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2014年9月20日土曜日

逃げ水と海へ向かう道

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。
暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」より)

ブログ「ハクモクレンの城」(暁方ミセイ)に次の画像が貼り付けてあるのをみて、はっとしてしまう。道の向こうにある半円の光の輝き。これはわたくしの「原光景」のヴァリエーションだ。






彼女の詩、ーー暁方ミセイの詩集が手元にあるわけではなく、
ウェブ上で僅かにめぐりあった詩の断片ということだが、
そのいくらかの詩行を想起しつつ
ここに暁方ミセイが「逃げ水」を見ていないと想像するのは難しい

真夜中はアスファルトに電気をまき散らし
昼間とは無関係の、
たとえば朝へは通じていない路地。
物の表面から溢れ、道に満ちてくる水。
これらの発育を助長する。
細胞と水と、
一瞬ずつ反応する神経が
私である。
同じ夜にいる、あなたの家の前を通る。

ーー暁方ミセイ「アンプ」

そして彼女とともに、草いきれのにおいだって嗅いでしまうのは、
わたくしの「転移」のし過ぎのせいか

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

いや、むっとする草いきれを嗅ぎ取らないのは、
きみたちが文明人すぎるせいではないか
そして草いきれだって、オレには菌臭の一種さ

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収ーー「赤い靴と玄牝の門」)

他の若い詩人たちの作品の断片もいくらか掠め読むことはあるのだが
(オレの場合、若い〈女〉の詩人だけだけどね、やや熱心に読んでみるのは)
どうも不感症のままか、あるいは金井美恵子とともに、
この三文詩人! う・ん・ざ・り・よ、と呟きたくなる
詩行に遭遇することが多いなか
暁方ミセイには、なんだか惚れこんじゃったんだよな

うんざりよ
う・ん・ざ・り・よ。

ほんとに、うんざりした表情で唇をへの字に曲げ、湿った咽喉を震わせるようにして、唇を軽く閉じ、鼻の先で嘲笑するといった調子で鼻孔を微かに震わせ、うとんの微妙にくぐもって湿っているのにもかかわらずとてつもなく鋭く響く音を吐き出す。

センチメンタルな三文詩人だったら、ブドウの種を吐き出すように、とでも書くところだろうか。(金井美恵子「恋愛<小説について>」)

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、/五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》(「駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム」)

なんたるエロスとタナトスの混淆!
フロイトがエロスとタナトスが殆ど常に融合して現れることとした
「欲動融合Triebmischung」だぜ、この詩行は

暁方ミセイは、リルケのいう生と死という
二つの無限な領域から養分を摂取している
に違いない

死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは私たちの存在の世界が生と死という二つの無限な領域に跨っていて、この二つの領域から無尽蔵に養分を摂取しているのだという、きわめて広大な意識をもつように努めなければなりません。まことの生の形体はこの二つの領域に跨っているのであり、この二つの領域を貫いて、きわめて広大な血の循環がなされているのです。此岸というものもなければ彼岸というのもありません。あるのはただ大いなる統一体だけで、そこに私たちを凌駕する存在である『天使』が住んでいるのです。(富士川英郎・高安国世訳『リルケ書簡集2:1914–1926』――『ドゥイノの悲歌』の翻訳者への書簡らしい)

…………

とまで書いたところで、いやあの画像に魅了されるのはそれだけではないことに気づいた。

あの光景は、高校時代に遭遇した「海へ向かう道」でもあるのだ。



◆ヴァレリーの「海辺の墓地」の冒頭二連

Le cimetière marin

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée
O récompense après une pensée
Qu'un long regard sur le calme des dieux!

Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d'imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir!
Quand sur l'abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d'une éternelle cause,
Le temps scintille et le songe est savoir.


◆中井久夫訳

鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間(ま)に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め

細かな燦めきの清らかな働きが
見えぬ飛沫(しぶき)のダイヤを費ひ(つかい)尽くし、
何たる平和のはらまるるかに見ゆることよ!
一つの陽の影が深い淵の上に休らふ時
「永遠の動因」の純粋な所産――
「時」は輝き、「夢」はただちに「知」! 


 

◆白井健三郎訳

鳩たちがあゆむ、この 静かな屋根、
松の樹の間に、また墓石の間に 脈打ち――
「真昼」正しきもの そこに 炎でつくる
海よ、海、いつも繰り返される海を!
おお ひとすじのおもいのはてに このむくい
神々の静けさへの なんという久しい眺め!

こまかな光の なんという純粋なはたらきが
眼に見えない水沫の あまたの金剛石を灼(や)きつくし、
そしてまた なんというやすらぎが はぐくまれるものか!
深淵の上に 疲れ知らぬ 一つの太陽が 休むとき、
永劫因(えいごういん)が生んだ 二つの純粋な作品、
「時間」はきらめき 「夢」はそのまま叡智となる。


十代後半の少年は、この白井健三郎訳の「海辺の墓地」に魅せられた。海辺近くの町に住んでいた彼は、自転車通学の帰り道に、ときおり家とは反対の方角の太平洋に面する海岸に向かい(そもそもふだんは電車を使っての通学だったが、寝坊すると十キロあまりの道のりを自転車を使って通って、そうすると、のんびりした郊外電車よりもはやく高校に到くこともある)、道すがら、アスファルトに干された牧草のにおいやしだいに濃厚になってくる潮のかおりに包まれ、「しぶきをあげて廻転する金の太陽」が西に傾いてゆくなか、同道する友たちの笑顔の口もとからこぼれる白い歯の輝きに、いささか重苦しいものを抱えもした日頃のうさをも忘れた。

友たちの笑いの泡立ちが「波紋のように空に散る」あの光景ーー、「海辺の墓地」の詩句に促されてその光景を回想している初老の男がここにいる、《自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮かぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?》(大江健三郎『燃えあがる緑の木』第一部)――そう、これから「砂浜にまどろむ(青)春を堀りおこし」(大岡信)にいくのだった。


そうやって彼らは近道で浜辺にでる絶壁のそばに辿りつくと、今度は、崖を削りとっただけで石ころだらけの、獣道のようでもある急峻な下り坂を、ハンドルをとられて転倒しころげ落ちるのを怖れながら、それでも傍らの友たちに臆病だとなじられないように、速度を落とさずに疾駆して海に向かって下りてゆく。そのスリルあふれる趨走の短い刻限、赫土からいびつな姿をなかば覗かせている大きな荒石をなんとか避けようとして、でこぼこ道の佇まいに眼を凝らして俯いたままなのだが、いささか緊張で汗ばんだ顔、その額のななめ上方の樹々の間のかなたには、季節や時刻によってそれぞれの、茫漠とした水平線の拡がりが,青い色のまばゆい背中が、夕暮れ近くなら「千の甍」が,浮かびあがり脈うっているのを掠め見る。ああ,それはまさに、眉の上にある「静かな屋根」なのであり、甍のうえには、「鳩たち」が歩んでもいよう、――ひとときのこわばりのはての なんというむくい! 神々の静けさへの なんという久しい眺め! そしてまた浜辺にたどりつけば、あの波のとどろきと潮のかおり、そこでは、なんというやすらぎが はぐくまれるものか!

