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2014年9月14日日曜日

リベラルの『お説教』に付き合っている暇はありません

若い人の多くは、ハードな労働環境の下、政治や社会の問題について思考する気力も、その気力を支える社会に対する希望も奪われつつあります。問題を分析したり、社会を漠然と嘆いたりするだけの、リベラルの『お説教』に付き合っている暇はありません》

――悪かったな、オレはこのあたりの「身体」感覚がほとんどゼロだからな
1995年に日本を逃げ出してんだから


ってわけでバブル世代のおっちゃんの言うことなど真に受けなくてもいいんだよ



――現場で取材していると、「ケンポーをーまもーれー」みたいなやや間延びした年長世代のシュプレヒコールが、若者に引きずられてラップ調に変わっていきました。若い世代はなぜ動き出したのでしょうか。

 「意外かもしれませんが、たぶん保守的だからでしょう。私たちより若い世代は、高度経済成長も、多幸感にあふれたバブル期の日本社会も知りません。経済的な繁栄を再びと思ってないし、日本は没落したからはい上がるために抜本改革が必要だという年長世代の焦りもピンとこない。大事にしているのは、いまの日本社会にある自由であり平和であり多様性です。それを守りたい。そして何より素直です。かつての学生運動を知らないので、肩ひじを張らず、嫌なものは嫌だと普通の言葉ですんなり言える強みがあります」

 ――その一方で、若い世代の「右傾化」も指摘されます。

 「インターネットが普及し、人はインスタントな情報に刹那(せつな)的に反応するようになりました。良い悪いではなく、社会のインフラの変化です。集団的自衛権では、ふつうの中高生や大学生が、ツイッターで『戦争いやだ』『安部ふざけんな』とつぶやいていました。『安倍』の漢字がことごとく間違っているんだけど、そういう直感的な怒りを大事なものとして拾っていくことをリベラルの側は怠ってきました。そこは右派がうまかった。中韓が悪い、サヨクが悪いと言い続け、怒りや不満の感情をつかみ、拡大しました」

 「若い人の多くは、ハードな労働環境の下、政治や社会の問題について思考する気力も、その気力を支える社会に対する希望も奪われつつあります。問題を分析したり、社会を漠然と嘆いたりするだけの、リベラルの『お説教』に付き合っている暇はありません。私たちは広告的な発想も使って、正しい『指さし』で人々の感情をつかまえにいく。十分に巻き返せると思います」

それと《直感的な怒りを大事なものとして拾っていくことをリベラルの側は怠ってきました》とあるけれど、左翼は若者の心をつかむのが下手糞なんだろうよ


私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼が今や直接に労働者階級に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!((ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く2006)

………

「バブル世代のおっちゃん」と冒頭に書いたが、定義上はオレはもっと旧い世代のようだ。

バブル世代は、バブル景気(第11循環拡張期、1986<昭和61>11月から1991<平成3>2月)による売り手市場時(概ね1988<昭和63>から1992<平成4>頃)に新入社した世代で、とりわけその時期が大学卒業時と重なる1965年から1969年生まれを指す。短大・専門学校卒であれば1971年、高卒であれば1973年生まれまでが該当する。以前の「モーレツ社員」(団塊の世代)や、それ以降の「就職氷河期」世代などと比較されることがある。(WIKI)

だが、それより旧い世代、いやさらにオレよりやや上の年齢の者たちのことだが、このバブル期(1986から1991年)に住宅購入年齢だった(35歳前後としておこう)サラリーマンは、ひどい目に遭っている連中もたくさんいる(昔は週刊誌などによく書かれた話題だ)。


ひとつだけ例を出せば、90年前後、京都近郊に住宅を購入した友人というか先輩がいた、たしか5000万円超の一戸建てを頭金1500万ほど支払って。すなわち3500万円ほど銀行から借金をした。値上がりが激しいのではやく買っておかなくてはという「錯覚」に陥ったわけだ。すると数年後(ほとんど2年後ぐらいだったと思う)、不動産価格が暴落し始めた。5000万円の住居は、たちまち半額の2500万円程度になってしまった。ということはその当時、住居を売り払っても、まだ1000万円の借金とプラスアルファ利子が残っていることになる。こうなると茫然自失だね、バカらしくてやる気がなくなってしまったのも無理はない。その後、彼はどこかに消えてしまったが。


当時の感覚、すなわち上のインタヴューの高橋若木さんという方が《多幸感にあふれたバブル期の日本社会》とする感覚を、古井由吉は次のように表現している。


……物をまともに考えるには足もとが、底が抜けたような時代に入っていた。世間は未曾有の景気と言われ、余った金が土地などの投機に走り、その余沢からはずれたところにいたはずの自身も、後から思えば信じられないような額の賞与を手にすることがあった。ましてや有卦に入った会社に勤めて三十代のなかばにかかっていた夫は、当時の自分から見ても、罰あたりの年収を取っていた。

もう少しその前後を長く引用しておこう。


窓の下の人の足音に睡気の中を通り抜けられる間も、血のさわさわとめぐるのを感じていて、これは自分の内で年月が淀みなく流れはじめたしるしかしら、それなら年と取っていくのはすこしも苦しくない、と思ったりした。隣の部屋では自分から方針を定めて受験の準備にかかった娘が、起きているのか寝ているのか、ひっそりともしない。要求がましいことは言わないかわりに、家の内で日々に存在感を増していく。朝起きて来て母親の顔を見て、元気になったようねと言うので、そんなに落ちこんでいたとたずねると、いえ、ぜんぜん、と答える。あの子が生まれるまで、自分はどんなつもりで暮らしていたのだろう、と女は寝床の中から振り返って驚くことがあった。人よりは重い性格のつもりでも、何も考えていなかった。まだ三十まで何年かある若さだったということもあるけれど、物をまともに考えるには足もとが、底が抜けたような時代に入っていた。世間は未曾有の景気と言われ、余った金が土地などの投機に走り、その余沢からはずれたところにいたはずの自身も、後から思えば信じられないような額の賞与を手にすることがあった。ましてや有卦に入った会社に勤めて三十代のなかばにかかっていた夫は、当時の自分から見ても、罰あたりの年収を取っていた。

罰あたりという感覚はまだ身についてのこっていたのだ。世の中の豊かになっていくその谷間にはまったような家に育って、両親には早くに死に別れ、兄姉たちも散り散りになった境遇だけに、二十代のなかばにかかるまでは、周囲で浮き立つような人間を、上目づかいはしなかったけれど、額へ髪の垂れかかる感じからすると、物陰からのぞくようにしていた。その眼のなごりか、景気にあおられて仕事にも遊びにも忙しがる周囲の言動の端々から洩れる、投げやりのけだるさも見えていた。嫌悪さえ覚えていた。それなのに、その雰囲気の中からあらわれた、浮き立ったことでも、けだるさのまつわりつくことでも、その見本のような男を、どうして受け容れることになったのか。男女のことは盲目などと言われるけれど、そんな色恋のことでもなく、人のからだはいつか時代の雰囲気に染まってすっかり変わってしまうものらしい。自分の生い立ちのことも思わなくなった。
その頃には世の中の景気もとうに崩れて、夫の収入もだいぶしぼんで、先々のことを考えてきりつめた家計になっていた。どんな先のことを考えていたのだろうか、と後になって思ったものだ。会社を辞めることにした、と夫は年に一度は言い出す。娘の三つ四つの頃から幾度くりかえされたことか。なにか先の開けた商売を思いつくらしく、このまま停年まで勤めて手にするものはたかが知れているなどと言って、一緒に乗り出す仲間もいるようで、明日にでも準備にかかるような仔細らしい顔をしていたのが、やがて仲間のことをあれこれののしるようになり、そのうちにいっさい口にしなくなる。その黙んまりの時期に、家に居ればどこか半端な、貧乏ゆすりでもしそうな恰好で坐りこんでいたのが、夜中にもう眠っている妻の寝床にくる。声もかけずに呻くような息をもらして押し入ってくるので、外で人にひややかにされるそのかわりに家で求めるのだろう、とされるにまかせていると、よけいにせかせかと抱くからだから、妙なにおいが滴るようになる。自分も女のことだから、よそのなごりかと疑ったことはある。しかし同棲に入る前からの、覚えがだんだんに返って、怯えのにおいだったと気がついた。なにかむずかしいことに追いつめられるたびに、そうなった。世間への怯えを女の内へそそごうとしている。(古井由吉「枯木の林」) 

ここで、数カ月前のものだが、ある一連のツイートを掲げる。ツイッターで「お前らデモぐらい参加したらどうだい? 」というわたくしの挑発に乗ったわけではないだろうがーーわたくしはツイッターでは個人宛に、すなわち@にてつぶやかない基本方針にしているので、このツイートも直接彼宛てではないーー、「おっちゃん、デモいってきだよ」というたぐいのメンションを若く文才のある(楽才はそれ以上にある)24歳の青年からもらったことがあり(彼の仕事は文筆業でも音楽関係の仕事でもないようだが)、引き続き次の文章が書かれた。その文章の巧みさに舌を捲きつつも「不快だね」と応じてしまったことがある。

この日街頭に出た者どもは、政治から、国家から、そして社会から、この日もっとも遠い場処に居た者どもである。テレビに映ってみたいやつ、三度のメシよりデモが好きなやつ、騒動にまぎれラッパの練習してるやつ...この連中は、このバカどもは、政治に無関心な者よりも尚、遥かに政治に無縁である。

くそイケ好かねえ奴らが言う、「何やったって変わりゃしない」。しかし反体制運動は、群集による社会的スローガンを仮装した、個人による生きざまの問いである。汗にまみれて大声張り上げ、ぶざまな醜態さらけ出し、この街頭で我々バカが対決するのは権力ではなく自分自身、惨めなツラした昆虫である。

警官隊や公安の群を前にして現前する、決して抗い得ぬあの絶望の壁は、平和だの、反戦だの、団結だの、そんなすっとぼけたスローガンから我々個人を引っぺがし、怒りや矛盾や不条理の聲を我々自身に押し戻す。不可能の壁に於いて在る者は、どうにもならない無意味を前に、孤獨の平野につっ立たされる。

その瞬間、壁の前に立つ私自身は、政治から、国家から、そして社会から断絶された異邦人として、己自身に対峙するのだ。不可能と知って引き返す者、不条理に焼かれ地団太踏む者、無意味であろうとよじ登る者...俺はそいつに、そのヌリ壁に、飛び蹴り喰わせて走って逃げた。足が痛かった。それだけだ





2014年8月8日金曜日

「原初とは最初のことじゃないんだよ」

やや長くなりすぎたので、ブログのような書き物において小題をつけるのは、あまり趣味ではないのだが、珍しくそうしてみる。


【はじめに】

……初診において向うから PTSDを名乗ってくる患者の中には果たしてそうかという場合がある。

一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴なうことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けいれていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者を淡々と受けいれていることのほうが普通である。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P95)


【自己免責としてのトラウマ語り】

宮台 「自分は変われない」という人に「それはなぜですか?」と問うと、「私は過去にこうい うトラウマを負っているんです。あなたと違って私が変われるわけがないじゃないですか」と 自己を免責するんですね。風俗嬢の取材を通じて無数に目撃してきました。

