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2014年11月12日水曜日

小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚

男根が子宮口に当り、さらにその輪郭に沿って奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる場合が、稀にある。小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚がつたわってくる(吉行淳之介『暗室』)





あの海は昏い、あの海は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、

あの海は太古から変わらぬはるかな眼差しとたえず打ち寄せては退く波音のなだらかな息遣いを夜陰に拡げ、少年の恥軀をすっぽり覆い尽くし、雲間ごしにかすかに洩れた月光だけが少年の足元にまでとどいて、あちこち波打ち際に舫う海人船と荒磯にひそむ泡船貝の蠢動を仄かに照らしている、

生暖かな浜風が少年の魂に誘う何たる蠱惑の触手、短袴から斜めに突きだしつややかな肌を輝かせる一本の百日紅樹は、脈うち反りかえり薔薇色に変貌し、すもものように包皮を脱ぎ棄て密やかに反復される熟練の骨牌賭博師の手捌き、少年はある未知の道、死の道とも思われた一つの道をかきわけ、ついに勢いよくふるえおののき、月明りのなか白い鳩の羽搏きを奔出させる、耳のなかの海潮、その凪、その放心、遠い水平線の手触り、茫漠たる焚火の燻り、燃え尽きた魂の煙、--少年の足元を浸しはじめる潮満ちる海は法螺貝のむせび泣きとともに、栗花薫る漿液を吸い清める、少年は星の俘虜のように海の膝に狂った星を埋める、それとともに四方八方にひるがえって交接する無数の夜光虫、あの圧倒的な現前のさまを思え、海の熱風、海の卵巣、海の気泡、海のこめかみ、海のひかがみ、海のひよめき、海の窪みの抱擁に少年はもどかしくもたゆたいはじめ、空から落下する無垢の飾窓のなかで偶さかの遊戯の余韻に溶け込んでゆく、


「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。___ 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」(三好達治「郷愁」)

あの女を見つけねばならぬ、あのなかにこそほんとうの奇跡が潜んでいるのだから、ふるえる一筋の光の線がなぎさを区切っている不動の海、ゆらぐ海藻のかげ、波間に見え隠れするとび色の棘、縦に長く裂けた海の皺の奥、その輪郭に沿ってさらに奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細かく柔らかい触手が伸び絡まりつき、小さな気泡が弾ぜる数え切れない奇跡の痕跡がくっきり刻まれているのだから、あの女は昏い、あの女は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、紡錘形の二つの岬のあわいの磯陰でひたひたと匂いさざめく法螺貝の唇をまさぐりあて、あの女のなかに歩み入っていかねばならぬ






2014年9月21日日曜日

咲き出でる樹木の白い「死」

ややメモが溜まってきたのでいくつかの下書きを吐き出す。

…………

@hoshinot: すごい言葉を見つけてしまった!「死んでる組織と生きてる組織があるのが木。生きてる組織だけなのが草花です。」ーいとうせいこう・竹下大学『植物はヒトを操る』より。木というのは中心が死んでいるのだそうだ。木は世界そのもの! http://t.co/hpOd63BYrI
@seikoito: 今日、星野智幸君が紹介してくれた「植物はヒトを操る」で竹下大学さんに教わったことは他にも色々あって、純白の花は自然界になく、突然変異でアルビノが出ても虫には見えない。だから虫媒されない。いわば人に好きにさせて人で増える。http://t.co/nxw1MKKCus
@seikoito: あと、前に森林専門家に聞いたら鹿が樹皮をぐるりと剥がして食べちゃうと、木は全血管を切られたように立ち枯れる。樹皮は「現在」の生命で、その内側はいわば樹木の「過去」が固化したもの。鹿は「現在」を断ち切るだけで、時間の堆積した森全体を素早く破壊してしまう。 (いとうせいこう)

木というのは中心が死んでいる》だって?
《樹皮は「現在」の生命で、
その内側はいわば樹木の「過去」が固化したもの》だって?

樹木の内側だって年々大きくなっていくんじゃないのか
年輪は年毎に変貌していくのじゃないのか

わたくしの「凡庸」な頭には理解できないところがある
にもかかわらず
草花よりは樹木のほうを「特権的」に愛する
そして白い花が咲く樹木をなによりも好むわたくしには
なんとも魅惑的な言葉だ

当地に来て最初に魅せられたのはインドソケイ(プルメリア)の樹だった





そうだな、まずあそこにはリルケがいる

死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは私たちの存在の世界が生と死という二つの無限な領域に跨っていて、この二つの領域から無尽蔵に養分を摂取しているのだという、きわめて広大な意識をもつように努めなければなりません。まことの生の形体はこの二つの領域に跨っているのであり、この二つの領域を貫いて、きわめて広大な血の循環がなされているのです。此岸というものもなければ彼岸というのもありません。あるのはただ大いなる統一体だけで、そこに私たちを凌駕する存在である『天使』が住んでいるのです。(富士川英郎・高安国世訳『リルケ書簡集2:1914–1926』――『ドゥイノの悲歌』の翻訳者への書簡らしい)

白い花とは樹木の体の中に宿る「神」や「天使」が咲き出でたのではなく
「死」が咲き出でたーー、それでどうしていけないわけがあろう


噴水の管(くだ)にも似ておんみのしなやかな枝々は、
樹液を下へ、上へと送り、それはほとんど醒めることなしに、眠りの中から
甘美な事業の幸福へとおどり入る。
さながら神があの白鳥に転身したように。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第六 手塚富雄訳)

もっとも《純白の花は自然界になく》とあるように、
突然変異や人工的な花以外は
どの白も虫媒されない純粋な死の花ではない
ただ喚起されたイメージからの話である

そして花はなにも白でなくても、
すべて死のメタファーであるかもしれない、
という観点はここでは脇にやりつつの話だ。

例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただしい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、しかし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残していく。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』)
薔薇よ、あゝ、純然たる撞着、いや歓喜〔よろこ〕びよ、
それすなわち、あまた伏せられた瞼の下で、
誰しの眠りにもあらぬことの。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.

— (in seiner letztwillige Verfügung, Oktober 1925.)