いまではあの崖道は、いつのまにか舗装され整備され、しかもそのあと、廃道となっているようだ。(伊古部廃道




伊古部海岸から半島は西に延びていき、伊良湖岬にいたる途中に、このあたり唯一の赤羽根漁港があって、そこから「赤羽根」の鳩たちが、伊古部の海の沖合いにたむろすることもあった。ーー《

何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。》(暁方ミセイ)

「海辺の墓地」の最終節(その一行目が,堀辰雄の訳『風立ちぬ、いざ生きめやも』(小説『風立ちぬ』のエピグラフ)として人口に膾炙している)を読めば、「鳩たち」は,三角帆の漁船(foc)でもあることが知れる。ーー((ちがうよ、あれは鳩だよ))

風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を! (中井久夫訳)



2014年9月4日木曜日

「鼻が赤くなって すんとして 泣きたい感情だけが まだのこっている」

「鼻が赤くなって すんとして 泣きたい感情だけが まだのこっている」

第二十二回萩原朔太郎賞を受賞した詩人、三角みづ紀の「湖面に立つ」(『隣人のいない部屋』所収)からだ。

吉増剛造は《『すんとして』という言葉は女の人らしい、繊細で、膨らみのある表現。この詩人しか感じないような可憐な孤独感、美質が出ている》と絶賛したとある。

「すんとして」――たしかに言われてみれば、ちょっと「すんとくる」。ツイッターなどでの女性のつぶやきには(容易には)出てこないだろう(コカインの白い粉でもすってないかぎりな)。この前後の詩句を読めば、もっと「すんとして」が印象ぶかいのかもしれない。だがそれはネット上には、いまのところ見当たらない。

かつてから詩集をおおく読むほうではないが、日本語と接する機会が稀なせいもあり、よい言葉や詩句に出会えないかという心持はそれなりにある。とはいっても詩の評価というのは、――わかんねえな

吉増剛造のように「すんとして」というような表現をとりあげて評価するなんてことはめったにないし、えっ、この表現だけでそんなに絶賛しちゃうもんなの? とは思いつつ、やっぱりこういう形で評価してほしいね

松浦寿輝は、この《ドイツ、イタリアイタリアやドイツなどを旅し、ほぼ毎日一編ずつ、自ら撮った写真とともに表現した》とされる詩集を、「旅は裸の自分に戻り、孤独になる。それが伝わる静謐な詩集。心にしたたり落ちるようなつぶやきがある」としているが、《心にしたたり落ちるようなつぶやき》をひとつでも示してほしいね。それに松浦寿輝が作品を褒めるときにしばしば使う「静謐」。この言葉はもはや手垢がつきすぎてるぜ、

ところで三角みず紀のブログにある次の詩どうだい?


定点観測


夏至も過ぎたけれど
真昼に灼けた地面に
空から打ち水が降り
ようやく、夜となる
そうして、朝を待つ

はげしく   ゆるやかに
瞬間に立つ   ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に   かがやいて

いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている

初出 2014.07.14 読売新聞


《束の間に   かがやいて》にちょっと惚れたね
《真昼に灼けた地面に/空から打ち水が降り》というのもいいな

でもオレだけの感覚かもな

須賀敦子が訳したコルシア書店の仲間たちの頭領、無名の詩人ダヴィデの詩を思い出すな

ずっとわたしは待っていた。
わずかに濡れた
アスファルトの、この
夏の匂いを、
たくさんをねがったわけではない。
ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
奇跡はやってきた。
ひびわれた土くれの、
石の呻きのかなたから。

灼けた地面に空からの打ち水で、大地が匂いたつという感覚は、それは黒土やアスファルトでもいいのだが、それを愛するひとというのを、オレも愛するな


雨でなくてもいいさ、電気でも。
それだけで《道に満ちてくる水》があるのだよ


真夜中はアスファルトに電気をまき散らし
昼間とは無関係の、
たとえば朝へは通じていない路地。
物の表面から溢れ、道に満ちてくる水。
これらの発育を助長する。
細胞と水と、
一瞬ずつ反応する神経が
私である。
同じ夜にいる、あなたの家の前を通る。


ーー暁方ミセイ「アンプ」

若い女の詩人が好きなんだけど、
(彼女らは魅力的な顔してるよ、どいつもこいつもいい女たちだぜ)
暁方ミセイの詩がいまのところ一番オレにはピリっとくるな、
三角みず紀の詩ではじめたんだけどさ

《ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る//蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》(駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム(暁方ミセイ)



不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、

(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)

何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。

暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」(「現代詩手帖」2012年06月号)より

暁方ミセイがいちばん近いな
たとえば将来ひょっとしてこういった詩句を生み出すかもしれないと思わせる詩人だな

つち澄みうるほひ

石蕗の花さき       



室生犀星の四行詩「寺の庭」の最初の二行だけどさ
暁方ミセイは宮澤賢治のひとではあるけど
《不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている》とか
《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とか
いいねえ、「惚れ惚れ」するなあ

……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)


酒澄みうるほひ
たおやめの頬あからみ
もう秋は女の庭のように
匂いだした

女の庭について語りたいと思うが

キノコの生えた丸太に腰かけて

考えている間に

女の旅人突然後を向き

なめらかな舌を出した正午
キノコはたちまちすんとして萎れた

ーーもちろんほとんどパクリだからな
吉岡実の「夏の宴」の手法だなんていわないがね




2014年4月4日金曜日

蕾の割れた梅の林

たとえば、《瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉として面を撲つ。俗塵を一洗し得たるの思あり》と、断腸亭日乗大正十年三月三十日にある。荷風四十歳のおりの日記だが、こうやって荷風の日記を繙くのは季節の変わり目のことが多い。ああ梅の季節が過ぎいまは桜の季節なのだな、と日本に住まうひとたちの言葉を目にして荷風の文を読み返すということもある。《四月四日。天気定まらず風烈し。梅花落尽して桜未開かず》。
                                        
荷風の日記には花や樹木の記述がふんだんにある。《五月廿六日。庭に椎の大木あり。蟻多くつきて枝葉勢なし。除虫粉を購来り、幹の洞穴に濺ぎ蟻の巣を除く。病衰の老人日庭に出で、老樹の病を治せむとす》と読めば、庭木の木蓮三株のうちの一株が葉がことごとく落ちてしまってあれはなんのせいなのだろうと思いを馳せることになる。


