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2014年7月6日日曜日

「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」

インターネットで、金井美恵子や中上健次の真似をして、「バカ、死ね」と書いてはいけないのは、アラタメテ言うまでもない。で、引用ぐらいはいいだろう?

人間は諸関係の中で死ぬのである限り、死ぬ自由などありはしないと思った。死のうとする意志がどうしようもなくあるのは認めるが、死ぬ自由などないのである。

その考えは、ぼくの倫理でもあるが、ぼくはその時、奇妙なことに、なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。おもしろい反応である。(中上健次『鳥のように獣のように』)

もうすこし穏和系も引用しとこう

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』――フロイト『文化への不満』から孫引き)

…………

さて冒頭の話とはマッタクカンケイガナイ

@dongyingwenren: 正直、イデオロギー抜きで各論検証した場合、脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる(→消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる)」この現象は何なんだろう。煽り抜きでヤバい気がするのだが。

などとソウメイな方がツブヤカレテオラレ、たくさんのRTやファボを集めてオラレル

ノンフィクション作家、多摩大学「現代中国入門」非常勤講師。著書『中国人の本音』(講談社) 、『独裁者の教養』(星海社)、『中国・電脳大国の嘘』(文藝春秋)ほか。近著に『和僑』(角川書店)amzn.to/YOIgIX 。講談社『COURRiER Japon』誌で「ダダ漏れチャイニーズ」好評連載中です。

マジョリティに好まれる呟きであるに相違ない

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

 

しばしば見かける典型的な「インテリ」系譜の囀りでもある。一応、大学人でもあるらしい

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

「消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる」とは、ひょっとして《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P582)かもな

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、…… 同『凡庸』P461


…………

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385---丸山真男とジジェクのシューマ

《実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」》とはなんだろう?

あれら原子化した個人の群衆のぶざまな醜態は「原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止」ってわけでもあるまい?

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

《フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。(……)フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。

だが……)“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』――デモの猥雑な補充物としての「享楽」



それとも連中は「賤民」ってわけかい? まさか!

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

憎悪だけで寄り集まった連中だってわけでもないだろ?

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

なんにもしないよりなんかしたほうがマシじゃないのかい?

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)
私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』ーー「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)

インテリくんたちは、どっちかしかないことぐらいワカッテルダロウナ?、権力の道具か権力を批判する道具か

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

岡崎乾二郎の昨日のツイート、削除してしまってるな

@kenjirookazaki: まさか、自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった 花 でした。てっ!

ところで、《自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった》という痛恨の思いに囚われている人でも、「脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」なんて呟くもんだろううか?




いやいや、まだ若い人の囀りなのだ、なんのウラミもない、寡聞にして、はじめて知った名でね

《私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本……》、犬が四匹、人間の皮をはいで肉をあたえたことはまだない








2013年12月6日金曜日

アテネの衆愚政治と現代の似非能動性

以下、資料の列記。

…………


だれも、ひとりひとりみると

かなり賢く、ものわかりがよい

だが、一緒になると

すぐ、馬鹿になってしまう(シラー)


集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)



当時のアテナイは地中海交易の中心地の1つでした。焼き物の壷を開発するという小規模な産業革命が起こり、それを周辺諸国に売り、アテナイはポリスのなかでは極めて豊かな国でした。海外の植民地から渡航してきた人びともみなアテナイに集まるから文化的にも多彩ですし、ペリクレスという有能な指導者が出て、ペリクレス時代と呼ばれる黄金時代を現出しました。

 とはいえ、アテナイではひどい衆愚政治がまかり通っていたんです。1人のデマゴーグが出てきて、議会で調子のいいことを言えば、みんながワーッと同調して、ひどいこともしました。ペロポンネーソス戦争のあいだにも、メロス島事件と呼ばれる大虐殺をおこなっています。メロス島はミロのヴィーナスが発見された小さな島ですが、戦争中にはっきりとスパルタがわについたために、圧倒的に優勢なアテナイ軍が占領しました。その時アテナイの議会では、メロス島の男の市民は全部死刑にし、女や子どもなどはみんな奴隷にしてしまえなんて提案が出されて、しかも、喝采をもって可決されてしまいました。すぐ命令書をもった使いが船で出発したのですが、1晩寝て冷静に考えるとやっぱりあれはひどい決定だったと思いあたり、もう1度その命令を中止するための使いの船を追いかけて出したものの、もう間に合いません。ついに、メロス島の男の市民は全員殺されてしまいました。



