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2013年4月23日火曜日

木瓜の愚鈍(漱石と子規)


またしても足が痛くてなって、しばらくほとんどの時間をベッドの上で過ごす仕儀になり、暇にまかせて、漱石や子規をすこしまとめて読んでみようとしたのだけれど、今回は足の痛みがあっさりと四日ばかりでとれてしまい、そうすると読み続ける忍耐がなくなる、軀が自由の身には他の事に気がうつる。

いまごろ漱石や子規だって? 再読だよ、あたりまえだろ

……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳 文庫 P532

昔のように肺病で家で寝込むとかサナトリウムで過ごすとか、あるいは監獄とかであれば、読書の特権的時間を持ち得たのだろうけど、オレの特権的時間はたちまち水泡に帰したよ


しかし子規も漱石も現代のテクストというわけではないから、「貴族的な読書」――早読みしないこと、丹念に摘みとることーーでなく飛ばし読みでもかまわないのだろう。


……この密着した第二の読み方は現代のテクスト、限界=テクストにふさわしい読み方である。ゾラの小説を、ゆっくり、通して読んで見給え。本はあなたの手から滑り落ちるだろう。現代のテクストを、急いで、断片的に読んで見給え。このテクストは不透明になり、あなたの快楽に対して門戸をとざすことだろう。あなたは、何事かが起こればいいと思う。しかし、何も起こらない。言語活動に起こることは話の流れには起こらないか らだ。すなわち、《起こる》もの、《過ぎ去る》もの、二つの縁の断層、悦楽の隙間は、言語活動の量(ボリューム)の面において、言表行為において生ずるの であって、言表の連続において生ずるのではない。早読みしないこと、丹念に摘みとること、現代作家のものを読むには、昔のような読書のひまを再び見出すこ と、すなわち、貴族的な読者になることだ。(ロラン・バルト『テキストの快楽』)

《「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」

「なあに」

「じゃ何が書いてあるんです」

「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」

「ホホホホ。それで御勉強なの」

「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」

「それで面白いんですか」

「それが面白いんです」

「なぜ?」

「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」

「よっぽど変っていらっしゃるのね」

「ええ、ちっと変ってます」

「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」

「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」

「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」

「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」

「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる……》(漱石『草枕』)

――という具合で、断片読みだな、ベッドに縛りつけられない今は。

蓮實重彦はこの『草枕』の断片を参考にしてかどうかは知らねど、次のような「生産的」な発言をしている
たとえば夏目漱石の『猫』なんて、連載されたときは、みんな順を追って読んだかもしれないけれど、いま、はじめから律儀に読んで読み終わって、ああ面白いと思うやつはバカだと思う。そもそもそうした読まれ方にふさわしい構成を持っていないのだからあれはちょっと見ればいいわけです。いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。何回も読んだという人いますけれどね。あれは断片で充分なものであって……。(『闘争のエチカ』)

…………


例えば、 漱石には、 途中で死んでしまいましたけれども、 正岡子規がいた。 正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思うのです。 つまり、 書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

 

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。―――「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009、2,6」――www.jnpc.or.jp/files/opdf/415.pdf


 

以前、この講演録を読んだときには
別に気もとめずに読み過ごしたのだけれど

これは少し不用意な発言ではないか

と、二人の伝記も評論も殆ど読んだことがない

わたくしが言うのは不用意かもしれない

いいたいことはわかる

それにこの講演自体はすばらしい

水村美苗の『続 明暗』に感嘆したことのある身でもある

イェール大学大学院仏文科博士課程で、ポール・ド・マンの教えを受け

プリンストン大学講師、ミシガン大学客員助教授、スタンフォード大学客員教授として、

日本近代文学を教えたことのある才女であることを知らぬわけではない

水村氏のことだから漱石や子規の書簡まで綿密に読んでいるのだろう
わたくしにはそんなところまで全く手が届かない
だけれど子規は漱石が小説を発表する前に死んでいる

小説を発表する前の漱石は、

漢詩と俳句に情熱を捧げたとは寺田寅彦の言(夏目先生の俳句と漢詩
漱石自身の言葉にこうもある


さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞ったが、兎に角尤もだと思って書き直した。

 

 

今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了った。夏目漱石『処女作追懐談 )

《正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思う》ほど、子規の死以前に書いてたんだろうかね、俳句と漢詩以外に。漢文ということはありうる。また漱石の学生時代に老子についてのレポートはある。

