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2014年5月15日木曜日

五月十五日 わかっていても口にだせないこと

早野龍五:笑えないですよね。だって、知事が県内産の食材安全ですと言って、どうして県庁の食堂は県外産の食材使うのか。だから依然として地元食材を使った定食を長期間測るプロジェクトというのが頓挫しています。でも、僕は、まだ諦めていません。どこかでできないかと思っています。(早野氏 ロングインタヴュー2012年08月27日)
未だに「福島のコメは…」とか言っている人は,昨年1000万袋以上の全量全袋検査で,100Bq/kg超が71袋しか出なかった(それらは廃棄)事実も,その意味も,その理由も,その背後にあった努力も知らない(ないしは知らないふりをしている)hayano 2013-08-22ツイート

◆早川由紀夫氏ツイート2014-03-18

・いわき市の給食はまだ北海道産のコメを使っていたのか。それでいて、コメを市外に販売してるのか。市外の消費者としては、とうてい納得がいかない。市外に販売するなら、給食に使え。給食に使わないなら、市外に販売するな。それくらいの矜持(きょうじ)を持て。

・そんなことだから、福島は信用されないんだ。

・子どもの給食に地元産のコメを出せないなら、市外に出荷するな。出荷せずに、東京電力に損害賠償しろ。


ーーこのところ「美味しんぼ」批判で賑わっているが、ここではそれをめぐってとやかくいうつもりはない。

ところで<あなた>に小さな子供がいるとして、その子供に「安全な」福島産米を継続して与える選択をするだろうか。

「テクノクラシーはこのような保障(原子力の安全性)を与えることに関しては、無能である。その理由は本質的なもので、状況によるものではない。それは、テクノクラシーは、さまざまな人間的現象のうち非合理的と判断したことには意味を与えることができないということなのだ。」

「とりわけ、専門家の狭い意味での合理主義的では、人間が、人類に対し、最大限の悪をなすために自殺することもできるなど予想だにできないのだ。」(デュピュイ「テクノ・セントリズムの終焉」)

…………

あだしごとはさておき、--すなわち、上の文脈とは、以下は「おそらく」関係がない。


島尾敏雄は「人間魚雷」震洋隊の隊長だった。

もし出発しないなら、その日も同じふだんの日と変るはずがない。一年半のあいだ死支度をしたあげく、八月十三日の夕方防備隊の司令官から特攻戦発動の信令を受けとり、遂に最後の日が来たことを知らされて、こころにもからだにも死装束をまとったが、発進の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみをしていたから、近づいて来た死は、はたとその歩みを止めた。

経験がないためにそのどんなかたちも想像できない戦いが、遠巻きにして私を試みはじめる。(島尾敏雄『出発は遂に訪れず』)




ミズーリ号の左舷中央構造物に迫る特攻機の写真がある。凄絶である。なにゆえの特攻だったか。吉田満の『戦艦大和ノ最期』で士官の議論をまとめた臼井大尉は「新生日本にさきがけて散る。本望じゃないか」という。日本は敗北して一から出直すしかないところまできている、そのために死ぬのだ、自分たちの死の意義はそれしかない、というのだ。特攻隊の犠牲の上に今の日本があるとはそういう意味である。それ以外にはおよそ考えられない。

特攻機は無効ではなかった。米艦の乗務員は燃えるガソリンを全身に浴びる恐怖に脅え、戦争神経症を大量に生んだ。しかし、「では降伏しよう」に繋がらない。そして戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない。米兵の憎悪を増幅した理由の一つである。

一九四四年末の「天王山」レイテ戦敗北後のわが国に勝算はなかったが、その時点では降伏を言いだせる「空気」はなかった。特攻隊員は時間稼ぎ、それも「空気」が変わる時間を稼ぐために死んだ。私は南米諸国までが次々に対日宣戦を行なう新聞記事を読んで、とうとう世界を敵に回したと思ったが、口に出せることではなかった。

最近暴露されている企業・官庁の不正は、それを知った従業員が「とても言いだせる空気ではなかった」にちがいない。重役会でもだろう。「空気が読める」ことが単純によいことではないのを記して、二〇〇七年のこのコラムを閉じる。(中井久夫「戦艦ミズーリと特攻機」(「清陰星雨」『神戸新聞』2007.12.29)







たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」ーーコビトの国の王様





最近わかってきたのは、世界は日本の戦後六〇年を評価し、戦前への回帰を好ましくないとしていることである。米国にとって日本は同盟国であると同時に旧敵国である。原爆を持たせないという決意は非常に固い。日米同盟も、日本軍国主義の復活を抑えるという面があると私は思う。少なくとも、日本以外はそう解説しているように見える。イランもイラクもかつての親米国だったのだ。(同「日本が“入院”した一二日間」2007.9.27)
元商船三井監査役、熊谷淑郎氏によれば、戦争末期も末期、昭和二十年七月、病院船「高砂丸」が米駆逐艦の臨検を受けた。乗艦してきた米水兵は皆船尾に翻る日の丸に向かってきちっと敬礼した。若き乗務員の熊谷氏には「目のくらむような驚き」だった。この時期、日本では米英の国旗を踏みつけていた。米国に兜を脱ぎたくなるのはこういう時である。(中井久夫「国際化と日の丸」(神戸新聞 1991.12.26)『記憶の肖像』所収)

もちろん、この叙述は今では(ヴェトナム戦争以後は)、大いに割引して読まねばならない。

アメリカの戦記は個人をヒーローのように描くことでメリハリをつけている。将軍だけでなく一兵卒も英雄として描かれる。特に、第二次世界大戦はアメリカの「よい戦争」であった。ヴェトナム戦争以後、米国に戦記ものが出ないのも何ごとかを意味しているだろう。米国人の多くは個人的には戦争をよいこととは思っていないと私は感じる。アメリカへの移民の秘められた動機として、戦争を繰り返していたヨーロッパからの徴兵忌避があるときいた。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」)

ーーとしても更にアメリカ先住民への態度は? とは思いを馳せざるをえないが、ここではこのくらいにしておく。


1994年の時点で(「リテレール」第十一号)、中井久夫は次のように書いている。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。([「日本人がダメなのは成功のときである」『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収広英社)








2014年4月4日金曜日

蕾の割れた梅の林

たとえば、《瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉として面を撲つ。俗塵を一洗し得たるの思あり》と、断腸亭日乗大正十年三月三十日にある。荷風四十歳のおりの日記だが、こうやって荷風の日記を繙くのは季節の変わり目のことが多い。ああ梅の季節が過ぎいまは桜の季節なのだな、と日本に住まうひとたちの言葉を目にして荷風の文を読み返すということもある。《四月四日。天気定まらず風烈し。梅花落尽して桜未開かず》。
                                        
荷風の日記には花や樹木の記述がふんだんにある。《五月廿六日。庭に椎の大木あり。蟻多くつきて枝葉勢なし。除虫粉を購来り、幹の洞穴に濺ぎ蟻の巣を除く。病衰の老人日庭に出で、老樹の病を治せむとす》と読めば、庭木の木蓮三株のうちの一株が葉がことごとく落ちてしまってあれはなんのせいなのだろうと思いを馳せることになる。


この時期の荷風は自ら雑草を抜いていたようだ。


四月十九日。風冷なり。庭の雑草を除く。花壇の薔薇花将に開かむとす。
五月三日。半日庭に出でゝ雑草を除く。
六月廿六日。雨の晴れ間に庭の雑草を除く。

いまこの大正十年の日記からのみを無作為に抜き出しても、次の如く如何に荷風が自然の風物を愛でていたかが瞭然とする。


去年栽えたる球根悉く芽を発す。
細雨糸の如し。風暖にして花壇の土は軟に潤ひ、草の芽青きこと染めたる如し。
毎朝鶯語窗外に滑なり。
雨中芝山内を過ぐ。花落ちて樹は烟の如く草は蓐の如し。
四月十五日。崖の草生茂りて午後の樹影夏らしくなりぬ。
新樹書窗を蔽ふ。チユリツプ花開く。
五月九日。日比谷公園の躑躅花を看る。深夜雨ふる。
五月二十日。夕刻雷鳴驟雨。須臾にして歇む。
五月廿五日。曇りて風冷なり。小日向より赤城早稲田のあたりを歩む。山の手の青葉を見れば、さすがに東京も猶去りがたき心地す。
六月六日。正午頃大雨沛然たり。薄暮に至るも歇まず。
清夜月明かにして、階前の香草馥郁たり。
桐花ひらく。
松葉牡丹始めて花さく。
門前の百日紅蟻つきて花開かず。
石蕗花ひらく。
久雨のため菊花香しからず。
暮雨瀟瀟たり。
夜、雨ふりしきりて門巷寂寞。下駄の音犬の声も聞えず。山間の旅亭に在るが如し。


