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2014年9月29日月曜日

ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語り

おまえ、馬鹿だなあ
騙されるなっていっただろう
コメントへの応答だって架空かもしれねえじゃないか
ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語りのバクリだとか、な

《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》

ーー以前、削除してしまった記事、貼り付けておくよ

…………

◆『ドストエフスキー』[著]山城むつみ [評者]奥泉光(作家)より。

本書で著者が分析の主要な武器としたのは、バフチンの「ラズノグラーシエ」なる概念である。「異和」と訳してよいこのロシア語こそがドストエフスキーを読み解く鍵であると著者はいう。では「ラズノグラーシエ」とは何か?

 たとえば、ここに死の床にある男がいる。彼は自分の人生は満足すべきものであったと考えている。そこへ誰かがやってきて、「あなたの人生は満足できるものだった」という。もちろん男はそう思っているわけだし、その声に当然唱和するはずである。ところが、自分でそう思っているにもかかわらず、他人から同じことをいわれたとたん、男は激しい異和に襲われてしまう。他者の声で言葉が響くとき、同じ言葉であるのに、まるで違う、むしろ正反対の意味を帯びて聴こえてしまうのだ。ドストエフスキーの小説の人物たちは、たえずこの「異和=ラズノグラーシエ」にさらされる。つまり自己と他者の間には越え難い閾(しきい)があって、言葉の意味は閾の強烈な磁場のなかでねじ曲がり、言葉が予想のつかぬ運動をして渦巻くのが、ドストエフスキーの小説のあの熱感の秘密だと著者は解析する。

 さらに興味深いのは、小説作者のかたりですら、この異和を引き起こす事実である。死の床にある男。彼の内面を作者はもちろん描ける。透明なかたりでもって、「自分の人生は満足すべきものだった」と男に内語させることは容易だ。ところがドストエフスキーの人物たちは、そうしたニュートラルな作者の声にすら異和を覚える! 彼らは「違う」と作者に向かって反発する。作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがしてしまうのだ。結果、小説はどこへ向かうか分からぬものになり、作家は自己の創造した人物たちとの「対話」をひたすら続けるほかなく、目指す場所へと至る奇跡を祈り願いながら言葉の秘境をさまよい歩く。


◆バフチン「ドストエフスキイ論」(柄谷行人『探求Ⅰ』より)。

この予想して先廻りすることには独特の構造上の特徴がある。それは悪しき無限となる。相手の応答に先廻りするということは結局自分のために最後の言葉を保留すると同じことである。最後の言葉とは主人が他者の視線や言葉から完全に独立している、他者の意見や評価に全く無関心であるということを現わすものでなければならぬ。ところが主人公は、自分がひとの前で懺悔し、ひとの許しを乞い、ひとの判断や評価に頭をさげ、自分の確信はひとの是認や承認を必要していると、ひとが考えはすまいかということをなによりも恐れているのである。こういう傾向を持っているので彼は他者の応答に先廻りする。ところが答えを予想し、その先をこすことによって彼は新たに相手(と自分自身)にむかって自分は相手から独立していないのだということを示しているわけだ。彼は自分がひとの意見を恐れていると、ひとが思いはしないかと恐れる。だがこの恐れによって彼は自分が他者の意識に依存し、自分自身の判断に安んじることはできないことを示しているに他ならない。彼は自分の反駁によって自分が反駁しようとしたことを肯定していることになり、しかしそのことを自分で承知している。ここからきりのない堂々廻りが始まり、そのなかへ主人公の自己意識と言葉がまきこまれていう。《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》である。(バフチン「ドストエフスキイ論」新谷敬三郎訳)

《これは過剰な自意識というものとはちがっている。また、サルトルがいったように、対自存在に対して抗おうとすることともちがっている。《他者》は、「地獄とは他者」(サルトル)よいうような他者ではない。バフチンが、ドストエフスキーの人物たちは他者によってモノ化されてしまう意識の「自由」をぎりぎりのところで確保しようとするのだというとき、どうもサルトル的にみえてくることは否定しがたい。

