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2013年6月5日水曜日

ラカンの愛の定義


ラカンの愛の定義(のひとつ)は、「愛とは自分のもっていないものを与えることである」(「セミネール 」)―― その意味するところ、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということである。


ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。(ミレール on love


ここにある「欠如」と「他者」が曲者である。



自らの「欠如」を認めること、すなわち、わたしたちが「去勢」されていることを認めること、そして何よりもまず女性は「欠如」した存在であり、人が愛することためには、「女性」のポジションからでなければならない、愛する男性がいささか滑稽にみえるとしたらこのせいである、――などとされても、実感としてはそうでありつつ、やはりいささか首を傾げなくてはならない。――ああ、またしてもフロイトやラカンの「去勢」! ウンザリだ、という声がすぐさま聞こえてくる…。

※「欠如」について、いまだウンザリしていないひと向けには、ここにいくらかの説明がある→ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書


しかし、次のような説明には頷かずにはいられない。

ーーなぜ男は愛していない女を欲望するのだろうか。それは彼が愛しているとき宙吊りにされてしまう「男らしさ」を取り返すためだ。

ーー結婚生活において、妻が夫にぴったり寄り添い過ぎれば、夫は「去勢」されてしまう。ーー《恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ 》 (ソレルス『女たち』

あるいは、

男性は欲望の線上でも、つまり、彼が女性について自分の満足感を見つけなければならない場合でも、やはりファルスを捜そうとします。しかし(……)このファルスは、男性がそれを探しているところには見つからないため、彼は、よそのいたるところを捜すことになります。別の言い方をすれば、女性にとって、象徴的なペニスはいわば女性の欲望の領野の内部にありますが、男性にとってはそれは外部にあります。このことは、男性が、一夫一婦制の関係のなかでいつもその関係から離反する傾向があるのを説明してくれます。(ラカン「セミネールⅤ」ーー『ファルスの意味作用』読書会
psychanalyse.jp/archives/T_MATSUMOTO/.../bedeutungphallus.doc


ところで、完璧であることを願うのがかつての男性の傾向だったとしても、女性も男女平等を願って、男性と同じようでありたいとするのが父権制社会における女性の「男性化」であるとするならば、女たちも愛することを失いつつある。いまさら復習する必要もないだろうが、かつての「悪しきフェミニスト」たちの主張のようであってはならないだろう。


man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに man womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 man womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない(浅田彰「理屈 「デリダ追悼」」

男たちの「女性化」もあるだろう。


「父なき世代」においては、ひとは、「女性なるものに不可避的に惹きつけられる」、――それは、《父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(lacan E566)ことに気づくからである》(松本卓也)などといういささか厄介な説明を参照するまでもなく、たとえば共稼ぎの家庭で、帰りが早く「待つ」男性は女性化する。



「わたしは恋をしているのだろうかーー然り、こうして待っているのだから。」相手の方はけっして待つことがない、自分も待つことのない者として振舞ってみようと思うことは多い。別のところで忙しくして、遅れてゆこうと努めてもみる。しかし、この勝負はいつもわたしの負けに終る。なにをどう努めてみても、結局のところ私は暇なのであり、時間に正確で、早めに来てしまっている。「わたしは待つものである。」これが、恋する者の宿命的自己証明なのだ。

(転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在――まるで欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのようにーーに隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』p62) 

歴史的に見れば、不在のディスクールは女性によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性的になるのだ。男が女性的になるのは、性的倒錯者だからでなく、恋をしているあらである。(神話とユートピア、その起源は女性的なところをそなえた人びとのものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(同『恋愛のディスクール』p23)


…………



「欠如」と「他者」に係るいくらかの資料を添付しよう。


まず「欠如」。


幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになりますが、これは一体何故なのでしょうか。〔これは非常に解釈が難しい問題ですが、〕ここに言葉の分析的な意味における転移を認めなければならないでしょう。(Lacan, E686)――(フロイト「女性の性愛について」まとめ

《象徴は物の殺害である》(ラカン「ローマ講演(1953)」)



(立木)人間が言語と関係をもつと、それとひきかえに失うものがある。ラカンはそう考えます。そういうレベルのことは、システム論ではどう位置付けたらいいのでしょうか?