もっともここで坂口安吾の「通俗作家 荷風」から引用しておくべきだろう。

荷風の人物は男は女好きであり女は男好きであり、これは当然の話であるが、然し妖しい思ひや優しい心になつてふと関係を結ぶかと思ふと、忽ち風景に逃避して、心を風景に托し、嗟嘆したり、大悟したり、諦観したり荷風の心の「深度」は常にたゞそれだけだ。

 男と女とのこの宿命のつながり、肉慾と魂の宿命、つながり、葛藤は、かく安直に風景に通じ風景に結び得るものではない。荷風はその風景の安直さ、空虚なセンチメンタリズムにはいさゝかの内容もなくたゞ日本千年の歴史的常識的な惰性的風景観に身をまかせ、人の子たる自らの真実の魂を見究めようとするやうな悲しい願ひはもたないのだ。

 風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。

だがすこしは容赦してもらおう、そもそも安吾は志賀直哉も夏目漱石も貶しているのだから(「志賀直哉に文学の問題はない」)。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。
夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。

…………

荷風を繙くきっかけになったのは直接には暁方ミセイの《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》という詩行だった。糸のように漂いやってくるのは、次の行に、《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》とあるので、過去の記憶だと「誤読」することもできるだろう。

…………

蕾の割れた梅の林、――今からほぼ三十年前から十年ほどのあいだ、京都の西にある梅宮大社の近処に住んでおり、そこには手入れのわるい寂れた梅園があった。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでに、お社の傍らの道を通り抜ける。梅の季節であれば境内にはいって、梅園の入口に一株ある形のよい白梅の蕾が綻びかけたのを愛でる。そもそもそれ以前は梅などに目もくれない不粋な人間だったが、これ以来桜よりも梅を愛す。

もっとも梅の木を観賞するために境内に入ったといったら嘘になる。お社に奉納された酒がほとんどつねに枡酒で飲めその無料の冷酒が目当てだったが、日本酒の芳香と梅の香との記憶がいまでも、《糸のように漂いやってくる》。ああ、アリアドネの糸! 《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ) 当時なんの迷路に嵌っていたかは敢えて書くことはしない。

京都のふたつの梅の名所の一処とはいうが、北野神社の整備された梅園とは段違いであり、社そのものも慎ましい住宅街のなかにあり、観光客も梅の季節になってさえまばらで、神主一家は、鳥居と楼門のあいだの駐車場の賃貸収入で、生計を立てているとしか思えなかった。

もっとも由緒は正しく檀林皇后、いつの時代の皇后かといえば、延暦5年(786年) - 嘉祥354日(850617日)などとあるその皇后が梅宮大社の砂を産屋に敷きつめて仁明天皇を産んだらしく、子授け・安産の神として、「またげ石」なるものがあり、男女のカップルが訪れ、その石をまたげば子が授かるということになっている。あるいは古来から酒造の神として名高く、すぐそばの桂川にかかった松尾橋を渡って正面にある著名な松尾神社の酒造の神よりも、由緒が正しいと聞いたことがある。松尾神社にはただ酒はなく、お社も味気ない。湧き水を汲んでその効験を尊ぶ習慣はあるが、わたくしはそれを飲んでお腹をこわした。

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とはエロスの詩行としても読めるだろう。少女の割れ目から糸が引く、などと書くまでもなく。

もし私がここで
ロンサールの“朱色の割れ目”とか
レミ・ベローの“緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘”
などと引用したら<あなた>はなんというだろうか

――とはナボコフ『ロリータ』のほぼパクリである。

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

――というのは、わが国至高の少女愛詩人吉岡実からの孫引きだ。

またぎ石とすれば吉岡実の詩句を想い起こさずにはいられない。

《一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく》

《大股びらきの洗濯女を抱えた》

《夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる》

《紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ》

《姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根》

…………


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)

吉岡実のエロティック・グロテクスな詩は次のような起源があるようだ。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)。

…………

北野大社の梅園は整然としすぎていて好みではなかったが、京都で最も美しいお社であるのは、杉本秀太郎の書くとおり(『洛中生息』)。

北野天満宮 杉本秀太郎


京都で最もうつくしいお社は北野神社である。屠蘇の酔いにまぎれていうのではない。けれども私の酔眼には、北野のお社は猶いっそう美しい。

あの長い石だたみの、白い参道がいい。参道のつきるところで石段の上に見上げる門は、お参りにきた人をいかにも迎える様子をしていて、すこしも威圧的でない。

門をぬけると、すぐ左のほうにいって絵馬堂の下に立たずにはいられない。あごをつき出して、高い絵馬を見上げる。話に聞くと、仰ぐような姿勢になって酒杯を傾けると、酔いがたちまち回るそうだ。ふり仰ぐとき、われわれは自然と息を大きく吸いこむから、杯から立ちのぼる酒精が胸の深くに染みとおって、酔いつぶれるのである。なるほど、そうかもしれない。しかし、絵馬堂で天井をふり仰ぐときの私には、冷静に絵の出来具合を判定しようというつもりはまったくなくて、ただ絵馬の奉献の日付けや奉納者の名、また絵師の名が、ぼんやりと目にうつるのを楽しむつもりしかないのだから、天井の絵馬から降ってくる埃のおかげで、ますます楽しくなるだけだ。いま吹きさらしの絵馬は、古くてせいぜい明治も二〇年代のものだが、それでも、もうほとんど剝げて、図柄さえ定かではない。

それがいいのだ、ここでは裁きをつけるのは、くり返される四季の自然力であって、流行の美学ではない。しかし、剝げてしまえば絵馬はおしまいではなくて、のこったわずかな岩絵具と板の木目との偶然から生まれる古色が、北野のお社の、あの苔むす回廊の屋根や本殿の造作の一切と、わけもなく溶け合っている。

銅製や石彫りの幾頭かの牛の目が柔和に光っているのを見ながら、本殿に近づいて高い敷居をまたぎ、一気に鏡のまえに行く。この間合いが、よその神社では、ちょっと味わえないほど爽快である。ここには、逆立ちで歩いても、とんぼ返りをしながら横切っても、いっこう咎めがなさそうなほど、気楽な、くつろいだ広がりがある、しかも決してそういう曲芸をやるわけにはゆかず、歩幅ただしく、さっさと歩かねば恰好がつかないような、なんともいえない品位をそなえた空間の味わいがある。

回廊をひとめぐりして、次は本殿の外まわりを歩く。檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く。格子の窓や軒端の彩色は、あでやかで、しかも渋い。この色がまさに京都の色だ、と正月の礼者にありがちな屠蘇の酔いをいいことにして、私も少し大胆につぶやく。

私は北野のお社を飽かずながめつつ、遠いイタリアの、フィレンツェの町を思い出すことがある。そして、なつかしさに気もそぞろ、文子天神の横から、北のほうへ抜けてゆく。

2013年12月11日水曜日

コビトの国の王様

……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』 講談社文庫 P24)




「コビトの国の王様」は、戦後日本において「抑圧されたもの」としてよいだろう。もちろんマッカーサーとの会見の約一年後に米国からいわゆる「押しつけられた」とされる現行憲法もその影を大きく背負っている。

経済発展期や議会運営などがまがりなりにも上手くいっているときは、抑圧されたものはある意味で忘れ去ることができた。なにかが上手くいかなくなったとき、ーーたとえば国内に大きな事故や消費税値上げ、あるいは財政逼迫、少子化などの将来にわたっての「引き返せない道」の苦難が瞭然とすれば、さらには二大大国の狭間で「見栄えのしない課題」に汲々とせざるをえないのならば、ーー「天皇」が直接回帰するだけでなく(天皇制論)、その隠喩としての「現行憲法」も否応なしに回帰する。

……われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。

たとえば、被分析者は、「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを想い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)

