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2014年2月13日木曜日

死んだ文章

わたくしはつねづね思うのだが、「貴君」は、誠実に、正確に、論理的に書こうとするあまり、生きた文章が書けていない、死んだ文章なのだ。

この「貴君」とは、わたくしがそう書く場合、自己吟味も含んでそう書く場合が多いのだが、今回はわたくしのことではない。すなわち論理的に、誠実に書こうとしたことなど稀なわたくしが「貴君」のなかに含まれるわけがない。だが生きた文が書けているかどうかは、わたくしも自信がないという意味では、いくらかわたくしも含まれる。生きた文章とは「身体」からくるものだ。

二十世紀においてもっとも「生きた文章」の書き手のひとりであったろうセリーヌを真似してみなさいなどと忠告するつもりはないが、ここでは次の文章を引用しておこう。

《読者はせいぜい自分で按配していただきたい……時間も! 空間も!》(セリーヌ『北』)


《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(同セリーヌ)

セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などと言われるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときの驚き、――あの工夫は論理が固着しないためのすぐれて生成変化的な方法だ。


『なしくずしの死』が発表された当時、セリーヌ と対立していたモスクワ の左翼 ジャーナリスト ・ピエール=シーズでさえ、大賛辞を送ったのだ。

この驚くべき嘆声、この底知れぬ呻き、抑えがたく響きわたり、ページを追ってますます高鳴りゆくこの絶望の叫び、これこそは今まさに人類が発している赤裸々な叫びそのものである。(……)
セリーヌ を嫌うものは誰か?おお! 私は連中のことなら百も承知だ、一人残らず。それはこの人生の一切を容認し、何事にも逆らわず、あらゆる卑劣と妥協し、あらゆる不正に目を塞ぐ、あの数え切れない愚者の郡だ!--おとなしく、諦めきった、生ぬるい連中--あの神にも唾棄される連中だ!--満ち足りた、おめでたい、何不足ない連中だ。(……)

セリーヌ は、彼は何物をも容認せず、抗い、反対し、罵り、怒号する種族である。(……)
怒りを爆発させ、破城槌のように叩きつけるこの狂憤の書、われわれは到底その輪郭を測り知ることもできないだろう。地獄とは希望の剥奪のことであるというのが本当なら、これこそは悪魔の書である。これは人生の提起するあらゆる問いに対して浴びせられた大いなる≪否ノン!≫だ。(……)


セリーヌ よ、あなたは今こそ欲するままに語り、行動するがいい、あなたは人類の絶望に声を与えたのだ。もはや黙することのない声を。(……)
あなたがわれわれの努力をいかに非難しようとも私ははっきり言っておこう、≪あなたはわれわれのこの仕事を助けることになるのだ≫と。(ルイ-フェルディナン・セリーヌ 『なしくずしの死』-訳者解説-より)

バルトにいわせればエクリチュールとは生成変化するものだ。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

ニーチェの音調、--翻訳で読むだけなのに、なぜあれほど快いのだろう。


ひとは何よりもまず、この人物の口から発せられる調子、あの晴れた冬空に似た静穏な調子を、正しく聴きとらねばならぬ。そうしてこそ、かれの英知にふくまれた意味をみじめに誤解することがなくなるのだ。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだーー」

「いちじくの実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。

このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さあ、その果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――」

ここで語っているのは、狂信家ではない。ここで行われているのは「説教」ではない。ここで求められているのは信仰ではない。無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくるのだ。ねんごろの緩徐調が、この説話のテンポだ。こういう調子は、選り抜きの人々の耳にしかはいらない。ここで聴き手になれるということは、比類のない特権だ。ツァラトゥストラの言葉を聴く耳をもつことは、誰にでも許されていることではないのだから……。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

バルトはまた概念/生成の二項対立のようなものとして次のように書く。まず文章から生成変化させねばならない。

彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)

セリーヌとは逆に、つねに気品を保つ文章を書く中井久夫だが、たとえば松浦寿輝は次のように言う。

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。(松浦寿輝『クロニクル』)

