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2014年8月16日土曜日

「同じ空間で」

カヴァフィス「同じ空間で」(中井久夫訳)

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。







ウンベルト・サバ「トリエステ」(須賀敦子訳)


……
活気に満ちた おれの町には
おれだけのための 片隅がある
憂愁のある 引込み思案な
おれの人生のための 片隅が




サイゴンの街を歩き廻っていたときは
フォーレのメロディばかりを聴いていた
Barbara Bonneyの歌唱ではないけれど

シクロに王侯のようにふんぞりかえる
若く貧しい娘たちがひどく美しかった

白いTシャツに亜麻色の短パン
ひどく暑い国なのにイッセイミヤケの
麻のカーディガンを肩に洒落る
こげ茶の革サンダルに黄色のフレームのサングラス
日本の無印で手に入れたストローハット
このいでたちで街をさ迷い歩いた
少女デュラスの中年男風変装
ラマンの物真似というわけさ

(アクセサリーかい?
四十年代のゴールドロレックスに
伊で手に入れたまがいグッチの二十四金ネックレス
というひどく「シンプル」なふたつだけさ
こっちの女はゴールドに目がないのでね)

さあてとなんの話だったか

長方形の殺風景のアパート
コロニアル様式のやたらに天井が高い部屋
天井扇がカラカラ鳴るのが珍しかった

ベニヤ張りの薄っぺらいベッドと机のみの
独りで住むには広すぎる伽藍堂の部屋

扉と窓が不調和にがっしりしていた
バスルームのドアの五倍ほどの厚み
古材の紫檀扉の四隅の角は
長年の使用で円くなっている
磨耗した真鍮ノブを握るのが心地よい

グリーンとクリームを混ぜた色調で塗られた鎧戸
朝そこから斜めに漏れ入る光の筋
床に描く模様のゆらめく焔
沈黙のなかの叫び
それはフォーレの内気な詩趣と抑制
夢幻と超脱にとてもよく共鳴した






2014年2月25日火曜日

「夜中の一時だったか/それとも一時半」

「夜中の一時だったか

それとも一時半」


ケイタイ切っとくのを忘れたよ

目が醒めちゃったから

モルトウィスキーを一口

ダイジョウブカナ、痛風
それでとーー

ダンヒルのパイプは寿命だね
美丈夫の生涯独身だった叔父の形見でさ
足掛け四〇年ものだからな
マウスピースがすかすかでね

海泡石のパイプは詰まってるし

刻みタバコも湿ってるな


「ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ

すててヴァレリの呪文を唱えた

「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」


なんてことはできないな
呪文ぐらいは唱えるさ
開け胡麻って
「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」

「過去をふり返るとめまいがするよ

人間があんまりいろいろ考えるんで

正直言ってめんどくさいよ

そのくせい自分じゃ何ひとつ考えられない

ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる

カチャンコロコロ……

過去がないから未来もない音だね


それでとーー

ちょっともう続けようがないなこの先は」






私は、たまたま高等学校において、古代ギリシャ文学を愛する教師に勧められ、当時ようやく出版された独習書を使って古代ギリシャ語を勉強しようとした。哲学よりも詩を好み、ギリシャ詞華集の一部を暗誦しようとした。

この勉強は、京都大学法学部に入学してからも継続した。私は、そのまま行けば、ひそかにギリシャ文学を読む会社員か公務員になっていたであろう。

しかし、私は結核になった。当時、結核の経歴があるということは卒業しても失業を意味した(リッツォスの青春期と似た状況である)。治癒後、私は、独立して生きる可能性が高い医師になろうと思い、医学部に転入学した。(中井久夫「私とギリシャ文学」『家族の深淵』所収)

ーー今でもいるのかね、こういう「教養」を身につけている人は。
すでにヴァレリーやエリオット、リルケなどの原典を
甲南の九鬼文庫で読んでいた後の話だからな
何度読んでも愕然とするね
十代の後半のオレはいったいなにをやっていたというのだろう、と


韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収


一八歳の中井久夫が休学中(結核だが、個人的絶望のせいでも、とある)、西脇順三郎氏との間で何度か親密な手紙のやりとりをしたことは、知る人ぞ知る、である。

……自分が妙なことにならないために詩の翻訳を自分に課した。これはその後、精神的な危機の際の私の常套手段となった。占領下、H百貨店の洋書部主任、東大仏文でのY氏の好意で入手した洋書が多かった。また私の高校に寄贈されていた九鬼周造氏の蔵書も教師の名で貸与してもらって筆写していた。後者の中にT・S・エリオットの『荒地』があった。

ノートを作ったりしているうちに、N氏の訳が出た。当時としては豪華な装丁と紙質と活字だった。書評は絶賛が続いた。しかし、私は氏がいくつかの初歩的な誤訳をされているように思われた。(……)大いにためらってから、私は氏に手紙を書いた。著名人に手紙を書くのは初めてである。私が当時、鬱屈していたことは否定できない。

私は、数日後、厚い速達に驚かされた。氏は、感動的な率直さで誤訳を認めておられた。(「N氏の手紙」『記憶の肖像』所収)

浅田彰は十年以上まえの東京大学に於ける講演で次のように発言している、--ということは当時の東大にも当然まれだということだろう。


たとえば自分は医者になるがゲーテは原書で読んだとか、自分はフランス文学をやっているが彗星が来る周期に関しては必死にPCで計算してみたというほうが重要。最低限のスタンダードが教育されている上で一人の人間の中で広く浅くたくさんの人と教養を深めようというより、狭く深くでいいから、それが複数並び立つのがいい。医学をやっている人がゲーテを読んだってあまり普遍的な広がりはないかもしれないが、なくていい。深いが狭い、しかし狭いが深いというようなものが複数あってそれらがネットワークを作ることが重要。

もっというと、それが複数の人の間で拡がっていって、深いが狭い、狭いが深いというようなものがいくつかショートする状況を作ることが重要。情報ネットワークの発達でそれを可能にする条件は整いつつある。昔は物理的に全然関係ない学校の人、いわんや別の場所の人とコミュニケートするだけでずいぶん大変だった。今はそれはネットですぐできる。そういうものを使って良い形でのコミュニケ―ションを作ることが重要。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」)

まじでまともな「人材」つくり直すのだったら
「3歳から小学校入学前の幼児と母親を対象の
のたぐいをやらなくちゃな
十代後半ではまったくおそいんだよ


…………


「憩いに就く」


夜中の一時だったか

それとも一時半


酒場の隅だったね

板仕切りの後ろ

きみと二人。他には人はいなかったね

ともしびもほとんど届かなくて

給仕はドアのきわで眠っていた


誰にも見られなかったけれど

どうせこんなに燃えたからには

用心しろといっても無理だよね。


……


神のごとき七月の燃えさかる中


大きくはだけた着物と着物の間の

肉の喜び。

肉体はただちにむきだしとなってーー

そのまぼろしは二十六年の時間をよぎって

この詩の中で今憩いに就くのだよ(中井久夫訳  以下同)