しかし、実際はその逆のように思われる。彼らが「語る」のは、他者を「説得する」(教える)ことにほかならない。たんに事実言明的constantiveな語りは、彼らにはありえない。《他者》とは、いわば、言語ゲーム(規則)を異にする者のことである。彼らは、何かをしゃべればそれが他者に或る意味(規則)で理解(誤解)されてしまうということを惧れている。だが、彼ら自身のなかに、明示しうるような規則(意味)もないのである。ドストエフスキーの人物たちを緊張させているのは、「教える」ことに存するパラドックスなのだ。

ドストエフスキーの小説が対話的なのは、人物たちが対立しあい多様な意見を「語る」からではなく、そんな意味ではもはや「語り」えないからである。われわれは、言語ゲームを共有するかぎりで語り合うことができ、対立することさえできるだろう。が、もしそうでないとしたら、「他者に語る」ことは戦慄すべき事柄である。ドストエフスキーの人物たちは、誰もが相互にこのような《他者》に直面しあっている。ここでは、客観的な言明も、私的な内面もありえない。むろん、そこから生じる涯しない饒舌の対極に、沈黙(ソーニャ、ムイシキン、ゾシマ長老)がある。だが、この沈黙も、饒舌と同様に、“他者”とのあいだにひらかれた「深淵」(キルケゴール)を飛びこえようとする言語行為なのである。

「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしいうが、異なった言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。》(柄谷行人『探求Ⅰ』P168-170)


……今日まで批評家や研究者はドストエフスキーの主人公たちの思想にとらわれてきた。作家の創作の意志は明確な理論的認識にまで達していない。思うにポリフォニイ小説の迷宮に入りこんだ人びとはみんなそこに道を発見できず、個々の声たちの背後に全体を聞きとれないでいる。しばしば全体の漠然たる輪郭すら捉えられず、声たちを結び合わす芸術の原理は全く耳に入らない。ひとはそれぞれ勝手にドストエフスキイの最後の言葉をあげつらい、しかもみんな一様にそれをひとつの言葉、ひとつの声、ひとつの抑揚〔アクセント〕だと思いこんでいる始末だが、そこに根本の間違いがある。ポリフォニイ小説の言葉を超え、声を超え、アクセントを超えた統一の世界は未開拓のままに残されている。(バフチン『ドストエフスキイ論』)

《ぼくはドストエフスキーのなかに、人間の魂の、度はずれに深い、だがあちこちの地点に孤立している、いくつかの井戸を見出します……あの道化役者たちも、『夜警』の人間とおなじように、照明と服装の効果でしか幻想的ではなく、ほんとうはどこにでもいる普通の人間なのかもしれません。……ただぼくをうんざりさせるのはね、人がドストエフスキーについて語ったり書いたりしているあの肩肘をいからせたいかめしさですよ。あなたは彼の諸人物の内面で演じている自尊心と誇の役割に注意したことがある? 彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです……ドストエフスキーといえばね、さっきはぼくはあなたが思うほど彼から一転してトルストイのことを話しているわけではなく、トルストイはじつは大いにドストエフスキーをまねているのですよ。ドストエフスキーのなかには、やがてトルストイのなかで満面のほころびを見せるものが、まだしかめっ面をした、不平そうな顔で、たくさん詰まっているのです。ドストエフスキーのなかには、やがて弟子たちによって晴れやかにされる、プリミティヴ派のもつさきがけの不機嫌さがあるのでしょうね。》(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

……それはカーニバル独特の時間であり、まるで歴史の時間から飛び出し、カーニバル独特の法則によって流れ、急激な転換と変身とを無限に内包しているところの時間である。かかる時間――もっとも、厳密にいうとカーニバルの時間ではなく、カーニバル化した時間――こそドストエフスキーが彼独自の芸術的課題を解決するのに必要だったのである。彼がその内部の深い意味を描き出したところの閾のうえや広場での事件、あるいはラスコリニコフ、ムイシュキン、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフといった主人公たちは日常の生物学的、歴史的時間では明らかにすることのできないものであった。いやポリフォニイそのものが、それぞれ全権を有し、しかも内的に完結することのない意識たちの相互作用の事件として、時間や空間の全く別な芸術的概念、ドストエフスキイ自身の表現を用いると、《非ユークリッド》的概念を要求したのである。(同バフチン『ドストエフスキイ論』)