だが、中井久夫の文章に親しめばすぐ分かるように、その「風味絶佳」には「身体的な」工夫がある。

私は匿名で二十代に三冊の本を書いているが、この時の文体は現在でも私の基本文体である、その名残りは、私の文章にアリテレーション(頭韻)が比較的多いことにもあるといえそうである。英語は詩はもちろん、散文にもこれが目立つ。 Free and fairとか、 sane and sober societyというたぐいである。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

もちろんこれだけではない。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

一度、「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)の冒頭の文の音韻などの工夫をみてみてことがある。

まあこんなややこしいことはいわずにも、そして趣味の問題もあり、文学的な感性の問題もあるのだから、押しつけるつもりは毛頭ないが、では、たとえばヴァレリーを引いておこう。破綻を怖れていては、説得力は生まれないことが多いのではないか。

「おお、パイドロス、きみはかならずや気がついたことがあるはずだ、政治に関することであれ、市民の個人的利害に関することであれ、もっとも重要な論議のなかで、あるいはぎりぎりに切迫した状況で愛するひとに言わねばならぬ微妙な言葉のなかで、―― そう、きみはたしかに気がついたはずだ、そういう言葉にはさまれるごくささやかな言葉やこの上なくわずかな沈黙が、どれほどの重みをもち、どれほどの影響力を産み出すものかということを。相手を説得しようという飽くなき欲求とともに、あれほどしゃべりまくったこのわたしにしても、とどのつまりはこう納得したのだ、この上なく重大な論拠も、どれほど巧みに導かれた論証も、一見無意味なこうした細部の助けを借りなければ、ほとんど効果がないということを。また逆に、凡庸な理屈でも、機転のきいた言葉や王冠のように金色に塗られた言葉のなかにちょうどうまい具合に吊りさげてあれば、長いあいだ耳を愉しませてくれるということを」(ヴァレリー「エウパリノス」清水徹訳)


「他者」としての言葉を書き連ねるうちに、突如その細部が艶かしい運動ぶりを示してしまう、筋の持続を散逸させかねない描写の自己増殖、因果論的な意味の開花を超えたイメージの喚起性。訳知らず細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起ってしまう。もちろん言葉が独走するといっても常に迅速さを齎しわけではない、それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起る。これがエクリチュールというものだ。

書くことは〔エクリチュール〕とは意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。(『千のプラトー』ーーエクリチュールをめぐってのいくつか


2013年11月9日土曜日

装われた洒脱さ

佐藤氏は芥川氏を窮屈なチョッキがぬげぬ人と評したが、芥川氏は佐藤氏を、あんまり浴衣がけだと評したそうだ。僕としては佐藤氏の浴衣がけにしばしば涼風が訪れたとは信じないのである。(小林秀雄「佐藤春夫論」『作家の顔』所収)

わかるかい、この感じ? 
誤読かもしれないがね、たぶんこうだね
洒脱さを装って「オレ」などという一人称単数を使う奴がいるだろ?
おそらくそういった手合いのことだな
ここにもいるぜ

柄にも似合わず鹿爪らしい文章書いていて
それに照れくさくなり一息いれるために
「オレ」とするのだが
オレという浴衣はたいして涼しくないんだよな
修業が足りないね

いまさら江戸っ子風の粋な石川淳の文体模倣してもラチが明かないからな

久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保万さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元来さういふ気合のひとであつた。この気合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが万太郎」『夷斎小識』所収)

《日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。》(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーところで石川淳の浴衣がけは涼しそうかね?
それだって疑わなくちゃあいけない


セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などとされるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときのあの驚き、ーー《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(セリーヌ『北』)。

