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2014年9月23日火曜日

ジャン・ジュネの「どろぼう」というシニフィアン

”Ordinary psychosis: the extraordinary case of Jean. Genet”(Pierre-Gilles Gueguen) は、ジュネを「倒錯」ではなく、「普通の精神病」タームで解釈し直そうとする小論だが、そこでの議論を簡略に記せば、養母に愛されていたよい子のジュネーー引っ込み思案で少女たちと遊ぶことを好む、あるいは教会の少年合唱団員だったらしいーーその彼が、母親の財布から小銭をくすねて飴玉のたぐいを友人に振舞った十歳前の行為、それに引きつづき、サルトルが『聖ジュネ』で特筆したことで有名な、近所の雑貨屋の些細なものの盗みの際の、年輩の女性からの「あんたはどろぼうよ!」の指弾からジュネが受けた衝撃、更にその直後の養母の死、などの伝記的「事実」から、母親とのイマジネールな関係(鏡像関係)にあったジュネ(あるいは緩やかな「父の名」の排除という精神病的構造にあったとも解釈される)が、「どろぼう」というシニフィアンを、なかば空席の「父の名」の場に押しいれて、それと「同一化」したのではないか、というものだ。


――ただし、この議論によって、ジュネが「倒錯」であるのか「普通の精神病」であるのか、あるいはいわゆるボーダーラインであるのかは、わたしには判然としないし、ここでの話題でもない。

Pierre-Gilles Gueguenはミレール派であり、ここで、若いラカン派の精神科医松本卓也氏のツイートから、J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009の「父の名」の説明を掲げておこう(一部、編集)。

・身体の外部性.普通の精神病では,身体が自己に接続されず,ズレをはらむことがある.たとえば、ジョイス『若い芸術家の肖像』の身体落下体験.この身体の不安定性に対する対処行動として,ミレールは「タトゥー」をあげている.「タトゥーは身体との関係における父の名になるだろう

・ 主体の外部性については、次のような側面もある。普通の精神病では,独特の空虚感がみられることがある.もちろんこのような外部性は神経症でもみられうるものであるが,普通の精神病の場合はdialectiqueがないこと,つまりその空虚感を弁証法的否定することができないことが相違点であるとされる.

・また、排除の一般化として、後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名に似た機能を果たせば何でもいい


刺青が「父の名」となるのなら、「どろぼう」というシニフィアンが「父の名」となってもなんの奇妙なことはない。


最晩年のラカンは次のように語っている。

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?”(J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979)

どんな場合でも、私が今言っていることはシニフィアンの発明は記憶とは異なった何かだということだ。子供が発明するのではないーー彼はシニフィアンを受け取るのだ。そしてこのことでさえ、もっとそうすることはやりがいのあることだ。われわれのシニフィアンはつねに受け取られる。どうして新しいシニフィアンを発明していけないわけがあろう。たとえば、現実界のように、まったく意味のないシニフィアンを。(私訳ーーいいかげん訳)

これはサントームの発明にもかかわるはずだし、ジュネの「どろぼう」のシニフィアンも「刺青」の話も同様。

the sinthome has a universal place as the way in which each subject may singularly knot his psychic structure, or form a social bond with the Other. In such a clinic, the Name-of-the-Father is merely one form of the sinthome. The Name-of-the-Father is merely an especially stable form of knotting. ("Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant." Thomas Svolos)

後期ラカンにとっては、「父の名」とはサントームのひとつの形に過ぎないのであり、Pierre-Gilles Gueguenの話もミレールの話も、サントームへの言及がないにもかかわらず、サントームの話に相違ない。

《“Sinthome” : symptôme (symptom), saint homme (holy man), Saint Thomas (the one who didn't believe the Other – Christ – but went for the Real Thing).》

ジジェクは90年代初頭にすでにこのように書いている。

外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。(ジジェク『斜めから見る』)

最近の見解の一部(『LESS THAN NOTHING』(2012)は、「メモ:「幻想の横断」(症候との同一化)とサントーム)」を参照のこと。


…………


ところで子供の「盗癖」は、ファルスを「持つ」、あるいはファルスで「ある」に関わる大人への抗議、つまり「わたしは男なのか、女なのか」という大人への問いかけであるというのがフロイト以来の精神分析学の通念であるようだ。大岡昇平の『幼年』には、《盗癖は、私の生涯の汚点であり、成長しても私の心に重くのしかかった》とある。大岡氏は「お袋の財布から小遣いをちょろまかす」、おそらく多くの子供がそれをなし、後年になっても取り立てて重大視しないだろう記憶に長年拘ったのが分るが、つまりは「それを悪いと思うか、思わないかにかかって来る」のであり、幼少時に盗癖があったかどうかは肝要ではない(大岡氏は幼い頃仏壇に向かって「自分を女の子にかえて下さい」と祈ったという記述もある)

ーーこの大岡昇平の、後年盗癖を悪いと思う、すなわち生涯の汚点であるとする態度は、遡及的な外傷にもかかわるはずだ。

遡及的な外傷とは次のようなことである。たとえば、子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなく、なんら衝撃を受けたわけではない。意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。だが後年性的な袋小路に遭遇して子供は幼いときの記憶を引っ張り出す、それが遡及的に外傷化されるという意味である。内的なトラウマと言われるものはオリジナルな外傷があるのではなくて、多くの場合、このような遡及的な外傷だとされる。(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)


あるいはGueguenによるジュネの「よい子」をめぐっては、中井久夫の記述を引いておこう。

分裂病者の幼少期は、多くが「よい子」であるといわれるが、この手のかからず、めだたず、反抗しない、“すなお”な「よい子」とは違う意味で、うつ病者の幼少期も、多くは「よい子」である。ただし、かいがいしい、よく気のつく、けなげな「よい子」であるようだ。(……)どちらも「甘えない」子であるが、分裂病者の幼少期が「甘え」を知らないか「甘え」を恐怖するのに対して、うつ病者の幼少期は「甘え」をよくないこととして断念している印象がある。いや、親をいたわり、「甘えさせる」子であることすら多い。(「執着気質の歴史的背景」『分裂病と人類』所収)

※ここで言われる「分裂病」は、ラカン理論では、「精神病」の下位分類である。




ジュネが幼少期に育った地は、パリの南東250キロの中央山塊の麓、林業と農業が盛んなアリニィ村で(当時人口1650人)、里親は50歳をこえていたレニエ夫妻でした。このアリニィ村があるモルヴァン地方は、パリの金持ちの赤ん坊の面倒をみる乳母の輩出地として当時名をはせ、あちこちに「乳の家」と呼ばれる豪華な家が建てられました(……)。フランス全土の孤児のなんと3分の1がこの地方に受け入れられていたのです。壊滅した石炭産業の代わりに「里親業」が”地域産業”として促進されたのがその理由でした。ウィキペディア日本語版は、レニエ夫妻のことを単に木こりとして紹介していますが(英語版はcarpenterー大工)、実際にはレニエ夫妻の家は、「教会」と「学校」(この2つは少年ジュネになんと大きな影響を与えたことか!)の間に挟まれて建っていた大きな家でした。