…………

◆ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。こういう理由からディスクールにおいてはつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たります。というのは、意味sensは、意味があるのは常にその彼方ですから、むしろその人が言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。


◆柄谷行人『探求Ⅰ』より

言葉が話し相手に向けられていることの意味は、はかりしれないほど大きい。実際、言葉は二面的な行為なのである。それは、それが誰のものであるかということと、それが誰のためのものであるかということの、二つに同等に規定されている。それは、言葉として、まさに、話し手と聞き手の相互関係の所産なのである。あらゆる言葉は、《他の者》に対する関係における《ある者》を表現する。言葉のなかでわたしは、他者の見地にみずからに形をあたえる。と言うことは結局、みずからの共同体の見地からみずからを表現する。言葉とは、私と他者とのあいだに渡されたかけ橋なのである。もしそのかけ橋の片方の端が私に立脚しているとすれば、他方の端は話し相手に立脚している。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである。

だが話し手とはいったいなにものであろうか? たとえ言葉が全面的にはその者に属さないーー、いわば、彼と話し相手の境界ゾーンであるーーにしても、やはりたっぷり半分は言葉は話し手に属している。(パプチン「マルクス主義と言語哲学」桑野隆訳)

いうまでもなく、彼は、話し手と話し相手の両方が同時にみえるような「客観的」立場に立っているのではない。むしろ、“対話”とは「命がけの飛躍」であり、「私と他者とのあいだに渡されたかけ橋」は、それを渡るというより飛びこえるほかないものだといわねばならない。「言葉が話し相手に向けられているということ」は、話し手自身にとって「意味している」という特殊な内的経験などは存在しない、ということを意味する。フッサールがいうような「孤独な心的生活」においては、意味というものが“意味をなさない”のだ。そのかぎりで、“対話”は、独我論(方法的独我論=現象学)に対する決定的な批判の視点となりうるだろう。それは、われわれが「教える」側の視点と読んだものにほかならない。

パプチンは、近代の哲学・言語学・心理学・文学などは、すべてモノローグ的であり、単一体系性のなかに閉ざされているといっている。それに対して、彼は、ポリフォニックな、多数体系性を対置する。個人の意識に問いただすかぎり、われわれが見出すのは、きまって単一(均衡)体系である。ニーチェがいうように、「私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(『権力の意志』)からだ。しかし、多数(不均衡)体系を、たんにそれに対置するだけでは、何もいったことにならない。P21-22

柄谷行人は後年、次のように書いている。

前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これはカントの「無限判断」、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」、さらにはジジェクによればラカンの非-全体の論理に関係する(参照:「密閉した全体じゃない」)。

ドストエフスキーの「他者」が超越論的な他者であるなら、ドストエフスキー小説の語り口は超越論的であるといえるだろうし(もちろんそれだけではない)、それは「無限判断」、「家族的類似性」、「非-全体の論理」にもかかわる。

カントの哲学は超越論的――超越的とは区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

「超越論的」とは、すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)ということになる。

ここで浅田彰の発言を挿入しよう(共同討議『トラウマと解離』 2001)。

メディア環境がどんどん解離的な状況を作り出す方向に向かっているのは、よく言われるとおりで、かなりの程度まで事実だろうと思います。メディアに接続することで、ここにいる自分とメディア空間の中の自分が多数多様なペルソナーー場合によっては性を年齢も異なったーーを演じ分けることができる、云々。

また逆に、そこから人間自身の捉え方も変わってくるんですね。統一性のもった心身で手ごたえのある世界を体験する、それこそがリアリティだと言うけれど、哲学的に反省してみれば、実はそれもヴァーチュアル・リアリティのひとつに過ぎない、と。

そもそも、人工知能のパイオニアのミンスキーが『心の社会』という表現を使っているように、心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるけれど、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ、と。(……)人口知能で複数のモジュールを並列的に走らせる実験から逆に類推して、人間だって同じようなものだと考えるわけです。

こうした流れが、フロイトからジャネへの退行にもつながるわけでしょうし、柄谷行人流に言えばカントからヒュームへの退行につながるわけでしょう。ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、と考えている。自己の一貫性と言ったって、選挙で内閣が替わっても外国との約束は引き継ぐという程度のものだ、と。ヒュームによるそういう徹底的な解体の後に、カントが、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図るわけですね。(……)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。


木村敏『時間と自己』より

われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら!きのううだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。

ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』P150)







2013年9月25日水曜日

音楽と「ま」ヌケな若い精神科医

・木村敏がよく言う「合奏しているときに、自分と他人はともに〈あいだ〉としか呼びようのないものになっていて、そこに自他の区別はない」みたいな話、ものすごくヘタクソなミュージシャンな感じがするのだが、これは私だけだろうか?