樫村晴香とはあまり知られていない名かもしれないが
オレとほぼ同年、かつては浅田彰との対談もある
今は仏で肉体労働?やったり、
ミャンマーの山奥で瞑想しているなどということもあるらしい
奥さんのラカン派である愛子さんは、
オレの故郷の私立大学で教師をやっている。





純白にみえる香高いジャスミンの花も
純粋の白ではないということなのだろう
突然変異でアルビノが出た花ではない
虫には見えない花ではない

庭にある何本かのジャスミンは多くの蝶が寄ってきて
油断をすると貪食な幼虫に一晩で葉を食い尽くされてしまう




チューリップの新品種「アルビノ」とは虫には見えないということなのか
ちょっとそのあたりがわたくしにはよくわからない





「ハクモクレン」が登場したところで、この文は、「逃げ水と海へ向かう道」の続きものでもあるのだが、その関連はあえて示さないでおこう。


…………

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(フーコー『臨床医学の誕生』(ビシャの言葉引用から)



女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ『マルテの手記』)

孕み女の腹を撫でさするように樹肌を愛撫するのは
樹木の「死」の、樹木の「過去」の、
ひそかなざわめきを、掌でまさぐる仕草であったとして、
どうしてわるいことがあろう

昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(同マルテ)

…………

鹿が樹皮をぐるりと剥がして食べてしまう、
すると木は全血管を切られたように立ち枯れる。
丸裸にされた樹木の「死」、あるいは「過去」!

――なんという豊かなイマジャリー
それはリルケの詩と同じくらい

……おお、幼年時代の日々よ
そのときわたしたちの見たもろもろの形象の背後には単なる過去
以上のものがあり、また、わたしたちの行手をおびやかす未来もなかった。
もちろんわれわれは刻々に生長した、ときにはより早く
生長しようと背のびした。。ひとつには成人であること以外には
なんの持ちあわせもない大人たちの喜びを買うために。
けれど、わたしたちがひとりで道を行くときには、
過去も未来もない持続をたのしみ、世界と
玩具とのあいだにある中間地帯の、
大初から、純粋なありかたのために設けられた
ひとつの場所に立ったのだ。
たれが幼いものを、そのあるがままの姿で示すことができよう。たれが
幼いものを星々のあいだに据え、遠隔の尺度をその手に
もたらすことができよう。たれがかたまりゆく灰いろのパンから
幼い死を形成することができよう。――またその死を
甘美な林檎の芯のように幼いもののまろやかな口に
含ませることができよう? ……殺害者たちを
見抜くのはたやすい。しかし死を、
全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも
やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、
そのことこそは言葉につくせぬことなのだ。(ドゥイノ 第四の悲歌 手塚富雄訳)

…………

もっともいくら樹木を愛でても
次のような文に、若いうちからーーわたくしのように三十歳前後でーー
魅せられないほうがいいのかもしれないとは言っておこう。

だいたい章の心のなかには、古い大きな木の方が、 なまなかの人間よりよっぽどチャンとした思想を持っている、という考えがある。

厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、 そのときどきに通用するように案出された理屈にすぎない。 現象解釈ならもともと不安定なものに決まってるから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、 それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿気たことだと思っている。

皇国思想でも共産主義革命思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、 現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。 それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。 そんなものは、個人的に飲み込まれた営養あるいは毒であって、 肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。

章は、ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、 または病苦や肉親の死をどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。 そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである。

章は、もともと心の融通性に乏しいうえに、歳をとるに従っていっそう固陋になり、 ものごとを考えることが面倒くさくなっている。一時は焼き物に凝って、 何でも古いほど美しいと思いこんだことがあったが、今では、 古いということになれば石ほど古いものはない理屈だから、 その辺に転がっている砂利でも拾ってきて愛玩したほうが余っ程マシで自然だとさとり、 半分はヤケになってそれを実行しているのである(藤枝静男「木と虫と山」)

中上健次の夏ふようの白い花に魅せられるくらいだったらいいさ。




空はまだ明けきってはいなかった。通りに面した倉庫の横に枝を大きく広げた丈高い夏ふようの木があった。花はまだ咲いていなかった。毎年夏近くに、その木には白い花が咲き、昼でも夜でもその周囲にくると白の色とにおいにひとを染めた。その木の横に止めたダンプカーに、秋幸は一人、倉庫の中から、人夫たちが来ても手をわずらわせることのないよう道具を積み込んだ。
光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、土に当たっていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当たり、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上がってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。(中上健次『枯木灘』)


2014年8月6日水曜日

「あなたは度胸のない人ですね」

夏目漱石の『三四郎』の冒頭近くにとても印象的な叙述がある。上京の車中で知り合った女に請われ、ともに過ごした名古屋の宿での不可解な一夜の翌朝の別れ際、女に、「あなたは度胸のない人ですね」と言われる話だ。少年時代に『三四郎』を読み、これだけは言われないようにしようと思ったものだ。





女は名古屋に着いたら《名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内してくれ》と言い出す。夜も更けて《気味が悪いからと言って、しきりに頼む》。三四郎も不案内の土地である。《ただ暗い方へ行った。女はなんともいわずについて来る。すると比較的寂しい横町の角から二軒目に御宿という看板が見えた》。女に相談したらここでいいと言う。《上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――御案内――梅の四番などとのべつにしゃべられたので、やむをえず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。》そして、三四郎は《下女が茶を持って来て、お風呂をと言った時は、もうこの婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。》しかたなしに《お先へと挨拶をして、風呂場へ出て行》き、《風呂桶の中へ飛び込んで》思案する、《こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。》

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽を飛び出した。

《下女が床をのべに来る》のだが《広い蒲団を一枚しか持って来ない》。三四郎は《床は二つ敷かなくてはいけない》と頼むのだが《部屋が狭いとか、蚊帳が狭いとか言ってらちがあかない》。女が戻って来る。《どうもおそくなりましてと言う》。蚊帳の影で何かしている。《がらんがらんという音》がする。どうやら子供のみやげの玩具が鳴った音らしい。

蚊帳の向こうで「お先へ」と言う声がした。三四郎はただ「はあ」と答えたままで、《敷居に尻を乗せて、団扇を使》い、《いっそこのままで夜を明かしてしまおうか》とも思うが《蚊がぶんぶん来る。外ではとてもしのぎきれない》。

それから西洋手拭を二筋持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。






元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。




どうも、ああ狼狽しちゃだめだ。学問も大学生もあったものじゃない。はなはだ人格に関係してくる。もう少しはしようがあったろう。けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受けようがないとも思われる。するとむやみに女に近づいてはならないというわけになる。なんだか意気地がない。非常に窮屈だ。まるで不具にでも生まれたようなものである。けれども……








2014年8月4日月曜日

男なんざ光線とかいふもんだ

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)



…………

◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より。
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。(女性に対する男性の)嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安(に抗する為に)から生まれたのだ。………