或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でも其中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いて居った。(漱石『正岡子規』

互いに影響し合ったには相違ない

あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻りに僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ(……) 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も円滑な交際の出来る男ではなかった(同上)


枝葉末節だな
どうでもいいことなのはわかってるよ
才女でも口を滑らすことはある
講演で、というか講演後の質疑応答での発言であり、うっかりということもあるだろう
(間違っていたら失礼としておこう)


ところで子規の有名な句「柿くへば」は漱石の句を受けて書かれたようなものらしい
(これも「常識」なんだろうね、漱石、子規読みには)


鐘撞けば銀杏散るなり建長寺 ≪漱石≫ 明治28年 9月6日(海南新聞)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  ≪子規≫ 明治28年11月8日(海南新聞)


ーーまあこの程度のことも知らなかった人間がなんたら書くのは失礼というものだ。

 …………


正岡子規 18671014日(慶応3917日) - 1902年(明治35年)919


夏目漱石 186729日(慶応315日) - 1916年(大正5年)129日)


1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。Wikipedia

 ……


 

子規は人間として、又文學者として、最も「拙」の缺乏した男であつた。永年彼と交際をした何の月にも、何の日にも、余は未だ曾て彼の拙を笑ひ得るの機會を捉へ得たた試がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざ〳〵余の爲に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出來たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出來得るならば、子規の此拙な所をもう少し雄大に發揮させて、淋しさの償としたかつた。(夏目漱石『子規の画』

――この「拙」は、この文のすこし前に、《東菊によつて代表された子規の畫は、拙くて且眞面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、繪の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行がねつとり竦んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。》とある。



これは子規批判とも読める箇所で、付き合い上での子規の親分ぶりを思い出して苦笑の感慨を洩らしている以外にも、「才を呵して直ちに章をなす彼の文筆」に苦情の追懐を呈しているといってよい(ここで先走りして、下に引用される漱石の言葉を使えば、木瓜のような「愚かにして悟った」ところがない、と)。たしかに、子規の文には「肩に力が入ってる」印象を受けるものが多い。自らの主張を江湖に知らしめることに余念が無い。


あまり熱心には読んではいないのだが、たとえば、『歌よむに与ふる書』。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拜するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ實は斯く申す生も數年前迄は古今集崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拜する氣味合は能く存申候。

定家といふ人は上手か下手か譯の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは譯の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候
ーーいやいや、こう書き写せば、その主張の嫌味以外にも、どこかユーモラスなところがあるな……


なかんずく、最晩年の『病牀六尺 』や『死後』は、そのユーモア、--《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》(ボードレール)ーーを楽しんだのだけど…、あれを「拙」とは言わないということになるのか。


余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。主観的の方は、病気が悪くなったとか、俄に苦痛を感じて来たとか、いう時に起こるので、客観的の方は、長病の人が少し不愉快を感じた時などに起る。(『死後』)
この箇所は、柄谷行人の小名品、「ヒューモアとしての唯物論」でも引用されているのだけれど、柄谷はこの《「客観的」という言葉は、子規の場合、自分が自分自身を高みからみる「自己の二重化」を意味している。子規が「写生文」と読んだ「客観的」描写は、実は、近代小説のナラティヴあるいはナレーターによっては不可能なものなのである》としている。


漱石の句に、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」とある。そして『草枕』には次の文がある。


木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直(まっすぐ)かと云ふと、決して真直でもない。只真直な短い枝に、ある角度で衝突して、斜に構へつゝ全体が出来上って居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さへちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであらう。世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。(夏目漱石『草枕』十二)




「拙を守る」は、もともとは、陶淵明の五言詩「帰園田居(園田の居に帰る)」の「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」からのようで、つまり「愚直な生き方、不器用な生き方を守りとおそうと故郷の田園に帰って来た」となる。



ところで子規は漱石をこう評している。


我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また甚だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき。(『墨汁一滴』) 

ーーこの評は、晩年の子規随想、『墨汁一滴』『病床六尺』『死後』にも当てはまる印象を受けるんだけどね、《真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき》ーー子規の晩年の滑稽味を「拙」、「愚かにして悟ったところ」、少なくともその片鱗とするわけにはいかないものか。



…………


俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿のすさびに彫んだ小品をこの集に見る事が出来る。(寺田寅彦『夏目先生の俳句と漢詩』)