ってな具合には石川淳でもなかなかいかないのさ

いずれにせよそのあたりにいる修業の足りない手合いには

「おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい

人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで

洒脱さを気取った浴衣姿で余裕たっぷりのふりして」

って皮肉ってやらないとな

もっと滲まなくちゃ





もっと滲んで  谷川俊太郎


そんなに笑いながら喋らないでほしいなと僕は思う

こいつは若いころはこんなに笑わなかった

たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ


おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい

人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで

いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり


昔おまえはもっと滲んでいたよ

雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた

分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった


今おまえは応えてばかりいる

取り囲む人々への善意に満ちて

少しばかり傲慢に笑いながら


おまえはいつの間にか愛想のいい本になった

みんな我勝ちにおまえを読もうとする

でもそこには精密な言葉しかないんだ


青空にも夜の闇にも愛にも犯されず

いつか無数の管で医療機械につながれて

おまえはこの文明の輝かしい部分品のひとつとなるだろう



          (『世間知ラズ』より)


2013年10月4日金曜日

日本術語「統合失調症」の”区切り”

歴史学と精神医学の”区切り”」に引き続く

schizophrénie を最近の精神医学はなぜ「統合失調症」と訳すのか。精神は一つの統合だって? 病気になったらそれが失調するのか? これには強い異議がある。scizo は分裂のことであって、分裂には積極的な意味がある。精神が有機的統合であるなどとは日本医学の思い上りである。(鈴木創士)
異言という意味のグロッソラリーをどうして精神医学は舌語と訳すのだろうか。気違いは舌がもつれるからか。彼がらりっているなら気違いではないことになる。それにしても何か感じの悪い訳だ。人を見下しているような訳語が精神医学には多い。統合失調症だってそう。正常人!は失調したりしないからね!(同上)

 

ラカンは日本的なものの本質が「サンブラン=見せかけ」であることを見事に見抜いています。意味を生成するシニフィアンとは異なり、見せかけゆえに連鎖せず、論理を構成することもできない。例えば先ほど述べた「統合失調症」という名称は「見せかけ」です。その名称のなかに病の本質を表わすものは何もありません。そもそも統合が失調する病気ではありません。むしろ統合しすぎるといった方が適切かもしれません。しかもこの用語は schizophrenia の翻訳にすらなっていません。

このように、この国では「見せかけ」が巧みな形でわたしたちの日常生活のなかに侵入してきているので、日頃から注意深くシニフィアンとサンブラン(見せかけ)を峻別していないと簡単に騙されてしまいます。(藤田博史

かくの如く、「統合失調症」の語彙は一部ではいまだ評判が悪い(冒頭にあえて非専門家のツイートを引用したが、これがいままで「精神分裂病schizophrénie 」の語彙に思想書などで馴染んできたひとの典型的な感想だろう)。


「ああ!ご主人が入れ替わっただけ!安ぴか物をごまかすのはお手のもの!たいして暇はかからなかった!新参の女衒どもがまたしても演壇に上がったのだ!…新しい使徒たちを見てみろよ!…太鼓腹で密告者ぞろいだ!…地球は厄介払いされるだろう…いやはや連中は何の役にも立たなかったのだ」(セリーヌ)


だが「統合失調症」は、「統合」が「失調」する病なのではなく、精神を無理に「統合」しようとして「失調」する、という読み方もある。


ラカンの“desire of the Other“がdesire for the Otherなどでもありうるように。

《It is only with Hegel that the fundamental and constitutive “reflexivity” of desire is taken into account (a desire which is always already desire of/for a desire, that is a “desire of the Other” in all variations of this term: I desire what my Other desires; I want to be desired by my Other; my desire is structured by the big Other, the symbolic field in which I am embedded; my desire is sustained by the abyss of the real Other‐Thing》(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)


――ということは仄聞するかぎりでも、専門家内で既に多く語られてきたはずだが、それにもかかわらずの批判ということなのだろう(ここでは専門家による批判のことを指している)。

統合失調症」については,異論はいろいろありうるだろう。躁病もうつ病も統合の失調ではないか。神経症や人格障害はどうなんだ,というふうに。また,認知行動障害として精神障害をとらえる見方に偏りすぎていないかという考え方もあるだろう。