岸見 過去に大きな出来事に遭遇した場合、その影響がまったくないとは言い切れませ ん。もちろんあるでしょう。東日本大震災でも阪神淡路大震災でもかなり悲惨なことがあり ましたから、影響がなかったとは言いません。ただ、同じ出来事を経験したかたらといって、 皆が同じようになるわけではない。そういう決定論から脱している点がアドラー心理学の特徴なのです。(トラウマを否定するアドラー心理学が今なぜ多くの人に求められているのか (宮台真司×神保哲生×岸見一郎 鼎談(前編)

「心理学化する社会」(樫村愛子)のひとつの現われとして、このような自己免責としてのトラウマ語りというものが確かにあるのだろう。すなわち、この鼎談は、ここだけ抜き出せば文句をつけようがない、ただ表題の「トラウマを否定するアドラー心理学」の言外に含まれる党派性以外は。すなわちアンチ・フロイトをにおわせる意味合い以外は。

事実、宮台真治氏は次のように語っている。

フロイト 対 アドラーは、〈潜在性の思考〉対〈自己言及の思考〉であり、メタ万物学(近代哲学)対 万物学(現代哲学)であり、ユダヤ的思考 対 ギリシア的思考。ユダヤ教徒フロイトは過去の引力(無意識による規定)を重視しますが、ギリシア哲学を出発点とするアドラーは未来の引力を重視します。

ーーというわけで、アドラーなど読んだこともないわたくしだが、いささかフロイト=ラカン党派よりの言辞を弄してみようと思う。

ただし、繰り返せば、冒頭の宮台真治氏とアドラー派学者の岸見一郎氏の見解そのものは、尊重に値する。啓蒙的モラルとして、たとえば次のようなアランの言葉を想い起こしてもよい。

《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》(アラン)

私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」

これは他人への信頼だけではない。「他者という自己」への信頼も同じく。過去の自己は、現在の主体としての私のあり方次第で、その主体の未来を決定する。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)
過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)


【トラウマへのふたつの対仕方】

ーーー犠牲者・生き残り者と主体的未来の選択者


フロイト・ラカン派の論客かつ臨床医でもあるヴェルハーゲには、フロイトとラカンをめぐるトラウマ論がある。

◆TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN Paul Verhaeghe


問題は患者のトラウマ的状況への立場にある。ひとは患者を外的な動因のたんなる犠牲者とするのかーーすなわち彼もしくは彼女は援助や支援を受ける権利があることを意味するーーあるいはひとは患者をただ単に犠牲者としてだけではなく彼もしくは彼女自身の影響、更に言えば限られた形での選択をもつものと見なすかである。この二つの答えのあいだの相違は、支配者の言説と精神分析的な言説の相違として理解できる。

The question bears on the position of the patient towards the traumatic situation. Either one considers the patient as a mere victim of an external agent, which means that he or she is entitled to help and support; or one considers the patient not solely as a victim but as someone with an impact of his or her own, even with a limited form of choice. The difference between these two answers can be understood as the difference between a master discourse and a psychoanalytic one.3
この議論が“政治的な”文脈でなされるなら、――通例のように、――、患者は犠牲者、あるいは生き残り者と見なされる。逆に臨床の文脈では、治療者は二番目のアプローチをとる。たとえば、Judith Herman とJames Chuはともに強調している、感情に動かされてしまうことから距離をとることを。すなわち過度に支援する役割から距離をとることを。Hermanは患者から責任を取り除くことを、治療上の主要な間違いのひとつとしている。Chuは、なにがどのように患者に起こったのかを理解することは患者の責任の手中にあるとする。そして彼がまた強調するのは、選択の要素である。これらの考え方はオリジナルなフロイトの考え方、いわゆる'Neurosenwahl'、「神経症の選択」と共鳴する。これは偶然の一致ではない。というのはまさにこの要因が精神療法を可能にするのだから。

If this discussion takes place within a 'political' context, more often than not, the patients will be considered as victims and survivors. Within a clinical context, on the contrary, clinicians tend to choose the second approach. For example, both Judith Herman and James Chu stress the necessity for emotional distance, that is, for taking your distance from the all too supporting role. Herman considers the taking away of responsibility from the patient, as one of the major therapeutical mistakes.4 Chu tunes in when he states that it remains the patient's responsibility to understand what and how things have happened to him or her, and he also stresses the element of choice.5These ideas echo the original Freudian ideas on the so-called 'Neurosenwahl', the choice of neurosis. This is no coincidence, because it is precisely this factor that makes psychotherapy possible.
もしひとが最初の答に執着するのなら、それは完全な決定論、治療上の悲観主義に終る。さらには宿命論とさえ言える。すなわち患者は、彼もしくは彼女のトラウマの経験のために、彼がそうならざるを得なかったものになる。もしひとが二番目の答を選ぶなら、そこには最低限の選択要素と主体のかかわりの余地がある。それがまさに主体が変りうる最低限の条件である。ラカンが「過去時制」に対して「未来の前方」を強調する事実とは、「私は私の選択を通して私であるものになるだろう」であり、それは「私は私がすでにそうあったものになる」の代わりに、である。現在の選択が主体の未来を決定する。

If one sticks to the first answer, then one ends with a complete determinism and thus with therapeutic pessimism, even fatalism: the patient has become what he had to become, due to his or her traumatic experiences. If one chooses the second answer, then there is a minimal element of choice and implication of the subject, which is precisely the minimal condition for change. Hence the fact that Lacan stresses the ‘future anterior ‘ in contrast to the ‘past tense': II will be what I am now through my choice', instead of: II am what I already was'. Choices made now will determine the future of the subject.


【原初とは最初のことじゃない】


ところでラカンは、

「原初とは最初のことじゃない」という。もっとも、この文はポール・ヴェルハーゲの要約ではあるが。

"Primary does not mean first"( Paul Verhaeghe  Mind your Body & Lacan's Answer to a Classical Deadlock. )

このヴェルハーゲが、ラカンの『アンコール』セミネールから抜き出し要約した言葉はどこにあるのかと言えば、次の部分のようだ。

われわれはある過程において、“原初の”と“二次的な”と言うが、それはひどくイリュージョンを育む話し方なんだな。私に言わせれば、どんな場合でも、ある過程で“原初の”と言われるとき、――まあなんでもいいがね、結局のところそう言いたいときは、――それは最初に現われるということじゃないんだ。

When we say "primary" and "secondary" for the processes, that may well be a manner of speaking that fosters an illusion. Let's say, in any case, that it is not because a process is said to be primary - we can call them whatever we want, after all - that it is the first to appear.
個人的には、赤ん坊を眺めたことは一度もないね、その赤ん坊に外部の世界はないという実感をもたないでは。はっきりしてるのは赤ん坊はなにも見てないんだよ、彼を興奮させるもの以外は。それはまさにその通りじゃないかい、赤ん坊がまだ話さないかぎりは。彼が話しはじめた瞬間からだな、まさにその瞬間以降であってその前じゃないんだが、私はやっと理解できるんだ、抑圧のたぐいがあるのが。快-自我の成り行きは“原初”だよ。そうでないわけあるかい? あきらかに“原初”なのさ、ただしいったんわれわれが考えだしてからのだ。でもそれは間違いなく“最初”じゃない。(『セミネールⅩⅩアンコール』フィンク英訳より私意訳)

Personally, I have never looked at a baby and had the sense that there was no outside world for him.It is plain to see that a baby looks at nothing but that, that it excites him, and that that is the case precisely to the extent that he does not yet speak. From the moment he begins to speak, from that exact moment onward and not before, I can understand that there is [such a thing as] repression. The process of the Lust-Ich may be primary - why not? it's obviously primary once we begin to think - but it's certainly not the first. (Lacan BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED WITH NOTES BY Bruce Fink)


ラカンの語る“原初の(一次的な)”と“二次的な”を読んだところで、中井久夫の次の文を並べてみよう。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

さて、この内容をどう扱うべきか。われわれは話す存在であり、遡及的に「原初の」を見出すというラカンの主張とここでの中井久夫の「原トラウマ」を。

原トラウマを出産外傷に近い形で捉えるラカン派の論者もいる。

最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』私訳→原文は「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」参照)

だが、この観点はいまは端折る。これが原トラウマならそれは誰にでもあるのだから。ただ今は再度、ヴェルハーゲのトラウマ論から次の文を抜粋しておこう。

ヒステリーとトラウマ的神経症はともに、突然の、放出できない緊張の蓄積によって起こる。ヒステリーでは、この蓄積は内部から来る、そして主体自身の欲動によって引き起こされる。トラウマ的神経症は、原因は外部のものであり、それは以前の、内部の原因につけ加えられる。

これが意味するのは、ヒステリーとトラウマ的神経症は互いにある関係があるということだ。ヒステリーは、心理的な装置の構造的に決定される欠如によって始まる。というのはある欲動(フロイト)から来るある享楽(ラカン)はシニフィアンにリンクされえず、象徴的なファリック秩序の外部にあるままだからだ。トラウマ的神経症はその上部に重なり来て、内的な葛藤と奇妙な相互作用を必然的に伴うようになる。それは自傷行為や反復強迫のような現象をすこし思い起しすればよい。この奇妙さは次の事実にすべて関係する。患者の内部の何かがそれを楽しんでいる(享楽している)のだ。そしてこれは患者の意識的な欲望に反している。この享楽は快原則のかなたに位置しており、こういったわけで文字通り理解不能なのである。(私訳)

Both hysteria and traumatic neurosis are caused by a sudden, nondischargeable accumulation of tension. In hysteria, this accumulation comes from within, and is caused by the subject's own drive. In traumatic neurosis, the source is an external one, added to the previous, internal one.

This implies that hysteria and traumatic neurosis stand in a certain relationship towards each other. Hysteria starts at a structurally determined lack of the psychological apparatus, because a certain jouissance (Lacan) coming from a certain drive (Freud) cannot be linked to signifiers and remains outside the symbolic, phallic order. Traumatic neurosis comes on top of that, and entails a strange interaction with the internal conflict; just think of phenomena like automutilation and repetition compulsion. This strangeness has everything to do with the fact that something within the patient enjoys it, and this against the conscious desire of the patient. This enjoyment is situated beyond the pleasure principle and thus literally incomprehensible.(『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN』 Paul Verhaeghe)

【動物のトラウマ】

ところで言葉を話さない動物にはトラウマはないのだろうか。

《一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている》という文で始まる中井久夫の「トラウマについての断想」は阪神淡路大震災の直後からのペットの観察をめぐる症例が書かれている。 《多くのペットの受けたダメージはその飼い主であるヒトをはるかに凌ぐものであった》。

