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2014年9月2日火曜日

「異物」としての原光景

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)

原光景(原幻想)といえば、このように狼男の症例がまっさきに参照される。


【狼男とラスキンの公式】

男性にとっては、女性との関係は、女性が彼の公式にフィットする限りでしか可能にならない。フロイトの患者として有名な狼男の公式は、「後ろからみて、手と膝をついて、地上にある、彼女の前にあるものを何かを洗うか、きれいにする」であると考えられる。女性がそのポジションにいるところを見れば、自動的に愛が発生するのだ。ジョン・ラスキンの 公式はギリシアとローマの塑像モデルにならったものである。結婚初夜の最中に、ラスキンが塑像に陰毛がないことを見たときに、この公式は悲喜劇的な落胆に 導かれた。この発見はラスキンを完全に不能にしてしまった。それ以来、ラスキンは妻をモンスターだと考えるようになった。(ジジェク『欲望:欲動=真理:知』より)

わたくしにも「原光景」らしきものが、--性的色調はやや希薄ではあるがーー二つほどある。そのうちの一つは、ここでの文脈における原光景=幼児型記憶とは言いがたいのかもしれない。というのはたぶん幼稚園集団登園の初日の記憶であり、幼児型記憶の分水嶺は通常、三歳前後以前とされ、このときは三歳を過ぎている(三歳三ヶ月)。

…………

田んぼの真ん中の一本道。周りに他の幼児たちの集まりがある。(集団登園だというのは後ほどの言語命題)。遠くに鎮守の森がみえる。遠い…。


幼児たちは、たすきがけ(ななめ掛け)にしてハンカチをぶら下げている。他の幼児はすべて白いハンカチなのに、私のものは柄ものであるのに気づいて泣き出している。母が駆けつけてくる、その上気した困惑の表情。




これとはすこし異なるが、ーー鎮守の森はずっと遠くにみえ、道はおそらく舗装はされていなかったにしろ、草が生えていたわけではないーーたとえば次の画像でもやはりやや異なる。殊に空のすがすがしい感じはまったくあの光景とは異なる。







二歳半から三歳半のあいだにさまざまな点で大きな飛躍があるとされている。フロイトのいうエディプス・コンプレックスの時期である。これは、対象関係論者によって「三者関係」を理解できる能力が顕在化する時期であると一般化された(注:バリント『治療論からみた退行』)。それ以前は二者関係しか理解できないというのである。これは、ラカンのいう「父の名」のお出ましになる時期ということにもなるだろう。それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしいが、ラカンの理論については自信のあることはいえない。

(……)この大きな変化期において、もっとも重要なのは、そのころから記憶が現在までの連続感覚を獲得することではなかろうか。なぜか、私たちは、その後も実に多くのことを忘れているのに、現在まで記憶が連続しているという実感を抱いている。いわば三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象である。歴史と同じく多くの記憶が失われていて連続感は虚妄ともいいうるのに、確実に連続感覚が存在するのはどこから来るのであろうか。それは、ほとんど問題にされていないが、記憶にかんして基本的に重要な問題ではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P44-46)




ーーこれは立ち去って行く自転車の女が含まれる画像であり、わたくしの「原光景」は母を残して鎮守の森に向うのだからやや異なるが、この「原光景」が遡及的に外傷化されたのは、この画像のイメージに大きく関わる。こういったことはあまり書きたくないが、「遠い道」という記事の後半に、いくらか仄めかしてある。

狼男の原光景、「後ろからみて、手と膝をついて、地上にある、彼女の前にあるものを何かを洗うか、きれいにする」、女性がそのポジションにいるところを見れば、自動的に愛が発生する、--とまではいかないにしろ、わたくしにとってかなり危ない女の後姿だ。

鎮守の森でなくてもよい。一本道の先に、たとえば「海」があってもよい。両方とも、母胎であり女性器である。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)



と書けば、かなりウソくさくなる。鎮守の森や海でなくても、穴だったらいいのだから。





要するに、このたぐいの画像を眺めて、いまでもドキッとするのは、わたくしの最初期の記憶にかかわるには違いない。

わたくしの「原光景」では、女たちが振り向いてくれないのが残念だが。

《柿の木の杖をつき
坂を上っていく
女の旅人突然後を向き
なめらかな舌を出した正午》(西脇順三郎)

もう一つの記憶は、これは明らかに三歳以前の記憶で、ひどくぼんやりはしており、ほとんど映像とはいい難くむしろ声に包まれた安堵の感覚。ただし右側の窓から光が射し込んでいる。薄暗いつやけしの光のなかで、若い母の穏やかな低く囁くような歌声。歌は、「かあさんが夜なべをして」だ。――かあさんが 夜なべをして 手袋 編んでくれた 木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて せっせと編んだだよ ふるさとの 便りは届く 囲炉裏の 匂いがした」。母の歌で思い出すのは、もうひとつあるが、これはもうすこし後年になってからだ、――ロシア民謡の「赤いサラファン」。

これは適当な画像がないが、木漏れ日や樹々の間に差し込む光をひどく愛するのは、そのせいかもしれない。




ーーもっとも樹間から斜めから光の束や、曇天の空から束の間幾筋もの光が差し込む光景は、多くのひとが愛するものなのだろう。もちろん、窓から漏れ入る光でもよいのだ。

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
  手にてなす なにごともなし(中原中也)


とすれば、最初期の幼児型記憶は、わたくしの音楽の趣味にいっそう大きくかかわるといったほうがよいのかもしれない。あの、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のような感覚。

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

 フォーレOP.121のアンダンテへの愛は、幼児型記憶に関係する、とまで言ってしまえば、これもこじつけになる(要するに、原光景は、本来言語化できない記憶なのだから、言葉に表して説明しようとしても、画像を示しても、すべてウソくさい)。

むしろ、上の画像の樹間の斜めから来る光の感覚は、マタイ受難曲の「真に彼こそは神の子だった」と重なり合う。





さて、なんの話だったか。

スタンダールのような、より性的な原光景がなくて残念だ……。

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。
急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』

実は、中井久夫の「原光景」をめぐって書こうとしたのだが、寄り道が長くなったので、またの機会にし、いまはそのさわりのみとする。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 53頁)

ここに鉤括弧つきで「異物」と出てくるのは、フロイトの“Fremdkörper”のことだろう。『ヒステリー研究』1895に頻出し、この語は、トラウマに関連して使用されている。中井久夫の幼児型記憶論は、原光景という語はたしか出てこなかったはずだが、フロイトの「原光景」概念をより拡がりをもって再構成する試みだともいえるのではないか。

たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるが、これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976


シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。それは言葉で言いあらせないトラウマのことでもある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")


…………

以下、原光景をめぐる資料。

◆向井雅明「精神分析とトラウマ」

1885年(1895?)頃にはフロイトは次のような要素で構成される、最初のヒステリー理論を完成する。

1-ヒステリーは父親もしくは近親者の性的誘惑によるトラウマにがもとになって引きおこされる。

2-トラウマは常に性的な性格を持っている。

3-トラウマは遡及的に作用する。

S1―>S2->S1

エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。

4-抑圧理論。トラウマの記憶は不快を呼び起こすので、快感原則によって支配されている他の記憶とは隔離され抑圧される。

これがneuroticaと呼ばれるフロイトの最初のヒステリー論の中核を構成する考えです。
しかしそれから少し経って、フロイトはこの理論を捨てることになります。

1987年(1897年:引用者)9月21日付けのフリースへの手紙の中で、フロイトは、この理論を否定する理由を説明しています。

フロイトがneuroticaを捨てた理由

1-トラウマを追求することの患者側からの拒否。分析が続けられない。
2-父親の倒錯的行為がそれほど多いとは考えにくい。
3-無意識では実際に起こったこととファンタスムの区別がつけられない。
4-精神病においては外傷の無意識的記憶を明らかにできない。

父親または近親者による性的誘惑によって生じた心的外傷がヒステリーの原因になるという理論をフロイトはここで捨てたわけです。そして、その代わりにくるのは幻想の理論です。外傷体験だと見なされていたものは実はファンタスムだという考えです。幼い子どもは父親のような人にたいして愛されたいと、かわいがってほしいという願望を抱く、だがこれは近親相姦的な願望であるので抑圧され、逆転されて誘惑されたというファンタスムになるのである。

したがって、トラウマはファンタスム、つまりフィクションだということになります。

ところがここでまた問題がひとつ生じます。トラウマがたんなるフィクションであるというなら、トラウマがどうしてつよい不安や様々な深刻な症状を生みだすのか理解することが困難となるでしょう。単なるフィクションであるなら、その苦しみから逃れるのには別のフィクションで対抗させればよいだけですから。それが主体を現実に苦しめるのはやはりそこにはフィクションを超えた何かの現実界との繋がりを考えることが必要となります。

フロイトはここでファンタスムを持ち出していますが、ファンタスムを単純にフィクションであると決めつける必要はありません。たとえファンタスムであろうと、何もないところからそれが生まれるわけではありません。ファンタスムにはファンタスムを構成する素材が必要なのです。では、そうした素材はどこから来るのでしょうか。それはやはり主体が出会った実際の出来事です。

したがって、よく言われる、フロイトはヒステリーの原因は外傷であるという考えを廃棄したという説は正しくありません。それまでの理論が

- 現実界に繋がるトラウマ→症状

という図式であったのにたいして、ここでは

-現実界との遭遇→ファンタスム(トラウマ)→症状

という図式となるので。また神経症の原因としての性という要素はここでもずっと保持されています。したがって、ここにおける神経症についての理論は、誘惑理論に比してより現実的であり、かつより精緻な理論的把握を許すものとなっているのです。

neurotica以後の理論化において外傷的経験の重要さをよく示しているテクストは狼男の症例です。

フロイトは患者の神経症の背後には何らかの現実的な出来事との遭遇があったはずだという考えで、執拗に、そしてまた強引とまで感じられる手法をもって狼男の分析を推し進めました。その結果、分析の場で患者が提供する様々な素材から、患者は両親の性行為のシーン(原光景)を目撃したと結論するのであった。それもかなり具体的に、患者が一歳半のとき、ある日の夏の夕方五時に、両親は子どもの前で後背位による性交を行ったと断定するのです。そしてこれば患者の以後の人生にとって決定的な出来事となったと考えました。

フロイトがこれほどまでに強く原光景の実在性に執着したのは、トラウマを引き起こすのが単なるフィクションであるならば、トラウマがそれほどまでに強力な影響を及ぼすとは考えにくいからでした。そしてそれに関連して、ユングとの理論的な確執もありました。ユングにとって、無意識には元型というものが備わっており、原光景はそれを元に空想されるということになるでしょう。したがってユングにとっては現実的なとの出会いは必要ないのです。それにたいしてフロイトはあくまで原光景の体験の先行性を認めて、現実界との接触を保持しようとしたのだ。ユングはすべて観念の次元でかたづけようとするのに対して、フロイトは唯物論的に考えようとするのです。

オオカミ男の症例ではフロイトは分析を通して原光景を構築したのであって、直接トラウマとして得られたものではなかったという点に注目すべきです。



             (Bernardo Bertolucci  «Novecento»)


◆『光をめぐって』(1991)より(ベルトルッチインタヴューは、1982.10帝国ホテルにて)

蓮實重彦)……ある一つの事実に気がつきました。それは、あなたの映画では、人は決してベッドで寝られないという事実です。まるで、ベッドから追いはらわれるように、公園とか庭先の椅子といったところで熟睡するのです。

