に反発して創作活動から離脱した人までが、そして「アート=良いもの」を疑うというテーマなのに、このような読み手への媚びを感じざるをえない文体で書くというのは、水村美苗と同じ嘆息をつきたくなる。だがもうそんなことはとっくの昔に諦めざるをえなくなってしまったのだろうか。教師の立場としてやむ得ないこともあるのではあろうが……


メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

「アート」についてのディスクールは、それ自体が、「アート」にならなければならない。「アート」の探求であり、アートの労働にならなければならない。


批判的な文脈で小林秀雄の名を挙げているが、ここでは致し方ない、次のように肯定的に小林秀雄に触れよう。小林は、彼が敬愛するアランを引きつつ、音楽家も詩人も小説家も一種の物を創り出す人間であり、思想家さえもそうだと言う。「鑿を振り上げる外にどうしようがあるのか」そういう行為が思想だと。「思想といふ一種の物を創る仕事」「文体を欠いた思想家は、思想といふ物に決して到る事は出来」 まい、と。https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4267/1/92304_278.pdf


ーーなどということは、もちろん何十年間に何人かの書き手の問題ではあるが、あまりにも読者に擦り寄るのもどうかと思うーーとするのも酷な時代なのだろうな。



◆水村美苗「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009.2.6」)より


水村美苗)教育の場で近代文学をもっと読ませるというのには、 さらにもう一つ重要な点があります。それを私は難易度の不可逆性と呼んでいるのですが、 一度近代日本文学を読んだ人にとって、いまのものを読むというのは実に簡単なんです。 スカスカだから、 パッパッと読んでいける。

ところが、 いまのものしか読んでいない人にとって、 逆は無理なんです。 読書力というのは運動と同じです。 若いうちに密度の濃い文章を読む訓練を受けないと、 若いうちに歩かなかった人と同じで、 脳が読書力をきちんと育てられない。 ですから、 大学を出るぐらいまでに、 これだけの近代文学を読んでおくというのが当たり前だというような教育を与えてほしい。

質問)  『日本語が亡びるとき』 の、 その亡びるという意味ですけれども、 つまり日本語がなくなるというようなことはないんですね。 日本語で考える力が衰えること、 イコール日本語の亡びであるというような意味かなと思っているわけですが、 そういうことでよろしいですか。

水村) そうですね。 人間として精神的に活発な人が日本語を読まなくなる。 少なくとも、 日本語を真剣に読まなくなる。 日本語を読む人たちが、 日本語で書かれたものに大きなものを求めなくなるにつれて、 大志を持った人たちが日本語で書かなくなるという、 悪循環のようなものが始まるのは避けたいということです。

例えば、 漱石には、 途中で死んでしまいましたけれども、 正岡子規がいた。 正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思うのです。 つまり、 書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。

ここで唐突に、蓮實重彦のテオ・アンゲロプロスへのインタビュー(『光をめぐって』より)から抜き出してみよう。モンタージュは、《観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする》と語る彼の言葉を。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています、ひとつの画面にあって、観客は、そのしかるべき要素を自分で発見し、自分でそれを組織だててゆく。その時間的推移は、モンタージュにおけるよりはるかに現実の時間に近い。そうすることで、死んだ時間、停滞する時間に対する観客の感性を豊かなものにすることも可能になります。
……

───そのことはとてもよくわかり、まさにそうした点においてあなたの映画に興奮するわけですが、そうした場合、あなたは、観客を全面的に信頼しておられるのですか。

観客にはいろいろ種類があります。アンドレ・マルローが「映画の心理学」でいっているように、映画にとっての障壁が産業であるなら、それによってわれわれは条件づけられてしまう。それはよかろう。だとするなら、選択しなければならない。その一つは、映画を撮りはするが、いつか沈黙におしやられはしないかという危険をいつでも身に感じながら撮り続けるという姿勢をとるか、それとも、いま一つの姿勢として、他の誰もが撮るようなやり方で、つまりモンタージュの映画か、説話論的有効性の映画、等々もつくってゆくことにするか、その二つに一つしかない。つまり、沈黙に向かうか、金銭に向かうか、その選択ということ以外にありえないわけですが、どうでしょうか、ある作家たちは、こうした二つの方向を厳密に選択することなく、複雑な経路をへながらも、みごとな作品を撮り続けることができる。おそらく、私には、そうしたことはできないと思う。しかし、私はそれで他人を批判しようとは思いません。あらゆる批判派自分自身にむけられます。

もちろん「押しつけの姿勢」とは程遠いゴダールのようなモンタージュがあることをわれわれは知っている。

ところで、すべての「ですます」調ではないが、やはりその調子は多くの場合、時代風潮に屈したスタイルに思えてしまう。抵抗は諦めて、多くのひとに読まれることのみを望んでいる、などと臆断するつもりはないが。冒頭近くに書いたように啓蒙的な内容ならば、「ですます調」がふさわしいということもあるのだろう。


北野武が語る「暴力の時代」

―監督は先ほど「エンターテイメントに徹している」と仰いましたよね。今言われたような編集で間を詰めるということと、エンターテイメント性というものは、監督の中では繋がっているものなんでしょうか?