◆「酒場の隅」あるいは「からみあい」ヴァリエーション

亭主がまだ部屋から出ていくかいかないうちに、フリーダは、はやくも電燈のスイッチを切るなり、カウンター台の下のKのそばに来ていた。

「好きな人! わたしの大好きな人!」と、彼女は、ささやいたが、Kのからだにはふれなかった。恋のために気が遠くなったみたいに仰向けに寝ころんで、両腕をのばしていた。これからはじまる愛の陶酔をまえにしては、時間も無限であるらしかった。(……)

ふたりは、抱きあった。Kの腕のなかで、小さなからだが燃えていた。彼らは、失神したような状態でころげまわった。Kは、この失神状態からたえず抜けだそうとこころみたが、どうにもならなかった。しばらくころげまわっているうちに、どすんとにぶい音をたててクラムの部屋のドアにぶつかった。それからは、こぼれたビールの水たまりや床一面にちらばったごみのなかに寝ころんでいた。そうして、ふたりの呼吸と心臓の鼓動がひとつになった何時間がすぎていった。そのあいだじゅうKは、自分は道に迷っているのかもしれない、あるいは、自分以前にはまだひとりの人間も足をふみ入れたことがないような遠い異郷の地に来てしまったのかもしれないという感じ、ここでは空気ですらも故郷の空気とは異質で、その異質な空気のために息がつまりそうでありながらも、その妖しい魅力にたぶらかされてこのまま歩きつづけ、道に迷いつづけることしかできないという感じをたえずもちつづけていた。(カフカ『城』前田敬作訳)

ところが、ボーイは、調理場の半ば開いた扉とサイド・テーブルの間の、こちらからは良く見えない陰になっている床の上で、空色のスカート丈の短いユニフォームのウエイトレスと激しくもつれあっているのだった。スカートがまくれあがってしまっているので、ストッキングをつけていない長い脚が宙を泳ぐように動き、ボーイはウエイトレスの脚をすくいあげるようにして、抱え込もうとしていた。食堂には何組かの客が食事をしているのだが、客たちはボーイの振舞いには無関心で、というよりも、まるで気がついていないらしく、二組の夫婦の連れている小さな子供たちだけが、床の上の活劇めいた淫らな行為を熱心に見つめていた。

わたしはすっかりあきれてしまい、それに、はっきり言えば、それはかなり刺激的な光景だったので、どぎまぎして、平然としている彼女の顔を見た。彼女はボーイとウエイトレスの淫らな振る舞いに気づいているのだが、気にするでもなく、自分で食堂の調理場に」近いバーのコーナーに足を運んで、カンパリ・ソーダを拵えて来て、椅子にすわりながら、意味もなくわたしの顔を見て無邪気な様子で微笑みかけるのだった。苛立たしい微笑だ。それから、わたしは唐突に、あのボーイの奴はいつもああなんですか、と批難がましい口調で彼女に質問し、彼女は首をかしげて考え込むような仕草をして、そうねえ、いつもというわけじゃあないけれど、と答える。……(金井美恵子『くずれる水』)

私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)

…………


「午後の日射し」


私の馴染んだこの部屋が

貸し部屋になっているわ

その隣は事務所だって。家全体が

事務所になっている。代理店に実業に会社ね


いかにも馴染んだわ、あの部屋


戸口の傍に寝椅子ね

その前にトルコ絨毯

かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ

右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥

中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ

大きな籐椅子が三つね

窓の傍に寝台

何度愛をかわしたでしょう。


(……)


窓の傍の寝台

午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね


…あの日の午後四時に別れたわ

一週間ってーーそれからーー


その週が永遠になったのだわ


カヴァフィスは登場人物の容貌をほとんどまったく記述しない。せいぜいが、「詩的な眼」などといって済ませる。服装も身のこなしも叙述しない。舞台についても単純な数語である。「自然が出てこない」とは古くから言われたとおりである。まさに仮面劇である。 しかし、カヴァフィス詩を読む時、この寡黙に直面して、われわれは何らかの不足不満を感じるだろうか。イメージが湧いてこないとか、この辺はどうなっているのだと疑問に思ったりなど決してしないと思う。何かが足りないという感覚は生じない。ふしぎな過不足のなさである(「未刊詩編」にはある。彼が自詩を精選した「カノン(正典)にはない)。すなわち詩人の彫琢精選の結果である。 一方われわれは演出の自由を委ねられていると感じる。われわれはカヴァフィス劇の演出家とならされる。これがカヴァフィスの第三の魔法である。これが彼の詩を普遍的なものにしている要素の一つである。われわれはわれわれなりに演出できるし、せざるをえない。 (……) 状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状況が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化とを許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)


「タベルナ」


ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。

アレクサンドリアにいたたまれなかった。

タミデスに去られた。ちくしょう。

手に手をとって行ってしまった、長官の息子めと。

ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸もだな。

どんな顔して俺がおれる、アレクサンドリアに?

……

そんな人生にも救いはある。一つだけある。

永遠にあせない美のような、わが身体に残る移り香のような、救いはこれだ。タミデス、

いちばん花のある子だったタミデスがまる二年

私のものだった。あまさず私のものだった


しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと(カヴァフィス「タベルナにて」)



ギリシャの詩人カヴァフィス(1863-1933)は、人が群れ立つ広がりから出られなかったようですね。彼は、少年時代は英国で教育を受けているわけだけれども、十代の後半からずっとアレキサンドリアにいたわけです。一九三三年に死んでいるけれでも、前の年にアテネで喉頭がんの手術を受けました。そのあと、アテネの郊外のギリシャ神話に名高い山が見えるところで静養するように、友人が設定するんですけれども、脱走してしまう。そして、カヴァフィスならあそこに行ったに違いないと思って、アテネのいちばん雑踏しているところを捜すと、はたしてそこにいたという話です。

彼の公刊されてる詩には、ほとんど自然が出てきません。遺稿集のなかには、多少植物も出てきますけれども。全部、町であり、その町と人間と追憶、そして、追憶のからまった町並みです。ほとんど彼の記憶そのものと化したようなアレキサンドリアの町というものですね。