しかし,私はいま,全体として進歩であると評価する立場に立つ。

いかにも,統合失調はこれまで「分裂病」と呼んできたものに限らない。しかし,では「不安」は「不安神経症」に限られたものであるか。「糖尿病」など,尿に糖が出るかどうかは第二義的なことではないか。しょせん病名とはそういうものと割り切るしかなく,あまりな見当はずれや社会的に差別偏見を助長するものを避ければよいのである。「精神分裂病」はSchizophreniaの「直訳」とはいえ,日本語にすると,多重人格と受けとられかねない。見当はずれと偏見助長の2つの罪は,やはりまぬがれなかったであろう。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが,これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。

「統合失調症」とともに,この障害のとらえ方の重心は,はっきり機能的なものに移った。この重心移動は当面は名目的なものであるかもしれないが,やがてじわじわと効いてくるだろう。

「失調」は,「発病」「発症」の代わりにすでに使われていたことばである。患者・家族への説明,あるいは治療関係者同士の会話では日常語であったと言ってよい。「失調」は「精神のバランスが崩れる」という意味である。「回復の可能性」を中に含んでいることばである。「希望」を与えることばは,患者・家族の士気喪失を防ぐ力がある。治療関係者も希望を示唆することばを使うほうが,治療への意欲が強まるだろう。

実を言うと,カルテに,診断書に,文章に「精神分裂病」と書くたびに,これは書く私の心臓にもよくないと思ったものであった。患者・家族に告げる時には「健康なところもいっぱいあるよ」という当たり前のことをわざわざ付け加えなければならなかった。

患者・家族の身になってみると,「精神分裂病」が絶望を与えるのに対して,「統合失調症」は,回復可能性を示唆し,希望を与えるだけでなく,「目標」を示すものということができる。

「統合」とは,ひらたく言えば「まとまり」である。まず「考えのまとまり」であり,「情のまとまり」であり,「意志のまとまり」である。その「バランス」を回復するという目標は,「幻覚や妄想をなくする」という治療目標に比べて,はるかによい。まず「幻覚・妄想をなくする」という目標に対しては,患者・家族はどう努力してよいかわからなくて,困惑し,受身的になってしまう。これが病いをいっそう深くする悪循環を生んでいたのではないか。これに対して,「知情意のまとまりを取り戻してゆこう」という目標設定に対しては,患者ははるかに能動的となりうる。家族・公衆の困惑も少なくなるだろう。患者と医療関係者との話し合いも,患者の自己評価も,家族や公衆からの評価も,みな同じ平面に立って裏表なしにできる。誰しも時には考えのまとまりが悪くなり,バランスを失うことがあるはずであるから,病いへの理解も一歩進むだろう。

また,治療関係者間のコミュニケーションも,この比重移動によって格段によくなるのではないか。看護日誌も幻聴や妄想の変動を中心にすることから,「考えのまとまり」をたずね,「感情のまとまり」「したいこと(意志)のまとまり」をたずねるほうが前面に出てくるだろう。そうなれば,医師や臨床心理士,ケースワーカーとのコミュニケーション,あるいは家族との語り合いも,同じ平面に立ち,実りあるものとなっていくと思う。

せっかく名を変えるのである。これは名を変えることの力がどれだけあるかという,1つの壮大な実験である。実験であるが,同時にキャンペーンでもある。できるだけ稔りあるものにしたいと思う。(「統合失調症」についての個人的コメント 中井久夫

中井久夫はさらにこうも語っているようだ。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』


ここで「自閉(Autismus)」をいう語が出てくるが、「統合失調症」の命名は、「自閉症」をも含めたもので先進性がある、と語っているのかどうかは、わたくしには窺いしれない。

いずれにせよ、日本術語の「統合失調症」は、「歴史学と精神医学の”区切り”」で触れた新しい「区切り」の試みとして捉えることもできる、ということではないか。

「統合失調症」を「スキゾフレニアschizophrenia」の新訳と捉えてしまうことからくる専門家の批判は、導入後十年ほとたった今されるなら、ほとんど児戯に類するように見えてしまう(もっとも、中井久夫の指摘以降も数多くの吟味があったのだろうが、それを知らない身のものの感慨である)。