・例えばギタリストの場合、ほんとに上手い人は、弾いてからシールドを介してアンプから空気振動に至るまでの数〜数十msの遅れを意識してものすごく自己反省的に弾いているという人にしか出会ったことがないし、その遅れに対する反省性がないアンサンブルとかクソとしか思えないのだが。

・これは別に音楽の話にかぎるわけではなく、木村敏的な生命論に対するラカン的な対立軸(すなわち、言語の壁は不可避でありそれを無視してはいけない)という話とパラレル。

などと相対的には聡明な若い精神科医が、インテリのパチンコをしているのを見てしまったな

パチンコもときにはよい。中井久夫はこう書いている。

ある程度本格的な企画の場合に、初期高揚だけで完成することは決してと言ってよいほどない。しかし、この時期に「パレット」をできるだけ充実させておくことがずっと後で生きてくる。「パレット」の充実には、聞き手がいるとずっと楽である。独りでは限界がある。ここにも一つ、編集者の「治療」の有用性がある。

これは、「自由連想」をさせて、「抵抗」を破って、「徹底操作」をして「洞察」に到達せしめる精神分析治療に似た過程であると私は思う。「自由連想」とは編集者との駄べりである。

「自由連想」は、主題やキーワードの持つ意外な側面を明らかにし、新しい可能性を開く。著作というものは、発端に立った時に終点まで見通せる直線道路のようなものではない。そういうものであれば、おおよそ詰まらないものだろう、予期外の転回に引かれて読者は読み進むものである。「自由連想」によってこれから書く領域の思わぬ複雑なひだひだが見えてくれば成功である。

「抵抗」にはいろいろある。怖い批評家の言葉の先取りもある。従来の自説が足を引っ張ることもある。ある箇所がとうてい越せない難所に見えることもある。ある部分についての知識が絶望的に欠如していると思うこともある。これらは、みな「抵抗」である。しかし、対話のうちに、難所もさしたるものでないようにみえてくる。ある部分は回避してもよいことがわかる。あるいは違った接近法がよいと知れる。このように「抵抗」を言語化し吟味することが「徹底操作」である。そうすると、この課題でこのようなものなら著者にもできるという、「現実原則」に則った「洞察」が生まれる。この手続きなしで、編集者が「ま、よろしくお願いします」で引き下るとロクなものができない。

編集者は地方にはいないが、その代わり、さいわい、私は大学教師で、周囲に若い人がいる立場にあるので彼らを大いに利用させてもらっている。私のほうが聞き役になることもむろんある。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

いまでは、そんな律儀な編集者やリアルな仲間のたぐいは稀にしか存在しないのだろうから、SNS上で「自由連想」の聞き役を求めたらいいのであろう。ただ「パチンコ」の玉を真に受ける相対的には聡明さの劣るひとたちがいるのであって、冒頭のツイートの「<あいだ>抜け」の思考、「あいだ」、つまり「ま」なのだから、ここでは「まヌケ」と呼ばせてもらうが、それを短絡的にマに受けたらまずいだろう。


高橋悠治の音楽をめぐる掠れ書きは、その多くが「身体」論であり、その多くは「あいだ」論であるとしてもよいのではないか。


音楽は「あいだ」のものだから 地図のない道 全体のない部分 座をつなぎ 場をつくるもの 即興とその記録のあいだで どっちつかずにゆれている(高橋悠治「冬のなかで2009年」)
聞こえる音のなかから、いくつかの音のかたちをききとる。それらの音を指先でなぞりな がら、音のうごきを身体運動と内部感覚に移し替える。そのよ うな経験からはじめて、 そこからちがう軌道に踏み出してみる。停まりそうになったら、どこかにもどってやりな おす。このプロセスは即興でもあり、 作曲でもある。即興はその場の聴き手の共感が感 じられるあいだはつづく。聴いているひとたちの自発性が、じっさいはその即興に干渉し、 その道筋を つけている。失速しないうちに、完結しないように、音を中断して、想像力だけがまだしばらくはうごきつづけて、どこともなく消えていくように誘う のはむつか しい。