ボードレールも、若いときは、過激なものを少し書いています。カヴァフィスも、ヨーロッパ人の評論をよむと、最初からアレキサンドリアの町の申し子みたいになっている。しかし実際には、二十代の後半あたりは、イギリスに対して、ギリシャの文化遺産を持ち去っていってことを抗議するような文章を書いています。彼がアレキサンドリアの町を一時逃れてコンスタンティノープルに行くのは、英国の艦隊がアレキサンドリアを砲撃し、カイロに進撃して、事実上エジプトを支配していく過程においてです。そして、その過程において、彼は諦念をもってアレキサンドリアの町にひっそり住み直すわけですが、昼は小役人として働き、夜はホモの世界に生き、もう一つの顔が詩人であるということです。

デカルトだって、ある種の断念のなかで都市のなかに定住するわけですね。中国にも、ほんとうの隠者は市に隠れるという成句があるでしょう。彼がオランダに住み着くのは、一つには、言論の自由ということもあるんだろうと思います。しかしオランダの町のざわめきというのを、森のなかの鳥のさえずり、というようなかたちで表現している。とにかく、都市のなかで森の静寂のようなものを味わっていて、非常に快適だと言っているんです。『方法序説』の終わりのほうかな。群衆のなかこそ隠れ家となんだというわけなんです。群衆のなかに混じって何かをやっているわけではないんですね。

あのころのいちばん近代的な都市、無名性を許容する都市というのは、アムステルダムなどのオランダの都市だったと思うんです。そういう共通性があってーーある人たちは、権力を求めて都市に来るのかもしれないけれどもーーある人は、国内的であれ、国外的であれ、亡命するために都市に来るのかもしれない。実際、農村に亡命することはできませんね。

パリとかロンドンというのは、あらゆる肌の色の人がいますけれども、イギリスの田舎にそういう人がポッと入っているかというと、それはないですね。そういう意味では、都市というものは、元来の群れから出た人間が潜り込めるようなものかもしれない。

ルソーが、森に二十歩入ったらもう自由だといっている。耕地は統制されているのですね。腐葉土のようにいろいろのものが棲めるのが自然発生都市というものかもしれません。計画された都市、たとえばつくば学園都市なんていうと、これはだいぶ違うかもしれない。これは正反対のものかもしれませんね。隠れ棲むということができない。そこがケンブリッジやオクスフォードと違う。

カヴァフィスのアレキサンドリアは、彼の詩からみると、重層した記憶の町でしょうがね。実際は相当雑駁な新興都市だと思うんですよ。アラビアンナイトから出てきたような町を予想する人もいますけれども。ことに西洋人でカヴァフィスが好きな人には、そういう思い入れがあるんだけど、実際は、あれは十九世紀になってから、エジプトが近代化を始めて、タマネギだとか綿だとかタバコだとか、農作物の集散所として栄えたぐらいで、けっしてそんな由緒ある町ではない。むしろ猥雑な町だったんでしょうね。トルコ風のコーヒー屋があるかと思ったら、イギリスのクラブがある。中東ふうの淫売窟があるかと思ったら、ヨーロッパ人のクラブのようなものがある。たぶんそのようなところだったのでしょうね。

それもどんどん変わってきて、昔はここにカフェがあったけれども、今は全然なくなっているんだというようなことを、カヴァフィスは詠んでいるし、彼はそういう重層した記憶というなかで住んでいたんでしょうね。(中井久夫「微視的群れ論」 『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収)


「野蛮人を待つ」  


「市場に集まり 何を待つのか?」

 「今日 野蛮人が来る」

「元老院はなぜ何もしないのか?
 なぜ 元老たちは法律も作らずに座っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  今 法案を通過させて何になる?
  来た野蛮人が法を作るさ」

「なぜ 皇帝がたいそう早起きされ、
 市の正門に玉座をすえられ、
 王冠をかぶられ、正装・正座しておられるのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  皇帝は首領をお迎えなさる。
  首領に授ける羊皮紙も用意なすった。
  授与する称号名号 山ほどお書きなすった」

「なぜわが両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 みごとな金銀細工の杖を握っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  連中はそういう品に目がくらむんだ」

「どうしていつものえらい演説家がこないのか?
 来て演説していうべきことをいわないのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

「あっ この騒ぎ。おっぱじった。なにごと?
 ひどい混乱(みんなの顔が何とうっとうしくなった)。
 通りも辻も人がさっとひいて行く。
 なぜ 皆考え込んで家に戻るんだ?」

 「夜になった。野蛮人はまだ来ない。
  兵士が何人か前線から戻った。
  野蛮人はもういないとさ」

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」


この詩は四一歳の作で出発の遅い詩人としては初期の作品であるが、カヴァフィス詩の特徴がよく出ていると思う。

まず、(1)短い。この詩は長いほうで、彼の詩は一般に三ページを滅多に越えず、数行のことも多い。(2)しかも、その中でストーリーが完結する。(3)読むものをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。われわれはいきなり状況に投入され、めまいを覚え、息をのむ。(4)現場にいあわせる感覚がある。この詩ではわれわれは対話を小耳にはさむ思いがするが、対話の相手となる場合も、隣室に独語を聞く時もある。しかも(5)読者は登場人物と決して同一化できず、現場にありながら醒めていなければならぬ。この感覚が特にカヴァフィス詩独自であると私は思う。(6)人間を中心とする寸劇、それも仮面劇である。登場人物の容貌も服装も決して与えられず、場面もヒント程度である。自然は出番がない。演出は大幅に読む者にゆだねられている。能か狂言仕立てにならないかと空想したくなる。(7)歴史ものは必ずどんでん返し、あるいは裏の意味がある。この詩の場合は明白だが、よく考えてやっとわかるものもある。(8)古代と現代とが二重写しである。同時代的に感覚されている。(9)ある市井性、世俗性、下世話さ、ゴシップ性といでもいうべきものがある。(10)彼の風刺には読者の中にある「内面化された世論」へのおもねりがない。非常な皮肉家と見る人もいるが、運命の前の人間の小ささというギリシャ悲劇的感覚につながるという見方も可能であろう。(中井久夫「現代ギリシャ詩人の肖像」『精神科医がものを書くとき』〔Ⅱ〕所収 広栄社)