あるいはこうもある、《他の多くの里子と比べ、ジュネはその幼少期、3つ程の点で幸運だったようです。一つは、一日中忙しい農家ではなく職人の家が里親で、しかも比較的裕福で本を読んだり勉強する時間がたっぷりあった(養母はジュネが聖職者になることを望んでいた)。二つめは家の隣が学校だったこと(……)。そのため学校の図書館が自分の部屋の本棚のような感じで、好きな先生にもよく会いに行きいろいろ刺激を受けることができたことでした。ジュネは学校の図書館の本をすべて読んだというほど読書好きだったようです。》《里子は小学校を終えると(13歳)、養家から引き離されることになっていたため、いくら成績がよくとも上の教育を受けることは制度上叶わないことになっていました。職業訓練校に入学したジュネは(擁護施設出身者として滅多にない栄誉と考えられていたという)すぐに失踪事件を起こし退校処分をくらいます。そして送られたパリで、ジュネは過激に変わっていくのです。》


十歳時の「盗み」は、ここで「凡庸」に語ることが許されるなら、まずは、この捨子の宿命を課す社会的システムへの抗議ともいえるだろう(あるいは近い将来、イマジネールな愛に浸っていた養母から引き離されることへの怖れ、絶望)。


《この里親があまりにも立派だったため、ジュネは後年、里親には鞭でよく折檻されたものだと「伝説づくり」をしなくてはならないほどでした(『泥棒日記』にも当初、里親のことを立派な人たちだったと書いたが後に削除している)》ともある。


『泥棒日記』には、たしかに里親の記述はわずかしか出てこない。


次の文は、後年、「泥棒」となり、街を歩いているときの記述。

わたしは不用心な振舞いを次々と行う、――盗んだ自動車に乗ったり、盗みを働いた直後にその店先の前を歩いたり、偽造であることが一目瞭然であるような身分証明書を差出したりする。わたしは、まもなくすべてが壊滅するだろうという気持を味わう。わたしの不用心な行動は重大な結果を招きうるものであり、そしてわたしは、光明の翼を持った大破綻がごく小さな過失から生じるだろうということを承知している。P300

この文の原注にこうある。

誰がわたしの破綻を阻止しうるだろう。大破綻について語った以上、わたしはわたしが見たある夢をここに記さずにはいられない。一台の機関車がわたしを追いかけていた。わたしは鉄道線路の上を懸命に走っていた。すぐ背後に機関車の荒々しい息づかいが聞こえていた。わたしは線路から野原へ走り出た。しかし意地悪にも機関車はあくまでわたしを追いかけてきた。が、ある小さな、か細い木の柵まで来ると、優しく、丁重に、止まった。そしてわたしは、その境界柵が、わたしを育ててくれた農夫の所有地で、子供の頃わたしが始終雄牛の番をしていた草原を囲っていたものだということに気づいたのだった。ある友人にこの夢の話をしたときわたしは言った、「……汽車はおれの少年時代の境界まできて止まったんだ」と。


もう一つ、友人の喪のために花を盗む、そこでの《花を盗むという行為は、死者への訣別の慣例的作法を果たすことができないという絶望感によって招来された》倫理的な、ひとつの英雄的行為なのだ、と語る文脈で次のような記述がある。

……そのとき、わたしがまだ子供だった頃のある日曜日に、村の墓地で、わたしを育てていてくれた農婦が、あたりをそっと見回した後、誰のだか知らないま新しい墓から一本の金盞花を抜きとって、それを彼女の娘の墓にさしたのだった。どこからであろうと、愛する死者の柩を飾るために花を盗んでくることは、盗んだ人間の心を決して満足させない行為であることを、ギーも理解していたのだ。P328

具体的に出てくるのはこの二箇所だけだ。そしてその二箇所は、あまりにも多くの解釈を誘発させる叙述ではあるが、そんな愚かな真似をしてジュネの「歌」を汚すことはしまい。


※「泥棒日記』には、「生みの母」をめぐっての叙述はそれなりにある。ここでは一つだけ挙げよう。

もしその頃わたしの母にめぐり会っていたならば、そして彼女がわたしよりもさらに卑しい境涯にあったならば、わたしは彼女と共に上昇をーーもっとも、言語の一般の慣例ではこのかわりに堕落その他いずれにしろ下へ向う運動を表わす言葉を用いることを要求するらしいが、――困難な、苦しい、汚辱へと導く上昇を懸命に遂行しただろう、わたしは彼女と共にこの冒険に従事し、そしれそれを書き記しただろう、最も卑しい言葉――それが表現する行為の点で、あるいは辞句そのものとして、――最も卑しい言葉を愛によって光輝あらしめるために。P127

 

いずれにせよ、『泥棒日記』は「半自伝」ではあるにしろ、それが過去を現在によって構成したものにすぎないことにジュネはすこぶる自覚的である。

わたしがこうして言葉によって当時のわたしの精神的態度を再構成しようと試みているとしても、読者もわたしと同様、決して瞞されはしないだろう。我々は、言語がこうしてすでに死に去った状態、したがって現在と異質な状態についてはその反映さえも喚起することができないことを知っている、この日記全体についても、もしそれがわたしがかつてそうであったところのものについての記述を意図しているとしたら、同じことが言えるだろう。それゆえ、わたしはこの日記は、それを書いている現在わたしがそうであるところのものについて何事かを知らせるためためのものだということを明確にしておこう。それは、過ぎ去った時を索めるのではなくて、わたしの過去の生活がその托言材料〔プレテクスト〕であるところの一つの芸術作品なのだ。それは、過去の援けをかりて定着された現在、となるべきものであって、その逆ではない。したがって、ここに語られているいろいろな事実はわたしが述べるとおりのものであったこと、しかし、それからわたしが引出す解釈はわたしが現在そうであるーーそうなったところのものを表すことそ承知していただきたい。p98わたしがサンテ刑務所で、ものを書きはじめたとき、それは決してわたしのさまざまな感動をもう一度生きるためでも、また、それらを人に伝達するためでもなく、それらの感動によって課せられた、それらの感動の表現をもって(まだ第一にわたしにとって)未知の一つの(精神的)秩序を組み立てるためだったのだ。P246