この時期の荷風は自ら雑草を抜いていたようだ。


四月十九日。風冷なり。庭の雑草を除く。花壇の薔薇花将に開かむとす。
五月三日。半日庭に出でゝ雑草を除く。
六月廿六日。雨の晴れ間に庭の雑草を除く。

いまこの大正十年の日記からのみを無作為に抜き出しても、次の如く如何に荷風が自然の風物を愛でていたかが瞭然とする。


去年栽えたる球根悉く芽を発す。
細雨糸の如し。風暖にして花壇の土は軟に潤ひ、草の芽青きこと染めたる如し。
毎朝鶯語窗外に滑なり。
雨中芝山内を過ぐ。花落ちて樹は烟の如く草は蓐の如し。
四月十五日。崖の草生茂りて午後の樹影夏らしくなりぬ。
新樹書窗を蔽ふ。チユリツプ花開く。
五月九日。日比谷公園の躑躅花を看る。深夜雨ふる。
五月二十日。夕刻雷鳴驟雨。須臾にして歇む。
五月廿五日。曇りて風冷なり。小日向より赤城早稲田のあたりを歩む。山の手の青葉を見れば、さすがに東京も猶去りがたき心地す。
六月六日。正午頃大雨沛然たり。薄暮に至るも歇まず。
清夜月明かにして、階前の香草馥郁たり。
桐花ひらく。
松葉牡丹始めて花さく。
門前の百日紅蟻つきて花開かず。
石蕗花ひらく。
久雨のため菊花香しからず。
暮雨瀟瀟たり。
夜、雨ふりしきりて門巷寂寞。下駄の音犬の声も聞えず。山間の旅亭に在るが如し。


もっともここで坂口安吾の「通俗作家 荷風」から引用しておくべきだろう。

荷風の人物は男は女好きであり女は男好きであり、これは当然の話であるが、然し妖しい思ひや優しい心になつてふと関係を結ぶかと思ふと、忽ち風景に逃避して、心を風景に托し、嗟嘆したり、大悟したり、諦観したり荷風の心の「深度」は常にたゞそれだけだ。

 男と女とのこの宿命のつながり、肉慾と魂の宿命、つながり、葛藤は、かく安直に風景に通じ風景に結び得るものではない。荷風はその風景の安直さ、空虚なセンチメンタリズムにはいさゝかの内容もなくたゞ日本千年の歴史的常識的な惰性的風景観に身をまかせ、人の子たる自らの真実の魂を見究めようとするやうな悲しい願ひはもたないのだ。

 風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。

だがすこしは容赦してもらおう、そもそも安吾は志賀直哉も夏目漱石も貶しているのだから(「志賀直哉に文学の問題はない」)。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。
夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。

…………

荷風を繙くきっかけになったのは直接には暁方ミセイの《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》という詩行だった。糸のように漂いやってくるのは、次の行に、《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》とあるので、過去の記憶だと「誤読」することもできるだろう。

…………

蕾の割れた梅の林、――今からほぼ三十年前から十年ほどのあいだ、京都の西にある梅宮大社の近処に住んでおり、そこには手入れのわるい寂れた梅園があった。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでに、お社の傍らの道を通り抜ける。梅の季節であれば境内にはいって、梅園の入口に一株ある形のよい白梅の蕾が綻びかけたのを愛でる。そもそもそれ以前は梅などに目もくれない不粋な人間だったが、これ以来桜よりも梅を愛す。

もっとも梅の木を観賞するために境内に入ったといったら嘘になる。お社に奉納された酒がほとんどつねに枡酒で飲めその無料の冷酒が目当てだったが、日本酒の芳香と梅の香との記憶がいまでも、《糸のように漂いやってくる》。ああ、アリアドネの糸! 《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ) 当時なんの迷路に嵌っていたかは敢えて書くことはしない。

京都のふたつの梅の名所の一処とはいうが、北野神社の整備された梅園とは段違いであり、社そのものも慎ましい住宅街のなかにあり、観光客も梅の季節になってさえまばらで、神主一家は、鳥居と楼門のあいだの駐車場の賃貸収入で、生計を立てているとしか思えなかった。

もっとも由緒は正しく檀林皇后、いつの時代の皇后かといえば、延暦5年(786年) - 嘉祥354日(850617日)などとあるその皇后が梅宮大社の砂を産屋に敷きつめて仁明天皇を産んだらしく、子授け・安産の神として、「またげ石」なるものがあり、男女のカップルが訪れ、その石をまたげば子が授かるということになっている。あるいは古来から酒造の神として名高く、すぐそばの桂川にかかった松尾橋を渡って正面にある著名な松尾神社の酒造の神よりも、由緒が正しいと聞いたことがある。松尾神社にはただ酒はなく、お社も味気ない。湧き水を汲んでその効験を尊ぶ習慣はあるが、わたくしはそれを飲んでお腹をこわした。

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とはエロスの詩行としても読めるだろう。少女の割れ目から糸が引く、などと書くまでもなく。

もし私がここで
ロンサールの“朱色の割れ目”とか
レミ・ベローの“緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘”
などと引用したら<あなた>はなんというだろうか

――とはナボコフ『ロリータ』のほぼパクリである。

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

――というのは、わが国至高の少女愛詩人吉岡実からの孫引きだ。

またぎ石とすれば吉岡実の詩句を想い起こさずにはいられない。

《一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく》

《大股びらきの洗濯女を抱えた》

《夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる》

《紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ》

《姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根》

…………


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)

吉岡実のエロティック・グロテクスな詩は次のような起源があるようだ。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)。

…………

北野大社の梅園は整然としすぎていて好みではなかったが、京都で最も美しいお社であるのは、杉本秀太郎の書くとおり(『洛中生息』)。

北野天満宮 杉本秀太郎


京都で最もうつくしいお社は北野神社である。屠蘇の酔いにまぎれていうのではない。けれども私の酔眼には、北野のお社は猶いっそう美しい。

あの長い石だたみの、白い参道がいい。参道のつきるところで石段の上に見上げる門は、お参りにきた人をいかにも迎える様子をしていて、すこしも威圧的でない。

門をぬけると、すぐ左のほうにいって絵馬堂の下に立たずにはいられない。あごをつき出して、高い絵馬を見上げる。話に聞くと、仰ぐような姿勢になって酒杯を傾けると、酔いがたちまち回るそうだ。ふり仰ぐとき、われわれは自然と息を大きく吸いこむから、杯から立ちのぼる酒精が胸の深くに染みとおって、酔いつぶれるのである。なるほど、そうかもしれない。しかし、絵馬堂で天井をふり仰ぐときの私には、冷静に絵の出来具合を判定しようというつもりはまったくなくて、ただ絵馬の奉献の日付けや奉納者の名、また絵師の名が、ぼんやりと目にうつるのを楽しむつもりしかないのだから、天井の絵馬から降ってくる埃のおかげで、ますます楽しくなるだけだ。いま吹きさらしの絵馬は、古くてせいぜい明治も二〇年代のものだが、それでも、もうほとんど剝げて、図柄さえ定かではない。