症例1 ある裕福な家庭のゴールデン・リトリーヴァーは、せっかくの訓練が全部抜けてただの甘え犬になった。初対面の私にもすりよってきた。……
症例2 一軒屋の家屋に接した犬小屋にいた雑種犬は、通りかかる人にいつも垣根の端から端まで吠えていた犬であった。震災の朝も彼は繋がれていなかったと思われる(……)が、道に面した凸レンズ形の庭石の上に「忠犬ハチ公」の姿勢で不動であり、前に立つ私を眼にもとめなかった。八カ月後にようやく私を認めて一声弱々しくワンと吠えた。彼が石を離れた時は一年を越えていた。二、三年後には多少は吠えるようになっていたが、かつての元気が戻ることはなかった。……
症例3 震度六―七の地域のマンションの二匹の飼い猫である。若い一匹は本に押しつぶされたが、八歳のもう一匹は機敏に安全な場所に逃れた。大学英文科教授の夫人は、猫がおかしい行動をすると私に語った。その後まもなく、彼は、夫婦を起こすようになり、起きるまで髪の毛を前肢で掻くのであった。(……)起こすのは、朝の五時台で、必ず震災の起こった五時四六分より前であった。(……)ちなみに、朝寝坊であった私も、震災以後、強力な睡眠薬を使用した数度を除いて、必ず、五時四六分以前に目覚めて今に至っている。ちょうど、その時刻に目覚めることがある。このことを意識したのは、この猫をみて以来であった。最近、時刻の生物時計の全身細胞への分布が明らかとなっている。……
症例4 垣根の中で放し飼いだった二匹の犬は、震災直後も前同様、通りかかる私に吠えてやまなかった。この犬の飼い主にたまたま会った。犬は二匹とも二年以内に亡くなっていた。……
私が挙げた動物症例では、ペットに比して飼い主の地震に対する反応は非常に軽い。それはどうしてであろうか。さまざまな付随的事情が飼い主に有利なこともあろうが、ヒトが開発した言語の存在が大きいと思われる。言語は伝承と教育によって「地震」という説明を与えた。家族、近隣との会話を与えた。そして、ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。記憶はそもそも五官ではなしえない「眼の前にないものに対する警告」として誕生した可能性がある。外傷性記憶は特にそうである。その鮮明な静止的イメージは端的な警告札である。一般にイメージは言語より衝拍が強く、一瞥してすべてを同時的に代表象REPRESENTしうる。人間においてもっとも早く知られたフラッシュバックは覚醒剤使用者のそれである。そもそも幼児記憶も同じ性格を帯びており、基本的な生存のための智慧はそれによって与えられている。外傷性記憶が鮮明であるのに言語的な表現が困難であるのは、外傷という深く生命に根ざした記憶という面があってのことと思われる。「回避」はもっとも後まで残る症状とされるが、これは動物が主にそれによって行動するような言語以前の直観によるものであると私は思う。私がなぜ回避するかは、理屈はつけられるだろうが、実状は「いやーな感じ(あるいは恐怖のようなもの)がしてどうしても足が向かない」のが回避である。したがって、心的外傷は、言語によって知られる他の精神障害の多くより伝達性に乏しい。言語化しにくいだけではない。痛みというものは訴えても甲斐がない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006『日時計の影』所収)

《心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない》とある。もしこの観点をとるなら、アドラーの、いやわたくしはアドラーをまったく知らないので、冒頭の二人が説明する「トラウマを否定するアドラー心理学」と言い方は、--その否定がなにを意味するのかは別にしてーーナイーヴ過ぎるのではないか。もちろん岸見氏は《過去に大きな出来事に遭遇した場合、その影響がまったくないとは言い切れません。もちろんあるでしょう》とは語っている。ただスローガン的にトラウマを否定するのがよいことだとされる可能性を十分にもつ語り口であり、それでは通俗道徳の範囲を出ない。

もちろんわれわれの生はその通俗道徳で99パーセントは生きていけるだろう。たとえばアランの《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》を変奏させれば、《不幸なのはトラウマがあるせいではない、トラウマを負っていると考えてしまうから不幸なのだ》と言うことができ、この考え方は通俗道徳としては限りなく正しい。


【トラウマの肯定的側面】

だがわれわれにはトラウマを負っていることに起因する「好ましい」生への対仕方をもっている場合さえあり得る。たとえば、戦争に強く反対し続けられる人というのは、実は戦争トラウマをなんらかの形で負っている、あるいは父母や近親者の外傷的語りの記憶をその多寡はあれ抱えているひとたちだけではないか。

《戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。》(中井久夫「戦争と平和についての観察」)

第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))

古井由吉は、なぜそんなに毎日小説が書き続けられるのかと問われて、冗談めかして「憎悪から」と答えている。だがこの「憎悪」は、古井氏の小説を読めば冗談ではないことがすぐに分かる。

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)



【遡及的なトラウマ】


ここで、柄谷行人がフロイトの「遡及性」という概念Nachträglichkeit (retroactivity)を語っている文をーーその概念に直接言及はないがーー掲げてみよう。

(フロイトの考え方の)最初の逆転は、『ヒステリー研究』(一八九五年)で、ヒステリーの原因を性的外傷――つまり、大人側の誘惑による――に見出していたフロイトが、一八九七年に、そのような考えを否定したときに起こっている。新たな見方によれば、患者が記憶している外傷的体験は、患者が事後的に作り出したフィクションである。そのような記憶が隠蔽するのは、子供時代に自らが欲望を実現しようと能動的にふるまったという過去である。(柄谷行人『超自我と文化=文明化の問題』『フロイト全集』(岩波書店)「月報」より)

フロイトの遡及性は次のようなことだ。
それは「遡及的」なトラウマという形で使われる。
たとえば、子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、
そこには外傷的なものは何ひとつなく、
なんら衝撃を受けたわけではない。
意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。
だが後年性的な袋小路に遭遇して
子供は幼いときの記憶を引っ張り出し、
遡及的に外傷化されるというふうに。

内的なトラウマと言われるものは
オリジナルな外傷があるのではなくて
多くの場合、このような遡及的な外傷だとされる。

ーーとはジジェクのパクリであり、やはりその文を示しておこう。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)


柄谷行人は、『探求Ⅰ』のあたりから、フロイトの無意識は事後的なんだ、としきりに主張する。lこれはおそらく遡及性にかかわるのだろう。いまその主張がもっとも鮮明に現われた語りを抜き出そう。

(柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

 


ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)

このフロイト=柄谷行人のいう遡及性は、「原初とは最初のことじゃない」とほぼ同じことを語っている。

ーーーで、なんの話だったか。

途中で端折った話を蒸し返しておこう。原初のトラウマを。ただし上の遡及性の観点を念頭に置きながら。


【知識欲の源泉としてのスフィンクスの謎】

スフィンクスの謎

小児における詮索活動の働きを進行させるのは、理論的な関心ではなくて、実践的な関心である。次の子供が実際に生れたり、やがては生まれるという予想のために自分の生存条件が脅かされたり、またこの出来事と関連して、親の愛情や庇護を失うかもしれないと恐れるために、小児は物思いがちになったり、敏感になったりするのである。小児が熱中する最初の問題は、このような覚醒の歴史に対応するような性別の問題ではなくて、子供たちはどこからやってくるのか、という謎なのである。これはまた、テーベのスフィンクスがかけた謎の一つの変形なのであって、この変形しない元の形は容易にさぐりうるものである。男女両性の区別があるという事実を、小児は当初はむしろなんの抵抗や考慮もなしにうけ入れる。男の子は当然、自分の知っているすべてのひとに自分と同じような性器があるものときめこんでいるのであって、ほかのひとにはこれがないなどと想像することは不可能なのである。(フロイト『性欲論三篇』人文書院 フロイト著作集5 P56)
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910 フロイト著作集3 p116)

この「スフィンクスの謎」を問う「原初の」問い、原トラウマ的なものが、われわれは探究心に駆り立てる。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさと公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe 『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 』私意訳)

ラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールは、科学さえこのスフィンクスの謎のためにある、という。

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」-ー知識欲の源泉としての女性器リサーチ

「トラウマを否定するアドラー」などという議論そのものが、「原トラウマ」のためにある、というのがフロイト=ラカン派の考え方である。


…………

※附記

ホリエモンもほれた閉塞した社会を切り開くアドラーの教え」などというものもある。繰り返せば、通俗道徳バンザイ! としておこう。いささか「教訓」的になることを拒絶するふりする「教訓」のように読めないことはないが。

日本の文化は、個人の生きかたの首尾一貫性をそれほど求めないようである。私たちは、脱皮し、こだわりがなくなり、角がとれて、円くなうことをよしとする。人生のヤマ場では自己劇化をしても、後からは情緒的な回顧の対象となる。(……)

日本の成功者は、自分の人生にもとづいて教訓を垂れる傾向があった。意人的な自己劇化が生前から行なわれることもあった。これは遡れば儒教的伝統につながるものであろうか(『論語』は教訓と感想の集大成である)。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』)



2014年7月27日日曜日

きびきびして蓮っ葉な物馴れた女

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』)

そんなことありませんわ秋声先生
最近じゃあ三十歳あたりまで色つや保てるらしいですよ




ほら初婚年齢だって男を追い抜かす勢いなんです

なんだって男たちには負けちゃいられない世相なんですから

先生だって『黴』ではこう言ってるじゃあありませんか

「そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ」(徳田秋声『黴』)

結婚するくらいなら、何をしたって食べて行けますわ
安易の風に吹かれて一生独身ほうがいいくらい
だっていまどき甲斐性のあるいい男なんて
めったにいやしないですから

浅井の調子は、それでも色の褪せた洋服を着ていたころと大した変化は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌いなその身装などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。(……)

ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢れているように見えた。(『爛』)

どこにいるっていうのかしら
女遊びで磨かれた活動の勇気が溢れた男なんて
きびきびして蓮っ葉な物馴れた女はいっぱいいるのに

《お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った》(『あらくれ』)


あらでもこんな女もいなくなってしまったわ

一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。(『あらくれ』)


…………

徳田秋声は、女性を書かせたら神様というのが一部の読み巧者の評判であった。

「日本文学は、源氏、西鶴、それから秋声に飛ぶ」とするのは川端康成だ。


前期の徳田秋声の小説には「安易」という語が頻出する。


お庄は唯笑つてゐたが、此女の口を聞いていると、然うした方が、何だか安易なやうな氣もしてゐた。(德田秋聲『足迹』)

これはまだ日本橋の堅いところに奉公していた頃、例の朋輩に茶屋奉公をすすめられたときの、お庄のふとした思いであるが、この中の《安易》という言葉には独特の意味合いがあるようだ。たとえば今の箇所のすこし前の、不貞た朋輩の話に耳を貸しながら、《お庄も足にべとつく着物を捲く上げて、戸棚に凭れて、うつとりして居た》とある、その姿その体感に通じるものである。頽れるにまかせて流されていく安易さ、その予感のうちにすでにある懈さ、と言えば説明にはなる。しかし生活欲の掠れた倦怠ではない。お庄は若いが上に生活欲の盛んな女であり、その点では滅多に頽れはしない。むしろ生活欲のおもむく、埒を越して溢れ出すその先に、安易の予感はあるようなのだ。秋聲の人物の多くがそうである。生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる。(古井由吉『東京物語考』「安易の風」)

『足迹』のお庄や『黴」のお銀は、秋声の妻がモデルだ。


・どうかすると鼻っ張りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽されそうになって来た。

・そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥いだ口の利き方や、焦だちやすい動物をおひゃらかして悦んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。(『黴』)


《生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる》女の風情に、秋声は魅せられていたのだろし、読者も見せられる。これが欲望の対象-原因(対象a)でなくてなんだろう、《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)


そして『爛』にも『あらくれ』にも秋声の〈対象a〉はいる。

・お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。

・階下に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。(『あらくれ』)



◆”Conversations with ZiiekSlavoj Zizek and Glyn Daly)ーー『ジジェク自身によるジジェク』として邦訳されているが、原文しか手元にないので、私テキトウ訳。


幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。


《秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる》(川端康成 新潮文芸時評 1993.4


オレかい? 生活欲に振り回された末の
安易の風のふく女は当地にいっぱいいて
この土地の「お庄」に魅せられたんだけど
(かつてはだな)
最近は「日本化」してきたんじゃないか
二十年近く前はこんなたぐいの虎視眈々とした女が
月ドル換算にして百ドルぐらいで暮らしてたんだから
五十ドル払って衣裳でも買って食事でもすれば(以下略)





いずれにせよ初老の身でとっくの昔に引退だよ
いまはむしろ西脇順三郎の女たちの
淡い自堕落さや嘲弄感が対象aだな
麦酒か米焼酎一緒に飲んで
なめらかな舌でも眺めてるのがいいなあ

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)





・向うの家ではたおやめが横になり/女同士で碁をうっている

・イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる。

・美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを/かたむけてシェリー酒をのんでいる

・女神は足の甲を蜂にさされて/足をひきずりながら六本木へ/膏薬を買いに出かけた

・女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午





荒木経惟の女たちのまなざしもたまらないなあ




荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣


もちろんこっち系だってあるさ



「いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇順三郎「無常」)










2014年7月25日金曜日

「自分の声をさがしなさい」

《自分の声をさがしなさい》(須賀敦子)

文章が表現しようとする内容の混濁と、にもかかわらず文章そのものの音調の明解さというのがありますね。僕は還暦の頃になってようやく、ひとつの極端な例だけど、わかったんですよ。マラルメです。

何を言っているのかわからないんだけど、その言葉の音調だけがきわめて明晰なものとして残るでしょう。そこまで表現として極端にはできないけど、僕は同じようなことを下のレベルでやっていたんじゃないかなと思いましたね。

僕の口調の明澄さを保証するものは何なのか。努めて音調を練ってできるだけ明澄さをつくり出そうとした覚えが、実はないんです。どこかでインプットされたものなのでしょうが、とにかく人間としてもそうだけど、作家としてもいちばんわからないのは自分の本質なんですね。(古井由吉「文藝」2012年夏号)





中井久夫ならこう言う。

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(……)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」)

…………

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)須賀敦子訳)

四方田犬彦が原典と読み比べて驚愕し呆然とした須賀敦子の訳である。《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と(参照:おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫))。

四方田氏が仮に試訳してみたという訳文なら次の通り。


女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)
…………

言語と身体に共通にあるのは声である。しかし声は言語でも身体のいずれの部分でもない。声は身体から生じる。だがその部分ではない。声は言語に属することなく、言語を支える。このパラドックストポロジー。この場のみが言語と身体が共有するものだ。これは対象aのトポロジーである。(ムラデン・ドラー Dolar, Mladen 『A Voice and Nothing More』 eng7007.pbworks.com/f/Dolar.pdf 私訳)

標準的なラカン派であっても、あるいは一般的な研究者の人間把握においても、さらに文学への接近方法においてさえも、声はあまりにもないがしろにされている。視線(まなざし)、あるいは視覚的領野だけが注目されがちなのだ。音楽家や一部の映像作家たち(ビクトル・エリセやストローブ=ユイレなど)はさておき、エクリチュールの領野に限るなら、ごく限られた詩文のすぐれた書き手や読み手のみが、声の秘密を知っているかのようである。





ジジェク曰く、欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

《In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)



《あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。》

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)





《異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さ》、痛みであり傷であるもの。聴取活動を危機に陥らせる悦楽(享楽)の音楽。《私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である》(ライスブルック)。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)


……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)


音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)



アファナシェフは、ある種の作品の演奏で吃るのだ、唐突にどもりだす。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ-』)

◆シューベルトの最後のピアノソナタ第21番変ロ長調D.960について(アファナシエフ『ピアニストのノート』より)

それに私も、どうすればこのソナタの心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう?大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。





《このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ》、あるいは《私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばす》とも言う。


彼の演奏は、吃るというだけでは足りない。音が流れてしまうことを拒絶し(いわゆる華麗な演奏にあるような)、その一音一音を刻み込むさま。「耳で聞く」のではなくて、ほとんど読まねばならないこれらの音。華麗な演奏が流暢な演説口調のパロールであるならば、ここには《二行を探し求めて二日》のフローベールのようなエクリチュールがある。それは異質の聴き手に語りかけているかのようであり、あるいは聴くのではなく読まなければならないかのようなのだ。あるいはこう言ってもいい、アファナシェフは、音のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけているかのようだ、と。

こうして、音楽の未来の扉が開くかすかな予感ーー何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているこの感覚、ーーがあたりに瀰漫しはじめる。そして、いつのまにか未来のドアがわずかに開き、隙間のなかに保留されていた光が漏れ入るかのような瞬間がある。そこにあるのがわからなかった部屋が見えるのだ。

…………

ケロールは作家や詩人たちの視覚的感受性の代わりに正真正銘の声の想像力を持っている。第一に、声はどこからか現れ、流れ出ることができる。だが、一旦発せられると、その声はどこかには存在する。あなたの周囲に、あなたのうしろに、あなたの横に。しかし、結局、決してあなたの前にはいない。声の真の次元は、間接的、側面的次元なのである。声は脇から他者に接し、軽く触れ、去っていく。声は自分の出自を名乗らず触れることができる。したがって、声は名づけられないものの記号である。それは、身体の物質性、顔の特徴、あるいは、視線の人間味を取り除いてもなお、人間から生まれ、存在し続けるものである。それは最も人間的であると同時に非人間的な実体である。声がなければ、人間同士のコミュニケーションもないが、声があると、また、冥界にせよ天界にせよ、超=自然から、つまり異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さをも生ずる。よく知られたテストによると、皆(テープレコーダーで)自分自身の声を聞くのを嫌がり、自分の声だということがわからないことさえしばしばあるという。それは、声というものは、その出所から切り離しても、つねに、一種の奇妙な親密さを生み出すからであるが、この親密さこそ、ケロールの世界、すなわち、その正確さによって識別され、しかし、その起源消失によって識別されることを拒む世界の親密さである。声はまた別の記号でもある。つまり、時間の記号である。どのような声もじっとしていない。絶えず過ぎ去る。さらには、声が示す時間は穏やかな時間ではない。声はどんなにむらがなく、慎ましくとも、その流れに何の切れ目がなくとも、声は皆脅かされている。人間の生の象徴的な実体である声は、つねに始めには叫びがあり、終わりには沈黙がある。この二つの契機の間に、パロールの頼りない時間が広がるのである。流動的で、しかも、脅かされている実体である声は、したがって、生そのものである。そして、おそらく、ケロールの小説は、つねに、純粋で孤独な声の小説であるからこそ、それはまた、つねに、頼りない生の小説でもあるのだ。(ロラン・バルト「削除」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

そしてもうひとつ、ニーチェの音調、文である思想、という歌唱。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

だが肝要なのは声だけではない。においやフェロモンがさらに根源的であるという視点がある。

……無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」ーー不安のにおい
成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p57)

2014年7月7日月曜日

「可哀そうなゾケサたちよ」

子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってき
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった
(谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』)

 …………


古井由吉と蓮實重彦ってのは同級だったのだな
しらなかったねえ



◆特別対談 終わらない世界へ(古井由吉・蓮實重彦)より


古井 蓮實さんとは初めての対談になりますが、大学では同級生ですね。

蓮實 そう。東大では駒場の二年間同じクラスだったわけだし、立教大学では紛争中に教員として同僚だった。

古井 そうなんですよ。

蓮實 これも二年一緒でした。二人が立教を離れてからも何かの折りに会って挨拶はしているし、一番最後にお会いしたのは、後藤明生氏の大阪での葬儀のときですね。だから、対談が初めてというのは不思議な気がします。別に避けあったわけではないし、疎遠というのとも違う。古井さんは作家としてしかるべき道を歩んでおられて、私も批評家として古井さんの作品はずっと読んできたわけです。一つ心残りだったのは、『仮往生伝試文』を発表された80年代の終わりから90年代の初めにかけて、古井由吉論を書くぞと決意して準備したことがあるんですが、それがさまざまな理由で流産してしまったことです。

古井 その頃は、分かれ道に直面していたから、僕も書かれると苦しいときでした。

蓮實 それ以後、個人的に妙に忙しくなったり、老後の設計ミスがいろいろあったりして、結局、古井論は書けないままでいました。それでも96年に「新潮」に短いながら『白髪の唄』について「狂いと隔たり」という文章を書き(『魅せられて』所収)、今回また最新作『辻』(小社刊)を読ませていただいたのですが、これにはとても深いところで動かされました。「この人枯れてない」っていう印象が最初に心に浮かびましたが、これはしょうがないんですね。

古井 しょうがないんですね(笑)。書いている最中だけは年齢不詳になる。あんまりいいことではないと思うんだけど。

蓮實 それから、どこにいるのかもわからない感じで書いておられる。

古井 そうなんです。

ーーというわけでちょっと調べてみたらこういうぐあいだ


武満徹(1930- 1996)
谷川俊太郎(1931-)
グレン・グールド(1932- 1982)
母(1932- 1982)
中井久夫(1934-)
大江健三郎(1935-)
蓮實重彦(1936-)
古井由吉(1937-)


比較的よく読む作家というか
日本から海外のいまの住まいに
それなりの数の書やCDをもちこんだ
作家たちというのはこんなひとたちで
いやほかにもあるけれど
たとえば柄谷行人は1941年生れなんだな
でもこのあたりの4、5年の違いというのは
少年期に戦争を肌に感じたか
そうでないかの相違があるんじゃないか
資質のちがいはあるにしろ
柄谷行人にはぞっこん惚れこむというふうにはいかない
としたところで
田村隆一の顔が浮かんできたが1923年生れか

十三秒間隔の光り 田村隆一

新しい家はきらいである
古い家で生れて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年まえのことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に

新しい家で母は「神経」の調子を狂わした
わたくしが五歳のときだ
小学校入学準備のため名高い学校の通学圏にある
いわゆる高級住宅街に土地を求め
わざわざ新築したその家に半年も住まず
故郷の田舎町にある祖父母の古い家に病んで戻った
いつの間にか家から着の身着のままふらりと出て
なかなか帰ってこないことが重なった
「座敷の柱におでこをくっつけて泣いた」わけではない
だが不安でいつも顔を紅潮させていたような憶いがある

祖父の屋敷の裏庭に新築した家にいることはまれで
屋敷の玄関の間と台所のあいだにあった小部屋で
寝たきりのままできることが長いあいだ続いた
その六畳の間は南向きなのだが
前庭の木立ちの茂りのせいか薄暗く
母の身体から発しているらしい
粘り気のある淀んだ熱のにおいが混じりあった
重苦しい空気に気圧された
母が突然ふらふらと起きだして台所で働く祖母にむけて
ナイフを閃めかせたこともある

母はまた戦争の記憶に異様なほど過敏だった
テレヴィで戦争の映像が映ると
たちまち貌は暗雲で翳り軀を小刻みにふるわせ
すぐさまスイッチを切るか席を立つことを重ねた
二歳上だったかの母の姉は
女学生の学徒動員で工場で働いているさなか
空爆にあって木端微塵になった

マザコンなのかもな
母と同時代の作家たちを好むのは
母から昔話をきいているような感覚に
かすかにでも襲われることがあるから
もちろん感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃に
彼らの作品に行き当たった
ということもあるにはきまっている