※追記:Pierre-Gilles Gueguenの《泥棒も売淫も他者から何かを抜き出すことであり、所有はジュネにとって重要性を持たない》をめぐって(『泥棒日記』より)。


・才能とは、素材に対する礼譲にほかならず、それは声なきものに歌を与えることなのである。P155

・裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題なのだ。それらは互いに連関関係にある。この連関は必ずしも常に露わではないとしても、わたしには少なくとも、わたしの裏切りと盗みへの嗜好とわたしの情事とのあいだに、一種の血脈的交流が認められるように思われるのである。P245

・たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。P279

・わたしは今、絶望のただ中における至高の幸福というものの現実に、鋭い注意を注ぎたいーーすなわちそれは、人がただ独りで、突然、自己の急激な破滅に直面したとき、人が自己の作品(事業)と彼自身との取返しのつかない崩壊に直面したとき、である。わたしは、わたしがそれを知っているということを何人も知らない、ひそかな、絶望の状悲を経験するためならばこの世のありとあらゆる財宝を手離すだろうーーそのために事実それらを手離さなければならないのだが。ヒットラーがただひとり、彼の宮殿の地下壕の中で、ドイツ敗北の最後の刻に、確かに、この純粋な光明の一瞬――脆くそして堅固な、曇りない意識――自己の失墜の自覚を、経験したはずだ。P303

・裏切る者が自己の背信を自覚していること、彼がそれを欲し、そして彼を人間仲間に結びつけていたもろもろの愛の絆を断ち切ることができさえすれば十分なのだ。美を得るために不可欠なものーー愛。そして愛をぶち壊す残酷さ。P356

棄子であるということのために、わたしは孤独な少年時代と青春とを持った。泥棒であるということが、わたしに泥棒という職業の独異性を信じさせた。おれは怪物的な例外なのだ、とわたしは自分に言い聞かせていた。事実、わたしの泥棒への嗜好、泥棒としての活動は、わたしの男色癖と関係があったのであり、この、それだけですでにわたしを世の常ならぬ孤独の中に閉じこめるものであった性癖から派生したものだったのだ。盗みという行為がどれほど広く行われているものであるかということに気づいたとき、わたしの驚きは大きかった。わたしは一挙に月並みさの中に投げこまれてしまったのだ。それから抜け出すために、わたしが必要としたのは、ただ、わたしの泥棒としての運命を自己の栄光とし、この運命を希求するだけでよかったのだ。人はこれを負け惜しみと見なし、馬鹿どもはそれを冷笑した。人はわたしのことを悪しき泥棒だと言うかもしれないが、そんなことは問題ではない。泥棒という言葉は、その主要な活動が盗みであるところの人間をさす。そういう人間からーー彼がこう呼ばれているかぎりーー彼の中の泥棒以外のあらゆる点を除去して、その人間を明確化するはらたきをする。彼を単純化するのである。ところで詩〔ポエジー〕は、彼の、泥棒という境涯への最も深い自覚にあるのだ。もちろん、泥棒以外のいかなる境涯の場合でも、その人間に名称を与えるほどに本質的になることができる自覚ならば、それもまた同様に詩であろう。しかし、いずれにしろ、わたしの独異性への自覚が、盗みという一つの非社会的活動によってよばれるということはよいことである。P358


ーーこの最後の引用文をどう読むかは、われわれの自由だが、男色癖は泥棒から派生したものであり、この時点でのジュネにとって「泥棒」というシニフィアンがいかに重要だったかが露さまに書かれているには相違ない。

上の引用のなかにジュネの優雅さをめぐる文がある、《たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。》

この「優雅さ」をめぐって、ジュネは重ねてこう書いている。おそらくジュネが『泥棒日記』にて、最も強調したかったこと、--少なくともその代表的なひとつだろう。

わたしは(……)、それが優雅であるかどうかが行為の価値を決める唯一の規準だといった。わたしが裏切り行為を選びとるということを確信しても、それは上の言葉と決して矛盾しない。裏切るということは、神経的な力と優美さとからなる、優雅な、美しい行為でありうるのだ。

才能とは、素材に対する礼譲にほかならなず、それは声なきものに歌を与えることなのである。わたしの才能は、刑務所や徒刑場の世界を構成するものに対してわたしが寄せる愛以外のものではないだろう。わたしは決してそれらのものを変化させること、それらをあなた方の人生にまでいたらせることを欲するのでもなく、また寛容や憐憫をもってそれらに対するのでもない、―――わたしは泥棒に、裏切り者に、殺人者に、邪悪な者、狡猾な者たちに、あなた方にはないと考える、深い美しさ―――落ち凹んだ美しさ―――を認めるのである。


2014年4月29日火曜日

果たして「シェアすることは歓びを増す」だろうか

真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ。シェアすることは歓びを増す。美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う。それが実は「反貧困」ということではないのか。(佐々木中)

佐々木中氏の昨晩(2014.4.28ツイートだが、《シェアすることは歓びを増す》とある。《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》とある。

だが愛する女と巡り合ったとき、なぜシェアしたくならないのだろう、とひねくれ者のわたくしは言う。なぜ良い音楽や藝術、知的遺産が〈女〉と違うのだろう。愛する女に接するように、音楽や美味に向かうとき、ツイッターなどにその画像や音声を貼り付けたりしてシェアしたいと思うのだろうか。いやけっして。シェアしたいと思うのは、快楽の次元にあるもので、悦楽(享楽)の次元にあるものではない。

快楽plasirのテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り


享楽jouissanceの次元、あるいは

プンクトゥムの次元にあるものは、トラウマ的であり、冥府からの途切れがちの声として呟くほかあるまい。すぐれた作家としての佐々木中氏(たとえば古井由吉のすぐれた読み手である彼)はそんなことはとっくに知っているはずなのに、知らないふりをした発言であるように思う。


「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽

ひとは本当のところは、《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)であったり、《まもなく、私の二十年来の友人が須賀敦子さんを”発見”した。私たちは、少年が秘密の宝を共有するように、須賀さんの作品について、声をひそめるような感じで語り合った。ひとにはむしろ触れ回りたくなかった。》(中井久夫『須賀敦子さんの思い出』)ではないか。

われわれは、次のように書くジュネを忘れるわけにはいかない。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)


佐々木氏の冒頭のツイートはたんなるスローガン的言説に過ぎないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。あるいは営業活動の一環でしかないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴーー大いなる個人的快楽ーーになぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』ーー承認欲望と承認欲動

《のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの惹き起こした喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。(……)


のがれよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蠅どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ、強壮の風の吹くところへ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト『見出されたとき』井上究一郎訳)

再度、佐々木中氏の「愛している」はずのニーチェを引用するなら、次のように引用することもできる。

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳ーー
症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」)

