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2014年9月10日水曜日

罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」

オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ)

ーーというわけで、たまには文体練習しなくちゃな

フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。(ジジェク『LESS THAN NOTHING]』私訳)


さあて、ここでふたたび野間易通語録を並べてみよう。

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」

ヘイトスピーチだけではない、
ネオナチの輩に対して、
「私たちはこのようなネオナチの政治家を
決して許すことはできません」
と上品かつ理路整然とした口調で応対すべきものだろうか

「死ね!、安倍」 「ふざけるな、この薄汚い高市早苗!」
などと罵倒するべきだろうか


わたしは仔細ぶった疑いぶかい猫どもの静かさよりは、むしろ喧騒と雷鳴と荒天の呪いを好む。そして人間たちのあいだでも、わたしは最も憎むのは、忍び足で歩く者たち、中途半端な者たち、そして疑いぶかい、ためらいがちな浮動する雲に似た者たちすべてである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)




お、すこしは上品に写ってるじゃないか、おばちゃんたち
だがやっぱりこの顔が透けてみえるな




女性大臣の登用大変結構なことです。だけど普通大臣などというと優秀な女性を登用するものだと思っていたが男政治家タヌキと全く同じように姑息に生き抜いてきたお子様愛国婦人会のスカンクたちが大臣になるとはね。国会の悪臭ここに極まれりといったところでしょうね。女性の地位云々の話ではない。(鈴木創士)

ーー鈴木創士氏は、神戸新聞にコラムを書くようになってから、罵詈雑言をオブラートに包む手法が目立つようになったのだけれど、さずがにいまだ巧いねえ、こうでなくっちゃいけない。

…………

――それで、反差別集団が差別集団に育ってしまったらどうするんだい?

おまえ、やっぱり上品なリベラルだな、それ

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだって、
それがどうしたというんだい? 
もう一度やって、
もう一度ダメになればいいじゃねえか。
以前よりマシだったら、それでいいさ(ベケット)


どうだい? たとえばこの類の発言をツイッターでしきりに振りまいてカシコイ「正義のひと」のつもりの貴君よ

主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています(<「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク>より)

なかなか「説得的」な言葉じゃねえか、なにもしないで冷笑しているだけのマジョリティに受けたいんだろうよ


@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」

@AtaruSasaki:何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)










2014年6月10日火曜日

「医師・学者・評論家は~に気づいていない」

あいつは馬鹿だとかあの連中は気がついていないとか、さてまたあなたの発言は役に立ちますとかとても示唆溢れるお言葉をいただきありがたく思いますとかのたぐいが、ツイッターという場の「コミュニケーション」の大きな特徴のひとつであるとまで言うつもりはないが、他者と共感を共有してうなずき合い湿った瞳をかわし合ったりするのと同じくらい「あいつは分かっていない」の類の発言が目につくとは言っておこう。ようするにこれらはヘーゲルの古典的な指摘、《人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつ》の実践なのであり、なにもツイッターの場のみの現象ではない。まあどちらかどいえばわたくしもあいつは馬鹿だというたぐいの発言は好きなほうなのでツイッターに書き込んでおればついついそのたぐいの発話をしてしまうほうなのだが、それらの言葉をたとえば翌日読みかえしてみると、腐りやすい果物のようにすでに傷み変質しており、こちらの顔を羞恥心で赤らめることになる。

ひとがにわかインテリとして振舞いたければ、インテリを批判するのがいちばん近道なのであり、これはすなわち《他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望》の実践である。柄谷行人はかつて《知識人批判者が現在の典型的な知識人だというべきだある》とした。

“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」1990

これは繰りかえせば、SNSにおける書き込みが蔓延る現在、いっそう「効果的」なのであり、かつて居酒屋や井戸端で語られるのみで済んだ浅墓で素朴な「寝言」のような非難でさえ、いまでは巷間に流通することになる。「学者」「医者」「評論家」を批判することもファッショナブルであり、ここに書きつつある「どこかの馬の骨」もそうやって束の間の「インテリ」であることを誇示する誘惑から免れているとは毛頭言いがたい。

ところであいつは馬鹿だとか無知だとかいうとき、ひとは己れは馬鹿でなく無知でないと思い込んでいるはずだ。「気づいていない」君が「彼は気づいていない」といえば、これはエピペメデスの《クレタ島人は嘘つきだとクレタ島人はいった》と同じ話になる。発話当人は自らを「客観的」な立場にあると錯覚していなければこんなことは発言しがたい。客観的な位置すなわちメタレベルであろう。まあそれはツイッターでどこかの馬の骨――ここで、わたくしのような、と付け加えておかないと後から読んで恥じ入ることになるーーの言葉だけでなく、相対的な聡明さをほこる批評家やら思想家やらの文章も似たようなものであるということが言える、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)。そうはいってもこれはどこかの馬の骨だけでなく、さらに相対的に聡明な、すなわち凡庸な書き手だけのことだけでさえなく、カントでさえ超越論的主体という語彙を使いつつ、ある時期から超越的主体になってしまったなどという見解もある。

「三人称客観」の視点は仮構であるが、それはカントでいえば、「超越論的主体」という仮構に対応するものである。逆にいうと、カントが超越論的主体を仮構した時点で、小説に生じたのと同じことが哲学におこった。坂部氏がとらえたのはそのような変化である。『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部(恵)氏はいう。カントの柔軟な思考と文体は、「学校の文体といわば妥協し、伝統的な形而上学の枠どりに何らかの程度復帰して、自己の思考の社会化に乗り出すと同時に、必然的にうち捨てられることになる」(柄谷行人「カントとルソー」)

超越論的とは本来つぎのようなものであるのだし、カントの初期の『視霊者の夢』にはそれがあったのだけれど、その後カントは「超越論的主体」といいつつメタレベルに立ってしまったという「批判」である。

カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

 「超越論的」とは、すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)ということになる。この言い方を援用すれば、あいつは馬鹿だと発話するとき、こう発言する「私」はその発言をどうしてしてしまうのだろうと自己吟味しなければならないということになる。オレは超越的ではなく超越論的に語ってるよ、などと言い放つだけでは埒が明かない。そのように昂然と語るものこそメタレベルに立っていると柄谷行人や坂部恵に指摘から読み取ることができもするが、さてそう語る二人がメタレベルに立つ言葉を書いていないかかといえばそれは疑わしい。とすればさてどうしたものか。ときにはメタレベルに居直って挑発的発言するのをたのしんでもいいではないか、などとこの「馬の骨」は束の間思わないでもない。メタレベル批判をしておきながら、自らの言説がメタ言説になっていることに「気づかない」連中よりはまだましだろうなどと。

一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

合理論も経験論もたちまちドクサになる。《”真理”とは古い隠喩の凝固したものに他ならない》(ニーチェ)。凝固してしまったら、そこからたえず移動しなければならない。

反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひ とつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと 遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。(ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』)


バルトは、《メタ言語を破壊すること、 あるいは、 少なくともメタ言語を疑うこと 》といいつつすぐさま《というのも一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである》とつけ加える(「作品からテクストへ」)。われわれは一時的にはメタ言語に頼る必要があるのであり、すくなくともひとが発話するときつねに超越論的であるわけにはいかない。ときには己れの立場を括弧に括る必要があるのだ。そもそも言語で話すこと自体、どこかメタレベルに立っているという議論さえもあるがそれはここでは触れないでおこう。

まあいずれにせよ、柄谷行人は長年「超越論的」について考えてきた思想家・批評家であり、とくに『探求Ⅰ』、『探求Ⅱ』から『トランスクリティーク』までの書物は超越論的論としても読めるぐらいだ。超越論的主体がメタレベルに立ってしまうのなら、では「超越論的な領野」と言い換えてみようではないかなどと胡麻化してもこれも埒が明かない。たとえば、柄谷行人はデリダの「差延」あるいは「差異」についてこう書いている。

たとえば、デリダは、現象学における明証性が「自己への現前」、すなわち「自分が話すのを聞く」ことにあるという。《声は意識である》(「声と現象」)。これは、西欧における音声中心主義への批判というふうに読まれてしまうけれども、彼は、たんに哲学的あるいは現象学が、話す=聞く立場に立っているということをいっているにすぎない。そして、デリダは、そのような態度の変更に向かうのではなく、「自己への現前」に先立つ痕跡ないし差延の根源性に遡行する。《このような痕跡は、現象学的根源性そのもの以上に<根源的>であるーーもしわれわれが<根源的>というこの言葉を、矛盾なしに保持することができ、直ちにそれを削除しうると仮定すれば》(「声と現象」)。