コビトの国の王様にとっての、権威としての親への反撥は、米国だけではないだろう。今後、かつて土足で上がりこんだ本来の「親」の家、中国への気遣いもますます増してゆく。

ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p418)

武藤国務大臣 (……)

 そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日
『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七


昭和二十年九月廿八日。 昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るか たなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜし ことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云ふ者に もあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

…………

だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒だという感じが常に先立っている。むかしあの天皇が、僕らの少年期の終りイギリスへ行ったことがあった。あるイギリス人画家のかいた絵、これを日本で絵ハガキにして売ったことがあったが、ひと目見て感じた焼けるような恥かしさ、情なさ、自分にたいする気の毒なという感じを今におき僕は忘れられぬ。おちついた黒が全画面を支配していた。フロックとか燕尾服とかいうものの色で、それを縫ってカラーの白と顔面のピンク色とがぽつぽつと置いてあった。そして前景中央部に腰をまげたカアキー色の軍服型があり、襟の上の部分へぽつんとセピアが置いてあった。水彩で造作はわからなかったが、そのセピアがまわりの背の高い人種を見あげているところ、大人に囲まれた迷子かのようで、「何か言っとりますな」「こんなことを言っとるようですよ」「かわいもんですな」、そんな会話が――もっと上品な言葉で、手にとるように聞こえるようで僕は手で隠した。精神は別だ。ただそれは、スケッチにすぎなかったが描かれた精神だった。そこに僕自身がさらされていた。(中野重治『五勺の酒』)
これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男(「東京新聞」「中日新聞」文芸時評 昭和五十年十一月二十八日夕刊)
志賀氏が、天皇を天皇制の犠牲者として、自由にものを云うことを奪われた、残念ではあるが気が弱い、人間的には好い人と…見ていたことは…明白である。中野氏の『五尺の酒』を読めば…あの繰り人形さながらの動作とテープ録音そっくりのセリフを棒たらに繰り返す天皇への憐れさへの何とも処理しがたい心持ちと焦立ちを…描いていることもまた明白である。(藤枝静男、「志賀直哉・天皇・中野重治」昭和五十年「文藝」七月号)
今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。 然し天皇制には責任があると思ふ。‥‥  天子様と国民との古い関係をこの際捨て去つて了ふ 事は淋しい。今度の憲法が国民のさういふ色々な不安 を一掃してくれるものだと一番嬉しい事である。  (志賀直哉  「昭和21. 4.『婦人公論』)
…………

日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言へないところがあり、いはゞ大義名分といふものはさういふ意味で利用せられてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によつて矛をすてたといふのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考へてをり、政治家がそれを利用し、人民が又さらにそれを利用したゞけにすぎない。

日本人の生活に残存する封建的偽瞞は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。(坂口安吾『天皇小論』)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」)
我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」)

…………

昭和63年、昭和天皇が病床に就かれ、多くの人が陛下のご平癒を祈って宮城を訪れ、記帳した。その光景を見た浅田彰曰く、『連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです(「文学界 平成元年二月号)』)
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


◆『柄谷行人 中上健次全対話』(講談社文芸文庫)より


中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。

《実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。……》(図像学というアリバイ 浅田彰


北一輝は、明治以前の天皇は「土人の酋長」と変わらないといっている。事実、先にのべたように、元号も明治までは自然を動かす呪術的な機能であった。「一世一元」とはそれを否定することであり、天皇を近代国家の主権者とみなすことである。北一輝にとって、明治天皇は立憲君主であり「機関」としてある。つまり、天皇個人もその儀礼的本質も、彼にとっては本質的にはどうでもよかったのである。ヘーゲルもいっている。≪君主に対し客観的な諸性質を要求するのは正当ではない。君主はただ「イエス」といって最後の決定を与えるべきなのだ。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要でなくなるようにあるべきものだからである≫(『法哲学』280補遺)。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収P27-28)

◆柄谷行人『倫理21』より抜粋
1970年天皇をかついだクーデターを訴えて自決した三島由紀夫のような人は、死ぬ前のインタビューでも、昭和天皇に対する嫌悪と軽蔑を隠していません。また、天皇の戦争責任を認めて右翼から襲撃された長崎市長本島等は、左翼どころか、どちらかといえば「右翼的」な人物です。総じて、天皇の戦争責任を認める者は、蜷川新のように「明治気質」の人間です。日本国家の戦争責任を認めるならば、天皇の責任を認めるべきであり、そうでないなら、戦争責任を全面的に否定すべきだ、その二つに一つしかありません。
今日において史料的に明らかなことは、戦争期において、天皇がたんなる繰り人形でもなく、平和を愛好する立憲君主でもなく、戦争の過程に相当積極的に加担していたということです。さらに、天皇自身がその地位の保全のために画策したということです。戦争末期にそれは「国体の維持」という言い方をされたのですが、つまりは天皇制および天皇個人の地位の護持ということが、当時の権力の最大の目的でした。
イタリアはいうまでもなく、ナチス・ドイツが降伏した後でさえ日本が戦争を続けたのは、なんら勝算や展望があったからではなく、降伏の条件として天皇制の「護持」をはかって手間取ったのです。その結果として、何百万人の兵士、市民が戦場や都市爆撃、さらに二度の原子爆弾によって死ぬことになりました。
にもかかわらず、敗戦の決定は、天皇自身の「御聖断」によってなされたという神話ができています。そのような神話づくりには、占領軍のマッカーサー将軍も加担しています。彼は「国民が救われるなら、自分はどうなってもいい」と語った天皇に感動したということを伝記に書いていますが、これは明らかに虚構です。「自分はどうなってもいい」のなら、もっと前に終戦をいうべきだったし、もし「立憲君主」のためにそのような介入ができない立場にあるなら、敗戦においてもそれはできなかったはずです。
実際には、天皇制を保持し天皇を免責することを決めたのは、ソ連あるいはコミュニズムの浸透をおそれたアメリカ政府です。また、マッカーサーは、東京裁判のあと天皇が退位することを当然とする日本の識者の意見に対して、それを抑えました。

※参考:三島由紀夫の天皇論


浅田彰の共感の共同体批判、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している》という文章は、ラカン用語で仮装されているが、丸山真男や、あるいは加藤周一らのモダニスト系譜のものだろう。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』より

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(加藤周一の死

2013年10月22日火曜日

春本『濡ズロ草紙』を草す(荷風『断腸亭日乗』)

昭和二十三年戊子  荷風散人年七十

一月初三。今日も晴れて暖なり。去年の暮より野菜統制のため闇値またまた暴騰し大根一本金拾円人参三、四本金弐十円となる。街頭に新衣を着たる子供多く駄菓子屋の飴売れること夥し。羽子板紙鳶もよく売れるといふ。これ市川にて見る戦後第四年新春の光景なり。三ケ日文士書估の来ることなし、正午混堂より帰り春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。


…………

荷風の断腸亭日乗を一年毎にうしろから読む。逝去の歳昭和三十四年から三十三年、三十二年……という具合に。

昭和二十七年十一月に文化勲章授与、ただちに文化勲章年金証書をも与えられる。年額金五十万円。

昭和廿七年 十二月卅一日。晴。文化功労者年金五十万円下渡しはその後何らの通知もなし。如何なりしや笑ふべきなり。夜銀座マンハッタン女給三人と共に浅草観音堂に賽す。家に帰るに暁三時半。月よし。

 

当時の都市勤労者世帯の月平均収入は二万円ほどというデータがある。

荷風は父譲りの莫大な資産以外にも、年金五十万円以外に全集や映画化などの著作権料や著書の印税が多額に入っていたはず。反骨精神の象徴のようだった荷風の文化勲章受賞をいぶかる文学関係者も多かったそうだが(たとえば伊藤整は、勲章をぶら下げる荷風の写真をみて「哄笑」したらしい)、戦後のインフレで所有している株券も預金も紙くず同然になった上に、戦災で偏奇館を焼失して親戚や知人の家を転々としていた永井荷風にとって、年金は今後の経済生活を保障してくれるしてくれる貴重な「財源」だった、あるいはひどい吝嗇家だったとする人もいる。

いずれにせよ、最晩年、市川菅野、あるいは京成八幡に移転したあとも、荷風いわくは独り「陋屋」に住む。住み込みの家政婦は置かない(通いの家政婦はあったようだが、部屋は埃だらけだったそうだから、毎日通う者だったのかも疑わしい)。

