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2013年11月13日水曜日

11月13日

まあそうイライラすんなよ
オレのような偏屈もののドシロウトが言うことなんて
軽く受け流したらいいのでね

読んでる証拠として返事するけどね
NHKのプログラムじゃなくて
今度のサントリーホールのヤツだったら文句はいわないし
オレにはハイドンが一番好みだったな、前にチラッと言ったと思うけど
そしてもちろんオレの好みなんてどうだっていいし


でも《リスト派/ショパン派などは外から見て言えることで、音楽家としてそう言う「派」に今意味があるという気はあまりしない》ってのはちょっと違う気がする。この「外から」ってのはアマチュア愛好家の意味で、「内から」ってのが専門家の意味だったら。

専門家だって四つのタイプがある。

①リスト>ショパン
②ショパン>リスト
③どっちも演奏しない
④どっちも(なんでも)万遍なく演奏する

指揮者には④のタイプが多いさ、そのなかでも格別なのはカラヤンだ(オレは実は隠れカラヤンなんだけど)。まあ交響曲は最近あまり聴かないけれど、シューベルトとモーツアルト(これはベームだったな、古い話だが)以外は、昔はだいたいカラヤンで満足してたから。


たとえば、《音楽家としてそう言う「派」に今意味があるという気はしない》の文の「音楽家」に「文学者」とか「哲学者」とかを代入したら、やっぱり意味があるんじゃないか。それとも作曲家ではなく演奏家はそんなことはいえないのだろうか?

たとえばナボコフがこう言うとき、それに全面的には賛成しないでも、新しい光が当てられてとても「意味」深い。すくなくともこう宣言するひとはカッコイイと思う

ナボコフはチェーホフを高く評価し、彼が他のロシア作家に与えた評価としてはトルストイのAプラスに次ぐAをプーシキンとチェーホフに与えている。他の作家の評価は、ツルゲーネフがAマイナス、ゴーゴリがB、ドストエフスキイはCマイナス(かDプラス)で、「チェーホフよりもドストエフスキイが好きな者にはロシアの生活の本質は決して理解できないだろう」とウェレズリー大学の女子学生たちに話していた(Hannah Green, "Mister Nabokov," 37)。

内田光子が音楽界のナボコフかどうかは別にして、「内から」、つまり専門家として「私はリストじゃなくてショパンのタイプ」といっているわけだ

まあカッコイイのはこういうタイプもあるがね
スヴャトスラフ・リヒテルBOT
(ホロヴィッツについて①)
……驚くべき人物、
それでいて不快極まりない、
それでいて卓越したうまさ(「音楽院」的な意味で)、
それでいて夢幻的な音色、という具合に何もかもが矛盾している。
何という才能!それでいて何という下卑た精神……。
(ホロヴィッツについて②)
これほどに気さくで、これほどに芸術家気質で、これほどに限界のある人物とは(いたずらっぽい笑い方を聞いてみよ、彼の姿を見よ)。
それでいて何という巨大な影響を若いピアニストたち(音楽家ではない)の感性に及ぼしたことか。
すべてがあまりにも不可思議だ……。
(ホロヴィッツについて③)
加えてあの「陰険な」ワンダ[ホロヴィッツ夫人]が、例のいわゆる「寛容」にして助力を惜しまぬ女性がいつも傍らに待機して、何事にも目を光らせている。
ほかに何と言ったらよいかわからない。

ワンダ夫人ってトスカニーニの娘だったよな

どんな顔してたかな

こんなのもあるな




話を戻せば
たとえば翻訳者(つまり演奏家)のなかには何でも訳す人がいるけれど、好きな作品しか訳さない須賀敦子はカッコイイ


内田光子の話をもうすこし正確に引用しよう。

ピアニストにはわたしのようにショパンを弾くタイプとリストを弾くタイプがあります。ショパンの美しさは例えようもないものです。詩的な感性のみならず明確な方向性を持っていて、緻密さも兼ね備えています。ショパンの明確さと緻密さは、モーツァルトの作品と通じるところがありますね。見過ごしがちなことですが、各音符は然るべき場所に存在し重要な意味があります。単に美しい旋律が浮かんでくるのではありません。彼はバッハの音楽を細部まで暗記していました。ショパンはまことの音楽の源はバッハだと信じていたのです。ベートーヴェンは支持しませんでしたが、モーツァルトについては高く評価し尊敬していました。