直ちに抹消されるものだとしても、この根源的な差異は、われわれを再び「神秘主義」に追いやることになる。デリダは、「超越論的なのは差異である」というが、このとき、差異が超越化されるのだ、といってもよい。しかし、われわれは、マルクスがいうように、「哲学者を神秘主義へと導く“神秘”は、社会的なもののなかにひそんでいる」と、考える。もとより、この「社会性」という概念がより難解なのだとしても。(柄谷行人『探求Ⅰ』P26)

エクリチュールの策士デリダは《直ちにそれを削除しうると仮定すれば》とはするのだが、それでも「差異」は超越化してしまう。これは「脱構築」も同じである。デリダにおいて脱構築概念は超越化されてしまっているとジジェクは言う。

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

ではどうすればいいのか。「エクリチュール」が、そこから逃れる唯一の方法だ、とかつては言われたが、エクリチュールの本尊のひとりデリダでさえこのようである。そもそもファストフード的な知的消費者ばかりの現在、「エクリチュール」などほとんど読まれはしない。

要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種の能記〔シニフィアン〕の実践)が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

ツイッターでは、どこかの教師のツイートをさえ「要約」して、すなわち己れの「物語」に劣化させ、ためになるとかとてもヒントになる、あるいははげましを受けましたなどと言って満悦している輩さえいる。

流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

《たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。》(蓮實重彦『物語批判序説』)

繰りかえせば、ここでいまこの文を書き綴っている「どこかの馬の骨」もこの「物語化」をまぬがれているなどとは毛頭言うことができない。だが、知るとは、そのつど物語を失うことにほかならない。

事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。(蓮實重彦『物語批判序説』)

とはいえ、われわれはファストフード的パロールに馴れ切った現在、以前よりいっそう「理解する前に判断したい欲望」の囚人であるだろう。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)

たとえば次のように、まさに「超越論的」な態度による言葉の実践を続ける古井由吉の小説がいまどれだけ読まれているだろう。


自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス』)


学者や知識人の論文はどうだって? バルトは学者や知識人の書く文章などエクリチュールではない、としている。


パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(「作家、知識人、教師」)

教師や、知識人は、パロール(発話)を活字にする人であり、あれらの文はエクリチュールではないとしたら、現在流通する書物のなかに、そうそうエクリチュールは見当たらないことになる、かろうじて、すぐれた小説や詩、ときにエッセイや批評文(稀有な論文)のなかだけにある、と。

もちろんバルトの主張をそのまま真に受ける必要はないのはいうまでもない、バルトにとって《エクリチュールこそが現代において思考さるべき特権的な課題だととりわけ強調されているのでもない。つねにいまここにありながら、ある種の錯覚から見えなくなってしまっているものに改めて視線を注ごうとしているだけなのである。》(蓮實重彦『物語批判序説』)

発話(パロール)文を書記(エクリチュール)だと勘ちがいすること。《いうまでもなく、錯覚は無償の行為ではない。それどころか、その共有こそが文化だとさえいえるだろう。》

もちろんこれはパロールとエクリチュールの話だけでなく、「医師・学者・評論家は~に気づいていない」などと繰り返し言い放って、そう反復してしまう《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかける》ことのない振舞いも、現在共有される少なくともSNSの文化であるといえるだろう。すなわち真になされなければならない己れ自身へのへの問いかけから目をそらす方法なのだ。

あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。(プルースト「見出されたとき」)

印象だけではない、苛立ちやら怒りも同じく。

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)

…………



もっとも学者・評論家・医師などと対象化して、彼らをしきにり責め立てるような振舞いは、この発話当人にとって、なにかに役立っているのかもしれない。たとえばなにかトラウマ的な出来事を遣り過すための。とすれば「批判」の対象ではなくなる。




Slavoj Žižek: The Pure Differenceより
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)

……for Lacan, repetition precedes repression—or, as Deleuze put it succinctly: “We do not repeat because we repress, we repress because we repeat.”65 It is not that, first, we repress some traumatic content, and then, since we are unable to remember it and thus to clarify our relationship to it, this content continues to haunt us, repeating itself in disguised forms. If the Real is a minimal difference, then repetition (which establishes this difference) is primordial; the primacy of repression emerges with the “reification” of the Real into a Thing that resists symbolization—only then does it appear that the excluded or repressed Real insists and repeats itself. The Real is primordially nothing but the gap that separates a thing from itself, the gap of repetition.
注)この《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)の帰結は、反復と想起の関係の倒置を伴うことになる。フロイトの有名なモットー、“われわれは、想い出すことを出来ないことに反復を強いられる。”――この文は、次のように反転させるべきだ。すなわち、「われわれは、反復できないことに取り憑かれ記憶することを強いられる」。過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である。

65. The consequence of this also involves an inversion in the relationship between repetition and re‐memoration. Freud's famous motto “what we do not remember, we are compelled to repeat” should thus be reversed: what we are unable to repeat, we are haunted with and are compelled to memorize. The way to get rid of a past trauma is not to rememorize it, but to fully repeat it in the Kierkegaardian sense.










2014年5月10日土曜日

五月十日 フェミニストであることの「困難」

女がフェミニストの主体になるにはどうするか? 父権的ディスコースによって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。“庇護”のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男の“女性に対する心遣い”(食事代を払う、ドアを開ける、等々)を拒絶することによってのみ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私意訳) 
How does a woman become a feminist subject? Only through renouncing the crumbs of enjoyment offered by the patriarchal discourse, from reliance on males for “protection” to the pleasures provided by male “gallantry” (paying the restaurant bill, opening doors, and so on).(Zizek”LESS THAN NOTHING“2012)

――で、どうしよう? 女たちは少なくとも「肉体的」には(おおむね)男たちに比べてかよわいよなあ、かよわい連中は守ってやらなくちゃあいけないよなあ、社会的「弱者」に“心遣い”をしなくちゃあいけないように。

なんだって? まったく関係のないことを唐突に囁かなくてよいよ、ニーチェさん。《女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである》(『人間的な、あまりに人間的な』)

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

どうも女性に親切にする男はアンチ・フェミニストらしいぜ。

まあこのあたりは「常識」なのだろうな、つい最近、というか日付を見ると一ヶ月以上まえだが、「優しい男の男尊女卑〜STAP細胞・小保方さん騒動を考える」という若い研究者の記事を読んだがね。

岡田斗司夫、小林よしのり両氏が共有している前提は、「女に対する男の優しさ」の根底には「男尊女卑」があるという認識である。


ところで女というのはほんとうにかよわいのだろうか。“フェミニスト”のパーリアに訊ねてみよう。

男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カミール・パーリア「性のペルソナ」鈴木明他)

カミール・パーリアは、フェミニストであるが(第二世代の?)、アンチフェミニズムのフェミニストとも揶揄されたらしい。それは従来のポリティカル・コレクトネスの衣裳を着るばかりであったフェミニストたちの主張を逆撫でするものだったことから来るのだろう。

なあ、どうだいパーリアの見解は?

「歯の生えた力」ってのは“toothed power”ってらしいな
「自然という雌の竜」は“the female dragon of nature”。

すなわちヴァギナデンタータなんだよなあ
For the male, every act of intercourse is a return to the mother and a capitulation to her. For men, sex is a struggle for identity. In sex, the male is consumed and released again by the toothed power that bore him, the female dragon of nature. (Camille Paglia “Sexual Persona ”1990)

In sex, the male is consumed”ともあるなあ
消費されるんだろうなあ

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

ヴァギナ・デンタータというのは、ラカンによって母親の鰐の口って変奏されるんだよな

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。(「ファルス」と「享楽」をめぐって 向井雅明

で、このくらいにしておくよ、実は「フェミニスト」をめぐる下書きが八つほどあるのだが、どれも読み返すとかなりひどいこと書いていて、あれはあのまま投稿できないヤツばっかりで、修正もし兼ねるのだなあ

引用だけで誤魔化さなくちゃなあ、オレの見解じゃあないって具合で。

すこし引っ張りだしておくか

…………

問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる! …(ソレルス『女たち』)
かつて教会は、《女は教会においては黙っていよ!》と宣したが、それも女に対する男の心遣いであり、欨りであった。ナポレオンが余りに能弁すぎるドゥ・スタール夫人に《女は政治においては黙っていよ!》とそれとなく言ったのも、女のためを思ったからであった。――そこで、今日では婦人がたに向かって《女は女においては黙っていよ!》と呼びかける者こそは真の女の味方なのだ、と私は思う。(ニーチェ『善悪の彼岸』木場深定訳)