ベルトルッチ)ああ、そうだろうか。

―――ええ、もちろん、あなたの映画にベッドはたくさん出てきます。でも、そこでは誰も熟睡できず、むしろ不安な表情で目覚めている。『革命前夜』の美しい叔母は、一晩、ベッドの上で眠れぬ夜を過し、『暗殺の森』のコンフォルミストも、冒頭から正装のままベッドに横たわり目覚めていた。彼らは、ベッドの上で眠れないだけではなく、そこで愛戯にふけることもできない。『ラストタンゴ・イン・パリ』でも『1900年』でも、男女は、床の上や藁の中といったところで交わり、もっぱらベッドを避けているようです。後者でのロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューとは、女に誘われてその部屋に行き、着ているものを脱ぎすてさえするのですが、ベッドに裸身を横たえる女が突然引きつけを起してしまうのでそのまま何もできない。ベッドに横たわる唯一の人間は、『ラストタンゴ』のマーロン・ブランドの死んだ妻ばかりです。こうしてみると、あなたの映画ではベッドが不吉な場所ということになるのですが……。

ベルトルッチ)なるほど、おっしゃる通りです。そう、こういうことがいえるかもしれません。私の父の小説に『寝室』というのがあります。イタリア語では文字通りベッドのある部屋となりますが、その小説は私や兄弟たちの少年時代は、家庭では『ベッドルーム』と英語で呼ばれていました。父が、とりすましたふりをしてそう呼んでいたのです。もちろん、子供たちにはベッドルームという音の響きが何を意味しているかはわからなかった。十五、六歳になって英語を習ってから、はじめてこの小説の題の意味が理解できたのです。

もし私の映画にそうしたイメージが恒常的に現れるとすれば……。

―――もっと多くの例も引けますよ(笑)。

ベルトルッチ)……それはまぎれもなく、タブーを意味しています。フロイトのいう原光景という奴です。つまり、そこで両親がセックスをする場所であったわけで、この原光景は、それを見る必要はない、想像されるだけでよいのだとフロイトはいっています。しかし、そんなことは、こうした場面を撮るときは考えてもいなかった。

―――意図的な表現ではなかったわけですね。

ベルトルッチ)いや、自分ではあなたに指摘されるまで考えてもいなかったことです。私は、撮影にあたっては、理性的、合理的ではありません。私はちょっと音楽を演奏するように撮るのです。したがって理性に導かれてというよりは、情動に従って映画を作ります。ですからそうした問題を模索するといったことはしません。たしかピカソが、「私は探すのではない、発見するのだ」といいましたが、まあ、それに近い状態です。

しかし、こうした統一性を誰か他人が発見してくれるのは、何とも不思議な気がします。なるほどおっしゃる通り、ベッドはずいぶん出て来ますね(笑)。で、『革命前夜』では、二人はベッドの上にいるが、女が写真をベッドの上に置いてみたりして遊んでいて、実際に二人が抱き合うのは別の場所です。そう、こうした映画は、自分が成熟した大人とは思っていない人間たちを描いているわけだから、ベッドで抱擁することができない。ベッドで愛戯をするのは、大人になっていなければいけないのです。デ・ニーロはドミニク・サンダと農家の麦藁の中で寝るし、ドパルデューは人民の家で、ステファニア・サンドレッリと抱き合う。レーニンの肖像の前で。……


2014年8月30日土曜日

絶対的他者への神託の要請にたいする拒否としての「沈黙」

Redmond“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis”

In Lacanian psychoanalysis psychosis continues to be an important focal point for new theoretical developments driven by clinical experience. Two important new developments have emerged over the past decade that provide contrasting approaches to Lacan's oeuvre and the theorization of psychosis. Paul Verhaeghe, in On being normal and other disorders:a manual for clinical psychodiagnosticsprovides a fascinating approach to psychosis through his synthesis of Lacanian psychoanalysis with Freud's theory of actual neurosis and psychoanalytic attachment theory research. His theory of psychosis is important as it addresses forms of psychosis “without symptoms.” That is, he engages with aspects of psychosis not easily contained by contemporary psychiatric nosology such as, psychosis without delusions and hallucinations, untriggered psychosis and body disturbances such as hypochondriasis. Moreover, he provides a specific treatment rationale for cases of psychotic disturbances that fall roughly into the schizophrenic spectrum. In contrast, Jacques-Alain Miller's engagement with the “later Lacan” informs his theoretical approach to the emerging field referred to as “ordinary psychosis.” The term ordinary psychosis provides an epistemic category—as opposed to a new nosological entity—for clinicians to address a series of theoretical problems linked to decompensation and stabilization often encountered in the treatment of psychosis (Miller, 2009; Grigg, 2011).

※ヴェルハーゲの「Actual-pathology 」理論についてのいくらかは、<フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」>を参照。


…………

以下、<男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」>などにて、コレット・ソレールを引用したときにつけ加えようと思ったのだが、失念。ここに単純なメモとして記載する。


◆向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」(『imago (イマーゴ)』 Vol.7-8,1996,pp.218-237)よりのメモ。


ーーかなり前の論文であり、その後の動きーーたとえば上に書かれるようなミレールの「ふつうの精神病」概念等々の動きーーは考慮されていないにもかかわらず、この時点ですでに「サントームの治療」の要点が、このようにまとめられているのがすばらしい。

精神病を扱うにおいて、大きく考えて、次の四つの要素を手掛かりにして治療を進めることができるのではないだろうか。

――他者のイメージによるイマジネールな支え。ラカンはこの「松葉杖」は主体と大文字の他者との関係がずれていても機能すると言っている。

――狂者の秘書として、精神病者の言うことを中立の立場で聞き取ること。

――治療への努力である妄想の構築。

――サントーム、父の名の代理の症状の構成。

精神病の治療はこれら四つの要素の組み合わせにかかっていると思われる。これらの要素がお互いにどのように関係しているかはこれからの課題として研究していくことが必要であろう。ここでひとつ、実際の症例を見てみよう。これはコレット・ソレールの症例である。

患者は女性で 12 年来ソレールのもとで分析治療を続けている。最初の発症は彼女のただ一人の男友達との離別がきっかけとなっておこった。そのときから彼女はソレールのところにやって来て助けを求めたのだった。治療の開始と共にまず、彼女はソレールにこう言う「質問を出しますけれど、先生のおっしゃる答えはすべて正しいものと見なします。 」 患者は精神病の発症により父の名の排除によるサンボリックの底無しの穴の縁に立たされているのである。彼女の質問は、この穴を塞いでくれるものを分析家に要求することであって、これはそのような返答をもたらすことのできる絶対的な他者への呼び掛けなのである。

これにたいしてソレールは沈黙したまま答えない。それに応えることは危険である。なぜなら、質問に返答することは分析者を絶対的他者の場に置き、それは間違いなく致命的なエロトマニーに結びつくであろう、とソレールは言う。

この患者にたいする治療は三つの軸を中心に進められた。

1-沈黙。この沈黙は、患者から絶対的他者への神託の要請にたいする拒否であるとともに、妄想の構築のための場を残すという機能を果たすものであった。そしてまた、分析家に、患者の言うことを中立な立場で受け入れる証人としての他者の役割をも与えているのである。

2-二番目の処置は二つの要素から構成されるもので、その一つは、患者の父の名の排除による掟、禁止の欠如を補うために分析家の側から拒否を出すことであった。 患者はある男から首を締められようとする、ひとつのジュイッサンスの誘惑に乗ろうとしていた。それにたいして「そうしてはいけない」と言うことで、外部からジュイッサンスを禁止したのである。これはネガティブな介入である。もうひとつは、患者が芸術的な才能の可能性を示したことから、創作の道に進むことを奨励するという、昇華、そして父の名の代理の道に繋がる、ポジティブな介入である。

3-患者の仕事にたいする拒否を認め、年金を受けることをすすめると同時に、彼女にとって仕事をして生活を稼ぐことは(ソレールの言葉によると)一つの“乱用”であるということをはっきりと示してやることであった。実際に、仕事をすることは彼女の生活史のなかで犠牲的行為に結び付いており、それを断ち切るためにこのような介入に踏み切ったのであった。これは微妙で、難しい介入であったが、ソレールは思い切ってこれを行ったのであった。これは決定的な効果を表わし、これ以後患者は分析家を絶対的な他者の場に呼び出そうとすることはなくなり、妄想の構築が始まったのであった。それと同時に患者の状態も良好となった。

この患者は 12 年間ソレールに治療を受けつづけ、いつ治療が終了するかもまだわからないし、安定状態もまだ完全なものではないのであるが、 精神病患者を分析家が治療にあたり、 精神病の一応の安定を得、妄想の構築、もしくは芸術による代理の機能の追及を進めることができるということを証明する貴重なひとつの例である。この症例は、精神分析の方法が、もちろん神経症と同じように適用することはできないであろうが、精神病にも有効であることを教えてくれるのであろう




2014年8月23日土曜日

〈私〉という主人のシニフィアンの遡及性

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』ーードゥルーズ『ニーチェ』湯浅 博雄訳より)


〈私〉というのは主体性の実体的核のフェテッシュ化された錯覚にすぎない。実際は、そこにはなにもない。

《the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.》(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")


ーーとしても、一人称単数代名詞を使うな、とはオレは言わないよ。オレ、アタシ、ボク等々でいいさ。ただしそれは想像的なものであることを、たまには(痛みや羞恥をともなって)振り返ることさえすれば。



「私は嘘をつく」、こう言えばそれは真実でありながら、私は確かにうそをつく。なぜなら「私は嘘をつく」と言いながら、逆を主張するのであるから。…「私は思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら…「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に言う「私は思う」以外の何でもない。(ラカン『同一化セミネール』)


…………

あなたは、すくなくとも最低限の言語構造をもつためには二つのシニフィアンが必要である。だからわれわれは、すでに二つのタームを持っている、すなわちS1とS2である。S1とは、最初のシニフィアン、フロイトの“境界シニフィアンborder signifier”、“原シンボルprimary symbol”、いや“原症状primary symptom”とさえいえるが、それは特別の地位をしめる。それは主人のシニフィアンなのであり、欠如を埋めようとする。その欠如を覆い隠す過程の保証としてのふりposeをする(みせかける)。最も良い、簡略な例であるならば、シニフィアン“私”である。それは己れのアイデンティティのイリュージョンを抱かせてくれる。S2は残りシニフィアン、シニフィアンのネットワークの連鎖の分母である。その意味で、また“le savoir”の分母、知識の連鎖を包含する知識である。

You need at least two signifiers in order to have a minimal linguistic structure, so we have already two terms: the S1 and S2 . The S1 , being the first signifier, the Freudian “border signifier”, “primary symbol”, even “primary symptom” has a special status. It is the master-signifier, trying to fill up the lack, posing as the guarantee for the process of covering up that lack. The best and shortest example is the signifier “I” which gives us the illusion of an identity of our own. The S2 is the denominator for the rest of the signifiers, the chain or network of signifiers. In that sense, it is also the denominator of “le savoir”, the knowledge which is contained in that chain.(Paul Verhaeghe『 FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)

というわけだな、主人のシニフィアン”あたし”は。あたしは述語によって決定されるのであり、あるいは話の受け手によって決定されるのだよな。

フロイトにおけるトラウマの考えにあるトラウマの事後性ということについては、ラカンはシニフィアンの遡及性、つまり最初のシニフィアンS1 は次に来るシニフィアンS2によって意味的に決定されるという構造、すなわち主語は述語によって遡及的に決定されるということ、によって大変エレガントに説明しています。(向井雅明「精神分析とトラウマ」ーー心的外傷後ストレス障害PTSD/フロイトのトラウマ