今頃、正岡子規の『俳人蕪村』を読んでみる

(つまり飛ばし読みしてみる)
俳句に全く馴染んでいない身にとって

芭蕉と蕪村の句が並べて評されているだけでも尊い


《五月雨は芭蕉にも


五月雨の雲吹き落せ大井川  芭蕉

五月雨をあつめて早し最上川  同


のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。


五月雨の大井越えたるかしこさよ

五月雨や大河を前に家二軒

五月雨の堀たのもしき砦とりでかな》



ーーただし、読み飛ばしたせいなのか、この書には滑稽味はあまり感じられない、肩に力が入っている。

……



子規は月並風の排除に努めて来た習わしから、ともすれば、脚をとる泥沼なる「さび」に囚われまいと努め努めして、とどのつまりは安らかな言語情調の上に、「しおり」を持ち来しそうになって居た。而もあれほど、「口まめ」であったに拘らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った。《ていぶるの 脚高づくゑとりかくみ、緑の陰に 茶を啜る夏》平明な表現や、とぼけた顔のうちに、何かを見つけようとしている。空虚な笑いをねらったばかりと見ることは出来ないが、尻きれとんぼうの「しおり」の欠けた姿が、久良岐らの「へなぶり」の出発点をつくったことをうなずかせる。(折口 信夫『歌の円寂する時

ここで折口信夫の書く子規評、 《あれほど、「口まめ」であったに拘らず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った》というのが正しいならば、漱石の書く、《子規は人間として、又文學者として、最も「拙」の缺乏した男》、つまり《愚かにして悟った》ところが全く無いまま生涯を終えてしまったと言いうるのかもしれない。

ここで、思い切って、「愚かさ」という語に触発され、まったく畑違いであろう、蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』から引用し、かつ利用してみよう


どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化したマクシムには、ギュスターブ(フローベール)のように書くことの無根拠と戯れる愚鈍さが欠けていた。
マクシムの「情熱」は、もっぱら、 その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、 書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていた のである。

つまりは、《どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化した子規には、漱石のように書くことの無根拠と戯れる木瓜の愚鈍さが欠けていた。》

《子規の「情熱」は、もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで(才を呵して直ちに章をなす彼の文筆)、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、 書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていた のである。》


漱石のテクストは、筋を放ったらかして、細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起る。もちろん言葉が独走するといっても常に迅速さを齎しはしない(それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起る)。

ここでは長くなるから例は挙げない。ただ李哲権という方が書かれた二段組百項にあまる『隠喩から流れ出るエクリチュールーー老子の水の隠喩と漱石の書く行為』(2010)に例文が豊富である。

ーーさて、子規のテクストは、《もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない 。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで(才を呵して直ちに章をなす彼の文筆)、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしない》のだろうか。晩年の随想に滲むユーモアはそうではない逸脱があるように感じるのは、病臥時に芽生えたわたくしの子規へのシンパシーのせいだけか。

《ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。(四月十五日)》ーー(『墨汁一滴』)

明治35年9月18日、子規は、どれも糸瓜を詠んだ辞世の句を三つ、自ら筆を執って書きつけた直後に意識を失い、翌19日の未明に息をひきとった。まだ36歳であった。(正岡子規と糸瓜

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合わず
をとヽひのへちまの水も取らざりき

2013年4月19日金曜日


先々夜、自らは須臾の間の不摂生のつもりが、たちまち、ひと月かかって養生し回復しつつあった足の具合が、とくに蹠の痛みが再発する。ふたたび階段の昇り降りが苦行の身になり、妻に二階まで食事を運んでもらうことになった。尿酸値が高いせいなのだが、少し前に調べてみたかぎり、そもそもわたくしの好物は、要警戒の食べ物ばかりで、とくに今年に入って、歩いて買い物ができる近場に新鮮な魚介類を売る店ができ、以前から蝦や蟹はあったにしろ、この魚屋にて、蝦蛄や赤貝、名のしらぬ牡蠣に近い味のする貝などが手軽に入るようになり、それらを二日に空けず大量に食したのが大きな原因のひとつだろう。

運動不足もあり、しばらく前までは、早朝、二日に一度、妻とともにテニスに出かけたのだが、今年に入って肘の具合が悪くなり(いわゆる「テニスエルボー」)、旧正月の祝いの前後から、息子たちと一緒に出かける週一度しかやっていないのも悪い。