◆ツキジデス『戦史』と歴史認識より www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/371pdf/matuba.pdf
「・・・そこでアテーナイ側使節はおよそ次のごとく言った。
『われらは市民大衆に語りかける機会を与えられていない。その明白なる理由は,大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれるやも知れぬとの恐れ(これが少数者との会談を誘致した諸君の真意であることは,われらも承知だ),されば,ここに列席の諸君には,さらに万全を期しうる方便をお教えしよう。つまり,諸君も一度限りの答弁に終らぬよう,一つの論には一つの弁で答える,またわれらの口上に不都合なりと覚える点があれば,ただちに遮って理非を糾して貰いたい。さて最初に,このわれらの申出が諸君には満足かどうか,答えて貰いたい。』


メーロス側の出席者は答えて言った。『冷静に互いに意志を疎通させる,といえば正道に反するものではなく,したがって誹謗の余地はない。しかし,これから戦が起るやも知れぬという場合であればさこそあれ,戦がすでに目下の現実であるこの場所で唯今の諸君の論は空疎としか思われぬ。じじつわれらの見うけるところ,諸君自身はあたかも裁判官としてこの会談の席に臨むがごときであり,またこの会談の結末は二者択一であることも先ずは間違いない。われらの主張が勝ち,故にわれらが譲らぬことになれば戦,われらの論が破れれば隷属に甘んじる他はないからだ。』

アテーナイ側,『よろしい,若し諸君がメーロスの浮沈を議するに際して,未来の可能性を論拠にするとか,それに類する思惑だけを頼りに,現実を度外視し,目前の事実に眼を塞ぐ,という態度で此処に集っておられるなら,この議論を打ち切りたい。現実的解決を求めておられるなら,続けてもよい。』

メーロス側,『かくの如き立場におかれた人間が,さまざまに言を練り想を構えることは当然の理でもあり,人情の恕するところと申したい。だがもとより,この会談は他ならずわれらの浮沈を議する席ゆえ,その会談の形式も,宜しければ,諸君が提案される形ですすめて貰いたい。』

アテーナイ側,『よろしい,もとよりわれらも言辞を飾って,ペルシアを破って得たわれらの支配圏を正当化したり,侵されたが故に報復の兵を進めるなどと言い張って,誰も信用しない話を長々とする気持は毛頭ない。また諸君も,ラケダイモーン〔=スパルタ〕の植民地であるからわれらの陣営に加わらなかったとか,アテーナイに対しては何ら危害を加えなかったとか,そう言ってわれらを説得できるなどと考えないで貰いたい。われら双方は各々の胸にある現実的なわきまえをもとに,可能な解決策をとるよう努力すべきだ。諸君も承知,われらも知っているように,この世で通ずる理屈によれば正義か否かは彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの。強者と弱者の間では,強きがいかに大をなし得,弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか,その可能性しか問題となり得ないのだ。』

メーロス側,『しかし,われらの考え及ぶ限りでは,諸君にとっての利益とは(この際損得など問題になるかどうか知らぬが,諸君が正邪を度外視し,得失の尺度をもって判断の基準とするというからには,われらもそのように議論をすすめねばならぬ),とりもなおさず相見互いの益を絶やさぬことではないか。つまり人が死地に陥ったときには,情状に訴え正義に訴えることを許し,たとえその釈明が厳正な規尺に欠けるところがあろうとも,一分の理を認め見逃してやるべきではないか。しこうしてこれは諸君にとっては一そう大なる益,諸君の没落は必らずや諸国あげての報復を招き,諸君が末世への見せしめにされる日もやがては来ることを思えば。』

アテーナイ側,『支配の座から落ちる日が来るものなら,来てもよい。われらはその終りを思い恐れる者ではない。なぜなら,他を支配し君臨した者,たとえばラケダイモーン人もその一例であるが,これらの者は敗者にとってはさして恐れることはない(断っておくが,われらの争いの相手はラケダイモーン人ではない),真に恐るべきは,被支配者が自発的に謀叛をたくらみ,旧支配者を打倒したときだ。しかしその危険もわれらにまかせておいて貰いたい。さて今回やって来た目的は,われらの支配圏に益をはかり,かさねてこの会談に託して諸君の国を浮沈の際から救うこと,この主旨の説明をつくしたい。われらの望みは労せずして諸君をわれらの支配下に置き,そして両国たがいに利益を頒ちあう形で,諸君を救うことなのだ。』

メーロス側,『これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる,しかし諸君の奴隷となれば,われらもそれに比すべき利がえられるとでも言われるのか。』

