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2014年8月14日木曜日

二十四のディスクール

以下は単なるメモ。

◆Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist (Levi R. Bryant)--Internatinal Journal of Zizek Studies vol.2 no.4 2008より

ーーLevi R. Bryantは、ラカンやドゥルーズなどを英語で検索するとよく遭遇するブログ『Larval Subjects』の著者でもある。

Larval Subjects is the blog of Levi R. Bryant, author of Difference and Givenness: Deleuze’s Transcendental Empiricism and the Ontology of Immanence, co-editor of the forthcoming The Speculative Turn with Nick Srnicek and Graham Harman, and author of a number of articles on Deleuze, Badiou, Zizek, Lacan, and political theory. (自己紹介より

…………

ラカンは四つのディスクールと、それにプラスアルファ資本家のディスクール、Bryantの図式では二番目の[The Universe of Capitalism」の四つのディスクールの最初のディスクールであるDiscourse of the Capitalist)資本家のディスクール)を提示した。

It would have perhaps involved . . . but besides, it will not involve it . . . because it is now too late . . . . . . the crisis, not of the master discourse, but of capitalist discourse, which is its substitute, is overt (ouverte).(On Psychoanalytic Discourse Discourse of Jacques Lacan at the University of Milan on May 12, 1972 Translated by Jack W. Stone.)

あるいは「主人のディスクールは消滅しつつある」 the discourse of the master has largely disappearedとは、すでにセミネールⅩⅦ(『精神分析の裏側』)にて語っている。

通例、資本家のディスクールは、主人のディスクールの左側S1/$が上下逆転してものとして示される($/S1)。





Bryantはそうであるなら、仮説としては、二十四のディスクールがあるはずだとしたもの。

Throughout this paper I distinguish between discourses and universes of discourse. A discourse is an individual structure such as the discourse of the master, the analyst, the hysteric, or the university. As Lacan attempts to demonstrate, the discourse of the hysteric, analyst, and university are permutations of the discourse master found by rotating the terms of this discourse clockwise one position forward. A universe of discourse, by contrast, is a set of structural permutations composed of four discourses taken together. Based on the four terms Lacan uses to represent the variables of any discourse, there are 24 possible discourses. However, these discourses form sets of permutations, such that there are only six possible universes of discourse. For a brief account of Lacan's discourse theory and the six universes of discourses consult the appendix to this paper on page 53.

ーー上にあるように、Bryantの着眼は、discourses と universes of discourse.を区別したことにある。六つの universes of discourseがあり、それぞれ四つのディスクールがあるわけで、二十四のディスクールということになる。





資本主義のユニヴァースには、「資本家」、「生権力〔者)」(フーコーの概念から)、「批評理論(家)」、「非物質的な生産(者)」(すなわちサービス産業など)の四つのディスクールがあるという考え方である。

Bryantによれば、ジジェクのディスクールは、この二番目の資本主義のユニヴァースの批評理論家のディスクールだとしている。左側にa/S2とあるように、ここでは分析家のディスクールと同様だが、右側がS1/$となっており、aのエージェント(能動者)の受け手(他者)は、分析家のディスクールとは逆転してS1となっている。

ただし資本家のディスクールでさえも、ラカン派内では、いやそれは主人のユニヴァースのなかの「大学人のディスクール」ではないか、という議論もあるぐらいで、このBryantの仮説はたいして注目されているようには思えない。

下の図表は参考までに。Bryant自身もこれらにはコメントしていない。ただ論理的にはこれだけのディスクールがあるはずだということではある。


…………

すべてのユニヴァースは、基本的にはディスコース3までは最初のディスコース1を時計回りに進み、ディスコース4はディスコース1を時計と逆廻りさせたもの。





※参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない



四つのディスクールのなかに自分のディスクールが見当たらない場合は、この二十四のディスクールのなかから己れの言説構造を検索してみることもできる。精神病者でなければ、おそらくどれかに当てはまるはず。いやラカン理論を信用するならばだが。

いやかりにそうであっても《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである》(ラカン)であるならば、ここでの狂人=妄想的とは「精神病的」であるのだから、どれにも当てはまらない場合があるのかもしれない。

そしてさらに四つのディスクールの形式的構造はまだしも(四つの空箱で十分だとしても)、その空箱に置き入れるタームが四つしかないことに、疑義を呈することさえできるだろう。

※形式的構造とは、下の図で動因、対象、真理、産物とされたもの。前ふたつは、動因=話し手、対象=他者(受け手)とされることもある。




                        (藤田博史氏作成)