というわけで、やっぱりマルクスはエライ。

・ 個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

・ひとびとはある人を王として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)

ーーひとびとはある人を〈私〉として取り扱うのは、彼が〈私〉だからではない。人々が彼を〈私〉として取り扱うから、彼は〈私〉なのだ。


もちろん至高の主人のシニフィアンは、ラカン派においてはファルスである。「ファルス」とは欠如のシニフィアンであり、本来、定義されえない。


the phallus is a “signifier without a signified”—the “minus 1,”

Some decades ago, Lacan invited ridicule when he stated that the meaning of the phallus is “the square of ‐1”—but Kant had already compared the Thing‐in‐itself as ens rationis to a “square root of a negative number.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


あるいは、ファルスとは自然が与えてくれたシニフィアンである。"c'est un signifiant donné par la nature" 象徴界の審級におけるシニフィアンとして、ファルスは完全な空無である。

the phallus is a signifier given by nature, "c'est un signifiant donné par la nature". As a signifier in the register of the Symbolic, the phallus is perfectly empty.(Paul Verhaeghe『NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』)


 まあ、そうはいってもわれわれ凡庸人は、ファルスは「おちんちん」とイメージしちゃうんだよな。

ワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。(鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス

という具合の理解でいいんじゃないか、「おちんちん」という誤解を避けるためには、--オレ程度の凡庸な連中はだがね。そして想像的ファルスの欠如や現実界的ファルスの喪失が、遡及的なものであることさえ、分かっていれば。《原初とは最初のことじゃないんだよ》(ラカン)。

ラカンによれば、リビドーの各段階は、自然な発展とは何の関係もない。それらは後の去勢不安から始まって遡及的に組織される。この不安は遡及性Nachträglichkeitによって作動する。

According to Lacan, libidinal stages have nothing whatsoever to do with a natural development; they are retroactively organised starting from the later castration anxiety. This anxiety operates by means of Nachträglichkeit (retroactivity).19
注19セミネールⅩⅠより。母と遡及性の影響についてのラカンの考え方は、すでにセミネールⅣに見れらる。"il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé à l'étappe précédente. Ceci, pour la simple raison que l'enfant n'est pas seul” (Le Séminaire, livre IV)

これは、おそらく遡及性Nachträglichkeit概念の最も重要な応用だろう。シニフィアンとしてのファルスはあまりにも中心的なので、それは、遡及的、かつ率先的に、あらゆる(身体の)喪失の形を、ファリックな解釈にて決定づける。(……)フロイトと対照的に、ラカンは欠如を二重化する。一方に、現実界的な対象aの喪失があり、他方に、二次的な欠如を通して、象徴界と想像界(ファルス化された"phallicized"対象a)と結びついて作用する欠如がる。……
19 Seminar 11, p. 64; (Le Séminaire, livre XI, p. 62). Lacan's ideas about the impact of the mother and retroactivity can already be found in Seminar IV: "il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé à l'étappe précédente. Ceci, pour la simple raison que l'enfant n'est pas seul” (Le Séminaire, livre IV, p. 199, see also Ibid., p. 41ff; my translation: "It always comes down to understand what, intervening from the outside during each stage, reworks in a retroactive way that which had been started at a previous level. This, for the sole reason that the child is not on its own"). This is probably the most important application of the concept of Nachträglichkeit: the phallus as a signifier is so central that it determines retro- and pro-actively the phallic interpretation of all forms of (bodily) loss. This is the core of the discussion Lacan had with Dolto at the time of Seminar 11, (p.64, pp.103-104, p.180; Le Séminaire, livre XI, p. 62, pp. 95-96, p. 164). The same line of thought can be read in Freud (A Phobia in a Five-Year-Old Boy. S.E.X., p. 8, n. 2). In contrast to Freud, Lacan redoubles the lack: on the one hand, there is a loss of a real object a, which, on the other hand, will be processed in the combined symbolic and imaginary ("phallicized" object a) through a second lack. As we will see, the interaction between the two lacks is crucial.(Paul Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. In: Verhaeghe, P. Beyond Gender. From Subject to Drive)



ラカンは、‘master signifiers(主人のシニフィアン)をpoints de capiton(クッションの綴じ目)と呼んだ。どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。”なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。このempty(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》。


ーーというわけで、せいぜい一人称単数代名詞を「はずかしげもなく」使ったらよろしい。


「というわけで」というのを何度も使ったが、というわけで、オレもたいしたことがわかっているわけじゃないぜ、というわけだ。

遡及性といっても、おそらくだれにでも原光景=原幻想というものはあるわけでね。それがトラウマ化されるのが、遡及的だということなんだがーー象徴界の行き詰まりに遭遇して遡及的に外傷化されるーー、ほんとにそれだけなんだろうか? 外部からくるトラウマはここでの議論には含まれないのだが、内的な原トラウマというものは、遡及的なものだけなんだろうか? ワカランネ


ドゥルーズの反復も、フロイトの遡及性概念の流れなんだろうな、おそらく。


反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

プルースト=ドゥルーズの「純粋過去」概念だってそうだ。

紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)


《かつて現在であったためしがない純粋過去》、すなわち、

たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である<私>は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)


2014年8月19日火曜日

二つの主体(二つの無意識)をめぐる

「無意識」 l'inconscient という用語も,存在の真理の現象学的構造,つまり症状の構造a/ φ barré における a のことである場合とφ barré のことである場合とがあり,Lacan を読むときにはその都度,どちらを指しているのか注意深く識別しなくてはなりません.(小笠原晋也氏ツイート)

…………

ラカンの主体とは、無意識の主体のことである。

たとえば、今でも英語版のWikipediaではその定義が多いに活用されているDylan Evansの『An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis』1996にはこうある。
Lacan's ‘subject' is the subject of the unconscious.

さて冒頭に引用されたように無意識が二種類あるのであれば、主体も二種類あることになる。

無意識が二種類あることについては、なにも小笠原氏独自の見解ではない。

それは「後期抑圧による無意識」と「原抑圧による無意識」とされたり、「象徴界による無意識」と「現実界による無意識」とされたりもするだろう。

比較的初期のフロイトの著作「症例ドラ」からもそれは明らかに読み取れる(参照:症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)


…………

以下、二つの主体をめぐるブルース・フィンクの見解を掲げるが、そこでは表象と情動の対比がなされつつ叙されているので、まずは「情動」の簡潔な定義を先に挙げておく。

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされること(立木康介)--フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」


◆『READING SEMINAR XX  Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexualityより「Knowledge and JouissanceBruce Fink)の冒頭近くの箇所の私訳(かなりあやしい箇所があるので、英原文を必ず参照のこと)。

ラカンは、フロイトの表象と情動の間の基本的な区別を、言語とリビドーの間の区別、あるいはシニフィアンと享楽の間の区別に翻訳した。ラカンの主体の議論のすべては、――誰が、何が、精神分析において主体なのかーーはこの基本的区別あるいは分裂disjunctionにかかわる。フロイトは、すでに表象と情動が位置する場所との取っ組み合いをしていた。彼は、種々に重なる心的地形学を持ち出した。自我に表象をあてがい、イドに情動をあてがう。イドの眼目とされる欲動を通して吐き出される情動である。

Lacan translates Freud's fundamental distinction between representation and affect as the distinction between language and libido, between signifier and jouissance, and his whole discussion of the subject—of who or what the subject is in psychoanalysis—has to do with this fundamental distinction or disjunction. Freud had already grappled with where to locate representation and affect. He came up with various overlapping topographies of the mind, assigning representation to the ego and affect to the id, affect being discharged through the drives said to be part and parcel of the id.
ここでは超自我はあまりフィットしない。しかしながら、表象の用途を与えられてはいるーー命令、批評、等々――。それは、超自我が自我を叱りつけるとき、超自我はややひどく羽目を外すというふうな厳格なモラルの色調と綯い交ぜになっている。心の構造を分割するフロイトの初期の試みは、情動はまったく描かれていないままである。意識―前意識―無意識の地政学が示すのは、表象がどの三つの水準にも見出されることだ。しかし情動はどうなったのか? フロイトはここでは矛盾に導かれている。私は提案してみようと思う、情動は無意識であり得ると。フロイトのほとんどの理論的仕事は、ただ表象のみが無意識であるとことを叙する方向に向かっているのではあるが。

The superego did not quite fit, however, given its use of representations—imperatives, critiques, and so on— combined with a stern moral tone suggesting that the superego has a little too much fun when it berates the ego. Freud's earlier attempt to divide up the mind had left affect out of the picture altogether: the conscious-preconscious-unconscious topography suggests that representations can be found at all three levels, but what of affect? Freud is led here, inconsistently, I would argue, to suggest that affects can be unconscious, whereas most of his theoretical work goes in the direction of saying that only a representation can be unconscious.2
われわれは言うことができる、ラカンは表象/情動の対立をフロイトよりもよりいっそうはっきりと分極化した、と。もっとも彼の仕事でつねにそれ自体として示されているわけではない。ラカンが主体について話しているとき、――ここで、ジャック=アラン・ミレールのセミネール“Donc” (1993–1994)に従うがーー実際には、ラカンの仕事には、二つの主体がある。すなわちシニフィアンの主体と享楽の主体である。あるいは少なくとも主体の二つの顔がある。シニフィアンの主体とは、レヴィ=ストロースの主体とも呼ぶことができるだろう。そこでの主体は、知識、あるいは知識に基づいた行動を包含しているのだが、彼はそうしているどんな考えももっていない。

We might say that Lacan polarizes the representation/affect opposition more explicitly than Freud, though it is not always indicated as such in his work. While Lacan talks about the subject, we might say—following Jacques-Alain Miller's articulation in his seminar “Donc” (1993–1994)—that there are actually two subjects in Lacan's work: the subject of the signifier and the subject of jouissance.3 Or at least two faces of the subject. The subject of the signifier is what might be called the “Lévi-Straussian subject,” in that this subject contains knowledge or acts on knowledge without having any idea that he is doing so.
あなたは彼に訊ねる、彼が自分の村のある場所に小屋を建てる理由を。そして彼の答えは彼の世界を構造化し、効果的に彼の村を秩序化している基本的な対立に一見何も関係がないようにみえる。別の言い方をすれば、「レヴィ=ストロースの主体」は彼が知らず、気づいていない知識を基に、生きかつ行動している。ある意味で、それが彼を生かしている。それは彼のなかに見出される、彼は意識的に気づいるものに頼ることをしないでいる。これは催眠状態を通して発見されるのと同じ種類の知識である。そして、結局、ふつうの用語の意味での、主体をまったく必要としない。それは、ラカンが『主体の壊乱と欲望の弁証法(フロイトの無意識における)』(Subversion du sujet et dialectique du desir dans l'inconscient freudien1960)にて、the subject of the combinatoryと呼んだものである。人の言語、家族、社会によって提供される対立の組み合わせがあり、それが組み合わせの機能である(Écrits, 806).