 この先古い音楽と現代音楽の距離は縮まるでしょうか・・・半ば冗談で言わせてください。〝もし70歳まで生きたらバッハの前奏曲とフーガを全48曲を観客の前で演奏したい〟とね。

 私は一人で弾いたり室内楽団と一緒に演奏することが好きです。また声楽家との共演を好み、シューベルトやシューマンの歌曲を愛しています。何よりリートの伴奏者としての演奏は私に向いているでしょう。(内田光子インタヴュー

 ※参照:音楽とは、美しい何かを人と分ち合うこと



――というふうに語っているってことは、つまりショパンは「明確な方向性を持っていて、緻密さも兼ね備えています」としているってことは、リストはそうじゃないと言っているはずだ。

リストに縁が深いはずのハンガリー出身のシフは、こう言っている。

composers such as Liszt and Berlioz fail completely: because, first of all, they have nothing to do with Bach; and second, they lack the modesty, as well as the economy and discipline. I could remove half of a gloss by Liszt and the piece wouldn't suffer.

リストは無駄な音ばっかりだって訳だ。
これが実際そうなのかどうかは、オレにはわからないけどね
反論するなら、そこじゃないか、ショパン派/リスト派の二項対立の。

Andras Schiff: Of course, the "framing" with Bach was no accident—I wanted to close a circle. And Bach's value? That's not easy to put into words. Bach's music is very important for me; it is the most important for my life. The entire music literature following Bach—all music intrigues and interests me, and everything I treasure in music comes from Bach. If a composer has no relationship to Bach, then, it doesn't really interest me at all. Bach is an entire musical, yet human, worldview. Here, the musical must be spiritual, not physical. It can make me happy, and sustain me, but it is much more. It is the content of Bach's music that intrigues me so.

Above all, Bach's lack of egotism—the incredible devotion and modesty. With Bach, we don't have the "image of genius" that certainly so strongly characterizes Mozart. But, people must be for sure very clear about Bach's enormous gift, his uniqueness. For me, Bach is a very religious man, in the best sense of the word: a man who considers the composing of music as a mission, as a duty. The quality that comes forth in his work is truly astounding; he writes his compositions day-in and day-out, and yet, they don't seem labored. Bach's music radiates this purity: purity in the polyphony, as well as clarity and transparency of the entire composition, whereby, each voice, each note is important. In Bach, nothing is subordinate.

This is otherwise an aesthetical principle in art for me. I'm mainly thinking here about economy—that one not write as many notes as possible. In this respect, composers such as Liszt and Berlioz fail completely: because, first of all, they have nothing to do with Bach; and second, they lack the modesty, as well as the economy and discipline. I could remove half of a gloss by Liszt and the piece wouldn't suffer. You can't remove one note from a Bach fugue!
(SCHILLER INSTITUTEInterview with Pianist Andras Schiff)

ーー御存じの通り、バッハ派なのでね

それと、「ヤクザの親分/堅気」ってのの起源は、次の文さ。


◆ニーチェ『曙光』より「悪人と音楽」

無条件の信頼のうちに生まれる愛の完全な幸福は、疑い深い、悪意を持った、不機嫌な人間よりほかの人間に与えられたことがあるだろうか。おもうにこういう人間たちは、愛の幸福に面して、法外な、信じたこともなければ信ずべくもない、自分の魂の例外を味わうのだ。そのほかいっさいの彼らの表裏の生活とは、はっきり区別された、あの無辺際な夢みるような感覚が、ある日彼らを襲うのである。貴い謎か奇蹟のようだ。金色の光に溢れ、絵にも言葉にも尽くせない、無条件の信頼は、人を沈黙させる、いや懊悩も憂鬱も、この幸福の沈黙に包まれてある。だから、そういう幸福感に圧倒された魂は、他のすべての善良な魂よりも、音楽に感謝を抱くのが常である。彼らは音楽を通じて、さながら色彩ある煙を透かすように、みずからの愛を、言わばひときわ遠く、深く、軽やかに、見、また聞くのだ。音楽は、彼らには、みずからの異常な状態を静観し、一種の疎遠と安堵の感をもって、初めてその眺めに接し得る唯一の方法である。すべて愛するものは音楽を聞いて思う、これは私のことだ、私の代わりに語っているのだ、音楽は何もかも知っている、と。