日本にいる外国人は日本人が自分たちをあまり家に招かないとよく言う。私は幸運にも多くの作家から自宅へ招かれた。一番忘れ難いのは、永井荷風の家だ。(中央公論の)嶋中さんが荷風に会う時に私を同伴したのである。市川に向かい、狭まった道路を歩くと表札もなく目立たないお宅に着く。私たちは女中らしい人に案内されて中へ通された。日本人はよく「家は汚いですが」と謙遜しても実は大変清潔であるが、荷風の部屋は腰を下ろすと埃が舞い立った。荷風は間もなく現れたが、前歯は抜け、ズボンのボタンも外れたままの薄汚い老人そのものだった。ところが話し出した日本語の美しさは驚嘆するほどで、感激の余り家の汚さなど忘れてしまった。こんな綺麗な日本語を話せたらどれほど仕合わせだろうと思った。(ドナルド・キーン「私の大事な場所」を読む楽しみ


最期は吐血して、翌日通いの家政婦に発見される。(参照:断腸亭日乗 昭和三十四年

<ひとり暮らしの荷風は外食することが多かったが、際立った特徴があった。荷風に限らず老人特有の「無精」だったのかもしれないが、いつでも同じものを注文するのである。
 
もっとも有名な例は、最晩年、市川の自宅に近い食堂「大黒家」でのカツ井と日本酒だ。毎日毎日そればっかり。最晩年のことで、食事は一日一回だったというから、その徹底ぶりは鬼気迫るものがあった。最後の日も清酒一本にカツ井を食べ、深夜、胃潰瘍の吐血でその米粒を吐き出した姿で死んでいたくらいだ>

食事を済ませ、帰宅した荷風は、メモ帳を取り出して、それを見ながら日記を書いた。特別あつらえの上質の紙を綴じて和本仕立てにして、これに極細の毛筆で書いて行くのである。こうした日記を死の前日まで42年間、一日も欠かさず書き続けたというから、ただごとではない。彼の後半生は、まるで日記を書くためにあるかのようだった。(永井荷風の生活



以下、永井荷風『断腸亭日乗』を中心に備忘もう少々。

上掲と同じく、元文献を読む機会もなく殆どウェブ上から拾ったものであり、なんらの感想を呟くつもりもなし。ひたすら資料を並べるのみ。




『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』(永井永光・水野恵美子・坂本真典、新潮社とんぼの本)より

永井永光は、荷風の従兄弟大島一雄(芸名杵屋五叟)の次男。1944年荷風の養子になり、いまも荷風の八幡の家と遺品を守りつづけているとのこと。(……)

●他人から見た荷風

本書によって『摘録 断腸亭日乗』だけでは分からない荷風のひととなりがいくつか分かった。

その1――再婚相手の芸妓八重次は1年も経たぬうちに家を出たのだが、そのときこんな置き手紙をしていった。《あなた様にはまるで私を二束三文にふみくだしどこのかぼちや娘か大根女郎でもひろつて来たやうに御飯さえ食べさせておけばよい……〈中略〉女房は下女と同じでよい「どれい」である〈中略〉つまりきらはれたがうんのつき見下されて長居は却而御邪魔》ちょっと八重次もひがみがきついんじゃないのとは思うが、しかしこんなおもしろいネタを『日乗』に書きのこさないのはおかしい。おもいあたるふしがあったのだろう。

その2――戦後、五叟の一家とともに市川の家でくらすのだが、一家の側から見るとずいぶんわがままなやりかたをしている。疥癬治療のため一番風呂にくさい薬をドボドボ入れてはいったり、畳の部屋に下駄や靴で上がり、七輪をおいて煮炊きをする。その様子を撮した写真が1枚掲載されている。七輪のまわりには調味料を入れているとおぼしきビン缶のたぐいが並んでいる。横文字のラベルが付いているところが荷風らしい。荷風にしてみれば五叟のうちはラジオがうるさくてかなわんから、自分を敬愛するフランス文学者小西茂也のうちに移るのだが、小西も傍若無人にあきれはて立ち退きを申し出ている。



終戦となって、荷風は大島五叟一家が疎開していた熱海へ身を寄せます。そこも仮りの宿で、千葉の市川へ大島一家と共に引越して行きます。独り暮らしで気儘に生きてきた荷風は他人との同居生活にしばしばトラブルを起こします。

そこで、近くの小西茂也(フランス文学の翻訳家)の一室を借りますが、ここでも荷風は奇行ががすぎて同居できません。

新藤は「奇行がすぎて同居でき」ないと書いているが具体的なことは何も書かれない。何があったかは半藤一利が教えてくれる。

「復讐がこはいから僕は何も云ひません。その代り荷風が死ねば洗ひざらひぶちまけますよ」と言っていたのに、小西氏は荷風よりも早く逝ってしまった。ゆえに小西氏に代わってと、佐藤春夫氏がバラしている巷説--それもありそうでなさそうな噂話であるが、フム、フム、なるほど、と納得させられるところもある。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」


《昭和20年、空襲で偏奇館焼失。兵庫県明石から岡山へと逃げ、ここで疎開中の谷崎潤一郎に会った直後に終戦。熱海にしばらくいて、昭和21年、66歳で千葉県市川市に移転。

 市川では四度居を変えている。はじめは市内菅野の借家、次いで菅野の知人宅(京成電鉄京成八幡駅近く。フランス文学者小西茂也宅)に約2年、次いで菅野の一戸建て、昭和23年、69歳の時に市内八幡に新居を建てた。昭和34年に亡くなくなるまでこの家だった。で、小西氏宅に居た時は氏から立ち退きを申し立てられている。その理由は八畳間に古新聞を敷き古七輪を据えた危険で乱雑な生活だった。小西著「同居人荷風」から興味深い以下を紹介。

…冬は部屋のなかで火を熾すので火事の心配を常にせねばならぬのが玉に疵なりと。

若い連中は“のぞき”や女道楽に金を使わぬから秀れた情痴小説が書けぬ。自分は待合を歌女に出させた折り、隣室からのぞき見せり。

…部屋があまりに乱雑なるゆえお部屋を掃除す。洗顔中なりし先生、慌てて部屋に戻り金を蔵いありし所へ行きて、掃除中の女房の前にて金勘定を始めたりと。

僕は風呂屋へ行くと必ず女湯の方をのぞいてくる。老人だから怪しまれぬ。これも年寄りの一徳、近頃の女の風呂場での大胆なポーズには驚くと申されたり。/…先生の話はすべて金と女に落つ。

 さらに「鴎外荷風万太郎」という本に収録の小島政二郎「永井荷風」一文には、不眠症の荷風が自分より30歳も若い小西夫妻の夜の楽しみを覗き見した…いや、覗き見することをやめなかったからだ、を紹介し、この二年前に発表されている荷風氏の小説「問わずがたり」の第六節を見よ、とある。(同棲していた辰子の娘・雪江20歳と女中・松子の同性愛を障子に穴を開けてのぞき見する場面のことだろう)》(大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”



昭和八年歳次葵酉   荷風年五十又五

十一月十一日 反故紙

書架を掃除するに鉛筆にてかき散らせし草稿を見出したり。拙劣にして今更添削するにも足らぬものなり。唯その日の紀念にと写し置くこと左の如し。

友達の家庭に何かおもしろからぬ事が起ったり、あるいは子供や娘の事から親達の困っている事などが言伝えられると、その度ごとに君は仕合せだよと、いつもわたくしは友達から羨まれるのである。わたくしは四十前後から定まった妻を持たず、また一度も子を持ったことがない。女房持や子持の人から見ると、わたくしの身の上は大層気楽に思われるらしい。

