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2014年10月1日水曜日

ニーチェの隠し事

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………


『ツァラトゥストラ』の第二部に「同情者たちVon den Mitleidigen」という項がある(Thomas Commonの英訳では the pitiful)。

以下、手塚富雄訳より抜粋する。

わたしは、同情せずにいられないときにも、同情心の深い者とは言われたくない。また、同情するときには、自分の身を離して遠くから同情したい。まことに、わたしは苦悩している人たちに何ほどかのことをしたことはある。しかし、それ以上によいことをしたと思えたのは、わたしがよりよく楽しむことを覚えたときである。
……わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う。そればかりでなく、自分の魂をも念入りに拭うのだ。というのは、悩む者が悩んでいるのを見たとき、わたしはそのことを、かれの羞恥のゆえに恥じたのだから。また、かれを助けたとき、わたしはかれの誇りを苛酷に傷つけたのだから。
大きい恩恵は、相手に感謝の念を起こさせない。それどころか、相手のうちに復讐心を芽ばえさせる。また小さい恩恵が記憶のうちに残っているあいだは、それは呵責の虫となって、その恩恵を受けた者の心を食い荒らす。
……だが、わたしは贈り与える者である。友として友にわたしは喜んで贈り与える。しかし未知の者や貧しい者たちは、わたしの果樹から自分の手で果実を摘み取るがいい。そうすればかれらに羞恥の念を起こさせることが少ないだろう。

次に『この人を見よ』から。

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(手塚富雄訳)


これらの断片から窺われるのは、ニーチェは決して同情=憐れみを感じることそれ自体を批判しているわけではなく、ただその感情を露骨に表してしまうのを嫌厭すること甚だしいということだ。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。( ……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)

《ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。》(吉田秀和ーー 『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』(神崎繁)よりの孫引き)

《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

…………

ニーチェがトゥリンにあるホテルから外出する。向かいに馬と、馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると、馭者の見ているところで馬の首を抱き、涙を流す。

それは一八八九年のことで、ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば、それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。

そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬の頭を膝にのせているテレザが私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」の道から、退きつつある。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P332ーー「軽さと重さ」)

写真はいわば、穏やかな、つつましい、分裂した幻覚である。一方においては、《それはそこにはない》が、しかし他方においては、《それは確かにそこにあった》。写真は現実を擦り写しにした狂気の映像なのである。…写真と狂気と、それに名前がよくわからないある何ものかとのあいだには、ある種のつながりがある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。しかしながら…その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。写真によって呼び覚まされる愛のうちには、「憐れみ」という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた。私は最後にもう一度、私を《突き刺した》いくつかの映像、…を思い浮かべてみた。それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを胸に抱きしめたのだ。ちょうどニーチェが、1889年1月3日、虐待されている馬を見て、「憐れみ」のために気が狂い、泣きながら馬の首に抱きついたのと同じように。comme le fit Nietzsche, lorsque le 3 janvier 1889, il se jeta en pleurant au cou d’un cheval martyrisé : devenu fou pour cause de Pitié(ロラン・バルト『明るい部屋』).

…………

ニーチェはショーペンハウアーとの遭遇を次のように語っている。

或る日(1865年秋:二十一歳)、私は古本屋でこの本(『意志と表象の世界』:引用者)を見つけ、全然未知のものであったので、手にとってページを繰った。・・お前はこの本を家に持ち帰れ・・と私に囁いたのはどういうデーモンであったのか私にはわからない。いずれにせよ書物の購入をあまり急がないという私の日頃の習慣に反した出来事であった。(ニーチェ『回顧』)

ここでは『意志と表象の世界』からではなく『存在と苦悩』から。

すべての生きとし生ける者に限りない同情を持つことこそ、倫理的に正しい態度をとる上で最も堅固、確実な保証を与えるものであり、これについてとやかく良心の問題などを取り上げる必要はない。この気持ちに満たされた者は、必ずや、誰にも危害を加えたり、侵害したり、なんびとをも陥れようとせず、むしろできる限り他人のことをおもんばかり、あらゆる人を許し、助けるようつとめるであろう。さらにそうした人の行動は、正義と人間愛の刻印を担うことになろう。(ショーペンハウアー『存在と苦悩』)

ここにまた「正義」なんて言葉が出てくるのだよな
この文はじつは、「"正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク)」やら
正義とは不快の打破である」の続きものだ、ということを分かってもらえるだろうか
あるいは、「「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ」の。
ーーまさか! だれにもそんなことは期待してないさ


《――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。》(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475)


ショーペンハウアーは生に敵対した、このゆえに彼にとっては同情が徳になったのである・・・アリストテレスは、周知のごとく、同情のうちに、ときどきは一服の下剤でなおすのが好ましい、病的な危険な状態をみとめた。彼は悲劇を下剤と解したのである。ショーペンハウアーの場合が(そしていかんながら、セント・ペデルブルグからパリまでの、トルストイからヴァーグナーまでの現代の全文学的芸術的デカタンスもまた)示しているような、同情のそうした病的な危険な鬱憤に一撃をくわえる手段が、生の本能からこそ事実探しもとめられなければならないであろう、すなわち、この鬱積が炸裂するためにである・・・(ニーチェ『反キリスト』原佑訳  P172)

《カントをもまた、道徳の毒蜘蛛であるルソーが刺していた。カントにもまた、魂の底には道徳的な狂信の思想が伏在していた。》(『曙光』序文)

ルソーに反対。――われわれの文明は何かあわれむべきものそれ自体を持つということが真であるなら、ルソーとともに「このあわれむべき文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」と結論を続けるか、あるいはルソーに反対して次のように逆の結論を出すかは、諸君のお好み次第である。「われわれのすぐれた道徳は文明のこのあわれむべき状態に対して責任がある。善悪に関するわれわれの弱い、男らしくない、社会的な概念、および心身に対するその絶大な支配は、すべての身体とすべての心をとうとう弱めてしまい、自主的な、独立的な、とらわれない人間を、すなわち強い文明の支柱を破壊してしまった。劣った道徳に現在なお出会う場合、これらの支柱の最後の破片が見られる。」やはりこのように逆説が逆説に対立するとすれば! この場合真理がどちらの側にもあることは不可能である。それでは真理はそもそもどちらかの側にあるのか? 吟味せよ。(ニーチェ『曙光』P163番 茅野良男訳)

ーーとしつつ後年、カントやショーペンハウアーよりも、ルソーを相対的に持ち上げている。

二人のドイツ人。――精神に関してではなく、魂に関して、カントやショーペンハウアーとを、プラトンや、スピノザや、パスカルや、ルソーや、ゲーテなどと比較するなら、上述の二人の思想家は不利な立場にある。彼らの思想は情熱的な魂の歴史を形成していない。そこでは、物語も、危機も、破局も、臨終も、何ら推測されない。彼らの思索は同時にひとつの魂の無意識的な伝記であるのではなく、カントの場合にはひとつの頭脳の歴史であり、ショーペンハウアーの場合には、ひとつの性格の(「不変なものの」)記述と反映であり、「鏡」そのものの、すなわち優れた知性の喜びである。カントは、その思想を通して彼がちらちら光るとき、最上の意味で実直で、尊敬すべきように思われるが、しかし重要でないように思われる。彼には広さと力が不足している。彼はあまり多くの体験はしなかった。しかも彼の流儀の仕事は、重要なことを体験する時間を彼から奪いとる。――当然のことながら、私は外面的な粗っぽい「出来事」のことを考えているのではない。閑暇を所有して思索の情熱に燃えている全く孤独で全く静かな生活の帰属する、運命と戦きとのことを考えているのである。ショーペンハウアーは、カントよりも先んじている。彼は少なくとも生まれつきある種の激しい醜さを身につけている。憎悪や、欲望や、虚栄心や、邪推の点で、彼は幾分野性的な素質の持ち主であり、この野性のための時間と閑暇とを持っていた。しかし彼の思想圏にも不足していたように、彼には「発展」が不足していた。彼はいかなる「歴史」も持たなかった。(『曙光』481番)

ところでカントの正義ってなんだったっけ?
これでいいのかな、カント研究者さんたちよ

カント自身、その方法の斬新さは、いまや法が<善>に依存するのではなく、逆に<善>が法に依存するのだという点にあるのだと口にしている。それが意味するところは、もはや法には、その権利の源流となる上位の原理を基礎にしてみずからを築く必要性もなければ、またその可能性もないということである。(……)

事実、法がそれに先立ってある高次の<善>に根拠をおくことがもはやなく、その内容をまったく非限定的なものとして放置するそれ固有の形態によって有効であるとするなら、最善をめざして正義が法に服するということは不可能になる。というよりむしろ、法に服するものは、然るが故に正義にかなっているわけではないし、またそう自覚することもないということだ。事態は逆であって、自分は罪を犯しているという自覚があり、彼は前もって有罪者なのである。しかも厳格に法に服すれば服するほど、ますます罪深いものとなるのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』「法、ユーモア、そしてイロニー」の章 蓮實重彦訳ーーメモ:超自我、良心、罪責感(フロイト)

ラカンの「サドとともにカントを」なんていうのは持ち出さないでおくよ
この程度にしておくぜ、ここでは。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン

さて、なんのはなしだったか?
ニーチェは、後年ルソーを持ち上げる、なんて書いてしまったんだなーー、まさか!