ベッドに病臥し慰みに、晩年脊椎カリエスに冒された正岡子規の名品『病牀六尺』を読む。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして……。
わたくしの場合、《苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ》にはいまだほど遠い症状であり、あまり文句はいうまい。子規の死を間じかに控えたこの時期の作品、たとえば「死後」などにも顕著だが、独特のユーモアがあり、それは、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》(ボードレール)態度だ。
誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
あるいはフロイトはこうも言う、《ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。》


これは晩年の漱石のエッセイの末尾書かれる態度でもあり、子規が親友漱石の「滑稽味」として評している若年時からのこのユーモアの力を忘れてはならない、漱石の根のひとつが、かりに中野重治のいうようであっても。――《「てめえたちはな……」と彼は彼らにいつた、「日本の読者階級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。ほんとに気違いでもあつたんだ。ところがあいつあ、一方で、はらの底から素町人だつたんだ。あいつあ一生逃げ通しに逃げたんだ。その罰があたつて、とうとうてめえたちにとつつかまつて道義の文土にされちまつたんだ。」(中野重治「小説の書けぬ小説家」1937

私は今まで他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺くほどの衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。(夏目漱石『硝子戸の中』)
ここには、まるで『ユーモア」のフロイトがいるようであり、『硝子戸の中』は、1915年(大正4年)に朝日新聞連載、フロイトの『ユーモア』は、1928年に書かれている。

ーーいずれにせよ、子規や漱石のユーモア的態度は、ちょっとした困苦のときに力づけられる。


ところで、わたくしの場合、病臥していると、読書のために手にとる書物や耳を傾ける音楽がふだんのものと変る傾向がある。昨晩から子規を読み、あるいは漱石や鴎外などの日本の古典に手が伸びる。音楽は、バッハやヴェーベルンではなく、モーツアルトやスカルラッティだ。昨晩は、グールドの奏するモーツアルトを聴き続ける。

「モーツァルトを聴く人はからだを幼な子のように丸め/その目はめくれ上がった壁紙を青空さながらさまよっている/まるで見えない恋人に耳元で囁きかけられているかのようだ」(谷川俊太郎)

音楽に耳を傾けていれば、食事の時間がわずかに遅くなっても癇癪は起すまい。

病気が苦しくなつた時、または衰弱のために心細くなつた時などは、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。殊にただ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護してくれさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである。しかるにその看護の任に当る者、即ち家族の女どもが看護が下手であるといふと、病人は腹立てたり、癇癪を起したり、大声で怒鳴りつけたりせねばならぬやうになるので、普通の病苦の上に、更に余計な苦痛を添へるわけになる。(子規 同上)

二階の書斎兼寝室の窓からは、木蓮、プルメリアやジャスミンの白い花が風に靡いて芳香を運んでくるのだから、一鉢の草花がなくてもかまわぬ。

暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の声もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬほどに、向島より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より七、八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き出でて物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るにその傍に細き字して一名夕顔とぞしるしける。(正岡子規『病牀六尺 』)

当地には、いまだ物売りの声も生き残っている。


起き上がることを許されていなかった私は、童話を聞き、まだ聞かない話を想像し、同じ庭の植込みを何度も眺め、天井板の木目をあらゆる細部まで観察し、しかし時間をもて余して、六畳の部屋の外の世界からやって来るすべての音に耳を澄ませていた。(……)廊下を近づいてくる母の足音には、あらゆる期待があったし、遠い台所での物音には、食べものについてのすべての考えがよびさまされた。玄関の戸の開く音は、父が往診に出かけるのか、外から帰ってきた報らせであった。そして家の外から納豆売りの声と豆腐屋のらっぱの音の聞こえてこない日はなかった。しじみ売りや竿竹屋やパン屋さえも、それぞれ節をつけて呼ばわりながら、塀の外を通っていった。そういう物売りの声は、高い板塀にかこまれ静まりかえった家の六畳の一部屋のなかにまで、働いて生きている男たちの、さまざまな息づかいを、実に鮮かに、はこんできた。今では、東京の郊外の家の窓をひらくと、疾走する自動車の機械的な音だけが入ってくるけれども、その頃の東京には、まだ人間の肉声があふれていたのである。寒い冬の夜、シナそば屋の笛が近づき、はっきりと節を唄い、またはるかに遠ざかってゆく。その哀調は、凍りついた道や、ふところに手を入れて急ぎ足にゆく人の下駄の音や、近所の風呂屋の温かそうな明り窓、電信柱の上に高く冴えている鎌のような月のすべてを、忽ちよびさました。また雨戸を鳴らす木枯、渋谷駅を通る貨物列車の遠い汽笛……母の弾く琴の音は、そういう私の音の世界の一部分であり、おそらくあのヴェルレーヌがうたった「街のざわめき」から本質的に異なるものではなかったろう。(加藤周一『羊の歌』上P39-40