「船上」 


このちいさな鉛筆がきの肖像は
あいつそっくりだ。

とろけるような午後
甲板で一気に描いた。
まわりはすべてイオニア海。

似ている。でも奴はもっと美男だった。
感覚が病的に鋭くて
会話にぱっと火をつけた。

彼は今もっと美しい。
遠い過去から彼を呼び戻す私の心。

遠い過去だ。すべて。おそろしい古さ。
スケッチも、船も、そして午後も。


このぴりっとした寸劇は彼ならではである。いきなり場面に強い照明を当てる第一行。スケッチは当時の同性愛者たちの写真代りであった。そしてイオニア海は、ギリシャに深入りしている楠見千鶴子さんによれば「エーゲ海ほど激しく挑発的で明晰な色合いを持たない代わりに、柔らかく潤んだ大気と混じり合ったけだるい曖昧さで思わず吐息をつかせてしまう」。しかし、この追悼詩の最終行は? スケッチも船も古くて当然。だが「午後」とは? むろん、その午後ははるかな過去だ。だが、はっと疑念がきざす。回想に耽る只今も陳腐だというのでは? そうなれば感傷はすべてくつがえる。(中井久夫「イオニア海の午後」『家族の肖像』所収)


「はるかな昔」


この記憶をぜひ話したい
だが今はもうひどく色あせてーー消え尽きたかのようーー
はるかな昔だから、私の青年時代だから。

ジャスミンの肌――
あの八月の夕べーーはたして八月だったか?――
眼だけは思い出せるーー青――だったと思う
そう。サファイアの青だったね


……一九八九年春、『カヴァフィス全詩集』は、第四十回読売文学賞の研究翻訳賞を受賞した。選考委員たちは、英訳でカヴァフィスを読んでいる人ばかりであるから、日本語の詩としてのカヴァフィスが評価されたのであろうが、カヴァフィスの偉大さが日本語をとおして日本人に評価されたと思いたい。刊行以来四ヶ月で受賞が決まった時、既に限定一五〇〇部はすべて売り切れており、直接売ってくれと私のところに手紙を下さる人さえあった。詩集としては驚くべきことである。詩集の再版は日本でも少ない事件である。

初版を「限定版」としたからには、しばらく再版しないのが紳士的であった。一九九一年に「普及版」が出る前に、私はもう一度原典と各国語にあたった。この普及版が出てからの新しい現象は、大衆雑誌に引用や書評がのるようになったことである。『メンズ・ノンノ』という男性服飾雑誌(一九九一年七月号)がカヴァフィス詩の一部を掲載し、『Hanako』という雑誌の東京版(一九九一年八月十二日号)が推薦図書に『カヴァフィス全詩集』を挙げた。現代人に読むに耐える愛の詩は多くないのであろう。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」『家族の深淵』所収)


「老人」


カフェの騒がしい片隅で
頭をつくえに伏せて老人がすわっている。
連れはない。前に新聞紙。

老年のありきたりのあわれな姿。
老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

ずいぶん歳をとった。知っている。わかる。
感じもある。 若かったのはほんの昨日。 そんな気がする。

時は過ぎた、速く、実に速く。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日にしよう。時間はまだたっぷり」。

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

さて考えすぎた。思い出しすぎた。
頭がくらくらする。ねてしまう老人、
頭をカフェのテーブルにやすめて。


ーーまあそこまで言うなよ、カヴァフィスさん




その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)

(私の魂)といふことは言へない
その證據を私は君に語らう
……

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

ーーー伊東静雄 【鶯】(一老人の詩)  

自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。

ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ  la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)

…………

中井久夫のカヴァフィス詩訳は「濡れている」のだよなあ
ヴァレリー訳はそれほどまでにも感じないのだけれど
原詩にもよるのか イオニア海によるものか

《学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)》と書いているけれども
中井久夫のエッセイにさえも感じることのすくないあの「濡れ」の感覚

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。


それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。(中井久夫「訳詩の生理学」ーー「女の味」)





2013年8月16日金曜日

私はいかなるテクストも暗記できません


ところで日本の詩人で最初に感心したのは中原中也です。中也の詩のリズムは、私が詩を訳したりするときの基本になっているのではないかと思います。(……)

ちょうどそのころカフカ全集が出始めたころでした。私は一時カフカ全集ばかり読んでいた時期がありました。まるで自分のことが書いてあるような気がしたことがあります。そのころ同人雑誌にカフカ論を載せたのです。……(中井久夫「私の影響を与えた人たちのこと」『精神科医がものを書くときⅠ』広栄社)

ほかにもヴァレリーやヴィトゲンシュタイン、デカルトなどという名は出てくるが、それらの名やカフカは別にして、中原中也をめぐっては、中井久夫の書き物に滅多に出てこない(わたくしの知るかぎり)。

――何が言いたいわけでもない。中井久夫の訳詩の中原中也のリズムに気づいていたといいたいわけでもない。

このところ中井久夫訳のカヴァフィスをしばしば引用しているが、さらにこうやって引用しても、ある親しさの感は覚えるが、ことさら中也の詩の影響をみることができるほどに中原の詩が「肉体化」しているわけではない(わたくしにとって)。

ーー《傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の〔取り巻き〕に終わるであろう。》

「カフェに坐りつづけた、十時半から/あれがいつ何どきドアを開けてはいってくるか/真夜中はとうに過ぎたが、なお待ちに待つ/一時半も過ぎてカフェに人影もまばら/機械的に読み返す新聞にもうんざり/……/長い長い待ちびと。心がずたずたに破れてゆくなあ/こう何時間でも独りでいると/道徳に背く自分の人生を/彼とて悩み出しもする。//だが友がきた。みえたとたん、疲れも悩みも退屈もあっという間に消えた/友の知らせ。何という棚ボタ/六十ポンド儲けた。カードでだ。//さあ、何もかも歓喜、生命、官能、魅惑。//ふたりは出掛けた。たがいのご立派なご家族の家なんかじゃなくて/(どうせもう歓迎される身じゃなかったし)/馴染みの家に行った。非常に特殊な淪落の家へ。/寝室を一つ頼み、高い飲み物をとって飲みなおした。//高い飲み物を飲み干した時/もう朝の四時に近かったけれど/ふたりはとてもしあわせに愛に溺れた」(カヴァフィス「二十三、四歳の青年ふたり」)

まあ言われてみれば、いくつかの中原中也の断片が浮んでこないわけでもないが。しかし断片だけだ。そもそもわたくしは少年時代、詩を暗記をするのが苦手だった。いまでも最後まで口をついてくるのは「朝の歌」ぐらいだ。バルトが次のようにいうのに、慰めを見いだしているぐらいだ。

「私はいかなるテクストも暗記できません。いうまでもなく、自分自身のテクストさえ、暗記できないのです」。高校時代の朗読の試験がどれほど彼を脅えさせたかを語ったあとで、それでも、そんな自分を修正しみようとはしたのだという。