私の意味での進歩。――私もまた「自然への復帰」について語るが、もっともそれは、もともと帰ることではなく高まりゆくことであるーー高い、自由な、怖るべきものでさえある自然と自然体、大いなる課題と戯れる、戯れることの許されているそうした自然と自然性のうちへと高まりゆくことである・・・それを比喩で言えば、ナポレオンは私が解する意味での「自然の復帰」の一つであった(たとえば戦術のことにおいて in rebus tacticis それでころか、軍人の知るとおり、戦略的なことにおいて)。――ところがルソー ーーこの男はもともとどこへ帰ろうとしたのであろうか? ルソー、この最初の近代的人間は、理想主義者と下層民とを一身にそなえている。この男は、しまりのない虚栄としまりのない自己軽蔑に病んで、おのれ自身の外見を保つために、道徳的「品位」を必要とした。近代の閾ぎわに陣取ったこの奇形児もまた「自然への復帰」を欲したーー繰り返したずねるが、ルソーはどこへ帰ろうとしたのであろうか? ――私は革命の点においてもやはりルソーを憎悪する、革命は理想主義者と下層民というこの二重性を世界史的に表現するものであるからである。この革命が演ぜられた血なまぐさい茶番、その「無道徳性」は、私にはほとんどかかわりない。だが、私が憎悪するのは、そのルソー的道徳性であるーーこの道徳性がいまなおそれで影響をおよぼし、一切の浅薄な凡庸なものを説得して味方にしている革命のいわゆる「真理」である。平等の教え! ・・・しかしこれ以上の有毒な毒は全然ない。なぜなら、平等の教えは正義について説いたかにみえるのに、それは正義の終末であるからである・・・「等しき者には等しきものを、等しからざる者には等しからざるものを」――これこそが正義の真の言葉であるべきであろう。しかも、そこから生ずるのは、「等しからざるものをけっして等しきものになすことなかれ」ということにほかならない。――あの平等の教えの周囲ではあれほど身の毛もよだつ血なまぐさいことがおこったということは、この選りぬきの「近代的理念」に一種の栄光や火光をあたえ、そのためこの革命は演劇として最も高貴な精神をも誘惑したのである。このことは結局は、この革命により以上の敬意をはらう理由とはならない。――私は、この革命が感じとられなければならないとおりに、嘔吐をもってそれを感じとったたった一人の人を知っているーーゲーテを・・・(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」『偶像の黄昏』原佑訳 P142)

ルソーを読むには、鼻をきかせなくちゃな。もちろんニーチェを読むのにも、さ。

《私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりに進歩的思想を語ったが、一方で自分が産ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。(……)ドストエフスキーを 感傷的な作家と呼ぶ場合、それは、読者の側に因襲的な同情の念を機械的に惹起しようと、 ありふれた感情を非芸術的に誇張する作家、という意味なのである。》(ナボコフ『ロシア文学講義』ーー「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ


…………

◆『悦ばしき知識』338番 「苦悩への意志と同情者たち」より 、(「共苦Mitleid」/「共喜Mitfreude」)の叙述。

何はさておいても同情深い人間であるということは、君たち自身の身のためになることであろうか? さてまた、…苦悩している人たちの身のためになることだろうか?

―我々は最も深刻に、最も個人的に悩んでいるものは、他人の誰にもほとんど理解されえないし、窺い知られないものである。…それなのに、我々が苦悩者だと気づかれる際は、いつも、我々の苦悩は浅薄な解釈を蒙る。他人の苦悩から、その独特に個人的な契機を剥ぎ取ってしまうのが、同情という感情の本質に属したことだ。…不幸な人たちに施される大方の慈悲には、同情深い者が運命をいじり回す知的軽率さが見られて、何となく腹立たしい気持ちになる。

同情深い者は、私や君にとって不幸とされているもの、内面的いきさつやもつれの全体について、何ひとつ知るところがない! …彼らは援助しようとするが、不幸の個人的必要性というものが存在することには思いつかない。のみならず私にも君にも恐怖・窮乏・零落・暗夜・冒険・離れ業・失敗など が、その反対のものと同様に必要であることに、いや、神秘的な言いあらわしをすれば、自分の極楽に至る道が、いつでも自分の地獄の歓楽を突っ切っていくも のだということに、思い及ばない。

ああ、君たち安楽で善良なる方々よ、君たちは人間の幸福について何と僅かしか知っていないことか! ―なぜかといって、幸福と不幸とは兄弟であり双生児であって、そろって大きく育ってゆくか、あるいは君たちの場合のように、そろって―小さいままでいるからである!……

……さもあれ私は自分に次のように告げる私の道徳を秘密にしておく気はない、―お前はお前自身を生きうるために、隠れて生きよ!お前と現代との間に、少なくとも三世紀の皮膚を張りわたせ! …お前とて人を助けようとはするだろうが、しかし、お前と苦悩を一にし希望を同じくするがゆえに、その人の憂苦をお前が残らず了知している者たちだけを、助けよ、―つまり、お前の友達だけを助けよ。それも、お前がお前自身を助けるようなやり方でだけ助けるがいい。―…私は、彼らに、こんにちごく僅かな者だけが理解して、あの同情共苦の説教家たちがほとんど理解しないものを、教えようと思う、―つまり同喜共歓をだ! (信太正三訳)

◆『曙光』より「同情する人間と同情を持たない人間」

「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているのに、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、それはすでにそれ自体で、他人に対するわえわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることをしまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。

しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれがその際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快楽の衝動に服従することもやはり確実である。――快楽が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあらゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――

おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずーーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。(彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である。――しかし彼らをすぐれた意味で悪いと呼び、同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番 茅野良男訳)

ーーとだけ引用して、ニーチェの「同情」を、逆張り的に解釈するのは一面的であるに相違ない。以下、次回?、もしくはそのうちに続く(たぶん)。

ところで、同情をもたない人間は、《大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない》というのはーー、そうだなよなあ

自分が苦しんでいるときに他人への同情なんてしないだろうから。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』フロイト著作集5 p117)


現代日本では、生活苦という「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」人間が多くなったのだろうな。ーー《みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。》(「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より

「ルソーの憐れみのひと」らしい東浩紀氏がこんなこと言ってたなあ。

@hazuma: ぼくは第二次大戦については、戦争悪いとかとは別に、いちどあれだけリベラルでモダンになった日本が急速に竹槍とかモンペ一色になっていく、その文化的墜落にいつも衝撃を受けるのよね。その点では、この15年ほど似たような墜落が生じていると感じていて、このあと戦争がなかったとしても嫌だ

@hazuma: いまはバブル世代や団塊ジュニアって評判悪いけど、95年までの日本はどうのこうのいいながら余裕があって、嫌韓本がベストセラーになったりすることはなかった。それは単純にいいことなんじゃないですかね。「戦わなければ生き残れない!」とか、そりゃそうかもしれないけど、基本下品ですよ。 (東浩紀)

ーーというわけで、この話題を続けようと思ったら、百投稿ぐらい連投しなくちゃならないんじゃないか。で、やっぱり「専門家」にまかせるよ。この投稿自体、これで12000字ほどだから、そこらあたりのブログの5~10投稿分ほどはあるのだよな

原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。(森鴎外『伊沢蘭軒』 その百三)

で、問題は、専門家や学者はお上品な種族のひとがほとんどで、鼻が退化しているのじゃないか、ということだな

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。(M.ホルクハイマー、Th.W.アドルノ『啓蒙の弁証法』)


2014年9月25日木曜日

世間を真に受けぬための積極的な方法

みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦)

《率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまう》ことに苛立つことはないかい? 

「おかしいと思うのは」と彼(シャルリュス男爵)は言った、「そんなふうに戦争下の人間や事件を新聞だけでしか判断していない大衆が、自分の意見でそれを判断していると思いこんでいることですよ」(プルースト『見出された時』)

それは当然、自他ともなのだが、まずは他人の語りにだけ気づくのだっていいさ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

自分の「無意識」よりは、他人の「無意識」のほうが気づきやすいに相違ないから。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ーーここにある「虚構」という言葉にも注意しておこう。


冒頭の言葉は、フローベールの『紋切型辞典』にその起源のひとつがある蓮實重彦の長年のテーマのひとつである。

あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(『物語批判序説』)

冒頭の文には、たとえば次のような変奏がある。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』) 
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)
・同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆といいうやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。P7

・説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。P27

・制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する不可視の装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章に冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こそが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが、『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者たちは、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。P50(『物語批判序説』)

さらにトーマス・クーンの「パラダイム」概念やフーコーのエピステーメを視野に入れるなら次のようなことになる。

……だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収)

…………


《仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。》(小林秀雄

素顔が本物で仮面は贋者であるという信念や感覚、自己同一的な内面が本当の私であってそれ以外はすべて外面的で皮相的なものにすぎないとする信念や感覚は、「近代という時代そのものの病い」である。(小泉義之『倫理学』ーー仔猫の屍骸

素顔というのは、もうひとつの仮面である。素顔が本物だと信じるのは上にあるように近代以降の「病気」に過ぎない。

レヴィ・ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである。「構造人類学」》

そもそも「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」(フロイト)との「コペルニクス的転回」宣言の後、どうしていまだ素朴に「素顔」による「自分の言葉」などを信用することができよう。

カフカは、《自分の不安を根絶する》ために、いいかえれば、《救いを得る》ために日記をつけた。私にはこの動機は自然とは思えない。少なくとも終始不変とは思えない。伝統的に「私的日記」に与える目的についても同様である。もはやそれが適切とは思えない。それは《誠実さ》(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)の効用や威光と結びつけられてきた。しかし、精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が告白を空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。(ロラン・バルトーー痛みやすい果実