北野:うん。結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。

―なるほど。

北野:登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。

こうして二人の映像作家の発話文を抜き出したが、なにが言いたいのかをごたごた説明するつもりはない。

《人間として精神的に活発な人が日本語を読まなくなる。 少なくとも、 日本語を真剣に読まなくなる。 日本語を読む人たちが、 日本語で書かれたものに大きなものを求めなくなるにつれて、 大志を持った人たちが日本語で書かなくなるという、 悪循環のようなものが始まるのは避けたいということです》というのは、もうとっくの昔に折込ずみで、戦線放棄ってわけでもあるまい? 

「リーダビリティ」の重要性を頻りに言い募り、「ですます調」で書く評論家たちもいるが、そして彼らのそれなりの役割を認めないわけではないが、読後に襲われるあの味気なさはなんなのだろう、ーーということも多くの若いひとたちは感じなくなっているわけだな……。

《言葉が尽きずに、改行もなしにとめどなく流れつづけてゆくことの恐怖というのが、いまの時代の姿なのかも知れません。しかしそれを崩れと観るという感受性それ自体が、こんなに萎えてしまっているのではねえ。》(松浦寿輝発言 古井由吉・松浦寿輝『往復書簡集 色と空のあわいに』)

ーー監督は今の時代というものをどう捉えてらっしゃいますでしょうか。

北野:もう、末期かも知れないと思うけどね。何百万年という人類の歴史において、文明とかあらゆるものは、絶滅する時代が必ずあって。無くなることで、新しいものが出てくる。そういう風に考えると、人間はもう行き詰まったなっていう感じはあるよね。人間が生き物として頂点に君臨している時代がついに終わりを迎えられるような気がするよね。

―なるほど。

北野:もしかしたら、あと20年か30年後に世界中の人が「このときから人間の破滅は始まってた」って言うんじゃないかな。それが今日のことを指すのかもしれないし。我々が幕末の話をするときに「このときにはもう江戸幕府は終わってたね」って言うのと同じように、世界のあらゆるものが崩壊しだしている。

《勇気を失ってはいけない、(……)多くのことが、まだまだ可能なのだ。あなたがた自身に笑いを浴びせることを学べ、当然笑ってしかるべきように笑うことを学べ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)


…………

上に断片を引用した中井久夫の文をもうすこし長く引用しておく。

日本語の敬語もよく考えると単に丁寧さの程度だけではない。われわれは同じ対象に向って「です、ます」調で講演し、「である」調で文を綴る。

「です、ます」調が講演や会話で選ばれるのは、接続がやさしいからである。実際、「です」「ございます」は、文から独立して、喚起的な間投詞(というのであろうか)として使用されている。「あのですね、実はですね、昨日のことでございますが、あのう、お電話をさしあげたんですがね、いらっしゃいませんでしたですね。それでですね……」。こういう用法は、顔が見えない電話での会話で頻用される。

「である」にこの作用をもたせると、政治演説になる。「のであるんである」は政治家の演説を嘲笑するのに恰好である。しかし、予想外に多くの批評家の文に「のである」の頻用を発見する。「だ」の間投詞的用法は某政治家が愛用して「それでだ、日本はだ、再軍備してだ……」とやっていたが、「突っぱねるような調子」と批評され、不人気の一因となった。

「のである」を、私は「ここで一度立ち止まっていままでの立論を振り返れ」というしるしと見る。どうしてもなくてはかなわぬ場合以外に使用すると相手をむやみに立ち止まらせ、相手の頭にこちらの考えを押し込もうとする印象の文になり。品が下る。

「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。京都学派がかつて頻用した「なかろうか」にも同じ傷害を感じる。

日本文の弱点は語尾が単調になることで、語尾を豊かにしようと誰も苦心するはずだ。動詞で終ることを多くする。体言止めにする。時に倒置法を使う。いずれもわるくない工夫である。(中井久夫「日本語を書く」1985初出『記憶の肖像』所収)