みんなそろそろ死んでもいい齢だよな
あと10年もつひとはどのくらいいるのだろう

君は死にかけていてぼくはぴんぴんしている
(……)

君はもう利口ぶった他人に吐き気をもよおすこともないし
利口ぶった自分に愛想をつかすこともない
君の時間はゆったりと渦巻き
もうどこへも君を追い立てたりはしない(谷川俊太郎「コーダ」より)



◆古井由吉の《飯を掻きこんでいた箸をいきなり止めて、もどかしく宙をつつくようにしながら、ああ、あれあれ、お母さんの、あの帯いただくわ》

記憶に間違いがなければ昭和の二十八年か、あるいは九年に、高校生の私は五反田で小津安二郎の「東京物語」を見た。駅に近い、御殿山から品川へ向かう道路に面した映画館である。正面はコンクリート風だが、道の向う岸から見あげると、上は古めかしい瓦の大屋根だった。当時、映画が終ると私はたいてい駈けるようにしてその場を去ったものだ。遣る瀬なさをまず振り落とすためだったか。まだ運動靴などをはいていた年頃である。で、その日も二階の上映室を出て日盛りの窓に眼を細め、階段を足早で降りかけると、途中の踊り場で刑事に呼び止められた。

土曜の正午頃に映画から出て来た学生服姿を怪しまれたわけだ。私の学校はその頃から隔週五日制を取っていた。その旨を話すと刑事はすぐに顔を和らげ、私と同じ年頃の息子でもあるのか、どこかわびしげに大学受験の話を始めた。誰も彼も大学へ行くことになって世の中どう変っていくことやら、親は食うや食わずの心配なのに、と歎いた。私も何となく心を惹かれて、馴れぬ立ち話の相手をしばらくしていた。おのずとぽつりぽつりとなる両者の口調に、いましがたの映画の名残りが滴っていたのかもしれない。おかしな図である。

同じ東京の小市民とはいいながら、自分のところよりも一段と小奇麗な暮しだな、と高校生の私はまずそういう印象を画面から受けた。戦災の痛手をこうも蒙らなかったら、我家〔うち〕だって、苦さもあんなところだったか、とかすかな羨望も覚えた。戦災の打撃によってさらに多くの小市民家庭が、零落の方向にせよ解放の方向にせよ、出来あがり定着しつつあった時代だったかと思う。雑居家族がそろそろ整理され、ひとつの端境期であった。後の言葉でいう核家族として、簡易にまとまれた家と、なにかの事情でまとまりきれずに古い崩壊の傷やら膿やらをまだひきずっていた家と、およそふたとおりあったようだ。「東京物語」中の「東京者」の暮しぶりは、少年の私の目にはその前者の、むしろ新しい、仕合わせな部類として映ったわけだ。

杉村春子の扮する中年の長女が、母親の葬儀も落着いた頃の或る日、郷里の家で一家揃っての食事の最中に、飯を掻きこんでいた箸をいきなり止めて、もどかしく宙をつつくようにしながら、ああ、あれあれ、お母さんの、あの帯いただくわ、と高っ調子に言った場面が印象に残った。十六、七歳の私にとっても、親族の女たちの間で幾度も目撃した光景のような気がして、まことに得心の行く場面であったが、それでもまた一方で、ああもさばさば行くものか、もうすこし粘りはしないか、という訝りはあった。しっとりとした佳作ではあるが、日本映画特有のスローテンポにはじりじりさせられる、とさる学生新聞の生意気盛りの匿名氏は評していた。洋画のほうではたしか、「陽のあたる場所」が評判を呼んだ頃である。あれこそ重苦しい、スローテンポではないか、と私はそちらにも心を惹かれていた。もう三十年近く昔になる。

わたくし、現在四十代なかばの世帯主、生まれて四十何年来の東京住人、新開地の旧地番を中年期から本籍とする男は一体、新しい東京者なのか、古い東京者のなれのはてなのか、それともあんがい、たわいもない反復なのかーー(古井由吉『東京物語考』)


◆蓮實重彦の「昭憲皇太后の睾丸」、「ミシブチンのコック」、あるいは「ゾケサ」。

下のパラグラフにはまた、《懐しさとは、欠落を惜しむ心の湿りけではない。それはまごうかたなき現実としてありながら、その現実を触知する術を奪われたものの無力感にほかならない》とある。では、『「ボヴァリー夫人」論』を上梓したばかりの蓮實重彦の書き綴るエッセイ姦婦と佩剣」の冒頭に溢れる「懐かしさ」の抒情は、なんとすべきだろうか。

たしかに蓋然性という点からすれば、いま、大部分の日本人が日本語で話し、かつ読んでいることに間違いなかろうが、そうでない残りの部分、つまり日本人でありながらも日本語を話さず、読んでもいない人たちや、逆に日本人でないにもかかわらず日本語で話し、読んでいる人たちは、決して不自然さの中に仮に身を置いているわけではない。余儀なくそうしているのであれ、あるいは自分から進んでそうしているのであれ、その理由はともかくとして、割合からいえば確かに少数者であるに違いないこの残りの部分の存在を無視したばあい、二十世紀の地球はたちどころに地球として機能しなくなるはずであり、その意味で、それは不自然とはほど遠い一つの現実にほかなるまい。だから、いま、この日本語のつらなりを日本人として読んでいるあなたは、決して自然さに保護されているわけではなく、選ばれた不自然を自然であるかに思いこんでいるに過ぎない。選択された不自然を自然だと信ずることへの確信を、ここではとりあえず「制度」と呼んでみたいが、この「制度」が、懐しさの訪れようもない世界へと人びとを閉じこめてしまうことはいうまでもない。「制度」は、それ自体として余白も陥没点も持たない充足しきった空間である。無知のまわりには、知識へと向う強烈な磁力が働いている。誤謬の前には正確さが立ちはだかって正確さへの道を告げる。理性は、非理性を訓育する。正常は狂気を哀れに思う。しかも、こうした二元論をどこまでも堅持すべく、ときには狂気の祭典、非理性の反乱、誤謬の顕揚、無知への郷愁といった儀式をすら「制度」は計画し現実に演出したりもする。そして、いたるところで懐しさの可能性が絶たれてゆくのだ。懐しさとは、知識でも無知でもなく、正確さでも誤謬でもなく、理性と非理性、正常と狂気といった差異そのものを無効にする徹底した曖昧さにほかならぬからだ。そして、そこでは何ものも決定的に選ばれず排除されることもない懐かしさの世界にあっては、昭憲皇太后の睾丸もミシブチンのコックも、それじたいとして一つの現実なのである。すでに述べたごとく、それが懐かしいのは、そうした現実が幼年期の言語体験に特有のあの失われた時に属するからではなく、それが、いまこの瞬間にわれわれのまわりに氾濫していながら、そこから視線をそらすことを一つの自然として選択してしまっているが故に、懐しいのだ。懐しさとは、欠落を惜しむ心の湿りけではない。それはまごうかたなき現実としてありながら、その現実を触知する術を奪われたものの無力感にほかならない。(蓮實重彦「皇太后の睾丸」『反=日本語論』より)

ここにある昭憲皇太后の睾丸は、藤枝静男「土中の庭」における昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌「金剛石を磨かずば」をめぐる叙述に関係する(参照:「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」)。そしてミシブチンのコックは、蓮實少年に関するもので、次のように書かれている。


誰もが「金剛石を磨かずば」の歌に似た一人合点の勘違いの体験を持っているはずだ。そして、後にその誤りが正されてからも、当初の勘違いが「ごく微かにであるが」生き伸びたりするものだ。たとえばその後に獲得しえた漢字の知識によって「シャベルで掘る人/鶴嘴で掘る人/道普請の工夫さん/一生懸命働く」と再現しうる奇妙な歌を戦時下の幼稚園で声をはりあげて何度もおさらいをしていた少年にとって、銃後のまもりを強調するものであったのだろう「道普請の工夫さん」の一行は、セーヨーケンとかマツモトローとかに類する西洋料理屋の一つミシブチンで働くコックさん以外のものでありえようはずもなかった。それだから、白く長くとんがり帽子を頭の上で揺さぶりながら甲斐甲斐しく働く何人ものコックたちが、シャベルやツルハシで何やら大きな鍋をかきまわしている光景が、今日に至るも心のかたすみにごく曖昧ながらも消えずに残っている。

そして『反=日本語論』でもっともおおく言及されてきただろう、「ゾケサ」。

藤枝氏にならって「次手に言うと」、このミシブチンの少年の頭脳は、ゾケサなるもののイメージをもありありと思い描くことができる。「明けてぞ今朝は/別れ行く」という『蛍の光』の最後の一行に含まれる強意の助詞「ぞ」の用法を理解しえなかった少年は、なぜか佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、何頭も何頭も、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を、卒業式の妙に湿った雰囲気の中で想像せずにはいられないのだ。ゾケサたちは、たぶん彼ら自身も知らない深い理由に衝き動かされて、黙々と親しい仲間を捨てて別の世界へと旅立ってゆくのだろう。生きてゆくということは、ことによると、こうした理不尽な別れを寡黙に耐えることなのだろうか、可哀そうなゾケサたちよ。

蓮實重彦の藤枝静男への惚れこみようというのも、藤枝静男は1907生れであり、氏の父や母と同世代のはずだから、それとなにか関係があるのかもしれない。もっともこういう話は安易に語るべきではないだろう。たとえば敬愛する作家が祖父のかわりになるような場合だってある。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008年、プレオリジナルは1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」)

時代の文化的変遷がすくないかつてのようであれば、父母ではなく祖父母の世代の考え方を規範として生きるということもあるだろうし、中井久夫の場合はそもそも祖父母っ子だったようだ。

父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。(中井久夫「私が私になる以前のこと」ーー中井久夫と創造の病い

とすれば、また想い起こすのだが、ロラン・バルト(1915-1980)とジイド(1869 - 1951)は、やはりほぼ祖父と孫の年齢差があるとしてよいだろう。

恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

古井由吉は次のように語っている。

例えば鴎外、漱石の文章から、多くのことを私は学びます。学ぶことはできる。でも、踏まえることは難しい。踏まえるには堅固ではないとは申しません。踏まえる足のほうが悪いのです。(「群像」 2012年12 月号 翻訳と創作と)

現在のような文化的変遷がすみやかな時代では、ロラン・バルトのいう意味以外にも、父母の世代の作家でさえ、踏まえることは難しくなっているはずだ。とくにインターネットや携帯電話普及以前以後という文化的断絶がある。《携帯電話の普及が心の襞まで書き込む男女のあやというべきものを奪い取ってしまった》(古井由吉『人生の色気』)




2014年6月29日日曜日

「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」

周知のように、ある語り手による物語というかたちをとった小説では、一人称代名詞、直接法現在、時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも、彼が現に書いている時点にも、彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは、もうひとつの自己へ-そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか、その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ、と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで、-この分割と距離のなかで作用するのです。(フーコー『作者とは何か?』清水徹・豊崎光一訳)