批判(吟味)が有効であり得るのは、「統合失調症」では、これこれの理由で、現在の症例や病理として説明価値が低い、というものだろう。


分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』)


たとえば、ラカンの構造論では、同じ排除の構造があるとされて、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

これらが同じ括りに入れられているのは、わたくしのようなシロウトにはいつまで経っても違和がある。これではスキゾフレニーとメランコリーの区別を、中井久夫の『分裂病と人類』を読んで先に感心してしまったわたくしには、呉越同舟な感を覚えるのだ。

ミレール曰くは次のようなことにもなる。

《……しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。》(「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール 訳 松本卓也

《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである」。これは一度ラカンが副次的なテクストのなかで書いたものですが、私は昨年これを広めました》(ミレール「セミネール」2008年度)などという話にもなる。

あるいは、

「精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.同時に,精神病では,大他者は享楽から分離していません.パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います.…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます.スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです.また同時に,パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です.パラノイアにとっての大他者は存在しますし,大他者はまさに対象aの大食家なのです」 Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23

ーーなどということになれば、パラノイアとスキゾフレニーの差異を峻別する大分類としての概念が欲しくならないでもない(同じ「排除」の構造があるといっても)。


ラカンの「精神病」概念は、現在でも、説明価値が高いのだろうか?
上のミレールの文からも窺われるように、精神病という一括りよりも、パラノイアかスキゾフレニーの区別が肝要にも思えるのだけれどね。そこに「統合失調症」概念がどう絡んでくるのかは分らないけれど。



…………


以下は、ことさら上の論旨に関係はない(ラカンの若い友人であった小説家のテクストを附記するだけだ)。







◆フィリップ・ソレルス『女たち』( 鈴木創士訳 せりか書房 P209-210より)

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…

「彼の真っ赤になった、失語症の爆発」については、次のような指摘もある。

《Lacan suffered severe aphasia. Thus, the twenty-sixth seminar of 1978-1979 remains “silent”, as by then Lacan had practically lost the ability to talk at all.》(ラカンの対象aとしての声



※ソレルス『女たち』訳者あとがきより

…登場人物たちにはなるほど実在の思想家たちのシルエットがダブって見えてくる(…)。傍受したメディアのノイズを要約するなら、本書がパリの文壇に ショックを与えた(!)要因のひとつはこの点にあるらしい。問題の登場人物は次のとおりだ。ラカン(ファルス)、バルト(ヴェルト)、アルチュセール(ル ツ)、クリステヴァ(デボラ)…

もっとも最近のソレルスは次のように語っていることも付け加えておこう。

A.P.: Do you miss Lacan today?

Ph.S.: No, not at all. It would be interesting to have a session of Lacan’s Seminar today. That would waltz over current issues: the financial crisis, Sarkozy, Sade, Japan, Bin Laden, Strauss-Kahn… He would invent something each time out of the situation. It’s not Lacan that I miss, but bodies that would have the same kind of insolence, liberty, in other words the grandeur of Lacan in relation to his physical functioning. There is a sort of separation between the spoken and the written in Lacan. The fact that there should be an awkwardness in this respect is striking. He was a great improviser of speech, but a bit stuck when writing.(The Body Comes Out of the Voice Philippe Sollers







2013年5月2日木曜日

「女たち」の躍動と疾走


だが決定的な瞬間が。ここでぼくがきみたちに語りたいのはこれについてだ。瞬間のなかの瞬間、ぼくにとってそれは、昼食後、庭の、温室のそばでのことだった…レモンとオレンジの木のそばの、二本の大きな棕櫚のうちの一本の下で…あれらの南仏の庭の美しさは想像できないだろうな…藤、木蓮、月桂樹、アカシア、土地のおびただしい花がいっせいに咲き乱れる…







ぼくの叔母のひとり、エディットはひとりだけ長くそこに居残っていた…奇妙な目つきをした、褐色の髪の大柄の女性だった、当時彼女は三十六歳、ぼくは十四…母の末の妹…ずっと前からぼくに対して攻撃的で、皮肉で、辛辣だった…で、その夏は、彼女は退屈していたらしく、本ばかり読んでいた…彼女は日なたで長椅子に座ってぐずぐずしていた、他の者たちは部屋に昼寝に行ったか、急いで町に買い物か映画に出かけたというのに…二人っきりだった。