 ◆浅田彰『構造と力』より


ーーソレルスがクリステヴァの旦那だってくらい知ってるだろうな


例えば、クリステヴァは、サンボリックを父の命ずる言葉の場として極めて父権的な相でとらえる一方、そこから遡行して見出されるセミオティック(過剰なサンスを孕む欲動の場:引用者)を「乳母であり母である」と性格付けている。つまるところ、サンボリックは《男》でありセミオティックは《女》である。《女》は《男》に抑圧され深層に身を潜めるが、時として抑圧をはねのけて噴出し、《男》の秩序を解体すると共に再活性化する。(……)女性は…カオスの介入の担い手の重要な一翼を占めるものと言えるだろう。カオスは、共同体の外から訪れる異人や、通過儀礼における境界状態の個人を通して入ってくる以外に、構造内に明確な位置をもたないはみ出し者や、構造内で最下層に抑圧さらた者をも、その担い手とする。記号論的に言って有徴の要素である女性は、最後に挙げた構造的劣位者(……)の典型と言えるだろう。クリスティヴァは『中国女』において女性をこうした《負》の存在としてとらえるとともに、そこに象徴秩序を転覆する潜勢力を見出している。

けれども、《女》とは本当にそのようなものだったのだろうか? むしろ、それは、《男》の側に視点を置いた上で見出された《女》の像にすぎないのではなかったか? これこそニーチェの、そして、デリダの問いである。彼らは、《男》の側から遡行して《女》を見出すといった安全策を講ずることなく、端的に《女》を直視する強さをもっている。そのとき、《女》は、抑圧を耐えしのび、時に抑圧をはねのけて反乱を起こす存在という、余りにも単純な仮面を投げ捨て、複雑怪奇な姿を現わすだろう。「女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである」(『人間的な、あまりに人間的な』)とニーチェは述べている。言いかえれば、《女》は、奪われるままになり、時に奪回に立ち上がる存在ではなく、与えることによって奪う存在なのである。「女の本質的賓概念である贈与は、自らを与える=身を委ねる/自らに対して与える=身を委ねるふりをする、与える/奪い取る、奪い取らせる/わがものにする、という決定不能な動揺のなかに現れていたものであるが、それには毒薬の価値もしくは費用=犠牲がある、パルマコンの費用=犠牲が。」(『尖筆とエクリチュール』)デリダはこう書いたあと、(……)ギフトの決定不可能性を想起しているが、ここに、「ゲルマン諸語では『ギフト』giftという言葉は、今でも、『贈り物』と『婚約』という二つの意味をもっている」(『親族の基本構造』)というレヴィ=ストロースの指摘を接木することによって、我々はhymenの決定不能性へと導かれるのである。

Hymenとは何か? それは婚姻であると同時に処女膜でもある。コイトゥスによる連続と融合であると同時に、女の外と内を分かつーーただし不完全にーーことによって処女性を保護するヴェールでもある。後者が「女の外と内の間に、従って、欲望とその成就の間にある」ものだとすれば、前者はそうした分類と距離を無化することに他ならない。結合と分離、疏通と遮断、破ることと破られないことの、この決定不能性。ところで、象徴秩序とその外部、あるいは、サンボリックとセミオティックとして語ってきた二元構造は、その実、このようなhymen構造だったのではなかろうか? してみると、抑圧/被抑圧と侵犯という弁証法のロジックではなく、「hymenの、もしくはパルマコンのグラフィック」――それはもはやロジックではないーーこそが問題なのではなかったか?

ニーチェは、この立場に立つ者こそ「真の女の味方」(『善悪の彼岸』)であると言っている。しかしまた、この立場からすると、二元構造を踏まえて抑圧への反乱を説く女たち、いわば男になろうとする女たちほど、批判されるべきものはない。これがニーチェを反フェミニズムへと駆り立て、ニーチェが女性蔑視の思想家であるかのような錯覚を生んできた。しかし、「実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。」(デリダ『尖筆とエクリチュール』)けれども、《女》とは、外見の美しさと軽やかな決定不能性によって、「物自体のーー決定可能なーー真理のエコノミー、あるいは、決定者としての去勢のディスクール(プロかアンチか)」(デリダ)の閉域を、つまりは、「真理―去勢の罠」を、やすやすと摺り抜けるものではなかったか? 「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)

この浅田彰の文は、三十年ほど前だから、かなり古いところはある。今は少なくともこういった時代だからなあ

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)より孫引き)

あるいは、ラカンの娘婿のミレールは、ポストフェミニストの時代っていうんだけど、日本では昔からこういうタイプがいるんじゃないか→ Sarah Palin: Operation "Castration" •......Jacques-Alain Miller

たとえば浅田彰なんて、上野千鶴子や金井美恵子に去勢されまくってるからなあ

上のミレールの論文に引用されているヒラリー・クリントンの"Obama? He's got nothing in the pants."って感じで、「浅田くん? ズボンのなかにはなんにもないんじゃないの」などの類と似たようなこと言ってるからなあ


※附記

象徴的思考が出現するためには、女性が、言葉と同じように、交換されるものになることが必要であったにちがいない。それは実際、同じ女性が二つの両立しえない視点から見られているという矛盾を克服する唯一の方策であった。すなわち、女性は、一方では、自分の欲望の客体であり、それゆえ性的本能と所有本能を刺激する。そして他方で、他者に欲望を喚起させる主体であり、まさに婚姻によって他者を繋ぎとめておく手段でもある。(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)




2014年1月31日金曜日

総統のピアニスト





Elly Neyエリー・ナイの名はまったく知らなかった(Rosita Renardの演奏録音を探すなかで見つかったもの)。

エリー・ナイは、総統のピアニストと呼ばれていたそうだ。すなわちヒットラーのお気に入り。ベートーヴェンの目覚しい録音がYoutubeにある。

冒頭のエリー・ナイの演奏、シューマンのEtudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5にはびっくりした。リヒテルの演奏は次の如し。





ポリーニ(6:40より)




…………

※附記

イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは,かつて次のような注目すべき事実を強調した.ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは,露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも,東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく,名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り,人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった,ということである.キルケゴール流に言うならば,この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが,まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが,そこで重要であったのは何か政治以上のもの,美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり,その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう.(ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」)

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ『哲学の終りと思惟の使命』より)
一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながっている。(中沢新一 対談「宮沢賢治と日本国憲法 」)
だが、と最後に急いで付け加えなければならないが、ここには何か恐ろしく不吉なものがある。それは、賢治の見た「二つの風景」(「春と修羅」)、現実空間と異次元の詩的空間とが二重化した場処に孕まれた危うさへの予感だろうか。死に魅入られたこの空間を満たす「水いろ」の透明な情炎、あるいは透明性へのあまりに「まつすぐ」な情炎の禍々しさ。宗教と科学技術とを最先端の過激さで交わらせようとした賢治の想像力が、その切っ先で煌めかせた不穏な何ものかの到来の兆しを、震災後の危機と賢治botとの遭遇、そしてそこに生じたシンクロニシティに認めたことを末尾にこうして記すのみで、この短い「心象スケツチ」めいた記述は閉ざさなければならない。
 テクストでは触れなかったが、この禍々しささえ帯びた透明性への情炎には、ファシストのための「ガラスの家」であるカーサ・デル・ファッショを建てたイタリア・ファシズムの建築家、ジュゼッペ・テラーニの「汚れなきファシズム」を連想した(鳥のさえずり──震災と宮沢賢治bot)。


《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』ーー「悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう」)







2013年12月22日日曜日

備忘:デリダとフーコーの対象a

前投稿(ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)に附記しようと思ったが、長すぎて割愛した箇所。


◆エリック・ローランの『疎外と分離』より。

…………


……一つの重大な争点はデリダとフーコーの対立です.デリダとフーコーの著作に詳しい方々も多いかと思いますが,その議論の概略を手短にお話して,ラカンがその議論をどう見ていたのか,そしてフーコーとデリダがラカンにどれだけ負うているのかを示そうと思います.

デリダは主体が疎外の過程を通して定義されるという事実を際立たせます.しかし,フーコーは人間の語る言葉のより深い意味は,享楽の実践(pratique de jouissance),つまりどのように享楽を得るのかという実践に関係しているということを強調しています.

デリダにとっては,つねに散種(dissemination)がありえます.つまり,つねに別の意味を見つけることができるわけです.新しいシニフィアンは連鎖のなかで新しい発展を作ることが可能であり,その結果,主体はつねに空虚や空の場所として考えられています.フーコーはデリダを形而上学的であり非決定論の立場を受け入れていると非難し,非決定性を取り除き,問題となる享楽を定義する方法を提唱しています.