――すこし分りにくい文かもしれないが、小林秀雄の「ニーチェ雑感」のなかにこの文をそのまま引用して次のように書かれている。

これは、ニイチェにおける音楽の観念の動きを、みずから高速度カメラで写してみたものである。音楽に意識の心地より眠りを求める善良な人々には、これは奇妙な動きであろう。善悪の彼岸が味わいたいなら、まず悪人たるを要する。ニイチェにとって、生とは、決して眠り込んではならぬ意識のことである。音楽は眠ってはならぬ意識が呼吸する、彼の言葉で言えば、「倫理的空気」だ。彼のような、抒情が理論を追い、分析が情熱を追う、高速度な意識には、音楽の速度しか合うものがない。

「善悪の彼岸が味わいたいなら、まず悪人たるを要する/音楽に意識の心地より眠りを求める善良な人々」の二分法ってわけだな、「ヤクザの親分/堅気」ってのとは、いささか違うにしろ。


返事はいらぬ 

演奏会、成功を祈る







2013年11月10日日曜日

ショパン派/リスト派

ピアニストを二つに分けると、ショパン派、リスト派があって、内田光子はショパン派だと言っているそうだ。「ショパンの作品ではそれぞれの音がとても重要で考えられている」

どちらでも派が多いのだろうし(とくに聴き手は)、それが悪いわけではない。

ショパンだって、たとえばマズルカ派/ピアノソナタ派(あるいは《革命》やら《英雄ポロネーズ》やらのわたくしには頭が痛くなる曲派)があるだろう。

十代のころは、バッハ(あるいは一部それ以前の宗教曲を含む)/その他の音楽派気味のところがあったのだけれど。

――というわけで、「それが悪いわけではない」のではないと書いているようなものだが、いやそんなことはない、たんなる趣味の問題であって……以下略。

たとえば、シューベルト派/シューマン派とかベートーヴェン派/モーツァルト派などとは決して言い難い(少なくともわたくしには)。




※ピアノ伴奏を除いてディスカウの歌声だけなら、1956年ザルツブルクコンサートの実況録音も捨て難い。



ところでショパンでさえ、こういう言い方がある。

サロンはもともとスノッブなしでは成立しない(……)。ショパンがサロンの人間だったということは、彼が芸術を自分の本心を打ちあける手段と考えることから、遠く離れていたという意味である。彼は、人間の間にまじっている限り、言いたいことの大部分は言わずに生きていた。彼は「友人としての人間」を信じず、また信じないでもすませられるようなエチケットの確立したソサイエティにまじって、非の打ちどことのない挙止の中に身と心を包んで、生きていた。(……)
ショパンは、きき手を、より敏感にする。ショパンの音楽は、元来がそれほど音楽的な人でもなく、また音楽がなければ生きられないといった習慣のない人をも、その音楽をきいている限り、音楽の魅力に敏感なきき手にかえる力をもっている。

……いずれにしろ、私たち日本人には、全体の一見単調な反復の中に、細部の微妙な変化、洗練、巧緻といったものを、かぎつけ、見出し、それを享受する能力が発達しているというのが、私の考えである。(吉田秀和『私の好きな曲』)

《黒鍵》とか《告別》とか《木枯し》とか《革命》などとあだ名されるものは、妥協の産物であって、《誰に妥協したのか? 大衆の好みへのそれであり、出版社、あるいはピアニストの好みへのそれである。(……)ショパンを、ベートーヴェンより深刻なものとうけとったり、シューマンよりすぐれた芸術家とみることは、私にはどうしてもできない。(……)ショパンは精神の問題を避けて、芸術をつくりすぎた。》