ぼくは彼女の目のなかの新たな注意に気づいていた、にらみつけるような目のひかりに…ぼくは寝に上がるふりをして、壇〔まゆみ〕の木越しに彼女を観察しに戻っていた…白い綿のワンピース、足を立てて、広げて…小麦色の肌、それは、母の肌のようにとても柔らかく、いい香りがして、絹のようだろうなと思った…彼女の白いパンティー…彼女がぼくを見ていたのは確かだ、そしてある日、黒い染みが…そんな、まさか、あり得ない…パンティーがない…腿をだんだん開いて…それから手はゆっくりと、巧みに、頭を後ろにのけぞらせて、まるでうとうとしていたみたいに…まぶたは時おり見開かれ…眼差しの網、黒い光線…ぼくはとうとう全部脱いでしまった、そこの、暗い緑の垣根の陰で。





ぼくは緑の仕切り窓に近づいた、そこなら彼女はぼくを完全に好きなようにできた…二十メートル…彼女はちょっと手を止めた…ぼくは自分のものをいじり始めた、ゆっくりと、それからしだいに早く…彼女はもう身じろぎしなかった…死んだみたいに…それから彼女の手は再び下がり、わずかに震え、そして一緒にやった、なかば目を閉じて、七月のうんざりするような陽ざしの下で…ぼくはイッた、そのとき彼女はほんとうに後ろにのけぞって倒れた、わずかにくずおれ、自分の肩に首をかしげる前に…さんさんと照りつける陽を浴びて、ぼくの精液が葉っぱのうえに飛び散るのがいまも目に浮かぶ、とても美しかった、ぼくは梢の下をくぐって、家に戻った…彼女は再び小説を読み始めた…また翌日から、ほとんど毎日のようにやった、いつも何も言わず、自分以外の者がそこにいることに気づいているそぶりも見せずに…夜、夕食のときは、互いに知らん顔だった…魔法だった…それ以来、ぼくが女たちからどんな目にあったかは神のみぞ知ることだ、ぼくを前にして、そしてぼくに向かって、結局はぼくを通して、自分自身に向かって自慰をやる女たちから…

        ーーーソレルス『女たち』鈴木創士訳 P28~






ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る…(同p230)



…………


ということで、引用だけにしようか、と思ったが、いいねえ、ソルレスのこの文体のリズム感、躍動感、疾走感、ーーその翻訳。






ーーまあ鈴木創士氏の翻訳は、手許にはこのソルレスしかないんだけど、二十年ほど前(1993)読んだとき、とても新鮮だったね、--《…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…》と「…」の中断符としての三点記号を多用するスタイル。


ところで、セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などと言われるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときの驚き、ーー《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(セリーヌ『北』)。


晩年の、「亡命三部作」のセリーヌ、その省略と絶えざる中断によるテンポとトーン。
そうさ、と私はひとりごつ、もうじきなにもかもけりがつく…ふう!…もう嫌ほど見た…人間六十五にもなりゃどんなひどいH〔水素〕爆弾だって驚くもんじゃない!…Z爆弾だろうと…そよ風さ! 花火さ! ただそれ大事な一生の時間と何万トンもの労苦をただただあのアル中のおかまの下種の忌わしい呪われた陋劣漢の一味のためにふいにしちまったことを思うと、身が顫えるほど口惜しい……惨めってもんですよ、マダム!《その恨みつらみを売るんですね、四の五の言わずに!》…ふむ、良いともさ…望むところだ、でも誰に売る?……お客は私にそっぽを向く、らしい…(同『北』冒頭)