…………


古井由吉は徳田秋声の「私小説」を次のように顕揚する。

まず意志からみる、意志から聞く、性格の事ではなかった、と私は見る。意志が最初の力として働いていれば、視野はおのずと自我を中心としてしぼられるだろう。時間もまた自我の方向性をもつ。ところが秋聲の小説においては、主人公が他者との葛藤の只中にあり、情念に揺すぶられている時でさえも、その姿は場面の中にあって、描写される。手法のことを言っているのではない。本質的に、描写される存在として、作者の目に映っているのである。これをたとえば漱石の、たとえば『道草』の同様の場面とくらべれば、差違は歴然とするはずだ。漱石の場合は、主人公の情念が場面に溢れ、場面を呑みこむ。つまり自我の空間となる。((……)

……自我を立てる。捩れていようと歪んでいようと、折れていようと曲がっていようと、とにかく自我を立てることによって成り立つ。それによって現実を得、現実を失う。そういう態の私小説にたいして、自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる態の私小説があり、秋聲文学は後者の第一人者ではないか。 (古井由吉「私小説を求めて」)

もちろんみずからこう叙すことからわかるように、これが古井由吉の小説の方法でもあるだろう。

とにかくある人物ができかかって、それが何者であるかを表さなくてはならないところにくると、いつも嫌な気がしてやめてしまう。そんなことばかりやつていたんです。で、なぜ書けるようになったかというと、本当に単純なばかばかしいことなんです。「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(……)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス(作家の方法)』)


――という文は、ヘルダーリン起源なのかもしれない(古井由吉はドイツ文学者でもある)。


もし私が、私は私だというとき、主体(自我)と客体(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには、分離が行われて統一されることはありえない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私はどうやって自己意識なしに、“私!”と言いうるというのだろう?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」私訳)

When I say: I am I, the Subject (Ego) and the Object (Ego) are not so united that absolutely no sundering can be undertaken, without destroying the essence of the thing that is to be sundered; on the contrary the Ego is only possible through this sundering of Ego from Ego. How can I say “I” without self‐consciousness? (Friedrich Hölderlin)

<ドイツ語原文>

Ich bin Ich, so ist das Subject (Ich) und das Object (Ich) nicht so vereiniget, daß gar keine Trennung vorgenommen werden kann, ohne, das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen; im Gegenteil das Ich ist nur durch diese Trennung des Ichs vom Ich möglich. Wie kann ich sagen: Ich! ohne Selbstbewußtseyn? Wie ist aber Selbstbewußtseyn möglich? (Urtheil und Seyn)


…………

ところで、たとえば柄谷行人の『探求Ⅱ』にはこうある。


他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』P90)

《他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者》が、なぜ超越的(メタレベル)なのかは、他人を対象化して、おのれを階層的秩序の上においているからだ。《「メタ言語的陳述」と呼ばれているものは、支配の論理にほかならぬ(……)。「超=メタ」であることとはとりもなおさず階層的秩序の上位に位置することを意味する》(蓮實重彦『物語批判序説』)

柄谷行人の文は、メタレベルがありえないこと、あるいはデカルトの「超越論的態度」を称揚する「内容」をもっている。言表内容としては、メタレベル批判である。だが言表行為に注目してみよう。とすればたちまちメタレベルがありえないことをメタレベルから語っているようにみえないでもない。すなわち超越論的態度を顕揚する超越的ディスクールであると。もちろん文章を短く切り取ったからいっそうそのように見え勝ちだという側面はあるが、この文の前後を読んでみても、上方に向かっていて、《横に出ること》をしていないという印象を受ける(あくまでわたくしの印象である)。

古井由吉の云う《自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる》姿態、--ここではその態度を「超越論的」態度としてみるがーーそれをみることはむずかしい。これがロラン・バルトが支配の論理、父性原理の権化である論文形式をひどく嫌った理由であろう。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)
メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

ーーだがバルトの言葉さえこうやって抜き出せば、メタレベルではないか、という疑義が湧かないでもない。バルトが最晩年のコレージュ・ド・フランスの講義の主題は、『小説の準備Ⅰ、Ⅱ』(1978~1980)であったこと、プルーストのような小説を書きたいと願ったことはそれにかかわる。バルトはこの講義録の導入部で、次の日記を読み上げている。

悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー嘘によってしか愛するものを語ることはできない


…………

…… 自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人では ないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて 語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつね に自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿 たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。 (フーコー『外の思考』豊崎光一訳)

……の作品はこの分裂を、言葉のさまざまに異 なる水準への絶えざる移行によって、言葉を口にしたばかりの〈私〉、もうすでに言葉を繰りひろげたり言葉の中に腰を据える用意ができている〈私〉に対する 組織的な断絶によって、はるかにまざまざと示しているのだ-時間における断絶(「私はこれを書いていた」とか、さらに、「私が後もどりして、またこの道を 行くなら」)、言葉とそれを語る人とのあいだの距たりにおける断絶(日記、手帖、詩、短編、省察、論証的言説など)、思考し書く主権性に内部的な断絶(著 述、無署名の文章、自分の著述に寄せる序文、付加したノートなど)。そして、哲学する主体のこの消滅の中核をこそ、哲学的言語は迷路の中でのように前進し てゆくのであり、それも主体をふたたび見出すためにではなくて、その喪失を(しかもその言語によって)限界に至るまで、ということはその実体が現出する、 だがすでに失われ、全面的にみずからの外に拡がって、絶対的空虚に至るほどに自己を空虚にされて現出するあの開口に至るまで、経験するためなのだ……。(同上)

…………

ここで唐突に、超越的/超越論的とは、じつはイロニー/ユーモア的態度のことではないか、という問いを発してみよう。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

柄谷行人は『ヒューモアとしての唯物論』でフロイトのこの論文をめぐって次のように書いている。

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(……)それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。

他方、ドゥルーズは「ユーモア」はフロイトのいうような超自我の態度ではないとする。

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P154 蓮實重彦訳ーー「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト)

「ユーモア」とは「横にずれること」だと読みうる主張である。それは《自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる》態度なのではないか。

――と書くわたくしは、メタレヴェルに立って書いていることに自覚的でなければならないだろう。

かつて浅田彰がどこかでイロニーの人柄谷行人とユーモアの人蓮實重彦としつつ、両者の態度は知らぬまに反転しているようにみえる、すなわち柄谷行人がユーモア的に、蓮實重彦がイロニー的に感じられるときもある、と語っていたはずだが、どこでだったかは思い出せない。

今、いろいろ書いている人(蓮實重彦、渡部直己、高橋源一郎)は、ロマンティシュ・イロニーの現代版だね。あえて無意味なものを選んで戯れて、自己意識の優位性を確保するといった審美的姿勢だ。しかし保田與重郎には、上田秋成と同じく、激烈なもの、奇矯なものがある。(柄谷行人「昭和をこえて」)

…………

最後に附記しておけば、たとえば、デカルトの『方法序説』、カントの『視霊者の夢』の叙述には、超越論的態度がある、だがその後、それは消えてしまったという観点がある。

『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部(恵)氏はいう。(近代批判の鍵

他方、柄谷行人は、《カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在している》とする。これは柄谷行人の書き物においても、《経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在している》とする読み方もあるだろうとは思う。

デカルトの「私は疑う」は私的な「決意」である。「私」とは単独的な実存、デカルトのことである。これはある意味で経験的な自己である。しかし、同時に、それは経験的な自己を疑う自己であり、それによって超越論的自己が見出される。こうした三つの自我の関係が、デカルトの場合あいまいになっている。

ここでデカルトが「我在り」(スム)というとき、それが「超越論的自己が在る」という意味なら、カントがいうように虚偽であろう。それは考えられるが、存在する(直観される)ものではない。しかし、スピノザは、「われ思う、ゆえにわれ在り」は、三段論法あるいは推論ではなく、「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)と同じことであると述べた(『デカルトの哲学原理』)。もっと正確にいえば、それは「私は疑いつつ在る」ということである。心理的自我の自明性を疑うという「決意」はたんなる心理的自我ではありえない。が、またそのような疑いによって見出される超越論的自我でもない。とすれば、それは何なのか(しかし、厳密には、この時われわれは、在るものは「何か」というよりも「誰か」と問うべきなのだ)。

この問いはカントにとっても無縁ではないだろう。なぜなら、カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在しているからである。しかし、カントはそれについて語らなかった。デカルトの『方法序説』が重要なのは、そこで彼がもう一つの「スム」の問題――すべての自明性を括弧に入れる私はどのように在るかーーを開示しているからだ、この書物以後に、彼は二度とそれについて語らなかったとはいえ。だが、カントにおいて「スム」の問題は重要である。(……)カントの超越論的批判は、たんに理論的でありえず、彼自身の実存と切り離すことができないのである。(『トランスクリティーク』P134)


結局、「文体=スタイル」の問題であるのかもしれないし、読み手がその文体をどう受け取るかの問題でもあるだろう、《この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。》








2014年6月1日日曜日

不安のにおい

……自分はどんなつもりで暮らしていたのだろう、と女は寝床の中から振り返って驚くことがあった。人よりは重い性格のつもりでも、何も考えていなかった。まだ三十まで何年かある若さだったということもあるけれど、物をまともに考えるには足もとが、底が抜けたような時代に入っていた。世間は未曾有の景気と言われ、余った金が土地などの投機に走り、その余沢からはずれたところにいたはずの自身も、後から思えば信じられないような額の賞与を手にすることがあった。ましてや有卦に入った会社に勤めて三十代のなかばにかかっていた夫は、当時の自分から見ても、罰あたりの年収を取っていた。

罰あたりという感覚はまだ身についてのこっていたのだ。世の中の豊かになっていくその谷間にはまったような家に育って、両親には早くに死に別れ、兄姉たちも散り散りになった境遇だけに、二十代のなかばにかかるまでは、周囲で浮き立つような人間を、上目づかいはしなかったけれど、額へ髪の垂れかかる感じからすると、物陰からのぞくようにしていた。その眼のなごりか、景気にあおられて仕事にも遊びにも忙しがる周囲の言動の端々から洩れる、投げやりのけだるさも見えていた。嫌悪さえ覚えていた。それなのに、その雰囲気の中からあらわれた、浮き立ったことでも、けだるさのまつわりつくことでも、その見本のような男を、どうして受け容れることになったのか。男女のことは盲目などと言われるけれど、そんな色恋のことでもなく、人のからだはいつか時代の雰囲気に染まってすっかり変わってしまうものらしい。自分の生い立ちのことも思わなくなった。(古井由吉「枯木の林」)
その頃には世の中の景気もとうに崩れて、夫の収入もだいぶしぼんで、先々のことを考えてきりつめた家計になっていた。どんな先のことを考えていたのだろうか、と後になって思ったものだ。会社を辞めることにした、と夫は年に一度は言い出す。娘の三つ四つの頃から幾度くりかえされたことか。なにか先の開けた商売を思いつくらしく、このまま停年まで勤めて手にするものはたかが知れているなどと言って、一緒に乗り出す仲間もいるようで、明日にでも準備にかかるような仔細らしい顔をしていたのが、やがて仲間のことをあれこれののしるようになり、そのうちにいっさい口にしなくなる。その黙んまりの時期に、家に居ればどこか半端な、貧乏ゆすりでもしそうな恰好で坐りこんでいたのが、夜中にもう眠っている妻の寝床にくる。声もかけずに呻くような息をもらして押し入ってくるので、外で人にひややかにされるそのかわりに家で求めるのだろう、とされるにまかせていると、よけいにせかせかと抱くからだから、妙なにおいが滴るようになる。自分も女のことだから、よそのなごりかと疑ったことはある。しかし同棲に入る前からの、覚えがだんだんに返って、怯えのにおいだったと気がついた。なにかむずかしいことに追いつめられるたびに、そうなった。世間への怯えを女の内へそそごうとしている。(同上)