それがいいのだ、ここでは裁きをつけるのは、くり返される四季の自然力であって、流行の美学ではない。しかし、剝げてしまえば絵馬はおしまいではなくて、のこったわずかな岩絵具と板の木目との偶然から生まれる古色が、北野のお社の、あの苔むす回廊の屋根や本殿の造作の一切と、わけもなく溶け合っている。

銅製や石彫りの幾頭かの牛の目が柔和に光っているのを見ながら、本殿に近づいて高い敷居をまたぎ、一気に鏡のまえに行く。この間合いが、よその神社では、ちょっと味わえないほど爽快である。ここには、逆立ちで歩いても、とんぼ返りをしながら横切っても、いっこう咎めがなさそうなほど、気楽な、くつろいだ広がりがある、しかも決してそういう曲芸をやるわけにはゆかず、歩幅ただしく、さっさと歩かねば恰好がつかないような、なんともいえない品位をそなえた空間の味わいがある。

回廊をひとめぐりして、次は本殿の外まわりを歩く。檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く。格子の窓や軒端の彩色は、あでやかで、しかも渋い。この色がまさに京都の色だ、と正月の礼者にありがちな屠蘇の酔いをいいことにして、私も少し大胆につぶやく。

私は北野のお社を飽かずながめつつ、遠いイタリアの、フィレンツェの町を思い出すことがある。そして、なつかしさに気もそぞろ、文子天神の横から、北のほうへ抜けてゆく。

2014年2月7日金曜日

職業としての詩人(谷川俊太郎)

《基 本 的 に 生 活 を か け て 仕 事 を し て き た か ら 、 ず っ と 書 き 続 け て き た っ て こ と は あ る と 思 い ま す 。 も ち ろ ん 詩 を 書 く 仕 事 だ け じ ゃ あ り ま せ ん け ど ね 。 僕 の 同 世 代 の 詩 人 た ち は 、 大 学 の 先 生 と か 定 職 を 持 っ て い た 人 も 多 か っ た 。 僕 は 書 い て 稼 ぐ し か な か っ た んで す 》という言葉を拾った(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー)。ついでに、いくつかのメモ。

…………

二十歳で自ら詩人と名乗る若者がいたら、「で、これからどうやって喰っていくんだい?」と訊きたくなるのは昔からかもしれないが、いまはいっそうそうだ(特に男性の場合はことさら、といったら男と女は関係ないでしょ、と叱責されるか……)。もっともほとんどの場合小説家も似たようなものなのだろう。

若くして中原中也賞をとった女流詩人、文月悠光暁方ミセイだって模索のさまが窺われる。現代詩にすこしでも関心があるひとなら名をなした詩人ばかりでなく、新しい才能を褒めてやらなくっちゃ。暁方ミセイの詩は「極楽寺、カスタネアの芳香来る」に惚れ込んだのだが、「アンプ」だってよい。ゆらめく閃光の詩人だ。

その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

…………

《現代詩は、もしいまの状態が続いていくとすれば、おそらくごく少数の人の一種の手工芸品的なものに、位置としては、なってしまうだろう。》(大岡信ーー『対談 現代詩入門』大岡信・谷川俊太郎(思潮社)1985)


◆〈チラ詩〉できました(谷川俊太郎.com

詩はふつう紙に書かれ、印刷されて読むものですが、近ごろではパソコンでもタブレットでもケイタイでも、インターネットを通じて詩が読めるようになっています。そんなディスプレイで、しかも横書きでなんか詩は読みたくないという人も多い。でも私のような詩を書いて暮らしている側の人間からすると、詩誌の読者も詩集の読者も、そして街の書店の数も減り続けている以上、電子メディアを無視するわけにはいかないのです。それにつれて私たち筆者と編集者・出版社との関係も、共倒れにならないためにより緊密になってきています。

寡黙な言葉

紙メディアにも電子メディアにも、言葉が氾濫していますが、ぼくも言葉を使ってお金を貰っている身分なので、全く黙っているわけにはいかない。でもせめて出来るだけ寡黙でいたいと思っています。

その点、詩は言葉数が少ないし、何かを誰かに伝えるというより、言葉を誰かの目の前に置く、とでも言えばいいのか、木で箱を作ったり、土で器を作ったりするような感じで書くことができる。詩を書いている時は言葉の氾濫とはちょっと違った静かな場所にいるような気がします。

でも世の中を変えようと思ったら、声をあげなきゃならないんですよね。黙ってちゃいけないと言われるとたじろぎます。沈黙にも力があると思うのですが、その力が暴力につながるのは性に合わない。寡黙な言葉の微小なエネルギーを信じるしかない。 (俊)


「寡黙な言葉の微小なエネルギー」とは震災後のインタヴューでも語られている。おそらく詩だけでなく芸術全般の一般的な姿だろう。

もっとも「政治的な」役割を果たす「文芸」もかつてはあまた存在したし、いまでもその試みはあるはずだ。


文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(柄谷行人「近代文学の終り」

逆に最近では「思想家」でさえ、「政治」から遠く離れているように感じられる場合があるが、それはわたくしが彼らの戦略を読みとれないだけかもしれない。

ドゥルーズを読んで政治を語りたがる人間は、あらゆる批判、反省、省察は何もの意味もなさない、すべて新しいものはいいものである、それだけがまともな世界をつくることができるという、そういう言葉にこめられた絶望と凄みを実践的に考えるべきだとおもうけどね。他人を批判する人間のほぼ99%はただのルサンチマンで怨恨、こんなもので政治と正義を語ったと気取っている連中が「権力」なぞににぎったらどういう連中になるか容易に想像ができる。本当に最低の社会になるぜ。(檜垣立哉ツイート)

もっともなにを「政治的」というのかは、その定義にかかわるだろう。

政治( Politics)とは、広い意味において人々が生活する上で従うルール、支配、統治を創造し、維持し、修正し、また破壊することを通じて行われる活動である。

ーーこの日本語版wikipediaにあるAndrew Heywood.(2002)Politcs(2nd ed.)(N.Y.: Palgrave Macmillan)で採用されている定義(The activity through which people make, preserve and amend the general rules under which they live.)を参照とされた定義からすれば芸術活動もつねに政治的でありうる。