(十川)欠如とひきかえに成立する自己の構造ということは……基本的に問題にしていないんです(笑)。議論の方向が違いますから。

(立木)要りませんか、その次元は? もっともラカンにしても言葉以前の世界といったものを実在的にとらえているわけではありません。そこが問題なのではない。われわれはいかにしても言語の外になど出られないわけだから。しかし、われわれが言語にとらわれている、というこの状態は、ラカンにとって何らかの喪失抜きにはありえない。ラカンが1953年に「物の殺害」と言ったのもそのことです。言語は物を殺す。同様に、言語は人間も殺す。主体が一つのシニフィアンに同一化すれば、他方ではその存在が欠如とならざるをえない、という疎外の理論も、まさに欠如とひきかえに言語の中へ入っていくという思想です。

(十川)世界の根源に欠如や喪失を想定し、そこから理論を構築していくという方法論があります。例えばラカンのフロイト読解などはその最たるものだと思います。このような方法を「否定神学的」といって批判する人もありますが、これはこれで私たちの思考を遠くまで導いてくれる力をもっています。一方で、欠如や喪失を最初に想定するのではなく、生成する力やその際に獲得する能力に力点を置いて論理を展開する方法があり、私はこの後者の論と親和性があります。欠如や喪失というのは、見方を変えれば別の側面の過剰や新たな形での獲得ということなので、これは物事の二つの異なった側面ということになります。しかし、ここで重要なのは、欠如を埋める形で獲得がなされているのではない、また喪失の場所に何かが生成しているわけではないということです。そのように考えると、やはり欠如や喪失が起源にあるという考えになってしまいます。おそらく精神分析経験を考える際には、欠如と生成という二つの問題系を視野に入れることが必要なのだと思います。……(『来るべき精神分析のために』座談会 十川幸司 原和之 立木康介


存在欠如は欲望の側にあり、それは基本的に-φ(想像的ファルスの欠如)と書かれます。その一方、欲動の側では、存在欠如は存在しません。フロイトが欲動と呼んだものはつねに成就する活動です。欲動は確かな成功へとつながりますが、その一方で欲望は確かな無意識の形成物へとたどり着きます。つまり、「自分の番を間違った」「鍵をなくした」等の失策行為や言い間違いです。反対に、欲動はその鍵をいつも手の中に持っています。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))




次に「他者」をめぐって。



「愛することは、本質的に、愛されることである」(「セミネール ⅩⅠ」)とか、「鏡像的なものとして、愛は本質的にごまかしである」(同 ⅩⅠ)などという言明があり、「小文字の他者」に係るものかと思えば、愛の欲望 ‘desire’ for ‘love’という次元なら、「大文字の他者」に係る。


このあたりのラカンの複雑さを、ディラン・エヴァンスは次のように書いている(「 An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis」)。


One of the most complex areas of Lacan’s work concerns the relationship between love and DESIRE. On the one hand, the two terms are diametrically opposed. On the other hand, this opposition is problematised by certain similarities between the two:

1. As an imaginary phenomenon which belongs to the field of the ego, love is clearly opposed to desire, which is inscribed in the symbolic order, the field of the Other (S11, 189–91). Love is a metaphor (S8, 53), whereas desire is metonymy. It can even be said that love kills desire, since love is based on a fantasy of oneness with the beloved (S20, 46) and this abolishes the difference which gives rise to desire.

2. On the other hand, there are elements in Lacan’s work which destabilise the neat opposition between love and desire. Firstly, they are both similar in that neither can ever be satisfied. Secondly, the structure of love as ‘the wish to be loved’ is identical to the structure of desire, in which the subject desires to become the object of the Other’s desire (indeed, in Kojève’s reading of Hegel, on which this account of desire is based, there is a degree of semantic ambiguity between ‘love’ and ‘desire’; see Kojève, 1947:6). Thirdly, in the dialectic of need/demand/desire, desire is born precisely from the unsatisfied part of DEMAND, which is the demand for love. Lacan’s own discourse on love is thus often complicated by the same substitution of ‘desire’ for ‘love’ which he himself highlights in the text of Plato’s Symposium (S8, 141).


