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2014年11月7日金曜日

「諸君、それは女狂い、”可能なる昇華”以外の何であろう」

このブログは今後(すくなくとも当面は)、バッハあるいは祈りの音楽の話かエロの話しか書きません。おそらく大方の中庸な方々には縁がないことのメモに終始します。要するに数少ない読者のみなさんですが、その方々も少なくとも二週間ぐらいはーー二カ月か二年ぐらいかもーー明けてみないほうがいいと思います。しばらくは、あるひとりの若い女性への私信みたいなものです。彼女の名はアプリコットちゃんです。


ーーというわけでバッハ頭になってしまったので、軌道修正できるかどうかは別にして、ハゲマシのために以下の文を貼り付けておく。

そもそもバッハというのは、高橋悠治によれば性的においがぷんぷんする音楽なのであり、カンタータなどの祈りの音楽だって、そこからエロスのにおいを嗅がないヤツラってのは不感症なんじゃないか。

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治





乱交パーティ用の音楽だぜ。

バッハの最も崇高なコラールのひとつといわれるBWV12の2曲目=ロ短調ミサの合唱の起源は次の通り。→ バッハカンタータBWV12とヴィヴァルディPiango, gemo, sospiro e peno


(ヒエロニムス・ボス「快楽の園」)


…………

芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識真理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動きを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P444)


「上品で高級な満足」に没頭するのもいいが、やっぱり「

一次的欲動の動き」も堪能もしとかないとな。


……さまざまの欲動は、満足の条件をずらせたり、他の方法をとるよう余儀なくされる。これは、大部分の場合には、われわれに周知の(欲動目標)昇華と一致するが、まだ昇華とは区別されうる場合もある。欲動の昇華は、文化発展のとくにいちじるしい特色の一つで、それによってはじめて、学問的・芸術的・イデオロギー的活動などの高級な心理活動が文化生活の中でこれほど重要な役割を占めることが可能になっている。第一印象にしたがうかぎりわれわれは、「昇華こそはそもそも文化に無理強いされて欲動がたどる運命なのだ」と主張したい誘惑を押えかねる。けれども、この件はもう少し慎重に考えたほうがよい。そして最後にーーしかもこれこそ一番大事と思われるがーー、文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この「文化のための断念」は人間の社会関係の広大な領域を支配している。そして、これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因であることは、すでにわれわれが見てきたところである。この「文化のための断念」は、われわれの学問にもさまざまの困難な問題を提起するであろうし、われわれにとしては、この点に関し多くのことを解明しなければならない。ある欲動にたいし、その満足を断念させることなどがどうしてできるのかを理解するのは容易ではない。それに、欲動にその満足を断念させるという作業は、かならずしも危険を伴わないわけではなく、リビドーの管理配分の上からいって、その補償をうまく行わないと重大な精神障害の起こる恐れがある。(『文化への不満』p458)

このあとエロスとタナトスの議論が展開されていく。

人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力 ――男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力 ――という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛)とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。(『文化への不満』P460)

だがここではその議論のいっそうの展開を追うことはやめ、冒頭の「昇華」の話に留まることにする。

フロイトによれば、芸術も学問も政治(イデオロギー)も、欲動断念によるーーその代表的なものは性欲動だーー「昇華」であり、「昇華」で胡麻化してもいずれ始原の欲動に支配されるか、胡麻化し続けていたら精神障害になるかもな、ということを言っている。最も「高級な」昇華と思われている芸術や学問も、オマンコ(あるいはオチンチン)の「仮面」だよ、と。いわゆる「スフィンクスの謎」探求の仮装なのだ。

スフィンクスの謎とは、女性性、父性、性関係に関してであり、フロイト的に言えば、母のジェンダー(女のジェンダー)、父の役割、両親の間の性的関係。

「ママにもおちんちんあるの?」
「もちろんよ、なぜ?」
「ただそう思っただけなの」
(……)
あるとき彼は就寝前に脱衣するのを固唾をのんで見まもる。母親が尋ねる。「何をそんなに見ているの?」
「ママにもおちんちんがあるかどうか、見ているだけよ」
「もちろんあるわよ。あなた知らなかったの?」
「うん。ママは大きいから、馬みたいなおちんちんをもっていると思ったの」(フロイトの『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス(フロイトとラカン)

より一般的に言えば、Das ewig Weibliche (永遠に女性的なるもの)、Pater semper incertuus est( 父性は決して確かでない)、Post coftum omne animal tristum est (性交した後どの動物でも憂鬱になる)の三つ。ラカンの変奏なら、La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

ここから逃れて昇華による代償満足に専念してても無駄さ。いずれ露顕してくるよ。

サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』所収)

晩年のヴァレリーの「女狂い」ってのも、ようやく最近知ることができるようになった。


外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)

たとえば西脇順三郎の晩年の詩だって、《エロス的ダブルミーニング》の詩ばかりさ。『近代の寓話』に《形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ》とあるのを西脇順三郎自ら、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだ》と解説したそうだが。

《鶏頭の酒を/真珠のコップへ/つげ/いけツバメの奴/野ばらのコップへ。/角笛のように/髪をとがらせる/女へ/生垣が/終わるまで》(西脇順三郎)

ーーこんなのワカメ酒に決まってるだろ、そら、いけよツバメくん、野ばらの生垣が終わる処まで啜り舐めゆけ、ほら、真珠の栗と栗鼠めがけて! 嘴は「森林限界を越えて火口へと突き進む」(俊 『女へ』)。石灰質だらけの死火山と侮っていても突然激烈に噴火することがあるからな、御嶽山のように。

でも、あそこには実は「原初的な空無」があるのさ

昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。 ラカンの出発点は、直接的で「野蛮な」満足とされているものの対象ではなく、その反対、すなわち原初的な空無である。原初的な空無とは、そのまわりを欲動がぐるぐる回っている空無であり、<物自体 the Thing>(フロイト的な das Ding。不可能にして獲得不能な享楽の実体)の形のない形としてポジティヴな存在形態をとる欠如である。崇高な対象とはまさしく「<物自体>の気高さまで高められた対象」である。(ジジェク『斜めから見る』)