西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。その典型的なイメージはファンム・ファタール、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。宿命の女(ファンム・ファタール)は自然の精神的両義性であり、希望に満ちた感情の霧の中にたえず射し込む、悪意ある月の光である。………






宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………







社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………





自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………






エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。………

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)



女は腹の魔力(ベリー・マジック)を表す偶像であった。女は自分だけの力で腹を膨らませて出産するのだと考えられていた。この世の始まり以来一貫して、女は不気味な存在と見なされてきた。男は女を崇めると同時に畏怖した。女は、かつて人間を吐き出し、今度はまた呑み込もうとする暗い胃袋だった。男たちは団結し、女=自然に対する防壁として文化を作りだした。天空信仰はこの過程における最も巧妙な手段であった。というのも創造の場所を大地から天空へと移すことは、腹の魔力を頭の魔力(ヘッド・マジック)に変えることであるからだ。そしてこの防御的な頭の魔力から男性文明の輝かしい栄光が生まれ、それに伴って女の地位も引き上げられた。近代の女たちが父権的文化を攻撃する際に用いる言語も論理も、男たちが発明したものである。(同上)

ーーカミール・パーリアは第二世代のフェミニスト、あるいは揶揄的にアンチフェミニズムのフェミニストとも言われる。

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より





…………

あだしごとはさておきつ。

閑話休題(あだしごとはさておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼うにやきが出来上り、それからお取り膳ぜんの差しつ押えつ、まことにお浦山吹うらやまぶきの一場いちじょうは、次の巻まきの出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後あとは書かず。読者諒りょうせよ。ーー(永井荷風『妾宅』)

《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)






さて吾良を評価した映画批評家、五十女のエミーは、じつは吾良がプロモーションの旅行に加わっている間、吾良に同行していたのだった。それも吾良の暇を見つけてはホテル近辺の小さなレストランに招いてくれ、もっと長い記事を書きたい、と詳細なインタヴューを続けたのである。

 

そして吾良があらためてサンフランシスコに戻り、日本へ発とうという前日、中華街に誘ってくれての、しめくくりのインタヴューがあった。その後、ホテルへの狭い坂道を辿る途中で抱きしめあることにもなった。吾良は勃起を感じとらせぬよう腰を引く配慮をするどころか、この夜はむしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった。インタヴュー使用言語の英語によって抑圧されていると感じてきた反動の、攻撃性も自覚していた。なにより十日間のアメリカ旅行に、性的なエネルギーが蓄積されていたのである。その結果、エミーは自宅へ向かう替りに吾良の部屋へ上がって来ることになった。

 






――それまでは、健康なことはよくわかるけれども、肥って陽気なインテリ女性というだけだったんだよ。ところがいったんヤルとなると、もの凄い熱中ぶりなんだ。穴という穴、前後を選ばない人でさ。朝までこれの身体のどこかにいつも手をふれていて、ヤッてない間はひたすらペニスを奮い立たせる手だてを講じている。そのほかに何もないよ。さすがにタフな吾良さんもエジャキュレイトが難しいとなると、自分の口のへりにペニスを引き据えてね、おれには指を使わせて、舌で盛んに協力する。なんとか放出できたとなると、カメレオンのようにそいつを舌でとらえるからね。空港への迎えの車が来れば彼女も乗り込んで、ずっとペニスにさわっているんだ!

 

それが今度、三週間のスペイン・ロケが定まってみると、おれと同じホテルに部屋をとったといって来たのさ。恐怖の二十日間のことを思うと、ペニスともどもげんなりしてね!(大江健三郎『取り替え子』p75-76






写真はすべて荒木経惟作品である。


女っていうのはさあ、残酷って言うか、野獣だから「何で私のスケベなとこ見えないのかしら、そういうとこ撮ってくれないのかしら」って内心じゃ怒っているわけだよ。(荒木経惟)





《荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。》ーーと語ったのは、荒木経惟の長年のモデルのひとりであるKAORIちゃんであるかどうかは知るところではない。

荒木の写真は、自分がいなくても自分が写りこむ「私写真」と本人が称するように、写真家の"存在"を痛烈に感じさせるものだ。直接姿を見せずとも、自分を写真の中に色濃く写し出す。(……)

こうした写真家の意図が、「自然に、ありのままに裸体が存在しているはず」という見るものの思惑を、そして見るものの視線を中断させるのだ。できるだけ写真家の痕跡を消そうとしていたグラビア写真とは正反対の行動である。荒木の写真は、扱う題材が一般的なポルノグラフィーとほとんど変わらない、もしくはそれ以上に過激であるにもかかわらず、「役に立たない」写真であるとされている。伊藤俊治の言葉を借りれば、「孤独な満足」を得られないのである。ポルノグラフィーでは可能だった鑑賞者と被写体との個人的な関除に、第三者として荒木が割って入っているからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣







2014年8月3日日曜日

獣めく夜/お尻を差し出す夜/暴力によってのみ実現すること

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -

――悦楽は愛しようとする、憎もうとする。悦楽は富にあふれ、贈り与え、投げ捨て、だれかがそれを取ることを乞い求め、取った者に感謝する。悦楽は好んで憎まれようとする。――

- sie will Liebe, sie will Hass, sie ist überreich, schenkt, wirft weg, bettelt, dass Einer sie nimmt, dankt dem Nehmenden, sie möchte gern gehasst sein, -

――悦楽はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。

- so reich ist Lust, dass sie nach Wehe durstet, nach Hölle, nach Hass, nach Schmach, nach dem Krüppel, nach _Welt_, - denn diese Welt, oh ihr kennt sie ja! (悦楽(享楽)と永劫回帰(ニーチェ)





獣めく夜もあった

にんげんもまた獣なのねと

しみじみわかる夜もあった

シーツ新しくピンと張ったって

寝室は 落葉かきよせ籠り居る

狸の巣穴とことならず

なじみの穴ぐら

寝乱れの抜け毛

二匹の獣の匂いぞ立ちぬ

なぜか或る日忽然と相棒が消え

わたしはキョトンと人間になった

人間だけになってしまった

ーーー茨木のり子 遺稿詩集『歳月』所収「獣めく」





妻にセックスを要求する男からパートナーをレイプする男へのステップはしばしばほんのわずかなギャップしかない。この内的分裂がいっそう強くなるのは、優しい夫が我を失い/妻を殴る瞬間だ。妻を罵り、彼女を縛り上げ、サディストのようにアナルレイプし、それから彼は罪の感覚に囚われて妻が慰めるとき。Trieb、欲動drive、衝動。なにかが主体をdriveするのだ、彼自身がそこまで行きたくない先にまで。そこでは彼はすべてのコントロールを失う。犯罪とのつながりは私たちに教えてくれる、――どの欲動の現われも暴力の成分があることを。すなわち暴力のない欲動は、その用語からすれば、矛盾している。「闘いではなく愛せよ」などというのは不可能な組み合わせだ。欲動には人がほとんど気づいていない目標がある。そして欲動について知りうることは、しばしば、彼、彼女にはもはや知りたくないことである。「オレはそれについてなにも知りたくないね」。だが彼は知らなくてはならない。(Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe私訳)

《きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。》(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)


2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)





「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)




……だからこうして夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … (…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



2014年7月27日日曜日

きびきびして蓮っ葉な物馴れた女

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』)

そんなことありませんわ秋声先生
最近じゃあ三十歳あたりまで色つや保てるらしいですよ




ほら初婚年齢だって男を追い抜かす勢いなんです

なんだって男たちには負けちゃいられない世相なんですから

先生だって『黴』ではこう言ってるじゃあありませんか

「そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ」(徳田秋声『黴』)

結婚するくらいなら、何をしたって食べて行けますわ
安易の風に吹かれて一生独身ほうがいいくらい
だっていまどき甲斐性のあるいい男なんて
めったにいやしないですから

浅井の調子は、それでも色の褪せた洋服を着ていたころと大した変化は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌いなその身装などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。(……)

ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢れているように見えた。(『爛』)

どこにいるっていうのかしら
女遊びで磨かれた活動の勇気が溢れた男なんて
きびきびして蓮っ葉な物馴れた女はいっぱいいるのに

《お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った》(『あらくれ』)


あらでもこんな女もいなくなってしまったわ

一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。(『あらくれ』)


…………

徳田秋声は、女性を書かせたら神様というのが一部の読み巧者の評判であった。

「日本文学は、源氏、西鶴、それから秋声に飛ぶ」とするのは川端康成だ。


前期の徳田秋声の小説には「安易」という語が頻出する。


お庄は唯笑つてゐたが、此女の口を聞いていると、然うした方が、何だか安易なやうな氣もしてゐた。(德田秋聲『足迹』)

これはまだ日本橋の堅いところに奉公していた頃、例の朋輩に茶屋奉公をすすめられたときの、お庄のふとした思いであるが、この中の《安易》という言葉には独特の意味合いがあるようだ。たとえば今の箇所のすこし前の、不貞た朋輩の話に耳を貸しながら、《お庄も足にべとつく着物を捲く上げて、戸棚に凭れて、うつとりして居た》とある、その姿その体感に通じるものである。頽れるにまかせて流されていく安易さ、その予感のうちにすでにある懈さ、と言えば説明にはなる。しかし生活欲の掠れた倦怠ではない。お庄は若いが上に生活欲の盛んな女であり、その点では滅多に頽れはしない。むしろ生活欲のおもむく、埒を越して溢れ出すその先に、安易の予感はあるようなのだ。秋聲の人物の多くがそうである。生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる。(古井由吉『東京物語考』「安易の風」)

『足迹』のお庄や『黴」のお銀は、秋声の妻がモデルだ。


・どうかすると鼻っ張りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽されそうになって来た。

・そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥いだ口の利き方や、焦だちやすい動物をおひゃらかして悦んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。(『黴』)


《生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる》女の風情に、秋声は魅せられていたのだろし、読者も見せられる。これが欲望の対象-原因(対象a)でなくてなんだろう、《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)


そして『爛』にも『あらくれ』にも秋声の〈対象a〉はいる。

・お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。

・階下に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。(『あらくれ』)



◆”Conversations with ZiiekSlavoj Zizek and Glyn Daly)ーー『ジジェク自身によるジジェク』として邦訳されているが、原文しか手元にないので、私テキトウ訳。


幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。


《秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる》(川端康成 新潮文芸時評 1993.4


オレかい? 生活欲に振り回された末の
安易の風のふく女は当地にいっぱいいて
この土地の「お庄」に魅せられたんだけど
(かつてはだな)
最近は「日本化」してきたんじゃないか
二十年近く前はこんなたぐいの虎視眈々とした女が
月ドル換算にして百ドルぐらいで暮らしてたんだから
五十ドル払って衣裳でも買って食事でもすれば(以下略)





いずれにせよ初老の身でとっくの昔に引退だよ
いまはむしろ西脇順三郎の女たちの
淡い自堕落さや嘲弄感が対象aだな
麦酒か米焼酎一緒に飲んで
なめらかな舌でも眺めてるのがいいなあ

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)





・向うの家ではたおやめが横になり/女同士で碁をうっている

・イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる。

・美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを/かたむけてシェリー酒をのんでいる

・女神は足の甲を蜂にさされて/足をひきずりながら六本木へ/膏薬を買いに出かけた

・女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午





荒木経惟の女たちのまなざしもたまらないなあ




荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣


もちろんこっち系だってあるさ



「いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇順三郎「無常」)










2014年4月1日火曜日

四月朔

炎熱限りなし。書斎の寒暖計三十九度を指し示す。例年をはるかに上回る異常な暑さに襲われ忍難し。本日早朝米国から訪れし近縁の女が帰国せしが空港まで送るのは妻にまかせ門前にて惜別の挨拶を送るのみ。名残り惜しきかな。《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎) 昨深更奇事あり。

《余一睡して後厠に徃かむとて廊下に出で、過つて百合子の臥したる室の襖を開くに、百合子は褥中に在りて新聞をよみ居たり。家人は眠りの最中にて楼内寂として音なし。この後の事はこゝに記しがたし。》(永井荷風『断腸亭日記巻之五大正十年歳次辛酉 』)



                  (荒木経惟)


ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)



《丘のうなじがまるで光つたやうではないか/灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)




                (Bibiana Nwobilo


《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)



2014年1月28日火曜日

惚れた女へのセンチメンタルオマージュ

蒼白い蛍光灯のわずかな光
索然とした窓のない通路が伸びる
「なぜこのビルの廊下は
こんなにひろくわびしいのだろう」
一方の側にだけ部屋が並んでいる
女はそのひどく古ぼけたビルの一室に住んでいた
鼈鍋で有名な料理店のすぐ近く
通いだす切っ掛けはなんだったか
のは憶えていない