…………


最後に、冒頭のラカンの愛の定義《愛とは自分のもっていないものを与えることである》に戻って、ジジェクのひとひねりある文を『ラカンはこう読め!』から付記しよう。

ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。 P83

情熱は定義からしてその対象を傷つける。相手が情熱の対象の位置を占めることに徐々に同意したとしても、畏怖と驚きを経ずして同意することは絶対にできない。 P175

…………

冒頭のミレールの文章をもうすこし長く訳しておこう(翻訳には馴れていないので、あくまで私意訳である)

Jacques-Alain Miller: On Love

――どうしてある人たちは愛し方を知っていて、ほかの人たちはそうでないのでしょう?

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。
――自分を完璧だとするなどは、ただ男性だけの場合のように思えますが……

まさに! ラカンはよく言いました、「愛することはあなたが持っていないものを与えることだ」と。その意味は、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということです。あなたが持っているものーーなにかよいものを与えるのではない、それを贈り物にするのではないのです。あなたが持っていないなにか他のものを与えるのです(対象aの定義のひとつは、「あなたの中にあってあなた以上のもの」である:引用者)。そうするには、あなたは己れの欠如――フロイト曰くの「去勢」――を引き受けなくてはなりません。そしてそれは女性性の本質です。ひとは、女性のポジションからのみ本当に愛することができます。「愛を与える女性」とはそういうことです。男性の愛がいつもやや滑稽なのはその理由です。けれども男性がそのみっともなさに自身を委ねたら、実際のところ、己れの男らしさがさだかではなくなります。
――男にとって愛することは女より難しいということでしょうか?

まさにそうです。愛している男でさえ、愛する対象への誇りの閃きと攻撃性の破裂があります。というのはこの愛は、彼を不完全性、依存の立場に導くからです。だから男は彼が愛していない女に欲望するのです。そうすれば彼が愛しているとき中断した男らしさのポジションに戻ることができます。フロイトはこの現象を「性愛生活の(価値の)下落debasement of love life」と呼びました。すなわち愛と性欲望の分裂です。
――女性はどうなのでしょう?

女性の場合は、その現象はふつうではありません。たいていの場合、男性のパートナーとの同化共生doubling-upがあります。一方で、彼は女性に享楽を与えてくれる対象であり、女性が欲望する対象です。しかし彼はまた、余儀なく去勢され女性化した愛の男でもあります。どちらが運転席に坐るのかは肉体の構造にはかかわりません。男性のシートに坐る女性もいるでしょう。最近ではよりいっそうそうです。ひとりの男は、家庭での愛のため、そして他の男たちは享楽のために、インターネットで、街で、汽車の中で。

…………


ジジェクの最近の書『LESS THAN NOTIHING』(2012)によれば、晩年のラカンは「驚くことに」、神への愛、見返りのない愛(リルケの『ドゥイノの悲歌』的な愛、としておこう)を語っているそうだ。この書はもうしばし待てば翻訳がでるはずなので、あえて拙訳をさらすつもりはない)。