このジジェク=ラカンの説く「原初的空無」ーーフロイト的な性欲とかオマンコというのじゃなくて、ーーがラカン派的には肝なのだろう。

原初の喪失とはなにか? 永遠の生の喪失、それは、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。Meiosis(分裂)によるのだ。(ラカン「セミネールⅩⅠ」私訳ーーEncore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

まあでも、いまはそんなややこしい話はやめとくよ、ここでは杏子と真珠貝の話に収斂しよう。






《夕顔のうすみどりの/扇にかくされた顔の/眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに/秋の日の波さざめく》(西脇)




川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる

ーー吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に)


《ああ すべては流れている/またすべては流れている /ああ また生垣の後に /女の音がする》(西脇)

ーーこれ読んで、アンモニア臭感じない連中を不感症っていうんだよ


《みんなは盗み見るんだ/たしかに母は陽を浴びつつ/ 大睾丸を召しかかえている/……/ぼくは家中をよたよたとぶ/大蚊[ががんぼ]をひそかに好む》(吉岡実「薬玉」)



亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
(……)
刺せ この胸のきれいな瓢を。
(……)
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。

 ーーヴァレリー「蜜蜂」中井久夫訳




2014年10月12日日曜日

神々しいトカゲ

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。偏執症者(パラノイア:引用者)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

…………

〈フェティシストとしての切り取られたテキスト収集の試みのひとつ》


坂を上つて行く 女の旅人
突然後を向き
なめらかな舌を出した正午


……この真っ昼間、……

トカゲも壁の割れ目にもぐり、

墓守ヒバリも見えない時刻なのに。

……

実もたわわなスモモの枝が

地面に向かってしなだれる。

――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』第7歌(古澤ゆう子訳)

まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした

石垣の間からとかげが

赤い舌をペロペロと出している

生垣にはグミ、サンショウ、マサギ

が渾沌として青黒い光りを出している


なぜ生垣の樹々になる実が

あれ程心をひくものか神々を貫通

する光線のようなものだ 

女は男の種を宿すといふが

それは神話だ

男なんざ光線とかいふもんだ

蜂が風みたいなものだ 

イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。

…………


つつしむがいい。
熱い正午が野いちめんを覆って眠っている。
歌うな。静かに。世界は完全なのだ。


歌うな。草のあいだを飛ぶ虫よ。
おお、わたしの魂よ。囁きさえもらすな。
見るがいいーー静かに。
老いた正午が眠っている。
いまかれは口を動かす。
幸福の一滴を飲んだところではないか。――


金色の幸福、金色の葡萄酒の、
古い褐色の一滴を飲んだところではないか。
ちらとかれの顔を過ぎるものがある。
かれの幸福だ。かれの幸福の笑いだ。
神――に似た笑いだ。
静かに。――

『幸福になるには、どんなにわずかなことで事足りるだろう』
わたしはかつてそう語って、自分を賢いと思った。
しかしそれは、たいへんな冒であった。

そのことをわたしはいま学んだ。

阿呆でも、りこうな阿呆なら、もっとましなことを言うだろう。


まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、
ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ、
一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーー
まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。
静かに。――


わたしに何事が起こったのだろう。
聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。
わたしは落ちてゆくのではなかろうか。
落ちたのではなかろうか、――
耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。


わたしに何事が起こるのだろう。
静かに。わたしを刺すものがあるーー
あっ!――心臓を刺すのか。心臓を刺すのだ! 
おお、裂けよ、裂けよ、心臓よ、
このような幸福ののちには、
このように刺されてのちには。――


どうだ! 世界はいままさに完全になったのではないか。
まろやかに熟れて、おお、金の円環よ、――
どこへ飛んでゆくのだ。わたしはそのあとを追う、身もかるく。


静かにーー


(ニーチェ「正午」)

…………

ちようど二時三分に
おばあさんはせきをした
ゴッホ

野原をさまよう時
岩におぎようやよめなをつむ
 女のせきがきこえる

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

向うの家ではたおやめが横になり

女同士で碁をうっている


灌木について語りたいと思うが

キノコの生えた丸太に腰かけて

考えている間に


もう秋は四十女のように匂い始めた

生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で

神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が
一本立つている

小雨が降り出して埃の香いがする

タバコをやめたから

ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ

すててヴァレリの呪文を唱えた

「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」

美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる

女神は足の甲を蜂にさされて
足をひきずりながら六本木へ
膏薬を買いに出かけた

けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの 青白い
終わりを


「見よこの人を」空をみあげるとキンモクセイの黒い

大木が老人のように立っている

アテネの女神のような髪を結つたそこの

おかみさんがすっぱい甘酒とミョウガの

煮つけをして待つているのだ

「今日はよいところへお出で下さいました
友達が毒のはいらない酒を二本もつて
来て下さつたところです」

さわらのさしみとなすで神々の饗宴となつた

…………


廃墟には、白い鈴のような花をつけた
アスフォデロスが咲いているのを発見し、
黄泉の国の花といわれるこの忘れ花を摘みとって
若い女への贈物にする。
女はあの「歩みゆく女」の歩き方を実演してみるが、
古代のサンダーレのかわりに薄茶色に光る
美しい皮靴をはいている。

夢に蜥蜴が出てくる、
その前日、廃墟に生身の女がすっと消えた、
その跡を追ってみると、
「非常に細い身体つきの人なら」
通りぬけられるくらいの一つの割れ目があった。

《狭い割れ目を無理に通り抜けるということや、
そのような割れ目に姿を消すということは、
蜥蜴の動作を思い出させるに十分ではなかったろうか》、
と書くのはフロイトである。

《この若い考古学者のグラディーヴァに関するさまざまな空想は
忘れ去られた幼児期の記憶の余韻ではないかという
一条の光明が突然われわれに向かって射してはこないだろうか》