「今から行く」と電話で告げる
「だめだわ」とはじめは強く拒絶する
重ねて乞うと曖昧な応答になる
その声の奥には
おそらく彼女自身も気付いていない
媚がある
との錯覚に閉じこもり得た

西陣のかつての繁栄の無残な残照
うら寂れた建物に向けて
千本通を北へまっすぐ
今出川通へとめざして
車を飛ばす
いそいでも十五分はかかる

階段を駆け上がってドアをノックする
最初はドアの鎖をつけたまま
わずかの隙間から顔をのぞかせる
「だめよ」
もう何度目かなのに同じ返事をする
ときにはドアを閉ざされ
薄気味わるい廊下で
待ちぼうけの時間をもつ
部屋を二米伸ばしてもまだ余裕がある通路だ
別の用途でつくられた建物を
貸し部屋にしたに相違ない

下に降りて果物屋で苺を買う
ドアをまた強く叩く
「果物買ってきたんだ
それだけでも一緒に食べよう」




男は米国に留学している
女の狭く居心地のよい居室
そこになんとか潜り込んだあとでさえ
最初はいつものごとく貞節さの鎧
かたくなさとつつましさの殻を被る
わずかの軀の接触さえ許そうとしない
(何度も重なれば性交前の儀式のようなものだ)


だが「彼女の一つ一つの動作の継ぎ目や隙間から
生温かい性感が分泌物のように滲み出ている
彼女自身そのことに気付かないにしても
やがては溶岩のような暗い輝きをもった
一つ一つの細胞の集積が
彼女を突き動かすときが来る」(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

軀をかさねあわせる
洗髪剤や入浴剤に贅沢な女だった
興奮した細胞を萎えさせる
安物のシャンプーのにおいはしない

「彼だって遊んでるわ、きっと」

高まると彼氏の名を叫ぶ
続けて規則正しく間歇的な
「水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く」(吉岡実)
薄い壁の向う
隣室のがさごそとした気配が伝わってくる
「よくうなりはる女や」(野坂昭如)
腰の動きをとめて
隣室に目配せする
「……かまわないわ」





あるとき彼氏が一時帰国

仕事の席で耳打ちする
「彼かわっちゃったわ」
微笑を含んだ眼で
すくい上げるように見る
その身のこなしが淑やかにもみえ
また粘り付くような
したたかなものも感じさせる
驕慢ともみえる燃えるような眼で
その眼の中に軽侮する光が走り抜けたのを
確かに見たと思った

母が死んだ

郷里の町にしばらく帰る

桂離宮の傍らの森閑とした寮に戻ってくる
と女からの分厚い手紙

綿々と悼みの言葉が連なっている


驕慢さの翳は微塵もなく
むしろ幼さが滲みでている
との印象をおぼえた

それ以後通うのをやめてしまった

のはなぜか


惚れていたのに








素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ






別 の 名   高田敏子


ひとは 私を抱きながら
呼んだ
私の名ではない 別の 知らない人の名を

知らない人の名に答えながら 私は
遠いはるかな村を思っていた
そこには まだ生れないまえの私がいて
杏の花を見上げていた

ひとは いっそう強く私を抱きながら
また 知らない人の名を呼んだ

知らない人の名に――はい――と答えながら
私は 遠いはるかな村をさまよい
少年のひとみや
若者の胸や
かなしいくちづけや
生れたばかりの私を洗ってくれた
父の手を思っていた

ひとの呼ぶ 知らない人の名に
私は素直に答えつづけている

私たちは めぐり会わないまえから
会っていたのだろう
別のなにかの姿をかりて――

私たちは 愛しあうまえから
愛しあっていたのだろう
別の誰かの姿に託して――

ひとは 呼んでいる
会わないまえの私も 抱きよせるようにして
私は答えている

会わないまえの遠い時間の中をめぐりながら 


《その女を、彼は気に入っていた。気に入るということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ待つことだ。それは、自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。(……)

現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には、巻込まれまいと堅く心に鎧を着けていた。……交渉がすべて遊戯の段階にとどまると考えるのは誤算だが、……その誤算は滅多に起こらぬ気分になってしまう》(吉行淳之介『驟雨』)






◆ミレール 愛について(私意訳)より



――どうしてある人たちは愛し方を知っていて、ほかの人たちはそうでないのでしょう?

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。


――自分を完璧だとするなどは、ただ男性だけの場合のように思えますが…。

まさに! ラカンはよく言いました、「愛することはあなたが持っていないものを与えることだ」と。その意味は、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということです。あなたが持っているものーーなにかよいものを与えるのではない、それを贈り物にするのではないのです。あなたが持っていないなにか他のものを与えるのです(対象aの定義のひとつは、「あなたの中にあってあなた以上のもの」である:引用者)。そうするには、あなたは己れの欠如――フロイト曰くの「去勢」――を引き受けなくてはなりません。そしてそれは女性性の本質です。ひとは、女性のポジションからのみ本当に愛することができます。「愛する女性」 Loving feminisesとはそういうことです。男性の愛がいつもやや滑稽なのはその理由です。けれども男性がそのみっともなさに自身を委ねたら、実際のところ、己れの男らしさがさだかではなくなります。

――男にとって愛することは女より難しいということでしょうか?

まさにそうです。愛している男でさえ、愛する対象への誇りの閃きと攻撃性の破裂があります。というのはこの愛は、彼を不完全性、依存の立場に導くからです。だから男は彼が愛していない女に欲望するのです。そうすれば彼が愛しているとき中断した男らしさのポジションに戻ることができます。フロイトはこの現象を「性愛生活の(価値の)下落debasement of love life」と呼びました。すなわち愛と性欲望の分裂です。


――女性はどうなのでしょう?

女性の場合は、その現象はふつうではありません。たいていの場合、男性のパートナーとの同化共生doubling-upがあります。一方で、彼は女性に享楽を与えてくれる対象であり、女性が欲望する対象です。しかし彼はまた、余儀なく去勢され女性化した愛の男でもあります。どちらが運転席に坐るのかは肉体の構造にはかかわりません。男性のシートに坐る女性もいるでしょう。最近では「もっともっと」そうです。ひとりの男は、家庭での愛のため、そして他の男たちは享楽のために、インターネットで、街で、汽車の中で。


――どうして「もっともっと」なのですか?