たとえば浅田彰の2012の京都造形芸術大学入学式式辞での言葉は「政治的」といえる。

昨年の事件以来、日本が、近代の物質文明が大きな反省を迫られている、アートが何ができるか、何もできないんじゃないかという絶望を感じた人もいた、だが一年たった今こそアートやデザインの出番なのではないか、(……)事件後、大量生産、大量消費、大量廃棄型の物質文明を今までどおりまたやろうという動きが出てきている、こういう間違った復興ではなくて、こういう大きな事故を反省とした文明全体の組み換えをしようと思えば、これは単に、アートやデザインというものが新しい想像力をもって人々のライフスタイル、あるいは美意識を変えてゆくことが必要だと思う……。

「芸術」「詩」の役割をめぐって(浅田彰、谷川俊太郎)

《新しい想像力をもって人々のライフスタイル、あるいは美意識を変えてゆくことが必要》とある。逆にその試みがなされなければ、つまりいままでの伝統的な形式に固執したままであるなら、それは《ごく少数の人の一種の手工芸品的なものに、位置としては、なってしまうだろう》。



震災後 詩を信じる、疑う 吉増剛造と谷川俊太郎

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。

 詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎)
普通に通用している言語では表現できないような深いことを経験されたから、つらくて口をつぐんでいる方は多い。テレビの映像や学者先生の言説を経由しては届いてこない声がある。

 アイルランドの詩人イエーツは「詩作という行為の責任は夢の中で始まる」といった。津波に襲われて生還した学生の話を聞いたとき、僕も、責任を持って、長い時間をかけて、若い学生の声に夢の中でさわっていこうと思った。学生の部屋のちゃぶ台が学生に「一緒に逃げろ」とささやくさまが目に見える気がした。

 ポール・ヴァレリーは詩を「音と意味のあいだでの逡巡」と名づけた。底深いところに音の精霊が潜んでいる。毎回、異なる光が寄せてくる。きらきらした甘い香りがすることもあるし、突然の不意打ちもある。精霊の細い声を僕が音にして、その音のそばに出てくる新しい意味を追いかけ、音と意味とを交錯させる。

 そこにたどりつくまでに、絶望的な荒涼たる風景を何度もみて、地下世界を巡らないといけない。自分の言葉を粉々に打ち砕き、全く別の声を出す。難解といわれようと詩がやらないといけない仕事なんです。(吉増剛造


◆谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー()()より Jun 29, 2013

― ― ま た 少 し 個 人 的 な 思 い 出 話 に な り ま す が 、 僕 ら が 俊 太 郎 さ ん を 本 当 の 意 味 で 同 時 代 詩 人 と し て 意 識 し た の は 、 詩 集 『 夜 中 に 台 所 で 僕 は き み に 話 し か け た か っ た 』 ( 昭 和 五 〇 年 [ 一 九 七 五 年 ] ) あ た り か ら な ん で す 。 あの 詩 集 を 読 ん だ と き に 、 『 あ れ っ 』 と 思 い ま し た 。 今 ま で 読 ん で い た 俊 太 郎 さ ん の 詩 と は 、 だ い ぶ 違 う ぞ っ て い う 感 覚 で す ね 。

俊 太 郎) 僕 は 現 代 詩 の 世 界 か ら は 外 れ て い ま し た か ら ね 。 『 二 十 億 光 年 の 孤 独 』 だ っ て 、 今 か ら 見 る と 現 代 詩 に 見 え る か も し れ ま せ ん が 、 そ う い っ た 意 識 は な か っ た 。 そ れ に 『 二 十 億 光 年 の 孤 独 』 刊 行 当 時 、 あ の 詩 集 に 対 す る 反 響 は ほ と ん ど な か っ た で す 。

― ― 嘘 で す よ 。 小 中 学 生 向 け の 文 学 史 の 本 に 、 谷 川 俊 太 郎 は 三 好 達 治 に 認 め ら れ 、 『 二 十 億 年 の 孤 独 』 で 彗 星 の よ う に 詩 壇 に デ ビ ュ ー し た っ て 書 い て あ り ま し た ( 笑 ) 。 俊 太 郎 い や ホ ン ト な ん だ ( 笑 ) 。 新 聞 な ん か で 、 哲 学 者 の 谷 川 徹 三 の 息 子 が 変 な 詩 集 を 書 い た ら し い ぜ 、 っ て 紹 介 さ れ た く ら い で し た 。 だ か ら 現 代 詩 と は 認 め て も ら え な か っ た 。(……)
― ― 先 ほ ど 現 代 詩 と は 距 離 を 置 い て い た と お っ し ゃ い ま し た が 、 現 代 詩 人 た ち と ま っ た く お 付 き 合 い が な か っ た わ け で は な い で し ょ う 。 『 櫂 』 に も 当 然 、 バ リ バ リ の 現 代 詩 人 が い た わ け で す か ら 。

俊 太 郎) 『 櫂 』 の 詩 人 た ち も ・・・ ま あ 、 現 代 詩 人 っ て こ と に な る の か な 。 だ け ど 僕 は お 酒 を 飲 ん で 盛 り 上 が る っ て こ と が 苦 手 な 人 間 で ね 。 現 代 詩 人 た ち は よ く 酒 を 飲 ん で 騒 い で い た け ど 、 僕 は 参 加 し な か っ た 。 だ か ら 仕 事 上 の 付 き 合 い が 多 く て 、 あ ん ま り 友 人 付 き 合 い は し て な か っ た 。『 櫂 』 の 同 人 た ち を 除 い て で す が 。 (……)