附記:蓮實重彦の小林秀雄批判

……高橋氏が引用するのは、いうまでもなく、「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてい た、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」で始まる一節である。だがそれにしても、これが「一種の狂暴 な<出会い>として一挙に起こったのだ」という点に注意すべきだとする高橋氏が、すかさず「精神が精神に触れ合う危機」を語り始めるとき、ここで小林氏が 嘘をついているという事実になぜ気づこうとしないのだろう。というより、小林氏は嘘をつくべく強いられているのだ。「神田をぶらぶら歩いていた、と“書い てもよい”」の、動詞「書く」がフランス語の譲歩による語調緩和の「条件法」に置かれている点を見逃してはなるまい。それに続く瞬間的な衝撃性の比喩とし ての「見知らぬ男」の殴打、「偶然見付けたメルキュウル版」に「仕掛けられてて」いた「爆薬」、「敏感」な「発光装置」、「炸裂」などの比喩は、事件とし てあったはずのランボー体験を青春の邂逅の光景としてしか語りえない「貧しさ」に苛立っていた言葉が、「書いてもよい」を恰好な口実として一挙に溢れだし て小林氏を裏切り、ほとんど無償に近い修辞学と戯れさせてしまったが結果なのであり、問題の一節にあって「条件法」的語調緩和の余韻をわずかにまぬがれて いる文章は、最後に記される「僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあった」という一行のみである。つまり、真の小林的ランボー体験は、その装われ た性急さにもかかわらず、徐々に、ゆっくりと引き伸ばされ、時間をかけて進行した事件だったのである。わざわざ「『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」とこ とわっている小林氏は、書物の言葉をかいくぐって一挙に「精神が精神に触れ合う危機」などを演じてしまうほどに、「精神」を信用してはおらぬ、それとも高 橋英夫は、小林氏が言葉にもまして「精神」を尊重していたとする確かな証拠でも握っているのであろうか。(……)

……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批判宣言』所収)


2013年5月3日金曜日

ありきたりな言葉


昨日(5/2)、丹生谷貴志氏がツイッターで次のように書いているね


しかし「〜の語りの魔術師」式の解説の言い方は何とかならないでしょうかね。大体こんなふうに形容される書き手は空疎な紋切り型文章のくせに変に「文学風」だったり空疎なレトリックが多いだけの駄文を書く場合が多い・・・という論評も紋切り型ですがね。

例えばフローベールの手紙を読むと、彼が完全に”言葉を見失った者”であることが分かるはずだ。

それに対しいわゆる「エンタ系」の小説家は使用すべき文例のデータベース的ストックを持ち、それを疑うことなく使用できる「プロ」であって・・・そして僕はそれを低く位置づけるつもりはさしあたりない。要は、「違う」ところで文が書かれるという確認だけはしておくだけのこと。




まあここに書かれているように、いわゆる「エンタ系」の書き物、あるいはそれだけではなく人文系の論文などでさえ、「空疎な紋切型」の表現ばかりの文章だと感じてしまうことがままある。

逆に「言葉を見失った者」の文章に親しむ習慣をもっていない人なら、それらの空疎なレトリックの多用された文を名文とし、「言葉を見失った者」の文章を悪文などとする具合にもなる(たとえば大江健三郎や中上健次の文章は読みにくいには違いない)。

マニュアルのような文章ばかり読んでいれば、あれらが悪文と評されるのも致し方ない。

そしてそれはもうとり返しがつかないところまでいっているのだろう、と嘆息するなどということにもなる。

書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。―――「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009、2,6」

…………

紋切型とは、蓮實重彦曰くは,《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(『凡庸な芸術家の肖像』)ということであり、安堵と納得の風土とは、「共感の共同体」の風土、気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいの場、要は馴れ合いの場である。

同じ共同体のなかで共有しあったカテゴリー的認識の居心地のよい磁場に支えられ、そこでの文例、紋切型表現を「プロフェッショナル」として無分別に使用する(もちろん非専門家は、知ったかぶりを気取るために、いっそう多用する)。そこで繁殖するものが「「凡庸さ」=「先入観の無思想」にほかならない。

プロフェッショナルは、《ある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている》。ーー学者村、原子力村、あるいは「クラスタ」などと称されるものをみよ


もちろん、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

丹生谷氏が、「……使用すべき文例のデータベース的ストックを持ち、それを疑うことなく使用できる「プロ」であって・・・そして僕はそれを低く位置づけるつもりはさしあたりない」とするのは、このあたりの消息を伝えている。