私は思い出すのですが、ある日、バイヨンヌからの自動車での帰途、私はひとりぼっちだったし、距離もかなり長かったので(私はそっくりそらんじている道路を、十二時間もの時間をかけて走破するのです)、自分自身にこういいきかせました。よし、何かを暗記することで時間をやりすごしてやろう、と。私は、紙切れにラシーヌのある段落を書き写しておきました。フェードルの死の場面だったと思います。こうして、十二時間の間、私はこのフェードルの死を暗記しようと試みました。ところが、うまく行かなかったのです。パリに着いたとき、私は、このフェードルの死をすっかり忘れていました。(「スリジー」)

中原中也の詩は引用しにくいものだ、あまりにも人口に膾炙しすぎているようで。

《誰の影響を受けたのか、(……)心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)


…………



一つのメルヘン  中原中也

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

ここには宮澤賢治の影響、殊に「やまなし」の翳をみるひともいるようだ。

さる研究者によれば、母音あ音の多用(79個)による開かれた空間性の感覚、という。


中井久夫には訳詩だけでなく、散文においても、a音の多用や、音韻の極度の工夫をみることができる。たとえば「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)の冒頭。

韻がわかりやすいように敢えて行わけをして引用する。


ふたたび私は
そのかおりのなかにいた。かすかに
腐敗臭のまじる
甘く重たく崩れた香り――、
それと気づけば
にわかにきつい匂いである。


それは、ニセアカシアの花の
ふさのたわわに垂れる
木立からきていた。
雨上りの、まだ足早に走る
黒雲を背に、
樹はふんだんに匂いを
ふりこぼしていた。



Fu音の韻: ふたたび 腐敗臭 ふさ ふりこぼしていた 

a音の韻: 私は かおり なか かすか まじる 甘く 香り 花 たわわ 垂れる 雨上り  …

i音の韻: 気づけば にわかに きつい 匂い ニセアカシア きていた 樹は …

ーーー「かおり」、「かすか」、「香り」のka音の連続があり(漢字とひらがなの「カオリ」の混淆は文字面の美を考慮してのことであろう)、「にわかに」、「きつい」のi音の後に、「香り」ではなく「匂い」があることから、意識的な工夫であることが明らかだ。

まだまだいくらでもある、たとえば、「その」、「それと」 「それは」、に気づくこともできよう。「甘く重たく崩れた」の押韻、「まだ足早に走る」、a音の連続の心地よさ、そこに、足、走る、のshi音が絡むなどなど(i音とすれば「に」であり、足、に、走る、と三つ続くことになる)…

私は匿名で二十代に三冊の本を書いているが、この時の文体は現在でも私の基本文体である、その名残りは、私の文章にアリテレーション(頭韻)が比較的多いことにもあるといえそうである。英語は詩はもちろん、散文にもこれが目立つ。 Free and fairとか、 sane and sober societyというたぐいである。(中井久夫「執筆過程の生理学」)


…………

さて中也に戻れば、小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」。

吉田秀和が、「ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる」と書いた中也の詩の一つ。こう書く吉田秀和の文は「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(「ユリイカ」1970.9)という表題をもっており、たしかに著名な友人たちが書き過ぎた。


秋の夜であるのに陽が射す、それが珪石の固体の粉末のよう、蝶の去ったあとの水の流れ、「さらさら」の繰り返し…

ひとは《この詩にあるこれだけの不条理を読みながら、殆んど矛盾を感じていない。さらさらということばは、連を改める度に、その意味を変えるが、しかし、ぼくらはそれすら気づかずに美しいひびきとして聞いてしまう》(北川透)


大岡昇平は、文学研究者の解釈に苛立っている。

亡友中原中也の「狂死説」を、私は機会あるごとに、打ち消すのに努めて来たが、荷風先生まで弟子によって脳梅毒にされる世の中では、いつ異論が飛び出すかわからない。いや、そのおそれはかなりあるので、この際はっきりさせておく。

先日NHKテレビの教養番組で中原中也が取り上げられた時、私は友人の資格で出席したが、解説担当の吉田精一氏と彼の死因について、少し話した(番組中ではない、あとの雑談の時である)。

……死の真相となると、事実問題であるから、吉田氏のような文学史家にかかると、噂も隈なく採集されるであろうし、どんな判定を下されるかもはかり難い。

(……)入院の半月ぐらい前から、片足に歩行困難があり、ステッキを突いて歩いていたことには、多くの証言がある。

これらは狂気より脳腫瘍の症状なのである。脳腫瘍というのは、文字通り脳におできができる病気である。原因はいろいろあり、梅毒性のものもあるが、(……)結核種と見てよいのであろう。(……)

小林秀雄や中村光夫は鎌倉にいたから、入院した中原があばれているところを見ている。私が東京から駆けつけた時には、割合に落ち着いていて、ベッドの仰臥していた、青山二郎がそばから、
「大岡だよ。大岡が来たんだよ」
と言うと、首を少しもたげて、
「ああ、ああ、ああ」
とうなずくように言った。「論争の時、もう一丁上の意見を出す前に、相手の意見はすっかり吞み込んだというしるしに見せる表情」と私は以前書いたことがある。

しかしどうも中原は私がわからなかったような気がしている、きいてみたわけじゃないが。

顔をしかめて、少し横を向き、枕の上に首を落した。それは今考えると、「痛い」という表情であった。私を認めることができないのが悲しいのではなく、首をもたげたので、頭が痛くなったのではないかと思う。脳腫瘍はたいていひどい頭痛を伴うものである。

中原はその二日後死んだのだが、私は臨終に立ち会っていない。或いは小林の書いているように、「狂死」という状態だったかも知れない。腫瘍が転移して、譫妄状態のまま死んだとしてもごく自然である、特に脳梅毒を推定する根拠はない。

こんなにくどく書くので、変に思う人もいるかも知れないが、吉田精一氏をはじめ、この頃の国文学史の研究は精緻を極めていて、これくらいくどく書いておかないと、彼らを説得することはできないのである。

(……)
一旦狂気を信じると、下手にこじつけて考えるのが、学者の通弊である。

(……)

教科書的に有名な「一つのメルヘン」だが、テレビ番組で吉田精一氏のつけた解説は、大体次の通りである。

これはたぶん作者が実際経験したところでありまして、陽がまるで水のようにさらさらとさすと錯覚し、いもしない蝶が中原には見えたのであります(彼はその前に、中原は文也の死後、文也を喰い殺した白い蛇が来ると言って、屋根に上ってあばれたおいうようなことを話した。この挿話も、誇張されて吉田氏に届いているので、安原喜弘の証言によれば、その頃の中原には屋根なんかに上る力はなく、座敷の中から蛇が屋根にいると言っただけである)。そして、乾いた川床に、見えもしない水が、流れはじめる、そういう経験をそのまま歌ったところに、この詩のうすきみの悪い実感があります。中原中也というデカダンスの詩人の本領はここにあります」