アテーナイ側,『然り,その理由は,諸君は最悪の事態に陥ることなくして従属の地位を得られるし,われらは諸君を殺戮から救えば,搾取できるからだ。』

メーロス側,『われらを敵ではなく味方と見做し,平和と中立を維持させる,という条件は受け入れて貰えないものであろうか。』

アテーナイ側,『諸君から憎悪を買っても,われらはさしたる痛痒を感じないが,逆に諸君からの好意がわれらの弱体を意味すると属領諸国に思われてはそれこそ迷惑,憎悪されてこそ,強力な支配者としての示しがつく。』

メーロス側,『とは言え,諸君の属領諸国から見れば,諸君とは何らのつながりのないわれらの場合と,その殆んどが諸君の植民地であり,しかも幾つかは叛乱し鎮圧されたかれらの場合とは,各々異なる道理によって律せられるべきだ,と思えるのではないか。』

アテーナイ側,『道理を言い立てるなら,どちらの場合にも理屈は立つと思うだろう,そして独立を維持するものがあれば,その者が強いからだと思い,われらが攻めなければかれを恐れるからだと考える。したがって,版図を拡げることもさりながら,それとはべつに,諸君の降伏はわれらの不動の地位を確認させることになる。とりわけ諸君のごとき島住民にして,しかも他より弱小なる者たちが,海の支配者たる者の向うを張るのを止めて頂ければ,だ。』
・・・〔中略〕・・・

メーロス側,『それなればなおのこと,こう言えるのではないか,諸君が支配者の座を失うまいとし,すでに奴隷たるかれらが支配者から脱しようと,それほどの危険をおかしあっているのであれば,われらのごとく今なお自由を保持する者が奴隷化を拒み,必死の抵抗をつくすのは当然のこと,さもなくば見さげはてた卑劣さ,卑怯さとさげすまれよう。』

アテーナイ側,『いや,冷静に協議すればあながちそうではない。なぜなら諸君は今,勇を競い名を惜しむ彼我互角の争いにのぞんでいるわけではない。圧倒的な強者を前にして,鉾を引き身を全うすべき判断の場に立っているのだ。』

メーロス側,『ともあれ,われらにも心得があること,勝敗の帰趨は敵味方の数の多寡どおりには定まらず,往々にして彼我公平に偶然の左右するところとなる。さればわれらにとって,今降伏することは今絶望を自白するに等しい,だが戦えば戦っている間だけでも勝ち抜く希望がのこされている。』

アテーナイ側,『希望とは死地の慰め,それも余力を残しながら希望にすがる者ならば,損をしても破滅にまで落ちることはない。だが,手の中にあるものを最後の一物まで希望に賭ける者たちは(希望は金を喰うものだ),夢破れてから希望の何たるかを知るが,いったんその本性を悟ったうえでなお用心しようとしても,もはや希望はどこにもない。諸君は微力,あまつさえ機会は一度しかないのだから,そのような愚かな眼にあおうとせぬがよい。また人間として取りうる手段にすがれば助かるものを,困窮のはてついに眼にみえるものに希望をつなぎきれず,神託,予言,その他同様の希望によって人を亡ぼす諸々の,眼に見えぬものを頼りにする輩は多いが,諸君はかれらの真似をしないで貰いたい。』

メーロス側,『諸君の兵力と幸運とに匹敵する条件を持たぬ限り,これと争うことの至難たるはもちろんわれらにも判っている,と考えていただきたい。だがわれらは罪なき者,敵こそ正義に反する者であれば,神明のはからいの欠くるところなきを信じ,軍兵の不足はラケダイモーンとの同盟が補いうると信じている。たとえ他に何の理由がなくともただ血族の誼と廉恥を重んじる心から,かれらはきっと救援にやってくる。されば,諸君が言うほどに全く何の根拠もなくして希望をかかげているわけではない。』

アテーナイ側,『その神明のはからいとやらについて言えば,われらにも欠くるところないであろうと思っている。なぜなら,われらの主張も行為も,人間が神なるものについて抱く考えに外れたものではないし,人間社会の慾求に反するものでもない。もとより神は想念によってとらえられ,人の行為は事実によって判断されるという違いはあるが,しかしいずれもつねに各々の本質を規定する法則に操られている。つまり,神も人間も強きが弱きを従えるものだ,とわれらは考えている。したがってこういうわれらがこの法則を人に強いるため作ったのではなく,また古くからあるものを初めて己が用に立てるのでもない。すでに世に遍在するものを継承し,未来末世への遺産たるべく己の用に供しているにすぎぬ。なぜなら諸君とても,また他の如何なる者とても,われらが如き権勢の座につけば必ずや同じ轍を踏むだろう。さればこれが真実ゆえ,われらにも神明のはからいに欠くるところがあろうなどと,思い恐れるいわれは見当らぬ。・・・』
・・・〔中略〕・・・