S1:主人、マスター、主人のシニフィアンなど
S2:教育者、知の体現者、知識など
$ :斜線を引かれた主体、欲望など
a :分析家、対象a、剰余享楽、愛など

なぜこの四つしかないのか。もっとも上の図にあるように、S1=Φ(象徴的ファルス)、S2=A(〈他者〉)とされることもある。では想像的ファルスφは? 象徴的権威の失墜の時代であるなら、なぜS1=Φが生き残っているのか? ジジェク=ミレールなどの主張では、象徴界の自我理想の時代から現実界の猥褻な超自我(享楽の父、あるいは母なる超自我)の時代へ移行しているのならば、S1=Φの代りにほかのマテーム(学素)が必要なのではないか。S1のかわりに、たとえばサントーム(Σ)を導入できないのか。

前回示したように、藤田博史氏は、幻想の式を変奏させて、-φ(想像的ファルスの欠如)、φ(想像的ファルス)、As(〈他者〉のサンブラン)を導入しているのだが、では四つの言説にはこれらを使えないのだろうか? --などとすれば、二十四のディスクールどころではなくなる。いずれにせよ、ラカンの四つの言説は、比較的ラカンの後期に提出された考え方だが、彼がもっと長生きしていたなら、別のマテームを使用して、新しい「四つの言説」を提示したことは十分に考えられる。






2013年12月26日木曜日

王殺しの記憶喪失/ラカンの資本家のディスクール

資本家のディスクールは、四つのディスクールに引き続く、「五番目」のディスクールではなく、あらたなディスクールの領野を開くーー資本主義が席巻する世界の新しい四つのディスクールを開くーーというLevi R. Bryantの議論をみた(ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール)。

わたくしは英訳で読んでみただけだが、ラカン自身、資本家のディスクールは主人のディスクールを代替するものだという意味に受けとれる言葉を、訳文から推測する範囲では、ラカン独特の《おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語》中井久夫)のインティメイトな調子、沈黙とスカンシオンの綯い交ぜになった口調で語っているようだ。


It would have perhaps involved . . . but besides, it will not involve it . . . because it is now too late . . . . . . the crisis, not of the master discourse, but of capitalist discourse, which is its substitute, is overt (ouverte).(On Psychoanalytic Discourse Discourse of Jacques Lacan at the University of Milan on May 12, 1972, published in the bilingual work: Lacan in Italia, 1953-1978. En Italie Lacan, Milan, La Salmandra, 1978, pp. 32-55. Translated by Jack W. Stone.)

あるいは「主人のディスクールは消滅しつつある」 the discourse of the master has largely disappearedとは、すでにセミネール17(精神分析の裏側)にて語っている。

Bryantの議論は、「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の新たな領野として、「主人の言説」を代表とする主人(支配)の領野から、「資本家の言説」を代表とする資本主義の領野への移行を指摘するものであった。


冒頭叙したことをくり返せば、資本家のディスクールは、五番目のディスクールではなく、あらたな世界の四つのディスクールを開くものだという主張なのだ。

ここで、旧来の主人の世界における主人のディスクールと、新しい資本主義の世界における資本家のディスクールを並べて見比べてみよう(旧体制の四つの言説と、新体制の四つの言説そのそれぞれを代表するものであり、各々の残りの三つの言説は割愛する)。









旧来の主人の言説では、最初のエージェント(話し手)の箇所に、当然のことだが、S1(主人)がある。新しい資本主義の領野の資本家の言説では、分裂した主体$がある。


主人のディスクールの最も基本的な読み替えをすれば、こうなる。


王(主人)S1は召使いS2に要求する、わたしを楽しませてくれ、と。召使いはそのための生産物を生み出すが、そこにはかならず剰余(廃棄物)aが生じる。王の真理は斜線をひかれた主体$、すなわちあらゆる主体と同様に、根源的な享楽(楽しみ)が何であるかを、言語で言い表わすことが不可能な存在であり(真理は半分しかいえないmi-dire)、$aは永遠に一致しない宿命にある。ここでラカンのローマ講演での有名なことば、言語による「物の殺害」をも想起しておこう(参照:ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)。


他方、資本家のディスクールではこうなる。

王殺しのあったあとの主人とは、利益を追求する商売人たち$である。もちろん召使いなどいはしない。だがかつての王と同じように、どうやったら楽しむことができるか(どうやったら利益を得ることができるか)を、テクノロジーやノウハウS2に求める。そこでも同じように剰余aが生まれる。この剰余とはまさにマルクスの剰余価値(ラカンの剰余享楽(対象a)である。商売人の隠された真理のポジション(左下隅)にある主人S1は資本(貨幣)である(具体的には銀行であったり株主であったりするだろう)。生み出された剰余価値aは再投資されなければ事業は破綻する。こうして資本S1の無限の運動のサイクルが永遠に続く。