(……)わたくしは始から独身で一生を送ろうときめたわけではない。六十になっても七十になっても好色の慾は失せないものだと聞いているから、わたくしは今が今でも縁があれば妻を持ってもよいと思っている。(……)一夜の妻が二夜となり、三夜となり、それからずるずる縁がつながって行ったら、大いに賀すべき事だと思って、そういう場合には万事成行きにまかせて置いた事も度々であった。つまりわたくしの方から積極的に事をまとめようとはしない。一夜の妻が変じて一生涯の伴侶になろうという場合には、相方ともにそれ相応の覚悟がなくてはならない。一夜妻は譬えて見れば船か汽車の中で知合になったその場かぎりの話相手であるが、正妻になると少しく事が面倒になる。良人には良人たるべき覚悟、妻には妻となるべき決心がなくてはならない。そこでわたくしは諄々として女に向って講義を始める。この講義をきくとまず大抵の女はびっくりして逃げてしまう。別にむずかしい事をいいうのではないが、わたくしの説く所は現代の教育を受けた女には、甚しく奇矯に聞こえるらしい。わたくしの説は一家の主婦になるものは下女より毎朝半時間早く起き、寝る時には下女より半時間おそく寝る事。毎日金銭の出入はその日の中に洩れなく帳面に記入する事。来客へ出すべき茶は必ず下女の手を待たず自分で入れる事。自分の部屋は自分にて掃除する事。家内の事は大小となく一応良人に相談した上でなければ親戚友人には語らぬ事。まずこの位の事であるが、正面から規則を見せつけられると、大層窮屈に思われると見え、御免を蒙る方が多い。わたくしは何事に限らず人に物事を強いるのを好まないので、わたくしの言う事をきかないからとて決してその人を憎みはしない。縁談がまとまらなくてもその後長く交際のつづいていたような例もある。……

昭和27年、文化勲章を受賞。「人に何といわれようとも、ぼくはひとり暮しがいちばんいい。ぼくはひとり暮しをするように生れそなわっているのかも知れないな。ぼくのような生活をしている文学者は、江戸時代にもいなかったし、フランスにだって例はあまりない…」




巻末に永井永光が、「ぬれずろ草紙」を抜粋している。昭和23年(70歳)1月、《春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。》と記したエロ小説だ。そこに目をとめた新潮社のT氏が永光に見せろと迫った。おそらく新潮社としては「濡ズロ草紙」を世に出したかったのだろうが永光がウンと言わず、しょうがない、荷風ゆかりの写真を集めて「とんぼの本」シリーズに加え、そのなかに抜粋を掲載するという条件で折り合った……本書上梓のいきさつはおそらくそんなところだ。さまざまな花柳界を描いた荷風が最後に挑んだパンパン小説だ。400字詰め換算で70枚ほどの中編であるという。『日乗』の昭和27年から30年にかけてしきりに有楽町のフジアイスに出かけたことがしるされているが、そこは「洋パン」のたむろする店だったという。取材をかさねていたわけだ。

 戦争未亡人の「わたし」が桜田門のあたりでアメリカ兵に声をかけられ、《見附の中へ入り松の木の立つてゐる土手に登り草の上に腰をおろしわたしが蹲踞(シャガ)むのを遅しとスカートの下からヅロースの間へ指先を入れました。わたしは何しろ二年ぶり男にさはられるのは其日が初てでしたから触られただけでもたまらない気がして男の胸の上に顔を押付け息をはづませ奥の方へ指が入るやうにぐつと両方の足をひろげる始末です。》読んでいて、ええぞええぞそれからどしたと興がのってくると永光の解説文に切り替わってしまう。はなはだ興ざめ。

 永光は文の最後を《この公開には私なりの考えがあっての一回切りの体験だった。これよりのちは一切これを公けにするつもりはない。》としめくくっているが、そんな偉そうなことを言う資格があるのか。芸術作品は人類の共有財産ではないか。パンパンの生態がよくわかり、半壊した新橋演舞場の楽屋が米兵たちが女を引きずり込む場所になっていたなどという興味深い事実も描かれ、戦後裏面史になっているというのに。そしてなにより荷風自身が河盛好蔵にむかって「あらゆる種類の娼婦を書いてきましたがねえ、残すところはパンパンだけなんです」と語っているように最後のエネルギーをふりしぼって書いたものだというのに。「四畳半襖の下張り」ほど完成度が高くないというだけで(それとても永光の感想にすぎない)死蔵していいものだろうか。元妻八重次が永光にもらしたこんな言葉「性的には、女性が満足できる男じゃないですよ」まで公開しておいてだ。父親(養父)の性行為をヘタクソだったとバラしておきながらその作品を隠すとは。バランスを欠いているのではないか。

◆『濡ズロ草紙』より

「残った一人はわたしの腰をかかえて見付の中へ入り松の立っている土手に登り草の上に腰をおろしわたしがしゃがむのをおそしとスカートの下からズロースの間へ指先を入れました」

 

「女のよがる声が耳に入ったのでびっくりしてあたりを見廻すとすぐ後の松の木の下でいつの間に来たのかわたしと同じような薄地のワンピースを着た女が米兵の膝の上に抱き上げられて日本風で云えば居茶臼の形でアラいいのいいのと日本語で泣きながら気をやっている最中です。米兵は膝までズボンをぬぎおろし、女はワンピースとシュミーズと一ツに背中の方までまくり上げられているので此方から見ると馬乗りになった女が腰をつかうたびたび男の一物が抜けそうになってばくっと入るのが真白な女のお臀の割目からまる見えに能く見えるのです」


「夕月が出て涼しそうなその辺の木かげや芝草の上にはあっちにもこっちにも米兵と日本の女とが抱合ったり寝転んだりしています。拭いた紙だの使った後のサックが歩く道の上に掃くほど捨ててあります」



◆無常と俳詣-永井荷風の諸作を巡って- 加田 謙一郎


松本哉は、荷風の女性関係を詳細に調べて、『女たちの荷風』 を書き残した。その巻尾に挙げられたエピソードは、歴史小説家永井路子の母、アルト歌手であった永井智子による、次のような荷風追悼文の一節であった

稽古が遅くなって、朝の七時頃劇作家などとうらさびた朝の浅草の裏通りを歩いている時、遊郭の女郎衆が着ぶくれた身なりで、夜の疲れをそのままに、朝参りをするのを見て、劇作家が、「ああ、きたないなあ、あれだけはいやだな。きたないもんだ」と言うのに「いやあ、あれが美しく見えなくちやあ、小説は書けませんぜえ。あれが美しく見えなくちやあ」 と白い息といっしょに呟かれる先生、そんな先生に、私は慈父のような温かみを覚えるのでした。(永井智子「『葛飾情話』 のヒロインとして」、「婦人公論」昭和三十四年七月号)

注)戦後、岡山に疎開していた荷風が、苦楽を共にした永井智子夫妻を置き去りにして帰京したことについて、荷風が出発した昭和二十年八月三十日に、荷風のいとこである杵屋五里宛に、永井智子は次の様な手紙を送っている。「誠に恐れ入りますが次のことを永井先生におことづけ願えれば幸いです。一、人間誰でも他人のことは考えず自分の思ったま〜のことが出来たらこんな都合のい〜ことはないでしょう。二、三人一緒に東京を出て来たのだから三人一緒に東京へかえる可きもので、もしも一人で行動を取る様なことがあったらそれは道義にはずれる、人間のすべきことではないと常々おっしゃっていた先生が道義も何も無く、突然人間でない行いを実行されました。三、中野を出て今日迄の生活の過し方をよくお考えになって御自分のお心に恥ざることもなく、人間の情けと云うものが少しでも先生のお気持ちの中にあったら私に別にあやまる必要は毛頭ありません。潔癖と節操の強い先生と尊敬していたゞけに私達の裏切られた心の淋しさは一代の大家をみそこねていた気持ちの悲しさで一ばいです。」 杵屋五里は、荷風にこの手紙を見せた。(秋庭太郎、『考証永井荷風 (下) 』、岩波書店、一九六六年。)


永井荷風と作曲家・菅原明朗(あるいは永井智子)


 「生活を共にしたとはいえ、四月二十六日から五月二十五日までは居室だけは別にしていたが、それ以後は居室までも共にせざるを得なくなり、四六時中を文字通りの共同の暮らしをしたので、荷風の日記がどのようにして書きつけられて行くかを眼のあたり見ることが出来た」(菅原明朗「罹災日乗考」(『現代文学大系月報』1965)




爆弾はわたくしの家と蔵書とを焼いた。わたくしの家には父母のみならず祖父の手にした書巻と、わたくしが西洋から携帰つたものがあった。わたくしは今辞書の一冊だも持たない身となつた。今よりして後、死の来るまで-それはさほど遠いことではなからうが-それまでの間継続されさうな文筆生活の前途を望見する時頗途方に暮れながら、わたくしは西行と芭蕉の事を思ひ浮かべる。