アテーナイ側,『・・・不面目な結果が明白に予知されるような危機に立ったとき,人間にとってもっとも警戒すべきは,安易な己れの名誉感に訴えること,諸君も心して貰いたい。往々にして人間は,行きつく先がよく見えておりながら,廉恥とやらいう耳ざわりのよい言葉の暗示にかかり,ただ言葉だけの罠にかかってみすみす足をとられ,自分から好んで,癒しようもない惨禍に身を投ずる。そうなれば,不運だけならまだしも,不面目の上塗りに不明の譏りを蒙るのだ。諸君は,充分に協議すれば,この過ちから免れえよう。また,最大の国が寛大な条件で降伏を呼びかけているとき,これに従うことを何ら不名誉と恥じる要はない。諸君は従来どおり此処に住み,年賦金を収めれば,われらの同盟者となれるのだ。それのみか,戦争か安寧か,という選択さえ与えられているとき,頑迷にも,より愚かな道をえらぼうとはせぬがよい。相手が互角ならば退かず,強ければ相手の意を尊重し,弱ければ寛容に接する,という柔軟な態度を保てば,繁栄はまず間違いない。われらが退席したのち,以上の諸点をよく考えて貰いたい。そして諸君の決定は諸君の祖国の浮沈にかかわることゆえ,充分に考えを尽して貰いたい,諸君の祖国はただ一つしかなく,しかもその浮沈はこの一回限りの協議にかかっているのだ。』・・・ ・・・」(ツキジデス『戦史』(岩波文庫)中巻,pp.352-362.)

 …………


どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

……議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。


この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)

『戦前の思考』 柄谷行人 (1994年2月 文芸春秋)より

シュミットは、ナチの理論家です。もちろん、彼の考えは、一般的にナチを特徴づけていた「人種主義」のようなものと異質だし、そのために彼は途中失脚しています。戦後、彼はそのことをもって自己弁護しているのですが、それは見苦しいだけで、とうてい彼を免罪するものにはなりません。しかし、シュミットには、われわれが無視てきないような洞察があります。それは、彼がつねに例外状況から出発し、それによって通常科学ではけっして見えないようなものを見いだしたからです。そして、彼が思考のある極端さを実現しているかぎりにかいて、それを無視することはできません。

 しかし、ここで、注意しなければならないことがあります。われわれが例外状況から出発するのは、それが本来的だからだという意味ではないのです。それは、先にいったように、むしろノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解するためです。ある種の人間、ロマン主義的人間にとっては、例外状態のほうがなじみやすく、日常的な状態のほうが耐え難い。明らかに、シュミットはロマン主義的です。彼は『政治的ロマン主義』という本を書きロマン主義者を鋭く批判していますが、それは自己分析というべきもので、彼自身がまさにそのようにふるまっているのです。

 たとえば、自由・民主主義という言葉があります。自由主義と民主主義はほとんど区別なしにあいまいに使われています。これを明確に区別したのがシュミットです。彼は、『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)において、こういうことをいっています。普通、民主主義というと、議会制民主主義だと考えられていますが、シュミットは、現代の議会制は、根本的に自由主義であり、これは民主主義とは異質なものだというのです。いいかえると、議会制でなくても、民主主義的であることは可能だというわけです。

 民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。彼はたしかに『君主論』を書いた人ですが、もともと共和主義者でした。しかし、問題は、どのようにして、大衆の意志が最もよく「代表」されるのかということにあります。
 
 デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないことにあるのです。なぜなら、現実に存在する人々は、さまざまな利害の対立のなかにあるからです。議会とは、それらを調整する場所だといってもいいでしょう。そして、そこでは公開的な討論を経て多数決によって「人民の意志」が実現されることになっています。しかし、ここに問題があります。それは、多数だからといって、それが真に人民の意志を実現するとはいえないということです。むしろ、少数者のほうがそれをあらわすということがありえます。
 
 これはプラトン以来の難問です。それは、真理は、多数決で決定できるのかという問題です。すなわち、真理はいつも少数の者によって把握されるのではないのか、多数の同意は真理を保証しないのではないか、しばしば真理は多数が同意するものに反しているのではないか、というような問題です。プラトンは、政治形態にかんしてもそれを拡張し、議会制に反対して、哲学者=王こそ真理を代表すると考えました。(……)

シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない》。実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。


ハイパーメディア社会における自己・視線・権力(浅田彰/大澤真幸/柄谷行人/黒崎政男)

柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションをしながら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりするけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね.