《いまだ起出る気力なし。終日横臥読書す。》(荷風)でありながら、鬱蒼と繁った樹間からは《鳥語欣々たり》であり、雨季の前触れのようにして強風がふけば、《西北の風烈しく庭樹の鳴り動く声潮の寄来るに似たり》であるのだから、澄んだ空気はなく、雲が美しくない土地でも我慢しよう。

高原の夏は、郭公の声と共にはじまる。中学校の最後の年の夏を、信州の追分村で過してから後、私は毎年の七月にその声を聞くようになった。浅間山麓のから松のなかで、その声は遠くまた近く、澄んだ空気をふるわせ、かえって周囲の自然の静寂をひきたたせた。東京の騒音は俄かに遠く、私は林の中の小さな家に着いた瞬間から、汗と埃にまみれた合宿練習や、渋谷駅の雑踏や、美竹町の家の西陽のさす二階の部屋を忘れた。そこには郭公の声と共に、芝と火山灰の小径があり、青空のなかで微風にそよぐ白樺の梢があり、雑木林の間を縫って流れ来るり流れ去る霧があり、また浅間の刻々に変る肌と、遠く西の地平線を限る紫の八ヶ岳があった。そこでは群青の空が深く、真昼の入道雲が壮大で、夜空の星は鮮やかあった。七月の末まで避暑の人々はほとんどあらわれず、近所にあった学生の夏期寮も閉じたままで、八月には忙しくなる油屋や、夏の間貸しをする村の農家も、まだ客を迎えていなかった。演奏会のはじまるまでに管弦楽団が楽器の調子を合わせるあのざわめきのように、私は郭公の声を聞きながら、やがて村が東京から集まって来る人々でにぎやかになるのを待っていた。(同 P137

2013年4月17日水曜日

創作家と批評家ーー夏目漱石『作物の批評』より


創作家と批評家(評者)について夏目漱石は前者が「生徒」で、後者が「教師」としている。

今の評家のあるものは、ある点においてこの教師に似ていると思う。もっとも尊敬すべき言語をもって評家を翻訳すれば教師である。もっとも謙遜したる意義において作家を解釈すれば生徒である。(夏目漱石『作物の批評』

両者を比べれば、もちろん創作家の方が「エライ」と相場は決っている。だが殆どの創作者が批評をもとめるのは確かだろう。たとえば書物を上梓すれば、書評をねがう。なんの反応もなければ失望する。

厄介なのは、教師=評者が融通が利かないことが多いせいだ。

作家は造物主である。造物主である以上は評家の予期するものばかりは拵らえぬ。突然として破天荒の作物を天降らせて評家の脳を奪う事がある。中学の課目は文部省できめてある。課目以外の答案を出して採点を求める生徒は一人もない。したがって教師は融通が利かなくてもよい。 
「批評」は過去の作品を参照せざるをえない。だが批評の対象が破天荒の作物であったらどうするのか。過去の作品からえた法則は通用しない。
過去を綜合して得たる法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰えるとはこのためである。法則がわるいのではない。法則を利用する評家が変通の理を解せんのである。(同)

こうして抜き出してみれば、漱石はかなり早い時期にプルーストやエリオットと似たようなことを書いていたことが知れる。

 

……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(吉田健一訳「伝統と個人的な才能」『エリオット選集 第一巻』)

スーザン・ソンタグは、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)と書いているが、漱石の作品が世界文学観とはどのように異質なのかは判然としないにしろ、漢文学、俳句が、漱石の作品の根のひとつであるには違いない。

余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もまたかくのごときものなるべし、かくのごときものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、まったくこの幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。在学三年の間はものにならざるラテン語に苦しめられ、ものにならざるドイツ語に窮し、同じくものにならざる仏語さえ、うろ覚えに覚えて、肝心の専門の書はほとんど読む遑(いとま)もなきうちに、すでに文学士と成り上がりたる時は、この光榮ある肩書を頂戴しながら、心中ははなはだ寂寞の感を催ほししたり。(……) 
春秋は十を連ねてわが前にあり。学ぶに余暇なしとはいはず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏にはなんとなく英文学に欺かれたるがごとき不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、又西の方熊本にゆけり。熊本に住する事数年いまだこの不安の念消えぬうちロンドンに来れり。(夏目漱石『文学論』序論)