ここではマルクスの「守銭奴」、あるいは価値形態論を想いだすべきだろう。


「金儲け」の論理、あるいは守銭奴(ヴァレリー、マルクス)より
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
マルクスが価値形態論を完成させたと考えた光りまばゆい貨幣形態の姿では、商品の価値形態はけっして完成していないことを知るはずである。まさに価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになるのである。そして、価値形態論のこの無限のくりかえしの極限において、われわれは黄金色の輝きを失い、商品の世界のなかにあって商品よりもはるかにみすぼらしい姿になった貨幣形態をみいだすことになるだろう。だが、そのみすぼらしい姿にこそ本来の意味での「貨幣の謎」が隠されているはずである。(岩井克人『貨幣論』)



主人のディスクールと資本家のディスクールの説明の形式的基本構造は次の通り。





agentが話し手であり、otherが聞き手、そして生産物がある。agentの話し手はラカンによればサンブラン(見せかけ)であって、発話の真の動因は、左下のtruth真理である。主人のディスクールでは、言語によって分裂した主体、資本家のディスクールでは資本(貨幣)ということになる。



上に書かれたものはもっとも基本的な読み替えであって、読み方はいくらでもある。

王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権利だけはあると確信すること。(蓮實重彦『物語批判序説』P195)

これは蓮實重彦がサルトルやフーコー、あるいはフローベールを引用しつつ「現代的言説」を説明する文脈での文だが、王殺しのあとは空位となって王座に位置づける権利だけはあるとするのが資本家でもあり、まがいものの真理や美を体現しようとする「知識人」、「芸術家」でもあるのだ。これは蓮實重彦の70年代から80年代末にかけての大きな主題のひとつである。

他人の言葉によって自分の言葉を二重に奪われた者たちが、その奪われたさまを隠蔽すべく提起する「問題」、それをたとえばジャン=ポール・サルトルであれば、大革命によって王殺しを演じた自分にうろたえるブルジョワジーたちが、王の代理として捏造した新たな幻想と呼ぶかもしれないし、あるいは神の死に続いて起った必然的な事態と呼べば、話はより明確であるかもしれない。また、神の死は、それと同時に個人の自己同一性を崩壊させたのだといいそえれば、さらにわかりやすいということもあるだろう。(同 P120
現代的な言説とは、原則的に、また権利の点で、誰が何を語ることも可能であり、特権的な知が中心的な主題と叙述の秩序を正当化することのない、匿名的な複数性によって定義づけられる。(同 P132

これらの言葉から、分裂した主体($)は、王殺しなどなかったかのようにして真理を抑圧し(左下のS1)、テクストの解釈学(S2)に耽って(不可能)、廃棄物としての糞(a)を生み出すが、それはテクストの真理(S1)とは永遠に合致しない(永遠のインポテンツ)と読むことができないか(実はこの言い方はやや自信がないが、いまは敢えて思いつきのようにして誤読の試みをしてみる。いっそう自虐的にいえば、解釈学の典型的な見本として糞としての対象aを生成させているとしてもよい)。


ただし蓮實重彦の「現代的言説」の意味するところが、そのままラカンの資本主義の言説を意味するとは、断言はしないでおこう。そもそもポスト・モダンによって「主人」が死んだのではなく、主人はとっくの昔に死んでいるのに、いまさら主人のディスクールとはなんだ、とっくに現代的ディスクールの時代になっているのに、という考え方がくり返されているのだから。

フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。(……)現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。(蓮實重彦『フーコーと《19世紀》』)
僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です……(『闘争のエチカ』)


さていずれにせよ、Bryantの提案する資本主義の世界の言説は、主人の言説が「神経症」の時代のディスクールであるならば、それとはまったく異なった世界を開くものだろう。主人の質が変わってしまったのに、ラカンの旧来の「主人の言説」に固執する必要は毛筋ほどもない。主人は父権制時代の主人から、いつのまにか猥雑な享楽的主人に変わっているのだ(もっともラカンの「主人」には、享楽的主人も含まれているという議論もあるだろう、だがもしそうなら、ラカンのいう主人の言説は消滅しつつあり、資本家の言説がそれにとってかわるというのは、なにを意味するのだろうか)。

選挙にも、科学にも「主人」はいない。
要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(震災からたしか半年後ぐらいの鈴木健ツイート)