バルトがこう書いてからもすでに三十年以上経っている。インターネットの時代以降、さらには21世紀に入って、別のコペルニクス転回があったわけでもあるまい。

ここから逃れるにはどうしたらいいのか。最初から仮面を被っているのに意識的であるのはそのひとつの方法だろう。

小説にくらべてみた、エッセーの宿命、それは《信憑性》を避けられぬこと―――カギ括弧の排除作用なしですませられないこと。(『彼自身によるロラン・バルト』「疲れと新鮮さ」の項より

『彼自身によるロラン・バルト』の表紙裏にはこう書かれている。

《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。》


あるいは本文中には、

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物―――というより、むしろ複数の登場人物たち―――によって語られているものと見なされるべきだ。なぜなら、想像界とは小説の宿命的材料であり、自分自身について語る人間がさまよい歩く、歯形の段階構成をもつ迷路であり、その想像界を、複数の仮面(《ペルソナエ》)が分担しているのだから。それらの仮面は舞台の奥行きの深さに応じて段階的に登場している(しかもその背後には《誰も》いないのだ)。この本は、選択をせず、交替原理によって作動している。それは、単純な想像界が次々に噴出するにつれ、批評的発作が次々とおこるにつれて、進行する。が、それらの発作そのものはつねに、よそからの反響によって生ずる効果でしかない。(自己)批評以上に純粋な想像界はないのだ。この本の内実は、究極的に、それゆえ全体にわたって、小説的である。エッセーの言述の中へ第三人称が闖入し、しかもその第三人称がどんな虚構的人物をもさしていないとしたら、それは、ジャンルというものの再編成が必要であることを示している。すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。

たとえば、現在、政治的発言を「真摯に」繰り返すひとたちも「象徴的仮面=偽善の面」を被っているのに意識的であるひとはいるだろう。そしてそれはなんら否定されるものではない。

人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。(柄谷行人 「マッチョイメージとしての「革命家」

あるいは、瞞着、すなわち世間を真に受けぬための積極的な方法だってときには必要さ。

【瞞着Mystification】

もっぱらこっけい味のある欺瞞を指すものとして、リベルタン精神の横溢する十八世紀のフランスにあらわれた、それ自体おもしろおかしい(神秘〔ミステール〕という言葉に由来する)新語。ディドロはとてつもない悪ふざけをたくらんで、クロワマール侯爵に、ある不幸な若い修道女が彼の保護を求めていると、まんまと信じこませてしまうが、このときディドロは四十七歳。数ヶ月のあいだ、彼はすっかり感動した侯爵に宛てて、実在しないこの女のサイン入りの手紙を書き送る。『修道女』――瞞着の果実。ディドロと彼の世紀とを愛するための、さらなる理由。瞞着とは、世間を真に受けぬための積極的な方法である。(クンデラ「七十三語」(『小説の精神』)所収)




2014年9月21日日曜日

「世界は女たちのものだ」

日曜日だな、反フェミとの「汚名」を濯ぐため、「女性」を顕揚してみよう。

@HistoryInPicsより



若いときにこういった写真をみて、ああ、うらやましいなあ、オレも一度はこのお零れにあずからなくちゃな、と思わない男は、やっぱりどこかいかがわしいぜ、ちがうかい?

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)

ところで「いかがわしい」とは便利な言葉だが、若く聡明なきみたちは多用しないほうがいいんじゃないか? 相手にされなくなるぜ。多用するヤツは、オレのように「いかがわしい」ヤツだな。

……イカガワシサときみがいい、H氏やK氏の僕への言葉だともいうんだが、きみ自身として当の言葉をよく考えてのことだろうか? そのように僕は内心の思いを展開させていたのだ。鋏でよく髯を刈りこんでいるが、それゆえにかえって薄汚れた風情の、若い同胞よ。初対面の会話できみが軽く使う、その言葉を、僕は相当の心づもりに立たずには使ったことがない。いったいきみはどういう対決の理由があって、この旅先まで僕を訪ねて来ているのか? それをまず聞くことができれば、話は早手まわしとなるはずだが。きみがイカガワシサという言葉について、それを発したとたんに始まる厄介な闘いへの、心準備なしにしゃべりたてる人物なら、僕として真面目に答える必要もないわけだ……(大江健三郎「見せるだけの拷問」)




役者がちがうって感じだな、ーー「なんなの、ダリ坊や?」

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

もちろんうらやましがるのは、こっち系でもいいのだが
これはやっぱり十代~二十代に修業を積んでからじゃないか

江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。(永井荷風「伝通院」)


ここで唐突にロラン・バルトと吉岡実のまねをしてわたくしの好きなものを書き出そう。

といっても吉岡実のようにイキに書けるわけではない、《ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ……》(私の好きなもの(吉岡実、ロラン・バルト)





《私の好きなもの》、女の腰、脚、足指、チェロ、太股、イタリア産のサラミ・生ハム、サフランのリゾット、山羊のチーズ、恥垢の臭いがかすかにする女の膝で耳かきしてもらうこと、三時間後のCHANEL ANTAEUSの首筋の香り、五時間後のCHANEL五番の女の髪の匂い、くちなしの白い花と香り、散歩途次の金木犀の匂い、生牡蠣、トリュフ入りチョコレート、ヴェトナムカフェ、白い肌に真っ黒い縮れた腋毛、カンボジア産の葉煙草(なかったらダンヒルでもダビドフでもいいさ)、ダンヒル製のパイプ、40年代ロレックス、鮒寿司、このわた、テニスでトップスピンサーブがきまること、川蟹タマリンド煮、初期ヴェンダース(都会のアリスなどの三部作)、フォレ、ドガの踊子、タンニンくさい濃厚な赤ワイン、プルースト、丘のうなじ、西脇順三郎、吉岡実、バッハはあげたくないがあげる、かっこつけてヴェーベルン、霧のかかった高原の朝のかたつむりの白い足跡ーーといってもニブイヤツがいるからつけ加えておくよ、《枝をたわめている野性の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つく》(プルースト)ーー、飯田線で温泉場にいくこと(縄と蠟燭持参)、がらがらの渥美線で終点までいくこと(象徴的ファルス持参)、ーー象徴的ファルス? わからないだろうなこれもーー





伊良湖岬まで女とともにバスの最後部席でいちゃついて擦れ違うトラックを溝に嵌めること、夕刻、下穿きを履かずに浴衣で女と散歩すること(温泉場だぜ、もちろん)、マイルス・デーヴィスの「Kind of Blue」が好きな酔っ払い女、木綿のワンピースを無造作に着た汗ばむ女など






男ってのは、やっぱり女にかなわないんじゃないか?
いまごろようやく悟るってのもなんだが。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)





ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity(1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)




若い男性たちよ、安心したまえ! きみたちが悪いのじゃない。ただ女性たちが真実を語り始めた〈不幸な〉時代に〈運悪く〉生れ合わせただけさ

ーー《女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである》(ヴァージニア・ウルフの『私ひとりの部屋』)

・女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。

・文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。

・つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。

・鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。





《男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてる》だって? マイッタネ

さきほどつけ加えるのを忘れた、私の好きなもの、女の去勢。

……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(フロイト『呪物』ーー倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)



もっとも、男性諸君! こっちのほうだけは牛耳られないほうがいいらしいぜ、あとはどうでもいいさ。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)



ある写真が気に入り、それに心をかき乱されると、私はいつまでもそれにこだわる。そうやって写真を前にしているあいだずっと、私は何をしているのか? 私は写真に写っている事物や人間についてさらに詳しく知ろうとするかのように、写真を見つめ、子細に検討する。……(ロラン・バルト『明るい部屋』p123)

どうしてこんな「平凡な」写真に心をかき乱されるんだろ? なにが突然向うからやってきたというのだ? 覗き窓から覗くようにして学生たちが宴の卓を囲んでいるのが見える(背中を向けているのは教師か)。若く知的な男女の慎みと節度、はじらいの気配に領され、無礼講になるようすはまったくない……

まあ、いいさ
オレの一見反フェミ風というのは、こういうことだぜ

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)

ーーというわけで、文明国の男女のみなさんは、こういったものを読んどかなくちゃな

イラク北西部、ヤズディ(ヤジディ)教徒の町シンジャルを制圧したイスラム国は、住民の殺戮と迫害を開始した。イスラム過激派から「邪教」とされてきたヤズディ教は銃をつきつけられ、イスラム教への改宗を迫られる。さらに数百人を超えるヤズディ教徒の女性を集団拉致。戦闘員と強制結婚させられたり、「奴隷」として売られたりしたという。その多くは今も行方不明のままだ。このひと月間に女性たちの身に何が起こったのか。イスラム国に拉致され、脱出してきたばかりの女性は声を震わせながら語った。(イラク北部ザホー 玉本英子

ーーとすれば日曜日にはふさわしくない読み物かい? ならば、

季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)

この何年かのあいだでめぐり合ったもっとも忘れ難い女の表情の画像も附載しておくよ。








2014年9月17日水曜日

マッチョイメージとしての「革命家」

さて、〈とかくうわつ調子な〉「議論しないこと」と「ほっとく」能力などという記事を、たとえばクンデラに批判されてみよう。

二十歳で共産党に入党したり、あるいは小銃を手にして、ゲリラに参加して山岳地帯に入ったりする青年は、革命家としての自分自身のイメージに魅惑されているのである。なにしろ、そのイメージによって彼はすべての他人と区別され、そのイメージによって彼自身になれるのだ。(クンデラ『不滅』)

たとえば若い時代に左翼系の論客なり新聞記者なりとして自らの職業を選択した者は、その自分自身のイメージに生涯魅惑されている、ということはありうる。そして、そこにマッチョの臭いを嗅ぎつけるひとが数多いるのは十分に憶測される。

もちろんもっと短期的な視野でもよい、「革命家」や「ラディカル左翼」して己を選択するのは、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い》(中井久夫)――のかもしれない。もっと一般化して言えば、人間にとって卑怯と勇気とはしばしば紙一重」であるだろう。

マッチョのイメージは、人を惑わせる仮面として経験されるのではなく、人がなろうと努力する理想の自我として経験される。男のマッチョイメージの裏には、なにも秘密はなく、彼の理想に恥じない行動をとり難いただ弱々しいごく普通の男があるだけだ。(私訳)

the macho-image is not experienced as a delusive masquerade but as the ideal-ego one is striving to become. Behind the macho-image of a man there is no secret, just a weak ordinary person that can never live up to his ideal.(Zizek Woman is One of the Names-of-the-Father)

そうだろう、どのマッチョの仮面の裏にも、弱々しいごく平凡な男がいる。マッチョでなくてもよい。理念や正義を語り行動する人たち、彼らに胡散臭さを感じる人々がいるのは止む得ない。彼らを冷笑する露悪主義者たちは、いつの世にも存在する。


理念や正義? 良心や超自我?