Furthermore, the late Lacan surprisingly reasserts the possibility of another, authentic or pure love of the Other, of the Other as such, not my imaginary other. He refers here to medieval and early modern theology (Fénélon) which distinguished between “physical” love and pure “ecstatic” love. In the first (developed by Aristotle and Aquinas), one can only love another if he is my good, so we love God as our supreme Good. In the second, the loving subject enacts a complete self‐erasure, a complete dedication to the Other in its alterity, without return, without benefice, whose exemplary case is mystical self‐erasure. Here Lacan engages in an extreme theological speculation, imagining an impossible situation: “the peak of the love for God should have been to tell him ‘if this is thy will, condemn me,' that is to say, the exact opposite of the aspiration to the supreme good.”Even if there is no mercy from God, even if God were to damn me completely to external suffering, my love for Him is so great that I would still fully love him. This would be love, if love is to have le moindre sens. François Balmès here asks the right question: where is God in all this, why theology? As he perceptively notes, pure love must be distinguished from pure desire: the latter implies the murder of its object, it is a desire purified of all pathological objects, as desire for the void or lack itself, while pure love needs a radical Other to refer to. This is why the radical Other (as one of the names of the divine) is a necessary correlate of pure love. This leads Lacan to address the complex interaction between love and sexuality, culminating in the canonical thesis according to which love supplements the impossibility of sexual relationship. The starting point is il n'y a pas de rapport sexuel. In outlining this discordance, Lacan refers to Freud: there are no representations of sexual difference; all we have is the active/passive opposition, but even this fails—and what this means is that the only support of sexual difference is, for both sexes, masquerade. Masquerade has to be opposed here to parade in the animal kingdom: in the latter, males parade in order to be accepted as sexual partners by the females, while in masquerade, it is the woman who is masked. This reversal signals the passage from imaginary to symbolic: for the feminine masquerade to work, the big Other has to be present, since sexual difference is Real, but a Real immanent to the symbolic.




2013年6月2日日曜日

妻女と子供の共有ーープラトン『国家』より

「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」


――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369


…………


以下は上記のプラトンとは直接係らない。



先ずはマルクスを引用する。


《売春、労働者普遍的身売りの特殊形態にすぎない》(マルクス『経済哲学草稿』)“Prostitution is only a specific expression of the general prostitution of the labourer”



そしてほとんど無知の分野であるフェミニズムをめぐっては、次の記事より(フェミニズム(Feminism))。


3)マルクス主義フェミニズム

エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』
マルクス主義では、労働は自己実現であり人間の本質であると考えられる。(しかし、それを売らなければ生きることが出来ないのが資本主義社会における労働者だ。労働が「商品」であることによって、労働者は自己の本質から疎外される。)

伝統的に、女性には、家事と育児という役割が与えられてきた。
家事と育児は労働を再生産する仕事である。夫の世話をしその労働力をリフレッシュする仕事、そして新たな労働力として子どもを産み育てるという仕事だ。
しかし家事と育児は「交換価値」を持たない(任意の誰かと「交換する=売る」ことが出来ない)ので、資本主義社会においては、女性は従属的な地位に置かれざるを得ない。
父権は、妻を夫の所有物とし、「女性」を「母性」へと限定しようとする。


歴史的に見れば、一夫一妻制は、私有財産を自分の正統な子どもに残すことが出来るように、作られたシステムである。

1)野蛮時代においては、結婚は「群婚」という形態であった。乱婚であるから、男にとってはどの子が自分の子なのか分らない(また子どもも自分の父親が分らない)が、産んだ母親は自分の子が分る。従って、女性中心の家族形態である女系制、そして「母権制」の形態が古代社会においては支配的となる。

2)未開社会においては、結婚は「対偶婚」という形態をとる。これは固定的でない一夫一妻の形態である。生産手段の発達が、財産の蓄積を可能にし、母権制から父権制への移行を促す。