ここで、《カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさ》と書く松浦寿輝の文を引き出そう。


たとえばブルターニュ地方への旅を回顧し、世界と素肌で触れ合い自然と一体化した悦びを語りながら、そのとき自分は海になり、空になり、岩になり、岩に滲み入る水になってしまったと述べる小説家フローベールは、カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさを文章行為の現場においても全面化させることで、あの尋常ならざるエクリチュールを実現しえたわけだ。『サランボー』や『ブーヴァールとペキュシェ』の作者は、言葉を主体的に操作し成型すること──すなわちあたかも粘土を捏ねて自分の好きな形を作るように言葉を捏ね上げるといった「能動的」な作業など、うまくやりおおせた試しがない。彼はむしろあたりに瀰漫し自分めがけて蝟集する言葉の群れに全身の皮膚をさらし、それにひたすら犯されつづける途を選んだのであり、作家としての彼の生涯は、言葉のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけることに捧げられたと言ってよい。(死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象



たとえば、巷間に蔓延る「自分の意見」とか「自分の考え」とかを主張する言葉、それらが「政治」をめぐるものであれ、「文芸」やら「思想」をめぐるものであれ、あれらのほとんどは、どこかの文を読んでの無自覚な「要約」に過ぎないのではないか、あるいは昔からひそかにくり返し暗記していた台詞がふと口から洩れてしまっただけではないかというような印象を与えたりもする。(……つまりこのオレの文のように、としておこう、そうしとかないと、あとで突っ込まれるからな。まあしかし「無自覚な要約」などというハシタナイ真似はしていない筈で、ポール・ド・マンがいったらしい、古典主義的な意識的ななぞり書きであって、ロマン主義的な無自覚ななぞり書きではないぜ)

丹生谷氏がぽろっと自らのツイートに、「……という論評も紋切り型ですね」とするのも、そのことに自覚的なためだろう。ーーしかし、まあなんというのか、あの思想系だか文学系だかわからない連中の生意気なツイートのなんという紋切型表現の猖獗よ!、そしてその厚顔無恥な無自覚さよ!(例外はあるぜ、もちろん、ーーそれにいわゆる「政法経」やら「理系」の大半は致し方ない、「言葉を見失った者」たちの文章なぞ毛ほども読んじゃいないだろうから)、あいつらやっぱり抜けてる(間抜け)としか思えないがね。(失礼!)


あれらの「自分の考え」の大半は、《しかるべき文化圏に属するものであれば、誰もが暗記していつでも口にする用意が整っていた台詞であり、その意味で、それをあえて言説化してみることはほとんど何も言わずにおくことに等しい。》(蓮實重彦『物語批判序説』)

現代版『紋切型辞典』の項目を作りたくなるぐらいだぜ

《「あらゆる主題について、 ……礼節をわきまえた慇懃無礼な人間たりうるために人前で口にすべきすべてのことがらが列挙されるはず」と構想されたフローベールの『紋切型辞典』……「多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実を示す」のが目論見。「文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある。」》

…………

 かなりレヴェルを落として書いてみよう(つまりオレのレヴェルだ)。



・バッハのBWV12の二番目の合唱は、不協和音の美の極致のようなで最高です!


・カフカの『城』で、フリーダが宿の食堂の電燈のスイッチを切り、カウンター台の下でKと絡まる部分は奇跡的な官能を与えてくれます!


・クララ・ハスキルのシューマンの心に絡みついてくる親密な音色とスタイルは稀にみる詩情に溢れています!


――などと「最高」とか「奇跡的」とか「詩情あふれる」などと語られるのをきいたとき、ーーいやオレがよくやったんだがーーおい、やめてくれよ、そんなありきたりな表現は!、と先ずはそういう目というのか耳を持つ必要があるのだろうよ(オレのレヴェルなら、”ときには”、でいいよな)。



「言葉を見失った者」に属する、いや属さないまでも、彼らの文章に震撼したものたちは、こんなありきたりな表現を避けようとするに違いない、もっとも、日常会話でつい気を許して、やむなく、あるいは相手のレヴェルにあわせて、という場合はあるのだろうし、たとえばフィクションとしての使うってことはあるが。


たとえば蓮實重彦曰くは、


僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。

その意味で、柄谷さんの文章はそれを全部廃している。つまり、共同体に対してはぶっきらぼうなんです。ところが僕の文章は非常に形容詞が多い。これはほとんど同じことをやっているんだけれども、方向ば別で、フィクションとしての形容詞を使っているわけですね。“美しい”という言葉を僕はよく使うことがあるんだけれども、その「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎない(『闘争のエチカ』)

蓮實重彦が「美しい」をどのように使ったか、ひとつだけ例をあげよう


「知」のあらゆる領域で、あの波がしら、あの蒸気船、あの湿った綱、あの白い壁、あの髪、あの日傘、あの扉、あの噴水、あの手袋といったものを、構図を超えて饗応させねばならない。あの声、あの身振り、あの空、あの水、あの炎、あの老眼鏡、あのペン先。そしてあの長方型、あの円運動、あの直線を共鳴させねばならない。とりわけあの美しい畸型の怪物たち、あの過激なる現在を荒唐無稽に嫉妬しなければならない。(蓮實重彦『表層批判宣言』)