ーー勿論ソレルスの文体はこの系譜だ。


ここで鈴木創士氏のランボーに関するツイートを引いておこう。


《ランボーがビートニクスだったことを知らないの? ランボーの訳で一番重要なことは、だから思考のリズムと同時に言葉のリズムが作り出すある種のトーンなのさ。ランボーはとにかく速いんだよ。「詩情」とやらがべったり張り付いたかったるい日本語訳はランボーの書いたものとはまったく違うってこと!》


《さらについでに言っておくと俺のランボーの訳(河出文庫)には「何の詩情もない」とわざわざ仰る人がいるが、言っとくがランボーは文章を徹底的にきりつめることによって「君たちの詩情」など全部殺してしまったのだ。ランボーの原文を見りゃわかる(日経新聞20111112日参照)。残念でした》


少なくともツイッターやブログぐらい、すこしは礼節を取り払って自由に書けないもんかね、おい、そこのおまえさんたちよ


自由っていっても、いわゆる「怨恨の時代」の手合いの、攻撃欲動の自由じゃなくて、ある種の「計算」と「推敲」、ニュアンスが必要で、「精神の」自由ってやつだぜ

そうしたら皮肉ではなくユーモアが滲みでる


フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』)

ここでのユーモアは、「親」のように「メタレベルから見下ろすこと」と書かれているが、ドゥルーズの『マゾッホとサド』にもその議論があってこう書かれる、


サディズムの場合、母親を恰好の犠牲者とする高次の原理たる法の上に位置するのは父親である。マゾヒスムにあっては、法はそっくり母親へと回帰する。そして母親は象徴的空間から父親を排除してしまうのだ。

そして、サディズムがイロニー、マゾヒズムがユーモアとされていることから、この叙述だけから判断すれば、メタレベルから見下ろすのが「父」の場合イロニー、「母」の場合ユーモアということになるのだろうが、他にも、《法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から諸々の帰結へと下降する運動をわれわれはユーモアと呼ぶ》としており、だとすれば「メタレベル」とは言い難い。


いずれにせよ、ドゥルーズはフロイトのユーモアに反して書いている。



われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(『マゾッホとサド』P154)

ーーここに書かれている否認の技術、つまり倒錯者の技術がどうやら肝要で、ドゥルーズのこの書の最後で、《サディズムにおける母親の否定と膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄》と書かれることになる。

ここで『マゾッホとサド』の訳者蓮實重彦の解説からこの「否定」と「否認」をめぐる箇所を抜き出しておこう。


ドゥルーズは、精神分析の領域が抽象的な変質をこうむっていた「父親」と「母親」のイメージを修正しつつ、法学的ディスクールをかりて、マゾッホの契約的思考とユーモア、サディスムの制度的思考とイロニーというかたりで、「否定」と「否認」の展開ぶりを明らかにする。それは、とりもなおさず、異質な衝動や本能のあいだに転位は起こりえないと説くフロイトが、なおサディスムを起点としてマゾヒスムの生成を説き続けたことの矛盾を明らかにする役割を果たしている。だが、そのフロイト的自己撞着の指摘によってドゥルーズは精神分析の風土と訣別するのではなく、かえってその領域に深くとどまり、まさに精神のフロイト的基本構造としての「自我」と「超自我」の関係にマゾヒスムとサディスムが対応しているが故に、二つの倒錯症状がたがいに還元性を持ちえない独自の世界であることが立証されるのだ。



柄谷行人は後年までこの議論に拘っており、最近もつぎのように書いている。


ユーモアにおける超自我は、自発的・能動的に働くのであるが、意識的なものではない。もし意識的なものであれば、それはユーモアではなく、イロニーや負け惜しみになってしまうだろう。(柄谷行人『超自我と文化=文明化の問題』) 



このあたりの議論はいまだ<わたくし>には判然としないが、ここではとりあえず、ボードレールの簡潔な言葉、《ユーモアとは、同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと》とだけしておこう、そして、セリーヌやソルレス、あるいは訳者の鈴木創士の力のひとつとはそういうものだ。


たとえば、上のツイートのような、《……わざわざ仰る人がいるが、言っとくが》っていう気味合いを出すにはかなりの修業がいるよな






《おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい/人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで/いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり/……/今おまえは応えてばかりいる/取り囲む人々への善意に満ちて/少しばかり傲慢に笑いながら》(谷川俊太郎)


やめとけよ、かみしも脱いじゃえよ


なんだって? 無理かい?