社会と文化における女であることと男であることのステレオタイプが、劇的な変容の渦中だからです。男たちは情緒を自在に解放するように促されています、愛すること、そして女性化することさえも。女たちは、反対に、ある種の「男性化への圧力」に晒されています。法的な平等化の名の下に、女たちは「わたしたちも」といい続けるようにかりたてられています。同時にホモセクシャルの人たちも、ヘテロセクシャルの人たちと同様の権利とシンボルを要求しています、結婚や認知などですね。それぞれの役割のひどく不安定な状態、愛の場での広汎な変わりやすさ、それはかつての固定したあり方とは対照的です。愛は、社会学者のジグムント・バウマンが言うように「流動化liquid」しています。だれもが己れの享楽と愛の流儀を身につけるため、それぞれの「ライフスタイル」を創り出すように促されています。伝統的なシナリオはゆっくりと廃れています。従うべき社会的圧力が消滅してしまったわけではありませんが、衰えているには相違ありません。

――わたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトがLiebesbedingungと呼んだものです、すなわち愛の条件、欲望の原因です。それは固有の特徴なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりな内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の鼻のつやでした。


――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、神から授かった細部によって基礎づけられているかを。とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の追憶、あるいは兄弟や姉妹、あるいは誰かの幼児期の追憶もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。でも女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。関心と愛、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定する関心と愛ですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。 


――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。


――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。

ミレールの女性のファンタジーをめぐる発話は、精神分析理論に慣れていない人には若干の違和があるかもしれない。この発話は、フロイトの論文『子供が打たれる』や『マゾヒズムの経済的問題』などにある叙述がベースになっていると思われ、たとえば後者の論には女性的マゾヒスムとして次のような叙述がある(もちろんこの「女性的」というのは、受身的という意味で、生物学的なものではない。男性にも見られるのは周知の通り。たとえばプルーストの小説にはそのサンプルがふんだんにある)。

……幻想の顕在内容はこうである。すなわち、殴られ、縛られ、撲たれ、痛い目に遭い、鞭を加えられ、何らかの形で虐待され、絶対服従を強いられ、けがされ、汚辱を与えられるということである。(……)もっとも手近な、容易に下される解釈は、マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供として取り扱われることを欲しているということである。(フロイト『マゾヒスムの経済的問題』)

これは原初的な無力な存在としての乳幼児期に回帰したいファンタジーとしても捉えられるが、ここではそれには触れない(参照としては「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」にいくらかの記述がある)。

そもそも幻想は、われわれが生の〈現実界〉にじかに圧倒されないよう、われわれを守ってくれる遮蔽膜として機能する。たとえば母との共生への回帰が不可能であるならば、かわりのフィクションを必要とする場合があり、それが幻想のひとつの姿だ。マゾヒスム的(受動的)なファンタジーとは逆に、能動的なフィクション遊びをするということはしばしば見られる。そもそも作家たちが悲惨な恋愛を想起して書くのは、耐えがたい恋愛トラウマを能動的に飼い馴らすことよって解放感を得るためでもあるだろう。

《われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴〔シーニュ〕であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる》(プルースト

《ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる》(夏目漱石)

幼い女児が母親を洗ってやったり、着物を着せてやったり、またはお手洗いにゆくようにしたりしたがるという話を、まれには聞くことがある。女児がまた、時には「さあ遊びましょう、わたしがお母さん、あなたは子供よ」などということさえある、――しかしたいていはこのような能動的な願望を、人形を相手に、自分が母親となり人形を子供にした遊ぶという、間接的な仕方でみたしているのである。人形遊びを好むことは女児の場合、男児とは違って早くから女らしさがめばえたしるしだと考えられるのが普通である。それは不当ではないにしても、しかしここに現れているのは女児の偏愛はおそらく、父親という対象をまったく無視する一方では排他的に母親に愛着していることを証明するものであるということ、を見逃してはならない。(フロイト『女性の性愛について』 フロイト著作集5 p150)

※写真はすべて荒木経惟の作品。

…………


【附記】

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト恋愛のディスクール』「魂を奪われる」より)


男性のファンタジーの単純さにくらべ、女性のファンタジーがいささか手強いのは、女性は幼い時期、母親ー娘の関係から、父親ー娘の関係に対象を変えているために、幻想の構造が複雑だからだと説かれることが多い。

この愛する対象の母から父への変化(女から男への変化でもある)のもっとも重要な帰結は、女たちは「関係性」により注意を払うようになることだ。それは男たちとは対照的で、男たちはファリックな側面(母の(女の)支配、あるいはフェティスト的な部分欲動)に終始する傾向にある。もっとも上のミレールの言葉にあるように、この側面は漸次かわりつつあるのだろう。このあたりのことを斎藤環は啓蒙的に『関係する女 所有する男』で書いているはずだ(わたくしは残念ならが未読だが)。

男のフェティッシュと女のエロトマニア(被愛妄想)とは、フロイトのテーゼであり、旧来の両性の幻想の構造の基本はここにある。

男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向。(澁澤龍彦『少女コレクション序説』)
どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』

現在でも、インターネットでの男女の振舞いに、これらは如実に露われている。画像やAVを見てオナニーに耽る男たち。他方、女たちはチャットで男たちの関心を惹くことにより熱中する。

…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However, a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. (Zizek『Less Than Nothing』)



2014年1月24日金曜日

とてもたのしいこと

最近あまりここで書く気がしなくてね
長いあいだ頭のなかでこね回していたことが
壁に穴をあけて向こうが見えた気がして
すこし休養だな
小説か詩でも読みたい気分だな






とてもたのしいこと  伊藤比呂美



あの、

つるんとして

手触りがくすぐったく

分泌をはじめて

ひかりさえふくんでいるようにみえる

くすくすと

笑いが

あたしの襞をかよって

子宮にまでおよんでってしまう

(ひろみ、

(尻を出せ、

(おまえの尻、

と言ったことばに自分から反応して

わ。

かべに

ぶつかってしまう

いたいのではない、むしろ

息を

洩らす

声を洩らす

(ひろみ

とあの人が吐きだす

(すきか?

声も搾られる

(すきか?

きつく問い糺すのだ、いつもそうするのだ

(すきか? すきか?