ーーー「日本の詩歌 現代詩集27」(昭和51年 中公文庫)
左より茨木のり子、大岡信、中江俊夫、吉野弘、水尾比呂志、友竹辰、谷川俊太郎、川崎洋



― ― で 、 ホ ン ト か 嘘 か っ て と こ ろ に 話 を つ な げ て い き た い ん で す が ( 笑 ) 、 俊 太 郎 さ ん は エ ッ セ イ な ど で 、 詩 で は 本 当 の こ と を 書 い て い る ん だ け ど 、 な ん か 嘘 く さ い な っ て い う 意 味 の こ と を 、 し ょ っ ち ゅ う 書 い て お ら れ ま す 。 そ れ は ど う い う 感 覚 な ん で し ょ う 。 俊 太 郎 僕 は 詩 を 書 き 始 め た 頃 か ら 、 言 葉 と い う も の を 信 用 し て い ま せ ん で し た ね 。 一 九 五 〇 年 代 の 頃 は 武 満 徹 な ん か と 一 緒 に 西 部 劇 に 夢 中 で し た か ら 、 あ れ こ そ 男 の 生 き る 道 で 、 原 稿 書 い た り す る の は 男 じ ゃ ね ぇ や って 感 じ で し た ( 笑 ) 。 言 葉 っ て も の を 最 初 か ら 信 用 し て い な い 、 力 が あ る も の で は な い っ て い う 考 え で ず ー っ と 来 て い た 。 詩 を 書 き な が ら 、 言 葉 っ て も の を 常 に 疑 っ て き た わ け で す 。 疑 っ て き た か ら こ そ 、 い ろ ん な こ と を 試 み た ん だ と 思 い ま す 。 だ か ら 、 そ れ に は プ ラ ス と マ イ ナ ス の 両 面 が あ る と 思 う ん で す 。(……)
ーー俊 太 郎 さ ん は 八 十 一 歳 ( 十 二 月十 五 日 が お 誕 生 日 ) で す が 、 そ の 年 ま で 自 由 か つ 新 鮮 な 詩 を 書 き 続 け た 詩 人 は ほ と ん ど い ま せ ん 。 先 輩 詩 人 で は 西 脇 順 三 郎 さ ん く ら い か な 。 西 脇 さ ん は 八 十 五 歳 の 時 に 最 後 の 詩 集 『 人 類 』 を お 出 し に な り ま し た が 、 単 に 書 き 続 け た か ら で は な く 、 作 品 の 質 が 高 か っ た か ら 詩 人 た ち の 尊 敬 を 集 め た わ け です 。 俊 太 郎 さ ん が 現 在 ま で 書 き 続 け て お ら れ る こ と に も 、 や は り 理 由 が あ る と 思 い ま す 。 そ れ は ご 自 身 で は ど う お 考 え で す か 。

俊 太 郎) と り あ え ず 大 き な 病 気 を せ ず に 、 健 康 で い ら れ た か ら じ ゃ な い か な 。 大 岡 ( 信 ) は ち ょ っ と 病 気 に な っ ち ゃ っ た し ね 。

― ― 飯 島 ( 耕 一 ) さ ん も 少 し 体 調 が す ぐ れ な い と か 。

俊 太 郎) そ う み た い で す ね 。

― ― で も 身 体 が 元 気 で も 、 書 け な い 時 は 書 け な い と い う の が 物 書 き で し ょ う 。

俊 太 郎) 僕 は 生 活 が か か っ て る か ら ね ( 笑 )。 そ こ が ほ か の 詩 人 と の 大 き な 違 い で し ょ う ね 。

賢 作) 今 は か か っ て な い で し ょ う ( 笑 ) 。

俊 太 郎) う ん 、 今 は 違 う よ 。 で も 基 本 的 に 生 活 を か け て 仕 事 を し て き た か ら 、 ず っ と 書 き 続 け て き た っ て こ と は あ る と 思 い ま す 。 も ち ろ ん 詩 を 書 く 仕 事 だ け じ ゃ あ り ま せ ん け ど ね 。 僕 の 同 世 代 の 詩 人 た ち は 、 大 学 の 先 生 と か 定 職 を 持 っ て い た 人 も 多 か っ た 。 僕 は 書 い て 稼 ぐ し か な か っ た んで す 。

― ― 大 学 で 教 え な い か っ て い う お 話 は あ っ た ん じ ゃ な い で す か 。

俊 太 郎) 某 大 学 か ら 学 長 に な れ っ て い う 声 が か か っ た こ と は あ り ま す よ 。 で も 僕 は 夜 間 部 の 高 校 卒 業 で す よ ( 笑 ) 。 そ れ に 根 っ か ら の 学 校 嫌 い な ん だ か ら 。(……)
賢 作)……他 の 方 の お 話 を 聞 い て い て も 、 詩 の 世 界 で は 谷 川 俊 太 郎 が 一 人 勝 ち し て い る ん じ ゃ な い か と い う 気 す ら し て く る こ と が あ り ま す ( 笑 ) 。 詩 を た く さ ん 読 ん で い な い 僕 が 言 う の も な ん で す が 、 詩 の 世 界 で 俊 太 郎 以 外 に バ リ バ リ 魅 力 的 な 詩 を 書 い て い る 詩 人 は い な い ん で し ょ う か 。

俊 太 郎) 吉 増 剛 造 が い る よ 。

― ― で も 吉 増 さ ん た ち の 世 代 と 比 較 し て も 俊 太 郎 さ ん の 評 価 は 微 妙 だ っ た と 思 い ま す 。 僕 は 一 時 期 詩 の 雑 誌 の 編 集 に た ず さ わ っ た こ と が あ る ん で す が 、 俊 太 郎 さ ん を 詩 の メ デ ィ ア の 中 心 に 据 え る と い う 発 想 も 風 潮 も ま っ た く な か っ た 。 詩 の メ デ ィ ア は 鮎 川 信 夫 を 頂 点 と し て 、 そ の 下 に 田 村 隆 一 、 吉 本 隆 明 と い っ た 『 荒 地 』 派 の 詩 人 ・ 批 評 家 た ち が い て 、 そ の さ ら に 下 に 、 現 実 問 題 と し て 原 稿 を 量 産 し て く れ る 実 働 部 隊 の 〝 戦 後 詩 人 〟 た ち が い る と い う 構 造 だ っ た 。 戦 後 詩 人 た ち が 詩 の メ デ ィ ア の 中 核 だ っ た わ け で す 。 そ こ に と き お り 入 沢 康 夫 、 岩 成 達 也 、 飯 島 耕 一 、 渋 沢 孝 輔 、 天 沢 退 二 郎 、 吉 岡 実 ら の 〝 現 代 詩 人 〟た ち が 加 わ っ て 、 戦 後 詩 と は 違 う 詩 や 原 稿 を 書 い て ア ク セ ン ト を 加 え て く れ る と い う 構 図 が あ り ま し た 。 俊 太 郎 さ ん は 、 怒 ら な い で く だ さ い ね 、 稼 い で い る ん だ か ら 評 価 し な く て い い じ ゃ な い か と い う 風 潮 だ っ た で す 。 あ か ら さ ま に 無 視して い た わ け で は な い で す が 、 俊 太 郎 さ ん の 仕 事 は な ん ら 気 に す る こ と は な い 、 多 く の 読 者 に 詩 が 読 ま れ て い る だ け で 十 分 だ 、 と い っ た 妙 な 隔 絶 感 が 、 少 な く と も 一 九 八 〇 年 代 頃 の 詩 壇 に は あ り ま し た 。