歌人とならうが為めでもなければ、又俳詣師にならうがためでもない。わたくしは唯この二人の詩人がいづれも家を捨て、放浪の生涯に身を終わつたことに心づいたからである。家がなければ平生詩作の参考に供すべき書巻を持ってゐやう筈がない。さびしき二人の作品は座右の書物から興会を得たものではなく、直接道途の観察と霹旅の哀愁から得たものである。(永井荷風「冬日の窓」)

…………

以下、作家たちによる荷風の毀誉褒貶のいくつか。


私は永井氏を現代随一の文章家と思っているが、最近の文章では、「葛飾土産」 の中にある、真間川の流れを辿って歩く文章が実にいいと思った。ああいう文は誰にも書けぬ。あの文でもよく分かる様に、永井氏の文章は、観察という筋金が通っている処が、非常な魅力である様に思われる。「ひかげの花」 にしても、そうである。あれは、執拗に見る人の作であり、分析家や心理家の作ではない。それから、この作のもう一つの特色は、作者の人生観がよく現れているところにあると思う。それはひかげの花の様に暮らしている人々に対する作者の強い共感である。真間川という世人から忘れられた凡庸な川の流れを辿って孤独な散歩をする様に、作者は、こういう人生のひかげの花を摘むのである。華々しい教養や文化は、寧ろ真の人間性を覆いかくして了うものだ、そういう作者の確信は恐らく大変強いものだろう。世人は永井氏を変人だと言っている様だが、世人には変人と思わせて置く、こんな好都合な事はない、と永井氏は考えておられるのではないかと思う。(小林秀雄、「ひかげの花」、『荷風全集』月報、一九五一年)

ここで、ちょつと戦後の荷風について考えてみれば、戦後の荷風は文学活動を放棄した、と考えるのが妥当なようだ。私の友人のある大学の先生が、こんなことを言った。「荷風が戦後、いくつかの尻切れトンボのごく短い文章を発表し、それについて批評家がいろいろあげつらつているが、自分の推理によると、もしかすると、こういう事実が考えられる。

彼は、戦後はほとんど猥文しか書かなかったのではないか。そして、導入部だけを活字にして発表し、それから後につづく部分、丹念に毛筆で書きつづられた部分は、筐底深く蔵いこまれてあるのではないか。」その推測を聞いたとき、私はコロンブスの卵を思い出した。如何にも荷風ごのみのことである。(吉行淳之介、「抒情詩人の拒殺」「中央公論」昭和三十四年七月号)


一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。

 おもえば、葛飾土産までの荷風散人だった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなく、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。
(中略)

 むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。したがって、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。(石川淳「敗荷落日」

《鴎外を先賢師父と仰いだ荷風には史伝体の小説なり随筆を書く資性器量、天性の文辞、絶倫の筆力がありあまるほどあった。さらに言えば生え抜きの自然主義作家正宗白鳥なぞには真似しようのない戯作者気質が生まれながらに備わってあった。(……)

稀代の名文家荷風による香以伝を待ち望んでいた読者は歿後五十年経たいまにすくなからずある。吉原にとどまらず岡場所、茶屋教坊ほかの歌吹海に身銭を切って足を運んだことのない鴎外が破滅型の大通世界を描くなど土台無理の話、香以の取巻き馬十連の阿弥号を誤り写したりするのは当然の結果であろう。鴎外が頼みの材料とした「歌舞伎新報」に出る魯文の『再来紀文廓花街』を駆使しながら、荷風であったらそれまでのお座なりの香以伝とは似て非なる下世話に通じた風流考証を手堅く仕上げたものに相違ない。》(加藤郁乎「かたいもの」)


元々荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。(……)

荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇がありその境遇からの思考があつてそれが彼自らの境遇とその思考に対立してゐるといふ単純な事実に就てすらも考へてゐないのだ。(坂口安吾「通俗作家 荷風」)




《明治以後の日本文へ欧文が及した影響は、漢文の影響の最大なるときに、最大であった。すなわち鴎外であり、その次に荷風である。また漢文の影響の最小なるときに、最小であった。すなわち昭和期殊に戦後の諸家である。/日本文が漢文の影響を脱するに従って、欧文の影響をうけるようになったというのは、俗説にすぎない。むしろ逆に、漢文の影響と欧文の影響とは平行し、時と共に減じてきたのだ。/散文の場合には、外国の小説の影響がそれほど破壊的ではなかったかもしれない。しかし翻訳小説は沢山あらわれた。したがって翻訳の文章の大部分は、もはや鴎外訳の場合とはまるで性質の違うものであった。そういう翻訳小説をよむことによってえられるだろう信念の一つは、疑いもなく、小説の文章は週刊雑誌の記事と本来ちがわぬものだということ以外ではないだろう。少くとも荷風はそうは考えていなかった。しかし戦後の小説家の多くはそう考えているらしい。》(加藤周一「外国文学のうけとり方と戦後」




2013年7月6日土曜日

大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ

皆さん、芸術家なら自分の作品をエラボレートするのは当り前だろう、といわれるかもしれません。しかし、この国ではそうじゃないんです。エラボレートする作家は──文学でいうならば──じつにまれで、たとえば安部公房のように特別な人なんです。かれの小説の初出と、全集におさめてあるものを比較すればあきらかですが、安部さんはいったん発表したものも、なおみがきあげずにはいられない作家でした。

三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果なんです。若い作家でそれを真似ている人たちがいますから、ここでそう批判しておきたいと思います。(大江健三郎 講演「武満徹のエラボレーション」|東京オペラシティコンサートホール)

《大江健三郎は懸命に三島由紀夫を否定する。ちょうどヘーゲルが懸命にシュレーゲルを否定したように。》(柄谷行人「同一性の円環」)――もっとも柄谷行人がこう書くのは、大江の三島由紀夫文体への「否定」をめぐってではないが、いまはその内容については触れない。大江健三郎はありとあらゆる機会をとらえて三島由紀夫を否定する、そのことが言いたいだけだ。文体に関しては、大岡昇平が指摘されたとされる以下の文のようなことを、大江氏は想起しつつ上のように語ったのかもしれない(丹生谷貴志の文であるが、ツイッター上で拾ったので出典は不明)。

三島由紀夫の死後、大岡昇平は三島の文体に時折露骨なかたちで現れる奇妙なメカニズムを指摘している。三島の文体全般に言えることだが、時折唖然とするほどに空疎な措辞を用いた文章が現れるという点である。例えば、と大岡は『天人五衰』の一文を挙げる。…「宇治市へ入ると、山々の青さがはじめて目に滴った」。…「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだ、ということである。

同じことが、或いはこの文例よりもさらに空虚な措辞からなる次のような文にも認められる。『暁の寺』最後のクライマックス部分である。「こんな場合にも、ほとんど無意識の習慣で、本多は赤富士を見つめた目を、すぐかたわらの朝空へ移した。すると截然と的れきたる冬の富士が泛んで来た」。…「セツゼントテキレキタルフユノフジ」! …

「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」という大岡の評言は、要するに三島は目の前の「現実」に対して、可能な限りそれに“相応しい”言葉の探究をすることなく、例えば旅行用パンフレットに書かれるような「既成のレトリック」の中から…切り取って来るかのようだといった意味だろう。しかしここで重要なのは、三島が、或いは三島が選んだ「文体」が半ば意図的に「現実」との接触を避ける身振りを持っているという点である。正確に言えば、「現実」を前にし、一応そこに向けての接近の身振りをするのだが…そしてそこにおける三島の詳細で微分的な精密さについて否定する者はいないと思われるが、しかし、三島の文体には或る“感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのようなのである。(丹生谷貴志)

「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」、――三島由紀夫の文章には、たしかにこういった印象を生む場合がわたくしにもあるのだけれど、まああまり偉そうなことを言うつもりはない、たいして読んでもいないのだから。「截然と的れきたる冬の富士」、こういった漢文ベースの文体、たとえば森鴎外やら永井荷風にも似たような表現はあるのだけれど、なぜこの二人の巨匠の文体にはそういったことを感じないのかのほうが、わたくしには不思議なのだが、その二人の文章だってたいして読んでいるわけではなく、何度も読んだのは、『渋江抽斎』と『断腸亭日乗』なのだけれど、「既成のレトリック」の中から切り取って来るかのような感じを受けたことはない(谷崎からも川端からも受けたことはない、逆に学者の論文などそんなものばかりだ)。