こうして,1960年代に一般的であった知と権力(savoir et pouvoir)のあいだの議論が発展しましたが,この議論はラカンが定義した二つの操作によって準備されているのです.デリダはラカンのセミネールの前年,コギトと狂気の歴史についての講義のなかでフーコーを批判しています.デリダの講義は,少し前に出版されたフーコーの『狂気の歴史』に対する手厳しい批判です.フーコーは講義中は何も言いませんでしたし,『エクリチュールと差異』が出版された差異にも返答しませんでした.フーコーは1972年の『狂気の歴史』の第二版まで待ちました.この著作の最後に,デリダの批判に対する手厳しい応答をフーコーは記したのです.

フーコーの伝記(Michael Foucault, Life and Work)からの一節を引用します.ここでフーコーは自らの論点を明確にしています.フーコーはこのように言っています.

「デリダのディスクールの実践の原典主義化に隠されているものが,その形而上学やその封鎖であるとは言いません.それは言いすぎでしょうから.明白に現れているのは,テクストの外部には何もないと学生に教える小さな衒学者です.それは,テクストを際限なく繰り返すことを許可する無限の統治権を主人の声に与える教育です」

デリダは高等師範学校のもっとも有名な代表であり教師であり,また現象学を高等師範学校の哲学者に伝えた現象学の優良な教師でもあったわけですから,彼を小さな衒学者と呼ぶことはきわめて辛辣です.むしろ失礼でしょう.ここから10年間,デリダとフーコーは対話することをやめてしまいましたが,最終的に,デリダがチェコスロヴァキアで刑務所に入れられた際に状況は変わりました.デリダはチェコを訪れた際に,チェコの非国教徒の勅許状に署名した人々に挨拶をしたときにチェコ警察に捕らえられました.警察はデリダにハシシを仕掛け,彼を薬物の売人に仕立てあげ,名誉を落とし投獄したのです.フランスではデリダを解放するために大規模な抗議運動が起こり,フーコーもそれに参加しました.デリダはそのことに関して,昼食を食べながらフーコーに感謝したそうです.しかしそれは10年後のことでした.二人の間にはきわめて大きな断絶があったのです.

私はこの小休止を,ラカンがセミネールXI巻で提示した操作から導き出せることを示すためにお話しました.フーコーはゲイでしたから,人が自らの享楽について話すことは,その人の経験にかかっているということを強調しています.フーコーは自らの理論がある意味では自らの性的実践の理論であることに気づいており,それを倒錯やそれに類似の何かとして単純に攻撃することはできません.それはむしろ,主人のシニフィアンに抗して,そして順応に抗して自らの反抗を定義しようとする正当な試みなのです.フーコーの理論は最終的には,分析においても大学においても,人が思考するとき問題となっているのは対象aであるということに言及しています.

デリダは対象aの位置がつねに十全であるという事実を脇においておきたいようです.問題となるこの場所については,セミネールXI巻の第16講義の終わりのところで,当時20歳のジャック=アラン・ミレールがラカンに質問をなげかけています.

 

「主体は,己にとって外部にある領野の中で生まれ,その領野によって構成され,その領野において命を授けられている.主体の疎外はこのような定義を受けましたが,それでもやはりこの疎外は自己意識の疎外とは根本的に区別されるものだということを,あなたはお示しにならないのでしょうか.手っ取り早く言うと,ラカンをヘーゲルに「対抗するものとして」理解しなくてもよいのですか」(邦p.288

これにラカンは「とてもよいことを言ってくれましたね.ちょうど昨日グリーンが言ったこととは反対ですね」と答えています.グリーンは10年前にIPAの副会長をやっていたフランスの精神分析家ですが,1960年代に12年ラカンのセミネールに出席し,『生きたディスクール(Le discours vivant)』という著作を書いています.この著作は,ラカンは生物学を精神分析の外部においたために物事の生命的な側面を考慮していないということを強調しています.ラカンが逸話を披露したものですから,グリーンはこの質問に非常に反応しています.

「(グリーンが)近づいてきて,私の手をぎゅっと握りました.少なくとも気持ちのうえでは.そしてこう言いました.「構造主義は死んだ.あなたはヘーゲルの息子だ」.しかし私は同意できません.ヘーゲルに「対抗する」ラカンと言ったあなたの方が,はるかに真実に近いと思います.もちろんここで哲学的論議を始めるつもりはありませんが」(邦p.288)

何が問題なのでしょうか.ラカンが,主体を除去しようとしたレヴィ=ストロースの構造主義に対抗していたことは事実です.ラカンは構造主義に主体を再導入し,ある種の時間性を認めることのできる論理をも導入したのです.この意味において,グリーンは構造主義の死であると言っているのです.つまり,あなたはヘーゲルの息子である,なぜなら時間と主体――すなわち純粋意識――を導入したからということです.

ジャック=アラン・ミレールの質問は,主体の場所を空虚に保っておくことからは程遠く,ラカンが主体をフロイトのいう十全の享楽を伴う幻想や快感対象を以って定義していることを指摘しています.フロイトが19世紀の物理学の文脈にしたがって機械論的に公式化したエネルギー論的側面は,ラカンによって形式論理学の文脈で再公式化されています.このことは19692月のフーコーの「作者とは何か」という有名な講義におけるラカンのコメントにも見て取ることができます.フーコーはこの講義のなかで,ラカンを名指すことなしにフロイトへの回帰に何度も立ち返っています.フランスの学会は当時まだマルクス主義であり,フーコーを攻撃していました.フーコーがヴァンセンヌにおいて果たした役割は有名であり,彼の学生運動との関係もまた有名でした.しかし,ディスクールと構造を重視する構造主義というブランドが,主体を置き去りにしてしまう印象を与えたのです(もちろん,古い意味での「主体」つまり人間のことです).フーコーは講義において現代の作者はベケットのテクストによって最もよく定義されると言っています.ベケットのテクストでは,語る人間に可能な同一性は結局のところ消滅しまうからです.

ラカンは以下のようにコメントしています.

構造主義であろうとなかろうと,このラベルによって大まかに括られている領域において,主体の否定が問題となっているわけではまったくない,そう思えます.問題となっているのは主体の従属関係であり,これはおよそ異なった問題です.そしてとりわけ「フロイトへの回帰」に関して言えば,真の意味で基本的な何ものかに対する主体の従属の問題です.その何ものかを私たちは「シニフィアン」という名の下に見極めようとしました.三番目に――これで私の発言を終わらせますが――,「構造は巷に繰り出しはしない」と書いたことが公正であるとは私はすこしも考えません.なぜならば,五月革命の出来事が何かを証明しているとすれば,それはまさに「構造が巷へ繰り出していった」ということに他ならないからです.そのことを,巷へと繰り出していったまさにその場所に書くということは,行為が自らを誤認するものであることを証明しているにすぎません.それが多くの場合,いやもっぱら,行為と呼ばれるものの性質なのです。

ラカンの四つのディスクールの記載,あるいはフーコーのディスクールの実践において問題となっているのは,構造が「巷に繰り出す」ということです.なぜなら,構造は享楽の持分を内包しており,人々は享楽のために死ぬのですから.ラカンは大学のディスクールを,知を主人の場所に位置づけて書きます.

 

 学生運動と大学に必然的な連関があるように,このディスクールは巷に繰り出す主体を生産します,学会は15世紀から存在していますが,そこにはつねに学生運動がありました.この二つには必然的なつながりがあるのです.さまざまな社会体制と条件の下で,当時から現代まで一定なものは学生が運動するということです.ラカンは,学生が運動を起こすのは彼らが生産に巻き込まれていないからだというマルクス主義の説明を受け入れません.ラカンは,学生は大学のディスクールによってそのようにされているがゆえに運動を起こすのだと言っています.