ーーそれとも、やはりこうでも言っておくよりほかないのだろうか、《ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。》(中井久夫「ヴァレリーと私」

少なくとも、《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》という発話文のなかの《可能なら》という言葉は、「ほとんど可能ではないが」、と書き換えなくてはならないのではないか。


《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)


――フロイトがそう言っている(ここでのフロイトは、正常さの典型とみなされるだろう)。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「嫉妬」の項より)

愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである。(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)

われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

《母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的状況になるのであって、けっして危険の状況ではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。》自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。 (フロイト『制止、症状、不安』人文書院 旧訳からだが山括弧の個所は「翻訳正誤表」にて修正――「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)

――と引用を中心に書いてきたが、佐々木中氏の冒頭のように言いたくなるのは、ある側面からは(たとえば大きな意味での「政治的」な側面からは)、よく分かると言えないでもない。上に書かれたものは批判ではなく批評(吟味)の言葉である。

以前、《「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている》(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)などをめぐってメモ書きをしたことがある(「おっかさんと蛍」)。それらは宙吊りのままである。

たとえば、宙吊りになっている問いへのヒントをわたくしは次の文に読む。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

ーーとすれば、これらの言葉は実は佐々木中氏の《真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ》に限りなく近づくとも言える。

だが、たとえば、現在のツイッターという場での「人びとのあつまりかた」は、あまりにも醜悪だと感じることがある。それは、クラスタ内、小さな共感の共同体内での、湿った瞳の交わし合い、うなずき合いであり、クラスタ外の者の排除なのだ。その場を変えなければならない。肯定的に佐々木中氏のツイートを拾うことが多いわたくしではあるが、彼のツイートは場を変える力として機能していないときもある、と感じることがある。むしろその発言は、受け取り手によっては、「アーバン・トライバリズム(部族中心主義、同族意識)」を助長してしまう機能をもつと思うことがある。

…………


冒頭の佐々木中氏のツイートは次のような文脈で書かれていることを附記しておこう。

@AtaruSasaki RT@gonoi 雨宮処凛さんが「反富裕」という「贅沢は敵だ」的なスローガンを出しているが、私は「贅沢は素敵だ」派なのでまったく賛成できない。RT @karin_amamiya 今年の「自由と生存のメーデー」、熱くなりそう!「反貧困」ではなく「反富裕」!pic.twitter.com/7T9HJThq48

@AtaruSasaki @gonoi 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか。

‏@gonoi 肯定を禁止し続ける言説たる「反〜」以前の、スローガンを与えられた群れによる「反〜」への先祖返りが窮極的に行き着く先は、民主カンプチアでしょう。RT @AtaruSasaki 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか

‏@AtaruSasaki @gonoi 全くその通りだと思います。ある局面でいかに強固な「アンチ」が必要になろうとも、究極的にはこの世界とその歓びの肯定に至らなくてはなりません。

@gonoi @AtaruSasaki 今日の本務校ゼミで、歓びの肯定がなされる社会としてバタイユ『呪われた部分』のLa société de consumationについて、見田宗介を補助線に解説したばかりです。可視的に数値化された効用に回収されることのない、生命の充溢と消尽を解き放つ社会。

@AtaruSasaki @gonoi 僕、卒論バタイユだって話はしましたっけ……笑

このような頷き合いが仲間内の「知識人」の間で、平気でなされているのをみると、あきれ果てるよりほかない。反富裕が一歩間違うとどこにいくのかを語るならば、「贅沢は素敵だ」が一歩間違えばどこに行くのかを語らずにどうしよう。だがツイッターというのはおおむねこの程度の頷き合いの場である。

われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)


◆追記:ジジェクと浅田彰と対談『「歴史の終わり」と世紀末の世界』より

浅田)……あなたの言われるように、ここで「北」と「南」というのは、地理的な意味とは限らないので、「北」の世界の中にも「南」の世界が入り込んでいる例は多々ありますーーたとえばアメリカの都市のスラムのように。


ジジェク)そう、そういう傾向は東西の冷戦の終結とともにいっそう強まっていると思いますね。

浅田)(……)自由民主主義と資本主義の勝利によってモダンな世界が普遍化するかに見えた瞬間、ポストモダンな「ネット」とプレモダンな「島々」への新たな分極化が生ずる。

ジジェク)そこであらためて強調しておくべきことは、そういう一見プレモダンな要素が、フクヤマの言うような過去の残滓などではなく、むしろモダンな資本主義システムの生み出したものーーいってみればポストモダンな産物だということです。それは自由主義的資本主義に内在するネガティヴな緒契機なのであり、ヘーゲル主義者として言うなら、自由主義的資本主義の勝利を語ることは同時にそういうネガティブな諸契機の露呈について語ることでもなければならないのです。そこには、内外の「第三世界」の貧困と退行、そして、そこから出てくる復古主義や原理主義といったものが、すべて含まれます。

ヘーゲル的に言って、それらが自由主義的資本主義に内在する「否定判断」、つまり自由主義的資本主義の普遍性の主張に対する内的否定にあたるとすれば、さらにラディカルな「無限判断」にあたるのは、カンボジアのクメール・ルージュやペルーのセンデロ・ルミノソでしょう。資本主義と伝統との矛盾に直面したとき、かれらは二重否定を行い、資本主義を拒否すると同時に、伝統をも解体してゼロからやりなおそうとするからです。この二重否定の逆説の中に反転した形で表現されている真実は、資本主義が前資本主義的な社会的紐帯の支えなしには存続しえないということです。言い換えれば、それは現代の資本主義に内在する矛盾を表現する激烈な症候なのであり、原始的なユートピア志向のラディカリズムの残滓などではありません。そもそも、クメール・ルージュの指導者のポル・ポトはマラルメやランボーを読み解く仏文学の教授だったし、センデロ・ルミノソの指導者のアビマエル・グスマンはカントの空間論について博士論文を書いた哲学の教授だったんですから(笑)。

そういうわけで、フクヤマに対するヘーゲル的警告は、自由民主主義と資本主義について語るとき、人権や経済成長といったポジティヴな面――「肯定判断」だけでなく、ネガティヴな面――「否定判断」や「無限判断」についても語らなければならないということです。たしかに自由民主主義は勝利したかもしれない。しかし、その勝利の瞬間は、そのラディカルな分裂の瞬間でもあるのです。

※否定判断と無限判断については、「「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)」を参照のこと。



2013年6月27日木曜日

魂の非安

汝を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ》(アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』)

二〇〇一年九月一一日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク「〈現実界〉の砂漠へようこそ」)

 《

享楽、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかはない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。》(『彼自身のロランバルト』)