作曲は、計画された即興とも言える。楽譜に書かれた音のかたちは、一定の意味や情報と 言うよりは、さまざまに見えるインクのしみのようだ。演奏は 一つの見かたにはちがい ないが、それがまたさまざまな聞こえかたや聴きかたにひらかれている。聴き手の主体性 をスペクタクルで惑わしたり、反復パ ターンで麻痺させれば、演奏は支配の道具になっ てしまう。聴くよりどころになる回帰するパターンは、筋感覚的運動イメージと同時に起 こる。それは 個人の内側のもの、一人称的表象と言われているらしいが、むしろ無人称 の視覚像にならない感覚ではないだろうか。回帰はただの反復ではなく、もと もと隠れ ていた逸脱の芽、わずかな歪みが、回帰のたびにちがう回路をひらくように仕組まれてい る、それはベンヤミンが書いていたカーペットの模様 のほころび、あるいは ラドクリフ =ブラウンの注目した籠の編み残した目、「魂の出入り口」。(掠れ書き
演奏によって死んだかたちをふたたび生かすのは、まだやさしい。再現や解釈ではなく、 と言って、まったくの即興でもなく、反復でもなく、循環しな がら即興的に変化し、伝 承されたかたちを崩しながら、卵の殻からちがう運動を呼び覚ます、そんな演奏のありか たを思い描くことはできなくはない。 響きが消えるまでの短い時間のなかに生きる音楽 にとっては、演奏こそが本来のありかたで、作曲は補足的なもの、演奏への指示と結果の 記録が、その 分を越えて、それだけが創造であるようにふるまっているのだとも言える。

音楽の変化が現場からはじまるとすれば、それは歴史的身体の必要に応じて変化するだろ うし、指示や記録方法の不適切は、後になって気づくこと、つ まり作曲法の変化は、演 奏の場の変化にいつも遅れて起こることになる。20 世紀音楽史は、そうしてみれば転倒 しているのではないか。それなら、そ こに登場する作曲家や作品をエリート主義として かたづけられるのか。ポップミュージックまで視野をひろげてみれば、実験とそのデザイ ン的な応用と の相互作用は、コマーシャリズムや音楽ビジネスというだけではなく、表 層文化の両輪が噛み合いながら回っていく。この音楽装置のなかで、相対的に 自律でき る場があるのか、そんな可能性は思い込みでしかないのか。(掠れ書き (2010.6-2013.6) )

あまりにもたくさんあるので、ここでは三つだけの抜き書きにするが、高橋悠治だけでなく、武満徹をつけ加えよう。

私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態(『音、沈黙と測りあえるほどに』)

もっとも、これらが木村敏の「あいだ」とほとんど同じことを言っているのかどうかは、木村敏のよい読者ではないわたくしには分らない。しかし冒頭のツイートの演奏の場での「自己反省的」などという語句が通用しない世界のことを語っているには相違ない。



表現と間(前) ―精神医学に学ぶ音楽教育論吉野秀幸」 という木村敏の音楽論に依拠した論によれば、木村は、「ある程度の水準をもった演奏者同士が合奏する場合、三つの段階が想定できる」としているそうだ。


詳しくは論をみてもらうことにして、最後の第三段階はつぎの如し。


初歩段階の正確さにとらわれた 緊張はもちろん,楽譜や相手に合わせようとする意識すら消え去り,各演奏者が外部的規 準に拘束されず,純粋に自発的で主体的なノエシス・ノエマ的創造行為を遂行している段 階である。この段階では,各自がそれぞれの力量や技術を発揮して自らの行為を瞬間ごと に実現し,しかもその結果として一つのまとまった自然な流れとしての合奏が成立する。 このような境地に達することはなかなかないことかもしれぬが,ときに瞬間的に実現する ことがあることをわれわれは確かに知っている。