…………



デリダのリシャール批判は、実はフーコー批判を陰に籠めているという議論があるようだ。




なお、両者の対立をいかにジジェクが考えているかのひとつは、次の論にやや詳しい。この文は『LESS THAN NOTHING』(2012)に同様の記載がある。また別の箇所ではもうすこし詳細に亙っている。

Some Marxists even, as if Foucault/Derrida = materialism/idealism. Textual endless self-reflexive games versus materialist analysis. BUT: Foucault: remains HISTORICIST. He reproaches Derrida his inability to think the exteriority of philosophy – this is how he designates the stakes of their debate:

《could there be something prior or external to the philosophical discourse? Can the condition of this discourse be an exclusion, a refusal, an avoided risk, and, why not, a fear? A suspicion rejected passionately by Derrida. Pudenda origo, said Nietzsche with regard to religious people and their religion.》 [13]

However, Derrida is much closer to thinking this externality than Foucault, for whom exteriority involves simple historicist reduction which cannot account for itself (to what F used to reply with a cheap rhetorical trick that this is a "police" question, "who are you to say that" – AGAIN, combining it with the opposite, that genealogical history is "ontology of the present"). It is easy to do THIS to philosophy, it is much more difficult to think its INHERENT excess, its ex-timacy (and philosophers can easily dismiss such external reduction as confusing genesis and value). This, then, are the true stakes of the debate: ex-timacy or direct externality?(Cogito, Madness and Religion: Derrida, Foucault and then Lacan •.............Slavoj Zizek

同じ書にあるデリダとドゥルーズの対比箇所。

Deleuze is also opposed to Derrida who, from Deleuze’s perspective, remains caught within the vicious cycle of contradiction/identity, merely postponing resolution indefinitely
(Deleuze's Platonism: Ideas as Real •..........Slavoj Zizek)

※参照:ジジェクの「来るべき民主主義」(デリダ)に対する考え方。

マルクスを「ラディカル化」するデリダの基本的前提は、具体的な経済的・政治的方策がラディカルになればなるほど(行き着く果てはクメール・ルージュやセンデロ・ルミノソによる殺戮の戦場だ)、そうした方策は事実上ラディカルではなくなっていき、ますます倫理-政治的な形而上学の地平に囚われてしまうというものだ。言いかえれば、デリダの「ラディカル化」が意味しているのは、或る意味で(正確を期せば、実践的な意味で、と言うべきだが)、「ラディカル化」とは正反対のことである。それはすなわち、真にラディカルな政治的方策を断念することなのだ(補足的に言っておくと、ネルソン・マンデラに対する賞賛や、共和主義下のチェコスロヴァキアの反体制哲学者のためのアンガージュマンから、湾岸戦争でのイラク空爆を条件付きで支持したことにいたるまで、デリダによる個々の政治的介入のすべては、左翼穏健派のスタンスと完璧に一致している)。

デリダの政治学のラディカリズムは、来るべき民主主義というメシア的約束とその積極的な実現とのギャップを伴っている。まさしくこのラディカリズムゆえに、メシア的約束は永遠に約束であるにとどまり、一連の具体的な経済的・政治的法則へと転化されえないのだ。決定不可能な<モノ>の深淵と個々の場面での決定との隔たりは埋められない。<他者>に対する負債は返済不可能であり、<他者>の呼びかけに対する応答は十分ではありえない。こうしたポジションに立つわれわれは、ギャップを無化する双子による誘惑、つまり無節操なプラグマティズムと全体主義による誘惑に抗わねばならない。プラグマティズムは、超越的<他者性>をまったく参照せずに、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう。他方、全体主義は、絶対的<他者性>を特定の歴史的形象と同一視する(<党>は直接的に具現化された歴史的理性である,等々)。ここに、脱構築による一定のひねりを加えられた全体主義の問題規制が浮かび上がる。全体主義は、そのもっとも基本的な姿において、社会生活の全体的支配、社会全体の透明化を目論む政治力であるのみならず、メシア的<他者性>と具体的な政治主体〔エージェント〕との短絡でもあるのだ。したがって、来るべき(à venir)というのは、民主主義に後から付け加えられたたんなる形容ではなく、その最深部にある核であり、民主主義を民主主義たらしめているものなのである。民主主義が来るべきものではなくなり、現実となったーー完全に現実化されたーーかのような様相を呈するやいなや、全体主義が到来する。(ジジェク「メランコリーと行為」











2013年10月31日木曜日

剽窃と模作

《私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。》(蓮實重彦)

――ツイッターにて拾ったので蓮實重彦がどこで語っているのかは窺いしれないが、いかにもロラン・バルトを愛する蓮實重彦のすぐれた「剽窃」である。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

あるいは『物語批判序説』の蓮實重彦ならこう書く。

《…それなりの原理によって安定しようとする理論的閉域に手をさしのべ、超=虚構的な言説の断言をつかみとり、文脈が崩れることをも怖れずにそれを駆りうけてくると、優雅な身振りでその出典を曖昧にしながら、自分の言説にくみいれるのだ。つまり、バルトは他者の言葉をあからさまに引用する…》


《…他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう…》


《…出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる……バルト的な犠牲者の言説は、文脈を奪われた語句たちによる浅さの戯れを介して理論の閉域を解放する》(「近未来の剽窃のために」より)



ところで剽窃などを批判・揶揄する言葉、たとえば「自分のことばで表現しろ」などという発話は、この発話文自体、小学生のころから先生や、あるいは教育熱心な父母から聞かされてきた台詞の引用であり、それにも気づかず批判のことばとしてしたり顔の連中から頻出するのは、滑稽というよりほかあるまい。

仮に自己表現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないこと。(ロラン・バルト『作家の死』)

もちろん翻訳する辞書が、中学生程度どまりのみの台詞で出来上っているよりは、それなりの経験・古典の読書などによって出来上っているほうが好ましいには相違ない。


さて冒頭の引用を異なった側面から読むこともできる。『探求Ⅱ』の柄谷行人なら、デカルトやスピノザ、『探求Ⅰ』ならウィトゲンシュタイン、『トランスクリティーク』ならカントやマルクスに成りかわって、彼らなら現在をどう観るのか、どう解釈するのか、そうやって書いているとしてもよいだろう。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

 …………


どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。

しかし、実はこの制約と不自由こそ、逆に「わたし」が独我論的閉域から開放されるための絶好の契機なのである。どんな些細な言葉ひとつでもそれを唇に乗せたとたん、「わたし」は他者のシステムに乗り入れることになる。それを言い表そうとしないかぎり「わたし」自身に属する独自な感覚であり思考であると思われたものも、口に出すやいなや如何ともしがたく凡庸な言葉の連なりとして「わたし」自身の鼓膜によそよそしく響き、幻滅を味わうというのはよくある体験なのではあるまいか。自分の奥底まで届いた唯一のかけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくというもどかしさが、われわれをしばしば苛立たせていないか。

だが、このよそよそしさとこのもどかしさこそ、言語の実践を彩っているもっとも豊かなアウラと言うべきものなのである。よそよそしさの溝を何とか跨ぎ越えよう、触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。

そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書き付けたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現れる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝『官能の哲学』)

松浦寿輝独自の詩的散文であるようにみえつつ、やはりここにも何人かの作家たちとのインターテクスチャアリティがある。

インターテクスチャアリティ、すなわち、一つのテクストは、過去のテクストの総体のなかで書かれ、かつそれは過去のテクストの意味を僅かでも変えること(エリオットの「伝統」概念参照)。


「私とは一個の他者である」(ランボー)はあまりに名高すぎるというのなら、ランボーの翻訳者鈴木創士氏のツイートだっていい、《「自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ》


さらにヴァレリーのカイエの一節を並べてみよう。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

ここでの「他者」は訳者の恒川氏によれば「言葉」である。そしてそれは「言葉」でなくてもよい。

ポール・ヴァレリー『カイエ』の引用は、実は中井久夫の「感銘を受けた言葉」(『アリアドネからの糸』所収)からだが、中井氏はこの引用のあと、次のように書いている。

訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。

いずれにせよ、《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して。》(ニーチェ遺稿)でありつつ、もしかりに作家たちに独自なものがありうるならばーーあるいは《「わたし」をうっとりさせる春宵の風》やら《受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものか》としての独自性といってもよいーー、まずは音調やスタイル(文体)であるだろう。

――「自分の声をさがしなさい」(須賀敦子)


中井久夫ならこう言う。


「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(……)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」

そしてロラン・バルトなら、ニーチェの音調を語る、文である思想、という歌唱と。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

ところで剽窃と模作の違いはなんなのだろうか。

ロラン・バルトは次のように剽窃に《賛成》し、模作に《反対》する。

彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)

ここではドゥルーズの翻訳者でもある宇野邦一氏、--ドゥルーズを剽窃しているのか・模作しているのかの判断はひとまずおくことにして、ーー氏は次のように書いている。

……ひとりの思想家を理解すること、ひとつの思想を理解すること、これは一体どのようなプロセスなのか。ドゥルーズ自身は、ことあるごとに、「理解すること」は重要ではなく、むしろ「使用すること」のほうが大切だと述べている。理解することは、どうしても一度考えられ、書かれたことを正確にたどり、みずからの思考の中に模写し再現することをともなうだろう。 (……)

ところが、再現することも、模写することも、あるいは正確さということさえも、重要であるどころか、むしろ避けるべきこととドゥルーズは考えている。むしろどんな断片でもいいから、それを手にとって、使ってみること、たたいたり、裏返したり、匂いを嗅いでみたりしてみて、いっしょに時間をすごし、別の脈絡に移動させ、使いみちをみつけること。そんなイメージを、ドゥルーズは思想を「理解する」のではなく、「使用する」こととして提唱しているのだ。(宇野邦一『ドゥルーズ――流動の哲学』)