賢 作) 現 代 詩 は 、 そ ん な 残 念 な 世 界 な ん で す か ね ( 笑 ) 。

― ― 今 で は 『 残 念 な 世 界 だ っ た 』 と 言 わ ざ る を 得 な い で し ょ う ね 。 メ デ ィ ア は 否 応 な く あ る 規 範 ・ 指 標 を 若 い 作 家 に 与 え て し ま う も の で す 。 戦 後 詩 、 現 代 詩 風 の 作 品 し か メ デ ィ ア に 掲 載 さ れ な い と な れ ば 、 若 い 詩 人 は ど う し て も そ う い っ た 詩 を 書 く よ う に な り ま す 。 一 九 五 〇 年 代 か ら 八 〇 年 代 初 頭 く ら い ま で は そ れ で も 良 か っ た 。 で も 九 〇 年 代 に 入 る と 戦 後 詩 、 現 代 詩 の 力 が 衰 え て し ま っ た 。 可 能 性 が 尽 き て し ま っ た わ け で す 。 し か し そ れ に 代 わ る 新 し い 詩 の 形 態 を 見 つ け 出 す こ と 、 あ る い は き ち ん と し た 戦 後 詩 、 現 代 詩 の 総 括 を 怠 っ て 来 た 。 そ れ が 今 の 詩 の 世 界 の 衰 退 に 結 び つ い て い る と 思 い ま す 。 ま た そ う い う 状 態 に な っ て 、 よ う や く 俊 太 郎 さ ん の 詩 の 真 価 が 見 え て き た わ け で す 。 詩 の 原 点 で あ り 、 極 め て 多 様 な 試 み が 為 さ れ た 作 品 世 界 で す ね 。 そ れ に 気 付 く の が 遅 れ た 僕 ら も 反 省 し な け れ ば な ら な い 。

 …………



◆詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎 (「現代詩手帖」2008年4月号より)


初雪の浅のようなメモ帳の白い画面を

MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない

そんなのは小説のやること

詩しか書けなくてほんとによかった


小説は真剣に悩んでいるらしい

女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか

それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか

そこから際限のない物語が始まるんだ

こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの

やれやれ


詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ

小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る

のも分からないではないけれど


小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で

抜け穴を掘らせようとする

だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、

子どものころ住んでいた路地の奥さ


そこにのほほんと詩が立ってるってわけ

柿の木なんぞといっしょに

ごめんね


人間の業を描くのが小説の仕事

人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事


小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ

詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが

少なくとも詩は世界を怨んじゃいない

そよ風の幸せが腑に落ちているから

言葉を失ってもこわくない


小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に

宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら

祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ


………… 



谷川さんは多くの愛読者のいる詩人ですから、皆さんの中でもご存じの方はたくさんいらっしゃると思います。現代詩は狭い世界に押しやられているところがあって、今の西脇順三郎もそれほど一般的な知名度があるわけではありませんが、そうした中で谷川俊太郎さんは例外と言っていい。まあ高校の現代国語の教科書に載ってしまっても異和感がないような詩で、まあちょっと世間にサービスしすぎじゃないのかな、こういうのは歌謡曲の作詞家に任しておけば良いんじゃないのかな、なんて僕などはつい意地悪く考えてしまうこともあるのですが、しかしやはり非常に豊かな詩魂、詩の魂をもった大きな詩人であることは事実です。今ここにお目にかけている「世間知ラズ」という詩、これなど先ほどの西脇順三郎のような取っつきにくい呪文のような、なかなかよそ者には入っていけないような、難解の詩の世界から比べますと、非常に平易な、誰にでもすっと読める言葉で書かれている。けれども、これはやはり紛れもなく、現代の詩の成功例であり、傑作の一つと言っていいものだと思うわけです。

この詩は『世間知ラズ』という詩集のタイトル・ピースです。題名がカタカナで「知ラズ」となっているのがまず面白いですね。


自分のつまさきがいやに遠くに見える
五本の指が五人の見ず知らずの他人のように
よそよそしく寄り添っている


と始まります。ベッドに横たわってちょっと目を下に向けて、下目づかいで自分のはだしの足のつまさきを眺めている、そんな光景です。


ベットの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれなかった


たいへん平易な言葉づかいですね。中年ないし初老の孤独な男がベッドに横たわって、そこはかとない寂しさに身をゆだねている。俺は一人っきりだけれども、でも一人で良いんだ、淋しいもんか、と少々子どもっぽく肩をそびやかしている。その後ですね、ここで詩人としての谷川俊太郎さんの、密かな、深い、深い思いがふと吐息のように洩らされます。


行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる


私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう


で、最後の二行、締めくくりとして、


詩は
滑稽だ


と、ゆったりと噛み締めるような口調で断定されている。「行分けだけを頼りに書きつづけて」とありますが、「詩は滑稽だ」と一行で言えることをわざわざ「詩は」「滑稽だ」とまさに行分けで書かれています。これは長いキャリアを持つ谷川さんが最後に、最後にと言ったら失礼で、谷川さんはむろんまだお元気で、いま現在もずうっと詩を書きつづけていらっしゃいますけれども、とにかく四〇年も五〇年も、俳句でも短歌でもないこの現代詩を書きつづけてきた。それをどういうふうにやってきたかというと、行分けだけを頼りに書きつづけてきたと言うんですね。詩が詩であることを何によって保証されるかというと、これは行分けだけになってくるわけです。

何でも自由に書いても良いという自由な詩が、かえって一種の閉塞感に追いやられるという逆説があるというお話を、先ほどしたわけですけれども、自由に何でも書いて良いということになると、じゃあ、それが詩であるということは何によって証明されるのか。単に形式的に、ぽきぽきと行が分けられてゆくということしかないんじゃないか。そういうペシメスティックな認識が生まれることにもなるわけです。これは実はさっき一九〇〇年代の最初のころの初めての口語自由詩、川路柳虹のものが書かれた直後に当時の新聞の批評などを調べてみますと、書かれた当時から、こんなものただの行分けの散文にすぎないじゃないかという批評があったわけです。以来、そういう批評は現代詩につねについて回ってきたんですね。現代詩が生まれた直後から、現代詩を詩として認識するための徴っていうのは、何にもなくなってしまっていたわけです。五・七の定型に凭れかからない、これが一番の大きな徴ですね。それから伝統的な抒情の意識にもレトリックにも寄りかからないということもある。しかしこういうのはみんな「ない」で定義される、つまり否定的・消極的な徴でしかない。ポジティヴには現代詩はどう定義されうるのか。単に行分けの言葉で成り立っているという、それだけのことしか言えないのかもしれないと、そういうアイロニカルな自嘲というか、徒労感ないし疲労感が、現代詩には、その誕生以来、ずうっとまとわりついているんですね。現代詩というジャンルそれ自体の本性に根ざした、「業」みたいなものと言っていい。

