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2011年1月16日日曜日

資料:主人の言説discour du maîtreをめぐって

◆荻本医院;ラカン勉強会より

sinthomeの最初のセッションで、ラカンは知はdiscour du maître(「主人の言説」とか「主の言説」とか訳されてきましたが、maîtreという語にmaîtriseつまり支配、コントロールという語、これは死の欲動をリビドーが生/性へと方向転換させるに際してのコントロールを含意しますが、このことを意識してこの言説を理解すべきです。生を命じ、死〔去勢によって主体は死つまり有限性を受け入れますが、これは生からの解放である安息としての死です〕を与えず、死しても第二の死、無限地獄、『ジュリエット』に登場するサン・フォンの思い描く死後も続く拷問、つまり生き続けることの苦痛douleur d'existerを命じるのは超自我以外にはありません。signifiant-maîtreによる命令とは超自我の命令と他ならないのではないでしょうか。

Braunsteinはラカンの超自我とフロイトの超自我を混同してはならないと言っています。前者の命令はobéirではなくjouirの命令ですが、jouissanceこそ、フロイトが禁じていた当のものとしています。しかしながら、ラカンのjouissanceはいくつもの異なった事柄をカヴァーする語で、現にBraunstein自身、jouissanceをjouissance de l'être, jouissance phalliqueそしてjouissance de l'Autreに大別して述べています。この三者に3タイプの超自我を当てはめた場合、jouissance de l'êtreに符号する超自我こそ、生を命じる、「猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Pèreを与り知らない超自我で、これはフロイトの超自我ではないもの」ということになります〔La jouissnce-Un concept lacanien, Nestor Braunstein, Point hors ligne, pp.317-318.〕)において分割されます。この分割はsymbole(le symboliqueではありません)の分割に一致することになります。次いで、ボロメオの輪はle symboliqueの分割、symboliqueの輪とsinthomatiqueの輪に分割されます。これが主体の分割にも影響を与えるのです。

discours du maîtreにおける(死の欲動の)手懐けtempéranceのためです。sinthomeからnom du pèreを得るためです。ボロメオの輪は、厳密にいうとトポロジー的でいう結び目ではありませんが、3つの輪と結び目(ちょうど三つ葉の結び目と同じ構造をしています)から成る、といえます。輪が4つになっても、ラカンは結び目の締め付けserrage(ラカンはpoint de coinçageという言い方もしています。3つの輪は3つのdimensions、基本的には象徴界、想像界、現実界というdimensionsですが、これは、ユークリッド幾何学の3次元空間とは相容れない次元で、区別するため、ラカンはdit-mensionsと表記したりしています。serrageあるいはpoint de coinçageは三次元空間の3つの軸、通常x, y, zで示される軸とは異なり、3軸の交点、1から3次元上で実在する点ではなく、どれほど3つの輪を3方向に引っぱり中心の部分を締め付けても空虚なものは空虚なままです。そしてこの中心がaなのです。)による結び目といった考え方を変えてはいません。

2010年12月16日木曜日

資料:ラカン「性的(無)関係の(非)論理」

http://www.ogimoto.com/ronbun/jack.htmlより(荻本 芳信ブログ)

 「アンコール」第7講、の冒頭で、性差の論理は、まず、量記号を用いた4つの命題式によってしめされる。

とりあえず、ラカン自身の説明を聞いてみよう。

言葉を話す人間であるならば、だれでもこれら左右のどちらかの側に記入されます。左下のは次のことを示しています。すなわち、男根の機能によって、「すべて」としての男性は記入されます。ただしこの機能には限界があります。それはの機能が否定されるひとつのxの存在、つまりによってです。父親の機能と呼ばれているものがそれです。この機能によって否定が付されてといった命題が成立します。は去勢によって、いかなる方法によっても書き込まれることのない性的関係を補足するsuppléerものの活動を支えるのです。「すべて」はそれゆえ、を全面 的に否定するものである項として定められた例外にもとづいているのです。

反対側には語る人間の女性の側の記入がみられます。語る人間はだれでも、フロイト理論はっきり述べられているように、そのひとが男性の属性を有していようといまいと――この属性についても定義づけしなくてはならないでしょうが――この部位 に記入されることが許されます。そこに記入されると、そのひとは、いかなる普遍性をももつことができません。すべてではないpas toutものとなります。に自己を位 置づけるかそうしないかといった選択権を与えられるかぎりそうなのです。
ラカンの4つの式は、伝統的論理学の4つの命題、全称肯定命題(A)、全称否定命題(E)、特殊肯定命題(I)、特殊否定命題(O)のそれぞれに対応するものである。 しかしながらラカンは伝統論理学に修正を施しているのであって、それがかれ独自の表記の仕方として表されているのである。
両者を比較してみよう。

1) 伝統的論理学の関数fonctionを示すfはラカンにおいてはファルスをしめすΦに置き換えられて いる。
2)〔2〕と〔6〕、〔4〕と〔8〕との間には否定を表す―の記号の付され方がことなっている。

1) については次のような説明がなされよう。
フロイトの『ト-テムとタブ-』における原父は、去勢をまぬかれた唯一の男子である().この原父の 存在により、かれ以外のすべてのの男子は去勢を受ける()。去勢の法が効力を持つためには、 いいかえればこの法が普遍的であるためにはこの法のがえ外部にあって、この法をまぬ かえているある存在が必要となるのである。 こうして男性の側の2つの式が導き出される。 否定の記号の付され方は、ここでは、伝統的論理学の場合と同様である。

ついで2)についてであるが、普遍命題 注)に否定がふされる場合、それは法のカテゴリ-に対してでなければならない。においてΦはファルスの法、xはその法が適用される主体であるが、否定は法に対してでなく、 法の普遍性に対して付されるべきである。すなわちである。これは、「ファルスの法が普遍的には効力を持ちえない主体がそんざいする」と読まれる。pas-touteとは「普遍的には……ない」のいみである。いっぽう、_の法そのものが否定される場合、その法を否定する別 の法が規定される。女性 において原父に相当するような「原母」などといったようなものは存在しない。つまり女性の側において、Φの法を否定するような法を具現するものは存在しない。こうしてが導き出される。

注)universaireをここでは全称命題ではなく普遍命題とした。そもそも伝統的論理において「すべて」が普遍と同一視されるところに問題があるのである。 


※ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析   (向井雅明) 『imago (イマーゴ)』 Vol.7-8,1996にも同様な説明がある。