この「使用すること」は、蓮實重彦の書くロラン・バルトの態度、すなわち《他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振り》やら《出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる》などの文章と共鳴するとしてよいだろう。

こうやって、「理解すること/使用すること」と「模作/剽窃」のふたつの二項対立を並べることができる(ドゥルーズならこの「剽窃」を、つまり「使用すること」を、「自由間接話法」というのかもしれないが、ちょっといま調べてみる気はしない)。


ヴァリエーションとして、解釈学/解釈、Meaning/Senseなどがあるだろう。

《Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)》(参照緒:「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン



いまどき二項対立かい? というひとがいるのは知っている。きっとことさら「聡明な頭脳」をもっているのだろう。せいぜい、それなしにやってみたまえ。

僕も、どこかで形式と内容というのは、現実としては抽象でしかないという感じがしているわけです。ただし概念操作としては、明らかに機能しているし、僕もその機能に従って批評を書いたりするわけだし、ソシュールにしたってそうなんです。たぶん形式と内容といったものは、それ自体が大きなものとして括られて、ひとつの記号になっちゃうだろうということはわかっているけど、そのことを括弧に入れて仕事をせざるをえないわけですよ。こっちは二元論の罠に好んで落ちているわけで、べつに二元論を永遠に回避しようなんて思っているわけじゃない。二元論を回避するというのは、なんかのお終いであるわけですよ。そのなんかのお終いを自ら自分で演じて見せるほど、僕は図々しくもないし、またそれほど達観してもいないつもりです。

浅田君が二元論はいけないと言っているけれどもね。概念操作としては二元論というものは絶対必要なんですよ。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

デリダ? 二項対立の脱構築? ーー「脱構築」の脱構築はどうなってるんだい? あれは、否定神学、男性の論理さ、とジジェクは言う。

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(『LESS THAN NOTHING』)

あるいは「観念論」だとも、ユートピア的希望に支えられた、ーーオレはデリダにはほとんど無知だけどね。

Even Derrida's notion of “deconstruction as justice” seems to rely on a utopian hope which sustains the specter of “infinite justice,” forever postponed, always to come, but nonetheless here as the ultimate horizon of our activity.(同上)


…………



※追記:「自由間接話法」について、いくらかネット上から拾ってみたので、ここに附す。

著者はバディウの指摘した、ドゥルーズにおける自由間接話法の多用から話を始める。他者の発言をカッコにくくらず、「と言った」とも受けず、裸のまま地の文の中に置く手法である(この評の冒頭、3行目「特に」以下がそれにあたる。「我々の多く」がそう言うのか、書く私の発言なのか、決定不能になる)。

 すると、評する主体と評される主体は交じり合う。まるで相手の考えの奥に潜り込むようにして、ドゥルーズは対象を思考する。(ドゥルーズの哲学原理 [著]國分功一郎
ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないかと思ってはいるが、なかなか とりかかれないまま。(壁の向うのざわめき  高橋悠治
自由間接話法とは、例えば「彼女は彼のくそ顔をぶっ叩きたかった。」という文が、形式的には三人称による客観的 =中立的な記述にみえて、しかし実は「くそ顔」という語彙の選択によって「彼女」の視点 =主観に寄り添っていることが分かるというように、ある主観が直接的ではない形で示される、主観的とも客観的とも言えない状態のこと。(偽日記



2013年7月16日火曜日

男と女のワイセツ行為

男のズボンの中を盗撮する女性がほとんどいないように、男が排泄するシーンに興奮を覚える女性がほとんどいないように、哲学する女性はほとんどいない。逆に言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。》(中島義道『生きにくい…』

この見解の正否を云々するまえに、まずここはカント学者であり最近ではニーチェへの言及も多い中島義道氏に敬意を表して、カントとニーチェを引用しよう。

今日では、形而上学にあらゆる軽蔑をあらかさまに示すことが、時代の好尚となってしまった。(……しかし)実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である。自分は形而上学に対して無関心であると称する人達が、いくら学問的な用語を通俗的な調子に改めて、自分の正体をくらまそうとしたところで、とにかく何ごとかを考えるかぎり、彼等がいたく軽蔑しているところの形而上学的見解に、どうしても立ち戻らざるをえないのである。(カント『純粋理性批判』)
女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。真理ほど女にとって疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。──女の最大の技巧は虚言であり、女の最高の関心事は外見と美しさである。われわれは、われわれ男たちは告白しよう。われわれは女がもつほかならぬこの技術のこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれ、そのわれわれは重苦しいから、女という生き物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆ど馬鹿々々しいものに見えてくるのだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』 木場深定訳)

あるいは、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)



「実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である」であるならば、「男と女」についてもしかり。《どうしてもそこに立ち戻らざるをえないのである》。陰陽、明暗、天地…、それらは古来、すべて男と女の話ではないか。
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」)
二一世紀の現在、女や、売春、娼婦の話を抜かして、どうして哲学(知を愛すること)であることができよう。
アフロディテ・ミュリッタ崇拝においては、乙女たちの神聖なる売春を含む淫らで頽廃的な祭礼が行われた。この祭礼は……女神を演じる聖なる娼婦が、その相手役の神ベロス=ヘラクレスの役を演じる奴隷と共に民衆の前に登場し、神聖なる売春の交接儀礼が行われる際に、最大の山場を迎えることになった。この男神を演じる奴隷は、ヘラクレスと同じように、祭りの最後には火刑に処された。(クロソウスキー『古代ローマの女たち』ーーバッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

もっとも「女」も「娼婦」も神秘だ。ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたい》(中井久夫)
ーーだが、それにもかかわらず、男たちは「女」の謎にどうしても立ち戻らざるをえない。

女は常に神秘であった、とフロイトは書く、そして、《私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。》

中井久夫は精神科医像のひとつとして「傭兵」のようなものと書いたあと、次のように書き綴る。
もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(『治療文化論』P197-198)

ーーこう引用したからといって、女の本質は娼婦であるとか、「聖なる娼婦」などというクリシェをここで想い起こすつもりはない。ただ、Come on! とだけ呟いておくことにする。
……in the famous anecdote about George Bernard Shaw—at a dinner party, he asked the upper‐class beauty at his side if she would spend a night with him for 10 million pounds; when she laughingly said yes, he went on and asked if she would do it for 10 pounds; when the lady exploded in rage at being treated like a cheap whore, he calmly replied: “Come on, we have already established that your sexual favors can be bought—now we are only haggling over the price …”(zizek"LESS THAN NOTHING")
ここで「女と本はベッドに連れこむことができる」という古い俚諺から「知」の探索そのものが女体の秘部をまさぐるようでもあったとか、パリを「遊歩」することそのものが娼婦の股ぐらの慰安を求めるようであったとかするベンヤミンをもなぜか附記しておく。《内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない。》(ベンヤミン断章)ーー女性の場合、知=股ぐらの探求は、自らに「弦牝の門」がすでに備わっているのだから、おろそかになりがちなのはやむえない。おそらく哲学する女性はほとんどいないことの機微のひとつであろう。


ところで中井久夫の別の書には、次のような発言がある。
中井)……あの、診察している時、自分の男性性というのは消えますね。上手にいっているときは。ほんものの女性性が出るかどうかはわかりませんけど、やや自分の中の女性性寄りです。少なくとも統合失調症といわれている患者さんを診るときはそうですね。

(鷲田)自分からそれは脱落していくのですか。

(中井)いや、機能しない。まあ統合失調症の人を診た直後に非行少年かなんかを診たらもう全然だめなんです。カモられてしまう。(「身体の多重性」をめぐる対談 中井久夫/鷲田清一 『徴候・記憶・外傷』所収より)
こうやって、いまだ限られた男たちであるにしろ、「女になる」こと、「娼婦になる」ことの偉大さが気づかれつつある、《……女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです》(ミケランジェロ・アントニオーニ

ただ残念なことに、<わたくし>の如き愚かな《大多数の男は男であるからこそ生きるのがキツイのに、その「男」を捨てることができないという宿命にあります。ここには深くかつ単純な理由が潜んでいて、男は「ただ男であるがゆえに女よりすぐれている」という神話(迷信)から解放されていないからなのです。》(中島義道『ぐれる!』)ーーまあでもこれは旧世代の大多数であり、「父なき世代」においては、男たちは、「女性なるものに不可避的に惹きつけられる」、――それは、《父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(lacan E566)ことに気づくからである》(「ラカンの愛の定義」より)


さて、女がのぞき趣味がないのかどうかは、男のわたくしには窺いしれない。だが、のぞかれる趣味はどうなのか。おおくのミニスカ、ローライズ(Lowrise)、スリットやら胸元の開きなどをめぐる論があるだろう(当地はローライズと腰脇のスリット、シースルーの天国なり)。もっともあれらを女のワイセツ行為などと命名したら、フェミニストたちだけでなく、女性全般から袋叩きにあうのは承知しており、あるいは女性鑑賞を楽しみにしている男たちにも迷惑がかかるわけで、わたくしは、そんなことは決して書かない(逆言法とは、言わずにすますつもりだと言うこと、つまり黙っているはずのことを言ってしまう修辞法の文彩のことであり、たとえば、《私は次のことは語らないつもりだ》と言っておいて、その後えんえんと語るやり方だ……)。







身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーー過度に開いていると(

出現ー消滅の演出がないと)、エロティックではなくなるぜ、最近はそれを狙っているのであれば、女はかぎりなく戦略的であり、ある種の男の欲望を萎えさせることに貢献している。《痴漢たちは、発見され処罰されることをきわめて深く懼れているものの、同時に、その危険の感覚なしには、かれの快楽は薄められあいまいになり衰弱し、結局なにものでもなくなる。禁忌が綱渡り師にその冒険の快楽を保証する。》(大江健三郎『性的人間』)


大江のような旧世代の男ではなく、ここではラカン派フェミニストの見解のほうがいい。



コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(2006/10/8 Joan Copjec (コプチェク)講演会


ラカン派のフェミニストに耳を傾けなくても、男に飽きたかしこい女性たちは、覆い隠さないように、という警告を本能的に守っている。逆にいまだ男に飽きていないらしい女たちは、男を魅了し誘惑するためには、ほどよく隠す術を本能的に知っている。



もっとも男たちにもいろんな種類があって、たんに

セックスを見たいという中学生や高校生的な夢を持ち合わせている連中がいるから厄介だが、こちらの方は陰湿さがないから御し易い。いやいやローライズでおしりの割れ目までみえてしまったら、今度は陰門や陰毛の出現ー消滅のエロティシズムというものもあって、ある種の男たちを魅了させるから気をつけろ! ようするになにをしたって、相手しだいでヤバイのが人の世であるぜ


 

ところで上野千鶴子女史は最近かくのごとくノタマっている。

性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい。相手のあるセックスをしたければ、相手の同意が必要なのは当たり前だろう。セックスは人間関係なのだから、関係をつくる努力をすればよい。(……)

カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい。(上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化

逆に、あれらミニスカやローライズの氾濫する女の衣裳の不気味さを解いてもらいたい。流行だとか便宜性やらきれいにみえるなどといって誤魔化さずに。いや、わかっている、そんな愚かなまねはしないのは。「男たちってスケベで単純で、まったくどうしようもないわ、カワイイところはあるには違いないけど」、などとして、ボディブローで徐々にへこませるのがよいのをよくしっている。《女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……》(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そもそも「真理」を哲学的に追究するなんて、そんなことしてなにになるのよ、バカねえ、男たちって

《婦人たちのあいだで。--「真理? まあ、あなたは真理をごぞんじではないのね! それは私たちのすべての羞恥心の暗殺計画ではないでしょうかしら?」--》(ニーチェ『偶像の黄昏』16番)

《すべての立派な女性にとって、学問は羞恥に逆らう。彼女らにはその際、自分たちの皮膚の下を、──さらに厭なことには! 着物と化粧の下を覗かれるような気がするのだ。》(『善悪の彼岸』)

わたくしは上野千鶴子を貶すつもりは毛ほどもないのだ。かつて名著『スカートの下の劇場』でお世話になった覚えがある(いまではあまり覚えていないが)。いまウェブ上から拾ってみると、かつては下記のように指摘してくれた人が、男にかんしてはいまだ「カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ」などと語ってしまうのが不満でないでもないが。

女性がパンティを選ぶ理由はおよそ二つに大別されるそうです。
一つは男性を意識した、言わずもがなのセックスアピール。
二つめは、自意識を満足させるためのナルシズムです。


次に、なぜ女性はパンティをはくのでしょう。
まず、恥ずかしいというのがありますよね?
だけど、どうしてあそこを見られたら恥ずかしいのでしょう?
でも、恥ずかしいという気持ちが性的快感に変化するのは否めない事実で、子孫繁栄のためにはなくてはならないものなのでしょうね。

そのほかに、パンティで性器を隠すことによって、性器の価値を高めるという意味もあるそうです。
見ちゃダメ!と隠せば隠すほど見たくなるのは、よくあることで、だからこそ女性はパンティで性器を隠し、とっても大切なものなのだと暗に示しているという論理です。(読書「スカートの下の劇場」

上野千鶴子は、この時期、「男」として振舞ったのではないか。いまでは齢を重ねて「女」に戻っているので、男のことなどなんにもわかんねえ、と言い放っているのではないか。愛でたし芽出度し、慶賀なり。
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)


男サイドの言い訳はいくらでもある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)


あるいはラカン派の男女の不思議を解く試みなら、かくの如し。

・男の欲望は、おのれの幻想の枠にフィットするような女を直接欲望すること。
・女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること。

…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However,a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. ZizekLess Than Nothing2012

レヴィ=ストロースは、ユダヤ人狩りのためマルセイユからアメリカに亡命する船旅のことを書いている(『悲しき熱帯』)。小さな蒸気船、――二つの船室と簡易ベッドが合計して七つしかないーー、そこにおよそ三百五十人もの人間が詰め込まれる。彼自身はひとつの船室を四人の男性で分け合う幸運に恵まれる。だが他の乗客は、男も女も子どもも、通風も悪く明りもない船倉に詰め込まれ、そこには大工が俄造りで組み立てた、藁布団付きの、何段にも重なった寝台があった。《その「賤民ども」ーー憲兵はそう呼んでいたがーーの中には、アンドレ・ブルトン(……)も含まれていた。この徒刑囚の船をひどく居心地悪く感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板に空いている極めて僅かの部分を縦横に歩き回っていた。毛羽立ったビロードの服を着た彼は、一頭の青い熊のように見えた。》便所はとてつもない臭気、風呂の水もろくに出ない。寄港地で、レヴィ=ストロースと、チェニジア人は、二人の若いドイツ婦人を励ましに行く。《この二人の婦人は、体を洗えるようになりさえしたらすぐ、彼女らの夫を欺きたいと思っていることを、航海のあいだ、私たちに印象づけた》から。

つまりは、ここにも《女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること》があり、そのためには汗と垢まみれになった軀を清めることがなによりも肝要なのだ。男たちはおのれの不潔さには女たちほど頓着しない。



「カネ払ってまでやりたい」理由の一端は、すこし長い説明がいるが、簡略化すれば下記の通り。

われわれは生まれたときの最初の他者は、母親あるいは乳を与える養育者である。この他者をめぐって、ラカン派の向井雅明は次のように書いている。
子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)(大文字の他者:引用者注)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(向井雅明『精神分析と心理学』)



男女児かかわりなく、幼児の欲望はまずは<他者>の欲望を満足させることである(想像的ファルス化)。だがこの後、正常な発達であれば、男児は父への同一化、女児は母への同一化へ向かう(参照:「ファルス」と「享楽」をめぐって)。この過程で、男女児ともそれぞれの失望がある。



たとえば女児の場合、「父が自分に子を与えてくれる」願望(ラカン)をもつが、それは実現されない(それ以前に、フロイトの『女性の性愛について』によれば、女児は、母が自分にペニスを与えてくれなかった批難をする)。


男児の場合、母を対象とし続けるが、母に欠如を発見する(母の去勢)。その反動として「おとしめ」があり、「他の女(娼婦)」を欲望する。



この男性の場合、ラカン派の説明では、次のようなことが起こる。

Uber die allgemeinstre Erniedrigung des Liebeslebens(1912), GW VIII pp.78-91, SE XI pp.177-190、「「愛情生活の心理学」への諸寄与」,高橋義孝訳,著作集10, pp.176-194、このフロイトの論文によると、「おとしめ」とは、母親を娼婦とみなすという空想のこと。この空想は、愛情生活のなかの割れ目を少なくとも空想の中では埋めようとする努力であるとされる。具体的には、少年がエディプスコンプレックスのなかで、性交という恩恵を自分にではなく父に与えた母を恨みに思い、その一方で、そういう母親の態度を、母親の不誠実だと思う。そして、この不誠実は空想のなかに生き延びていき、母親や愛情の対象の娼婦性という空想が生まれるとされる。これは、母という<他者>の望むものが私ではなく、他のもの、つまりファルス(父)であると想像され、<他者>の無矛盾性が否定され、<他者>にはひとつの亀裂があることを知る。(ラカン『ファルスの意味作用』註)