――「琴瑟調わざることを五百に告げた」「淵に臨んで魚を羨むの情に堪えない」「玄碩の遺した女鉄は重い痘瘡を患えて、瘢痕満面、人の見るを厭う醜貌であった」……

――「断膓亭の小窗に映る樹影墨絵の如し」「樹間始めて鶯語をきく」「此日天気晴朗。園梅満開。鳥語欣々たり」……

たぶん「既成のレトリック」の中から切り取って来ること自体が問題なのではなく、丹生谷氏が最後に書いているような《三島の文体には或る“感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのよう》なせいであって、肝心なところで拍子抜けするということなのではないか(描写される時代が漢語表現に適さないということもあるだろう…現代クラッシックの作品が古典的作風で作曲されても、どこか「まがいもの」感が生まれてしまうように…まあこのあたりのことはあまり考えたことはないので、ひどく馬鹿げたことを言っているのかもしれない)。

今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』ーーありきたりな言葉


といっても、大岡昇平の文体だって、なんだか物足りなさを感じるときがある、とくにスタンダールやレイモン・ラディゲを擬した恋愛もの。安吾のいうとおり、《心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております》。まあプルーストと比べてしまうのは、彼らに酷かもしれないけれど、おなじ心理を描くといっても、判断保留の宙吊り感といったものが少ない、プルーストの小説の登場人物の一人、《コタールは《偉大》でも《卑小》でもない。仮に真実があるとすれば、その真実は「他者」の言葉が彼に与える動揺全体にいきわたる言述の真実である。》(ロラン・バルト)――こんな感じは全然ない。ラディゲにもサガンにもない。スタンダールはどうか、あるんじゃないかね、スタンダールの翻訳者大岡昇平にくらべて格段に。あまりにもの明快さへの不満かな。もっともこのあたりはたんに好き嫌いのせいだけではないかと疑ってみる必要はあるのだけれど。


大岡昇平と三島由紀夫は戦後に文章の新風をもたらしましたが、その表現が適切に、マギレのないようにと心がけて、まさしく今までの日本の文章に不足なものを補っております。明快ということは大切です。

ですが、小説というものは、批評でも同じことだが、文章というものが、消えてなくなるような性質や仕組みが必要ではないかね。よく行き届いていて敬服すべき文章であるが、どこまで読んでも文章がつきまとってくる感じで、小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ。物語が浮き上って、文章は底へ沈んで失われる必要があるでしょう。

御両所に共通していることは、心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております。

それも要するに、文章が濃すぎるということだ。文章というものは行き届くはずはないものです。行き届くということは、不要なものを捨てることですよ。すると他に行き届かないという畸型は現れません。

そして、捨てる、ということは、どういうことかと云うと、文章は局部的なものでないということです。むろん、文章は局部的にしか書けないし、その限りに於て文章は局部的に明快で、また行き届く必要がありますけれども、文章の運動というものはいつも山のテッペンをめざし、小説の全体的なものが本質として目ざされておらなければならない。言葉の職人にとって、一ツ一ツの言葉というものは、風の中の羽のように軽くなければなりませんな。

どうしても、この言葉でなければならん、というのは、そんな極意や秘伝があるのか、と素人が思うだけのことですよ。職人にとっては仕事というものは、この上もない遊びですよ。彼の手中にある言葉は、必然の心理を刺しぬくショウキ様の刀のようなものではなくて、思いのままに飛んだり、消えたり、現れたりする風の中の羽や、野のカゲロウや虹のようなものさ。

言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ。職人に必要なのは、思いつき、ということです。それは漫画の場合と同じことですよ。ここを、ああして、こうして、という問題のワクがまだ小さいウラミがあります。

要するに、文章が濃すぎると思うのですよ。もっとも、私の言うのは文章だけに目をおいて、言ってるのですがね。(坂口安吾「戦後文章論」

この後、安吾は、《

文章の新風としては、今度の芥川賞の候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なものでありました。私は芥川賞に推して、通りませんでしたが、この人は御両所につづく戦後の新風ですね。》と書いているのだけれど、わたくしも、安岡章太郎の文体には、なんでもない箇所でも魅せられる。

信太郎は、タバコをのんでいる父親の顔がきらいだった。太い指先につまみあげたシガレットを、とがった唇の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸いこむのだ。いったん煙をのみこむと、そいつが体内のすみずみまで行きわたるのを待つように、じっと半眼を中空にはなっている……。吸いなれた者にとっては、誰だってタバコは吸いたいものにきまっている。けれでも父の吸い方は、まったく身も世もないという感じで、吸っている間は話しかけられても返辞もできないほどなのだ。(『海辺の光景』)

※附記

大江健三郎は『取り替え子』のなかで、妻がモデルである千樫にこう語らせている(千樫との対話が、実際にそうあったのかどうかは問題ではない。千樫との対話は古義人(大江自身がモデル)の内省であり自己対話に近いとしてよいだろう)。


――あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝くような、風変わりなほど新しい表現があって……

それが永いメキシコシティー滞在の後、翻訳じゃなく外国語で本を読むようになってから、あなたの使う言葉の感じが変わったと思う。新しい深さが言葉に反映している、とは思うことがあるのよ。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。小説に使われている言葉もそうじゃないかしら? 成熟ということかも知れないけれど、以前のようにキラキラした言葉はなくなった。そう考えているうちに、私はあなたの小説を読まなくなってしまったのね。それで、この十五年ほどの小説のことはなにもいえないけれど、そうした変化と、翻訳より原語で読む方が多くなったということと、関係があるかも知れないと思って……原書を読む人こそ、日本語にない面白さを持ち込む、と考えるのが普通かも知れないけれど……

――それは本当にそうかも知れないね。僕の本の売れ行きが下降線を示しはじめたのは、四十代後半からだからね。あまり翻訳を読まなくなった時期と一致するよ。きみのいうとおり、キラキラする面白さが薄れたのかも知れない。翻訳されたものを読む面白さには、原語から読みとるのとは別の、いうならば露骨なものがあるんだよ。あれをこう訳すか、これだけやっていいものか、と驚きながら、自分にはこの日本語は生み出せない、と感服することがよくあるものね。とくに若い有能な翻訳者には、異能といっていいほどの力を示す人がいるよ。(……)

――フランス語の新しい作品を翻訳する、若い人の文章には、突飛な面白さがあるねえ、といった。

――まあ、そうだね、アメリカ西海岸の大学の、直接フーコーの影響下にいる連中などは別として、英語の文章はそれ自体地道だものね。とくにイギリスの学者が書くものは…… 僕の文章がキラキラしなくなったというのは、ブレイクからダンテ研究まで、おもにケンブリッジ大学出版局のモノグラフを読んできたことと関係があるかも知れない……P64-65








2013年6月27日木曜日

魂の非安

汝を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ》(アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』)

二〇〇一年九月一一日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク「〈現実界〉の砂漠へようこそ」)

 《

享楽、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかはない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。》(『彼自身のロランバルト』)

こうやって、われわれは死の欲動、あるいは享楽のなかに踏み込む。実はそんなことは誰でも知っている。しらばっくれてもだめだ。魂の平安など求めはしない。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(『ラカンはこう読め!』)

《実際に消費する快楽よりも、つねに直接的交換可能性の「権利」を保持し、さらにそれを拡大することから得られる快楽。…資本の蓄積のたえまない運動は、快感原則でも現実原則でもなく、フロイト的にいえばそれらの「彼岸」にある欲動(死の欲動)として見られるべきである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』p336)



「不安」とは「現実界」に近づき過ぎたときに起こるというのがラカンのテーゼである。

もっとも最近は二つの不安を区別するミレールの見解がある。《Miller recently proposed a Benjaminian distinction between “constituted anxiety” and “constituent anxiety,” which is crucial with regard to the shift from desire to drive: while the first designates the standard notion of the terrifying and fascinating abyss of anxiety which haunts us, its infernal circle which threatens to draw us in, the second stands for the “pure” confrontation with the objet petit a as constituted in its very loss.》(zizek"LESS THAN NOTHING")

ーー欲望の次元の「不安」にある人は、せいぜいその不安を慰めたらよい。だがひとは、欲動の次元の「不安」をうっちゃるわけにはいかない。(参照:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)