良心とは、一般に信じられているように「人間の中なる神の声」などではないということ――良心とは、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので方向を変えて内面へ向かうようになった残虐性の本能であるということ。( ニーチェ『この人を見よ』)

ここにはすでに『快原則彼岸』以降の後期フロイトがいる、「死の欲動」を語ったフロイトが。すなわち超自我は外的なものではなく、攻撃欲動が自分自身に向かうことによって形成されるとしたフロイトだ。

罪責感に本質的かつ共通な点としては、それは内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った(フロイト『文化への不満』)

だが、《たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。》(柄谷行人ーー「世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれ」(大岡昇平)

偽善は統整的に働くのだ。


たとえば、われわれが自然を認識できるだろうという「統整的理念」は、事実、発見的に働くのである。マンハッタン・プロジェクトに関与したというノーバート・ウィーナー(サイバネティックスの創始者)は、原爆製造に成功した後、防諜上最大の機密とされたのが、原爆の製造法ではなく、原爆が製造されたという情報であったといっている。同時期にドイツ・日本でもそれぞれ原爆の開発を進めていたので、それが製造されたという事実がわかれば、たちまち開発に成功するからである。詰め将棋の問題は実戦におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情報である。自然界が数学的基礎構造をもつというのもそのような理論的な「信」である。この意味で、もし近代西洋においてのみ自然科学が誕生したとしたら、このような「理論的信」があったからだといってよい。(柄谷行人『トランスクリティーク』 p83-84)

ただここで統整的な理念と構成的な理念の相違には注意しておこう。

理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することであり、目的が構成的になったしまえば、それは暴力的強制となる。運動者による「正義」の主張が、統整的であるのか構成的であるのかはよく見極めねばならない。(参照:柄谷行人「第一回長池講義 講義録」

運動者の「正義」が統整的なものであるなら、どうして彼らが「マッチョ」のようにみえて悪いわけがあるだろう? いや本来、ひとは構成的理念の正義の人物のみをマッチョと見なすべきだとしてもよい。だが、いわゆる「正義」のために活動している人物をすべてマッチョ的だと見なす傾向にあるのではないか。

シニカルな露悪主義者たちーー善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心している彼らーーは決定的に間違っている。騙されない者は彷徨うのだ。


マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent

ーーといささか断定的な口調で書いたが、これらも柄谷行人とジジェクから読みとれるひとつの「政治的な」態度に過ぎない。ただいまのところこの態度をとりたいと、残念ながら非行動主義者でしかありえないわたくしは、このように「統整的に」考えているだけの話である。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

…………

ところでジジェクの最近の書(2012)にはカントの「統整的理念」への批判(吟味)がある。

The Kantian “regulative Idea” is on the side of desire with its forever elusiveobject‐cause: with every object, the desiring subject experiences a “ ce n’est pas ça” (this  is not that—not what I really want), every positive determinate object falls short of the elusive spectral “X” after which desire runs. With the Idea as the principle of division, by contrast, we are on the side of the drive: the “eternity” of the Idea is nothing other than the repetitive insistence of the drive. However, in the terms of the triad of Being/World/Event, this solution only works if we add to it another term, a name for the terrifying void called by some mystics the “night of the world,” the reign of the pure death drive. If an individual belongs to the order of being, if a human (being) is located in a world, and if a subject has its place within the order of an Event, a neighbor always evokes the abyss of the “night of the world.” Our hypothesis is that it is only with reference to this abyss that one can answer the question “How can an Event explode in the midst of Being? How must the domain of Being be structured so that an Event is possible within it?” Badiou—as a materialist—is aware of the idealist danger that lurks in the assertion of their radical heterogeneity, of the irreducibility of the Event to the order of Being:(ZIZEK “LESS THAN NOTHING”)
One should be careful not to read these lines in a Kantian way, conceiving communism as a "regulative Idea:' thereby resuscitating the specter of an "ethical socialism" taking equality as its a priori norm-axiom. One should rather maintain the precise reference to a set of actual social antagonisms which generates the need for communism-Marx's notion of communism not as an ideal, but as a movement which reacts to such antagonisms, is still fuly relevant. However, if we conceive of communism as an "eternal Idea:' this implies that the situation which generates it is no less eternal, i.e., that the antagonism to which communism reacts wil always exist. And from here, it is only one small step to a "deconstructive" reading of communism as a dream of presence, of abolishing all alienated re-presentation, a dream which thrives on its own impossibility. How then are we to break out of this formalism in order to formulate antagonisms which will continue to generate the communist Idea? Where are we to look for this Idea's new mode? (Zizek "First As Tragedy, Then As Farce")

“night of the world”という表現が見られるように、カント対ヘーゲルの文脈でも読みうる文である。

人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

ーーというわけで、カントやヘーゲルをまともに読んだことのないわたくしにはお手上げであり、聡明なひとたちに、それぞれ勝手に考えていただくことにしよう。



2014年8月16日土曜日

虚栄心の海に浸る孔雀の俳優

ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本質が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。(……)ぼくたちの自我というものは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、それにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。(クンデラ『不滅』)


《われわれの基礎となる(生の)奮闘は、観察することではなく、舞台の場面の部分になること、まなざしに自身を曝すこと、――現実の人物の明確なまなざしではなく、存在しない純然たる〈大他者〉の〈まなざし〉に曝されること。》(ジジェク)

哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(クンデラ『不滅』ーー「自己模倣と自己破壊(中井久夫)」より)

ーーだよな
だからかっこつけるなよ

哲学者のなかには
俳優であることを肯定するニーチェもいるがね

徳の俳優と罪の俳優。――徳のために有名になった古代の人々の間には、自分自身に対して俳優を演じた人々が数えきれないほど多数いたように思われる。ことにギリシア人は、根っからの俳優であるから、このことをまさしく全く無意識的に行ない、よいことだと思ったであろう。その上各人は自分の徳で、ある他人の徳または他のあらゆる人々の徳と競争していた。自分の徳を見せびらかすために、何よりもまず自分自身に見せるために、練習のためにさえも、あらゆる手段に訴えてどうしていけないのだろう? 示すこともできず、示し方を心得てもいな徳が何の役にたとうか! ――これらの徳の俳優たちを阻止したのは、キリスト教である。その代わりにキリスト教は、罪の不快な顕示と誇示を案出し、捏造された罪深さを世界にもちこんだ(今日にいたるまで、立派なキリスト教徒の間では、これが「上品な作法」と見なされている)。(ニーチェ『曙光』29番 茅野良男訳)

もっともこうも書くのだが。

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。(同上)
おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、(……)

よこしまな贋金造りよ、おまえにはほかにしようがないのだ。おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。

(……)おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だ(同上)

ーーさあて、どうしたものか
これがニーチェがわれわれを宙吊りにする方法だ
ナイーヴな学者や研究者たちは
ニーチェが矛盾しているというが
あれかこれかの精神
不確実性の知恵には縁がないのだろうよ


人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)


無能性の連中はほうっておいたらいい
小説も読まない読めないのだろうから

徳の俳優と孔雀の俳優
贋金造り
根柢からの嘘つき
虚栄心の海というが
われわれは概ね孔雀の俳優さ
徳の俳優と孔雀の俳優は紙一重だな

見も知らぬ奴がいきなりヘドを吐きながら
きみに向かって倒れかかってきたら
きみはそいつを抱きとめられるかい
つまりシャツについたヘドを拭きとる前にさ

ぼくは抱きとめるだろうけど
抱きとめた瞬間に抱きとめた自分を
ガクブチに入れて眺めちまうだろうな
他人より先に批評するために
……

――谷川俊太郎『夜中に台所でばくはきみに話しかけたかった』(反吐と同情


やや文脈が異なりはするが
上に引用したジジェクの文の前後を
すこし長めに引用しておこう

だがはたして本当に文脈が違うだろうか?

◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』より(テキトウ訳)

……ラカンの公式:どの絵にも死角(盲点)があり、私が見つめている絵は、この点から、まなざしを返す(私を見詰め返す)。この背景に対して、われわれは、フロイトの欲動の再帰的特性におけるラカンの命題を、“se faire …”(視線の欲動は見る欲動ではない、見る欲望と対照的に己れが見られるなどの欲動である)という立場として読むべきだ。ラカンはここで人間の条件の最も基本的な「気取り、劇場性」theatricalityを指摘しているのではないか?われわれの基礎となる(生の)奮闘は、観察することではなく、舞台の場面の部分になること、まなざしに自身を曝すこと、――現実の人物の明確なまなざしではなく、存在しない純然たる〈大他者〉の〈まなざし〉に曝されること。

Hence Lacan’s axiom: in every picture, there is a blind spot, and the picture at which I look returns the gaze (stares back at me) from this point. It is against this background that one should read Lacan’s thesis on the reflexive character of the Freudian drive, as the stance of “se faire …” (the visual drive is not the drive to see, but, in contrast to the desire to see, the drive to make oneself seen, etc.). Does not Lacan here point towards the most elementary theatricality of the human condition? Our fundamental striving is not to observe, but to be part of a staged scene, to expose oneself to a gaze—not the determinate gaze of a person in reality, but the non‐existing pure Gaze of the big Other.
(……)われわれは元来、現実のドラマの観察者ではなく、存在しないまなざしの空虚にとって上演されたタブローの部分である。そして派生的なときにのみ、われわれはステージを見る者と決めてかかる。耐え難い“不可能な”ポジションとは俳優のポジションではない。公共の観察者のポジションである。

(……)we are not originally observers of the drama of reality, but part of the tableau staged for the void of a non‐existing gaze, and it is only in a secondary moment that we assume the position of those who look at the stage. The unbearable “impossible” position is not that of the actor, but that of the observer, of the public.
これがわれわれに齎してくれるのは、ラカンの幻想の可能なる定義である。その幻想とは、想像的なシナリオとしてのものであり、不可能な場面を上演する。その何かは、不可能な点からのみ見られうるものである。幻想の場面とは、“アウラ的現前”のタームに完全に値する。もちろん、それが不可能性の点を含んでいる限りではであり、またそれは、対象aを上演するとも言いうる。実際、ラカンのシニフィアンと対象aのカップルは、表象と現前の差異に相応するのではないか? 一方では、どちらも、主体の、代役stand‐ins、仮の場place‐holders、主体を再-現するシニフィアンであり、他方では、対象は現前にて輝く。この意味で、われわれは次のことについて語っている――ジャック=アラン・ミレールを引用するがーー「対象aを通した主体の表象、‘表象’という言葉がここではふさわしくないということを除くが。ひとは、表現(搾出化)expression、現前化presentation、同一化 identificationとすべきではないか」。

This brings us to a possible Lacanian definition of fantasy as an imaginary scenario which stages an impossible scene, something that could only be seen from the point of impossibility.58 A fantasy scene is what fully deserves the term “auratic presence.” Insofar as it involves the point of impossibility, it can also be said to stage the objet petit a. And, indeed, does not the Lacanian couple of signifier and objet a correspond to the difference between representation and presence? While both are stand‐ins, place‐holders, of the subject, the signifier re‐presents it, while object shines in its presence. In this sense, we can talk about—I quote Jacques‐Alain Miller here—“the representation of the subject through the objet a, except that the word ‘representation’ does not suit. Must one posit an expression, a presentation, an identification?”59
まさに対象aは主体を再現しないのだから、われわれは主体と対象aを接続すべきではない(幻想の式:$‐aが接続しないのと同じように)。われわれ自身を制限すること、ただ aに置き、そして、光線に置くことのみに。光線とは密かな現前なのだから。それは、現前化、搾出化、同一化というよりもむしろ主体の抹消effacementとしての現前である。ここでの問題は抹消である……。主体はここでは、本質的にその抹消として現われる、抹消されるという仕方を以って。ラカンは名づけたではないか、言葉の偉大なる経済性にて、新造語:effaconと。

Precisely because the objet a does not represent the subject, we should not conjoin them (as in the formula of fantasy: $‐a), limiting ourselves to putting only a and putting rays about it, rays because of the implicit presence, of presence as effacement of the subject, since, rather than of representation, of expression, of identification, it is a question here of effacement … The subject is present here essentially in its effacement, in its fashion of being effaced, what [Lacan] calls, with a great economy of words, using this neologism: the effacon.


※参照:Introduction à la lecture du Livre XVI D’un Autre à l’autre Catherine Bonningue

――この論はその多くをミレールから参照しているようだ(仏語はほとんど読めない身であり、ただ貼付するのみ)。

《Nous reprenons ici de très près « Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre », de Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne n° 65 à 67, Paris, Navarin/Seuil, 2006, 2007.》

Lacan nous fait apparaître le destin de tout sujet, qui est, du fait qu’il parle, d’avoir un inconscient. Un être écorné. Le sujet est ici effaçon, toujours effacé, laissant le Je, ébauche du parlêtre, prendre sa place. C’est un sujet surgi du rapport indicible à la jouissance, être du sujet, la jouissance faisant la substance même de la psychanalyse. La jouissance, un absolu pour le sujet.

 …………

『LESS THAN NOTHING』に戻る。

ラカンのここでのひねりは、対象aの現前は、表象化のギャップ、失敗を満たすということ。彼の公式は、バーの上の対象aのそれであり、その下には、S(A)、斜線を引かれたシニフィアン、非一貫性の他者がある(引用者:ここでジジェクはS(A)としているが、正確にはS(Ⱥ)だろう、記述上の問題か? 通常、a/ S(Ⱥ) と記述される文脈での話の筈)。現前する対象は、フィルターであり、穴埋めstop‐gapである。われわれが象徴界と現実界とのあいだ、意味と現前のあいだの緊張に直面したとき、――ここでの現前とは、象徴界がスムーズに運行するのを妨害する現前の出来事であり、象徴界のギャップと非一貫性において生じるものであるーーわれわれは現実界がまさに象徴界の一貫性の内部から腐蝕する成り行きに焦点をあわせるべきだ。そして、たぶん、われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。

Lacan’s twist here is that this presence of the objet a fills in the gap, the failure, of representation—his formula is that of the objet a above the bar, beneath which there is S(A), the signifier of the barred, inconsistent other. The present object is a filler, a stop‐gap; so when we confront the tension between the symbolic and the Real, between meaning and presence—the event of presence which interrupts the smooth running of the symbolic, which transpires in its gaps and inconsistencies—we should focus on the way the Real corrodes from within the very consistency of the symbolic. And, perhaps, we should pass from the claim that “the intrusion of the Real corrodes the consistency of the symbolic” to the much stronger claim that “the Real is nothing but the inconsistency of the symbolic.”

2014年8月6日水曜日

キッチュの華

古義人は小林秀雄訳『別れ』をまだ松山に転校して行く前、愛読していたのだ。(……)吾良がそこに書き写してある前半の結びの、
《だが、友の手などあらう筈はない、救ひを何処に求めよう。》
という詩句にこだわるとしたら、と考えもしたのだった。

(……)
――あの翻訳は、自分勝手な感情移入をしているようではあるが、やはりいいねえ!
――そうだね、と古義人は声に喜びが滲み出るのを押さえず答えたのだ。

二年前、この詩を書き写しながら、古義人は、その最初の行が、俺達はきよらかな光の発見に志ざす身ではないのか、という、その俺達と呼びかける友達がいない、と感じたものなのだ。

いま、ここに俺達の片割れがいて、同じ詩に感動している、と古義人は思った。もっとも当の詩は、さきのような前半の結びに到るものだったけれども。

大江健三郎の『取り替え子 チェンジリング』からだが、古義人は大江自身、吾良は伊丹十三がモデルである。


いまここにあるのは小林秀雄訳じゃなくて、この間、きみの推選されたちくま文庫版だがな、あらためてそれで『別れ』を読んでみると、おれのいったことは、その後のおれたちの生涯によって実証されている。まったくね、痛ましいほどのものだよ。

あの書きだしのフレーズを、きみが好きだったことは知っているよ。おれも同じことを口に出した。しかしあの時すでに、おれはあまり立派な未来像を思い描いていたのじゃなかった。そしてそれも、ランボオの書いていることに導かれて、というわけなんだから、思えば可憐じゃないか? それはこういうふうだったのさ。

<秋だ。澱んだ霧のなかで育まれてきた私たちの小舟は、悲惨の港へ、炎と泥によごれた空はひろがる巨大な都会へと、舳先を向ける。>というんだね。

それに続けて、都会での<また、こんな自分の姿も思い浮かぶ。>というだろう? <泥とペストに皮膚を蝕まれ、頭髪と腋の下には蛆虫がたかり、心臓にはもっと肥った蛆虫がむらがっていて、年齢もわからなければ感情もないひとびとの間に、長ながと横たわっている…… 私はそこで死んでしまったのかも知れないのだ……>

これはじつに正確かつ具体的な、未来の予想だと、おれは保証するよ。きみのことは知らないが、とまあここではそういっておこう! おれ自身の近未来像を思えば、まったくドンピシャリだ。(……)

のみならず、次のフレーズにいたるとね、おれはやはり自分の作った映画のことを思うんだだよ。<私はあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した。新しい花、新しい星、新しい肉体、新しい言語を、編み出そうと試みた。超自然の力を手に入れたとも信じた。>
 
古義人のことをね、定まり文句で嘲弄するやつがいるね。サブカルチュアに対して差別的な、時代遅れの純文学、純粋芸術指向のバカだとさ。しかし、おれはそうは思わないんだ。きみの書いているものをふくんで、あらゆる文学が、むしろあらゆる芸術が、根本のところでキッチュだ、と長らく小説を書いてきたきみが承知していないはずはないからね。そうしてみれば、おれの作った、お客の入りのすこぶるいい映画をね、おれ自身、もとよりキッチュな光暈をまといつかせてやってきた。おれはあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した、とホラを吹いたとして、きみは笑わないのじゃないか?
(……)さて、それからランボオはこういうんだ。<仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。>
<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。>
いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 

きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!