男の不思議はこのように説明されているわけで、しかしながら「結局、小児性を克服できずに育った男たちってわけじゃないの?」(「幼少の砌の髑髏」)などと脊髄反射的な反応が予想されはするが、もし女に「哲学的に」でも「精神分析的に」でも、追求する気があるならば、そうそう簡単にうっちゃっていい議論でもあるまい(繰り返すがそんな気がないのを知っている)。

いまさらフロイトやラカンでもないでしょ、ドゥルーズ=ガタリにしっかり批判されてとっくの昔に決着ついたんじゃないのかしら? などと嘲弄しておくのがいい。

ジジェクが、《ドゥ ルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプスそのものだということである。オイディプス的父親は父-の-名とし て、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父親は、享楽-の-父という超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その 権威を振るうことができるのだ》などと反駁したって、いまさらジジェクのような小者になんたら言われてもね、ジジェクさんかわいいとこあるけど、とあっさりかわしてしまうのが、女たちの「偉大さ」だ。


さて、小説には、「覗き」場面がいくらでもある。著名な「権威」ある作家たち、たとえば三島由紀夫の『午後の曳航』やら晩年の『豊饒の海』など、あるいは大江健三郎にも頻出する。
ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

女流作家でも、山田詠美ならこのように書いてくれる。

私は、あなた以外の何ものをも求めない。目の前の男のためだけに口紅を塗り、香水を噴き付ける。だから、部屋には、いつも、良い匂いが漂っ ている。愛する人を持った女は、朝のシャワーの 後に、香水瓶の蓋をあける。(山田詠美『チューイングガム』)


いずれにせよ、同じ小説でも、男と女では読み方が違うのだろう、たとえば次の文ならば、おおむね、男はのぞく主体に同一化し、女は覗かれる客体に同一化するのだろう。

女はついにあらわな姿を見せた。

靴をぬぐために、非常に高く脚をくみ、肉体の深淵をぼくの眼にさらした。
きらきら光る編上靴にとじこめられていた上品な足や、にぶい色の絹の靴下につつまれていた、ほっそりした膝頭や、華奢な足首のうえに、優美な壺のようにゆたかに開いたふくらはぎなどを見せた。ひかがみのうえ、ちょうど靴下が白くぼやけたくぼみのなかに終っているあたりには、おそらく素肌がのぞいているのだろう。ぼくには、やっきになって邪魔をする闇や、女におそいよる薪のちらつく輝きとで、下着と肌の見分けがつかない。あれは下着のやわらかい布なのだろうか、それとも素肌なのだろうか。無なのだろうか、すべてなのだろうか。ぼくの視線はその裸身を得ようとして、闇や炎と争った。額を壁に、胸を壁にぴたりと寄せ、壁を打ちたおし、突きぬこうとするほどに、拳で必死に押しながら、こうしたとりとめのない不確かさに眼がいたくなるほど、なんとかして、腕ずくでも、もっとよく見よう、もっと多く見ようと、あせりにあせった。(アンリ・バルビュス『地獄』田辺貞之助訳)

あるいは、こんな描写ならどうか。


暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっている。それを立て直そうとして、《火箸で突つき、黒く炭化したところに新たな薪をもたせかけて吹く》。ーー男は火箸で突っついて吹きたいのであり、女は…、女のことは知るところではない…

大江健三郎の中篇『人生の親戚』の「僕」は、《炎の起ったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた》。それは米人のセックスフレンドとの切磋琢磨する性交をつうじて、生臭い肉体に属するものは、どこかに移行して、《精神の属性のみが残った》ような清潔さだ……、と。


――「僕」はこんな夢を見たとの記述が小説の前半にはある。

彼女はうすものを羽織っているのみで、(……)下半身は裸、合成樹脂の黒いパイプ椅子に足を高く組んで掛けている。こちらはその前に立っているのだが、足場が一段低いので、頭はまり恵さんの膝の高さにある。p80


かつて「僕」が、まり恵さんと一緒に、プールで泳いだとき、《彼女の大きく交差して勢いよく水を打つ腿のつけねに、はみ出た陰毛が黒く水に動き、あるいは内腿の皮膚にはりつくのを見た》、その「出来事」が夢の表象として現われる。

まり恵さんの、腿に載せたもう片方の腿があまりに引きつけられているので、性器の下部が覗きそうだが、そこに悪魔の尻尾がさかさまに守っている。つまりはしっとりした黒い陰毛が、クルリと巻きこむように性器を覆っている。p80



もっともフロイトによれば、覗姦・露出のメカニズムは、原初的には、「性器が自分自身によって覗かれる」のが出発点のひとつであって、単純に覗く/覗かれるの二項対立があるというわけではない。


フロイトの『本能とその運命』(フロイト著作集 6 人文書院)では、サディズムとマゾヒズムの分析のあと、次のように覗見と、露出(誇示)をめぐって書かれている。


※「本能Trieb」は最近の訳では「欲動」と訳されるが、ここでは旧訳のままとする。……
もう一つの対立的組合せ、すなわち覗くことと、露出することをそれぞれ目標とする本能を研究してみると、少し違った、さらに単純な結果が出てくる(性的倒錯の用語では覗見症者Voyeur と露出症者Exhibitionist)。そしてここでも前の場合と同じような段階に分けることができるのである。すなわち、

(a)覗きが能動性として、他者である対象にたいして向けられる。

(b)対象を廃棄し、覗見本能が自分自身の身体の一部へと向け換えられ、それとともに受身性へと転じて、覗かれるという新しい目標が設定される。

(c)新しい主体が出現し、それに覗かれようとして自己を露出する。

能動的な目標が受身的な目標よりも早く登場し、覗くことが覗かれることに先行するのも、ほとんど疑いのない事実である。しかしサディズムの場合との重要な差異は次のような点である。つまり覗見本能においては、(a)の段階よりも、もう一つ前の段階が認められるのである。覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出すわけである。覗見本能が(自己と他者とを比較するという過程をたどった上で)、その対象を他者の身体の類似の対象と交換するにいたるのは、そののちのことなのである(段階a)。ところで、このような前段階は次のような理由から興味深いものになる。つまりこの前段階から、交換がどちらの立場で行なわれるかに応じて、その結果として成立する覗見症と露出症という対立的組合せの両極面が現われてくる。すなわち、覗見本能の図式は次のように書き表わすことができよう。







 このどこかでの段階で、ラカン理論ではさらに「想像的ファルスの欠如」(母の去勢)が係ってくるはずだが、いまはそれには触れない(参照:

心的装置の成立過程における二つの翻訳)。

そもそもラカン派の「去勢」とは、まずは母におちんちんがないことなのだ、--想像的ファルスの欠如-φは、「去勢」とも読まれる。それは主体の去勢ではなく(少なくとも”だけ”ではなく)、「去勢の意味作用は,(子供の去勢ではなく)母の去勢によっておこる」(ラカンE687)




 最後に、デリダのインタヴュー記事を附記しておこう(

女性と哲学「デリダ・インタビュー(4)LAWEEKLY, 2002118/14日」)。



【問】なぜ女性の哲学者はいないのでしょう。


【答】哲学のディスクールというものが、女性、子供、動物、奴隷をマージナル

なものとして抑圧し、沈黙させるように組み立てられているからです。これは哲

学の構造であり、これを否定するのはばかげたことでしょう。そのために偉大な

女性の哲学者が現われないのです。もちろん偉大な女性の思想家はいますよ。で

も哲学というのは、思想のうちでもごく特殊な思想、特別な考え方なのです。た

だ現代では、こうしたことは変わりつつあります。


【問】あなたはご自分をフェミニストと考えられますか、


【答】大きな問題ですが、ある意味ではそう考えています。わたしの仕事の多く

は、ファロス中心主義の破壊にかかわるものでしたし、自分で言うのも変ですが、

哲学のディスクールの中心でこの問題を提起した最初の人の一人でしょう。もち

ろんわたしは女性の抑圧がなくなることを望んでいます。哲学におけるファロス

中心主義的な土台のもとで、女性の抑圧が続いていることを考えると、とくにこ

れは重要な問題です。ですからこれに関してはわたしはフェミニズム文化に連帯

しています。


でもフェミニスムの特定の表現には、留保を抱かざるをえません。たんに男女の

ヒエラルキーを逆転させることや、伝統的に男性的な行動とみなされている好ま

しくない側面を女性が採用することは、誰の役にもたたないのです。