古井由吉には、リルケの「ドゥイノの悲歌」の散文詩訳がある。


しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、踰えることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を遺すだけのことではないのか……かすかに。

そのリルケには「不安のにおい」(『マルテの手記』)という言葉がある。


街(とおり)が方々からにおいはじめた。かぎわけられるかぎりでは、ヨードホルムや、いためジャガの油や、「不安」などのにおいだった。夏になると、どの町も、におうものだ。それから奇妙な、内障眼(そこひ)のような家にもお目にかかった。それは、地図には見あたらなかったが、ドアの上には、まだかなりはっきり読みとれるように、「簡易宿泊所」と書かれてあった。入口のそばに、宿泊料金がしるされてあった。読んでみたが、高くはなかった。

 それから、ほかには? 置きっぱなしの乳母車のなかのひとりの子ども。ふとっちょで、青白く額の上にはっきりと吹出物がでていた。が、見たところすっかりなおっていて、もう痛みはなかった。子どもは眠っていた。口はあいたままで、ヨードホルムと、いためジャガと、「不安」を、呼吸していた。ほかにどうしようもないのだ。肝心なことは、その子が、生きていることだった。それが肝心なことだった。 (リルケ『マルテの手記』星野慎一訳)

においの作家の系譜というものがある。わたくしの知るかぎり、吉行淳之介、金井美恵子、そしてやはり古井由吉。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』
部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおいのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているよう な気がした。(金井美恵子『くずれる水』)
……においと言えば昔、二人きりになって初めて寄り添った男女は、どちらもそれぞれの家の、水まわりのにおいを、いくら清潔にしていても、髪から襟から肌にまでうっすらとまつわりつけていたもので、それが深くなった息とともにふくらむのを、お互いに感じたそのとたんに、いっそ重ね合わせてしまいたいと、羞恥の交換を求める情が一気に溢れたように、そんなふうに振り返っていたものだが、車の排気と言われてみればある時期から、街全体をひとしなみに覆うそのにおいが、家々のにおいに取って代わっていたのかもしれない、と思った。(古井由吉「蜩の声」

詩人たちはどうか? これは(これも)読み手によるのだろうが、西脇順三郎や田村隆一でさえ、においの詩人として魅惑されるときがある。

たとえば田村隆一が、《新しい家はきらいである/古い家で生れて育ったせいかもしれない/死者とともにする食卓もなければ/有情群類の発生する空間もない》とするとき、これは黴の懐かしいにおいのことを書いているとして読む。

田村隆一が、とりわけ愛した西脇順三郎の詩のひとつは「秋 Ⅱ」だ。

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

ロラン・バルトも匂いの、あるいは触覚の作家である。

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

視覚の感受性、聴覚の感受性、嗅覚の感受性など、それぞれ作家には感度の鋭さや鈍さがあるだろう。どの作家に惹かれるのかは、これもまた読者の感受性による。たとえば谷崎潤一郎は触覚の作家だろう。一般に視覚の作家が愛でられることの多いのは、読み手も視覚の感受性が他の感受性に比べて際立つひとが多いせいではないか。

ところで、中井久夫には「匂いの記号論」ともいうべき文章がある。だが、ここでは長くなりすぎるので引用しない(参照:遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえ)。かわりに「不安のにおい」という節がある「微視的群れ論」から抜き出す。



◆「不安のにおい」――中井久夫「微視的群れ論」(『精神科医がものを書くき 〔Ⅰ〕』所収)

……人間というのは、においということをあまり重要視していません。においというのは、たいへん低級な感覚だといわれているけれども、どうもそうではないのではないかと、ぼくは思っているんです。

町には町のにおいがあります。それから、それぞれの家にはそれぞれのにおいがあります。普通は気づかないですが、よそを訪問すると、それぞれの家の独特のにおいがあるでしょう。神戸から来ますと、東京も名古屋も、それぞれの町のにおいが違います。そういう町のにおいがどう働くのかわかりませんが、においというのは意外な力をもっていますからね。においは触れることの予感でもあり、余韻でもあり、人間関係において距離を定める力があると思います。においのもたらすものはジェンダー(性差)を超えたエロスですが、そういうものの比重は、予想よりもはるかに大きかろう。

だから、逆に人同士を離すにおいもあるんです。いまは、精神病院も清潔になったし、みんな風呂に入りますから、あまりにおいませんけど、昔の精神病院というのは、独特のにおいがありました。とにかくあのにおいは何のにおいだろうと思ったけれど、長らくわかりませんでした。ただ不潔にしているというのではないんです。浮浪者なんかのにおいとは全然違いますから。

ある患者さんと面接したんですが、その人を不安にさせるようなことを言ってしまったら、途端に、たぶん口の中から出てきたんだと思うんですが、そのにおいがしたんです。口の中というのは、内臓全部のにおいですから。体の中からすぐ何か出たんです。とにかく例のにおいがしたんです。パーッとにおってきた。

ぼくは、これは不安のにおいだなと思いました。不安のにおいというのは、リルケの『マルテの手記』のなかに出てくるんですけれども、こちらを遠ざけるにおいなんです。つまり、その場から去らせたくなるにおいなんですね。不安になった人間が放つにおいというのは、ひょっとしたら他の個体を去らせるような作用をしているのかもしれない。だから、不安になった人が孤独になっていくということは、大いに考えられるわけです。

何でこんなものがあるんだろうと思って考えてみたら、昔むかしのことですが、人間の群れにオオカミとかライオンが来て、それに最初に気づいた人間が、突如不安になって、それがあるにおいをパーッと出すと、周りの人間はその人間から離れたくなる。不安は伝染するといいますけれども、次々にそうなって、お互いの距離が離れますと、一人や二人の人間は食われるかもしれないけれども、全体としては食われる率が減る。

こういうのを警戒フェロモンという名前がついていますけれども、ひょっとしたら、不安になったときに人間が出すにおいというのは、お互いに「遠ざかれ」という警戒フェロモンであるかもしれない。

そんなことを感じたのですが、ただ、いまでは、オオカミが襲ってくるということはあまりありませんので、有効性のほうがなくなって、慢性的に不安になっている人がだんだん孤立していくだけの働きしかない。

そんなことを感じたのですが、ただ、いまでは、オオカミが襲ってくるということはあまりありませんので、有効性のほうがなくなって、慢性的に不安になっている人がだんだん孤立していくだけの働きしかない。

こういうものは、意識させたら役に立たなくなるものだから、意識に上らないようなかたりで、人間の行動を規定しているのかもしれません。この種のものが人間の行動を規定している力というのは、非常に大きいのではないかというふうに、私はだんだん思うようになりましたね。

◆福岡伸一「生物の進化と“ におい ”の関係」
生物が、外部環境を識別するために発達させた感覚機能には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の 5つがあります。いわゆる「五感」です。そのなかであえて順位をつけると、生物学的に一番重要だと考えられる感覚は嗅覚です。その理由として、まず「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」という点があげられます。たとえば視覚であれば、対象物が自分の視野に入ってはじめて認識することができます。味覚の場合は、対象物を口に入れる、というこちらからの積極的なコンタクトが必要になります。しかし嗅覚はどうでしょう。嗅覚は、相手が見えなくても、接触しなくても、そのにおい物質が空気中を拡散して伝われば、その存在を認知できるシステムになっています。

もうひとつ、嗅覚の重要説を裏付けるものとして、においの「レセプター(受容体)」について触れておきましょう。人間は、各対象に対応したレセプターを持ってはじめて、対象を感知することができます。たとえば味覚であれば、甘味、苦味、酸味などを感知するレセプターを 5つほど持っていて、その組み合わせによって味を判断しています。視覚も同様で、光の粒子を感知する数種類のレセプターで色を認識しています。そして嗅覚はというと、においのレセプターが発見されたのは、約 20年前のことです。発見したのは女性研究者、リンダ・バック博士。彼女の研究によってわかった人間のにおいレセプターの数は、少なくとも数百種類あります。人間の遺伝子が 2万数千種類であるのに対して、その全体の数パーセントを、においに関する遺伝子が占めていることになります。ここまでたくさんの数の遺伝子を用意している組織は、ほかにありません。人間にとってどれだけ嗅覚が大切か、お分かりいただけるでしょう。


◆フェロモンをめぐって(中井久夫「母子の時間、父子の時間」より『時のしずく』所収

母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎゆくものの影がある。長い時間の釣りでさえ、ハイキングでさえ、終わりがある。終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。

( ……)

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。( ……)味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口 ―身体― 指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。


2014年4月28日月曜日

四月廿八日 「蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたり」

早朝蝉の声。今年になってはじめて聴く。形状や鳴声はニイニイゼミなのだが、今こうやって書こうとして調べてみると、《北海道から九州・対馬・沖縄本島以北の南西諸島、台湾・中国・朝鮮半島まで分布する。ただし喜界島・沖永良部島・与論島には分布しない》とWikipediaにあり、この記述からすれば南方には生息しないということになる。たぶん異なった種類なのかもしれない。もともと蝉は、当国の北部に多く南部には少ないなどと言われるが、たしかにこの南部の土地にはニイニイゼミ状のセミしか見たことがない。妻や息子になんというセミだ、と訊ねてみても、セミはセミよ、というだけだ。





ところで大正七戊午年の荷風の日記に奇妙な記述がある。

七月十五日。去十二日より引つゞきて天気猶定まらず風冷なること秋の如し。四十雀羣をなして庭樹に鳴く。唖ゝ子の談に本郷辺にては蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたりといふ。昨日赤蜻虫の庭に飛ぶを見たり。是亦奇といふべし。

蜩は蝉ではないと読める。だがすくなくとも現在、蜩はセミ種に分類されており、かつてはこういう区別をしたということなのだろうか。ではツクツクボウシは蝉の分類内だったのか、それとも分類外だったのか。ーーいずれにせよ、蜩とツクツクボウシは、わたくしの知っている限りでのほかの蝉の鳴声とは区別してもいい声音をもっている、という印象はもたないでもない。

ひぐらしの鳴き声3時間版などというものがYoutubeにあるが、この鳴声の「ゆらぎ」を愛惜しむひとがいるのはよく分かる。





……この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。

夜半に街灯の明るさに欺れてか、いきなり嗚咽を洩らすように鳴き出し、すぐに間違いに気がついたらしく、ふた声と立てなかった。狂って笑い出したようにも聞こえた。声に異臭を思った。

異臭は幼年の記憶のようだった。蜩というものを初めて手にした時のことだ。空襲がまだ本格には本土に及ばなかった、おそらく最後の夏のことになるか。蜩は用心深くて滅多に捕まらぬものなので、命が尽きて地に落ちたのを拾ったのだろう。ツクツク法師と似たり寄ったりの大きさで、おなじく透明な翅にくっきり翅脈が浮き出て、胴体の緑と黒の斑紋の涼しさもおなじだったが、地肌が茶から赤味を帯びて、その赤味が子供の眼に妖しいように染みた。箱に仕舞って一夜置いた。そして翌朝取り出して眺めると、赤味はひときわ彩やかさをましたように見えたが、厭な臭いがしてきた。残暑の頃のことで虫もさずがに腐敗を来たしていたのか、子供には美しい色彩そのものの発する異臭と感じられた。すぐに土に埋めて手を洗ったが、異臭は指先にしばらく遺った。