3)文明社会において、一夫一妻制という妻を夫の所有物として囲い込む制度が、結婚の支配的な形態となる。
それは、その必然的な補完物として、売春や不倫を伴なう。


「家族史は、1861年に出版された、バッハオーフェンの『母権制』から始まる。ここで著者は、次のように主張している。

(1)人間は当初、「娼婦制」という不当な名前で呼ばれている、縛られることのない性生活を送っていた。

(2)このような交わりは、父性を見分け難くするので、血統は、女系において、母権によってしか辿りえなかった。…

(3)その結果、女性は、子どもにとって確認できる唯一の親である母親として、高い敬意と尊敬を払われ、著者の見解によれば、それが完全な女性支配にまで高まっていた。

(4)女性が一人の男に属する単婚への移行は、太古の宗教的な戒律の侵害を意味していた。…」

「一夫一妻制が決定的な勝利を手にすることは、文明期が始まりつつあることの指標である。それは、誰が父であるか争う余地のない子どもを産むという明白な目的を持って、男性支配の上に築かれている。そして、こういう父の確実性が要求されるのは、その子どもが血の繋がった相続人として、父親の財産を相続することになっているからである。一夫一妻制と対偶婚とが違う点は、結婚の絆が遥かに強固になっており、双方の意のままには解消できないことである。今や結婚を解消し妻を離縁できるのは、原則として夫の側だけである。」(エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』)


「シャドウ・ワーク(shadow work)」という概念(イヴァン・イリイチ)

産業化社会は、個人生活の自立の基礎を破壊し、その自律性を奪い取る傾向を持つ。
「労働」、特に近代の「賃労働」は、それ自体が疎外された労働であるが、それだけでなく、それを支える影の部分に、様々な種類の「不払い労働」を抱えている。女性の家事労働がその典型だ。

「<影の経済>が起こるとともに、賃金も支払われず、かといって家事が市場から自立することに役立つわけでもない、一種の労役が出現する。この新しい種類の活動の最もよい例は、人間生活の自立に無関係な、新しい家事という領域において行なわれる、主婦による<シャドウ・ワーク>である。」(イリイチ『シャドウ・ワーク』玉野井芳郎・栗原彬訳、から一部変更して引用)

「賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行なう大部分の家事、買物に関する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押し付けられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲信、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。」(同上)


4)「母性」という神話

フロイトが理論化したように、「母性」と「父性」は、子どもが健康に育つ上で不可欠な二つの要素である。しかし、女性が生得的に母性の持ち主であり、育児に適しているという考え方は、誤謬である。

エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)

「数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは十七世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。
だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは十八世紀になってからである。

パリは、例によって、その典型である。子どもたちはパリからはるか遠くへ、時には五十里も離れた、ノルマンディーやブルゴーニュやボーヴェジに送られた。警視庁長官ルノワール氏がハンガリーの女王に送った報告書は貴重である。一七八〇年、首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人(総人口は八十万から九十万である)の子どものうち、母親に育てられるものは千人に満たず、住み込みの乳母に育てられるのは千人である。他の一万九千人は里子に出される。」

「一七六〇年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするように勧め、子どもに授乳をあたえるように「命ずる」書物が数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作りだし、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもたちにたいして本能的な愛を抱くという神話である。」

「著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。」(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)


ところで、ジジェクは『Less Than Nothing』(2012)のなかで、上にも引用されている仏国の女流歴史家かつ哲学者であるÉlisabeth Badinter (1944~)――彼女はフランスで最も裕福な人物の序列で2011年、第58位に入ったひとでもあるらしいーーに言及している。
Badinter is at a certain level right to point out that the true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic. While the figure of publicly successful woman is already part of our “social imaginary,” problems with a “gentle man” are far more unsettling.

――もっともこの文は1998年の論文”Cogito and the Unconscious“に既に同様な文が見られ、ジジェクはそれを繰り返していることになる(ジジェクが引用しているのは、Badinter ”On Masculine Identity, New York: Columbia University Press 1996. “)。また、”at a certain level right“と書かれているようにジジェクは、Badinter自身、家庭から離れて成功したのであり、「男性的ポジション」から語っているのではないかと批評=吟味しているのだがその詳細はここでは触れない。


Badinterは最近の著書“Le Conflit: la femme et la mère” (“Conflict: The Woman and the Mother”)で次のように語っているようだ。

“A revolution has taken place in our conception of maternity, almost without our realizing it,” she writes. And that revolution, in Ms. Badinter’s view, has reduced women’s freedom and damaged their professional prospects.
(……)
the baby has now become “the best ally of masculine domination.”