こうやって、われわれは死の欲動、あるいは享楽のなかに踏み込む。実はそんなことは誰でも知っている。しらばっくれてもだめだ。魂の平安など求めはしない。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(『ラカンはこう読め!』)

《実際に消費する快楽よりも、つねに直接的交換可能性の「権利」を保持し、さらにそれを拡大することから得られる快楽。…資本の蓄積のたえまない運動は、快感原則でも現実原則でもなく、フロイト的にいえばそれらの「彼岸」にある欲動(死の欲動)として見られるべきである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』p336)



「不安」とは「現実界」に近づき過ぎたときに起こるというのがラカンのテーゼである。

もっとも最近は二つの不安を区別するミレールの見解がある。《Miller recently proposed a Benjaminian distinction between “constituted anxiety” and “constituent anxiety,” which is crucial with regard to the shift from desire to drive: while the first designates the standard notion of the terrifying and fascinating abyss of anxiety which haunts us, its infernal circle which threatens to draw us in, the second stands for the “pure” confrontation with the objet petit a as constituted in its very loss.》(zizek"LESS THAN NOTHING")

ーー欲望の次元の「不安」にある人は、せいぜいその不安を慰めたらよい。だがひとは、欲動の次元の「不安」をうっちゃるわけにはいかない。(参照:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)


無駄話にうつつを抜かして慰安を求め、象徴界のひびわれや裂け目に保留されている<現実界>を遣り過して愛想よく頷きあっている「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」を徹底的に嘲笑しようではないか、精神の健康のために。

《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

……「文芸春秋」を出したのは、菊池さんがたしか三十五の時である。ささやかな文芸雑誌として出発したが、急速に綜合雑誌に発展して成功した。成功の原因は簡単で、元来社会の常識を目当てに編輯すべき総合雑誌が、当時持っていた、いや今日も脱しきれない弱点を衝いた事であった。菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」の原稿を有難がるという弱点を衝いた事によってである。(小林秀雄「菊池寛」)

《われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧 」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界 〉から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎない(……)。この社会的現実は、<現実界>の闖入によっていつ何時でも、ごくふつうの日常会話やごくありふれた出来事が危険な方向へとむかい、取り返しのつかない破滅が起こるかもしれない…》(ジジェク『斜めから見る』p43)


「現実は、現実界の顰め面」(ラカン「テレヴィジョン」)であることを忘れたふりをしている、あるいは、「現実」は、象徴界によって飼い馴らされた<現実界 réel>であることを見ないふりをしている手合いには嘲弄がふさわしい。

"reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility"
(François Balmès, 『Ce que Lacan dit de l'être』 1999)


ラカンは、享楽は《裂け目の光のなかで保留されている》とする。「世界の論理の突然のひびわれ」、とデュラスは書く。


愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス「死の病い」 )

世界の論理の突然のひびわれ、現実界の闖入を避けたところには、そもそも「愛」などない。「好き」だけだ。


ロラン・バルトの『明るい部屋』での二項対立、ストゥディウム(studium)/ブンクトゥム(punctum)を想起しよう。これは、『テクストの快楽』の、快楽plaisir/悦楽jouissanceに連なる。後者は、ラカン用語としては、「享楽」と訳されている。



プンクトゥムとはほとんど「享楽juissance」のことと言ってよい。(参照:ベルト付きの靴と首飾り


 

《プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもありーーしかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


突然のひびわれ、裂け目、 ――ここにしか「愛」はない。


《ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い( I LIKE/ I dont)の問題である。ストゥディウムは、好き( to like)の次元に属し、愛する (to love)の次元には属さない。》(同 バルト)


ひとは、このストゥディウムの文化的場でうつつを抜かし、プンクトゥムの、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目をやりすごそうとする。 ――「うつつ」、つまり、” réel を抜かすのだ。


ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

《現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。


これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。》(大岡昇平『常識的文学論』1960



「魂の平和」が訪れて、「不安」がなくなってしまったらどうなるというのか。
「でも、あなたといるとぼくは不安でたまらない。そう、それなんだ、あなたはぼくを不安におとしいれるんです。そのとおりだよ、食事相手はうなずいた。わたしといると最後はだれもがそうなのさ。だけどね、そもそも文学の役割とはそこにあるのだと思わないかい? ひとの不安をかきたてることだとは? わたしに言わせれば、ひとの意識を慰撫するような文学などは信用できない。」(フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』澤田直訳編

もちろん、文学だけではない、ひとの意識を慰撫するような音楽、美術などは信用できない。祈りの音楽? 祈りとは本来、魂の不安を慰撫するのではなく、現実界に直面することではないか。《私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。》(武満徹)でありつつ、《私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)なのだ。


それを安吾のアモラル、あるいは漱石の非人情(人情と不人情の宙吊り)、あるいはカントの無限判断をめぐる記述を援用して、不安と平和との境界線を突き崩す第三の領域を、ここでは「非安」としておく。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られたような空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。その余白の中にくりひろげられ、私の耳に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。(……)

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。(坂口安吾『文学のふるさと』)


ジャン・ジュネの《何も言わずに祈り続ける人のように……要するに、にこやかで凶暴だった》とする、あまりにも強く私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける」文における「祈り」を想起しよう。



誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンが過ごしたヨルダンのジェラッシュとアジルーン山中での6ヶ月が、わけても最初の数ヶ月がどのようなものだったか語ることはないだろう。数々の出来事を報告書にまとめること、年表を作成しPLOの成功と誤りを数え上げること、そういうことならした人々がある。季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。政治的選択によって彼らが撤退していたヨルダンのこの地方はシリア国境からサルトへと縦長に伸び広がり、ヨルダン川と、ジャラシュからイルビトへ向かう街道とが境界をなしていた。この長い縦軸が約60キロ、奥行きは20キロほどの大変山がちな地方で、緑の小楢(こなら)が生い茂り、ヨルダンの小村が点在し、耕地はかなり貧弱だった。茂みの下、迷彩色のテントの下に、フェダイーンはあらかじめ戦闘員の小単位と軽火器、重火器を配備していた。いざ配置に着き、ヨルダン側の動きを読んで砲口の向きを定めると、若い兵士は武器の手入れに入った。分解して掃除をし油を塗り、また全速力で組み立て直していた。夜でも同じことができるように、目隠しをしたまま分解し組み立て直す離れ業をやってのける者もあった。一人一人の兵士と彼の武器の間には、恋のような、魔法のような関係が成立していた。少年期を過ぎて間もないフェダイーンには、武器としての銃が勝ち誇った男らしさのしるしであり、存在しているという確信をもたらしていた。攻撃性は消えていた。微笑が歯をのぞかせていた。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』