十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。

伊丹十三の妹は、大江健三郎の妻であることは、あらためて言うまでもないが、やはり言っておこう。




――あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝くような、風変わりなほど新しい表現があって……

それが永いメキシコシティー滞在の後、翻訳じゃなく外国語で本を読むようになってから、あなたの使う言葉の感じが変わったと思う。新しい深さが言葉に反映している、とは思うことがあるのよ。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。小説に使われている言葉もそうじゃないかしら? 成熟ということかも知れないけれど、以前のようにキラキラした言葉はなくなった。そう考えているうちに、私はあなたの小説を読まなくなってしまったのね。それで、この十五年ほどの小説のことはなにもいえないけれど、そうした変化と、翻訳より原語で読む方が多くなったということと、関係があるかも知れないと思って……原書を読む人こそ、日本語にない面白さを持ち込む、と考えるのが普通かも知れないけれど……

――それは本当にそうかも知れないね。僕の本の売れ行きが下降線を示しはじめたのは、四十代後半からだからね。あまり翻訳を読まなくなった時期と一致するよ。きみのいうとおり、キラキラする面白さが薄れたのかも知れない。翻訳されたものを読む面白さには、原語から読みとるのとは別の、いうならば露骨なものがあるんだよ。あれをこう訳すか、これだけやっていいものか、と驚きながら、自分にはこの日本語は生み出せない、と感服することがよくあるものね。とくに若い有能な翻訳者には、異能といっていいほどの力を示す人がいるよ。(……)

――フランス語の新しい作品を翻訳する、若い人の文章には、突飛な面白さがあるねえ、といった。

――まあ、そうだね、アメリカ西海岸の大学の、直接フーコーの影響下にいる連中などは別として、英語の文章はそれ自体地道だものね。とくにイギリスの学者が書くものは…… 僕の文章がキラキラしなくなったというのは、ブレイクからダンテ研究まで、おもにケンブリッジ大学出版局のモノグラフを読んできたことと関係があるかも知れない……P64-65


ーーというわけで、キッチュをキニスンナよ、そこのきみ! 

きみのは《純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 
篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、
古義人がついにセンチメンタルになって、
そう言い張ろうとする時だったぜ!》

というわけで、きみがセンチメンタルになったとき、オレは貶すだけさ
篁さんだって、キッチュに決ってんだ。





ただキッチュどんぴしゃなのに
自分は「芸術的」だと思ってる手合いがいるんだよな

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」)

最近は女性だけじゃないからな
それだけはやめとけ!



《キッチュな人間のキッチュな欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡の覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である。》(クンデラ「七十三語」)

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする 涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)
キッチュが呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従ってキッチュは滅多になり状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。恩知らずの娘、問題にされない父親、芝生を駆けていく子供、裏切られた祖国、初恋への思い出。

キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! 

第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類を感激を共有できるんは何と素晴らしいんだろう!

この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである。

世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できるのである。

世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。政治家は身近にカメラがあると、すぐ一番近くの子供に駆け寄り、その子を高く持ち上げて、頬にキスする。キッチュなものはあらゆる政治家、あらゆる政党や運動の美的な理想なのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P290-291)

ところで、きみ!
《言葉が他者の凝視に対峙したとき、そのときエクリチュールは真の産声をあげ》
などと書くのは、かなりヤバイぜ
上に挙げた偏屈ものの小説家や批評家たちだったら
鼻を抓むぜ!
とくに《エクリチュールは真の産声をあげ》というのは
いままでどれだけ繰り返されてきた台詞だろうか?
《昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、
ふと口から漏れてしまったような印象》(蓮實重彦)
「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」ような
三文小説家をめざすならまだしも

→ 大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ


すこしまえ、デモーニッシュの嘲笑という表題で書いたんだが、
投稿を思い留まったんだよ
だがここに附録のようにしてつけ加えておくことにする
やっぱりこれだけはやめといたほうがいいんじゃないかい?

…………

「デーモニッシュなシューベルト...

どうしてこんなにも惹かれるのかしら」

などとどこかのオジョウサンが呟いておられる
のを垣間眺めて寒いぼが立ってしまう
これはどういうわけだろうか?
とは捏造された疑問符であり
オレが偏屈もののせいにきまっている

そうはいってもなぜなのか
そもそもシューベルトといえば
デモーニッシュというに相場が決っている
手垢にまみれた形容詞デモーニッシュ
デーモニッシュなシューベルトなんて
「銭湯の壁画みたい」(丹生谷貴志)

《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。
そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(蓮實重彦)

金井美恵子あたりなら、その毒舌の真っ先の矛先
いや矛先どころか絶句してただちに背を向けるだろう

《おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足
に改めて愕然とさせられる》

ああ恥ずかしい! でも安心しろ
ダイジョウブだ、もはや金井美恵子の
凶暴な繊細さと大胆さは通用しない時代だ

あたしなんかよりニブイひとたちが書いているという
安心感を無責任に享受しうる媒体の猖獗
《「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛》(蓮實重彦)
の時代なんだから
「はしたなさは進歩する!」
とはフローベールは言っていない
「愚かさは進歩する!」だけだ
だが似たようなもんだぜ、
フローベールの愚かさは凡庸なんだから

凡庸な資質しか所有していないものが、その凡庸さにもかかわらず、なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚こそが、今日における文学の基盤ともいうべきものだからである。文学と文学ならざるものとは異質のいとなみだという正当な理由もない確信、しかもその文学的な環境にあって、自分は他人とは同じように読まず、かつまた同じように書きもしないとする確信、この二重の確信が希薄に共有された領域が存在しなければ、文学は自分を支えることなどできないはずだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

まともな感性があれば決して書きえない言葉
ーーなどとはオレはケッシテイワナイ
そらこの通り、お馬鹿さんトリオの媒体のひとつに書き綴っている
オレにもまともな感性はないさ

はしたない感性しか所有していないものが
そのはしたなさにもかかわらず
なお自分がそのはしたなさから識別されうるものと信じてしまう
薄められた上品さの錯覚ってヤツだぜオレのはな
それに手垢にまみれた形容詞でも活きることはあるのだから

《形容語句に生き生きとした魅力を与えるのは、
しばしばそれが置かれている位置であり、
隣接する言葉がそれに投げかける反映なのである》(ナボコフ)

ああでもそれにもまして
「どうしてこんなにも惹かれるのかしら」だって?
これだけはやめとけ!
なんというホモセンチメンタリスぶり!

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』)

感傷にひたる俗物を批判するのが文学のつとめだ
というのはナボコフだ
《俗物は文学や芸術のことは何一つ知らないし、
知ろうともしないが
──俗物は本質的に反芸術的である──
情報は求めているし、
雑誌を読む習慣は身につけている》(ナボコフ)

それにまだあるんだな
「デーモニッシュなシューベルト...」の三点リーダー
《わたくしが耐えがたかったのは、
このような点を平気で書くことや、
それが印刷されたものを眺めて
恥ずかしさを感じない連中が
少なからずいたことでした。
そんなややつは馬鹿だ、と》(蓮實重彦)
――《あれが許されるのは歌謡曲の世界でしょう。
あとは丹生谷貴志さんくらい》

ゴメンアソバセ!
偏屈者の書き手の文ばかりあげてしまった
でも「はしたなさ」の権化のような囀りだぜ
いやオレだって「…」の曖昧な情緒に溺れて
いい気持ちになることあるさ
他人の囀りのはしたなさを俎上に上げるなんて
厚顔無恥だわ…
もう、いけずやわあ。うちそんなん、よう言わん
粗暴とさえいえる

《おわかりだろうが、わたしは、
粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。
粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、
現代的な柔弱が支配するなかにあって、
われわれの第一級の徳目の一つである。
--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、
不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある》(ニーチェ)

デモーニッシュとは由緒正しい言葉だ
ゲーテの著作に頻出する
「デーモンのdämonisch嘲笑」(『詩と真実』)
いまやってるのはデモーニッシュな嘲笑さ

ソクラテスのダイモーン起源でもあるらしいな
アドルノやトーマス・マンにも頻出するさ
ニーチェのディオニソスと並べてね
だが《ディオニソス的なニーチェとは異なる
プラトン的なニーチェというものを想定せねばならない》(ドゥルーズ)

「どうしてこんなにも惹かれるのかしら」
などという自己耽溺の破廉恥な囀りを
破廉恥とさえ感じない連中があまた
棲息するのがインターネットというものだ
《それを崩れと観るという感受性それ自体が、
こんなに萎えてしまっているのではねえ》(松浦寿輝)

《女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、
という考えに熱中するあまり、
すっかり自分が高まっちゃった、
と思い込むことであります》(三島由紀夫)

エスにたいする自我の弱さ、われわれのうちにあるデモーニッシュなものにたいする合理性の弱さについて、無数の声がこれを強調し、この言葉を、精神分析学の「世界観」の支柱とみなそうとしている。だが、分析家がこれほど極端な党派にかたよらぬようにするものこそ、抑圧の効能についての知恵ではなかろうか。(フロイト『制止、症状、不安』)

さてなんの話だったか
ああ「デーモニッシュなシューベルト...