そうだろうよ


ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように…彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている……実際どこでも同じことだ…犬小屋の犬…自分の家でふんづかまって…ベッドで監視され…(『女たち』P98)





まあオレはなんどかツイッター上で上品ぶった手合いを「すっぽりはだかにした」ことがあるがね


そうしたら今度はまったく距離感がなくなっちまうんだよな


まいったね


修業が足りないんだろうな

ユーモアじゃなくてイロニー(皮肉)にとられるんだよ

くわばらくわばら


…………


次の文はソレルスが引用するフローベールの『ボヴァリー夫人』。


彼女はまた、次のような類の文章を読むとまたしてもぞくぞくする。「彼女はコルセットの細い紐をもぎ取って、荒々しく服を脱いだ、それはスルスルと滑り抜ける蛇のように腰の回りで音を立てるのだった。彼女は素足のまま爪先だって、ドアが閉まっているかどうかをもう一度見に行くと、一気に服をすっかり脱ぎ捨てた、 ――そして、蒼ざめ、なにも言わず、真剣に、いつまでもわななきながら、彼の胸に倒れかかるのであった」。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



「細い紐をもぎ取って」、「スルスルと滑り抜ける蛇のように」、「素足のまま爪先だって」……、こんな官能的な箇所があったか。





エンマは荒々しく着物を脱ぎ、コルセットの細紐を引き抜いた。紐は這ってゆく蛇のうなりのように、腰のまわりにうなりをあげた。エンマは、戸がしまっているか素足のままの爪先でもう一度見に行った。それから、まとっているものをみんな一度にかなぐり捨てた。――そして彼女は青ざめて、物もいわず、真剣に、わなわなとふるえながら、男の胸にとびかかった。(フローベール『ボヴァリー夫人』(下) 伊吹武彦訳 岩波文庫 p174



ここでの鈴木氏の翻訳の自在さ加減は、タブッキ須賀敦子訳の「すっぽりはだかになって」を思い出させるね


女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキ『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』須賀敦子訳)

ソレルス『女たち』に戻ろう。


エンマは、もういまはこんな風に書かないと思う …だからフランス語が世界中で後退しつつあるとしても驚くにはあたらないのだ、と。どんな現代作家といえどもこんな喚起力をもっていない、と。一人でもいいからぼくに名前を言ってもらいたい! もちろん、いくつかの要素は古びてしまった(彼女のこの条りを読み返すたびに、しばらくのあいだコルセットを身につけたくなるのだが)、でもスカンション、あのセミコロンとあのダッシュの渦巻く力がある …いや、この文体の巧みな中断のなかに人はすべてを感じ取るのだ …「何かしら極端で、漠然として、沈痛なもの」 …そしてとりわけ、「彼女が彼の情婦であるというより、むしろ彼が彼女の情婦になっていた …彼女は、深淵で、隠されているためにほとんど実体の無いこの堕落を、はたしてどこで習い覚えたのであろうか?」


実際、彼女のように仰々しいいでたちの女は現代的な解放すべてに属しており、エンマはエンマのままなのだ …奇妙なことに唯一文学だけが書き留めているこの荒々しい発見を前にすれば、あるのは同じ反芻、同じ痛み、同じ激昂、同じ失望である。この世界における、その名に値する男たちの不在 …男などいない! ただの一人も! 全員がでくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろなのだ …果てしなく、再び、彼女のすべての連続的再生において、エンマはこの単調な同じ絶望的結論に達する …彼らはいかなる堅固さを有していない …その空しさと同様、彼らの獣性がそこで暴かれる時間をのぞいては …その時の彼らの眼差しにはそっとさせられる …彼らは根本からほんとうに腐っている …結局は全員が贋のエンマなのだ …ぺてん師たち…  (ソレルス『女たち』p116鈴木創士訳)