無駄話にうつつを抜かして慰安を求め、象徴界のひびわれや裂け目に保留されている<現実界>を遣り過して愛想よく頷きあっている「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」を徹底的に嘲笑しようではないか、精神の健康のために。

《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

……「文芸春秋」を出したのは、菊池さんがたしか三十五の時である。ささやかな文芸雑誌として出発したが、急速に綜合雑誌に発展して成功した。成功の原因は簡単で、元来社会の常識を目当てに編輯すべき総合雑誌が、当時持っていた、いや今日も脱しきれない弱点を衝いた事であった。菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」の原稿を有難がるという弱点を衝いた事によってである。(小林秀雄「菊池寛」)

《われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧 」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界 〉から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎない(……)。この社会的現実は、<現実界>の闖入によっていつ何時でも、ごくふつうの日常会話やごくありふれた出来事が危険な方向へとむかい、取り返しのつかない破滅が起こるかもしれない…》(ジジェク『斜めから見る』p43)


「現実は、現実界の顰め面」(ラカン「テレヴィジョン」)であることを忘れたふりをしている、あるいは、「現実」は、象徴界によって飼い馴らされた<現実界 réel>であることを見ないふりをしている手合いには嘲弄がふさわしい。

"reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility"
(François Balmès, 『Ce que Lacan dit de l'être』 1999)


ラカンは、享楽は《裂け目の光のなかで保留されている》とする。「世界の論理の突然のひびわれ」、とデュラスは書く。


愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス「死の病い」 )

世界の論理の突然のひびわれ、現実界の闖入を避けたところには、そもそも「愛」などない。「好き」だけだ。


ロラン・バルトの『明るい部屋』での二項対立、ストゥディウム(studium)/ブンクトゥム(punctum)を想起しよう。これは、『テクストの快楽』の、快楽plaisir/悦楽jouissanceに連なる。後者は、ラカン用語としては、「享楽」と訳されている。



プンクトゥムとはほとんど「享楽juissance」のことと言ってよい。(参照:ベルト付きの靴と首飾り


 

《プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもありーーしかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


突然のひびわれ、裂け目、 ――ここにしか「愛」はない。


《ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い( I LIKE/ I dont)の問題である。ストゥディウムは、好き( to like)の次元に属し、愛する (to love)の次元には属さない。》(同 バルト)


ひとは、このストゥディウムの文化的場でうつつを抜かし、プンクトゥムの、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目をやりすごそうとする。 ――「うつつ」、つまり、” réel を抜かすのだ。


ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

《現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。


これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。》(大岡昇平『常識的文学論』1960



「魂の平和」が訪れて、「不安」がなくなってしまったらどうなるというのか。
「でも、あなたといるとぼくは不安でたまらない。そう、それなんだ、あなたはぼくを不安におとしいれるんです。そのとおりだよ、食事相手はうなずいた。わたしといると最後はだれもがそうなのさ。だけどね、そもそも文学の役割とはそこにあるのだと思わないかい? ひとの不安をかきたてることだとは? わたしに言わせれば、ひとの意識を慰撫するような文学などは信用できない。」(フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』澤田直訳編

もちろん、文学だけではない、ひとの意識を慰撫するような音楽、美術などは信用できない。祈りの音楽? 祈りとは本来、魂の不安を慰撫するのではなく、現実界に直面することではないか。《私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。》(武満徹)でありつつ、《私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)なのだ。


それを安吾のアモラル、あるいは漱石の非人情(人情と不人情の宙吊り)、あるいはカントの無限判断をめぐる記述を援用して、不安と平和との境界線を突き崩す第三の領域を、ここでは「非安」としておく。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られたような空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。その余白の中にくりひろげられ、私の耳に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。(……)

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。(坂口安吾『文学のふるさと』)


ジャン・ジュネの《何も言わずに祈り続ける人のように……要するに、にこやかで凶暴だった》とする、あまりにも強く私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける」文における「祈り」を想起しよう。



誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンが過ごしたヨルダンのジェラッシュとアジルーン山中での6ヶ月が、わけても最初の数ヶ月がどのようなものだったか語ることはないだろう。数々の出来事を報告書にまとめること、年表を作成しPLOの成功と誤りを数え上げること、そういうことならした人々がある。季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。政治的選択によって彼らが撤退していたヨルダンのこの地方はシリア国境からサルトへと縦長に伸び広がり、ヨルダン川と、ジャラシュからイルビトへ向かう街道とが境界をなしていた。この長い縦軸が約60キロ、奥行きは20キロほどの大変山がちな地方で、緑の小楢(こなら)が生い茂り、ヨルダンの小村が点在し、耕地はかなり貧弱だった。茂みの下、迷彩色のテントの下に、フェダイーンはあらかじめ戦闘員の小単位と軽火器、重火器を配備していた。いざ配置に着き、ヨルダン側の動きを読んで砲口の向きを定めると、若い兵士は武器の手入れに入った。分解して掃除をし油を塗り、また全速力で組み立て直していた。夜でも同じことができるように、目隠しをしたまま分解し組み立て直す離れ業をやってのける者もあった。一人一人の兵士と彼の武器の間には、恋のような、魔法のような関係が成立していた。少年期を過ぎて間もないフェダイーンには、武器としての銃が勝ち誇った男らしさのしるしであり、存在しているという確信をもたらしていた。攻撃性は消えていた。微笑が歯をのぞかせていた。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』



 ほかにも、

《愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。》


《女たちはすでに慣習に叛いていた。男の視線に耐えるまっ直ぐな眼差し、ヴェールの拒否、人目にさらした、時にはすっかり露な髪、つぶれたところのない声。》


《「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを》


ここには「現実界」を真正面から見据える人びとの「強度」、「光」がある。魂の唯物論的な露呈 réel、その「輝き」がある。笑いさざめき、白い歯をこぼす微笑、にこやかな凶暴さ、奇妙にもじっと動かぬ何ものか…まっ直な眼差し…


むき出しになった享楽…名前を欠いた非個性的な欲動が迫り上がる…統禦しがたい匿名の衝動…穴を穿たれ、乗っ取られた人びとの最も深い絶望による輝き…



もう繰りかえすまでもないだろう、「不安」の深淵をのぞきながら、そこから逃げさることのなかった人びとの享楽、死の欲動…愛の猥褻と死の猥褻…

………

◆ニーチェの「魂の平和」

「内なる敵」…その価値…対立に富むという代価を払ってのみ、人は豊饒となる。魂が伸び伸びとせず、平和を求めないという前提のもとでのみ、人は若さを保ちつづける・・・「魂の平和」という以前のあの願望、キリスト教的願望にもまして私たちに縁遠くなったものは、何ひとつとしてない。戦いを断念するときには、偉大な生を断念してしまっているのである・・・

もちろん多くの場合「魂の平和」はたんに一つの誤解であるにすぎない、――もっと率直に命名されることができないだけの何か別のものである。言いのがれや偏見なしで二三の場合をあげてみよう。「魂の平和」は、たとえば豊かな動物性が道徳的なもの(ないしは宗教的なもの)のうちへと穏やかに放射していることでもありうる。あるいは、疲労の始まり、夕暮れが、あらゆる種類の夕暮れが投げかける最初の影でもありうる。あるいは、空気が湿気をおび、南風が近づいてくることの徴候でもありうる。あるいは、順調な消化に対するそれとは知らぬ感謝(ときとして「人間愛」と名づけられる)でもありうる。あるいは、すべての事物に新しい味わいをおぼえ、待ちのぞむ快癒者の心のひっそりとすることでもある・・・

あるいは、私たちの支配的激情の強い満足につづいておこる状態、稀有な飽満の快感でもありうる。あるいは、私たちの意志の、私たちの欲求の、私たちの背徳の老衰でもありうる。あるいは、道徳的に粉飾するよう虚栄心に説きふせられた怠惰でもありうる。あるいは、不確実さによる長いあいだの緊張や拷問ののち、確実さが、怖るべき確実さすらが入りこんでくることでもありうる。あるいは、行為、創造、活動、意欲のただなかでの成熟や練達の表現、静かな息づかい、達成された「意志の自由」でもありうる・・・偶像の黄昏、誰が知ろうか? おそらくはこれまた一種の「魂の平和」でしかなかろう・・・(ニーチェ『偶像の黄昏』「反自然としての道徳」3番より 原佑訳)

※補遺→ ラカン派の現実(幻想)と現実界をめぐる