もっともリストに比べればまだましだ、ともいう。

ショパンは、生活の次元での他人への思いやりという点では、どうやら、あまり寛大な人ではなかったらしいが、それは彼の心情の偏狭さ、冷酷さ、あるいは自己中心主義よりもむしろ虚弱な健康が許さなかったのと、彼の心情の貴族性というか精神的集中度の非常な高さが、人々のありふれた考え方に応じて周囲をみることを許さなかったという事情によるのかも知れない。(……)その点で、ショパンは、たとえばリストと極端にちがっていた。リストは、あまりにも他人の好むところがわかりすぎ、それを無視して、自分を忠実に守る力が弱すぎた。それにまた、あまりにも「成功の味」を知りすぎていたので、それに酔いすぎ、それから離れることがむずかしすぎた。

いやリストだって最晩年には他人の好むところから離れて作られた曲があるぜ、――と書いておこう。

しかしわたくしの好みの曲と毛嫌いしている曲とを同時に好むなどという人があると、コイツ、オレの好みの曲の上っ面しか聴いてないんじゃないだろうか、とヒソカに呟くことになり、ことによると、アバヨ! ということになりかねない。いずれにせよ、個人の好みをひとにあまり押しつけるべきではない。


《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎 の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざま な享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ーー今、わたくしの書いている文章は、リスト好きにとっては、威嚇作用になっているはずだから、読んだらダメだぜ

プルースト曰く、

《あまりききなれないめずらしい作品をきいたときには、すぐには記憶できないばかりでなく、それらの作品から、(……)われわれがききとるのは、それほどたいせつではない部分なのである。》

あるいは、《彼がききとったそれほどたいせつではない部分の「美」は、もっとも奥深く秘められた美があきらかになったとき、彼から離れ、逃げ出してしまった》と。

おい、そこのきみ、きみはそれほどたいせつではない部分の「美」を聴いてるだけじゃないかい? というわけだ。

私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。(プルースト「花さく乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳)
……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

ところで演奏家だって、たとえばジャズだったら、モンク派/オスカー・ピーターソン派とかがある(繰りかえせば、これも趣味の問題なのであって、クリフォード・ブラウン派/マイルス・ディビス派など言う人があっても、こっちの方はまったく肯んじえない)。

ヤクザの親分派/堅気派の二分法だってある。

ドビュッシーの前奏曲集の演奏比較で、ポリーニは「いい人すぎる」とか、ミケランジェリを「ニコリともしない」やら、サンソン・フランソワを「デカタン」とか、ミシェル・ベロフを「ネクラ」等々、青柳いずみこ氏が書いているが、この感じはやっぱりかなり当っているんじゃないか。とくにポリーニの「いい人すぎる」ってのは絶妙だな、ほかの曲でも。もっともこれらはおおむねある時期のある演奏に限ってであって、たとえばステージで脳溢血で倒れてそのあと復活してからのミケランジェリは、音楽する喜びに溢れていて「ニコリともしない」どころじゃない、病気の前だって、マズルカなんてのは情感あふれて冷たい完全主義者どころじゃない(たとえばOP33-4)。ヤクザの親分の器だね。





… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネーデル千葉文夫訳)



さて冒頭に戻れば、内田光子はシューマンの作品133を最近弾きだしたようだ。七十歳になったらバッハの平均律をやりたいとも言っている。

シューマンだって最晩年のこの曲・練習曲派/なんだかガチャガチャ聴こえる派があるだろうな(たとえばよく弾かれる幻想曲はオレにはどうもダメだ)。失礼! またたんなる趣味の話だよ


「シューマンへの愛の表明は、ある意味 で、今日、時代に『逆らう』ことで、責任ある愛でのみ可能である。社会的命令によってではなく、自ら望んでシューマンを愛することは、主体に自分の時代に 生きていることを強く自覚させることになる。」(ロラン・バルト)