すき


って言うと

おしっこを洩らしたように あ

暖まってしまった





小田急線喜多見駅周辺



小田急線はいつも混んでいて立っていく

正午前後に乗る西武池袋線はたいてい座れる都営地下鉄も座れる。

普通乗るのはそういうのである

小田急線の下る方向には大学があるから人が多い。混んだ電車は乗りこむときの感情が嫌いである人を嫌いになりつつ乗りこむ

成城学園で乗りかえる。向かい側にいつも各停が口を開いて停まっている

人を嫌わずに入る。まばらにしか人がいないいつもいない

慣れないのでいつも急行の車輌の前いちばん前に乗ってしまう

急行の車輌のいちばん前と向かい合わせになる場所には各停の車輌がこない。各停は短い

各停のドアまで歩くうちに急行は動き出し成城学園を過ぎて坂を滑りおりていく坂を滑りおりてすぐ停まる

行き過ぎる車外の植物の群生を見ている

木から草になってまた木になる

草の中を野川が横切っていく

車外に植物の群生があふれる

慣れないので各停の車輌のいちばん前にいつも乗ってしまう。改札へ出る階段はホームの中程にある。上りホームヘ渡ったへんで媚びて手を振る


踏切を渡って徒歩10分のアパート

の部屋に入る

何週間か前に踏切で飛びこみがあった

踏切に木が敷かれてある

木に血が染みていた

線路のくぼみの中に血のかたまりと

臓器のはへんらしいものが残っていた


わたしたちは月経中に性行為した


アパートの部屋に入るとラジオをつける

わたしは相手の顔にかぶさって

顔のすみずみからにきびを搾った

剃りのこした頬のひげを抜いた

背中を向けさせた

背中にほくろ様のものがある

もりあがっているから分かる

搾ると頭の黒い脂がぬるりと出る

みみのうらも脂がたまり

搾るとぬるぬるぬるぬると出た

はでけをかんで引くと抜ける

わたしはつめかみだ

つめがない

つめではけがつかめない

はでやるとかならず抜ける

男の頬がすぐ傍に来るいつもつめたい

ひげが皮膚に触れた

ひげは剃ってある

剃りあとを感じる

前後に性行為する


荒木経惟の写真たちの中に喜多見駅周辺の写真を見てあこれはわたしが性交する場所だと思って恥ずかしいと感じたのだわたしは25歳の女であるからふつうに性行為する。板橋区から世田谷区まで来る来るとちゅうは性行為を思いださない性欲しない車外を行き過ぎる世田谷区の草木を見ているこの季節はようりょくそが層をなしている飽和状態まで水分がたかまる会えばたのしさを感じるだから媚びて手を振るが性行為を思いだすのはアパートの部屋でラジオをつけた時である


性行為に当然さがつけ加わった

踏切を渡って駅に出る

もしかしてぬるぬるのままの性器にぱんつをひっぱりあげて肉片の残る喜多見の踏切を渡ったかもしれないのである

水分はあとからあとから湧きでて

ぱんつに染みた






きっと便器なんだろう


…………
あたしは便器か
いつから
知りたくは、なかったんだが
疑ってしまった口に出して
聞いてしまったあきらかにして
しまわなければならなくなった


2014年1月17日金曜日

かつて二度訪ねたことのある家(フロイトと漱石)

風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャ・ヴエ〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母親の性器である。事実「すでに一度そこにいたことがある」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母親の陰部に指をつっこんだことがあった。(フロイト『夢判断』高橋義孝訳)




神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)





ある暑い日の午後、イタリアの小都会の、人通りの少ない、未知の通りをぶらぶら歩いていた私は、とある一角に踏み込んだが、そこがどういう性質の場所であるかは一見してすぐにわかった。小さな家々の窓に見受けられるのは、化粧した女ばかりだったので、私は急ぎ足に、すぐ次の曲り角をまがってその狭い通りを立ち去った。ところが、しばらくのあいだ、道を知らず歩いていると、突然またしても自分がさっきと同じ通りにいることに気づいた。そうなると私の姿は人眼を惹きはじめたので、急いでまたそこを遠ざかったのだが、急いだ結果は、新しい廻り道をしたあげくに三度同じ通りに入りこむことになっただけであった。すると私は無気味なというよりほかにいいようのないある感情に捉えられた。そこで、それ以上道をさがしまわることを諦めて、つい今しがた立ち去ったばかりの広場に戻った時はほっとした。他の点ではこの話とは根本的に違っていても、意図せずして同じ場所に戻ってくるという点では共通の他の諸状況も、やはりその結果としてはこれと同じような、途方にくれた感じ、無気味な感じを起こさせるものである。(……)

不断ならただの「偶然」と片づけてしまうようななんでもないことを、無気味な、宿命的な、遁るべからざるもののように思い込ませるのは、意図せざる繰返しであることは、他の系列の経験においても苦もなく認められる。(……)

同種のものの繰返しの無気味さがいかにして幼児の心的生活から演繹されうるか(……)。つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う。(同 P343-344)




二重自我のモティーフは、オットー・ランクの同名の研究論文で、きわめて詳細に論及されている。第二の自我の、鏡にうつる像、影の像、守護神、生霊説、死の恐怖などにたいする諸関係がここに研究されているが、このモティーフの驚くべき発展史もまたここに明らかにされている。というのは、ドッペルゲンゲル(二重自我)とは、そもそも自我の消滅にたいする保障、ランクの言葉によれば、「死の偉力を断固として否定すること」であったのである。どうやらあの「不死」の魂こそは、肉体の最初のドッペルゲンゲルであったらしいのである。死滅にたいして防御するための、そのような換え玉作製は、性器象徴の倍加、あるいは複数化によって去勢を表現したがる夢言葉の描写のうちにその対応物ともいうべきものをもっている。これこそ古代エジプト文化において、死者の像を永続する素材のうちに形どっておく技術の原動力となったものである。しかしこれらの諸表象は、原始人や子供の精神生活を支配している無限のナルシシズム、原始的ナルシシズムの基盤の上に生じきたったものであって、この段階を克服すると、ドッペルゲンゲルの形にも変化が起こって、かつては永生の保証であったものが、今は無気味な死の前触れとなるのである。

ドッペルゲンゲルという表象はこの原始的ナルシシズムとともに没落することを要しない。なぜならこの表象は、自我のその後の発展段階から新しい内容を獲得することができるからである、自我のうちには徐々に、爾余の自我と対立する特殊な一部分が形成されて、この一部分が自己観察、自己批評の役割を果たし、心的検閲の仕事を行ない、やがてわれわれの意識にたいして「良心」として立ち現われてくるものなのである。監視妄想の病的ケースにあってはこの一部分が孤立し、爾余の自我から分離されて、医師に気づかれるようになる。爾余の自我をまるで他人のもののように扱いうるような自我の一部分が存在するという事実、つまり人間は自己観察をする能力があるという事実が、古いドッペルゲンゲルの表象を新しい内容をもってみたし、またこの表象にいろいろなものを、なかんずく自己批評の眼には原始時代の、あの古い、すでに克服されたナルシシズムに属するかのように見えるもの一切をなすりつけることを可能にするのである。