You ask him why he built a hut in his village in such and such a place, and the answer he gives seems to have nothing to do with the fundamental oppositions that structure his world and effectively order his village's layout. In other words, the “Lévi-Straussian subject” lives and acts on the basis of a knowledge he does not know, of which he is unaware. It lives him, in a sense.It is found in him without our having to rely on what he is consciously aware of. This is the same kind of knowledge discovered via hypnosis, and in the end it seems not to require a subject at all, in the usual sense of the term. It is what Lacan, in Subversion of the Subject and Dialectic of Desire (1960), calls the subject of the combinatory: there is a combinatory of oppositions provided by the person's language, family, and society, and that combinatory functions (Écrits, 806).4
『科学と真理』(1965)にて、ラカンはこの主体を「科学の主体」としている。科学によって研究されうる主体、そして逆説的にこう主張する、《精神分析が働きかける主体は、ただ科学の主体だけである》と。組み合わせの主体、言語の純粋な主体。(……)この主張はいささか率直ではない。というのは精神分析はそのれ求める効果を獲得するために言語――媒体のみとしての言語――にだけに頼るのは本当だが、それにもかかわらず情動への、情動、リビドー、あるいは享楽としての主体への影響を求めるのだから。

In “Science and Truth” (1965), Lacan refers to this subject as the “subject of science” (ibid., 862), the subject that can be studied by science, and claims, paradoxically, that “the subject upon which we operate in psychoanalysis can only be the subject of science” (ibid., 858): the pure subject of the combinatory, the pure subject of language. (……)This claim is a bit disingenuous, for while it is true that psychoanalysis relies only on language to achieve the effects it seeks—language being its only medium—it nevertheless seeks to have an effect on affect, on the subject as affect, libido, or jouissance.
ラカンの仕事を読んでいて遭遇する厄介さのひとつは、どんな時でも彼はどの主体について語っているのか、滅多に具体的に述べないことだ。ひとつの意味から別の意味へと密かに滑りゆくその趣向。私は提案してみよう、『科学と真理』にて、ラカンが“対象object”について語るとき、彼は情動の主体のことを言っている、と。他方、彼が“主体subject”について語っているとき、彼は構造としての主体、組み合わせの純粋な主体のことを言っている、と。こんなふうに、ここでの手始めとして、私はシニフィアンの主体と欲動の主体(あるいは享楽としての主体)を区別したい。いま指摘すべき最初のことは、一番目の主体は二番目のものよりとても取扱いやすいことだ。二番目のものはn'est pas commode、処理するのに容易ではない。これが、多くのポストフロイトの分析家たちに、われわれがJ要因、すなわち享楽jouissance要因と呼ぶものを取り扱う他の方法を探し求めさせている、

One of the difficulties one encounters in reading Lacan's work is that he rarely specifies which subject he's talking about at any one time, preferring to slip surreptitiously from one meaning to the other. I would suggest that, in “Science and Truth,” when Lacan talks about the “object,” he is referring to the subject as affect, whereas when he talks about the “subject,” he means the subject as structure, as the pure subject of the combinatory.Thus at the outset here I want to distinguish between the subject of the signifier and the subject of the drives (or the subject as jouissance). The first thing to be noted is that it is much easier to deal with the first than with the second.The second n'est pas commode, is not easy to get a handle on. This led many post–Freudian analysts to look for other ways of dealing with what we might call the J-factor, the jouissance factor.
現代の心理学への認知行動的接近法は、たぶん二番目の主体に対立したものとしての最初の主体のみに注意を限定していると理解できる。実に、多くの認知行動心理学者は、直感的にさえ理解していないように見える、彼らは何かを欠かしているということさえも。すべては理性的に想定され、彼らのシステムにおけるなにか別のものは必要がない、そしてたしかにそれを考慮する余地がないようである。彼らは探し出して “匡す”、あるいは“非合理的な信念”を打ち砕く。私は彼らがすべてそうだとは言わない。だが私の経験では、それが認知行動療法者の多くの真実である。

Contemporary cognitive-behavioral approaches to psychology can probably be understood as restricting their attention to the first as opposed to the second and, indeed, many cognitive-behavioral psychologists seem not to comprehend even intuitively that they are missing something: everything is supposed to be rational, there being no need for, and certainly no room for, anything else in their system.They seek out and “correct” or destroy “irrational beliefs.” I am not saying this is true of all of them, but in my experience it is true of many cognitive-behavioral therapies.

途中、レヴィ=ストロースの主体をめぐっての叙述があるが、これはおそらく『構造人類学』の叙述にかかわる。

田中純氏が次のようにまとめている文を抜き出しておこう(ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純)。


レヴィ=ストロースは、ある種族の成員が描き出した村落の空間構造に二つのまったく異なる類型が存在することに注目している。いずれも村全体を円で表わしているが、そのうちの一つは北西から南東に向かう直線で二分されることによって、二つの半族が分割されて配置された図であった。しかし、この村落分布図に激しく反対した者たちが描いたもう一つの図は、これとは対照的に、中心部に半族の首長たちの小屋があって、その周囲には何もない場所が広がるという同心円構造だった。前者が〈高くにいる者〉という半族の者によって描かれたのに対して、後者のような図を描いたのは〈地上にいる者〉という別の半族の者だけであったという。



ここで記述された形態は、必然的に二つの異なる構造に関係しているわけではないのである。それらはまた、単一のモデルによって定式化するにはあまりに複雑な組織を記述する二つの仕方に対応するという場合もありうる。つまり、その組織があまりに複雑であるため、この社会の構造内に占める位置に応じて各半族の成員は、二つのうちのいずれかの仕方で概念化をおこなう傾向をもつことになるのである。というのは、双分組織のごとく均斉のとれた(少なくとも外見上は)タイプの社会構造においてさえ、半族と半族との関係は決してそう考えられがちであるほどに静的でも相互的でもないからである(クロード・レヴィ=ストロース『構造人類学』)


…………


だが安易にふたつの主体すると、原初的に享楽の主体が先にある、というおそらく「誤解」が生れる。ここで、ラカン曰くの「原初とは最初のことじゃないんだよ」を想いだしておこう。

われわれはある過程において、“原初の”と“二次的な”と言うが、それはひどくイリュージョンを育む話し方なんだな。私に言わせれば、どんな場合でも、ある過程で“原初の”と言われるとき、――まあなんでもいいがね、結局のところそう言いたいときは、――それは最初に現われるということじゃないんだ。

個人的には、赤ん坊を眺めたことは一度もないね、その赤ん坊に外部の世界はないという実感をもたないでは。はっきりしてるのは赤ん坊はなにも見てないんだよ、彼を興奮させるもの以外は。それはまさにその通りじゃないかい、赤ん坊がまだ話さないかぎりは。彼が話しはじめた瞬間からだな、まさにその瞬間以降であってその前じゃないんだが、私はやっと理解できるんだ、抑圧のたぐいがあるのが。快-自我の成り行きは“原初”だよ。そうでないわけあるかい? あきらかに“原初”なのさ、ただしいったんわれわれが考えだしてからのだ。でもそれは間違いなく“最初”じゃない。(ラカン『セミネールⅩⅩアンコール』フィンク英訳より私意訳)

もちろん、ラカンの言うことを額面通り受け取らなくてもよい。やはり「原初」は先にあるとする見解もあるだろう。

だがジジェクなどは、この見解をひどく嫌う。これはフロイトの遡及性概念やトラウマにもかかわるし、〈女〉は存在しないについても同様。


ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。(ジジェク)


象徴界の穴としての不可能という現実的なとの出会いが、トラウマを引き起こす根元的な出来事だとラカンは考えます。(向井雅明)


ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。
ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」が象徴秩序から除外されていることこそが、存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?(ジジェク)


これらの考え方をもっとも端的に表現したものが、次の主張だろう。

《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。》(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


…………


冒頭に小笠原晋也氏のツイートをかかげたが、氏がとてもすぐれたラカン学者であることは認めつつ、一抹の疑義があるのは、ラカンをハイデガーとともに読もうとするその仕方だ。もっともわたくしのような者の疑義はどうでもよろしい。それは、いままでいくらか読んできた書物との齟齬ということである。

たとえば、次の箇所を掲げてみよう(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))。





 ここだけでははっきりしないかもしれないが、わたくしの誤解でなければ、

現実界は象徴界に先行してあるかのような語り口がなされているようにときに感じられるないでもない。その意味合いでは、上のラカンの『アンコール』の《原初は初めのことではない》とか、上に引用されたジジェクの主張と折り合いがつくものだろうか。

あるいはアドルノはこう書いている。

存在者的なものでありながら同時に存在論的でもある現存在の優位を説き、存在とは現前性だと説くハイデガーの理説は、存在をすでに先取りして具象化している。彼が望むように、存在が現存在に先行するものとして自立化されてのみ、現存在に存在を透視する力が与えられるのであるが、それにもかかわらず、ここでもまたこの力によってはじめて存在が露呈されると考えられる。(……)

ハイデガーはその後、現存在分析を、存在者から出発しては基礎づけることのできない存在のまったき優位の方向に転じたのであるから、首尾一貫していることにはなる。むろんそのために、かつての彼の影響力の元になったものは全て抜け落ちることになったが……(アドルノ『否定弁証法』)

さらには柄谷行人はかねてから執拗にハイデガー批判をしているが、ここでは『トランスクリティーク』から。


ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P80)
ハイデガーは経験的なレベルと超越論的なレベルのカント的区別を、存在的と存在論的の区別として言い換え、まるで彼がそれを初めて見出したかのように強調する。また、経験的自我(存在者)に対して、無=存在であるところの超越論的自我を強調する。だが、彼は「疑う私」、共同体と共同体の「間」にあるような外部的実存については語らない。ハイデガーのいう現存在は同時に本来的に共同存在―――彼にとっては民族を意味する―――である。ここから、疑う存在=単独的な実存は出てくる余地がない。

あえて存在論のタームで語るならば、われわれはデカルトの懐疑から次のように存在論を見出すべきである。コギト(=我疑う)は、システム間の「差異」の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に「在る」ことである。哲学によって隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な「差異」あるいは「間」なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。ハイデガーは、カントの超越論的な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的な方向において見られねばならない。(同上P150)

 もっとも遡及的な現実界の捉え方とは別のラカンもいて、それはハイデガーに近づくのかもしれない。たとえば、1959年の「精神分析の倫理」のセミネールにはこうある。


Das Dingとは起源的に私が「シニフィエ-外」と呼ぼうとするものです。主体が自らの距離を保ち、ある関係様式、あらゆる抑圧以前の原始的情動、のうちに自らを構成するのは、このシニフィエ-外に関連して、そしてそれにたいするパトス的な関係に関連してです。・・・・われわれが時に「神経症選択」と呼ぶ、主体的オリエンテーションの最初の土台、最初の選択がこのdas Dingに関連してなされるのです。(ラカン セミネールⅦーー向井雅明「精神分析とトラウマ」からの孫引き)






2014年8月14日木曜日

心的外傷後ストレス障害PTSD/フロイトのトラウマ

ヒステリーの症状を疾病の発生史の証人として明るみに引き出そうとすると、どうしてもJ・ブロイアーの重要な発見と関係を持たざるをえません。すなわち、ヒステリーの症状はある種の外傷的作用をもつ体験によって決定されるのであって、その体験の記憶の象徴として症状が患者の精神生活の中で再生産されてくるのだ、という発見がそれです。(『ヒステリーの病因について』Zur Atiologie der Hystericフロイト、1896)

これは向井雅明氏の「精神分析とトラウマ」からの孫引きだが、この論文は年の記載が何箇所か間違っている。この文章の引用註にも、《「ヒステリーの病因について」フロイト、1886年》とされている。慌しく書かれて公開されたものかもしれない。

少し先取りですがこれはラカンのS1-S2というシニフィアン構造に結びつけることができます。このような考えをもとに、1885年頃にはフロイトは次のような要素で構成される、最初のヒステリー理論を完成する。

――とある《1885年頃》も1895年の間違いだろう。

しかしそれから少し経って、フロイトはこの理論を捨てることになります。1987年9月21日付けのフリースへの手紙の中で、フロイトは、この理論を否定する理由を説明しています。

ーーなどというものもある。これは分かりやすい誤記だ。


まさか老眼がひどくすすみ、眼鏡が適っていないのではないか、向井雅明さん?






いや深謀遠慮があって、わたくしのような手合いが引用するのを試しているのかもしれない。


続けて読み進めると、こんなものもある、《現実的なとの出会い》? 「リアル」との出会いを、向井氏の書記係りが誤記したものか。


ユングにとっては現実的なとの出会いは必要ないのです。それにたいしてフロイトはあくまで原光景の体験の先行性を認めて、現実界との接触を保持しようとしたのだ。ユングはすべて観念の次元でかたづけようとするのに対して、フロイトは唯物論的に考えようとするのです。

――というわけで、深謀遠慮ではなさそうだ。


 …………

さて冒頭から誤記の指摘で始めてしまったが、わたくしにとって、向井雅明氏は敬愛するラカン解説者のひとりである。論文「精神分析とトラウマ」は半年ほどまえに公開されており、いまごろ気づいたのは、敬愛者のひとりとして忸怩たる思いである。
2014/02/04 2014年1月25日の京都大学における「公開シンポジウム トラウマと反復 精神分析の臨床から」での向井雅明の発表「精神分析とトラウマ」を掲載します。


すこしまえ、原初とは最初のことじゃないんだよ」という記事にて、フロイトの遡及性について触れたが、向井雅明氏の論はそれについてわかりやすく叙述されている。原光景と遡及性とのあいだの関係の疑義についてもわたくしの問題意識と同様であるのは、すなおにフロイト、ラカンまわりを読めばそうなるということだろう。

以下、いくらか抜粋しておく。

…………

トラウマは遡及的に作用する。

S1―>S2->S1

エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。

ーーこれは主人のシニフィアンS1と知の(連鎖の)シニフィアンS2を使って、遡及性についてとても簡潔に書かれている。

さらに次の文にある《フロイトはヒステリーの原因は外傷であるという考えを廃棄したという説は正しくありません》という見解は、わたくしのような専門家でないものが言っても仕方がないので、やはり向井雅明氏の言葉を借りるに如くなない。

フロイトはここでファンタスムを持ち出していますが、ファンタスムを単純にフィクションであると決めつける必要はありません。たとえファンタスムであろうと、何もないところからそれが生まれるわけではありません。ファンタスムにはファンタスムを構成する素材が必要なのです。では、そうした素材はどこから来るのでしょうか。それはやはり主体が出会った実際の出来事です。

したがって、よく言われる、フロイトはヒステリーの原因は外傷であるという考えを廃棄したという説は正しくありません。それまでの理論が

- 現実界に繋がるトラウマ→症状

という図式であったのにたいして、ここでは

-現実界との遭遇→ファンタスム(トラウマ)→症状

という図式となるので。また神経症の原因としての性という要素はここでもずっと保持されています。したがって、ここにおける神経症についての理論は、誘惑理論に比してより現実的であり、かつより精緻な理論的把握を許すものとなっているのです。

 次に出てくる最初のシニフィアンは、主人のシニフィアンS1である。主人のシニフィアンについては、わたしなりに精一杯記述した、「アタシとボクの「おちんちん」」と題して、その無意味の空虚のシニフィアンについて。

フロイトにおけるトラウマの考えにあるトラウマの事後性ということについては、ラカンはシニフィアンの遡及性、つまり最初のシニフィアンS1 は次に来るシニフィアンS2によって意味的に決定されるという構造、すなわち主語は述語によって遡及的に決定されるということ、によって大変エレガントに説明しています。

以下は、アリストテレスの チュケーtuche とオートマトンautomaton をめぐって書かれている箇所で、わたくしにとって、いまだ不明瞭な箇所で、まずは以前の記事から次の文を貼付しておこう。


…………

二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」より。


◆Lacan SEMINAR XI Translated by ALAN SHERIDANより

First, the tuché, which we have borrowed, as I told you last time, fromAristotle, who uses it in his search for cause. We have translated it as encounter the the real. The real is beyond the automaton, the return, the coming-back, the insistence of the signs, by which we see ourselves governed by the pleasure principle. The real is that which always lies behind theautomaton, and it is quite obvious, throughout Freud's research, that it is this that is the object of his concern.
Through the elucidation of what we call strategies, this is the figure that Aristotle's automaton assumes for us. Furthermore, it is by automatisme that we sometimes translate into French the Zwang of the Wiederholuagszwang, the compulsion to repeat.

快原則の此岸内、すなわち象徴界におけるシニフィアンの繰り返しが、反復強迫Wiederholuagszwangであり、automatonとされる。とすればフロイトの「自由連想」もautomatonであるだろう。

快原則の彼岸、すなわち快原則内の非-全体に外-存在ex-sistするものがtuchèと呼ばれ、リアルとの真の遭遇であり、どうやら真の「反復」とはこのことを言うらしい。とすれば、このテュケー tuchèはトラウマや欲動にもかかわってくる(もっとも上のヴェルハーゲの記述にあるように、トラウマに対処する象徴界における反復はautomatonなのだ。このあたりの見極めが難しい)。さらに欲動にかかわるのであれば、もちろん「享楽jouissance」にも関係する。


…………

ーーなどと書いているのだが、見解の一致をみるだろうか。すなわちわたくしの誤解はないだろうか。

ラカンが言語世界の彼岸に現実界を見、明確にトラウマをこの現実界との出会いと関連させるようになったのは1959年の「精神分析の倫理」のセミネールからです。ここでは母親の世界における未知な部分をフロイトに倣ってdas Ding と呼び、das Ding との出会いが最初の主体的立場を決定させるトラウマ的体験となるとされています。

《Das Ding とは起源的に私が「シニフィエ-外」と呼ぼうとするものです。主体が自らの距離を保ち、ある関係様式、あらゆる抑圧以前の原始的情動、のうちに自らを構成するのは、このシニフィエ-外に関連して、そしてそれにたいするパトス的な関係に関連してです。・・・・われわれが時に「神経症選択」と呼ぶ、主体的オリエンテーションの最初の土台、最初の選択がこのdas Ding に関連してなされるのです》(『精神分析の倫理』、セミネール第7巻 ラカン)

簡単に説明しますと、das Ding との出会いは原始的な情動を生みだす。それはあらゆる抑圧以前の出来事である。そしてそのときに主体は自らの精神的構造を決定するというのです。具体的に言えば、その出会いを嫌悪として感ずるのがヒステリーであり、過剰な快感として受け取るのが強迫神経症、そしてそれを信じないのが精神病となるのです。ヒステリーの場合は性的誘惑に相当し、強迫神経症の場合には原光景、両親の性交シーンの目撃、に相当するのでしょう。

ラカンはここではフロイトのフリースへの手紙Kに参照しています。ですからあくまでフロイトに忠実であろうとしているわけです。

ただここでも、トラウマに関してフロイトが考える快感原則の彼岸で出会ったような疑問がわいてきます。トラウマが性的な意味を持っているというのはここでははっきりとしています。しかしトラウマの遡及的な性格が問題になってきます。Das Ding との出会いがあらゆる抑圧以前の原始的な情動を引き起こすというなら、それは外傷的体験から直接引き起こされたものと考えるべきなのでしょうか。ラカンはdas Ding との二度目の遭遇とは言っていないのです。これはトラウマの遡及的性格と矛盾します。この矛盾を解消するためには再びdas Ding との出会い以前の原体験というのを想定しなければならないのかもしれません。


トラウマについてのラカンの次の主要な考察は1964年の「精神分析の四基本概念」のセミネールの中でなされています。そこではアリストテレスから借りてきたチュケーtuche とオートマトンautomaton という概念が取り上げられ、オートマトンはシニフィアンのネットワークの自動運動、チュケーは現実界との出会い損ねがトラウマとして反復現象を引き起こすとされます。そして転移現象と反復現象ははっきりと区別されます。

したがってラカンにとって現実的なものle reel をどのように取り扱うかがトラウマを考える上で重要になってくるのです。

倫理のセミネールではdas Ding ということばで現実界を考えようとしましたが、そこから対象a という記号が生みだされ、対象aと現実界が結びつけられます。そしてその後、ラカンは現実的なものを不可能という言葉で表すようになりました。不可能とは象徴界、すなわち言語世界における不可能ということです。たとえばAという命題とnon-A という命題を同時に認めることは不可能です。この点においてゲーデルの不完全性定理は言語世界の不可能性を数学的に表したものだと言えましょう。ラカンは精神分析における不可能を「性的関係は存在しない」という命題で表しました。動物においては雄と雌の性的な行動様式は本能に書き込まれており、動物は本能的に性的関係を持つことができるます。ところが人間の男と女は類としての性的行動様式を与えられておらず、人間の性的活動は多様であり、様々な倒錯的傾向が認められます。男と女は性的行動様式を他者から学ばなければならないのです。そして性的行為の多くは生殖とは関係ない領域で繰り広げられています。ですから人間の言語世界には性的関係が書き込まれておらず、それが象徴界の穴として不可能を構成するのです。

この象徴界の穴としての不可能という現実的なとの出会いが、トラウマを引き起こす根元的な出来事だとラカンは考えます。

フロイトはトラウマは常に性的な性格を持っていると考えていましたが、その真の理由はここに認められるます。人間が性的なものに出会うとき、この性的関係の不可能という象徴界の穴にぶつかり、主体はそれが何であるかを言うことができず、文字通り言葉を失ってしまうのです。幼年期のこの経験は思春期の性の目覚めによって新しい意味が与えられます。フロイトは、人間の性の二つに分離されたこの性的現実は、主体の人生において決定的な意味を持っていると考えていました。ラカン的に言えば、性的関係の不可能との最初の出会いの潜在的トラウマが、思春期になって意味を与えられて事後的にトラウマとして構成されと言えるでしょう。


《オートマトンはシニフィアンのネットワークの自動運動、チュケーは現実界との出会い損ねがトラウマとして反復現象を引き起こす》と書いてあることから、とりあえずは安堵できる。だが、ヴェルハーゲのいう《トラウマに対処する象徴界における反復はautomatonなのだ》はいまだ闇の中ではある。


ーーなどと解説的な部分を抜粋したが、この論文における向井雅明氏の主張のポイントは次の文である。

今日ではトラウマの問題はPTSDposttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害として扱われています。PTSDという観点では患者を主体としては見ず、単に被害者として扱い、その症状を臨床的に分類して有効な治療法を当てはめるという試みがなされます。そこでは各主体の固有性というものが無視されて、マニュアル化された対応が取られる傾向にあります。またそのときにトラウマを特別な体験だと見なすと、患者をトラウマ的現在に釘付けしてしまう危険があります。患者は過去のトラウマ的体験を現在のように生き続けています。トラウマが個人史上の過去の出来事とははならず、現在が永遠に続くのです。トラウマの魔力から抜け出すには、出来事に特権的な地位を与えず、単に過去のひとつの体験として葬る必要があります。ちょうど死者を葬りその上に墓を建てるようにです。それにはあくまで個的にそれぞれのケースの特異性に応じて、患者の主体性を引き出して作業させなければなりません。精神分析の作業がまさにそれに当たるのです。(向井雅明 2014/01/25)






2014年8月10日日曜日

鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス

ラカンの「責めに得る」ⅩⅦの有名な母なる鰐の口の話を原文で拾ったが、仏文がたいして読めるわけではない。


"Je vais commencer par la fin, en vous donnant tout de suite ma visée, parce que je ne vois pas pourquoi je n’abattrais pas mes cartes. Ce n’est pas ainsi que je comptais tout à fait vous en parler, mais au moins, ce sera clair. Je ne suis pas du tout en train de dire que l’OEdipe ne sert à rien, ni que cela n’a aucun rapport avec ce que nous faisons. Cela ne sert à rien aux psychanalystes, ça c’est vrai, mais comme les psychanalystes ne sont pas sûrement des psychanalystes, cela ne prouve rien. De plus en plus, les psychanalystes s’engagent dans quelque chose qui est, en effet, excessivement important, à savoir le rôle de la mère. Ces choses, mon Dieu, j’ai déjà commencé de les aborder. Le rôle de la mère, c’est le désir de la mère. C’est capital. Le désir de la mère n’est pas quelque chose qu’on peut supporter comme ça, que cela vous soit indifférent. Ça entraîne toujours des dégâts. Un grand crocodile dans la bouche duquel vous êtes — c’est ça, la mère. On ne sait pas ce qui peut lui prendre tout d’un coup, de refermer son clapet. C’est ça, le désir de la mère. Alors, j’ai essayé d’expliquer qu’il y avait quelque chose qui était rassurant. Je vous dis des choses simples, j’improvise, je dois le dire. Il y a un rouleau, en pierre bien sûr, qui est là en puissance au niveau du clapet, et ça retient, ça coince. C’est ce qu’on appelle le phallus. C’est le rouleau! qui vous met à l’abri, si, tout d’un coup, ça se referme." (Le Séminaire Livre XVII, L’envers de la psychanalyse, 1960-1970, Seuil, p. 129)

というわけで向井雅明氏の説明を掲げておこう。


◆向井雅明「精神分析と心理学」より抜粋。

子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。



だが、そんな父親はいるのだろうか、と向井氏は問い、フロイトのエディプス・コンプレックス論の説明をしているがここでは割愛。

ここにある《父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である》という表現が、いわゆる象徴的ファルスがなんであるかの説明として、最も分かりやすい例のひとつであろうと思う。ただあまりにもイメージ豊かであり、欠如のシニフィアンであるにすぎない象徴的ファルスが父の実際のペニスであるような誤解を生みやすい表現ともいい得るが、しかしながら、逆に、あまりにも理解されていないーーラカンを読んでいるつもりになっている人たちにさえーー誤解の多い象徴的ファルスについての標準的な公衆の理解をすこしでも促すには、まずは、これでいいのではないか。肝要なのは、母の欲望に呑み込まれてしまうことを救う「支え」であるという点である、それは父のペニスであるはずがない。

たとえばジジェクのような「象徴的ファルス」の仕方が正統的なのだとは思う。だがこれは、ある程度の哲学的な素養がないとお手上げである。

What makes the phallic signifier such a complex notion is not only that, in it, the symbolic, imaginary, and Real dimensions are intertwined, but also that, in a double self‐reflexive step which uncannily imitates the process of the “negation of the negation,” it condenses three levels: (1) position: the signifier of the lost part, of what the subject loses and lacks with its entry into (or submission to) the signifying order; (2) negation: the signifier of (this) lack; and (3) negation of the negation: the lacking/missing signifier itself.The phallus is the part which is lost (“sacrificed”) with the entry into the symbolic order and, simultaneously, the signifier of this loss. (Therein is grounded the link between the phallic signifier and the Name‐of‐the‐Father, the paternal Law; here also, Lacan accomplishes the same self‐relating reversal, for the paternal prohibition is itself prohibited.) Why is this the case? Why should the prohibition itself be prohibited? The answer is: because there is no meta‐language.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

向井雅明氏の説明に戻れば、さらに、《人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる》

ーーこれも「想像的ファルス(小さなファルス(φ))を理解するためにとてもよい。イマジネールファルス(φ)になるとは、母の欲望の対象になるということである。もっとも小さなファルス(φ)は、母に欠如したファルスという側面があり、通例は(ーφ)と書かれる。


◆小笠原晋也氏ツイート

ギリシャ語大文字の Φ については,Lacan は 1960 年の「主体のくつがえし」のなかでこう定義しています : « Φ (grand phi), le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance » [大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な徴象的ファロス,悦の徴示素].ここで impossible à négativer と言っているのは,小文字の φ が ( − φ ) : phallus négatif であるのとは異なって,ということです.

小笠原氏は彼独自の訳語を使う。« Φ (grand phi), le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance » [大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な徴象的ファロス,悦の徴示素]とあるが、日本での通例の訳語に直すならば、《大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な象徴的ファルス,享楽のシニフィアン》ということになる。

もっとも彼のツイートは、この二つのファルスだけではなく、一般には耳慣れない現実界的ファルスという「学素」φbarréを提示している文脈での語りである。

ギリシャ語大文字の Φ はオィディプス複合と男女の性別にかかわります.小文字の φ は,それに対して,より源初的なものにかかわります.φbarréは,本当の源初そのもの,失われた源初そのものです.
三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.

※参照:ラカンの S(Ⱥ)をめぐって


さて話を元に戻そう。母なる鰐の口の話である。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より(私意訳)。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

Due to structural reasons, the archetype of a woman will be identified with a dangerous and devouring big Other, the original primal mother who can recapture what was originally hers, thereby recreating the original state of pure jouissance. That's the reason why sexuality is always a mixture of fascinans et tremendum, that is, a mixture of Eros and death drive. This is the explanation for the essential conflict within sexuality itself: every subject longs for what he fears, namely the return to that original condition of jouissance.
この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

The primary defense against this fear is the grafting of the idea of castration onto this threatening figure: instead of a nameless and therefore complete desire, she can be satisfied with a particular object. It is the same defensive movement that gives rise to the idea of a superfather as original holder of this object. Lacan expresses this in a well known metaphor: "The mother is a big crocodile in whose mouth you are; one doesn't know what she's going to do, eventually to close her jaws. That is the desire of the mother. (...) But there is a stone between the jaws, keeping them apart. That is what has been named the phallus.It is that what keeps you safe, if suddenly the jaws were to close."
このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。

This reminds us of the situation where one is confronted with the sphinx and her riddle, the sphinx that will devour you if you don't produce the right answer, that is, the right signifier. Indeed, we are no longer talking about a concrete woman, on the contrary, every woman falls victim to this figure in a twofold way: as a subject, she is confronted with this threatening figure; moreover, as a woman, she is invested with the fear for this figure. If you want to have a description of this threatening female figure, just read the introduction chapter on sex and violence in Camilla Paglia's book on Sexual Personae, where she correctly identifies this figure with nature itself. If you want to read a clinical description of male anxiety in confrontation with this figure, just read Otto Weiningers' Geschlecht und Charakter, in combination with Zizek's comments on it. Both of them are unintentional clinical illustrations of the fact that this threatening female figure is a construction a posteriori with a clearly defensive function. If you want to read an intentional clinical illustration, just try to get hold of the beautiful Männer Phantasien by Klaus Theweleit.

 さて、ここで三人の著者の名前が挙げられている。カミール・バーリアとオットー・ヴァイニンガー、それにKlaus Theweleit.。最後の著者の名はわたくしには耳に新しい。ここでは前二者の文をいくらか引用しておこう。


◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。……

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(参照:「男なんざ光線とかいふもんだ」)

オットー・ヴァイニンガーについてはジジェクが、彼だけではなく、カフカ、そして猥褻な法に関連して語った次の文がよいだろう。実際、「法」とは貪り食う原初の母のようなものなのだから。そもそもわれわれは日夜次のようは猥褻な法の顕れに直面している、《公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない》(参照:「コード・レッド」)。

……Kは審問室に入り、判事席の前で熱弁をふるうが、それは猥褻な闖入によって邪魔される。そのとき、Kは洗濯女が法に対して重要な立場にいることを知る。

そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断される。何が起きたのかを見ようとして、彼は眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女かどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口を大きくあげて、天井を見上げていた。(カフカ『審判』)

それでは、この女と法廷との間にはどんな関係があるのだろうか。カフカの小説では、「心理学的類型」としての女はオットー・ヴァイニンガーの反フェミニズム的イデオロギーとぴったり一致している。すなわち、女は本来の自己をもたぬ存在であり、倫理的な態度をとることができないし(倫理的な根拠にもとづいて行為をしているように見えるときですら、彼女は自分の行為から引き出す享楽を計算している)、真実の次元にけっして近づくことのない存在である(彼女の言うことが文字通り真実だとしても、その主観的立場の帰結として彼女は嘘をついていることになる)。そのような存在に関しては、彼女は男を誘惑するために愛しているふりをする、と言うだけでは不十分である。なぜなら、この見せかけの仮面の裏には何もないということが問題なのだから。仮面の裏には、彼女の実体そのものである、ねばねばした不潔な享楽しかないのである。そうした女性のイメージに直面したカフカは、ありふれた批判的・フェミニスト的誘惑(つまり、このイメージが特殊な社会的条件のイデオロギー的産物であることを明らかにしたい、あるいは別のタイプの女性のイメージと比較した、という誘惑)には屈しない。それよりもはるかに価値転倒的な身振りで、カフカは「心理学的類型」としてのヴァイニンガー的な女性像を全面的に受け入れ、それを、前代未聞の、前例のない場所に立たせる。その場所とは、法の場所である。スタッハがすでに指摘しているように、おそらくこれが、カフカの基本的戦略である。すなわち、女性的「実体」(「心理学的類型」)と法の場所を短絡させることである。でんとうてきには純粋で中立的な普遍性であった法が、猥雑な生命力に彩られ、享楽に貫かれた、さまざまな異物からなる、一貫性の欠如したプリコラージュの特徴を帯びるのである。(ジジェク『斜めから見る』P277-278)

 もちろん、これらの精神分析的捉え方は、次のような側面はある。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

女が貪り食う鰐の口、あるいはヴァギナ・デンタータだって?
もう一度、穏やかな紳士であるヴェルハーゲの「内気な」説明を聞こう。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

ーー「ヤリたい男」などと、やや下品なのは翻訳のせいだけである。


究極のエロスとは、母なる大地に貪り食われるものであることは否定しがたい。《熱望するものは、享楽の原初の状態》なのだ。だがそのとき主体は消滅する。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)

この一見、われわれの「常識」を揺らめかせる表現は次のことを意味する。

すなわち、エロスが死をめざす、という意味は、〈母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。(参照:エロスとゆらめく閃光

だから、われわれは愛することを憎み、憎むことを愛する。

たとえば、小笠原晋也氏が現実界的ファルスを、φ barré としているのはそのことであろう。母との究極との融合がφであるならば、それは斜線を引かれているのだ。

女、あるいは母なるものとは、論理的・究極的には、貪り食う鰐の口となる。女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976ーーフロイトの『Why War?』における愛と憎悪

フロイトは三人の女について語った。ドゥルーズもマゾッホ論で同じフロイトの三人の女に言及しつつ語った。

……三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。(フロイト『小箱選びのモティーフ』)
マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)


生涯、鰐の口に遭遇しない「幸福な」男たちも、ひょっとしているのかもしれない? すなわち彼らは死をもたらす真の「女」に出逢っていないのだ! いずれにせよ、中井久夫のように実は分かっていながら、表向きは「ジ・アザー・セックスは謎のままにして置きたい」とする態度もありうる。


男たちの勝手な思い込みよ、ーーなどと言うなかれ。

「反フェにスト」と揶揄される「真の」フェミニストのカーミル・パーリアの考え方が受け入れがたくても、女の真の敵は女であることを、あなたがた女性はひそかに感じとっているのではないだろうか。《ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない》。


◆ソレルス『女たち』(鈴木創士訳)より

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …
問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる!
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ!




2014年7月23日水曜日

フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」

ここのところ一世紀ほどまえの男たちの女性ヒステリー畏怖の事例を、ジジェクの文の引用を中心に続けて投稿した(エリオットーヴィヴィアン、そしてムンクーーオスロワイン商人の娘)。ジジェク曰く、カフカにもその気があるというので、カフカーミレナをめぐってメモしようとしたが、ミレナがヒステリー症状であったかどうかは寡聞にして確かでない。カフカの女性畏怖は間違いなくあるだろうが。

・自分のなかの悲鳴に加えて、あなたの声を同時に聞くなどはできません。 [カフカ ミレナへの手紙]

・彼女が好きなのに話ができない。不意に出くわさないように、現れるのを待ち受けている。 [カフカ 創作ノート]

・それにしても、どうも私はあなたのお顔をはっきり思い出すことができません。後であなたが喫茶店のテーブルの間を遠ざかっていかれたときの様子だけが、そのあなたの姿、あなたの服、それだけが今もってまざまざと目に浮かびます。[ミレナへの手紙]

ーーだが、これらも恋に陥った内気な男のごくふつうの姿なのかもしれない。




「あなたのおっしゃる通りです。私は彼が好きなのです。でもF、あなたのことも私は好きなのです」とあなたは書いています。この文句を私は実に念を入れて読みました。一言一言です。特に「のことも」のところでは長い間立ち止りました。みんなそのとおりです。これがそのとおりでなかったら、あなたはミレナではないでしょう。そして、もしあなたがいなかったなら、一体この私は何なのでしょう。(…)しかもなお、何らかの弱さから私はこの文句と手を切ることができずに、際限もなく読みつづけています。そして、結局それをもう一度ここに写して書き、あなたがこの文句を見て下さるように、二人が一緒にそれを読むように、額に額をよせて(あなたの髪が私のこめかみに)、と望むのです。(カフカ ミレナへの手紙)


というわけで、ここではやや異なった側面から、すなわち現代におけるかつてのヒステリーの消滅という面から、ーーまたしてもヒステリーにかかわるのだが、乗りかかった舟であるーーいくらか記してみよう。

いわゆるヴィクトリア朝風の厳格なモラルが支配的だった時代には、ヒステリーは頻繁にみられたのは間違いない。われわれはその後、女性解放やら避妊革命などを経てきており、また以前ほど父権制社会でもなくなってきている。すなわち、それらの原因により、現代はヒステリー患者が少なくなってきたと一般には言われるのだが、その代りに、パニック障害、摂食障害、自傷行為などが目立つようになってきたとされる。

実際、日本でも、夏目漱石の『道草』や宇野浩二の『苦の世界』などで描かれた女性の極度のヒステリー症状は、現在ほとんど見当たらなくなったといってよいだろう。これらの小説が書かれた時代は、明治維新以後の約半世紀、いわゆる擬似一神教時代のことであり、性風俗がおおらかであった江戸時代は、武士階級は脇にやるとしても、商人階級の女性たちはどうだったのだろう。厳格なモラルのあるところにヒステリーがあるとするなら、理論的には少なかったはずなのだ。そもそも日本では、明治以降の一時期を除いて、欧米にくらべヒステリーは少なかったのではないかと憶測されないでもない。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

――などと書いているわたくしは、この分野のまったくのシロウトであり、以下はそのディレッタントが、たまたまある機縁で、いくつかの論文に目を通した備忘に過ぎない。ここではベルギーのラカン派精神分析医のポール・ヴェルハーゲの見解を中心に記すが、精神医学のそれ以外の派の考え方について、多くを知るものでもない。

ヴェルハーゲの名を知ったのは、中井久夫のトラウマ論を読む傍ら、ラカン派のトラウマをめぐる考え方はどうなのだろうと思いを馳せるなかであり、三年ほどまえ、彼の『Trauma and Histeria』という小論にウェブ上でめぐり合い、いささか関心をもったことに始まる。彼は日本ではほとんど知られていないようだが、たとえばジャック=アラン・ミレールの「二十世紀の神経症から二十一世紀のふつうの精神病へ」という1998年に提出された見解における「ふつうの精神病」概念をウェブ上で英語検索すれば、オーストリアの精神科医Jonathan D. Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis(2013)に真っ先に行き当たる。そこにはミレールの「ふつうの精神病」概念とヴェルハーゲの「theory of actualpathology」が、精神病をめぐってこの十年に提案されたふたつの傑出した概念だとされている。

…………

まず、「来るべき精神分析」座談会からの文を掲げることにしよう。この座談会は、十川幸司・原和之・立木康介の三氏によって2009年になされたもので、十川幸司の『来るべき精神分析のプログラム』(2008) 上梓後、「来るべき精神分析」の展望の試みとして、十川氏の書を中心にしつつ現在の精神分析と臨床実践の問題が検討されている。


<情動について>

(立木)
 そろそろ理論篇に移りたいと思います。僕が十川さんのご本でまず取り上げてみたいのは、情動の問題とセクシュアリティの問題です。十川さんは欲動が大事だというご意見ですが、最初に情動にも触れておきたい。情動の問題は前著『精神分析』でも大きく扱われていて、それを読んだとき、情動こそが十川さんの構築なさりつつある新しい精神分析の中心になるのかな、という印象をもちました。十川さんが言われる情動というのは「エモーション」のことですか。

(十川)
 いや、「アフェクト」です。

(立木)
 そうですか。それならなおいいのですが、ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることです。その状態のパラダイムは「不安」ですが、それ以外の形で情動にアプローチするのはなかなか難しい。フロイトに遡っても、欲動の代表として「情動」と「表象」が分けられていますが、いずれもきちんと扱えていない感じがします。とりわけ情動の問題をそのものとして取り出した個所がほとんどない。もっとも、不安の場合だけは別ですが。ラカンに戻れば、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界によってアフェクトされる。現代思想的な言葉を使すなら、「触発」される。それに対して十川さんの場合は、システムとしての自己が他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視されています。十川さんは、子供が両親の会話に耳を傾けていたり、子供が寝ているところで両親がコミュニケーションをしている状況--十川さんは「原風景」と呼んでおられます--に注目なさっていますが、子供はそこまでまさにコミュニケーションにアフェクトされ、触発されている。そこから自己のコミュニケーション回路が徐々に形作られ、情動調律というプロセスを通じて情動的なコミュニケーションが始まっていくわけですね。コミュニケーションとしての情動。そこに焦点があてられています。

ここでは、当面、《

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされること》という立木康介氏の発言に注目しておこう。そして《十川さんの場合は、システムとしての自己が他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視》されているとある。これは、症状の身体的側面(情動、欲動、ソマティック)などを重視しつつも、言語機能による治療の有効性を捨て去るつもりはないという態度だと読むことができる(その発言については、末尾に附す)。

いまは敢えて引用しないが、この座談会で語られていることから読み取れるのは、日本でも精神分析、いやもっと大きく精神医学の領野では、現在の患者の「症状」は、旧来の言語の領域(シニフィアンの媒介による「症状」の領域)のみに重点を置く治療では対応しがたくなっているという共通の認識であるようだ。それが「情動」なのか、「欲動」への対応の必要性なのか、あるいはまた別の対応の仕方かは、治療者の視点の置き方によって、さまざまなのであろうが。

…………


以下に、仮にそのレクチャアの冒頭部分を仮に訳出したポール・ヴェルハーゲは、現在の新しい「症状」は、身体、ソマティック(流動する身体)にかかわるとしている。《the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic.》

ところで、この「ソマティック」は、すでに初期フロイトに現れている、”Somatisches Entgegenkommenとして。人文書院の旧訳では「身体側からの対応」と訳されている(参照:症例ドラのソマティックなフェラチオ欲動)。(岩波新訳ではどう訳されているのかは不明の身である)。

フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommenと呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。(Lacans goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

さて、上に記したように、ポール・ヴェルハーゲの2008年のダブリンでのレクチャアの冒頭を掲げるが、以下の訳文は専門家でないものが、仮に訳したものであることを断わっておく。


三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

About 30 years ago I saw my first patient. My classic education and training meant that the following clinical characteristics were to be expected: a patient would have symptoms that can be interpreted; these symptoms are meaningful constructions, although the patient is unaware of this meaning due to defence mechanisms; the patient would be aware that these symptoms were connected with a life history. The aim of the talking cure is to uncover this connection so that the underlying conflicts may find another and better solution. Furthermore, a relatively positive transference was forthcoming. These were the basic criteria put forward by Freud in 1905 for a successful psychoanalytic treatment (Freud, 1905a). In short: a classic psychoanalytic treatment is intended for the classic psychoneurosis, and I must stress the prefix “psycho.”
現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。

Today, a hundred years after Freud, we are confronted with totally different symptoms. Instead of phobic constructions, we meet with panic disorders; instead of conversion symptoms, we find somatization and eating disorders. Instead of acting-out we are confronted with aggressive and sexual enactments, often combined with self-mutilation and drug abuse. Furthermore, the aspect of “historization” is missing: i.e., the elaboration of a personal life history in which these symptoms find a place, a reason and a meaning. Finally, the development of a useful therapeutic alliance is not forthcoming. Instead, we meet with an absent-minded, indifferent attitude, together with distrust and a generally negative transference. Indeed, such a patient would have been refused by Freud. I can say, with some exaggeration, that the well-behaved psychoneurotic patient of the past has almost disappeared. Hence the contemporary conviction that you will find everywhere in clinical practice: we are meeting with new kinds of symptoms and, especially, with a new and difficult kind of patient.


こうして、新しい症状の特徴について次の三つが挙げられることになる。

①主に身体にかかわる、さらにいえばソマティックに。
②それらはふつう、パフォーマティヴな特徴がある。
③意味作用の異なったレイヤーが欠けている、ヒストリゼーションの側面の欠如とともに云々、とある。

すなわちヒステリー≒ヒストリーなら、かつてのヒステリー的な特徴が現在の患者の症状にはなくなってしまっているという捉え方なのだろう。ここでさらにヴェルハーゲのActual-pathology 」をめぐっての説明を、英文のまま抜き出すことにする。

Firstly, the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic. Secondly, they are usually of a performative nature. Thirdly, they lack the different layers of signification together with the aspect of historization. Moreover, these three characteristics are combined with a typical therapeutic alliance that is everything but positive and cooperative. We will now go more deeply into their differences from classic psychopathology.

Concerning the importance of the body, it is quite obvious that in the new symptoms the somatic aspect is central in a direct, unmediated way. In the classic symptoms, the reality of the body is kept outside the psychopathology; insofar as it enters the neurotic game, it is always in an imaginary fantasising manner. For example, conversion symptoms do not concern the real body in a permanent way. In contrast to this, the new symptoms imply it directly: self-mutilation and eating disorders are the most spectacular examples of putting the body in the centre, as is the case with aggressive and/or sexual enactments.

Secondly, the new symptoms are usually performative: they imply action. With the exception of obsessive-compulsive actions, the classic symptoms remain almost always within the field of the imaginary (see phobic complaints, hallucinations, obsessive thoughts, delusions), and don't give rise to actions. In cases where they do, our term for them, acting-out, implies that this action has a meaning, usually taking place at the limit of symbolisation. The classic patient has to be driven to a certain point before he crosses the threshold and acts. In cases of the new enactment, it is exactly the other way around; this form of enactment is one of the reasons why these are difficult patients, their demand from us is more coercive.