私は少しむっとして、よほど抗議しようと思ったが、大勢の視聴者の前で、解説担当者に喰ってかかるのもどうかと思い、我慢した。あとで、
「中原が実際そんな経験があったかどうかなんて、あまり重要ではないと思いますがね」
と指摘するに止めておいた、もっともテレビを見てくれた友人の話では、吉田氏が喋っている間、私は実に渋い顔をしていたそうだから、私の気持は案外一般に伝わっているかも知れない。

心理学や精神病理学は最近の流行であるが、作品と病理学的事実は蓋然的関係にあるだけで、厳密な因果関係はないと知らなければならない。

こういう教科書的鑑賞講座を俗耳に入り易く、青少年に文学に興味を持たせる効用はあるが、同時に間違った道へ迷い込ませてもいるので、教育上の問題である。中原の「一つのメルヘン」の詩的価値は全然別の次元に属している。私はむろん彼は幻の蝶なんか見たことはなかったと信じている。(大岡昇平「文士梅毒説批判」「新潮」1961年11月号初出『中原中也』所収 1979 角川文庫)


「ひとつのメルヘン」

を読むと、小林秀雄の次の文をすぐさま想い起こすということはある。

晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。

驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。

花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。

「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。(「中原中也の思出」)




2013年8月14日水曜日

焚火




カンボジアの若い踊り手たちがジプシーのようにして訪れ近くの広場で宴をもよおしている。男たちが太鼓と笛の鳴り物、そして歌、女たちが踊り、ときおり男たちの呼び声に応えるようにして裸蹠で地を踏み鳴らしつつの腹の底から搾り出すかのような深いアルトの合いの手。ときに野卑な嬌声ともきこえるしゃがれた声音は決して無垢ではない陶酔感を齎す。

彼は立止まった。目的のない散歩だったが、煙草が無くなっているのを思い出して、また歩き出した。近所の商店街に、夜店が立並んでいるようにおもえたが、それは錯覚だった。アセチレン燈をともした夜店とか、祭りの日の神社の境内に並んだ見世物小屋とか、そのような幻覚がしきりと彼を襲った。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)





焚き火を囲んで、女たちがゆっくり動く。軀の振れはすくなく、わずかずつ右回りに歩んでゆく、ほとんど垂直の姿をたもったままの肢体と、それにひきかえ目まぐるしく表情を変える腕から先、殊更くねり狂う手頸と指先。何かに触れ、あるいは触れられるような悪徳の指先の動きの蠢動。闇夜のなかで焚火のゆらめく光に照らされただけの、それら淫らな蠢きによる闇の官能化、「桶の底をはいつくす/なめくじやむかでの踊り」(吉岡実)。そして女たちの眼が美しい、男の視線に耐えるまっ直ぐな眼差し、そこにある陽気さと諦念の混淆(もっともカンボジアの少数民族の村のものたちだから、一般的なカンボジア女性と顔つきがかなり違う)。

ふだんは露天市の立つだけの平凡な空間が突如異化され、チマタ(巷)=道の股、《異質な他者や共同体へと開かれた「交通」の場所》(赤坂憲雄)、あるいは《共同体をはみ出ておこなわれる歌垣という性的交歓の場》(西郷信綱)に変貌する。






わたしたちがふつうに歩くときの歩みは、じつにたやすく、何とも親しいものなので、それ自体として、また奇異なる行為として考察されるという名誉を得たことがない(不随や障りある身となって、わたしたちが歩みを奪われ、他人たちの歩みに感歎するという場合は別ですが) …… だから、歩みについて素朴に無知であるわたしたちを、歩みはみずから知るとおりのやり方で導いてくれます。土地の状態によって、また人間の目的や気分や状態によって、あるいはさらに道の明るさにさえ左右されて、歩みは歩みとしてある。すなわちわたしたちは、歩みというものを考えぬまま、歩みを失っているのです。(ヴァレリー「魂と舞踏」清水徹訳)




焚き火の焔がいっとき高く燃えあがり、周りを取り囲む見物人たちの姿が突如鮮明に照らされる。そして焔は急に弱まってゆき燠火のようになると、今度は踊り子たちの姿態が地からほのかに照らされるだけとなり異質の陰翳が生じる。彼女たちの軀が浮き上がるかのようであり、あるいはまた視聴覚に集中していた感覚がふと宙吊りにされ、炭火の焦げた匂い、闇の粒子の肌触りを敏感にまさぐりだす。闇が色濃くなって、向う側の観客が煙草に火をつけるガスライターのちいさな焔が蝋燭の灯にようにみえる。より闇の深い場所に眼をやれば、暗黒の壁に点綴するかのようにして巻煙草の先が赤い模様を描いている。「蛍火の今宵の闇の美しき」(虚子) 誰かが薪を継ぎ足し、焔の勢いを恢復させる。するとふたたび闇は柔らかい黒さの奥行を取り戻す。それにともなって束の間の静けさに襲われたかのような若い鳴り物師たちの荒々しさが恢復する。思いがけない半時間の刻。




「こんなに濡れていても焚火ができますの?」
「白樺の皮で燃しつけるんです。油があるので濡れていてもよく燃えるんですよ。私、焚木を集めますから、白樺の皮を沢山お集め下さい」
一面に羊歯や八つ手の葉のような草の生い繁った暗い森の中に入って焚火の材料を集めた。

皆は別れ別れになったが、KさんやSさんの巻煙草の先が吸うたびに赤く見えるのでそのいる所が知れた。

白樺の古い皮が切れて、その端を外側に反らしている、それを手頼りに剥ぐのだ。時々Kさんの枯枝を折る音が静かな森の中に響いた。

(……)

皆はまた砂地へ出た。
白樺の皮へ火をつけると濡れたまま、カンテラの油煙のような真黒な煙を立てて、ボウボウ燃えた。Kさんは小枝からだんだんに大きい枝をくべてたちまち燃しつけてしまった。その辺が急に明るくなった。それが前の小鳥島の森にまで映った。

(……)

先刻から、小鳥島で梟が鳴いていた。「五郎助」と言って、暫く間を措いて、「奉公」と鳴く。

焚火も下火になった。Kさんは懐中時計を出して見た。
「何時?」
「十一時過ぎましたよ」
「もう帰りましょうか」と妻が言った。

Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水に遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面に結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。

舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声がだんだん遠くなった。(志賀直哉「焚火」)

《水夫が一人溺れて沖に沈んだ/気づかぬ母は聖母イコンの前にいって/背の高い蝋燭に火を灯した/はやく帰ってきますように 海が凪ぎますようにと/祈り 風の音にも耳をそばだてた。//母が祈りこいねがうその間/母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは/じっと聞いていた、悲しげに荘重に。》(カヴァフィス「祈り」中井久夫訳)