しかし自己批評にとって不快な内容のみがドッペルゲンゲルになすりつけられるのではなくて、空想がいまだにそれに執着しているところ、実現されることのなかった運命形成の一切の可能性、また外的な不運によって貫徹されなかったところの、一切の自我の目標、同様にまた自由意志という錯覚を生んだところの、あらゆる禁圧された意志決定も同じくこのドッペルゲンゲルに委譲されるのである。(同 P341-342――一部、フロイト翻訳正誤表案より語句変更)






漱石の未完の遺作『明暗』が驚くべき作品なのは、この「不気味なもの」と「ドッペルゲンゲル」の二つのモチーフが、その百七十二章から百七十六章までに現われることだ。「明」の世界から、「暗」の世界へ突入していく主人公津田になにが起こるのか。

温泉宿に訪れたばかりの津田は女=清子に翌朝果物籠を送り届ける予定だ。この果物籠は、かつてふたりを縁づけようとして成就間際に女にかわされた思惑外れを密に根にもつ裕福な中年の女からの贈物であり、手術後の療養の名目もある津田は、別の男と結婚・流産による療養中の「逃げ去った女」の滞在する湯治場まで、その果物籠を携えてきた(この果物籠は「明」の世界に君臨する中年女の「悪意」の贈物であり、「暗」の世界の女清子に手渡そうとするが、清子はその悪意を果物籠を無頓着に扱うことによって、悪意の受け取りを曖昧化するという「贈与」のテーマもある)。

津田は到宿当夜湯を浴びたあと自分の部屋に戻ろうとして、建て増しのために錯綜としている宿の廊下に迷ってしまう。広い宿は深閑としており部屋の在り処を尋ねる女中も見当たらない。行き当たりばったりに、ふと筋違いの階子段を二、三段あがると、《洗面台の白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ち》ているのに、眼が、が、吸い込まれていく。《縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのと両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるものの如くに揺れた。》津田はその水の渦巻に魅入られる。《ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。》大きな鏡があって、「自分の影像」が映る。


彼はすぐ水から視線を外した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被さっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。

 彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理も男としてはもったいないくらい濃かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。

 しかし彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈にできていた。第三に尋常のものと違って、擬いの西洋館らしく、一面に仮漆が塗っていた。

 胡乱なうちにも、この階子段だけはけっして先刻下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。(『明暗』第百七十五章)

このようにして、津田は、彼自身のなかにあって彼以上のもの(対象a)、「私」であるのに手の出せない/思いもよらない対象、彼の分身、ドッペルゲンガーに出逢う。

しかもその「意図せずに」辿り着いた洗面所は、清子の部屋から階段を降りたすぐそこにあるのだ。清子は、結婚間際まで漕ぎつけて津田には理由も判然とせず翻意してしまった女である。清子とはかつて「ここへは一度きたことがある」女に相違ない。

《するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。》

ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。

 けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。

「ことによると下女かも知れない」

 こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。

「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」

 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。

「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」

 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。眼は動かなかった。(百七十六章)





漱石のなかにある「彼自身にあって彼以上のもの」とはなにか。

漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

ここにある幼少の砌の髑髏、漱石のトラウマが、《日常的な叙述のレヴェルから、夢の叙述のレヴェルに転換する、あるいはリアリズムから反・リアルへと乗り越える、不思議な変化を示》しつつ(大江健三郎 『明暗』解説 岩波文庫)、異様な密度を以て書かれることになるのが、その百七十二章から百七十六章である。清子は津田を唐突に見限った<女>であり、漱石の母も理由はともあれ(当時は奇異なことではないにもかかわらず)、彼を見捨てた<女>だ。しかも養父母をある時期までほんとうの親子だと思っていたとすれば(漱石は養父母の離婚により実家に戻っている)、二度の衝撃があったはずだ。


頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)






もちろんこの箇所だけでなく、『明暗』の前半、あるいはそれ以前の作品にも、漱石の心的外傷性記憶の痕は歴然としている、とする読み手もいるだろう。

溢れる水は漱石的存在に異性との遭遇の場を提供する。しかも、そこで身近に相手を確認しあう男女は、水の横溢によって外界から完全に遮断されてしまっているかにみえる。(……)

あまたの漱石的「存在」が雨と呼ばれる厚い水滴の層をくぐりぬけたはてに出会うべきものは、ときには那美さんと呼ばれ、あるいは清子、あるいは嫂と呼ばれもする具体的な一人の女性ではなく、そうした水の女たちが体現する垂直の力学圏というか、縦に働く磁場そのものだということになろう。(蓮實重彦『夏目漱石論』)

しかしながら、漱石のほかの作品に『明暗』の最後の箇所ほどの密度で享楽の核をまさぐるエクリチュールがほかにあっただろうか。


通常、ひとはその存在の最も貴重な部分、己の享楽の核を切り離して生きている。この享楽の核が対象aだーー「わたしのなかにあってわたし以上のもの」。ひとは己れを対象aに耐えられない。


《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』)とは、中井久夫のエリオット『四つの四重奏』の詩句の超訳だが、逐語訳すれば「人というものはあまりに大きな現実には堪えられない」である。この「あまりに大きな現実」とはラカンのいう「現実界real」であり、けっして「現実reality」ではない。現実とは幻想の側にある。自分につごうのよい自己像であったり世界像である。現実は幻想(フロイトの後期幻想)によって構造化されており、象徴化に抵抗する言葉にできないもの、享楽の核、その現実界をていよく糊塗する「防衛」機能をもっている。そしてそのことがしばしば当人を生かしているとさえいえる。

ラカンが『テレヴィジョン』で、《現実は現実界のしかめっ面である》とするのはそのことだ。


あるいはFrançois Balmèsなら次のように言う。


現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引き






最後に、漱石は《『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、不朽である》とする加藤周一の文を付記しておこう。


加藤周一は、『明暗』の創造のからくりのなかに潜むデモーニッシュな力の大きな役割を強調し、《そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである》、と。

我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。(加藤周一『漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――』)


加藤周一がこのように書いたのは、1948年のことであり、そのときまだ29歳前後だったことになる。


※画像は荒木経惟の一枚とウィトキンの「接吻」(解剖学の講義のために縦に真っ二つに割られた一人の老人の頭部による)を除いて、ロバート・メイプルソープの作品。