ヒステリーのディスクールとして当り散らす主人もいない。主人がいなければ、どうやってデモ運動ができるだろう。実は標的である主人は「資本(の欲動)」なのに。

《資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。》(ジジェク『暴力』)
Everywhere, it seems, elections are in question, there is cynicism towards elected officials, and subjects profoundly doubt the truthfulness of news sources. This even bleeds into the sciences, where people regularly express doubts about global warming, for example, claiming that the scientists are motivated to claim certain things based on their desire to secure grant funding. As a consequence, individual agents begin to pick and choose their own news and science according to what accords with their beliefs and tastes. In short, science and the news are no longer experienced as an objective Third that is independent of the whim of individuals and that adjudicates disputes. Trust in these institutions and figures increasingly becomes overwhelmed by doubt.(……)

hysteric has also become ineffectual and has largely disappeared (see Boltanski and Chiapello 2007). Where the master-signifier disappears or goes underground, the politics of the hysteric disappears insofar as it loses its target and no longer knows where to turn.(Levi R. Bryant)

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)
if the decline of the discourse of the master is not simply a fall into social psychosis but the emergence of a new form of social relations, we can expect that other discourses, other social relations, will emerge to respond to the precariousness of the contemporary social structure. (『Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist』Levi R. Bryant)


「主人のディスクールから資本家へのディスクールへ」のヴァリエーションとしては、

・神経症のディスクールから、ふつうの精神病のディスクールへ
・欲望のディスクールから、欲動(享楽)のディスクールへ
・自我理想のディスクールから、猥雑な超自我のディスクールへ

などが挙げられる。

ようするにシロウトの気楽な思いつきで挙げているだけなのは断わるまでもないが、やはり誤解を招くかもしれないので、断わっておく。しかもジジェクやその朋友たちは資本の論理への言及はふんだんにあるのだが、なぜか資本家のディスクールへの言及は不思議にないのだ。

まるでホームズの対話(『白銀号事件』)を思い出させるかのようだ。

「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」
「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」
「犬は何もしなかったはずですが」
「そこが不思議というのです」とホームズは言った。

これが、探偵が殺人犯を捉えるやり方だ。殺人犯が消せなかった行為の痕跡を見つけ出すことによってだけでなく、痕跡がないこと自体を痕跡として捉えることによって、犯人を捕まえるのである。したがって、「知っているはずの主体」としての探偵の機能を、次のように規定することができようーーー犯行現場にはさまざまな手がかりが含まれている、つまり(精神分析過程における分析主体の「自由連想」のように)明白なパターンを欠いた無意味な細部が散乱しているが、探偵は、彼がその場にいるというただそれだけで、それらすべての細部が遡及的に意味を得るであろうことを保証するのである。いいかえれば、探偵の「全知」は転移の結果である(探偵にたいして転移関係にある人物は、何よりもなず、ワトソンに類する助手である。助手は探偵に情報を提供するが、助手自身にはその情報の意味がまったくわからない)。そして、「意味を保証する者」としての探偵のこの特別な立場を出発点にすることによってはじめて、われわれは探偵小説の循環的構造を明らかにすることができるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

ーーもちろんこれもなかば冗談であるぜ。

あだしごとはさておき。

上に、《自我理想のディスクールから、猥雑な超自我のディスクールへ》としたが、ここでの「自我理想」は象徴界、「超自我」は現実界とする解釈でのものである(フロイト的な自我理想≒超自我ではなく)。

ーー《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)

ラカンはここでは享楽と超自我の間に等号をおいている。もともと《超自我とは、われわれに無理な要求を次々と突きつけ、われわれがその要求にこたえられないのを大喜びで眺めている、残酷でサディスティックな倫理的審級であり、ここでの楽しむというのは、自分の自発的傾向に従うことではなく、むしろ、いわば気味の悪い、歪んだ倫理的義務としておこなうものである》(ジジェク『ラカンはこう読め』)。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我、自我理想、超自我である。フロイトはこの三つを同一視しがち、……だがラカンはこの三つを厳密に区別した。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

これらの厳密な区別から、ラカンにとって、超自我は「その最も強制的な要求に関しては、道徳意識とはなんの関係もありません」。それどころか超自我は反倫理的な審級であり、われわれの倫理的裏切りの烙印である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

そして資本の欲動とはこのようなものである。

資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)

たとえば、3.11以後の除染ビジネスは己れの内在的矛盾を取り込む資本の「死の欲動」の典型的な現象であろう。

ラカンは「エクリ」のなかで、《すべての欲動は、実質的に、死の欲動であるevery drive is virtually a death drive (Ec, 848)》、と書いている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

「死の欲動」とは、ジジェクが別の書(『斜めから見る』)で語っている例をあげれば、アンデルセンの童話「赤い靴」でもある。少女が赤い靴を履くと、靴は勝手に動き出し、彼女はいつまでも踊り続けなければならない。靴は少女の無制限の欲動ということになる。

……ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」とラカンの<対象a>  ジジェク



さてすこしまえに戻って、再度くり返せば、主人の死などはとっくの昔に起っているとするフーコーや蓮實重彦の言葉がある。もちろんマルクスの『資本論』がなにを語っているのかは、わたくしの場合寡聞にしろ、岩井克人や柄谷行人、ジジェクの言葉から窺われるし、Bryantの論文Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist』にもマルクスの引用が比較的豊富である。

蓮實重彦の挑発を口真似すれば、いまごろとやかくいうのは、《王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹》していたためだ、と。あるいは、どうしてマルクス、ニーチェ、フロイトの三幅対のあと一世紀も経て、「主人」などと呑気なことを語っているのか、としてもよい。


※参考:ドゥルーズのマゾッホ論に附された蓮實重彦の小論「問題・遭遇・倒錯」より(1973)。


人は、新たな思想家の登場に立ちあるごとに、その思想家の思想を一つの疑問符として想定し、その疑問を正しいコンテキストの中に据えてこれを把握しようとする仕草に馴れ親しんでいる。だが、巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。そんな仕草があたりにまき起こすものはといえば、疑問符の消滅を前にする存在が捉えられる失語症をめぐって、その徹底した絶句だけをこれまた徹底した饒舌によって註釈している無自覚な言葉の崩壊である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』が途方もなく読みにくいのは、まさに絶句そのものをなぞろうとする言葉たちが、言葉の輪郭を極端に曖昧にし、その内実を可能なかぎり希薄にしようとしているからにほかならず、それ故にこそあの書物は、たとえようもなく美しいのだ。だからフーコーは、難解な思想を語る難解な思想家なのではない。巨大なる疑問符の消滅とともに、思想も思想家も消滅したという事実を、シュペーグラー流のあのうぬぼれきった饒舌によってではなく、最も絶句に近くあろうとする言葉たちの沈黙との戯れによって、身をもって示しているからにほかならない。






2013年12月24日火曜日

ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール

以前、ラカンの四つのディスクール(あわせて資本家のディスクール)をめぐってメモしたときに、次の文に行き当たって印象に残っている。


資本家(主義者)のディスクールについて、ラカンがイタリアで講演したときにちょっと触れているのですが、資本家のディスクールについて聞いたことある人、いますか?これを誤って「資本主義のディスクール」と翻訳している人もいるようです。資本主義そのものは喋りません(笑)。ラカンのいう Discours capitaliste もしくは Discours du capitaliste は「資本主義のディスクール」ではない。発話の主体は人でなければなりません。四つのディスクールを見れば分かることですが、主人、大学人、ヒステリー(症者)、分析家はいずれも人です。ですから資本家のディスクールもしくは資本主義者のディスクールといわなければなりません。Discours du capitaliste、capitaliste というのは、資本家です。理論面に重きを置けば資本主義者といい換えても構いませんが「資本主義のディスクール」ではありません。

ところで若きラカン派の俊英である松本卓也氏が資本主義のディスクールについて何らかの論文を書いたそうで、その直後に次のようにツイートしている。

ちなみに「資本主義のディスクール」の訳語に関しては、ラカン自身の記述がdiscours capitaliste/discours du capitaliste/discours du capitalismeの3つで揺れていることと、エージェントとしての「資本家」よりもシステムとしての「資本主義」(つまり、誰か黒幕がいるわけではない)のことを述べているようにしか見えないことからして、「資本主義のディスクール」という訳語を採用しています。


彼は三十歳になったばかりだが、ラカン派ということにだけ限らず、若手の書き手のなかではもっとも期待される人物のひとりだろう。わたくしは以前彼のブログやそこに紹介されている『ファルスの意味作用』(ラカン)の解説やらラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールの翻訳(おそらく多くは彼自身の訳による)をかなり熱心に読んだ。もっとも難解なところは端折る気楽な読者としてではあるが。

その論文を読んでいないものが無闇に賞讃書評を引用するのもどうかと思うが、『現代思想』6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也氏の「人はみな妄想する-ガタリと後期ラカンについてのエチュード」についてこんな評価がある。

《このように論じる論者は少なくとも日本の「ドゥルーズ・ガタリ派(研究者)」にはほとんどいなかった。今さらいっても仕方がないけれども、ラカンとの「精神療法」の捉えかたの親近性(及び差異)を検討することなくガタリを語っても、ガタリの「実践者」、「運動家」としての実像には迫れない。また、この論文でドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』のあまりに「品の悪い」精神分析批判(それに基く資本制批判)に基いた、これまでの歪んだ理解はだいぶ矯正されるでしょう》と書かれたあと次のようにある。