《ギタリストの場合、ほんとに上手い人は、弾いてからシールドを介してアンプから空気振動に至るまでの数〜数十msの遅れを意識してものすごく自己反省的に弾いているという人にしか出会ったことがない》などとパチンコをする人物は、おそらく「このような境地」が実現することがあるのを知らない人物ということなのだろう。まあ、それはそれでよい。世間にはいろいろな種族がいる。だが「自己反省的」などという語句を書いてしまうのは、いかにパチンコであろうと、まずいのではないか。ベンジャミン・リベットの論を知らないわけでもあるまい。そもそも音楽演奏の場が自己反省的な心持だけで対応できるなどとは、初心者の場合だって考えにくい。

八十歳を越える高齢になってから最近にわかに脚光を浴びているベンジャミン・リベットの仕事によれば、意識はせいぜい二〇~四〇ビットの情報で理性的・倫理的判断を行うのであり、これが「エゴ」であって、エゴはそれに〇・五秒先行する一〇の七乗ビットの「セルフ(私のいう〈メタ私〉か)の判断を受けて、あたかもおのれが今リアルタイムで行っているかのように判断するという。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」より)

意識と複雑性との関連は、「意識は、事物があまりに複雑になると、這入り込まねばならなくなる」といった事実にではなく、その反対に、意識は複雑性の根源的な<単純化>の媒体であるという事実に、存在しているのである。意識は、優れて「抽象」の、一対の単純な形象へのその対象の還元の、媒体なのだ。
.
ベンジャミン・リベットの(正当にも)有名な実験は、これと同様の方向性を有してはいないだろうか? 彼の実験を興味深くしているのは、その結果が明白であるとはいえ、それが<何にとっての>議論なのかが明白でない、という点にある。次のように論ずることができるだろう。リベットの実験は、どのような意味で自由な意思が存在しないのかを証明する、と。すなわち、私たちが(例えば、指を動かすといったように)意識的に決断する前に、すでに適切な神経過程が動き始めており、〔その意味で〕私たちの意識決定とは、すでに進行していることに気づくこと(すでに為されたことへの余計な権威づけをおこなうということ)に他ならない、と。(ジジェク『身体なき器官』)


あるいは、スポーツ論における伊藤正男の「無意識」や、オートポイエーシスをめぐる河本英夫の「気づき」を知らないわけではあるまい。

河本英夫は、《「気づき」は行為に伴う調整機構であって、自己意識(自己反省・自己言及)」とは異なる(そこを混同するな)ということが書かれている。これは重要だと思う。自己意識は行為を滞らせるが、気づきは行為のなかにある》(偽日記)としているそうだ。

荒川修作の《意識とは「躊躇」の別名》という名言だってある。自己反省=躊躇などしていたら、どんな演奏を聞かされることになるというのだろう。

ラカンならこう言う。

意識にかんして、前意識を構成するもの、世界をわれわれの思考によって緊密に織り上げられたものにするものにたいして、意識は主体の中心であるものが外部から自らの思考、自らのディスクールを受け取る表面であると言える。意識はむしろ無意識が前意識から来るものを拒否するため、もしくは無意識が意識において十分の必要なものを詳細に選択するためにあるのである。(『同一化セミネール』)

すくなくとも「自己反省的」ではなく「身体反応的」と書くべきではないかね、ラカン派のひどく優秀な<きみ>よ

ーーここではあえて二人称代名詞や隠された一人称を使って、イマジネールかつパラノイア的な投壜通信としよう。

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

パラノイア、すなわち「自己非難」に裏打ちされているということだ(すくなくとも、そろそろ、こういった時間の無駄遣いはやめなければならない)。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))



さて、木村の音楽論をめぐる小論に戻れば、次のように木村から引用されて説明が加えられている。


「最後の理想的な段階では,それぞれの演奏者がすべて各自のパートを独自に 演奏しているという確実な意識を持っているだけでなく,他の演奏者すべての演奏をまと めた合奏音楽の全体すら,まるでそれが自分自身のノエシス的自発性によって生み出され た音楽であるかのように,一種の自己帰属性をもって各自の場所で体験している。しかし その次の瞬間には,音楽全体の鳴っている場所がまったく自然に自分以外の演奏者の場所 に移って,演奏者の存在意識がこの場所に完全に吸収されるということもありうる。音楽 のありかがこのようにして各演奏者の間を自由に移動しうるということは,別の言い方を すれば,音楽の成立している場所はだれのもとでもない,一種の「虚の空間」だというこ とになる」 (木村敏『躁鬱病と文化/ポスト・フェストム論』2001)