しかし、ここに書かれている語句でさえ、いまでは紋切型として使い難いのではないか、「美しい畸型の怪物たち」、「過激なる現在」、「荒唐無稽に嫉妬」など、つまりは蓮實重彦の弟子筋に多用されてきたせいで。



この言葉の紋切性については、金井美恵子が吉岡実を語るなかで、つぎのように語っている。かなり長いが、ああ、そうか、と感心した箇所なので引用してみよう(前半は読み飛ばしてもよいだろうが、わたくしのメモとして引用する)。

……すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。


もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

 

なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人Ⅰ 「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)


吉岡実はその詩作において、一度成功してしまった表現やスタイルは、その後二度と使わなかったそうだ。これも《あらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性》を避けるためということだろう。どんなすぐれた表現でも繰り返されれば、紋切型に陥りざるをえない。

ここで遠く遡って、アンドレ・ブルトンの初期の詩論のタイトル『皺のない言葉』、--つまり手垢にまみれていない言葉を追い求めた態度を思い出してもよい。(いや「皺のない」は、どういうわけか、いまだそれなりの鮮度があるがーーオレのようなブルトン共同体外の人間にとってはだぜーー、「手垢にまみれていない」という形容句は、とっくの昔に「手垢にまみれた」表現だよな)

詩人や文学者、あるいは大きく「芸術家」たちが、《創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難》(中井久夫)だろう。最初の成功をおさめた後、古典芸能の俳優のように芸の質を落とさないように精進しているだけの作家たちが殆んどのなかで、いやむしろ、成功作の萌芽的豊穣さを犠牲にして、光りを当てられた部分だけを反復している作家たちが多いなかで、吉岡実の「自己模倣」拒否の姿勢は特筆されてもよい。『僧侶』の成功から『サフラン摘み』の成功までの、過渡期十数年、『紡錘形』、『静かな家』、『神秘的な時代の詩』の三つの詩集はあるにしても、『僧侶』のスタイルを真似ることなく、まさに「神秘的な時代」を潜ったわけだ。


「沈黙」…。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」
…………


さてかなり寄り道したが、われわれ凡人は、「〜の語りの魔術師」などという表現を、ひそかに暗記して、しかも自分の台詞として「得意面」で繰り返し使用してしまう。

まあそれでも「最高だ」とか「奇跡のよう」、「詩情あふれる」よりはマシだがね、そんなもの要するにカワイイの類じゃないのかい? 《早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したいわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう》(蓮實重彦)



古井由吉は『東京物語考』でつぎのように書いている。


徳田秋声の『足迹』。葬式の、納棺の場面がある。そろそろ葬儀屋が棺をしめる折。《「さあ皆さん打っ着けてしまいますよ。」葬儀屋の若いものと世話役の安公とが、大声に触れ立てると、衆〔みんな〕はぞろぞろと棺の側へ寄って行った。》女たちがもめる、死者が生前に好んだ人形、色々の着物を縫って着せるのが楽しみだったそれを棺に入れるかどうか。《「入れないそうです。」と、誰やらが大分経ってから声かけた。衆〔みんな〕が笑い出した。》


ーーそして、《衆〔みんな〕が笑い出した。》と、変に印象に残る一行であった、と文芸時評家の流儀に従えば、それで済みもすることなのだが、としつつ、その変な印象の由来を念入りに書き綴ることになる。


《変に印象に残る一行》、これも「最高」だとか「奇跡」とか「詩情」の類の仲間だが、まだマシというべきなのか、文芸時評家さんたちよ

しかし文芸時評などというものは、あの繊細さを誇るはずの詩人・小説家の松浦寿輝でさえ、字数制限のせいなのか、「クレオール的な混淆文体の超絶技巧、小説の自由への獰猛なマニフェスト。」 松浦寿輝 書評『晰子の君の諸問題』(朝日新聞/425日/文芸時評より)などと書いてしまうわけで、止む得ないというべきなのか。

それとも「〜の語りの魔術師」とか「変に印象に残る一行」とかほどには、紋切型への傾斜による劣化を受けていないというべきなのか……いや、「超絶技巧」「獰猛なマニフェスト」ってのは、「〜の語りの魔術師」式と同様で、「エンタ系」の書き手以外は、もはや《フィクションとして》としてしか使い難いのではないか。(わかってるよ、そんなこと言ってたら、何も書けなくなるのは)。