 ほかにも、

《愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。》


《女たちはすでに慣習に叛いていた。男の視線に耐えるまっ直ぐな眼差し、ヴェールの拒否、人目にさらした、時にはすっかり露な髪、つぶれたところのない声。》


《「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを》


ここには「現実界」を真正面から見据える人びとの「強度」、「光」がある。魂の唯物論的な露呈 réel、その「輝き」がある。笑いさざめき、白い歯をこぼす微笑、にこやかな凶暴さ、奇妙にもじっと動かぬ何ものか…まっ直な眼差し…


むき出しになった享楽…名前を欠いた非個性的な欲動が迫り上がる…統禦しがたい匿名の衝動…穴を穿たれ、乗っ取られた人びとの最も深い絶望による輝き…



もう繰りかえすまでもないだろう、「不安」の深淵をのぞきながら、そこから逃げさることのなかった人びとの享楽、死の欲動…愛の猥褻と死の猥褻…

………

◆ニーチェの「魂の平和」

「内なる敵」…その価値…対立に富むという代価を払ってのみ、人は豊饒となる。魂が伸び伸びとせず、平和を求めないという前提のもとでのみ、人は若さを保ちつづける・・・「魂の平和」という以前のあの願望、キリスト教的願望にもまして私たちに縁遠くなったものは、何ひとつとしてない。戦いを断念するときには、偉大な生を断念してしまっているのである・・・

もちろん多くの場合「魂の平和」はたんに一つの誤解であるにすぎない、――もっと率直に命名されることができないだけの何か別のものである。言いのがれや偏見なしで二三の場合をあげてみよう。「魂の平和」は、たとえば豊かな動物性が道徳的なもの(ないしは宗教的なもの)のうちへと穏やかに放射していることでもありうる。あるいは、疲労の始まり、夕暮れが、あらゆる種類の夕暮れが投げかける最初の影でもありうる。あるいは、空気が湿気をおび、南風が近づいてくることの徴候でもありうる。あるいは、順調な消化に対するそれとは知らぬ感謝(ときとして「人間愛」と名づけられる)でもありうる。あるいは、すべての事物に新しい味わいをおぼえ、待ちのぞむ快癒者の心のひっそりとすることでもある・・・

あるいは、私たちの支配的激情の強い満足につづいておこる状態、稀有な飽満の快感でもありうる。あるいは、私たちの意志の、私たちの欲求の、私たちの背徳の老衰でもありうる。あるいは、道徳的に粉飾するよう虚栄心に説きふせられた怠惰でもありうる。あるいは、不確実さによる長いあいだの緊張や拷問ののち、確実さが、怖るべき確実さすらが入りこんでくることでもありうる。あるいは、行為、創造、活動、意欲のただなかでの成熟や練達の表現、静かな息づかい、達成された「意志の自由」でもありうる・・・偶像の黄昏、誰が知ろうか? おそらくはこれまた一種の「魂の平和」でしかなかろう・・・(ニーチェ『偶像の黄昏』「反自然としての道徳」3番より 原佑訳)

※補遺→ ラカン派の現実(幻想)と現実界をめぐる

2013年6月22日土曜日

ジャコメッティとジャン・ジュネ(ボーヴォワール自伝より)







彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑う――並びの悪い、これもやはり灰色の歯――その間を、風が通り抜ける。

<ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室1999)>





《私はこんな奇妙な印象を受ける、つまり彼がそこにいると、それに触れなくとも、すでに完成された古い彫像たちは、変質し変貌する、なぜなら彼は彫像たちの姉妹のひとりにいま取りかかっているからだ。しかも一階にあるこのアトリエはいまにも崩れ落ちようとしている。アトリエは虫食いだらけの木で、灰色の埃でできており、彫像は石膏製で、綱、麻屑、あるいは針金の切れ端が見えている、画布は灰色に塗られ、それが画材屋にあった頃にもっていたあの落ち着きをとっくの昔に失ってしまった、すべては染みだらけで、廃品同然だ、すべては不安定で、いまにも崩れ落ちそうだ、すべては分解に向かっていて、浮遊している。ところで、そんなすべてのものが、ある絶対的実在性のなかでつかみ取られたかのようなのだ。私がアトリエを後にして、表の通りに出ると、私を取り巻くものはもはやなにひとつ真実ではない。こう言うべきだろうか。このアトリエで、ひとりの男がゆっくりと死んでゆき、燃え尽きる、そしてわれわれの眼前で、幾人かの女神たちに姿を変えるのだ》(ジャン・ジュネーー鈴木創士「ジャコメッティ覚書」より)


………







私はモリエール女子高等中学校で教えていた。……私たちはキャフェ・ドームを根城にしていた。(……)
サルトルやオルガとしゃべっている時には、私は出たり入ったりする人を眺めるのが大好きだった。(……)とりわけ私たちの興味をそそり、何者だろうと思った男がいた。ごつごつした美しい顔に、髪はぼさぼさ、貪るようなまなざしの男で、彼は毎夜、ひとりきり、または非常に美しいひとりの女性と連れだって、通りを徘徊していた。彼は岩のように強固な、同時に妖精よりも自由な様子をしていた。あんまりすばらし過ぎる。私たちは外見に騙されてはならないことを知っていたし、彼の風貌はあまりにも魅力に溢れていて、見かけ倒しではないかと思いたくなるほどだったのである。彼はスイス人で彫刻家、その名はジャコメッティといった。(ボーヴォワール『女ざかり』上 P263






パッシーには白系ロシア人街があり、その年の私のもっとも優秀な生徒も白系ロシア人だった。十七歳で、ブロンドの髪を真中から分けているために老けて見えるが、どた靴、長すぎるスカートといういでたちのリーズ オブラノフは、その挑戦的な態度でたちまち私の興味を惹いた。《わかりません!》と乱暴にどなって私の講義を中断する。時にはいくら説明しても、いつまでも受つけようとしないので、私はやむなく無視することにした。すると彼女はこれ見よがしに腕組みをして、とって食いそうな目で私を睨むのである。(同上P323)




ある朝私がドームへ行くと、彼女(リーズ)が駈けよってきて、《ね、私、アンドレ・モローと寝たの。すごくおもしろかったわ!》と叫んだ。しかし彼女はじきにアンドレが大嫌いになった。彼はお金も健康も大事にしすぎるし、習慣やしきたりを一から十まで重んじる。爪の先までフランス人なのだという。彼はしょっちゅうあれをやりたがるので、しまいにリーズはうんざりしてきた。彼女はアンドレとの性生活を、まるで兵隊あがりのようにあけすけにしゃべった。(『女ざかり』下 P106