そういう中で谷川さんはずうっと詩を書かれてきて、「行分けだけを頼りに書きつづけて四十年/おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心/というのも妙なものだ」と、それこそ軽い行分けのリズムを刻みながら、ちょっとした居直り、それから軽いいなしの身振りみたいなものを演じておられる。それに続く、「私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの/世間知らずの子ども」というのは、これ自体「かっこいい」捨てぜりふなんですね。このあたりに谷川俊太郎という現代詩人の誇りや徒労感や喜びや幻滅や、その他いろんな微妙な感情が表現されているような気がするわけです。何気ない分かりやすい言葉で書かれた詩ですけれども、「行分けだけを頼りに書きつづけて四〇年」、その四〇年という歳月全体にわたって詩人谷川俊太郎の生きてきた時間の厚みが凝縮されているような気もしないではない。「詩は/滑稽だ」と言い放っているわけですけれど、こうした軽やかな言葉で表現された居直りみたいなもの、これはこれでやはり非常に見事な、深く美しい詩的表現と言ってよいのではないか。


2013年5月25日土曜日

月橘の樹


過日、庭師に芝刈りを頼んだついでに、西側の庭にある巨木の細葉榕(ガジュマル)の下枝を払ってもらい、庭がめっきり明るくなる。

二階の書斎からはいままで葉篭りに隠れて見えなかったおびただしい気根が、梢から垂れ下がるのが眼をひくようになり、それら何百本もの細いひものような根がいくつかに束ねらたようにして風に揺れている。雨が降れば雨滴が気根に伝わって流れ落ちる。我が家の樹は樹齢百年を越えるらしいが、このガジュマルは何百年ほどの樹であれば、アンコールワットに見られるように屋敷まで食べ尽くす。気根が地につけばそこから根はすくっと立ち上がり枝を支える形になる(そもそも十八年まえ、アンコールワット遺跡にある樹容に魅せられて、多くの植木屋をあさって選べる範囲での最も古い木を庭に植樹したものだ)。






細葉榕の大樹のまわりは玉砂利で敷いた楕円形の散歩道で、その小道に沿って膝下の高さの灌木が植え込まれていたのだが、巨木の根がその植え込みの下まで這い伸びてところどころ持ち上がってしまい、不揃いで見苦しかったのを、いっそう全部の植え込みを引き抜いてしまって、東側と後庭の壁際に植え替えた。二百本ほどの灌木の移動だが、三人の若い庭師が一日弱で仕上げた(水牛の糞をたっぷりやったせいか、いまだ臭い漂う)。


この樹の名はこちらではQuế と呼んでおり、それで調べても英名や和名がはっきりしなかった。長男にもう少し正確に名を調べるように頼んでおいたら、実際はNguyệt Quếというらしく、それなら英名Orange Jasmine Murraya paniculata(オレンジジャスミン、シルクジャスミン)。和名は月橘〔ゲッキツ〕ということが分かる(いまこうやって備忘のためにメモしているわけだ)。ジャスミンと名がつくが、ほんとうのジャスミン(モクレン科)とは別種(ミカン科)。香りは似ているが、ジャスミンのこちらを包み込むようなまろやかな甘酸っぱさにくらべ、頭の芯を貫くようなつんと尖った芳香で、わたくしは月橘の香りのほうをより好む。それに白く小さな花の後は山査子のような赤い実をつけ、それも好ましい。


月橘の名は花が月夜に特によく香るといわれることからくるらしく、別名九里香とも。こうやって和名を知ると、急によりいっそう大事に育てようと思うようになる。月橘、九里香――、美しい名だ。いままでは植え込みで三ヶ月に一度は刈り揃えていたため、花はわずかしかつけなかった。ジャスミンとくらべて、成長の遅い樹だが、それでもこれら二百本の月橘は十年以上前苗木を植えたものであり、刈り揃えていたため背丈は小さいが幹はかなり太くなっている。樹木は成長の遅いもののほうが枝ぶり、樹幹のくねりが美しい。

今は壁際だ、枝を思う存分伸ばしてもらって、芳香に酔おう、月夜の庭歩きの友としよう。壁際に植え切れずに残った樹を前庭に二本、植木鉢に十本ほど植えたものは、肥料を十分にやってより慈しもう。







そもそも亜熱帯地域の当地の植物はそうじて成長が早すぎて「ゲテモノ」感がある。月橘はその稀な例外の樹のひとつだ。

東京の新緑が美しいといってもとうてい京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。(和辻 哲郎「京の四季 」)


樹というものは、一〇年後、二〇年後の姿を思い描いて慈しむと、長生きするのも悪くないと思うようになる。わたくしはいまだ死を思ったり、残された時間を考えたりする年齢ではないつもりだが、もうお付き合い的なことはいいではないかという気になりつつあるには相違ない(中井久夫「私の死生観」)。すこし前、体調を崩したときに(ほっておいたら脳溢血になる可能性があったらしい)、ある種の感慨が生じた。

フーコーが愛したビシャの言葉、《死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である》(『臨床医学の誕生』)を想いかえしたり、リルケの《昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた》(『マルテの手記』)などの言葉を反芻してみた。

女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ『マルテの手記』)

あるいはわたくしの「十三秒間隔の光り」はなんだろうといささか感傷的に問うてもみた。

…………

十三秒間隔の光り 田村隆一


 新しい家はきらいである

古い家で生れて育ったせいかもしれない

死者とともにする食卓もなければ

有情群類の発生する空間もない

「梨の木が裂けた」

と詩に書いたのは

 たしか二十年まえのことである

新しい家のちいさな土に

 また梨の木を植えた

朝 水をやるのがぼくの仕事である

 せめて梨の木の内部に

死を育てたいのだ

夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む

「未来にいかなる幻想ももたぬ」

というのがぼくの唯一の幻想だが

 そのとき光るのである

 ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上

 大島の灯台の光りが

十三秒間隔に

…………

ふと音楽がきらりと光ることがある、詩句が輝いてみえるときがある。
白い小さな花が宵闇に浮かびあがりはっとしたり、その匂いが風に乗って鼻先をかすめてつかのま陶然とすることがある。


一年ほどまえ、若い詩人が、《不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている/道端の青い小さな花を煮る六月十日は、》と謳った。

昼の灼熱のさかり、次男を学校におくるためにバイクで道をゆくとき、陽炎のゆらめきと太陽の光を十分に吸い込んだ枯草の匂いの「一瞬よりいくらか長く続く間」(大江健三郎)に慄くときがある。

暁方ミセイの詩句を、月橘と柑子の聯想から、もうすこし引用しよう。

……

(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)


何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。



ーーー暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」(「現代詩手帖」2012年06月号)