あるいは、もともと「漱石」は正岡子規の雅号であり、夏目金之助はそれを親友から頂戴したのだし(ロンドン滞在中に子規は病死)、学生時代のレポートには「老子の哲学」(明治二十五年1892年)がある。漱石の「水の女」のテーマは、オフェーリアと同様に、老子の「上善水のごとし」の影があるに相違ない。


子規は『墨汁一滴』のなかで、漱石がもっている滑稽趣味は俳句に向いていると評価している。

わが俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率いるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。
《もし漱石が小説をひとつも書かずに終わったとしても、明治時代を代表する俳人として記憶されただろう。》(夏目漱石のこと

漱石の「水の女」は、丘の上に立ち谷間の水を覘き見る(たとえば、地名「谷中」の頻出はただ単に住居のそばであったせいだけではないだろう)。
谷神不死。

是謂玄牝。

玄牝之門、
是謂天地之根。

緜緜若存、
用之不動。(老子)
福永光司氏による書き下し(玄牝の門)。
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ




 

ところで『三四郎』には、「批評家」は、《自分はあぶなくない地位に立って》、《世の中にいて、世の中を傍観している人》と書かれる。

三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。

創作者側からみれば、この外部に立った「批評家」の態度が許しがたくみえる。だが、他方、すぐれた「批評」は作品になっている。たんに批評家、評論家だからといって貶すわけにはいかない。日本においても、小林秀雄、江藤淳、柄谷行人、蓮實重彦、…の系譜の「批評家」たちの「作品」がある(それらが果たして、同時代の小説に比べて「作物」として劣っているかどうか)。

小説でも批評、評論、あるいはエッセイでも、古井由吉の書くような文体をもっているかどうかーーそれがおそらく分水嶺のひとつになるのではないか。

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス』)

これは柄谷行人が蓮實重彦との対談『闘争のエチカ』での、批評と批判をめぐる発話にそのまま繋がってくる。

柄谷) 僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある
その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。しかし、これは「自己意識」とは別だと思う。小林秀雄はそれを自己意識にしてしまった。(……)僕は、以前に「ゲーテル的問題」とか「自己言及のパラドックス」ということをいっていましたが、それは自己意識とはちがいます。形式的なものにかかわるからです。ウィトゲンシュタインは「論理学は超越論的である」といっている。論理学は言語に対して自己関係するものだからです。僕は「超越論的」ということを、カントやフッサールよりも最も広い意味で、つまり意識の問題からはなれたところで考えたいのです。
あるいは蓮實重彦は同じ対談で次のように語っている、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない……》


ここで別の視点を付け加えれば、岡崎乾二郎は「批評」をめぐって次のように語っている。

批評というものが不可能になったとか、力がなくなったとか言われるけれども、僕の理屈では、むしろ消費者や素人ほど批評家であらざるをえない。()彼らがデータとして頼りにできるものは、最低限、自分の身体的な反応しかないわけで、それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか。それが日常生きていく上で常に強いられる。これは基本的に批評の原理そのものでしょう。(岡崎乾二郎に関するテキスト 古谷利裕


この見解を尊重するなら、冒頭に引用した漱石の『作物の批評』の中の次の文、《評家は自己の得意なる趣味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、その縄張以外の諸点においては知らぬ、わからぬと云い切るか、または何事をも云わぬが礼であり、徳義である。》は、どう捉えるべきか。

ツイッターなどで、さる分野では専門家らしき人が、縄張り違いの批評をして、それが多大に流通しているのを垣間見るとうんざりさせられるのだが、「何事をも云わぬが礼」とは言い切れない。そもそもあそこは、あるいはこのブログなども、ひとによれば、気分転換の場である。

ルサンチマン批判のニーチェは、《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)とも書いているのを忘れてはならない。


嘲弄はときに楽しい。攻撃欲動のカタルシスもある。むしろ縄張り違いの分野への「称賛」に、いっそううんざりさせられることが、わたしの場合、多い。


何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

――《称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。》(ニーチェ『善悪の彼岸』170番)

《思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。》(同 184


いずれにせよ、批評には、《自分の身体的な反応(……)それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか》があるかどうかが肝要ではあるには相違ない。

そして次の視点があるかどうかも。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の<神秘的>性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)