Badinterは、知らぬ間に男性的な支配が復権してしまっている、と語っているわけだが、その原因が三つ掲げられる。

First is what she sums up as “ecology” and the desire to return to simpler times; second, a behavioral science based on ethology, the study of animal behavior; and last, an “essentialist” feminism, which praises breast-feeding and the experience of natural childbirth, while disparaging drugs and artificial hormones, like epidurals and birth controlpills.

――このあたりは多くの議論・反論があるだろうし、彼女の著書を読んだわけでもなく、フェミニズムには全く詳しくないので、ここで、彼女の見解の正否を指摘するものではないし、また仏国と日本では大きく状況が異なるだろう。


…………

最近、『日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体』の書評を面白く読んだ。

筆者の主張を簡単に言えば、「高度経済成長期以降に増えてきた男性の自殺、離婚、DV、ネグレクト、晩婚化・非婚化の要因は、結婚が専業主婦やそれを志向する女性にとって、生存競争を生き抜くために「幸福の擬装工作」までして男性を”搾取”するシステムとなってしまっているからだ。物質的・経済的な条件に左右される「幸福の指標」は『箍』となって、男性だけでなく女性自身をも呪縛し、今日の日本社会の閉塞状況を引き起こしている。これは、戦後のアメリカ的価値観を無批判に受け入れ、それを「常識」としてきた結果招かれた『魂の植民地化』である」。
(……)
エリートサラリーマンとの「安定」した結婚を望み、結婚したら郊外の一戸建てかマンションのローンを組んで夫を縛り付け、ママ友の間での見栄の張り合いとデパートのブランドショッピングに精を出し、自分が家事をいかに頑張ってるかをアピールし、イベントと「約束」とディズニーランドが大好きで、投資より定期貯金に励みスマホは苦手な「タガメ女」。

もっとも書評されている大野左紀子氏は、《この類型化には、若干の古臭さを感じないでもない。》とつけ加えることを忘れない。

この書評から窺われるこの書の面白いところは、男性が搾取されているとしているところだ。
つまり、《結婚をめぐって従来のフェミニズム的認識とは逆さまの男女の支配関係(女>男)を戯画的に描いて》いるらしい。

そして、大野氏は、《筆者の言うように、「タガメ女」と「カエル男」が多数派だとしよう(自分がこの10年、大学のジェンダーの講義で見てきたささやかな範囲でもそれは感じる)》としている。


…………

附記:ソレルス『女たち』(鈴木創士訳 せりか書房)


恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ  p31
ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…p98
「女」が「父」に取って代わる …つねにしまりがなく、とらえどころがなく、小説の永遠の流れのなかで重きをなしていない父 …いつまでも繰り返し殺害されつづけ、身を落とし、名前をけがされ、かつがれ、ロマンスと小細工のなかでよろめいている父 … p155
問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる! …p177

……だからこうして夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … (…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡!  P181

「男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした …人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私のとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」


「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる …総括的レジュメ!…」 ( ……)『ギャッピー』(……)「彼女の不正直にはつける薬がなかった。彼女は自分が不利な立場にあると感じることにさえ我慢できなかった …そんなことはぼくにはどうでもよかった。ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない。この女の場合も、ぼくはそれを遺憾なことだとついでに思っただけで、すぐに忘れてしまっていた」 …P327
フェミニズムというのは一種のユダヤ嫌悪じゃないか、という …あほらしい!… そんなことは火を見るよりも明らかだったが、もっと若くて、もっと知識があって、もっと大胆な幾人かのユダヤ女性たちはそいつが耳障りになりだしたにちがいなかった  P410
彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」


「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」

「結局のところ」、彼女の夫が諦め顔で言う、「フェミニズムは反ユダヤ主義じゃないが、ユダヤ教をそれ自身から救うことを提案しているんだろ?」 P476


そしてニーチェの『この人を見よ!』から。

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ――女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。 ――わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。 ――いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている ……そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ――生の聖霊に対する真の罪悪である。」 ――(手塚富雄訳 岩波文庫p90~)

※参照:男と女をめぐって(ニーチェとラカン)