松本論文は、ラカンの発言の含意-とりわけ70年代ラカン-を的確におさえることで、ガタリの問題意識の優れたところを見事に引き出してくれています。次の指摘などはその白眉でしょう。「60年代のラカン理論では、対象aは自由の機能を担う「分離」と関わっていたが、そこで得られる自由は、「自由か死か」のどちらかを選ばされた際に、自分が自由であることを示すために死を選ぶような強制的な選択(疎外)という不自由性を前提とした括弧つきの自由であった。いわば、対象aは因果性の安全装置の役割を担っていたのである。一方、ガタリの機械-対象aは、因果性のなかの爆弾であり、そのような自由とはまったく異なる自由をもたらす。機械の本質は「因果性の切断としての一つのシニフィアンが離脱すること」であると述べている。つまりガタリは、因果性を切断する機能を機械-対象aの中に読み込んでいるのだ」(P116、著者の傍点省略)、並びに「ガタリは、意味作用を生産するようなプラス方向の解釈とは反対に、数学において用いられるような無意味性を特徴とする記号を重視する(記:まさに『分裂分析的地図作成法』はその典型である)。つまり、患者の語りの意味作用を支えていたシニフィアンを削り取り、「記号を墓から「掘り起こす」ことを目指すのである。すなわち、スキゾ分析は精神分析の解釈とは反対に、意味作用をマイナスの方向に向かわせる。後に、ガタリはこの方向性を非シニフィアン的記号論と名づけ、現実界を取り扱うことが可能な理論として位置づけている」(P120、著者の傍点省略)という論述は全てを言い当てている。対象a をめぐる両者の、理解の同質性(差異)の指摘により、ガタリが特異性の臨床-集団的アジャンスマンを強調する意味合いがそこからよく見えてくる。また、松本論文で、オイディプス的な主体の問題を過度に強調する旧来のラカン認識には抵抗感を覚えていた僕にはその点でもスッキリしたところがあり、両者のつながるところがよくわかった感じです。

さて資本家のディスクールと資本主義のディスクールの話に戻れば、冒頭の藤田博史氏の文にめぐりあって、以前すこし調べてみようとしたことがある。調べるといっても、インターネット上にて日本語による言及が少なければ、仕方なしに英語文献のみを探る程度だが。

ところで、ジジェクには、あれだけ数多く資本の論理、その死の欲動面について語っていながら、不思議に、資本主義、あるいは資本家のディスクールについての言及は見当たらない。ジジェクの朋友ジュパンチッチには四つのディスクールをめぐるすぐれた論文(『Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf』)があり、そこで「主人の言説」の凋落以降の時代、「大学人の言説」を資本の論理に結びつけているが、資本主義のディスクールへの直接の言及はない。

そんななか、Levi R. BryantInternational Journal of Žižek Studies, Vol 2, No 4 (2008)にて書く、ジジェクのディスクールの審級(agentへの問いから始る論Žižek’s New Universe of Discourse: Politicsand the Discourse of the Capitalistにめぐり合った。


Bryantはなんと六つのユニヴァース(二十四のディスクールのパターン)に分けている。


Throughout this paper I distinguish between discourses and universes of discourse. A discourse is an individual structure such as the discourse of the master, the analyst, the hysteric, or the university. As Lacan attempts to demonstrate, the discourse of the hysteric, analyst, and university are permutations of the discourse master found by rotating the terms of this discourse clockwise one position forward. A universe of discourse, by contrast, is a set of structural permutations composed of four discourses taken together. Based on the four terms Lacan uses to represent the variables of any discourse, there are 24 possible discourses. However, these discourses form sets of permutations, such that there are only six possible universes of discourse. For a brief account of Lacan's discourse theory and the six universes of discourses consult the appendix to this paper on page 53.

ここですべてを示すことはしないし、Bryantは主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースの説明をしているだけだ。そしてわたくしにはいまだ瞭然としない箇所もある。

だが、すくなくともこの議論は藤田博史氏と松本卓也氏の二者の主張に折り合いをつけるのではないか。

ディスクールとは本来、個人のものだから、資本主義のディスクールとしたら奇妙だ。だが主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースということはできる。

Bryantの議論は、「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の新たなユニヴァースとして、「主人」から「資本主義」の世界への移行があると読み取ることができる。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

ここでジジェクがいう「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の主人とは、「原初の父」、あるいは「享楽の父」の主人なのであり、現在ラカン派内では、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀のふつうの精神病(あるいはふつうの倒錯)の世界へなどと語られるが、その推移も「主人の言説」の時代から、「資本家の言説」の時代へ、というふうにも捉えられる。あるいは「欲望」の言説から「欲動(享楽)」の言説としてもよいし、「自我理想」の言説から「超自我」の言説としてもよい(ここでの超自我は、フロイト的な自我理想≒超自我のそれではなく、後期ラカン的な《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)の文脈上の「超自我」:参照「父なき世代(中井久夫)」)。それの具体的な現われは次のようなことだ。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