箪笥に仕舞われた着物から、樟脳のにおいにまじってえ立ち昇ってくる、知らぬ人のにおいにも似ていた。(古井由吉『蜩の声』)

…………

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。(H・ド・バルザック「骨董屋」)

これは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフであるが、冒頭の「第一章 具体の科学」は、こう書き始められる。


動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。(『野生の思考』)

これはなにも「未開人」の言語の話ではない。たとえば日本には“waterという語がない。水であり、お湯であり、熱湯である、ということはしばしば指摘されてきた。反対に、わたくしの住んでいる国の言葉では、waterにあたるnướcは、より高い抽象性があり、水であり、液体であり、ジュースである。カフェやお茶という言葉はもちろんあるが、たとえば仕事を終えた働き手に労働賃以外にチップを渡すとき、これでnướcを飲んで!、という言い方をする。これは、渇きを癒して! ということで、すなわち日本語の「お疲れ様!」にほぼ相当する。この”nước“は、カフェでもお茶でも水でもジュース、ビールでもよいということで、いかにも暑い国の言い方である。ヌックマム(”nước mm“)でさえ水という語を使う。 ”mm“は蝦・魚などを塩漬けにした食物のことで、直訳すれば「魚を塩漬けした水」となる。あるいは外人は、"nước ngoài"、ーー"ngoài"は漢語の「外」なのだが、これも直訳すれば「外の水」ということになる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(『野生の思考』)

この意味で、つまり”waterに関して、日本人はwaterという大きな分類ではなく、より細かい「水」「お湯」の区別があるという意味で、その概念が豊富であるということができる。お風呂と茶道の国である。他方、当国では近親者の呼び方の種類が驚くほど豊富である。国の文化によって、それぞれ概念の豊富さの多寡があるのはあらためて言うまでもないことかもしれないが、それでも住み始めた当初は驚いた。


業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)


2014年4月22日火曜日

「人はどこかよそに行きたくなる」、あるいは蜩の声

「愚劣さ」は誤りとは関係ありません。つねに勝者(打ち負かすことが不可能)ですが、その勝利は謎の力に属します。それは、まさに、むき出しの、輝くばかりの現に存在することそれ自体です。そこから恐怖と魅惑、死体の魅惑が生じます(何の死体でしょうか。おそらく真実の死体です。死んだものとしての真実です)。「愚劣さ」は悩みません(プーヴァールとペキッシュです。もっと賢かったら、もっと悩むでしょう)。だから、「愚劣さ」は「死」のごとく鈍重に、現に存在するのです。呪文も形式的な操作でしかありません。それは「愚劣さ」を一括して外側から捉えます。《愚劣さは私の苦手だ》(テスト氏)。この言葉は最初のサイクルではこれで十分です。しかし、話は間隔を置いて無限にくり返されます。それはまた愚劣になるのです。(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

この「愚劣さ」は原語はなになのか、やや気になるところだが、いまは原文に当たることをしていない。ところで、《愚劣さとは真実の死体》とされているので、次の文を並べておこう。

ステレオタイプとは、魔力も熱狂もなく繰りかえされる単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰りかえされる単語は、その度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣することが、もはや模倣と感じられなくなることが在り得るかのように。図々しい単語だ。擬着性を求めていて、自分の固着性をしらない。

ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(ロラン・バルト『テクストの快楽』 沢崎浩平訳)

冒頭の「イメージ」は1977年の講演であり、最晩年のロラン・バルトの語りのひとつとしてよい。またドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』の出版のあとの発言なのだが、マルクス主義、精神分析を完全に拒否する人は、愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っているとしている。とはいえ、肝要なのは《人はどこかよそに行きたくなります》である。


言語活動に関してこの《サイクル》(エンジンのサイクルというような意味での)の機構は重要です。強力な体系(「マルクス主義」、「精神分析」)を見てみましょう。最初のサイクルでは、それらは反「愚劣さ」の(効果的な)働きをします。それらを経ることは愚劣さを脱することです。どちらかを完全に拒否する人(マルクス主義、精神分析に対して、気まぐれに、盲目的に、かたくなに、否(ノン)という人)は、自分自身のうちにあるこの拒否の片すみに、一種の愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っています。しかし、第二サイクルでは、これらの体系が愚劣になります。凝固するや否や、愚劣が生ずるのです。そこが裏側に回ることができない所です。人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです。

ここにも「凝固」という語彙が出てきていることから分かるように、ニーチェの、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、という言葉の反映がある。


また《人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです》という文にかんしては、これもおなじく『彼自身によるロラン・バルト』から、二つばかり挙げておこう。


「真実は固形性の中にある」とポーが言った(『ユリーカ』)。それゆえ、固形性に耐えられない人は、真実にもとずく倫理に対して自分を閉じてしまう。彼は、語や命題や観念が《固まり》はじめ、固形状態へ、《ステレオタイプ》の状態へ移行するやいなや、それらを手離してしまう(《ステレオス》とは《堅い》という意味である)。
反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひとつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。

――というわけだが、70年代以降のロラン・バルトの言葉は、『彼自身によるロラン・バルト』の註釈のように読めることが多い。いま例をあげたのは僅かだが、気づいた範囲でそのうちまたメモする習慣をもつことにしよう。

原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。(森鷗外『伊沢蘭軒』)

わたくしは鴎外の晩年の歴史物の中では、『渋江抽斎』はしばしば読み返すのだが、『伊沢蘭軒』はどうもいけなかった。漢詩や漢文が多すぎる。いくら当時でもあれが新聞に連載されれば不評を買ったことは已む得ない。ほとんど引用ばかりの回が続くなどということもある。とくに蘭軒の長崎への旅日記を引用する第二十九から第五十までは、一二割程度しか鴎外の言葉は差し挟まれず、殆ど引用である。

伊沢蘭軒は、安永6年11月11日生れ(1777年12月10日) - 文政12年3月17日没(1829年4月20日))であり、いまから二百年ほど前の人物で、古井由吉が《あきるようであきず、いまにも投げ出しそうで投げ出さず》とする古い時代の書物、《人が死んでただちに生まれかわっても五十代近くも隔たる大昔の声》どころか、せいぜい五代昔の人物に過ぎないのだが、その《古い時代の物の考え方と言い方が基本のところでよくもわかっていないよう》なのだ。蘭軒とその仲間たちは、漢字フェティシズムなんじゃないか、と呟きつつ読むことになるのだが、我慢して読み進めるうちに、いささか《不思議に読めているような境に入った》。

あるいはこんな文を眺めていると、むしろ「現代的」な感覚を与えてくれるという錯覚に陥るなどということにもなる。

伊沢徳さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡下の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」

どこかで読んだ(眺めた)印象と似ているな、などと。

「黙視」「陰視」「黙惑」「黙瞥」「黙殺」「黙笑」「黙怯」「黙訝」「黙認」「黙嘲」「黙憫」「黙索」「黙諾」「黙嘆」「黙惜」「黙難」「密囁」「密索」「黙戒」「悟惚」「黙悦」「隠嗤」「憤黙」「黙呆」「黙嫉」「沈躁」「黙脱」「黙錯」「黙忖」「黙敬」「微解」「黙謀」「爆黙」「擬黙」「黙索」「偽忌」「耽黙」「謬殺」「黙悩」「封舌」「駄黙」「躍黙」「黙狽」「黙滅」「浄黙」「専黙」「斜黙」「黙謝」「慈黙」「甘黙」「案黙」「黙揺」「静観」「歪黙」「黙愁」「黙訥」「熱黙」「黙染」「黙絶」「是黙」「濃黙」「黙祷」「黙賞」「純黙」「黙発」「畏黙」「黙慄」「黙測」「冷黙」「淫黙」「断推」「黙抜」「黙憬」「盲黙」「凝黙」「否視」「黙略」「黙質」「瀰黙」。演習問題:それぞれの具体的表情と視線の振幅を推測的描写せよ)。(三浦俊彦『偏態パズル』

さて、ここで古井由吉の「蜩の声」をすこし長く引用する。五十代近くも隔たる大昔の声に、呼吸に、つまり「魂」に、拍子を取り合おうとする文である。

夜の執筆、夜間の労働は真夏と言わず、あとの眠りに障るので、とうの昔からやめている。かわりに本を読む。読んでどうこうしようという了見もない。しかも年を取るにつれて現在の自分から懸け離れたものを読むようになった。古い時代の物の考え方と言い方が基本のところでよくもわかっていないようで、いずれたどたどしい読み方になる。あきるようであきず、いまにも投げ出しそうで投げ出さず、それでかえって長続きする。一日の疲れから半分ほどしか働かぬ頭で文をなぞっていると、睡気を寄せては払いながらもうすこしもうすこしと先へ続ける夜なべの心に近い。しかしこんなとろとろとした読書でも夜なべはやはり夜なべ、肉体労働のうちなのか、いきなり額から首から胸にまで汗が噴き出して、喘いでいることがある。

机の前からおもむろに立ち上がり、洗面所で汗を拭い、顔を洗って眼も冷やす。テラスに出てそよりともせぬ幕に向かって腰をおろし、風も通らぬところで、甲斐もなく、息を入れる。そして机の前にまた仔細らしくもどれば、身体はよけいに火照る。まるで音にならぬ狂躁が熱気とともにあたりに凝って、耳の奥が聾され、頭の内も硬く詰ったあまりにからんと、空洞になったかに感じられる。これでは本を仕舞って酒でも呑むよりほかにないところだがあいにく、汗の噴き出るのは、文章にも坂の上りと下りがあり、そのやや急な上りにかかる時と決まっている。ここは仮にも当面の上り下りを済ましておかないことには、床に就いて寝入り際に、半端になった始末がふっと頭に浮かんで、眠りをさまたげかねない。ところがそこをようやく上って下って見るとその先に、自明の続きのように、つぎの上りが待ち受けている。

ついても行けない眼を先へ先へと上っ滑りにひきずられているうちに、ある夜、不思議に読めているような境に入った。頭の内はひきつづき痼るっているので、とても理解とは思えない。まして認識からはるかに遠いが、なにがなし得心の感じが伴ってくる。しかもその得心は、心の内のことのようでもない。心は心にしても蒸し暑さに堪えかねて内から抜け出し、おなじく痼った眼を通して頁から浮き出した文章と宙で出会って、互いに言葉は通じぬままに、うなずきあい、拍子を取りあっている。なまじ天気も頭の調子もよろしくて理解しに掛かる時には、読み取ったところから手答えがなくなる。意味は近代の「文法」になぞられて摑んだつもりでも、音に声に、そして呼吸に、つまり「魂」に逃げられるらしい。音痴なんだ、と我身のことを顧る。人が死んでただちに生まれかわっても五十代近くも隔たる大昔の声のことにしても、近代の人間はおしなべて、耳の聡かったはずの古代の人間にくらべれば、論理的になったその分、耳が悪くなっているのではないか、すぐれた音楽を産み出したのも、じつは耳の塞がれかけた苦しみからではなかったか、とそんなことを思ったものだが、この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。(古井由吉『蜩の声』)