この年の春(1941年:引用者)、私たちは新しい友達ができた。リーズのおかげでジャコメッティと知り合ったのである。前にも書いたように、私たちはずっと前から彼の鉱物的な顔や、もさもさした髪や、浮浪者のような態度に目をとめていた。私は彼が彫刻家で、スイス人だということも聞いていた。また、彼が自動車の下敷きになったことも知っていた。彼がステッキをついて、びっこをひきひき歩くのはそのためなのである。彼はよく綺麗な女を連れていた。彼はドームでリーズに目をつけ、話しかけた。リーズは彼をおもしろがせ、好意を抱かせた。リーズは彼は頭が悪いといっていた。デカルトが好きかと訊いたのに、とんちんかんな答え方をしたからだという。それでリーズは、彼は退屈な男だと決めこんだ。しかし彼はドームで、リーズにとっては夢のような晩餐をおごった。若くて丈夫で食欲旺盛なリーズは、いつも食べに行く学生食堂ではおなかがいっぱいにならなかった。彼女は、大喜びでジャコメッティの招待に応じた。しかし最後のひと口を呑みくだすや否や、彼女は口をぬぐって立ち上がるのだった。ジャコメッティは彼女を引き留めるために、もう一人前注文することを思いついた。彼女は最初の一人前と同じようにこれをいそいそと平らげ、食べ終えると、情容赦もなく帰ってしまうのだ。

《なんていう奴だ!》
とジャコメッティは一種の感嘆をこめていった。そして仕返しにリーズのふくらはぎをステッキでつっついた。ある時リーズは、ジャコメッティが退屈きわまる連中といっしょに彼女をラ・パレットに招待した、とこぼした。彼らがしゃべっているあいだ、彼女はあくびのしつづけだったという。あとになって私たちは、このやりきれない連中の名を知った。それはドラ・マールとピカソだった。







ジャコメッティのアトリエは中庭に面していた。リーズはここを根城にすれば、彼女がパリの到る所から盗んで来る自転車を隠匿するのに好都合だと思った。私は彼女にジャコメッティの彫刻をどう思うかと尋ねた。リーズは狐につままれたような顔をして、
《わからないわ。あんまり小さいんですもの!》
と笑った。そして、ジャコメッティの彫刻は、ピンの頭ぐらいの大きさなのだと断言した。これでは判断しようがないではないか? リーズは、ジャコメッティの仕事ぶりは実に奇妙だと付け加えた。昼間作ったものは夜のあいだに全部壊してしまうし、夜制作すれば、昼間壊すのだ。ある日彼は、アトリエいっぱいにたまった彫刻を、手押車に積んでセーヌ河にほうり込みに行ったそうだ。(……)







あらゆるものが彼の興味を惹いた。人生にたいする彼の熱烈な愛は、好奇心という形をとったのである。彼は自動車に轢き倒された時でさえ、楽しさにも似た気持で、《死ぬってこういうことなのか。僕はこれからどうなるんだろう?》と考えた。入院中も刻一刻と何か思いもかけない発見があったので、退院するのが残念なくらいだった。この貪欲さは私の胸にぴんときた。ジャコメッティは言葉をみごとに使いこなして、人物や情景を肉付けし、これに生命を与えるのだった。そのうえ彼は、相手の話に耳を傾けることによって相手をゆたかにする、ごく稀な人物のひとりだった。(『女ざかり』下 P115-116




※サミュエル・ベケット(Samuel Beckett)は『ゴドーを待ちながら』の舞台美術をジャコメッティに依頼している。

………


ジュネが刑務所から出て来た、と人から聞いた。五月のある午後、私がサルトルとカミュといっしょにキャフェ・フロールにいると、ジュネが私たちのテーブルにやって来て、
《貴方がサルトルですか?》
と突然尋ねた。頭を坊主刈りにし、唇をひきしめ、用心深そうなほとんど挑発的な眼ざしのジュネを、私たちは悪党らしい様子をしていると思った。彼は腰をおろしたが、ほんのちょっときりいなかった。が、ジュネはまたやって来て、私たちはそれからしばしば会うようになった。彼は筋金入りの男だった。彼が産声をあげた時から閉め出しを喰ったこの社会を、問題にもしていなかった。しかし、彼の瞳は微笑することを知っていたし、その口元は驚くほどの子供っぽさを残していた。彼は話し易い人だった。彼は人のいうことに耳を傾け、答えた。けっして独学をした人のようにはとれなかった。彼の趣味や判断には、教養が自然に身についている人たちのもつ洒脱さや、思い切ったところやかたよったものがあるにはあったが、また同時にすばらしい眼識があった。(同上P201)






さらにもう一つ、彼の立像を前にしたときの、こんな気持。これらの立像は、すべて、とても美しい人々である。ところが、それらの悲しみ、それらの孤独が、私には、一人の奇形者の、突然裸にされ、自分の奇形が人目にさらされているのを見た人の、悲しみと孤独に比べることができるように思われる。その人は、同時に、おのれの奇形を世界に差し出してもいるのである、おのれの孤独とおのれの栄光に気づかせるために。変質することのありえない孤独と栄光に。
― ジャン・ジュネ“アルベルト・ジャコメッティのアトリエ”


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アッチヘウロウロ コッチヘウロウロ

 誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

――これはことさら穿った人間観察者の習癖ではない。一歩下がって眺めれば、おのずとみえてくる。《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク)


《……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった》(プルースト「見出された時」)――プルーストのいうような「滑稽さ」でなくてもよい、《彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶり》(ロラン・バルト)と言ってもよい、それは今、この<わたくし>の書く文にも滲み出ていることだろう。


ところで、なにかを愛しているのと、なにかを愛していると人に示すのとは違う。
気に入ったのと、気に入ったことを人に示すのとは違う。
人の役に立ちたいのと、人に役に立ちたいと言うのとは違うように。

ここにはすでに「媚び」がある。「へつらい」がある。

人を愛するのと「人類愛」、動物を愛するのと、「動物愛護」とは違う。


たしかにサルトルは、『嘔吐』の中のアントワーヌ・ロカンタンのように社会のある種のカテゴリーの人間を嫌っていたが、しかしけっして全般的な人類ではなかった。彼の厳しさは、へつらう職業の者だけを対象としていた。何年か前のこと、十匹ぐらいの猫を飼っているある婦人がジャン・ジュネを咎めて尋ねた。

《あなたは動物が嫌いなんですね》

《私は動物を愛する人間が嫌いなんです》

とジュネは答えた。これこそまさしくサルトルが人類に等しくとった態度なのであった。(ボーヴォワール『女ざかり』上   p138 紀伊國屋書店 朝吹登水子 二宮フサ 訳)