《それから左手でトレスをちょっともち上げながら、
女は夢見るように見入る彼の眼差しを背に受けて、
あの落ち着いた軽やかな足どりで、
陽のふりそそぐ中を飛び石を伝いながら、
通りの向う側へと一歩一歩進んでいった》――


…………

神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。
欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。(ミレール)

享楽の垣根における欲望の災難
女の生垣からのぞくトカゲの尻尾

もうラカンは放り出して、フロイトしか読まぬようにしようと決心しかけたこともある。だが、結局わたしは抗しがたい力に惹かれるようにして、謎めいたラカンに戻ってくる。すると突然に、あのディスクールから一条の光が射し、ちょうど飛行機が雲をつらぬいて飛ぶときのように、一片の青空が垣間見える、たったひとつの言い回しが永遠の響きを奏で、ひとつの段落が、ほかの著者だったら二十頁もついやしたであろうほどの豊かな内容を凝縮しているように思われる。狂気、喜び、自由——人間の本質について語るこの声は、深い感動をもたらして、その親しげで快い響きを聞いていると、ちょうど、わたしたちそれぞれの内にあって、ずっと以前から言葉が見出されるのを待っていた思想が、みずから口を開いて語りはじめたかのようだ。そうなると、テクストを読みすすむわたしは、あちこちで、おかしな、楽しい、さわやかな話に行き会うだろう。彼の気取りと見えていたものは、いまや気取りのパロディーとなり、彼の晦渋さはユーモアの効果にほかならぬように見えはじめ、一行ごとに、禅の著作を浸しているのと同じ、あの声なき笑いが聞こえてくる。モーリス・パンゲ「文人ラカン」(工藤庸子訳)

 …………



ほんとうにこの書は、
岩塊のあいだで日なたぼっこをしている海獣のように、
身をまるめて、幸福そうに、
たっぷり日をあびて寝ころんでいるのだ。
つまるところ、わたし自身がその海獣だったのだ。

この本の一文一文が、ジェノヴァ附近の、
あの岩がごろごろしているところで、
考え出され、生捕りにされたものである、
そのときわたしのそばには誰もいず、
わたしはひとりで海と秘めごとをしていたのだった。

いまでも偶然この本に手を触れることがあると、
ほとんどその中のすべての箇所がわたしには、
何か類のないものをふたたび深みから
引き上げるためのつまみ場所となる。
そしてその引き上げたものの肌全体が、
追憶のかすななおののきによってふるえているのである。

この本における得意の技術は、
軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、
わたしが神々しいトカゲと名づけている瞬間を、
ちょっとのま釘づけにするという、
けっして容易ではない技術であるーー

といっても、あの若いギリシアの神が
あわれなトカゲを突き刺したような残酷さでするのではない。
だが、尖ったもので突き刺すことでは、同じだ、
つまりわたしはペンで突き刺すのだ……

「いまだ輝き出でざるあまたの曙光あり」--
このインドの銘文が、この本の扉にかかげられてある。

ーーニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳


…………

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ

ーーー谷川俊太郎「世間知ラズ」


とくにことわりのない場合以外は、西脇順三郎詩集から(段落毎に別の詩から)。
ただしフロイトの『グラディーヴァ』は、引用者によりかなり編集してある。
ニーチェ、フロイトの文の行分けは、引用者による。


…………


詩の擁護又は何故小説はつまらないか

                               谷川俊太郎


「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)



初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を

MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない

そんなのは小説のやること

詩しか書けなくてほんとによかった


小説は真剣に悩んでいるらしい

女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか

それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか

そこから際限のない物語が始まるんだ

こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの

やれやれ


詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ

小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る

のも分からないではないけれど


小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で

抜け穴を掘らせようとする

だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、

子どものころ住んでいた路地の奥さ


そこにのほほんと詩が立ってるってわけ

柿の木なんぞといっしょに

ごめんね


 人間の業を描くのが小説の仕事

人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事


小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ

詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く


どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが

少なくとも詩は世界を怨んじゃいない

そよ風の幸せが腑に落ちているから

言葉を失ってもこわくない


小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に

宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら

祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする



人類が亡びないですむアサッテの方角へ


2014年8月17日日曜日

蠟燭の焔/セックス後の煙草






うそくがともされた   谷川俊太郎

ろうそくがともされて
いまがむかしのよるにもどった
そよかぜはたちどまり
あおぞらはねむりこんでいる





くらやみがひそひそささやく
ときどきくすっとわらったりする
こゆびがふわふわのなにかにさわる
おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる

きもちがのびたりちぢんだりして
つばきあぶらのにおいがする
ぬかれたかたなのにおいがする
たいこのおととこどものうたごえ






きもちがのびたりちぢんだりする
ろうそくのほのおがちいさくなって
くらやみがだんだんうすれていくと
おはようとのんきにおひさまがやってくる

いちねん じゅうねん ひゃくねん せんねん
どこまでもまがりくねってみちはつづいて
ひとあしひとあしあるいてゆくと

からだのそこからたのしさがわく


…………




たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を指摘している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。

Perhaps the stereotypical cigarette smoked after sex in movies nevertheless points to a recognized lack in that jouissance, there being something more to be desired: an oral pleasure that has gone unsatisfied.(Bruce Fink 「Knowledge and Jouissance 『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』)




唇   谷川俊太郎

笑いながら出来るなんて知らなかった
とあなたは言う
唇はともて忙しい
乳房と腿のあいだを行ったり来たり
その合間に言葉を発したりするものだから





煙草をすいながら出来るなんて知らなかった

やっぱり口唇欲動はなんとしても満足させなくちゃな

ドラに関して(……)。フロイトによるドラ分析の五十年後、Felix Deutschが出版した後書きによれば、もともとの症状――カタル、神経性の咳、失声症――は、原初の形態に戻ってしまった。明らかに、フロイトがドラになした限定された分析は、彼女の症候の象徴界的素材を取り除くのに充分だったが、主体と口唇欲動のあいだの関係には触れ得なかった。結果として、口唇欲動は、シニフィアンの鎖のなかに再挿入されたのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)



口唇的な女は、最終的な勝利者らしいぜ

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

もちろん古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、
不潔な下水溝や沼沢地を思わせる女を好む時期もあったさ







Tristis post Coitum(性交後の悲しみ)

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より





もちろんだれもが口唇的であるわけではない

口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)

男と女で肛門欲動と口唇欲動をたがいに満足させあうという手もあるぜ






ラカンの四つの部分対象
口唇、肛門、眼差し、声だけでもないかもな
においとかね
オレは声とにおいがあやしいのだが

神経症では、ヒステリーの盲目と声の喪失を伴う。すなわち声と眼差しは無能化される。精神病では、逆に、眼差しと声の過剰がある。精神病者は眼差しを浴びる(パラノイア)、あるいは不在の声を聴く(幻聴)。倒錯者は、この二つの立場と異なり、声あるいは眼差しを道具化する。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)

精神病者でなかったら倒錯者ということになるな

欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。……《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

恥の人ではなく、罪の人らしいよ
タナトスではなく、エロスの人というわけか
ジジェクを信用するならばだが






◆ジャック=アラン・ミレール「愛について」より
Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(私意訳)

いろんな女がいるからな
首をしめないとオーガズムに達しない女だっているさ
それに気づかない「やさしい」男たちが多いから、
女は自分で首をしめざるをえないじゃないか

……幻想の顕在内容はこうである。すなわち、殴られ、縛られ、撲たれ、痛い目に遭い、鞭を加えられ、何らかの形で虐待され、絶対服従を強いられ、けがされ、汚辱を与えられるということである。(……)もっとも手近な、容易に下される解釈は、マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供として取り扱われることを欲しているということである。(フロイト『マゾヒスムの経済的問題』)

わかるのは千人斬りぐらいして熟練してからかもな
千人というと大袈裟かもしれないが
月に一人の女とヤッたら、三十年たてば三百六十人なんだから
そんな男はざらにいるぜ

女の多い職場にいたことがあって
(というかそれ目当てに会社を選んで)
入社して二年目にすこぶる色男の後輩が入ってきたのだな
京大出身の高校時代はサッカーのインターハイ出たヤツで

ーーねえ、Kさん、どっちがさきに百人ヤルか競争しましょうよ
どうやって証明するんだい?
ーー陰毛なんてどうですか?
などと言われたことを懐かしく思い出すが

アイツ会社の金ですぐに米国MBA留学して
さっさとやめちまったんだよな
9.11のあったあたりの高層マンションに住んで
ーーKさん、あっちの女はスゴイですよ
いまの女はダンサーなんですけど
Wait a minute!ていって
体位をころころ変えるんです、
軀がやたらに柔らかくって、なんてね

いまはどうしてんだろ





ところで、きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うだい? 
オナニーしているときのことだけどさ

「耳だわ、もちろん」

'Which part of the body is most intensely used while masturbating? The ear.' (“THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE” Paul Verhaeghe)


最近は趣味がやや高度になって
無声の映像で声やそれにともなう音(シーツが掠れる音とか)
を想像するのが好みだな






ーーちょっと最近、郷愁モードだな
いま現役まっさかりならこんなことは書かないさ

ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(中井久夫「カヴァフィス論」)

硬質さがめっきり衰えてね

2014年8月4日月曜日

男なんざ光線とかいふもんだ

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)



…………

◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より。
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。(女性に対する男性の)嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安(に抗する為に)から生まれたのだ。………





西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。その典型的なイメージはファンム・ファタール、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。宿命の女(ファンム・ファタール)は自然の精神的両義性であり、希望に満ちた感情の霧の中にたえず射し込む、悪意ある月の光である。………






宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………







社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………





自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………






エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。………

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)



女は腹の魔力(ベリー・マジック)を表す偶像であった。女は自分だけの力で腹を膨らませて出産するのだと考えられていた。この世の始まり以来一貫して、女は不気味な存在と見なされてきた。男は女を崇めると同時に畏怖した。女は、かつて人間を吐き出し、今度はまた呑み込もうとする暗い胃袋だった。男たちは団結し、女=自然に対する防壁として文化を作りだした。天空信仰はこの過程における最も巧妙な手段であった。というのも創造の場所を大地から天空へと移すことは、腹の魔力を頭の魔力(ヘッド・マジック)に変えることであるからだ。そしてこの防御的な頭の魔力から男性文明の輝かしい栄光が生まれ、それに伴って女の地位も引き上げられた。近代の女たちが父権的文化を攻撃する際に用いる言語も論理も、男たちが発明したものである。(同上)

ーーカミール・パーリアは第二世代のフェミニスト、あるいは揶揄的にアンチフェミニズムのフェミニストとも言われる。

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より





…………

あだしごとはさておきつ。

閑話休題(あだしごとはさておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼うにやきが出来上り、それからお取り膳ぜんの差しつ押えつ、まことにお浦山吹うらやまぶきの一場いちじょうは、次の巻まきの出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後あとは書かず。読者諒りょうせよ。ーー(永井荷風『妾宅』)

《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)






さて吾良を評価した映画批評家、五十女のエミーは、じつは吾良がプロモーションの旅行に加わっている間、吾良に同行していたのだった。それも吾良の暇を見つけてはホテル近辺の小さなレストランに招いてくれ、もっと長い記事を書きたい、と詳細なインタヴューを続けたのである。

 

そして吾良があらためてサンフランシスコに戻り、日本へ発とうという前日、中華街に誘ってくれての、しめくくりのインタヴューがあった。その後、ホテルへの狭い坂道を辿る途中で抱きしめあることにもなった。吾良は勃起を感じとらせぬよう腰を引く配慮をするどころか、この夜はむしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった。インタヴュー使用言語の英語によって抑圧されていると感じてきた反動の、攻撃性も自覚していた。なにより十日間のアメリカ旅行に、性的なエネルギーが蓄積されていたのである。その結果、エミーは自宅へ向かう替りに吾良の部屋へ上がって来ることになった。

 






――それまでは、健康なことはよくわかるけれども、肥って陽気なインテリ女性というだけだったんだよ。ところがいったんヤルとなると、もの凄い熱中ぶりなんだ。穴という穴、前後を選ばない人でさ。朝までこれの身体のどこかにいつも手をふれていて、ヤッてない間はひたすらペニスを奮い立たせる手だてを講じている。そのほかに何もないよ。さすがにタフな吾良さんもエジャキュレイトが難しいとなると、自分の口のへりにペニスを引き据えてね、おれには指を使わせて、舌で盛んに協力する。なんとか放出できたとなると、カメレオンのようにそいつを舌でとらえるからね。空港への迎えの車が来れば彼女も乗り込んで、ずっとペニスにさわっているんだ!

 

それが今度、三週間のスペイン・ロケが定まってみると、おれと同じホテルに部屋をとったといって来たのさ。恐怖の二十日間のことを思うと、ペニスともどもげんなりしてね!(大江健三郎『取り替え子』p75-76






写真はすべて荒木経惟作品である。


女っていうのはさあ、残酷って言うか、野獣だから「何で私のスケベなとこ見えないのかしら、そういうとこ撮ってくれないのかしら」って内心じゃ怒っているわけだよ。(荒木経惟)





《荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。》ーーと語ったのは、荒木経惟の長年のモデルのひとりであるKAORIちゃんであるかどうかは知るところではない。

荒木の写真は、自分がいなくても自分が写りこむ「私写真」と本人が称するように、写真家の"存在"を痛烈に感じさせるものだ。直接姿を見せずとも、自分を写真の中に色濃く写し出す。(……)

こうした写真家の意図が、「自然に、ありのままに裸体が存在しているはず」という見るものの思惑を、そして見るものの視線を中断させるのだ。できるだけ写真家の痕跡を消そうとしていたグラビア写真とは正反対の行動である。荒木の写真は、扱う題材が一般的なポルノグラフィーとほとんど変わらない、もしくはそれ以上に過激であるにもかかわらず、「役に立たない」写真であるとされている。伊藤俊治の言葉を借りれば、「孤独な満足」を得られないのである。ポルノグラフィーでは可能だった鑑賞者と被写体との個人的な関除に、第三者として荒木が割って入っているからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣







2014年7月27日日曜日

きびきびして蓮っ葉な物馴れた女

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』)

そんなことありませんわ秋声先生
最近じゃあ三十歳あたりまで色つや保てるらしいですよ




ほら初婚年齢だって男を追い抜かす勢いなんです

なんだって男たちには負けちゃいられない世相なんですから

先生だって『黴』ではこう言ってるじゃあありませんか

「そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ」(徳田秋声『黴』)

結婚するくらいなら、何をしたって食べて行けますわ
安易の風に吹かれて一生独身ほうがいいくらい
だっていまどき甲斐性のあるいい男なんて
めったにいやしないですから

浅井の調子は、それでも色の褪せた洋服を着ていたころと大した変化は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌いなその身装などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。(……)

ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢れているように見えた。(『爛』)

どこにいるっていうのかしら
女遊びで磨かれた活動の勇気が溢れた男なんて
きびきびして蓮っ葉な物馴れた女はいっぱいいるのに

《お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った》(『あらくれ』)


あらでもこんな女もいなくなってしまったわ

一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。(『あらくれ』)


…………

徳田秋声は、女性を書かせたら神様というのが一部の読み巧者の評判であった。

「日本文学は、源氏、西鶴、それから秋声に飛ぶ」とするのは川端康成だ。


前期の徳田秋声の小説には「安易」という語が頻出する。


お庄は唯笑つてゐたが、此女の口を聞いていると、然うした方が、何だか安易なやうな氣もしてゐた。(德田秋聲『足迹』)

これはまだ日本橋の堅いところに奉公していた頃、例の朋輩に茶屋奉公をすすめられたときの、お庄のふとした思いであるが、この中の《安易》という言葉には独特の意味合いがあるようだ。たとえば今の箇所のすこし前の、不貞た朋輩の話に耳を貸しながら、《お庄も足にべとつく着物を捲く上げて、戸棚に凭れて、うつとりして居た》とある、その姿その体感に通じるものである。頽れるにまかせて流されていく安易さ、その予感のうちにすでにある懈さ、と言えば説明にはなる。しかし生活欲の掠れた倦怠ではない。お庄は若いが上に生活欲の盛んな女であり、その点では滅多に頽れはしない。むしろ生活欲のおもむく、埒を越して溢れ出すその先に、安易の予感はあるようなのだ。秋聲の人物の多くがそうである。生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる。(古井由吉『東京物語考』「安易の風」)

『足迹』のお庄や『黴」のお銀は、秋声の妻がモデルだ。


・どうかすると鼻っ張りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽されそうになって来た。

・そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥いだ口の利き方や、焦だちやすい動物をおひゃらかして悦んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。(『黴』)


《生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる》女の風情に、秋声は魅せられていたのだろし、読者も見せられる。これが欲望の対象-原因(対象a)でなくてなんだろう、《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)


そして『爛』にも『あらくれ』にも秋声の〈対象a〉はいる。

・お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。

・階下に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。(『あらくれ』)



◆”Conversations with ZiiekSlavoj Zizek and Glyn Daly)ーー『ジジェク自身によるジジェク』として邦訳されているが、原文しか手元にないので、私テキトウ訳。


幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。


《秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる》(川端康成 新潮文芸時評 1993.4


オレかい? 生活欲に振り回された末の
安易の風のふく女は当地にいっぱいいて
この土地の「お庄」に魅せられたんだけど
(かつてはだな)
最近は「日本化」してきたんじゃないか
二十年近く前はこんなたぐいの虎視眈々とした女が
月ドル換算にして百ドルぐらいで暮らしてたんだから
五十ドル払って衣裳でも買って食事でもすれば(以下略)





いずれにせよ初老の身でとっくの昔に引退だよ
いまはむしろ西脇順三郎の女たちの
淡い自堕落さや嘲弄感が対象aだな
麦酒か米焼酎一緒に飲んで
なめらかな舌でも眺めてるのがいいなあ

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)





・向うの家ではたおやめが横になり/女同士で碁をうっている

・イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる。

・美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを/かたむけてシェリー酒をのんでいる

・女神は足の甲を蜂にさされて/足をひきずりながら六本木へ/膏薬を買いに出かけた

・女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午





荒木経惟の女たちのまなざしもたまらないなあ




荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣


もちろんこっち系だってあるさ



「いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇順三郎「無常」)










2014年7月20日日曜日

禁断の大麻の地と聖なるふにゃちん

隣国に小旅行。旅行といっても、パイプにつめる煙草と干物の魚の買い出しがおもな目的だが、しばしば訪れる。食事がおいしいのは王国だからか、今住んでいる土地の料理も日本では好まれるようだが、隣国の料理は、よく選べば、味の繊細さという面では段違いだ。とくに行きつけの場末にあるあまり綺麗とはいえない食堂、そこの香菜と揚げた魚の鰭をタマリンドのソースであえたサラダのなんという美味なこと。これが当地の黄色く澱んだ米焼酎にぴったりだ。何度も訪れているので、そこの女主人とは顔馴染みで四階建てのその住まいの三階と四階が貸間になっていて、そこに宿をとる(女主人? ばあさんだ…だが娘がいる…美人で…上品で…艶があって、しなやかで、やせている…三十前で、やくざの三下のような夫がいる、ヒモのような野郎だ…これが玉にきずだ…かすかな悪徳…翡翠の笛…水ぎわの物語…月光の露…ほとんど子どものようなからだ…四人で花札のようなカードゲームをやった…膝の崩し方がなんともいえない…軀は痩せているのに、その太腿の緊りのない肉づきの猥褻さ、輪廓の素直さと品位とを闕いているどこか崩れたような貌…いや、ばあさんのほうさ、ばあさんって言ったって、オレより五歳ほどは若い…)

おんぼろバスに揺られて五時間ほどの買い出しなのだが、今回は雨季ということもあり、また痛風のぐあいを惧れるので、アンコール・ワットまでは行かなかった(隣国の首都からさらにバスなら五時間ほどかかり腰が痛くなるのもある)。途中にあるメコン川でバスはフェリーに乗るのだが、その川の濁流がいつもにも増して見事だった。あの川幅は二百メートル以上はあるのではないか。うまくいけば、河海豚にだって廻り会える(といってもたぶん三十回以上は往復していて、オレの場合一度だけだが)。





ジボナノンド・ダーシュの『美わしのベンガル』(臼田雅之訳)の至高の詩句、「ベンガル」に「メコン」を代入してもいいくらいだ。

君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に

ーーメコンの濁流の生と死の過剰、メコンの稲田の上にただよう靄の湿り、密林に鳴く鳥の声、乙女の黒髪の匂い…私はこのメコンの岸に残るつもりだ…酔っ払って、死んだら灰にしてメコンに流してほしいと妻に向かってくだを巻くのはただのジョークではない。

いずれにせよメコンのカフェオーレ色の水が水量を増して渦巻いているのを眺めるのは、何度見ても素晴らしい。海よりも川が美しいことがありうるのを知ったのは、メコンに出逢ってからだ。この川の下流に妻の故郷の町があるのだが、かつては(クメール・ルージュの時代は)頭をちょん切られた屍がプカプカ流れてきたとは、妻の母や叔父たちから聞いた。きっと今でも川の水は滋養溢れ、魚が美味なのはそのせいだろう…。河岸の住まいの女たちはいまでもこの川水で風呂に入る。美しい黒髪、大理石の肌、頭を洗うときに垣間見える腋毛の翳…柔らかな昆布の繊毛から滴り落ちる水滴…死の匂い、エロスとタナトスのかおり…トラクターで運ばざるをえなかった夥しい髑髏の山の成果…







(この髑髏の陳列室に入ると臭う。肉の細片が残っているわけでもないだろうが。五分以上の長居をしたくないにおいである。)



自宅から、バスに揺られて二時間すれば隣国との国境だが、そこからさらに二時間強行くと隣国の首都だ。帰路、そこのフェリーの待ち時間のあいだ河岸で、香菜や生の川魚も買う。物売りの老婆や中年の女、少女たちが寄ってきて、ときにこちらの肘やら手の甲に触れたりして、押売りするのは相変わらずだ。慣れない当初は、それが鬱陶しかったが、これもあしらい方のこつをつかんで、いまでは楽しいやりとりのひとつになった(デルタの土地だよ…メコンデルタ、黄金の三角形…禁断の大麻の地…大文字のママ、母なる神…聖なる川の楽園…)。ーー《あまりにゴヤ的なゴヤ的な/それからホウガスの小海老売りの女/も安い複製の通りの女がいた/また買ってくれたお客をよろこばす/ために閨房のまねをする梨売り女》(西脇順三郎「第三の神話」)

宿泊は上に記したように壁の薄い安宿。空調はなく天井扇だけ。シャワーも温水はでないが、そのかわりひどく安い宿賃だ。近傍に薄暗いマッサージ屋もある。だが、ここでは、《手をとり、足をとり、ひっくりかえし、裏返し、表返し、男は熟練の技で、いささか手荒く、けれど芯はあくまで柔らかくつつましやかにといったタッチで……》(開高健『玉、砕ける』)とだけにしておこう(いやクメール風マッサージのあとは、追加料金を払ってラベンダーの匂いが主なアロマオイルを使ってもらうのはいつものことだ…初老の男はいつのまにか若い女にかわっているなどということはないか…気怠るさの感覚…決して無垢ではないある種の陶酔感…何かに触れ、あるいは触れられるような悪徳の指先の動きの蠢動…太陽の光を十分にすいこんだ枯れ草のにおいのようであったり、かすかに腐乱した果実のようなにおいであったりする女たちの腋窩やデルタの匂い…デルタの匂い?…いやメコンデルタの泥水の淀み饐えた匂い…)合間に女がすすめるジャスミン茶…ひどく色濃い…まるで翡翠の粋…なにか別のものが入っていないか…《無上のソクラテス、緑色をした冥府の飲み物…ギリシア人たちの地獄…亡霊たちの隙間風…ブルブル! ところがなんと、わが子たちよ、この毒薬はこともあろうに軟膏だったのだ…制淫剤…これはかつて秘密の儀式で使われていた…ウルトラ秘密主義の儀式…聖地エレウシス…偉大なる巫女と偉大なる神官が、宇宙の豊穣を保証する模擬交接を二人で執り行うに際して、聖なる洞窟のなかの神秘の穴の奥で、いままさに偉大なる神官のペニスに毒ニンジンが塗られようとしていた…そうやって、神官はふにゃちんのまま、敬虔で、聖なる状態にとどまっていたのだ…》(ソレルス『女たち』)いや毒ニンジンなどなくたって、最近はほとんどふにゃちんのままさ、安心しな、仏顔の美少女たちよ






中井久夫は八十歳近くになってベトナム語を学んでいるそうだが、オレもブログなどぐたぐた書いておらずに、クメール語を学ぶべきかもしれない。




夜半、ラベンダー油の薄い膜をまとったをベッドに横たえる…古い植民地時代のつくりの家のため、天井はひどく高い…天井扇が不規則にカラカラと鳴る、そろそろ寿命ではないか…窓はいささか傷み過ぎてきるが鎧戸で覆われており、さいわいにも今晩は虫も蚊もいない…薄い壁の向うの隣室から、なにかが蠢く気配…ささやき声…シーツの擦れる音…いつものことだ…《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)気がする…あるいは、《そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった》(プルースト)…かつて歌舞伎町にある新宿プリンスを常宿にしていた…学生時代によく馴染んだ高田馬場の盛り場にも近い…馬場には安いイタリア料理屋があった…つまみが豊富で、サフランのリゾットがいけた…ワインもボトル二本開けたって予算内で済む…なんの話だ…歌舞伎町のプリンスホテルの壁だったな…あそこの壁はひどく薄い…しかも客層がわるい…ひどく悪い…なんど間歇的なさけび声を聞いたことか…



2014年5月31日土曜日

五月卅一日 黒服の婦人の娘のような流し目

木曜日 十一時半

私は読書室で二時間仕事をした。それから、パイプを燻らすために抵当権登記所の中庭に降りた。そこは薔薇いろの煉瓦で舗装された広場であって、十八世紀に落成し、いまはプーヴィル市民の誇りとなっている。シャマード街とシェスペダール街との入口には、古い鎖が車の出入を遮っている。犬を散歩させにきた黒服の婦人たちが、壁に沿ってアーケードの下を通って行く。彼女たちは陽当りのよい場所には滅多に行かないが、娘のような流し目をこっそりと満足げに、ギュスターヴ・アントベトラーの銅像に注ぐ。彼女たちがこのブロンズの巨人の名を知っているはずはないが、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流階級に属していただれかであることを悟るのである。銅像は左手に帽子を持ち、右手を二つ折判の本の山の上に置いている。自分たちのおじいさんが、青銅で鋳造されて、この台の上に立っているかのような感じがいくらかする。あらゆる問題について、彼が自分たちと同じように、ほとんど同じように考えていることを知るために、長い間銅像を眺める必要はない。彼の権威と、彼が重い手で押し潰している二つ折判のたくさんの本の中から汲みとられた絶大な博識とが、彼女たちの狭くて堅実な、取るに足りぬ意見の助けになるのだ。黒服の婦人たちはほっとするのを感じる。心安らかに家事にいそしみ、犬を散歩させることができる。彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない。代りに青銅の男が番人になっているのだから。(サルトル『嘔吐』白井浩司訳 p47-48)


自分たちのおじいさんのような銅像に、黒服の婦人たちは娘のような流し目を送る。それだけで、ほっとするのを感じる。そうすれば、《彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない》。祖先伝来の厳格なモラルは、青銅の男の番人が代って守ってくれる。

ここには「礼儀」の効用がある。信じたふりをする効用がある。それはなにも跪く必要はない。娘のような流し目だけでよい。「おじいさん、分かってるわ、覚えているわよ、あなたの言いつけ」、――こうしておけば、その後、すこし羽目を外しても大丈夫なのだ。われわれも同じく。正月に神社にお参りにしたり、神棚をちらっと横目で見たり、仏壇の線香の香りに束の間うっとりするだけでよい。いや手を合わせて祈ったら、もっと効果がある。さあ、そうすれば、急いだってかまわない、夜の街へ(男を騙しに)。





《自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)



以下、上のジジェクの文の前後を、もう少し長く抜き出しておこう。


どうやらわれわれがここで論じているのは、ずっと昔にブレーズ・パスカルが描き出した現象のようだ。パスカルは、信仰を持ちたいのに信仰への飛躍がどうしてもできない非信者への助言の中で、こう述べている。「跪いて祈り、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」。あるいは、現代の「断酒会」はもっと簡潔にこう言っている。「できるふりをしろ。できるようになるまで」。しかし今日、文化的ライフスタイルへの忠誠心から、われわれはパスカルの論理を逆転する。「あなたは自分が本気すぎる、信じすぎると思うのですね。自分の信心が生々しく直接的すぎるために息苦しいのですね。それならば跪いて、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰を追い払うことができるでしょう。もはや自分で信じる必要はないのです。あなたの信仰は祈りの行為へと対象化されたからです」。つまり、自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)

 ここから、われわれは象徴的秩序の次なる特徴、すなわちその非心理的な性質へと向かうことになる。私が他人を通じて信じる時、あるいは自分の信仰を儀式へと外在化し、その儀式に機械的に従うとき、あるいはあらかじめ録音された笑いを通じて笑うとき、あるいは泣き女を媒介して喪の仕事をおこなうとき、私は内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。そこに、われわれが「礼儀」と呼ぶものの謎に満ちた状態がある。私は知人に会うと、手を差し出し、「やあ(会えてうれしいよ)、元気?」と言う。私が本気で言っているのではないことは、両者とも了解している(もしその知人の心に「この人は私に本当に関心を持っているのだろうか」という疑念が芽生えたら、その人は不安になるだろう。彼の個人的なことに首を突っ込もうとしているのではないか、と。古いフロイト的なジョークを言い換えるとこうなる。「どうして会えてうれしいなんて言うんだ? 会えてうれしいと本気で思っているくせに」)。ただし、私の行為を偽善的と呼ぶのは誤りだ。別の見方をすれば、私は本当にそう思っているのだから。礼儀正しい挨拶は、われわれ二人の間にある一種の契約を更新しているのだ。同様に、私はあらかじめ録音された笑いを通じて「本気で」笑っているのである(それが証拠に、私は実際に気分が楽になる)。(ジジェク『ラカンはこう読め』




《結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する》については、ジジェクには種々の変奏がある。


ここでは最近の書『LESS THAN NOTHING』(2012)から、ひとつだけ抜き出しておこう。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(私訳)

逆に言えば、「犬のお尻にほれてしまえば、 犬のお尻もばらの花」(プルースト)。

ジジェクの文の<対象a>が結婚によってなくなってしまうとあるが、対象aとはかくの如し。

永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)

もっともさきほど私訳した『LESS THAN NOTHING』の文のあと、しばらくして次のような文がある。

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。


誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

二流詩人や小説家の「理想化」に耽溺するのには注意しなければならない(場合によっては、一流詩人・作家でさえ)。

宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。

こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。
つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。(……)

したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。

ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。
これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。(ジジェク『快楽の転移』)

これらはジジェク独特の極端な例でありーー極端だから愉快になるのだがーー、実際のところは結婚生活では、ほとんどの場合理想化も崇高化も生き残らず、友達化やら母親化などがせいぜいのところだろう。

と書いたところで、また愉快な極端さをもったジジェクの文を想い起こす、《いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている》。こうして男たちは結婚後も「もう一人の女the Other Woman」を探し求める(参照:ジジェクの愛の定義)。

ーーなどとジジェクばかり引用せずにも、わが野坂昭如の言葉がある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)



ーー実は、昨晩Tumblrを眺めていてこの写真に行き当たり、しばらく茫然としていたのだよな。ああ、失われたもの。日本にノスタルジイを覚えるのはそんなに多くはないけど、これだけは紛れもない喪失感だ。祇園の女が去って行く。これはおそらく宮川町通か? あの店のママの名前だけ憶い出して、店の名が憶いだせない。こじんまりしたほの暗い空間のなか、白木のカウンターの向こうの匂いやかな中年の女のほほえみ。低く穏やかな声。肌理の細かい象牙色の肌。薄暗さのなかの妖艶さは他の国でもあるが、あのほの暗さのなかの清冽さと親密さというのはなかなか出会うことはできない。せつなさ、遣る瀬無さ、沈んだ翳りのなかのつややかさ--谷崎の『陰翳礼讃』でもあり川端の『美しさと哀しみと』でもあるあの感覚。

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎)

あれはオレの「崇高化」だね、三十前後の青年が、バブルの余沢もあったけど、週に二、三度は通ったからな。「お日様の光のもとでみたら、あたしなんかもうおばあさんよ」などと囁いた声まできこえて来るよ。それとも単なる「理想化」だったのか。厨房に弟子入りしてカウンターの向こうに入ったら究極のシアワセじゃないか、などとまで思い詰めたことがあるからなあ。

さて何の話だったか。結婚?女たち? 彼女たちも母親化にうんざりして、別のアバンチュールを探すんじゃあないかい? もしそうでなかったら、次のようなことになりかねない。

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)

だが、そもそも結婚前の情熱恋愛などというものが稀になっているのかもしれない。いまでは結婚とは「セキュリティ」のためであったり、最初から妥協化によってなされることが多いのだろう。「婚活」などというなんともはしたない言葉の流通は、「新自由主義」ーーその三つの標語「成功」「自己投資」、そして「負け犬」)ーーの猖獗を象徴するものである。その破廉恥を破廉恥とさえ感じなくなっているのが現代日本人というものだ。「女子力」などというものもその類であろう。結婚がいまだ「神聖」なものでありうるのは、同性愛者の間だけかもしれない。





2014年3月21日金曜日

椿油でゴテゴテ光る黒髪

美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを

かたむけてシェリー酒をのんでいる

従妹というのかなんというのかはよく知らないが妻とほぼ同年配の色っぽい女が米国から訪れて、というのはいわゆる華僑ならず越僑の娘であり、その父親が妻の近縁にあたるのだが、二人は夜半まで甘い酒を酌み交わしている。少しのあいだはご一緒させてもらったが、思出話が尽きぬらしくわたくしはしばらくして二階の書斎に引きこもったがそれでもときおりえもいわれぬ嬌声が響き渡る。気が散って本も読むことがままならず、といって音楽を聴く気分でもない。なんの気分かといえば、AVでも見たくなる気分だが、どうもインターネット上には好みの映像作品が見つからないのだ。といってもそれなりには観賞するほうなのを隠すつもりはない。いまは日活ロマンポルノか代々木忠のかつての作品が見たい。わたくしはAVの奥手でありまともに見だしたのは三十前後で、そのころ代々木忠にぞっこんだった。というかほとんど彼の作品しか観なかった。仕方がないので代々木忠のブログを眺めてることにするが、最近のはあまりおもしろくない。《これまで見てきた経験で言うと、感じやすいのだがイケない子に、実は潮吹きが多いように僕には思える》と書かれる2008年の記事「4回 潮吹きについて考える」は忘れがたいものだ。「第8回 表社会と裏社会の狭間」では日活ロマンポルノ上がりで、小指がないことも知った。


それにしてもあの越境女は黒髪がうつくしい
秋でもないのに《もう秋は四十女のように匂い始めた》


石榴と鐘は恋情に

ペン軸は女のパイプに

鉄橋は汽車に

冷寒は盆地に

椿油でゴテゴテ光る黒髪は

四十五歳の女に属すか