《火は人を呼ぶ。盛大な焚き火は人々を集める。人々は火を囲んで焔が一時輝き、思い切り背伸びするのをみつめる。かと思うと、焔は身をかがめて暗くなり、いっとき薪にまつわって、はらはらさせる。火を囲む人々は遠い過去の思い出に誘われがちだ。

私は思い出す、戦後の大阪駅前を。敗戦後何年か、夏でさえ、南側の広場にはいつ行っても焚き火があって人々が群がり、待ち合わせ場所にも使われていた。私も長い時間をその焚き火の側で過ごした記憶がある。時代の過酷さを忘れて人々はいっとき過去を思い出す表情になっていた。

岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。

しかし、他の何よりも思い出を誘うのは火、ことに蝋燭の火だ。間違いない。「ロウソクは一本でいい。その淡い淡い光こそ/ふさわしいだろう、やさしい迎えだろう/亡霊たちの来る時にはーー愛の亡霊が。/……今宵の部屋は/あまり明るくてはいけない。深い夢の心地/すべてを受け入れる気持、淡い光――/この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る/亡霊たちを招くためにーー愛の亡霊を」(カヴァフィス)。終生独身のこの詩人の書斎の照明は最後まで蝋燭一本だったという。特にお気に入りの友が来た時は二本、稀には三本を灯したとか。》(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収)





ろうそくがともされた   谷川俊太郎

ろうそくがともされて
いまがむかしのよるにもどった
そよかぜはたちどまり
あおぞらはねむりこんでいる

くらやみがひそひそささやく
ときどきくすっとわらったりする
こゆびがふわふわのなにかにさわる
おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる

きもちがのびたりちぢんだりして
つばきあぶらのにおいがする
ぬかれたかたなのにおいがする
たいこのおととこどものうたごえ

(……)

きもちがのびたりちぢんだりする
ろうそくのほのおがちいさくなって
くらやみがだんだんうすれていくと
おはようとのんきにおひさまがやってくる

いちねん じゅうねん ひゃくねん せんねん
どこまでもまがりくねってみちはつづいて
ひとあしひとあしあるいてゆくと

からだのそこからたのしさがわく


2013年8月3日土曜日

おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫)

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。》(松浦寿輝『クロニクル』)






浮き彫りの飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に坐る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、物語の陰に、おのれのさまざまな仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と改悛のあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと聖性の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。(リッツォス「カヴァフィスにささげる十二詩の一、詩人の部屋」中井久夫訳)


何度か中井久夫訳のカヴァフィス「市」を引用しているのだが、ここでも反復しよう。

「いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。/いつかおれは行くんだ」と。/「あっちのほうがこっちよりよい。/ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?/眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。/ここで何年過したことか。/過した歳月は無駄だった。パアになった。//きみにゃ新しい土地はみつかるまい。/別の海はみあたるまい。/この市はずっとついてまわる。/……/まわりまわってたどりついても/みればまたぞろこの市だ。/他の場所にゆく夢は捨てろ。/きみ用の船はない。道もだ。/この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには/きみの人生は全世界で廃墟になったさ」(カヴァフィス「市」中井久夫訳)


《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。》



「埋葬」といえば、エリオットの『荒地』の第一節の題は、The Burial of the Dead(死者の埋葬)である。

田村隆一は、中桐雅夫訳の『荒地』を引用しつつ次のように謳い呟く(「だるい根」)。

「死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす」

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている


老いてくると、《ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつた》、
あるいは、《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ》、と
むなしい気分に襲われることがあるのさ
そうだな、若かりし頃熱狂した音楽や詩
あるいは女に
だるい根のおぼつかない顫えしかない
そんな刻限

まだだるい根は残っている
ときおり掘りかえして磨耗してしまったひげ根の
かすかな残留のさまを慈くしむため
水撒きしてみることだってあるさ
乾ききっているわけじゃない

驟雨のびっしょりした濡れ具合じゃなくていい
霧雨ほどのかすかな濡れ具合でいい
だるい根の表皮を蔽う鈍重なかさぶたが罅割れて
免疫の薄い年頃のかすり傷から新しいひげ根が芽生える
そんなむなしい願いだってないわけじゃない
老少年が埋葬された少年の屍を掘りかえすため


――この中桐雅夫訳「だるい根」は、西脇順三郎訳では「鈍重な草根」だが、これは前者でなくてはならない、すくなくともこの「老少年」にとっては。

「かなしみ」 谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

…………

ところで、中井久夫にはエリオットの詩句の次のような訳がある。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264


この中井久夫が「超訳」するエリオットの詩句は、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実 には堪えられない」とでもされるところだ。この詩句は『四つの四重奏』からくるのだろうが、エリオットの原詩では、“Go, go, go, said the bird: human kindCannot bear very much reality.”であり、いささかの相違がある。だが、中井久夫の引用するそのままの詩句あるいはフレーズは、エリオットのほかの詩や論のなかにはみつからず、おそらく、少年時から多くの詩の暗唱の習慣があるとしている中井氏が、その暗唱の記憶で書かれているのだろうと推測する。

ちなみに、バードン・ノートンの第二節には”Protects mankind from heaven and damnationWhich flesh cannot endure.”endureの語が出てくる。


あるいは『四つの四重奏』の「エピグラフ」(ヘラクレトスの英訳)は次の如し。
"Although logos is common to all, most people live
as if they had a wisdom of their own."
"The way upward and the way downward are the same."
Heraclitus

”most people live as if they had a wisdom of their own.”は、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである》と訳せないこともないだろう。


…………


《ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?》


この箇所のギリシャ語原詩は次の通り。






下線部の、中井訳では「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。」の箇所は、


And my heart is—like a corse--buried (代表的な英訳とされるKeeleySherrard

Mon cceur est enseveli comme un mort (ユルスナール仏訳)

などであり、もし直訳すれば「私の心はーー死体のようにーー埋葬されている。」となるらしい。


この箇所を、各国の十一もの翻訳を引用して比較されている中村幸一という方がおられる(「おれの心はムクロ。」――中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』における翻訳技法の研究

この部分の眼目は何といっても、(……)「死体のように」という煮え切らない明喩を、「おれの心はムクロ。」と吐き捨てるような片仮名表記で、ピリオドを打ち、暗喩に転換したことに尽きる、(……)中井訳の、ここまで思い切った、しかも作者の心奥に肉薄し、それに対応する表現を再構成して提示するのは、翻訳というより、詩作それ自体と変わらないであろう。普通の文学研究者に、これはできないのではないだろうか。目に見えない心理を把握し、言語化する精神科医の力はあまりにも大きいことを思い知らされる。


精神科医であることが強調され過ぎているきらいがないでもないが、中村氏のいう通り稀にみる訳であるには相違ない。

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。》(中井久夫『治療文化論』)

しかし、文学研究者のなかにも、「精神科医」のようにしてテクストを読む人たちが、仮に稀にせよ、いるのではないか。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?