浅田――ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.

…………



知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)


二〇一一年の春の事故から、二年九ヶ月たって、多くの人が<あれ>を忘れ去っている。いま騒いでいることを三年後の次の衆議院選挙まで忘れないでいられるであろうか。


みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま現在も世界史的瞬間を刻んでいま す。しかし、われわれは未曾有の歴史的な瞬間に見あう日常を送ってはいません。未曾有 の歴史的な瞬間に見あう内省をしてはいません。3.11 は、私がそのときに予感したとおり、 深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっ かけにはなりえていない。生きるに値する、存在するに値する社会とはなにかについて、 立ち止まって考えをめぐらす契機にはかならずしもなりえていない。私たちはもう痛さを 忘れている。歴史の流砂の上で、それと知らず、人びとは浮かれはじめている。


インターネットに事件のたびごとに、のべつまくなしに<悲嘆>の感想を書き込んでいる手合いよ、まさかフロイトのいうようにネット村社会内で、《情緒は異常にたかまり、知的活動はいちじるしく制限される》わけではないだろうな。

あなたがたのそれが、似非能動性でないことを祈る。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』54頁)

《「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひ とり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おか しな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。 孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは 深い自由だと私は思わざるをえません。》(辺見庸)


今、《状況の座標を実際に変化させる行為への道》とはなんだろうか。選挙投票者は、インターネット情報などに無関心な層のものが大半を占めるのだ。


知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在し ないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢 でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)

ところで「緑の党」の中沢新一はいまなにをやってるんだろう。オウム事件の記憶で彼がきらいな人もいるだろうから、そうであるなら、別の影響力のある党結成が三年後のために<いま>必要だぜ。


特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。

まさか、《何も変化しないようにするために、四六時中能動的でいる》わけじゃあないだろうな。


私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)



2011年1月29日土曜日

現代の「強迫神経症者」たち

ラカンの弟子のひとりであるオクターヴ・マノーニに「よくわかっているが、それでも……」という古典的論文があって、「<現実界>の応答」の論理を分析している。まずその論へのジジェクの解説を引用してみる。


<現実界>への応答のほとんどの人の典型的態度は、たとえば「生態危機」というリアルに対してであれば、《「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……(心からそれを信じているわけではない。それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振る舞いつづけるつもりだ)」という有名な否認そのままである》(ジジェク)。


次に、<生態危機>を<財政破綻>に読み替えて、ジジェクの論を自由間接話法で語ってみよう。

<財政破綻>を本当に深刻に受け止めている人たちの典型的な反応は―――リピドー経済の次元では―――強迫的なのである。強迫神経症者のリピドー経済の核はどこにあるのか。強迫神経症者は狂的な活動に加わり、年じゅう熱に浮かれされたように働き続ける。なぜか。自分が活動をやめてしまったら何か大変なことが起きるに違いない、と考えるからである。

 
ここでジジェクによる「倒錯」、「ヒステリー」「強迫神経症」の簡略な説明をあげておく。

倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(『斜めから見る』)


あるいは強迫神経症者の典型的な戦略である偽りの行動(false activity)様式。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(『ラカンはこう読め!』)


すなわち、リアルな現実を見ないふりをするため、あるいは核心を突く発言者を黙らせておくためにしゃべり続ける。《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。


ジジェクはこのような「何にでも口に出す」態度を、似非能動性と呼んでいる。そして、

このような状態に対する、真の批判の一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く》、と。



2011年初頭の段階で、多くの人びとが何を見ないふりをしているかは明らかだ。そして無駄話にうつつを抜かしている人びとの「熱心さ」は、まさに「強迫的」である。


ブレヒトはこのように書いている。

「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)


日本の財政状態をみないふりをし続けるのは、もう限界だ(などということも何年も前から言い続けられているわけだが)。「規制」「教育」「コミュニケーション」などを語るのが全くの無駄だとはいうまい。だが、「政治」、すなわち、消費税、年金受給年齢、あるいはベーシック・インカム導入の可能性……。<あなたたち>には関係ない話しかね?

今、政治の「客体」のままでい続けるわけにはいかないはずなのだが。―――ということを言えるのは、私が海外住まいで税や年金がどうなろうと関係ないせいなのかもしれない……