でも、「すぐれた」書評家たちでも、”やむなく”かどうかは知らねど、こういうことをするのだから、ツイッターで140字範囲で、どこかの馬の骨が書けば、そのほとんどはこういった表現で溢れかえる(まあ、だから何度も連発するなよな、ってことだよ、口癖のようにして。連投しなかったら目を瞑るぜ)。


それは致し方ないにしても、ときにはそれを恥じる資質があるかが、繊細さの感覚の有無というものだろう。連発して「最高」とか「詩情」「奇跡」などとノタマウ手合いはまったく恥じていないことは明らかで(しかもそんな輩が文学好きなどと自称しているなどということがあれば尚更)、お前さんは「才能がない」と一言いうしかないね。--金井美恵子あたりだったら、なんというかね、島田 雅彦とか高橋源一郎あたりまで糞味噌だぜ、彼女にかかったらーーまさかその文学好きは金井美恵子ファンではあるまいよ(まあつまりこれもオレのことだ)



このあたりを古井由吉は、最近も、《感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる》としているが、これが《変に印象に残る一行》や《〜の語りの魔術師》の「ありきたりさ」というものだ。



今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』)

ーーというわけで、紋切型やらありきたりの表現もやむえないよ、そんなものいつも気にしてたら何も書けなくなる、ただし「思考の上でのポイントに入るところで」だけは、それらの表現をさけて、「真面目に」やろうぜ。



ヴィトゲンシュタインに言わせればこういうことになる。


凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。 ──ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」

ーーということで、この文も「あら削りで不正確な表現」に満ち溢れているだろう、今一度読み返してみて、それに気づかないオレは「才能がない」、ミナサンと等しく(「まあ」ってのが多いよな、それくらい気づいたよ、これでも今だいぶ削ったんだがな、それと丸括弧多用だよな、この丸括弧内の文はだいたい一度書いたあと、追記しているんだがね)。


※追記:あいつらを「間抜け」というのはやや繊細さに欠けたな、ナボコフのいう如く「真の俗物」としておこう。


俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである。─ナボコフ『ロシア文学講義』




2013年4月23日火曜日

木瓜の愚鈍(漱石と子規)


またしても足が痛くてなって、しばらくほとんどの時間をベッドの上で過ごす仕儀になり、暇にまかせて、漱石や子規をすこしまとめて読んでみようとしたのだけれど、今回は足の痛みがあっさりと四日ばかりでとれてしまい、そうすると読み続ける忍耐がなくなる、軀が自由の身には他の事に気がうつる。

いまごろ漱石や子規だって? 再読だよ、あたりまえだろ

……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳 文庫 P532

昔のように肺病で家で寝込むとかサナトリウムで過ごすとか、あるいは監獄とかであれば、読書の特権的時間を持ち得たのだろうけど、オレの特権的時間はたちまち水泡に帰したよ


しかし子規も漱石も現代のテクストというわけではないから、「貴族的な読書」――早読みしないこと、丹念に摘みとることーーでなく飛ばし読みでもかまわないのだろう。


……この密着した第二の読み方は現代のテクスト、限界=テクストにふさわしい読み方である。ゾラの小説を、ゆっくり、通して読んで見給え。本はあなたの手から滑り落ちるだろう。現代のテクストを、急いで、断片的に読んで見給え。このテクストは不透明になり、あなたの快楽に対して門戸をとざすことだろう。あなたは、何事かが起こればいいと思う。しかし、何も起こらない。言語活動に起こることは話の流れには起こらないか らだ。すなわち、《起こる》もの、《過ぎ去る》もの、二つの縁の断層、悦楽の隙間は、言語活動の量(ボリューム)の面において、言表行為において生ずるの であって、言表の連続において生ずるのではない。早読みしないこと、丹念に摘みとること、現代作家のものを読むには、昔のような読書のひまを再び見出すこ と、すなわち、貴族的な読者になることだ。(ロラン・バルト『テキストの快楽』)

《「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」

「なあに」

「じゃ何が書いてあるんです」

「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」

「ホホホホ。それで御勉強なの」

「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」

「それで面白いんですか」

「それが面白いんです」

「なぜ?」

「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」

「よっぽど変っていらっしゃるのね」

「ええ、ちっと変ってます」

「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」

「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」

「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」

「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」

「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる……》(漱石『草枕』)

――という具合で、断片読みだな、ベッドに縛りつけられない今は。

蓮實重彦はこの『草枕』の断片を参考にしてかどうかは知らねど、次のような「生産的」な発言をしている
たとえば夏目漱石の『猫』なんて、連載されたときは、みんな順を追って読んだかもしれないけれど、いま、はじめから律儀に読んで読み終わって、ああ面白いと思うやつはバカだと思う。そもそもそうした読まれ方にふさわしい構成を持っていないのだからあれはちょっと見ればいいわけです。いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。何回も読んだという人いますけれどね。あれは断片で充分なものであって……。(『闘争のエチカ』)