《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》








内田光子のこの録音を最初聴いたときは、左手の和音が重いなとか和音の中音の響きが強すぎるとか、あるいは右手で軽やかに歌うべき箇所の歯切れが悪いなどと感じたのだが、何度か聴くうちに、左手の和音の重さの深淵から突如閃光として煌めくソプラノの飛翔が際立つ印象を生む箇所に魅惑される(第二曲の中盤はことさら)。このところアンデルジェフスキの演奏がお気に入りで、いまのところ乗り換えるつもりはないが、内田の演奏の左手の沈潜したやや濁った響きとゆらめく閃光の輝きの対照は独自の魅力をもたないでもない(それにしても、第三曲は濁り過ぎてほとんど聴くに耐えないのだけれど、ウチダさん?ーーPCスピーカーが悪いのかな、重低音が響くボーズだからな)。内田光子は最近のコンサートのプログラムの最終曲で、この作品133の第一曲「暁の歌」を演奏しているようだ――ちょっと待てよ、第四曲は内田がいいかもな、アンデルジェフスキよ、この曲に限ってはちょっと軽すぎるんじゃあないか?ーー、まあ細かい話はこの際どうでもよろしい。この作品133を愛する演奏家に強い好感をもつということだ(しかしたとえばHélène Boschiのように暁の歌の最初の音を不器用に入ってもらっては興醒めだということはある)。


ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』(暁の歌)の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)






「暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ


痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』) 




シューマン--「はるかな解放へのあこがれが、抑圧されたものの素朴なゆめへの共感としてあらわれる」(高橋悠治)

死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲)あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)




2013年6月30日日曜日

内田光子のバッハ




旅先の殺風景な狭いホテルの一室で朝、イヤフォンでモーツアルトを聴いている。曲は選べないが、このAbacus.fmのMozart Pianoというサイトはここのところ、ずっと内田光子の演奏を流している。グレン・グールドのモーツアルトも好きだが、内田光子を聴いたらグールドが野暮ったく思えてきた。美には冷静で強い透明な意志が必要だと思わせる演奏だ。

ウェブでiTunesの〈ラジオ〉や、〈naxos〉からのダウンロードでクラシックを聴いていると、これまで知らなかった曲、知らなかった演奏に出会える。技術の進歩をありがたく思うけれど、ゼンマイの蓄音機で音楽を聴き始めた後期高齢者には、どこかに何かを保留したいもどかしい思いも残るのだ。内田光子を聴いている最中は、そんなことはすっかり忘れているのだが。

Abacus.fmをサポートしたいと思ったが、ひどいジングルで演奏を中断したりするから、やめた。 (俊)  谷川俊太郎.com










もっとも内田光子のいくつかのモーツァルトは、次のような印象を与えるときもあるだろう(たとえば、K.545 2nd 。これは過剰の抒情だ)。

私は内田光子のピアノに感心したことがかつて一度もなかった。彼女の得意とするモーツァルトにしても、フレーズのひとつひとつに過剰な意味や感情を付与しようとするその演奏は、ほとんど非人間的な速度で疾走するモーツァルトの音楽を「人間的な、あまりに人間的な」圏域に引き戻してしまうものと思われた。…(浅田彰「内田光子のシェーンベルク」

…………


たとえば、完璧主義者といわれたミケランジェリ。
… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデツティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネデール 千葉文夫訳)


だが、

Recording: Turin (Italy) - RAI Studios, August 13, 1962
Filmed in Paris, broadcast 5. January 1965 

それぞれ、なんという相違だろう。音楽をやっているのだから、彼らも、完璧さの追求よりも、歌がうたいたいのだ。一回限りであれば、しかもアンコールであるならば、是非③の演奏にめぐりあいたいと願うし、しかしながら何度も聴くには、わたくしの場合、②を選ぶことになる(いやそれだって断言できない、どうして①を捨て去ることができるというのか、長く愛聴したミケランジェリのプレリュード演奏のいくつかと同じ音が鳴っているというのに)。内田光子の演奏も、演奏会でめぐり合った場合、その過剰な感情の表出を拒む自信はない。《諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?……》

ステージで演奏中に心臓発作で倒れた後、ミケランジェリのピアノが変わった。完璧さを追求するよりも、音楽の流れ、音楽の内容そのものを重視するようになった。(コード・ガーベン 『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』

諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか?
諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望! 諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、諸君が、ほかならぬ諸君がそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、完全で秘密な宿命がいつもある! あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! あたかも諸君は、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーー諸君の愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することをおそれてはいないか? 諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか? ――ニーチェ曙光(539番)