私たちは星座をみるのではない。星座はコンヴェンションだ。むしろ、新しい星のつながりのための補助線を引く。いやむしろ、暗黒星雲を探し求める。語られないことば、空白域の推論である。資料がなければ禁欲する歴史家と、そこが違う。

また、時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。

テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかし、厖大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはものを書く時に、語る時に、私たちの中に起っていることだ。患者の中にもおそらく起っていよう。ただ、重症の患者の中では、揺らぎや置き換えが起らない。しかし、治癒に近づくと彼ら彼女らの文章はしばしばそんじょそこらの“健常者”をしのぐ。病いにはことばをきたえ直す力さえあるのだろうか? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

わたくしには、むしろ本来は詩人となるべき人が精神科医になったのだ、としたくなるときがある。

私が別に臨床医という仕事を持っていることは、この場合に大きな救いとなっている。専業著者であれば私は発狂しそうな気がする。しかし、臨床医であるということには大きな制約もある。私が訳詩で止まって詩を書かないのはなぜかと聞かれることがあるが、才能は別としても、もし詩を書こうとすれば、そのために、私は分裂病患者の診察の際に重要な何ものかを流用せざるをえなくなり、患者にたいへん申し訳ないことになるであろう。私は何も一般論として精神科医と詩人とが両立しないと言っているのではない。私の器量では双方が一つのうつわに収まらないという確実な感触があるというのである。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)


風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を!


ーーーヴァレリー『海辺の墓地』最終節 中井久夫訳


徹底的に暗誦すればよいかというと、どうもそこまでは行かないほうがよいらしい。私は十六歳が十七歳の時、翻訳する廻り合わせになるなどゆめ思わずにヴァレリーの「海辺の墓地」を暗誦してしまった。六十歳近くになってさて翻訳に取りかかった時、私の訳の歩みは完成した形の原文に先回りされてしまって何度も立ち止まった。訳文はできかけては霧散霧消した。しょせん、原詩の美と完成度に敵うわけがない。どうもある程度の覚え間違いと覚え残しがあるぐらいでないと、訳詩過程に必要な日本語の最適語juste motを選ぶための自由な言語空間が閉ざされて失われてしまうようだ。心理学には「本の内容を記憶し活用するためには完全に読み切らないで未読の部分をごく一部でも残しておくのがよい」という実験的事実があるが、それとどこか関連している事柄ではなかろうか。

また、読めば読むほどよいかというと、これにも限度がある。文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。詩というものは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。それだけではない。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなる。ヴァレリー詩の翻訳の際に、彼のフランス語の「イディオシンクラシー」(医学でいえばまさに体質的特異性!)が私の中で煮詰まってきて、生理的な不快感となった時期があった。彼の詩を英詩やイタリア詩あるいはボードレール詩に関連づけようと比較文学研究の真似事をしたのは、この不快感を中和するためであったとは後から気づいたことである。(中井久夫「訳詩の生理学」 『アリアドネからの糸』所収)

…………


最後に四方田犬彦が驚愕した須賀敦子のタブッキ訳、「窓ぎわですっぽりはだかになって」をめぐるメモをつけ加えておこう(一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら(須賀敦子、プルースト))。


文芸別冊の須賀敦子追悼特集(1998)に四方田犬彦の「須賀敦子、文体とその背景」という追悼エッセイがある。

《翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けてみえるということがままある。とりわけ詩的言語を相手にしたときにそれは顕著となる。》

また、《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と、ある。


そうしてダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)の一節を、まず彼は自ら逐語訳してみて、須賀敦子の文体と比べてみる試みを読者に提示する。

彼女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)

須賀訳ではこうだ。

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(須賀敦子訳)

―――《平仮名が多用されているせいで、全体に柔らかい印象がする。「裸になる」は「すっぽりはだかになる」であり、「出る」は「どこかへ行く」となっている。……行動を示す言葉に、原文よりも派手な身振りが添えられていて、原文の持つ素気なさを越えて、強い官能性が伺える》、四方田犬彦はそう指摘する。

《あるいは付けられた句読点の多さ……。須賀敦子の訳文を眺めていると、イタリア語が本来的にもっている単語の凝縮性を簡潔性を、どのように日本語に置き換えていけばよいのかという問いをめぐって、彼女の長らく思索していたことが、ありありとわかる》、と。







2013年5月18日土曜日

この記憶をぜひ話したい(カヴァフィス)


この記憶をぜひ話したい
だが今はもうひどく色あせてーー消え尽きたかのようーー
はるかな昔だから、私の青年時代だから。


ジャスミンの肌――
あの八月の夕べーーはたして八月だったか?――
眼だけは思い出せるーー青――だったと思う
そう。サファイアの青だったね

 ーーカヴァフィス「はるかな昔」 中井久夫

忘れていたさ
はるかな昔だから、おれの少年時代だから。
「七月二十日。隣家の庭園夾竹桃の花燃るが如し。」(断腸亭日乗 大正九年
いま記憶がよみがえったよ

そうさ、きみの家の前の大きな道をこえて
路地を少し入ったところ
丈たかい夾竹桃の樹がまわりを壁のように覆う
あのただっぴろい公園
夏休みになってもなんとか会いたくて
そこで夕方あいびきをしたな、なんども

きみの口から匂ったいちごみるく飴って
まだあるのかい
おれを夾竹桃の花みたいだっていったよな
変なたとえだよ
ーーあれは燃えすぎだってことだったのか
なんだか悄然としてしまって
いまだほろ苦い「夾竹桃」さ


いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。
いつかおれは行くんだ」と。
「あっちのほうがこっちよりよい。
ここでしたことは初めから結局駄目だと決っていた。みんなだ。
おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索莫とした心境でいつまでおれる?
眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。
ここで何年過ごしたことか。
過ごした歳月は無駄だった。パアになった。


きみにゃ新しい土地はみつかるまい。
別の海はみあたるまい。
この市はずっとついてまわる。
(……)
まわりまわってたどりついても
みればまたぞろこの市だ。
他の場所にゆく夢は捨てろ。
きみ用の船はない。道もだ。
この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには
きみの人生は全世界で廃墟になったさ


――――カヴァフィス「市」 中井久夫訳