…………


例えば、 漱石には、 途中で死んでしまいましたけれども、 正岡子規がいた。 正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思うのです。 つまり、 書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

 

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。―――「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009、2,6」――www.jnpc.or.jp/files/opdf/415.pdf


 

以前、この講演録を読んだときには
別に気もとめずに読み過ごしたのだけれど

これは少し不用意な発言ではないか

と、二人の伝記も評論も殆ど読んだことがない

わたくしが言うのは不用意かもしれない

いいたいことはわかる

それにこの講演自体はすばらしい

水村美苗の『続 明暗』に感嘆したことのある身でもある

イェール大学大学院仏文科博士課程で、ポール・ド・マンの教えを受け

プリンストン大学講師、ミシガン大学客員助教授、スタンフォード大学客員教授として、

日本近代文学を教えたことのある才女であることを知らぬわけではない

水村氏のことだから漱石や子規の書簡まで綿密に読んでいるのだろう
わたくしにはそんなところまで全く手が届かない
だけれど子規は漱石が小説を発表する前に死んでいる

小説を発表する前の漱石は、

漢詩と俳句に情熱を捧げたとは寺田寅彦の言(夏目先生の俳句と漢詩
漱石自身の言葉にこうもある


さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞ったが、兎に角尤もだと思って書き直した。

 

 

今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了った。夏目漱石『処女作追懐談 )

《正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思う》ほど、子規の死以前に書いてたんだろうかね、俳句と漢詩以外に。漢文ということはありうる。また漱石の学生時代に老子についてのレポートはある。

或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でも其中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いて居った。(漱石『正岡子規』

互いに影響し合ったには相違ない

あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻りに僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ(……) 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も円滑な交際の出来る男ではなかった(同上)


枝葉末節だな
どうでもいいことなのはわかってるよ
才女でも口を滑らすことはある
講演で、というか講演後の質疑応答での発言であり、うっかりということもあるだろう
(間違っていたら失礼としておこう)


ところで子規の有名な句「柿くへば」は漱石の句を受けて書かれたようなものらしい
(これも「常識」なんだろうね、漱石、子規読みには)


鐘撞けば銀杏散るなり建長寺 ≪漱石≫ 明治28年 9月6日(海南新聞)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  ≪子規≫ 明治28年11月8日(海南新聞)


ーーまあこの程度のことも知らなかった人間がなんたら書くのは失礼というものだ。

 …………


正岡子規 18671014日(慶応3917日) - 1902年(明治35年)919


夏目漱石 186729日(慶応315日) - 1916年(大正5年)129日)


1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。Wikipedia

 ……


 

子規は人間として、又文學者として、最も「拙」の缺乏した男であつた。永年彼と交際をした何の月にも、何の日にも、余は未だ曾て彼の拙を笑ひ得るの機會を捉へ得たた試がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざ〳〵余の爲に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出來たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出來得るならば、子規の此拙な所をもう少し雄大に發揮させて、淋しさの償としたかつた。(夏目漱石『子規の画』

――この「拙」は、この文のすこし前に、《東菊によつて代表された子規の畫は、拙くて且眞面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、繪の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行がねつとり竦んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。》とある。



これは子規批判とも読める箇所で、付き合い上での子規の親分ぶりを思い出して苦笑の感慨を洩らしている以外にも、「才を呵して直ちに章をなす彼の文筆」に苦情の追懐を呈しているといってよい(ここで先走りして、下に引用される漱石の言葉を使えば、木瓜のような「愚かにして悟った」ところがない、と)。たしかに、子規の文には「肩に力が入ってる」印象を受けるものが多い。自らの主張を江湖に知らしめることに余念が無い。


あまり熱心には読んではいないのだが、たとえば、『歌よむに与ふる書』。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拜するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ實は斯く申す生も數年前迄は古今集崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拜する氣味合は能く存申候。

定家といふ人は上手か下手か譯の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは譯の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候
ーーいやいや、こう書き写せば、その主張の嫌味以外にも、どこかユーモラスなところがあるな……


なかんずく、最晩年の『病牀六尺 』や『死後』は、そのユーモア、--《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》(ボードレール)ーーを楽しんだのだけど…、あれを「拙」とは言わないということになるのか。