どうしてこんなにも惹かれるのかしら」
おそらく物を書くとは、こう内面でひそかに呟いて
それを表に出さずに、「翻訳」することなのだ
《書くことは語らないこと》(デュラス)

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

わかってるさ
これももはや通用しないのは。
今の日本ではもうイロニーさえない。
《たんに夜郎自大の肯定があるだけです。
はっきりいって、現在の日本には何も無い。
そして回復の余地も無い》(柄谷行人)
ーーなどと言う旧世代の死にかけたオッサンたちは
ほうておけばよろしい
厚顔無恥の夜郎自大の彼岸にある
来るべき「批評」!
美しき羞恥心の魂の果物

これは、志賀直哉の小説で読んだと覚えているが、父親が病気の子供をかかえて、夜の闇の中を医者のもとに走るーーあるいは、子供をおいて医者を呼びに走るーーその時、彼は、シューベルトの歌《エリケーニヒ(魔王)》を思い出し、何といやな歌だろう、こんな歌を書いたシューベルトとは何といやな男だろうと呪う。志賀直哉という人も、少なくともここでは、自分の感情をむき出しにぶつけて書いているという印象を与えずにはおかないけれども、しかし、その中には真実な直観がある。シューベルトという男は、疑いもなく、人間の心の奥底にある何かにじかにぶつかり、そこに眠っている深い恐怖をひきずり出してくることのできた芸術家である。

《エルケーニヒ》には、馬のはしるところの描写だとかいう三連符のリズムの持続音型があるわけだが、それはそう思ってきけばというだけの話だけであり、まして《死と乙女》には、そういうモチーフはまるでない。ここでの三連符が死神の象徴ということにはならない。しかし、彼はどんな標題楽作曲家もやれないような形で、音楽を通じて、特定の感情をきくひとからひきだす。そうしないではいられなかった男である。

だが、シューベルトにできたのは、こういう鬼気迫る、凄みだけではない。《ぼだい樹》の三連符――風にそよぐ大樹の葉ずれの音といわれている、あのモチーフ。それと組みあわされた旋律。あれは、きくものをどんな子守唄よりも、もっと深い、私たちの生命の根源にあるところまでつれていって、その眠りの中に誘い入れる魔力をもっている。トーマス・マンが《魔の山》の終りで、戦死した主人公の最後の意識の中で浮びあがらせるのが、この旋律であるのは、この音楽のもつ真実と完全に一致する。ここでは、死は解放であり、安息なわけだが、音楽が生まれてきたのは、その死からだといいたくなるほどである。



シューベルトには、音楽にしかない道を通って、こういう生死の根源的な源泉にじかにぶつかるという経験を、きき手に味わせずにはおかない能力がある。それは、きき手の深い陶酔の中で行われるのだが、その時、きき手は何も、いつも、志賀直哉の小説の主人公のように、闇夜の苦悩の中にいる必要はない。いや、正反対である。それは、あの《ます》の歌の澄んだ、平明な三連符の躍動の中にもあるのだし、《水車小屋》の若者といっしょに、小川の流れのモチーフを口笛で、何回もくりかえしていたってかまわない。

シューベルトの音楽には、日常生活の次元での意識にそって、そのまま動いていながら、同時に、もうひとつ下の層の意識を呼びさます力がある。その時、私たちは、音楽に魅せられて眠りに入るといってもよいし、逆に、日常の世界から、もうひとつの深い世界への意識に目ざめるといってもよい。どちらにせよ、同じことなのだ。それを、私は、シューベルトの音楽のデモーニッシュな性格と呼ぶ。(吉田秀和『私の好きな曲』)


音楽について書くのは実にむずかしい
吉田秀和や小林秀雄の文だって
鼻をつまみたくなるときがある

モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない.涙の裡に玩弄するには美しすぎる.空の青さや海の匂いにように、万葉の歌人がその使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家はモオツァルトの後にも先にもない。(小林秀雄「モオツァルト」)

「かなしさは疾走する」なんていま誰かが囀っていたら
やっぱりデモーニッシュな嘲笑の対象だ
当時「皺のない言葉」(ブルトン)であったにしろ
いまでは手垢まみれの陳腐化だからな
ーーというのは育った環境と時代、
そして教養によって異なるのだろうな

というわけでひとによるんだろ
シツレイしたな





2014年8月3日日曜日

獣めく夜/お尻を差し出す夜/暴力によってのみ実現すること

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -

――悦楽は愛しようとする、憎もうとする。悦楽は富にあふれ、贈り与え、投げ捨て、だれかがそれを取ることを乞い求め、取った者に感謝する。悦楽は好んで憎まれようとする。――

- sie will Liebe, sie will Hass, sie ist überreich, schenkt, wirft weg, bettelt, dass Einer sie nimmt, dankt dem Nehmenden, sie möchte gern gehasst sein, -

――悦楽はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。

- so reich ist Lust, dass sie nach Wehe durstet, nach Hölle, nach Hass, nach Schmach, nach dem Krüppel, nach _Welt_, - denn diese Welt, oh ihr kennt sie ja! (悦楽(享楽)と永劫回帰(ニーチェ)





獣めく夜もあった

にんげんもまた獣なのねと

しみじみわかる夜もあった

シーツ新しくピンと張ったって

寝室は 落葉かきよせ籠り居る

狸の巣穴とことならず

なじみの穴ぐら

寝乱れの抜け毛

二匹の獣の匂いぞ立ちぬ

なぜか或る日忽然と相棒が消え

わたしはキョトンと人間になった

人間だけになってしまった

ーーー茨木のり子 遺稿詩集『歳月』所収「獣めく」





妻にセックスを要求する男からパートナーをレイプする男へのステップはしばしばほんのわずかなギャップしかない。この内的分裂がいっそう強くなるのは、優しい夫が我を失い/妻を殴る瞬間だ。妻を罵り、彼女を縛り上げ、サディストのようにアナルレイプし、それから彼は罪の感覚に囚われて妻が慰めるとき。Trieb、欲動drive、衝動。なにかが主体をdriveするのだ、彼自身がそこまで行きたくない先にまで。そこでは彼はすべてのコントロールを失う。犯罪とのつながりは私たちに教えてくれる、――どの欲動の現われも暴力の成分があることを。すなわち暴力のない欲動は、その用語からすれば、矛盾している。「闘いではなく愛せよ」などというのは不可能な組み合わせだ。欲動には人がほとんど気づいていない目標がある。そして欲動について知りうることは、しばしば、彼、彼女にはもはや知りたくないことである。「オレはそれについてなにも知りたくないね」。だが彼は知らなくてはならない。(Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe私訳)

《きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。》(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)


2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)





「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)




……だからこうして夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … (…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



2014年7月24日木曜日

「もう、いけずやわあ。うちそんなん、よう言わん」

外国語でわいせつな言葉を使っても、わいせつな言葉とは感じない。わいせつな言葉は、なまって発音されるとこっけいになる。外国人女性を相手にしてわいせつであることの難しさ。わいせつ、私たちを祖国に結びつけるもっとも深い根。(クンデラ『小説の精神』)

『小説の精神』は手元にあるけれど
今はツイッターBOTから。

巧いねえクンデラ

そうなんだよな滑稽になっちまうんだ

これは祖国のちがいだけじゃなくて

国内だって方言の違いでそうなんだな

東海道のほぼ真中の田舎町で育ったんだけど

おまんこの土地だったんだな

東京ではなんとかいけたけど

後におめこやおそその土地に住んで

おめこはまだしもおそそは滑稽になることを怖れて

なかなか口にだせなかったねえ


《京舞のおっしょはんがおでっさんのおいどを物差しで叩きながら「おそそ、お締め!」》

《男「え、ここか」 女「あ、あかんて、そこおいどやし」 男「ほなら、こっちか。ここやろ。ねぶったるわ。ここ何て言うんや。言うてみ。」 女「おそ…  もう、いけずやわあ。うちそんなん、よう言わん。」》

ああでも懐かしいなああ

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)





《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎)


古語としては下記の如くだそうだ

ホト
ツビ・通鼻(『和名抄』より)
クボ(『名義抄』より)
玉門[ぎょくもん](『和名抄』より。部位でいうと、子宮)
朱門(俗称 部位でいうと、子宮)
女門(『房内経』より)
丹穴(『房内経』より)
朱室(『房内経』より)
吉舌[ひなさき](『和名抄』より。部位でいうと、クリトリス)
陰唇(部位でいうと、クリトリス)
サネ(俗称 部位でいうと、クリトリス)

なんだい、玄牝の門がないじゃないか

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

静岡方言は、ツンビー、オチョコ
愛知方言は、ベンチョ オベンチョ(名古屋市)

ーーともあるけれど、知らなかったなあ


人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。(中井久夫「訳詩の生理学」)

黒田夏子の『abさんご』の冒頭近くにある文章のたぐい稀なるエロスってのは
やっぱりアレだよなあ

《またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.》

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』ーーかつて二度訪ねたことのある家

こんなもんを抑圧したっていいことないぜ
抑圧したものはどうせ回帰するんだから

そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、

「今日も割れ目やねえ。」

 川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』

先日メコンの濁流を眺めてきたがね
やっぱり巨大なる割れ目だよあれは
いや割れ目というより母胎だね
大文字のオカアチャンの大河だよ


2014年7月9日水曜日

「自らの新しさを誇示する」ための「言い換え」と「交替」

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ここで柄谷行人は、「脱構築」はカントの「批判」の言い換えに過ぎないよ、と言っている。またこの『探求Ⅱ』の前に書かれた『探求Ⅰ』では、脱構築はソクラテスの「イロニー」の言い換えだよ、と言っている。

イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(『探求Ⅰ』)


それを言っちゃあおしまいだ、という観点もあるだろう。たとえば千葉雅也の「切断」は浅田彰の「逃走」の言い換えにすぎないという言い方もできるようだ。

浅田「ドゥルーズの話で前に言っていたけどね、(AOで)connecticutというのをconnect-i-cutとする、直訳すると「接続せよ-私は-切断する」というように、コネクション(接続)とカット(切断)が同義であるようなものとして、リゾームと言っていたわけじゃないですか。今(の若手論壇)は明らかにコネクション(接続)の方ばっかりですね。

〔……〕千葉雅也さんに今さらカット(切断)と言われてもそんなの最初からそうだよとは思うけどね。(浅田彰×東浩紀「「フクシマ」は思想的課題になりうるか)


ところで千葉雅也氏はつぎのようにツイートしている。

@masayachiba 浅田さんの場合の逃走と、僕の言う非意味的切断はけっこうニュアンスが違うのよね。 そのあたりを読み取ってほしいですね。浅田さんは強度の人。僕は弱度の人。

微妙な差異が肝要なのであって、それは前世紀80年代の時代状況にたいして、この二十一世紀の10年代の時代の変遷に対応したドゥルーズの読み取りということもあるのだろうがーーインターネットが蔓延る時代に「強度」の切断なんていっちゃあいられない、「弱度」だよ、という具合かーー、まあそれ以外のニュアンスの差も当然あるのだろう。



さて、ここで冒頭の思想の「言い換え」の話の続きにもどれば、柄谷行人はまた、哲学の発展に見えるような主義の変遷は二項対立的な繰り返しに過ぎないよ、と言う、《実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす》。


柄谷行人の言い方を真似すれば、いま流行りの「ポスト・ポスト構造主義」(ポスト構造主義を超える)は、これも「言い換え」か、「交替」かのどちらかということになる。

……カントの倫理性は、道徳論においてのみ見てはならない。理論的であることと同時に実践的であること、この超越論的な態度そのものが倫理的なのだ。われわれは、ここで、戦後のフランスで生じた実存主義、構造主義、ポスト構造主義という変遷を別の観点から見てみよう。たとえば、実存主義者(サルトル)は、人間が構造論的に規定されていることを認めながら、なお、自由があることを主張した。それはある意味で「実践的」観点である。一方、構造主義者が主体を疑いそれを構造の「効果」(結果)として見たとき、「理論的」な態度をとったのである。彼らがスピノザに遡行したのは無理もない。先に述べたように、カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考えーーすべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだーーに帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。


だが、このような考えに驚くべきではない。それは一つの括弧入れによって生じる「理論的」立場に固有のものである。実存主義と構造主義、あるいは主体と構造というかたちで問われた問題は、すこしも新しくない。それはカントが第三アンチノミーとして語った事柄の変奏にすぎない。構造主義的な視点に対して、主体を強調すること、あるいはそこに主体を見出そうとすることは無意味である。なぜなら、それを括弧に入れることによってのみ、構造論的決定論が見出されるのだから。逆に、構造論的な決定を括弧に入れた時点で、はじめて主体と責任の次元が出現する。ポスト構造主義者が道徳性を再導入しようとしたのは、当然である。しかし、それが何か新たな思想でもあるわけではない。実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす。カントが明らかにしたのは、この二つの姿勢を同時にもたねばならないということである。わかりやすくいえば、われわれは括弧に入れると同時に、括弧をはずすことを知っていなければならないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P184)

※柄谷行人のこの議論は、『隠喩としての建築』におけるペルレマンの「説得の論理学」を引用しての説明が水際立っている。


いやいや、プルースト曰く、「芸術」だって進歩するというのだから、「思想」はもちろんもっと進歩する。

ベルゴットのお株をうばって私をひきつけた作家は、私が習慣にしたがって意味をたどろうとした文章の関係の不統一のためにそれの理解に苦労させたのではなく、むしろ関係の申しぶんのない統一の新しさのために私を苦労させたのであった。いつもおなじ点まできて私がはたと行きづまるのを感じるのは、私の力の出しかたが毎回おなじであることを示していた。それにしても、千に一度、その文章のおわりまでその作家についてゆくことができたとき、私の目に見えてくるものは、かつてベルゴットを読んで私が見出したものに似てはいるが、つねにそれより快い、一種のおかしさ、真実性、魅力なのであった。私は思いかえすのであった、そういえば私がいまベルゴットの後継者から期待しているものに類する、世界を見る目とおなじ一新を、そう何年もまえにでなく私にもたらしたのはベルゴットであったことを。そして、内心こんなことを自分に反問するにいたった、ホメロス時代から大して進んでいるわけでもない芸術と、たえまのない進歩の状態にある科学とのあいだに、われわれがつねに投げるあの区別には、なんらかの真実があるのだろうかと。もしかすると、芸術は、その点では普通に考えれらているのとは反対に、科学に似ているのかもしれなかった、独創的な新しい作家はいずれもおのれに先だった作家を乗りこえて進歩をとげるのだと、私には思われてくるのであった。したがって、こんにち新人といわれる作家に、二十年後になって、私が苦労なくついてゆけるであろうときには、またべつの作家が出現して、その人のまえに現在の新人がベルゴットのあとを追ってすみやかに後退しないとは、誰が私にいえたであろう? (プルースト『ゲルマンとのほう Ⅱ』井上究一郎訳 文庫P29-33)

と、ここまでは、ツイッターでクンデラBOTの次の文に遭遇して「自由連想」引用したものである(わたくしはこの種の文をEVERNOTEの「引き出し」にかなりためこんでいる)。

人間がただ自分自身の魂の怪物と戦うだけでよかった最後の平和な時代、ジョイスとプルーストの時代は過ぎさりました。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホの小説においては、怪物は外側から来るのであり、それは《歴史》と呼ばれています。《講演「セルバンテスの貶められた遺産」》

すなわち、なんら意地悪な見方をするつもりはない。新しい「思想家」の皆さん、ガンバッテ下サーイ!


若い人たちは、柄谷行人や、「思想の握手会」などという旧世代のインテリなどほうっておけばよろしい。


@cbfn: 送られて来た雑誌を見ると「ポスト・ポスト−構造主義」の字が躍る。いつこんな「アウフヘーベン」が起こったのかしらと、大体がテーゼもアンチテーゼも起動した記憶がないのに。思想の握手会みたいなもんなんでしょう。ガードマン不要、ってあたりがちとさみしいか、或いは自己防衛に覚えがあるか。

@cbfn: メイヤスーなんて、パンク気取りのエコール・ノルマル・エリートの御用達思想家みたいな人、そのうち翻訳攻勢がかかるのか、翻訳なんて業績にも換算してくれない手間仕事、もう誰もやらないか。(丹生谷貴志)

さてクンデラBOTのカフカとジョイス言及にて、もうひとつの文を自由連想したので、最後に附記しておく。

ジジェクは《カフカはある意味ですでにポストモダニストであり、ジョイスの対極であって、幻想の作家、吐き気を催させるような非活性的な現前の空間の作家である、ジョイスのテクストが解釈を誘発するとしたら、カフカのテクストは解釈を封じる》とか、《ポストモダニズムはある意味でモダニズムに先行するとすら言いたくなる》とかの言葉を差し挟みながら、次のように書いている。


脱構築はすぐれてモダニズム的手法である。それはおそらく「暴露(仮面を剝ぐ)」という論理の最も根源的な形である。この論理においては、意味の経験の統一性そのものが、意味作用のメカニズムの効果としてとらえられる。そしてその効果は、それを生んだテクストの運動を無視しているかぎりにおいて可能である。ラカンにおいてはじめて「ポストモダニズム的」断絶が生じる。というのも彼は、きわめて曖昧な地位を維持しているある種の現実界的で外傷的な核を論理化したからである。〈現実界〉は象徴化に抵抗するが、同時にそれ自身の遡及的産物でもある。この意味で、われわれは次のようにすら言うことができるーー脱構築主義者たちは根本的には依然として「構造主義者」であり、享楽こそが「真の〈物自体〉」であり、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている、と断言したラカンこそ唯一の「ポスト構造主義者」である、と。(ジジェク『斜めから見る』P267)

この書は90年代の初頭に上梓されたものだが、最近でも(たとえば『LESS THAN NOTHING2012)でも似たようなことを書いている。もっともジジェクにかかれば、なんでもラカン、なんでもヘーゲルの気味合いがある。

〈脱構築主義者たちは根本的には依然として「構造主義者」〉とある。

これは蓮實重彦が『フーコーと《19世紀》』という小論で、《フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。〔中略〕現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。》とするのと似たような視点なのだろう。

さてこれも旧世代のいまでは後期高齢者のオッサンがこんな見解をかつて示しただけであり、「ポストポスト構造主義」は、きっとアタラシイことが言われているにチガイナイ。若き思想家の皆さん、こんなことは気にしてはいけない、真に「自らの新しさを誇示」してクダサァ~イ!

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「アタラシイ」などと書いてしまうと、また「自由連想」引用の連鎖になってしまう。

《「新しいこと」は十中八九、新奇さのステレオタイプでしかない》(ロラン・バルト『テクストの快楽』)。


批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっている(プルースト『見いだされた時』)