《 「虚の空間」とは,木村によれば「あいだ」である。しかし, 「虚」と言われる以上,そ れは単なる空白の隙間ではなく,もちろん視覚的に捉えられる空間でもなく,それと指し 示すこともできない。すなわち「虚の空間」とは,実体としては( 「もの」としては)知 覚し得ないけれども,にもかかわらず演奏者にとっては確かに存在すると実感できる場所 である。このことを木村は, 「ずっしりと重みのある,実質的な力の場」 26)と言い表して いる。一体それはどこにあると言えばよいのであろうか。  木村は述べる。 「そういう状態の時に[第三段階において] ,音楽がどこで鳴っているか というと四人の間[カルテットの場合]で鳴ってるんじゃないか」 27) 。あるいはこの場所 のことを「自分と相手のあいだのだれもいないところ」 28)とも言っている。だが一方,彼 はつぎのようにも語っている。 「…音楽が鳴る「あいだ」とは,各自の内部にあって,同 時に各自のあいだにもあるという,不思議な場所だということですね」 29) 。つまり,こう いうことなのである。 「実在の物理的空間に定位不可能なこの「虚の空間」は,いわばす べての演奏者がそこから「等距離」にあるような場所である。合奏全体を一つの閉じたシ ステムと見なせば, それは各演奏者の「あいだ」であると言ってよい。だがこの「あいだ」 は,ノエマ的な空間の内部で個々の演奏家を隔てている間隔とは違って,決して各自の外 部に定位されるものではない。この「あいだ」には明瞭なノエシス的自己帰属感が伴って いる。各演奏者はそれをむしろ,各自の行為的自己の「内部」として体験している。それ は,各自の内部に見出されながら各自のあいだにも見出されるという不思議な場所なので あって,この不思議さは,それが本来ノエシス的な現象であるのにノエマ的にしか意識さ れないという,その二重構造から来ている」30)》



これらを読むと、武満徹や高橋悠治とほぼ同じようなことを語っているという錯覚に閉じこもってしまう。


精神科医でもあるグールド論の著者シュネデールは次のように書いている。

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである。留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。逃れ去る女。北の茫漠とした風景にたれこめる灰色の霧がすぐに包み隠してしまう太陽光線のはかなさ。光が死に絶えても、なおあとに残る不定形のうごめき。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

聴取だけであっても、こういった経験はクラッシック音楽だけのものではないのではないか。


冒頭の一連のツイートのあと、しばらく置いて、若い精神科医はつぎのように呟いている。

木村敏はこのあいだ「フロイトの死の欲動は小文字の死しか扱ってない。俺が扱うのは大文字の死」って言ってるのをみて末代まで呪うことを決めた。

つまりは「自己反省的」ではなく、「身体反応的」に書かれたツイートであることを白状しているのだろう。


ラカンが「大文字の死」を扱っていないかどうかは、わたくしの知るとろこではないが、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとされる。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだらしい(伊藤正博「ラカンの《第二の死》の概念について」による)。

この見解に従えば、現実界的(リアル)な「死」は、扱っていることになる。

木村敏の「死」をめぐる議論については、いま唯一手元にある小さな本の「あとがき」に次のように書かれている。

私はつねづね、人間に関するいかなる思索も、死を真正面から見つめたものでなければ、生きた現実を捉えた思索にはなりえないのではないかと思っている。もちろん、この死というのは個人個人の有限な生と相対的に考えられた、個別的生の終焉としての死のことではない。生の源泉としての死、生が一定の軌跡を描いたのちに再びそこへ戻って行く故郷としての死、私たちの生にこれほどまでの輝かしさと、同時にまたこれほどまでの陰鬱さを与えている包括者としての死のことである。私たちの生は、その一刻一刻がすべて、この大いなる死との絶えまない関わりとして生きられているのであろう。

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。

夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないか。(木村敏『時間と自己』)