余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。主観的の方は、病気が悪くなったとか、俄に苦痛を感じて来たとか、いう時に起こるので、客観的の方は、長病の人が少し不愉快を感じた時などに起る。(『死後』)
この箇所は、柄谷行人の小名品、「ヒューモアとしての唯物論」でも引用されているのだけれど、柄谷はこの《「客観的」という言葉は、子規の場合、自分が自分自身を高みからみる「自己の二重化」を意味している。子規が「写生文」と読んだ「客観的」描写は、実は、近代小説のナラティヴあるいはナレーターによっては不可能なものなのである》としている。


漱石の句に、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」とある。そして『草枕』には次の文がある。


木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直(まっすぐ)かと云ふと、決して真直でもない。只真直な短い枝に、ある角度で衝突して、斜に構へつゝ全体が出来上って居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さへちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであらう。世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。(夏目漱石『草枕』十二)




「拙を守る」は、もともとは、陶淵明の五言詩「帰園田居(園田の居に帰る)」の「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」からのようで、つまり「愚直な生き方、不器用な生き方を守りとおそうと故郷の田園に帰って来た」となる。



ところで子規は漱石をこう評している。


我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また甚だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき。(『墨汁一滴』) 

ーーこの評は、晩年の子規随想、『墨汁一滴』『病床六尺』『死後』にも当てはまる印象を受けるんだけどね、《真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき》ーー子規の晩年の滑稽味を「拙」、「愚かにして悟ったところ」、少なくともその片鱗とするわけにはいかないものか。



…………


俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿のすさびに彫んだ小品をこの集に見る事が出来る。(寺田寅彦『夏目先生の俳句と漢詩』)


今頃、正岡子規の『俳人蕪村』を読んでみる

(つまり飛ばし読みしてみる)
俳句に全く馴染んでいない身にとって

芭蕉と蕪村の句が並べて評されているだけでも尊い


《五月雨は芭蕉にも


五月雨の雲吹き落せ大井川  芭蕉

五月雨をあつめて早し最上川  同


のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。


五月雨の大井越えたるかしこさよ

五月雨や大河を前に家二軒

五月雨の堀たのもしき砦とりでかな》



ーーただし、読み飛ばしたせいなのか、この書には滑稽味はあまり感じられない、肩に力が入っている。

……



子規は月並風の排除に努めて来た習わしから、ともすれば、脚をとる泥沼なる「さび」に囚われまいと努め努めして、とどのつまりは安らかな言語情調の上に、「しおり」を持ち来しそうになって居た。而もあれほど、「口まめ」であったに拘らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った。《ていぶるの 脚高づくゑとりかくみ、緑の陰に 茶を啜る夏》平明な表現や、とぼけた顔のうちに、何かを見つけようとしている。空虚な笑いをねらったばかりと見ることは出来ないが、尻きれとんぼうの「しおり」の欠けた姿が、久良岐らの「へなぶり」の出発点をつくったことをうなずかせる。(折口 信夫『歌の円寂する時

ここで折口信夫の書く子規評、 《あれほど、「口まめ」であったに拘らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った》というのが正しいならば、漱石の書く、《子規は人間として、又文學者として、最も「拙」の缺乏した男》、つまり《愚かにして悟った》ところが全く無いまま生涯を終えてしまったと言いうるのかもしれない。

ここで、思い切って、「愚かさ」という語に触発され、まったく畑違いであろう、蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』から引用し、かつ利用してみよう


どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化したマクシムには、ギュスターブ(フローベール)のように書くことの無根拠と戯れる愚鈍さが欠けていた。
マクシムの「情熱」は、もっぱら、 その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、 書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていた のである。

つまりは、《どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化した子規には、漱石のように書くことの無根拠と戯れる木瓜の愚鈍さが欠けていた。》

《子規の「情熱」は、もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで(才を呵して直ちに章をなす彼の文筆)、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、 書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていた のである。》


漱石のテクストは、筋を放ったらかして、細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起る。もちろん言葉が独走するといっても常に迅速さを齎しはしない(それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起る)。

ここでは長くなるから例は挙げない。ただ李哲権という方が書かれた二段組百項にあまる『隠喩から流れ出るエクリチュールーー老子の水の隠喩と漱石の書く行為』(2010)に例文が豊富である。

ーーさて、子規のテクストは、《もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで(才を呵して直ちに章をなす彼の文筆)、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしない》のだろうか。晩年の随想に滲むユーモアはそうではない逸脱があるように感じるのは、病臥時に芽生えたわたくしの子規へのシンパシーのせいだけか。

《ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。(四月十五日)》ーー(『墨汁一滴』)

明治35年9月18日、子規は、どれも糸瓜を詠んだ辞世の句を三つ、自ら筆を執って書きつけた直後に意識を失い、翌19日の未明に息をひきとった。まだ36歳であった。(正岡子規と糸瓜

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合わず
をとヽひのへちまの水も取らざりき