 ※ジュネの動物嫌いは、おそらくサルトル=ボーヴォワールのいう人類愛嫌いとは異なった面もあるだろう。

彼が産声をあげた時から閉め出しを喰った社会への嫌悪、そして動物を愛するかのようにして養家で愛された「外傷的記憶」にかかわる部分もあるに違いない。だが、ここではその面については、いったん無視する。



人類愛(者)批判というのは、フロイトの文化論、「ある幻想の未来」やら「文化への不満」の主題(隣人愛)のひとつだが、とくに後者では、ロマン・ロランへの批判がある。『文化への不満』の冒頭近くに、ロマン・ロランが人間の「太洋的な」感情を書き綴る手紙が紹介され、「この種のすぐれた人間の一人が、手紙の中で自身のことを私の友人と呼んでいる」と書いているのだが、フロイトの叙述には「気安く友人などと呼んでくれるな」と読まざるをえない風に書かれている。

もともと、《人が同情を寄せる相手は、知らない人びと、想像で思い描く人びとであり、すぐそばで卑俗な日常生活のなかにいる人たちではない》(プルースト「見出されたとき」)という機微はよく知られているが、フロイトの隣人愛批判はそれを遥かに超えて書かれている。

私の愛は私の貴重な財産なのだから、十分な理由もなしに大盤振舞いすることなどは許されない。 〔…〕私が誰か他人を愛するとすれば、その他人はなんらかの意味で私の愛に値しなければならない。 〔…〕その他人が私と縁もゆかりもない人間で、その人自身の価値や私の感情生活にたいしてすでにもっている意味などによって私を惹きつけることができないとすれば、その人間を愛することは私にとって困難になる。それどころか、そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちだけの持ち物だと思っているのだから。 (フロイト『文化への不満』)

 満遍なく、「抽象的な」愛の大判振舞いをする人物に対して、傍らの家族はどうやって振舞ったらいいのだろう。そこには

 “わたしぬき” という事態のあること、したがって「わたしは見捨てられているのだ」ということを、読みとってしまうことはないか。



ところで人類愛者の憐み深い、あるいは愛想の溢れた容貌に対して、人を愛する人物は、無頓着な、ぶっきらぼうな、あるいは「思いやりのない顔」をしている。

私がのちに、私の人生の途上で、たとえば修道院で、活動的な慈悲の化身、まったく神聖そのもののような化身に、たまたま出会ったようなとき、そうした人たちは、おしなべて、多忙な外科医によく見かける、快活な、積極的な、無頓着な、ぶっきらぼうなようすをしていたし、人の苦しみを目のまえにして、どんな同情も、どんなあわれみも見せない顔、人の苦しみにぶつかってすこしもおそれない顔をしていた、つまり、やさしさのない、思いやりのない顔、それが真の善意のもつ崇高な顔なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」)


さて動物愛をめぐっては、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の最後近くで、「犬への愛は無欲なもの」と書かれる。はたしてそうだろうか。犬から愛されることを願っていないだろうか。たとえば夫妻で犬を一匹飼っているとする。夫より妻のほうに犬がなついていれば嫉妬しないだろうか。

その問いはここでは保留することにするが、クンデラの文は、《その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができない》人間の不幸が書かれている。そして「愛することができない」だけではなく、「愛される」機会を逸する場合も多いだろう、相手が媚び諂いに敏感な人物であるなら、ことさら。


犬への愛は無欲なものである。テレザはカレーニンに、何も要求しない。愛すらも求めない。私を愛している? 誰か私より好きだった? 私が彼を愛しているより、彼は私のことを好きかしら? というような二人の人間を苦しめる問いを発することはなかった。愛を測り、調べ、明らかにし、救うために発する問いはすべて、愛を急に終わらせるかもしれない。もしかしたら、われわれは愛されたい、すなわち、なんらの要求なしに相手に接し、ただその人がいてほしいと望むかわりに、その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができないのであろう。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)



すこしだけ立ち止まって考えてみよう、ひとの心理の機微の基本的な部分だ。もし「愛される」こと少ない不満や不幸にある人なら、なおさら。

もし私が意識的に「人に振り向いてもらおう」、あるいは「愛されよう」と願えば、《滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。》(「金儲け」の論理、あるいは守銭奴


アッチニフラフラ コッチニフラフラ愛想を振り撒いてばかりいれば、すでに獲得したかにみえた他者からの関心(愛)をも失う。

雨ニモ負ケテ
風ニモ負ケテ
アチラニ気兼ネシ
コチラニ気兼ネシ
(……)
アッチヘウロウロ
コッチヘウロウロ
ソノウチ進退谷マッテ
窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ
オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ
ソウイウモノニワタシハナリソウダ


ーーー堀田善衛『広場の孤独』より




※附記 :ジャック・デリダ(Jacques Derridaアドルノ賞受賞記念演説「異邦人の言語」より

観念論、人間主義という哲学の最も強大な伝統の力があります。アドルノが明言していますように、自然に対する人間の至上性、支配(Herrschaft)は実際には「動物に対して向けられる 」(Sie richtet sich gegen die Tiere)。別の視点からは強く敬愛するカントの名を特に挙げ、人間の〈尊厳(Wurde)〉や〈自律性〉というカントの概念には、人間と動物との間にいかなる思いやり(Mitleid)の余地も残されていないと非難しています。続けて彼は人間と動物との類似や親縁性を想起させるもの(die Erinnerung an die Tierahnlichkeit des Menschen)ほどカント的人間にとって憎む(verhasster)べきものはないと言います。カント的人間は人間の動物性に対して憎悪しかもちません。ひいてはそこに自分の「タブー」を見るのです。 “Tabuierung[タブー化]”という言葉を使うと、彼は急にさらに一歩先に進みます。観念論的体系にとって動物は潜在的に、ファシスト的体系にとってのユダヤ人と同じ役割を演じている(“Die Tiere spielen furs idealistische System virtuell die gleiche Rolle wie die Juden furs faschistische”)、と。動物は観念論者にとってのユダヤ人であり、観念論者とは潜在的なファシストにほかならないのです。動物を、さらに人間の中の動物を罵るとき、ファシズムは始まるのです。真性の観念論(echter Idealismus)は人間の中の動物を〈罵る〉、あるいは人間を動物として扱うことにあります。アドルノは二度にわたって罵り(Schimpfen)という名を使用しています。

   しかし他方、別の戦線では、『Dialektik der Aufklarung[啓蒙の弁証法]』の「人間と動物」という断想の主題の一つがそうでありますように、全く逆に、ファシストやナチス、総統が公然と主張したかに見える、時に菜食主義まで及ぶ動物へのあの怪しげな関心の下に隠されたイデオロギーと闘わねばならないのです。