Thirdly, unlike the classic symptoms, the new ones seem to lack meaning, together with a clear-cut connection to the life history of the patient. This comes as a surprise because usually when someone consults a therapist, he or she will talk about his problems in such a way that these problems form part of his or her history, with the parents and the siblings playing important roles. By and large, this is not typical for the new clinical situation. For example, while most of these patients suffer from a combination of anxiety and depression, what in the DSM-dialect is called “mood disorders,” there is a lack of significant content. Classic depression, as described by Freud (1917e), goes back to the loss of a significant object and the ensuing (partial) loss of identity. It is not too difficult to find both losses in clinical practice, the classic ones being the loss of a love partner or a conflict in the work-place. In both cases, there is a significant loss of identity for the subject. Again, this is not the case with the new type of patient. It seems as if the depression has always been there and there is no obvious link with the loss of an object. In these times of genetics, the aetiology of such a depression will be considered as biological, something to do with “chemical imbalances,” although there is no clear-cut scientific proof for such an assumption. Clinical evidence shows that such a depression arises against a background of a general meaninglessness, where the most insignificant drawback is enough to trigger the depression that is already there. The same reasoning can be applied to the anxiety that is ever ready to materialise without the need for a specific object or situation. Finally, this group of characteristics can be linked to something also present in the idea of personality disorders. It seems as if these patients are different in matters of identity and because of this difference their way of relating to others is unusual.

Based on my contemporary reading of Freud, I believe it is possible to bring these new symptoms together under one heading, and to put forward a common diagnostic difference from the classic group. The best label for the first group is psychopathology; the name for the new group is actual-pathology. Psychopathology means that the psychological part is in the foreground, i.e., psychological symptoms, with a meaning and with a history. Actual-pathology means that the actual - the here and now - fills the scene, together with the body, and apparently without a link to the life history. These two groups should be understood as two poles of the same continuum. This is what Freud discovered quite early in his clinical practice.

この文は、ヴェルハーゲが初期フロイト用語の変奏である”Actual-pathology”を現在の症状の名とする理由が書かれている。こうして、ヴェルハーゲは、DSM批判の急先鋒でありつつ、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念にも異議を唱えることになる(参照:ラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって)。

Actual-pathology”は、邦訳でどうのように訳すべきかは判然としないが、これはもともと1890年代のフロイトの著作に現れた ”Aktualneurose”(actual neurosis)を起源としており(そこでは「精神神経症」と対比されて語られている)、 ”Aktualneurose”は「現勢神経症」やら「現実神経症」と訳されているので、ここで仮に「現勢病理」としておく。すなわち旧来の「精神病理」(精神神経症に起源を発する)に対する概念である。

なぜ「現勢病理Actual-pathology」が、この何十年間のあいだに顕著になってきたのかについては、通常、ジジェクなどによってしきりに主張される「エディプスの斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の文脈からの憶測が可能だが、ヴェルハーゲは、冒頭に掲げた2008年のダブリンレクチャーの一年まえに、同じダブリンで次のような説明をしている。

◆“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007 – Health4Lifeconfererence – DCU.(敢えて訳出するが、重ねて繰り返せば、英文を充分に参照のこと)

ラカン派のタームであるなら、鏡像段階のあいだに何かがうまく行っていないのです。鏡像段階、すなわち、アイデンティティの形成が欲動の規制と共同して始まる時期です。まるで現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗しているかのようです。その結果は、子供は心理的に発達しないのです、すなわち、欲動やそれに伴う興奮を取り扱う表象的な方法に欠けているのです。さらにアイデンティティ自体の形成さえも狂わされています。結果として、欲動の処理はソマティック(身体的な)レベル、すなわち原初の現実界のレベルに立ち往生してしまっています。

To put it in Lacanian terms, something went wrong during the mirror stage, that is, the period where the identity formation starts in combination with the drive regulation. It seems as if the contemporary Other – meaning the parents, but also the symbolic order – is failing more and more in taking on his/her mirroring function. The result is that the child does not develop a psychological, meaning a representational way of handling his drives and the accompanying arousal. Moreover, the identity formation as such is hampered as well. Consequently, the processing of the drives remains stuck at the somatic level, that is, the original level of the Real.
これが、なぜ症状が、なにものにも介入されない、さらにはパフォーマティヴな仕方で身体に呼びかけるのかを説明してくれます。同様に意味の欠如をも説明してくれます。それらは、防衛メカニズムのたぐいではなく、意味のない「解除反応Abreaction」により接近しています。私の考え方の道筋では、これはフロイトが命名した「現勢神経症」ものへと導いてくれます。時間がないので、フロイト理論の現代的解釈を詳しく述べることはしませんが、こういうだけで充分でしょう、すなわち。「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である、と。

This explains why the symptoms address the body in an unmediated and even in a performative way. It explains their lack of meaning as well, they are much closer to a meaningless “Abreaction” than to whatever kind of defense mechanism. In my reasoning, this leads to what Freud has called actual neurosis. For lack of time, I can't elaborate on our contemporary interpretation of Freud's theory; suffice it to say that the main characteristic of actual neurosis is the failure to process the drive arousal via representations.
ラカンの鏡像段階の理論とフロイトのアイデンティティ発達の理論の光の下では、表象能力の失敗とは、原初の〈大他者〉との関係における失敗として理解されなければなりません。ごく一般的には、そうなのです。古典的な精神神経症では、欲動興奮は表象的なオブラートがあり、意味溢れる古典的に分析され得る症状を通して、象徴的な表現を見出せます。

In the light of Lacan's theory on the mirror stage and Freud's theory on identity development, this failure of the representational capacity has to be understood via a failure in the relationship with the primordial Other. Normally, that is: in classic psychoneurosis the drive arousal obtains a representational coating and finds a symbolic expression via meaningful and classically analyzable symptoms.
現勢神経症の場合では、この表象の処理がひどく妨げられています。臨床像に関する結果は、“意味溢れる”症状の不在です。そこにはソマティックな現象にかかわるパニックな攻撃と不安が伴っています。不安とは原初の興奮arousalの表現なのです。結果として、興奮状態excitationが過剰な割合を占めてしまいます。そして行動をとおした捌け口が見出されるのです。それは自らの身体に向けてであったり、他者に向けてであったりします。

In case of actual neurosis this representational process is seriously hampered. The effect with regard to the clinical picture is an absence of ‘meaningful' symptoms combined with the preponderance of panic attacks and anxiety related somatic phenomena, the latter being expressions of the original arousal. Consequently, the excitation obtains excessive proportions and finds an outlet via actions that are either directed towards the own body or towards the other.

いま訳出した文の冒頭近くにある、《現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗している》とは、「鰐の口のつっかえ棒」が機能していないということであり、それが《エディプスの斜陽》(父性的な象徴権威の弱体化)やら「父なき世代」と言われる内実であるだろう。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。(向井雅明「精神分析と心理学」2002)

さて、すこしまえに戻って、ポール・ヴェルハーゲは、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念批判をしているとしたが、--すなわち、その概念に対して”Actual-pathology”(現勢病理)を前面に押し立てているのだがーー、ラカン派における新しい対応法のひとつ「サントームの臨床」をめぐっては、ミレールの立場と大きく異なることはないようにみえる。

◆ミレールの2008年のセミネールから

・新たな精神分析臨床はラカンの最後期の教育から切り出されたものですが、これは古い臨床より圧倒的に優れているものです。それは、構造論的臨床と対立するボロメオの臨床であると言われます。構造論的臨床は神経症と精神病の断絶を前面に出してきます、より完璧を期すなら神経症、精神病、倒錯です。
・この第二の臨床は正常性やメンタルヘルスに範をとる基礎を葬り、次の公式をその原則とします「ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである」。これは一度ラカンが副次的なテクストのなかで書いたものですが、私は昨年これを広めました。
・第2の精神分析臨床は、症状symptômeの概念を、この〔「終わりのない分析」で示される症状の〕残余のモデルに基づいて再構成するものです。こうしてラカンはそれを古い綴り方でサントームsinthomeと呼びました。サントームとは、治癒不可能なものの名前なのです。

ヴェルハーゲの2001年に上梓された書にも、既にほぼ同じような見解を見ることができる。

フロイトとラカンのふたりとも見出していた、まさに、この現実界における症状の根には治療効果を妨害するものがあることを。分析は、無意識の抑圧された部分、すなわち表象されたファリックシステムにねらいをつける。しかし〈他者の享楽〉に直面したとき無力である。現在のまさに事実とは、われわれは、抑圧などほとんど現れない患者に直面することだ。これは、精神分析にとってまったく新しいチャレンジを意味する。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』ーー二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

そもそも「サントーム sinthome」とは、ラカンによる「症状symptom」の新しいヴァージョンなのであり、旧来の「象徴界の症状」に対して、「サントーム」とは「現実界 réelの症状symptom」としてよい。とすれば、ヴェルハーゲの「Actual-pathology」(現勢病理)は、「現実界病理」とか「リアル病理」と 呼ぶこともできよう。ヴェルハーゲはあえて「サントーム」というラカン派ジャーゴンを使用せず、初期フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」起源の用語遣いをしたのだろう。実際、1890年代のフロイト論文は、トラウマに関わった、すなわちラカン文脈では現実界にかかわった用語がそれ以外にもみられる。たとえば「Fremdkörper」(異物としての身体)や、上にも挙げた 「Somatisches Entgegenkommen」(身体からの対応)など。ヴェルハーゲはこれらの用語を取り出しつつ、フロイトは初期から二種類の症状を考えていたのだとしている(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)。


さていずれにせよ、ミレールの「ふつうの精神病」概念は仮称であるだろうし、ラカンの「サントーム」概念も、ラカン派以外は通用しがたい。精神医学に携わる方は、ラカンジャーゴンを耳にしただけで抵抗がある口もいるだろう。そのとき初期フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」起源の”Actual-pathology”「現勢病理」概念は、いまでは熱心に読まれることの稀になっているはずのフロイトへの再度の回帰を促し、しかもラカン派内部のしがらみを超えた親しみやすい言葉遣いであるには相違ない。ラカン派とされる斎藤環氏からもこんな発言が出るくらいなのだから、やはり「ふつうの精神病」は仮称にしてもいただけない。

@pentaxxx: しかし今日のコロックでつくづく思ったが、こう「普通精神病」や「普通倒錯」が一般化したというのなら「普通境界例」とか「普通自閉症」なんてのも出てきそうな気が。そして私が10分間の「普通精神分析」で治療をする、と。いやマジでね。(2014.3.9)

…………

※附記:冒頭に掲げた「来るべき精神分析」座談会で十川氏はヒステリーをめぐり次のように発言していることをここにつけ加えておこう。

(原)
 言語を介して情動のレベルに働きかけるというテーゼは、ご本の中に繰り返し出てきますが、それがなぜ可能なのかについては、どうなんでしょうか? 二つの切り離されたものがあって、一方が他方に働きかけるイメージにどうしてもなってしまうのですが。

(十川)
 どうして可能なのかと聞かれると、なかなか答えるのは難しい(笑)。言語と情動が最も緊密に結びついているのは、ヒステリー患者です。ヒステリー患者は、みずからの無意識を自由連想によって物語る驚くべき能力をもっています。そして、その話に対して解釈を加えると、その解釈が情動を巻き込んだ形で患者の症状にまで届く。フロイトが『ヒステリー研究』で取り上げているのも、ヒステリーのこのようなメカニズムです。ヒステリー患者が少なくなってきたという話はよく聞きますが、実際少なくなったのは派手な症状を呈するヒステリー患者であって、ほとんど無症状で、一見ありきたりの悩みを抱えているヒステリー患者は今でも数多くいます。そういう人の治療では、言葉の力というものを明確な手ごたえをもって実感できます。