まがりなりにも理念というオブラートに包んで表現する時代が主人のディスクールの時代であり、資本主義という素顔が露骨にみえる時代が資本家のディスクールの時代としてよいのではないか。

いま主人の言説、資本家の言説として、あえて主人のユニヴァース、資本主義のユニヴァースとしなかったのは、次のジジェクの示唆による。

ジジェクの90年代初頭の四つの言説をめぐる論では次のような説明がなされている。

第一の型、すなわち主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(『斜めから見る』)

すなわち主人の言説が語られるとき、それは主人のユニヴァース(象徴的権威没落以前の)の四つの言説の代表とする。そして資本家の言説が語られるとき、それは資本主義のユニヴァースの四つの言説の代表とする。Bryantの議論からはそういう捉え方ができる。もっともこの議論は、上に掲げたジュパンチッチの論文『When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value』では、享楽の父の言説の役割をするのは「大学人の言説」という主張とは相反するが、わたくしにはBryantの議論のほうが目から鱗が落ちた気分にさせられる。

Bryantによる主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースのそれぞれの四つのディスクールは次の如し。









資本主義のユニヴァースには、「資本家」、「生権力〔者)」(フーコーの概念から)、「批評理論(家)」、「非物質的な生産(者)」(すなわちサービス産業など)の四つのディスクールがあるという考え方である。


このあたりはいまだよくわからない(納得できない)ところもあるのでこれ以上は書かない。

そもそもわたくしのこれらの関心は、人はなんのディスクールで語っているのだろうかという問いが、どうしてもラカンの四つのディスクールをめぐって考えていると、浮ばざるをえないということからだ。

<彼>は大学人(インテリ)のディスクールで語っているのだろうか、それならば隠されているものは、主人であり支配・権力であるだろうとか(上の図のそれぞれの左下の部分が話し手の「真理」であり、それは抑圧されてもいるが発話の真の動因でもある)、《the paranoid subject is looking for followers and believers.》《the paranoiac who is most in need of an audience such as a group, in order to "keep his sanity,》(参照:「私はあなたを愛しています」)と語られるとき、どうもこの主張はいままでの主人のユニヴァースの四つの言説にはあたはまらないな、とかの問いだ。


たとえば、この後半のポール・ヴェルハーゲの指摘は、ナルシスティックなパラノイドパーソナリティ(自らの主張に絶対的な信認をおく主人S1)は、ヒステリー症者$を求めるということであり、上の生権力S1→$にあてはまるということになるのか、云々。

ところで、<あなた>のブログやツイッター上のディスクールは、どのタイプだろうか、ーー人はそれくらいの問いがたまには各人あってもよい。ただ情報を流しているだけ? では、《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)やら、《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ジル・ドゥ ルーズ)をどう捉えるべきか。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)


たとえばジジェクによれば、ラカンはセミネールではヒステリー症者として語っており、エクリでは分析家として語っているという。


ラカンのセミネールとエクリの関係は、治療における被分析者と分析家の関係に似ている。

セミネールでは、ラカンは被分析者としてふるまう。すなわち「自由連想し」、即興で語り、飛躍したり跳躍したりしながら、聴衆に語りかける。そのため聴衆のほうはいわば集合的な分析家の役割を負わされる。

これと比べ、彼の書いたものはひじょうに濃縮されていて、公式的である。時には託宣のような不可解で曖昧な命題を投げつけ、それに取り組んで明快な命題に翻訳し、適切な例を挙げ、その意味を論理的に証明しろ、と読者を挑発する。通常の学問的な手続きにおいては、著者が命題を公式化し、さまざまな議論によってそれを裏付けるわけだが、それとは対照的にラカンはしばしばこの仕事を読者に委ねる。いやそれだけでなく、読者は、ラカンが次々に繰り出す互いに矛盾した命題の中から、どれがラカンの本当の命題なのかを決めなくてはならず、託宣のような公式の真意を忖度しなければならない。そうして厳密な意味において、ラカンのエクリは分析家による介入のようなもので、その目的は、被分析者に既製の意見や陳述を提供することではなく、被分析者を働かせることである。(『ラカンはこう読め!』巻末「読書ガイド」より)


向井雅明氏もラカンはセミネールにおいて、ヒステリーの主体として語っているとしている(精神分析のためのグループについて)。

ラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っているのだ。

 分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。それはまた支配者という、他人に何かを命令する立場でもない。四つのディスクールにしたがって大学のディスクールを取りあげると、知を携えてそれを誰かに教え込む者としてでもないのだ。(……)

ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。

このあたりの問いが資本主義のディスクールの四つの言説を加えることで、新たな思いを馳せることができる。ちなみにBryantは、ジジェクのディスクールは資本主義のユニヴァースにおける「批評理論(家)」のディスクールとしている。


…………

補遺:上に引用されたジジェクの『斜めから見る』より。

忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。われわれはここでは、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいる。これらの用語のラカン的概念化に含まれたあらゆるパラドックスにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、そうなのである。

もちろんコミュニケーションは逆説的な円のように構造化されている。その円の中では、送り手は受け手から自分自身のメッセージを反転された真の形で受け取る。つまり、われわれが言ったことの意味を決定するのは、外部にいる<他者>である(その意味で、S1に遡及的に意味を授ける真の主人のシニフィアンはS2である)。

象徴的コミュニケーションにおいて主体間を循環するものは、もちろん究極的には欠如・不在そのものであり、その不在が、「ポジティブな」意味が生成される空間を切り開くのである。だがこれらはすべて、意味としてのコミュニケーションの領域に内在するパラドックスである。無意味のシニフィアンそのもの、「シニフィエなきシニフィアン」こそが、他のすべてのシニフィアンの意味が可能になるための前提条件である。忘れてはならないことは、われわれがここで問題にしている「無意味」は意味の領域にとって厳密に内的なものであり、それは内部からその領域を「切断する」ということである。(注)
注)……「意味としてのコミュニケーション」である。なぜなら、両者は究極的には重なり合う。循環する「対象」は意味である(無意味・意味の欠如とというネガティブな形での)、というだけではない。問題はむしろ、意味そのものはつねに間主観的であり、コミュニケーションの円環を通して構成されるということである(他者、すなわち受け手が、私が言ったことの意味を遡及的に決定するのである)。

この記事に書かれた文脈では、次の<一者>は考慮されていない。松本論文のガタリへの言及はこれにかかわるのか、とも思われるが、その論を読んでいないわたくしには、不明。

しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。このことは、ラカンの『セミネールⅩⅩ(encore)』に見出される網ひとつの予期せぬ特徴を説明するのに役立つ。その予期せぬ特徴とは、シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行である。

※四つのディスクールは、もともとフロイトの最晩年の著作におけるみっつの「不可能な職業」+愛(欲望)から導きだされていることをここで想いだしておこう。

分析治療を行うという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な職業」といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、教育することと支配することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

…………

※附記

ジジェクの比較的新しい(2012)四つの言説への言及。

S1、S2を男性の論理、$、a を女性の論理と関連付けて語っている。

“THERE IS A NON‐RELATIONSHIP” 

So, to conclude, one can propose a “unified theory” of the formulae of sexuation and the formulae of four discourses: the masculine axis consists of the master's discourse and the university discourse (university as universality and the master as its constitutive exception), and the feminine axis of the hysterical discourse and the analyst's discourse (no exception and non‐All). We then have the following series of equations:

S1 = Master = exception   S2 = University = universality

$ = Hysteria = no‐exception     a = Analyst = non‐All

We can see here how, in order to correlate the two squares, we have to turn one 90 degrees in relation to the other: with regard to the four discourses, the line that separates masculine from feminine runs horizontally; that is, it is the upper couple which is masculine and the lower one which is feminine. The hysterical subjective position allows for no exception, no x which is not‐Fx (a hysteric provokes its master, endlessly questioning him: show me your exception), while the analyst asserts the non‐All—not as the exception‐to‐All of a Master‐Signifier, but in the guise of a which stands for the gap/inconsistency. In other words, the masculine universal is positive/affirmative (all x are Fx), while the feminine universal is negative (no x which is not‐Fx)—no one should be left out; this is why the masculine universal relies on a positive exception, while the feminine universal undermines the All from within, in the guise of its inconsistency. This theory nonetheless leaves some questions unanswered. First, do the two versions of the universal (universality with exception; non‐All with no exception) cover the entire span of possibilities? Is it not that the very logic of “singular universality,” of the symptomatic “part of no‐part” which stands directly for universality, fits neither of the two versions? Second, and linked to the first, Lacan struggled for years with the passage from “there is no (sexual) relationship” to “there is a non‐relationship”: he was repeatedly trying “to give body to the difference, to isolate the non‐relationship as an indispensable ingredient of the constitution of the subject.”……(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説

このジジェクの見解は、向井雅明氏のかなりまえの論文(1995)だが、ヒステリーを男性の論理とする見解と相反する。

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル