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2014年9月27日土曜日

なんだろねこの一種独特の「ぬるさ」は

@erunenn: 「ぬるい」なぁ。この国のレイシズムへの憤りってのは、まだまだ。少なくとも、在特会および共闘差別団体のデモ街宣を動画で見たら理屈だけこねてアゴだけ動かしてる場合じゃないんだけどなぁ。なんなんだろねこの一種独特の「ぬるさ」は。カウンターは少なくともその点「鋭敏」だよな。

erunennさんのプロフィール欄に次のようにある、《在日コリアン三世 大阪市・鶴橋安寧・レイシズムは人類の恥であり害悪》


その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(「安克昌先生を悼む」『時のしずく』所収

さぞかし曖昧模糊として春のような日本人気質に苛立っておられるのだろう。

上の追悼の対象安克昌氏は阪神・淡路大震災のおり、神戸大学精神神経科にて陣頭指揮をとった方だ(中井久夫は、私は裏方にすぎなかった、という意味のことを書いている)。よく読まれた中井久夫編の『1995年一月・神戸』には、安克昌氏の「被災地のカルテ」という論がある。

《安克昌先生は、二〇〇〇年十二月二日、四〇歳に四日を残してその短き生涯を閉じられた。その恨みを恨みとして、その思いを思いとする人々が今ここに集まっておられる。不肖、私、葬儀委員長として、皆様とともに愛惜、追慕の念を、まず、ご遺族にささげたいと申し上げます》

…………

もっとも単純に韓国人の「堅固な意志と非妥協的な誠実」気質をひたすら顕揚するものではない。ただ「春風駘蕩」たる多くの日本人は、韓国人の爪の垢でも煎じて飲むべきだと言っているだけである。

ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。(……)

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

ここでの文脈からはずれるが、韓国社会はおどろくべき難題が日本と同様(ひょっとしたらそれ以上に)山積しつつある。→ 資料:韓国の自殺率と出生率


…………


小田嶋隆氏、若い二人にメンションもらって黙っちゃたじゃないか(2014.9.27 PM200前後)。


小田嶋隆 ‏@tako_ashi

見解や路線の違いは、人が100人いれば100通りあるわけで、目標は同じなのにやり方が違っていたり、同じ理想を共有しているながら感覚が合わなかったりする人々を、いちいち罵倒したり嘲笑したりしていたら、結局、敵を利することになるんではないかということを昨日来申し上げているわけだが。
手塚空 ‏@aibery

それはいま小田嶋さんがやっていることじゃないですか? 「ファシストに死ねという奴はファシストだ」みたいな安易な揶揄をやって。小田嶋さんが自分たちと隔たっているとか敵だとか考えている党派的なカウンターはほとんどいないと思いますよ。 @tako_ashi
ken ‏@kenkenir

@tako_ashi それを小田嶋さんがやってるから、みんな反論してるんだってことは、まぁ、ダブスタを自称されてるからわかんないんでしょうね。

 おっと、と書いたところで、《

「なんじゃらほい」が自粛対象語入りしたことをお知らせします》(PM:3:00頃)また呟きはじめた。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

 

彼のような「文化人」を、わたくしはマッタク否定するわけではない。憩いも必要なのだから。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)

内田樹氏は「たいへん濃い」メンバー4名(内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩)としているようだが、彼ら全員をまとめて「文化人」の典型と呼ぶつもりはない。小田嶋隆氏にだって、文化人と呼んだら失礼にあたるかもしれない。

ときにはトッテモ役に立つこともあるのだろうから。

鈴木健(『なめらかな社会とその敵』の著者)の震災直後のツイートがいまでもとても印象に残っている。

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。

《学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在》はいまではいたるところにいる。


…………


◆附記:柄谷行人『死語をめぐって』

…中野重治は「芸術家の立場」というエッセイで注目すべきことをいっている。まず彼は芸術家と職人を対比する。この場合、「職人」という語は、中野がつけ加えていっているように、芸人や農民、あるいはすべての職業人をもふくんでいる。いわば、それは、どの「職」にも固有のスキルと、それに伴う責任感やプライドをもつ者のことである。

《職人は、ある枠のなかに安住し、あるいはこの枠を到着目標とする。彼らは枠をやぶろうとしないのみならず、そもそも枠に気づかない。それに対して、芸術家は、この枠を突破しようとする。しかし、その結果はわからない。《職人の場合、その努力は何かの結果を約束する。約束された結果への努力が職人の仕事になる。約束されていない結果への努力が芸術家の仕事になる。》

中野のこの区別は、ある意味でロマン派以後の考えのようにみえる。しかし、実は彼はそれ以前の状態で考えている。たとえば、中野はこの「芸術家」と「職人」の関係を上下において見ていない。《職業としての一人の大工と、職業としての一人の建築芸術家があるわけではない。そういう上下はない》。しかし、職業としての上下はなくても、芸術家と職人の上下関係は本質的にある。《ある人は職業として芸術家となって行ってつまりは職人になる。あるひとは職業として職人になって行ってつまりは芸術家になる。識別に困難はあるが、実際にはそれがある》。たとえば、中野は、職人として始めて芸術家に至った例として、樋口一葉や二葉亭四迷をあげている。

いうまでもなく、一葉や四迷は芸術家という意識をもっていない。同じことが、イタリアのルネッサンスの芸術家についていえる。彼らは職人として始めて、その「特権的な才能」ゆえに、ロマン派以後なら芸術家と呼ばれるものになった。しかし、彼ら自身は芸術家とは考えていなかった。つまり、中野がここでいう芸術家とは、芸術家という観念が出現する以前の”芸術家”である。ところで、中野は、ここで芸術家でもなく職人でもない芸能人というものをもちこむ。

《芸術家とならべて考える言葉に職人というのがある。たいていは、芸術家は職人よりも上のもの、職人は芸術家よりも下のものとなっている。芸術家とならべて考えるもう一つの言葉に芸能人というのがある。 芸能人という言葉はあたらしい。それは、芸術家よりもあたらしく、ほんとうをいえば、言葉としてどの程度安定したものか、いったい安定するものかどうかさえすでにうたがわしい。しかし、とにかく、日本の現在でその言葉はあり、それは、なにかの程度で何かをいいあてている。そしてたいていは、芸術家は芸能人よりも上のもの、芸能人は芸術家よりも下のものとなっている。》(「芸術家の立場」)

芸能人という言葉は、事実この当時はまだ新しかったけれども、今日ではむしろ中野がいったとは違った意味で「安定」している。そもそも職人や芸人が消滅してしまったからだ。したがって、中野がいう「芸能人」は今日われわれがいう芸能人とは別であることに留意すべきである(むしろ「文化人」という語がそれに該当している)。ここで中野が意味するのは、芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。中野はこういっている。

《そこへさらに例の芸能人が混じってくる、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(「芸術家の立場」)

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。



2014年9月23日火曜日

ジャン・ジュネの「どろぼう」というシニフィアン

”Ordinary psychosis: the extraordinary case of Jean. Genet”(Pierre-Gilles Gueguen) は、ジュネを「倒錯」ではなく、「普通の精神病」タームで解釈し直そうとする小論だが、そこでの議論を簡略に記せば、養母に愛されていたよい子のジュネーー引っ込み思案で少女たちと遊ぶことを好む、あるいは教会の少年合唱団員だったらしいーーその彼が、母親の財布から小銭をくすねて飴玉のたぐいを友人に振舞った十歳前の行為、それに引きつづき、サルトルが『聖ジュネ』で特筆したことで有名な、近所の雑貨屋の些細なものの盗みの際の、年輩の女性からの「あんたはどろぼうよ!」の指弾からジュネが受けた衝撃、更にその直後の養母の死、などの伝記的「事実」から、母親とのイマジネールな関係(鏡像関係)にあったジュネ(あるいは緩やかな「父の名」の排除という精神病的構造にあったとも解釈される)が、「どろぼう」というシニフィアンを、なかば空席の「父の名」の場に押しいれて、それと「同一化」したのではないか、というものだ。


――ただし、この議論によって、ジュネが「倒錯」であるのか「普通の精神病」であるのか、あるいはいわゆるボーダーラインであるのかは、わたしには判然としないし、ここでの話題でもない。

Pierre-Gilles Gueguenはミレール派であり、ここで、若いラカン派の精神科医松本卓也氏のツイートから、J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009の「父の名」の説明を掲げておこう(一部、編集)。

・身体の外部性.普通の精神病では,身体が自己に接続されず,ズレをはらむことがある.たとえば、ジョイス『若い芸術家の肖像』の身体落下体験.この身体の不安定性に対する対処行動として,ミレールは「タトゥー」をあげている.「タトゥーは身体との関係における父の名になるだろう

・ 主体の外部性については、次のような側面もある。普通の精神病では,独特の空虚感がみられることがある.もちろんこのような外部性は神経症でもみられうるものであるが,普通の精神病の場合はdialectiqueがないこと,つまりその空虚感を弁証法的否定することができないことが相違点であるとされる.

・また、排除の一般化として、後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名に似た機能を果たせば何でもいい


刺青が「父の名」となるのなら、「どろぼう」というシニフィアンが「父の名」となってもなんの奇妙なことはない。


最晩年のラカンは次のように語っている。

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?”(J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979)

どんな場合でも、私が今言っていることはシニフィアンの発明は記憶とは異なった何かだということだ。子供が発明するのではないーー彼はシニフィアンを受け取るのだ。そしてこのことでさえ、もっとそうすることはやりがいのあることだ。われわれのシニフィアンはつねに受け取られる。どうして新しいシニフィアンを発明していけないわけがあろう。たとえば、現実界のように、まったく意味のないシニフィアンを。(私訳ーーいいかげん訳)

これはサントームの発明にもかかわるはずだし、ジュネの「どろぼう」のシニフィアンも「刺青」の話も同様。

the sinthome has a universal place as the way in which each subject may singularly knot his psychic structure, or form a social bond with the Other. In such a clinic, the Name-of-the-Father is merely one form of the sinthome. The Name-of-the-Father is merely an especially stable form of knotting. ("Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant." Thomas Svolos)

後期ラカンにとっては、「父の名」とはサントームのひとつの形に過ぎないのであり、Pierre-Gilles Gueguenの話もミレールの話も、サントームへの言及がないにもかかわらず、サントームの話に相違ない。

《“Sinthome” : symptôme (symptom), saint homme (holy man), Saint Thomas (the one who didn't believe the Other – Christ – but went for the Real Thing).》

ジジェクは90年代初頭にすでにこのように書いている。

外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。(ジジェク『斜めから見る』)

最近の見解の一部(『LESS THAN NOTHING』(2012)は、「メモ:「幻想の横断」(症候との同一化)とサントーム)」を参照のこと。


…………


ところで子供の「盗癖」は、ファルスを「持つ」、あるいはファルスで「ある」に関わる大人への抗議、つまり「わたしは男なのか、女なのか」という大人への問いかけであるというのがフロイト以来の精神分析学の通念であるようだ。大岡昇平の『幼年』には、《盗癖は、私の生涯の汚点であり、成長しても私の心に重くのしかかった》とある。大岡氏は「お袋の財布から小遣いをちょろまかす」、おそらく多くの子供がそれをなし、後年になっても取り立てて重大視しないだろう記憶に長年拘ったのが分るが、つまりは「それを悪いと思うか、思わないかにかかって来る」のであり、幼少時に盗癖があったかどうかは肝要ではない(大岡氏は幼い頃仏壇に向かって「自分を女の子にかえて下さい」と祈ったという記述もある)

ーーこの大岡昇平の、後年盗癖を悪いと思う、すなわち生涯の汚点であるとする態度は、遡及的な外傷にもかかわるはずだ。

遡及的な外傷とは次のようなことである。たとえば、子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなく、なんら衝撃を受けたわけではない。意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。だが後年性的な袋小路に遭遇して子供は幼いときの記憶を引っ張り出す、それが遡及的に外傷化されるという意味である。内的なトラウマと言われるものはオリジナルな外傷があるのではなくて、多くの場合、このような遡及的な外傷だとされる。(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)


あるいはGueguenによるジュネの「よい子」をめぐっては、中井久夫の記述を引いておこう。

分裂病者の幼少期は、多くが「よい子」であるといわれるが、この手のかからず、めだたず、反抗しない、“すなお”な「よい子」とは違う意味で、うつ病者の幼少期も、多くは「よい子」である。ただし、かいがいしい、よく気のつく、けなげな「よい子」であるようだ。(……)どちらも「甘えない」子であるが、分裂病者の幼少期が「甘え」を知らないか「甘え」を恐怖するのに対して、うつ病者の幼少期は「甘え」をよくないこととして断念している印象がある。いや、親をいたわり、「甘えさせる」子であることすら多い。(「執着気質の歴史的背景」『分裂病と人類』所収)

※ここで言われる「分裂病」は、ラカン理論では、「精神病」の下位分類である。




ジュネが幼少期に育った地は、パリの南東250キロの中央山塊の麓、林業と農業が盛んなアリニィ村で(当時人口1650人)、里親は50歳をこえていたレニエ夫妻でした。このアリニィ村があるモルヴァン地方は、パリの金持ちの赤ん坊の面倒をみる乳母の輩出地として当時名をはせ、あちこちに「乳の家」と呼ばれる豪華な家が建てられました(……)。フランス全土の孤児のなんと3分の1がこの地方に受け入れられていたのです。壊滅した石炭産業の代わりに「里親業」が”地域産業”として促進されたのがその理由でした。ウィキペディア日本語版は、レニエ夫妻のことを単に木こりとして紹介していますが(英語版はcarpenterー大工)、実際にはレニエ夫妻の家は、「教会」と「学校」(この2つは少年ジュネになんと大きな影響を与えたことか!)の間に挟まれて建っていた大きな家でした。

あるいはこうもある、《他の多くの里子と比べ、ジュネはその幼少期、3つ程の点で幸運だったようです。一つは、一日中忙しい農家ではなく職人の家が里親で、しかも比較的裕福で本を読んだり勉強する時間がたっぷりあった(養母はジュネが聖職者になることを望んでいた)。二つめは家の隣が学校だったこと(……)。そのため学校の図書館が自分の部屋の本棚のような感じで、好きな先生にもよく会いに行きいろいろ刺激を受けることができたことでした。ジュネは学校の図書館の本をすべて読んだというほど読書好きだったようです。》《里子は小学校を終えると(13歳)、養家から引き離されることになっていたため、いくら成績がよくとも上の教育を受けることは制度上叶わないことになっていました。職業訓練校に入学したジュネは(擁護施設出身者として滅多にない栄誉と考えられていたという)すぐに失踪事件を起こし退校処分をくらいます。そして送られたパリで、ジュネは過激に変わっていくのです。》


十歳時の「盗み」は、ここで「凡庸」に語ることが許されるなら、まずは、この捨子の宿命を課す社会的システムへの抗議ともいえるだろう(あるいは近い将来、イマジネールな愛に浸っていた養母から引き離されることへの怖れ、絶望)。


《この里親があまりにも立派だったため、ジュネは後年、里親には鞭でよく折檻されたものだと「伝説づくり」をしなくてはならないほどでした(『泥棒日記』にも当初、里親のことを立派な人たちだったと書いたが後に削除している)》ともある。


『泥棒日記』には、たしかに里親の記述はわずかしか出てこない。


次の文は、後年、「泥棒」となり、街を歩いているときの記述。

わたしは不用心な振舞いを次々と行う、――盗んだ自動車に乗ったり、盗みを働いた直後にその店先の前を歩いたり、偽造であることが一目瞭然であるような身分証明書を差出したりする。わたしは、まもなくすべてが壊滅するだろうという気持を味わう。わたしの不用心な行動は重大な結果を招きうるものであり、そしてわたしは、光明の翼を持った大破綻がごく小さな過失から生じるだろうということを承知している。P300

この文の原注にこうある。

誰がわたしの破綻を阻止しうるだろう。大破綻について語った以上、わたしはわたしが見たある夢をここに記さずにはいられない。一台の機関車がわたしを追いかけていた。わたしは鉄道線路の上を懸命に走っていた。すぐ背後に機関車の荒々しい息づかいが聞こえていた。わたしは線路から野原へ走り出た。しかし意地悪にも機関車はあくまでわたしを追いかけてきた。が、ある小さな、か細い木の柵まで来ると、優しく、丁重に、止まった。そしてわたしは、その境界柵が、わたしを育ててくれた農夫の所有地で、子供の頃わたしが始終雄牛の番をしていた草原を囲っていたものだということに気づいたのだった。ある友人にこの夢の話をしたときわたしは言った、「……汽車はおれの少年時代の境界まできて止まったんだ」と。


もう一つ、友人の喪のために花を盗む、そこでの《花を盗むという行為は、死者への訣別の慣例的作法を果たすことができないという絶望感によって招来された》倫理的な、ひとつの英雄的行為なのだ、と語る文脈で次のような記述がある。

……そのとき、わたしがまだ子供だった頃のある日曜日に、村の墓地で、わたしを育てていてくれた農婦が、あたりをそっと見回した後、誰のだか知らないま新しい墓から一本の金盞花を抜きとって、それを彼女の娘の墓にさしたのだった。どこからであろうと、愛する死者の柩を飾るために花を盗んでくることは、盗んだ人間の心を決して満足させない行為であることを、ギーも理解していたのだ。P328

具体的に出てくるのはこの二箇所だけだ。そしてその二箇所は、あまりにも多くの解釈を誘発させる叙述ではあるが、そんな愚かな真似をしてジュネの「歌」を汚すことはしまい。


※「泥棒日記』には、「生みの母」をめぐっての叙述はそれなりにある。ここでは一つだけ挙げよう。

もしその頃わたしの母にめぐり会っていたならば、そして彼女がわたしよりもさらに卑しい境涯にあったならば、わたしは彼女と共に上昇をーーもっとも、言語の一般の慣例ではこのかわりに堕落その他いずれにしろ下へ向う運動を表わす言葉を用いることを要求するらしいが、――困難な、苦しい、汚辱へと導く上昇を懸命に遂行しただろう、わたしは彼女と共にこの冒険に従事し、そしれそれを書き記しただろう、最も卑しい言葉――それが表現する行為の点で、あるいは辞句そのものとして、――最も卑しい言葉を愛によって光輝あらしめるために。P127

 

いずれにせよ、『泥棒日記』は「半自伝」ではあるにしろ、それが過去を現在によって構成したものにすぎないことにジュネはすこぶる自覚的である。

わたしがこうして言葉によって当時のわたしの精神的態度を再構成しようと試みているとしても、読者もわたしと同様、決して瞞されはしないだろう。我々は、言語がこうしてすでに死に去った状態、したがって現在と異質な状態についてはその反映さえも喚起することができないことを知っている、この日記全体についても、もしそれがわたしがかつてそうであったところのものについての記述を意図しているとしたら、同じことが言えるだろう。それゆえ、わたしはこの日記は、それを書いている現在わたしがそうであるところのものについて何事かを知らせるためためのものだということを明確にしておこう。それは、過ぎ去った時を索めるのではなくて、わたしの過去の生活がその托言材料〔プレテクスト〕であるところの一つの芸術作品なのだ。それは、過去の援けをかりて定着された現在、となるべきものであって、その逆ではない。したがって、ここに語られているいろいろな事実はわたしが述べるとおりのものであったこと、しかし、それからわたしが引出す解釈はわたしが現在そうであるーーそうなったところのものを表すことそ承知していただきたい。p98わたしがサンテ刑務所で、ものを書きはじめたとき、それは決してわたしのさまざまな感動をもう一度生きるためでも、また、それらを人に伝達するためでもなく、それらの感動によって課せられた、それらの感動の表現をもって(まだ第一にわたしにとって)未知の一つの(精神的)秩序を組み立てるためだったのだ。P246



※追記:Pierre-Gilles Gueguenの《泥棒も売淫も他者から何かを抜き出すことであり、所有はジュネにとって重要性を持たない》をめぐって(『泥棒日記』より)。


・才能とは、素材に対する礼譲にほかならず、それは声なきものに歌を与えることなのである。P155

・裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題なのだ。それらは互いに連関関係にある。この連関は必ずしも常に露わではないとしても、わたしには少なくとも、わたしの裏切りと盗みへの嗜好とわたしの情事とのあいだに、一種の血脈的交流が認められるように思われるのである。P245

・たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。P279

・わたしは今、絶望のただ中における至高の幸福というものの現実に、鋭い注意を注ぎたいーーすなわちそれは、人がただ独りで、突然、自己の急激な破滅に直面したとき、人が自己の作品(事業)と彼自身との取返しのつかない崩壊に直面したとき、である。わたしは、わたしがそれを知っているということを何人も知らない、ひそかな、絶望の状悲を経験するためならばこの世のありとあらゆる財宝を手離すだろうーーそのために事実それらを手離さなければならないのだが。ヒットラーがただひとり、彼の宮殿の地下壕の中で、ドイツ敗北の最後の刻に、確かに、この純粋な光明の一瞬――脆くそして堅固な、曇りない意識――自己の失墜の自覚を、経験したはずだ。P303

・裏切る者が自己の背信を自覚していること、彼がそれを欲し、そして彼を人間仲間に結びつけていたもろもろの愛の絆を断ち切ることができさえすれば十分なのだ。美を得るために不可欠なものーー愛。そして愛をぶち壊す残酷さ。P356

棄子であるということのために、わたしは孤独な少年時代と青春とを持った。泥棒であるということが、わたしに泥棒という職業の独異性を信じさせた。おれは怪物的な例外なのだ、とわたしは自分に言い聞かせていた。事実、わたしの泥棒への嗜好、泥棒としての活動は、わたしの男色癖と関係があったのであり、この、それだけですでにわたしを世の常ならぬ孤独の中に閉じこめるものであった性癖から派生したものだったのだ。盗みという行為がどれほど広く行われているものであるかということに気づいたとき、わたしの驚きは大きかった。わたしは一挙に月並みさの中に投げこまれてしまったのだ。それから抜け出すために、わたしが必要としたのは、ただ、わたしの泥棒としての運命を自己の栄光とし、この運命を希求するだけでよかったのだ。人はこれを負け惜しみと見なし、馬鹿どもはそれを冷笑した。人はわたしのことを悪しき泥棒だと言うかもしれないが、そんなことは問題ではない。泥棒という言葉は、その主要な活動が盗みであるところの人間をさす。そういう人間からーー彼がこう呼ばれているかぎりーー彼の中の泥棒以外のあらゆる点を除去して、その人間を明確化するはらたきをする。彼を単純化するのである。ところで詩〔ポエジー〕は、彼の、泥棒という境涯への最も深い自覚にあるのだ。もちろん、泥棒以外のいかなる境涯の場合でも、その人間に名称を与えるほどに本質的になることができる自覚ならば、それもまた同様に詩であろう。しかし、いずれにしろ、わたしの独異性への自覚が、盗みという一つの非社会的活動によってよばれるということはよいことである。P358


ーーこの最後の引用文をどう読むかは、われわれの自由だが、男色癖は泥棒から派生したものであり、この時点でのジュネにとって「泥棒」というシニフィアンがいかに重要だったかが露さまに書かれているには相違ない。

上の引用のなかにジュネの優雅さをめぐる文がある、《たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。》

この「優雅さ」をめぐって、ジュネは重ねてこう書いている。おそらくジュネが『泥棒日記』にて、最も強調したかったこと、--少なくともその代表的なひとつだろう。

わたしは(……)、それが優雅であるかどうかが行為の価値を決める唯一の規準だといった。わたしが裏切り行為を選びとるということを確信しても、それは上の言葉と決して矛盾しない。裏切るということは、神経的な力と優美さとからなる、優雅な、美しい行為でありうるのだ。

才能とは、素材に対する礼譲にほかならなず、それは声なきものに歌を与えることなのである。わたしの才能は、刑務所や徒刑場の世界を構成するものに対してわたしが寄せる愛以外のものではないだろう。わたしは決してそれらのものを変化させること、それらをあなた方の人生にまでいたらせることを欲するのでもなく、また寛容や憐憫をもってそれらに対するのでもない、―――わたしは泥棒に、裏切り者に、殺人者に、邪悪な者、狡猾な者たちに、あなた方にはないと考える、深い美しさ―――落ち凹んだ美しさ―――を認めるのである。


2014年6月30日月曜日

「人間嫌い」と「人間大好き」

昼食後の息抜きの時間なり。ツイッターをいつものように眺める。

このごろ、だんだんわかってきたことですが、「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人ではなかろうか。そして、その底には「人間大好き」が潜んでいるのではなかろうか。(中島義道『人生を<半分>降りる』)

その著書を読んだこともないカント学者の中島義道ツイッターbot (@yoshimichi_bot)から。

なかなか「共感」したくなるbotであり、わたくしもどちらかと言えば「人間嫌い=人間大好き」なのだが、たとえば次のようなのもある。

最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。『人生に生きる価値はない』中島義道
社会的成功者とは傲慢かつ単純な人種が多いので、自分の成功を普遍化したがる。こんな自分でも成功した、だからみんなも諦めずにやってみたら、という「謙虚な」姿勢の裏には、臭いほどの自負心が渦巻いている。しかも、底辺から自力でのし上がって来た人ほどこの臭気は強い。『私の嫌いな10の言葉』中島義道

さて、手元にある資料を附記しておこう。


◆《「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人》から、中井久夫による「己との折り合いと他者との折り合い」。


「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」(……)

こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる。

私は精神科医をもう長年やってきたが、その領域から例を持ち出すのはいくらでもできるし、実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。私が思い合わせるのは分裂病の一時期――決して全時期ではない!――にかんしてのものである。しかし、ここでは、そういう職業的な体験を持ち出すのはフェアではあるまい。それに、この命題はもっと一般的なものであり、ひょっとすると倫理というものの基本の一つであるかもしれない。

非常にありふれた例として、荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。

性というものにかんしてもそういうことができる。自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである。「片思い」の全部とはいわないが、その多くは自分と自分の肥大した幻想とが通じ合えなくて実はみずから「片思い」を選んでいるのである。さいわい多くの場合、それは一時的な通過体験であるが、もっとも「純粋」な片思いも「ストーカー」と紙一重の危ない面がある。(中井久夫「感銘を受けた言葉」ーーヴァレリーのカイエと中井久夫


◆《「人間嫌い」の底には「人間大好き」が潜んでいる》からは、プルーストによる「絶対的な蟄居の群集への度外れな愛」。


堤防に沿って歩いているそんな人たちは、まるで船の甲板を歩いているように、みんなひどくからだをゆすぶっていて(……)、ならんで歩いてゆく人たちや反対の方向からくる人たちと衝突しないように心がけながら、相手をこっそりながめ、しかも相手に無関心だと思わせるために、見て見ないふりをするのだが、そんなふうにして衝突を避けながら、やはり相手にぶつかったり突きあたったりするのは、おたがいに表面で軽蔑を装っていても、その底では、どちらからも相手にひそかな好奇心をよせているからで、群集にたいするそうした愛情は―――したがってまた恐怖は―――他人をよろこばせようとするときでも、おどろかせようとするときでも、軽蔑していることを示そうとするとこでも、あらゆる人間の内部のもっとも強い動機の一つなのであり、孤独者にあって、生涯のおわりまでつづくほどの、絶対的な蟄居でも、その根本は、しばしば群集への度外れな愛にささえられていることが多く、それが他のどんな感情よりもまさっているので、外出したとき、住まいの入口の番人や、通行者や、呼びとめた馭者などから、感心されることがないと、今度はもう彼らに見られたくない、そのためには、外出を必要とするどんな活動も断念したほうがいい、と思うようになるのだ。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)


◆「人間大好き」にもかかわらず「迷路に踏み込んでしまう」、とするトーマス・マン。


認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうから だ。(……)

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならも し何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」)


◆人間嫌いでないひと、人間観察を好まないひと、「無私の人」は、実は「人間軽蔑者」ではないかい?

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)


《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)


もっとも、礼儀や信頼の象徴的効果を侮ってはならないだろう。礼儀や信頼関係に騙されないひとは間違える(参照:騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent)。軽蔑やいじわるな態度をとれば、相手はいっそう悪くなる。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

これは通俗道徳ではあるが、この通俗道徳で、われわれの生は99%やっていける。隠遁していてすむような職業でなければ、ひとはニーチェやプルーストの態度をいつもとっているわけにはいかない。ただその通俗道徳を超えた「極地が存在する」。そのことに意識的でなければならない。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)


《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》(アラン)


私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」

2014年6月19日木曜日

「依怙贔屓」、あるいは「お前は才能がない」

長い間教師をしてきた私の結論は、依怙贔屓によってしか人は伸びないということです。私ははじめから自分は依怙贔屓でゆくと公言している。個々の学生の潜在的な素質が見えてきた段階からは、教育的な配慮を平等には振り撒かないということです。(蓮實重彦)

ツイッターで拾ったのだが、なんというか、ずばりと「真実」を語ってしまう元東大総長である。出典が不明であり前後関係はわからないので、あまりこうやって引用して、あれやこれやとは書きたくないのだが、捨てておくにはあまりにも「魅力的」な言葉すぎる。

いずれにせよ人はこうやって依怙贔屓をしたりされたりして生きてきている。たとえば母親が子供たちのひとりだけを依怙贔屓しないということがありうるだろうか、それは仮に内心だけであって、表面には出ないように努めていることが多いにしろ。依怙贔屓されることによって、その当人は素質をのばす。かつての嫡子制度をみよ。あれはすこぶる「健全な」依怙贔屓制度ではなかったか(たとえばエリートを育てるための)。

そもそも愛とは依怙贔屓、すなわち選別と排除の仕草ではないか。《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

もちろん制度的な依怙贔屓、すなわち差別システムは撤廃しなくてはならないというのは「統整的」理念には相違ない。だがジジェクは、自由主義的資本主義における制度的「差別」、格差システムが、人びとの怨恨の暴発を救っていると言う。「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとするのだ(これは『ツナミの小形而上学』で著者ジャン=ピエール・デュピュイの見解を参照にしているようだ)。

2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

フロイトは、「万人の平等こそ正義なり」という思想運動など抽象的なものだと言い放って、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と書いている。ヒエラルキー制度がない社会では、あるいは名目的・心情的には「より平等な社会」(日本のような)では、自分の低いポジションは「自分にふさわしい」ものだということをいやがおうでも悟らされはしないか。

私自身、若いころ、貧乏の辛さを嫌というほど味わい、有産階級の冷淡さ・傲慢さを肌身に感じたことのある人間なのだから、財産の不平等およびそこから生まれるさまざまな結果を除去しようという運動にたいしてお前は理解も好意も持っていないのだなどという邪推は、よもや読者の心に萌すまい。もちろん、こうした運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化への不満』人文書院 旧訳)

蓮實重彦の《個々の学生の潜在的な素質が見えてきた段階からは、教育的な配慮を平等には振り撒かない》という見解に対して、限られた高等教育におけるだけの話で小学校や中学校では、すくなくとも「建前」上、まかりならぬという人びともいるだろう。だが、フロイトの次の文を読んでみよう。若い頃から社会的「依怙贔屓」制度の練習を積んでおいたほうがよいのではないか、との見解として読めはしないか。

今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(『文化への不満』)

もちろんこれらは「極論」かもしれない。だが「極論」によって初めて隠蔽されているものが見えてくる。

…………


ここで少し異なった文脈で語られる「お前は才能がない」との蓮實重彦の発言を抜き出そう。

蓮實)みんな、文学は教えられないというけど、文学の教育は可能なんです。日本では、文学教育のプロフェッショナルがいなかったというだけのことです。文学部系のアカデミズムがあまありにも弱体だったので、教育が機能しなかったのであり、そのうち、みんががあきらめちゃった。これは、不幸なことですよね。これが有効に機能していたら、いまの批評家の半分は批評家にならずにすんだと思う。自分の趣味とは関係なく、文学の名において、おまえは才能がないと言う人がいなかったんです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

「おまえは才能がない」と指摘しない「優しく曖昧な」制度によって、不幸にも才能のない仕事を生涯つづけることになるなどということがありはしないか。早い時期に「才能がない」と指摘されれば、諦めて別のより才能を発揮できる仕事を見出すこともできるだろうし、逆に「才能がない」と言われても、諦めずに己れの好みや選択を継続するとき、そこに生じる「反撥」の力によって、大成する道が開かれるかもしれぬ。

もっとも、注意しなければならないのは、「才能がない」のと世間に受け入られる(たとえば流行作家になる)とは、まったく別の話であるということだ。才能がないために、よく売れることだってありうる、ましてや現在のようにファストフード的知的消費者ばかりが席巻しているなら、いっそうのこと。

ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。
(……)
批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっているから、作家が大衆によって判断されること(大衆にとって未知である探求の領野に芸術家がくわだてた事柄を、大衆が理解することも不可能でないとしての話だが)をむしろ好む傾向ともなるのであろう。というのも、大衆の本能的生活と大作家の才能とのあいだには、本職の批評家と皮相な駄弁や変わりやすい基準とのあいだより以上に、多くの相通じるものがあるからで、大作家の才能は、他のいっさいのものに命じられた沈黙のただなかで敬虔にききとられた本能、よく把握され、十分に仕上げられた本能にほかならないのである。(プルースト「見出された時」)

いずれにせよ、現在ではいっそうのこと、才能を持つことよりも人に知られた名前を持つことのほうが遥かに重要であるに相違ない。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ここで話をすこし前に戻せば、そもそも「才能がない」と言われて諦めてしまうこと自体が、「才能がない」証拠であるとすら言える。浅田彰は自ら「本当の才能がない」と自覚してしまったなどと、驚くべき「謙遜さ=巷間の書き手への嘲笑」とも受けとられない言葉を洩らしている。

浅田彰は西部すすむに《浅田さんがほとんど書かなくなったのは世界や人類を馬鹿にしてのことですか》と問われて、私は《いや単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、おおいなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、僕は選ばれなかっただけですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に認識していますけど》と答えている (『批評空間』Ⅱ-16)。

だが、これは次のような発言をみても、額面通りとらえるべきなのだろう。

浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。

大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。

浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)


…………



※附記:

大岡昇平「再会」より(青山二郎(Y 先生)の小林秀雄(X 先生))

私を除いて酔って来た。Y 先生が X 先生にからみ出した。

お前さんには才能がないね

「えっ」

と X 先生はどきっとしたような声を出した。先生は十何年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私もびっくりしてしまった。

「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。 (Y 先生は比喩で語るのが好きである)そおら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。 (先生は身振りを始めた)ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

しかし Y 先生は自分の比喩にそれほど自信がないらしく、ちょろちょろ眼を動かして、X先生の顔を窺いながら、身振りを進めている。

「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」

X 先生がおとなしく聞いてるところを見ると、矢は当ったらしい。Y 先生は調子づいた。 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に棲息すべきではない象、象が上って来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

「ひでえことをいうなよ。才能があるかないか知らないが、高い宿賃出してモツァルト書きに、伊東くんだりまで来てるんだよ」

「へっ、宿賃がなんだい。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」

こうなると Y 先生は手がつけられない。私も昔は随分泣かされたものである。

私はいいが、驚いたことに、暗い蝋燭で照らされた X 先生の頬は、涙だか洟だか知らないが、濡れているようであった。私はますます驚いた。

2014年6月6日金曜日

嘘によってしか愛するものを語ることはできない

愛するものを語ることに人はいつも失敗する」は確かスタンダールの言葉で、バルトも大岡さんも確か最後の原稿がこれだったような記憶がある。直訳すると「愛するものを語ることに僕らはいつも難破する」か「転んでしまう」か、夢で走るみたいなもんでしょうかね。(丹生谷貴志ツイート)

ーーああ、大岡昇平も最期にこの言葉を引用していたのだな。

大岡昇平は死の直前までスタンダールについて書いているが、その文章の出だしのところで、「愛するものについてうまく語れない」と述べている。(『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』から-中原中也と大岡昇平

大岡昇平は『中原中也』(角川文庫 S.54――大岡氏の「中原中也」をめぐる論すべてが収められている)にあるエッセイ「秋の悲歎」(初出 「新潮」1966.11月号)で次のように書いている。

小説を楽しみに読むという習慣はとうに失ったが、詩は今日でも楽しみに読む。ふとあけて見て打たれることのあるのは詩集だけである。

この「小説を読むという習慣はとうに失った」と書く大岡昇平(1909~1988)は、当時まだ五十代である。

さてここでバルのト「人はつねに愛するものについて語りそこなう」から抜き出そう。

イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」――『イタリア紀行』:引用者――(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのもっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語ってはいたが、伝えてくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。フランス軍の到着とともにミラノに《侵入した大量の幸福と快楽》とわれわれ自身の読む喜びとの間に奇跡的な調和があります。要するに、語られる印象と生み出される印象とが一致するのです。どうしてこのような転回が生じたのでしょうか。それは、スタンダールが、「日記」から「小説」へ、(マラルメの区別を採用すれば)「アルバム」から「書物」へと移り、生き生きとした、しかし、構成不能の断片である感覚を切り捨て、「物語」という、もっと適切にいえば、「神話」という、大きな媒介的形式に近づいたからにほかなりません。(……)

要するに、「旅日記」と『パルムの僧院』との間で生じたことーーそこを通り過ぎたものーーはエクリチュールです。エクリチュールとは何でしょう。長い入門儀式の後に得られると思われる一つの力です。愛のイマジネールの不毛な不動性を打ち破り、愛の体験に象徴的な一般性を与える力です。スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました。彼はまた知らなかったのです。真実からの迂回であると同時にーー何という奇跡でしょうーー、彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。(ロラン・バルト「人はつねに愛するものについて語りそこなう」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)


※原註:《ミラノでスタンダール・シンポジウムのために用意されたこの文章は、あらゆる点から見て、ロラン・バルトによって書かれた最後のテクストである。一ページ目はタイプで打たれていた。1980225日(バルトが交通事故に遭った日)、二ページ目がタイプライターにセットされていた。完成稿と見てよいだろうか。原稿が完全にでき上がっているという意味ではそうである。ロラン・バルトは、タイプライターで清書する時、いつも若干の修正を加えていたという意味では、そうでないといえる。この文章の最初のページにもそうした修正が加えられていた。》(編集者の註)



ロラン・バルトは「人はつねに愛するものについて語りそこなう」にて、何を言いたかったのだろうか、と云えば、虚構(小説)を書かなければならない、ということだとしてよいだろう。実際、バルトのコレージュ・ド・フランスの講義の主題は、『小説の準備Ⅰ、Ⅱ』(1978~1980)だった。バルトはこの講義録の導入部で、次の日記を読み上げている。

悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー「書くことは語らないこと」(マルグリット・デュラス)

1978年の講演、プルースト小論では次のように語られている。
年齢というのは、年代的与件、年月の連鎖であるとしても、それはほんの部分的でしかありません。途中、ところどころに、仕切りがあり、水面の高低差があり、揺れがあります。年齢は漸進的なものではありません。突然変異するものです。(……)私の年齢が潜め、また、動因しようとしている現実的な力はどういうものか。これが、最近、突然生じた問いです。そして、この問いが、今、この時点を《私の人生の道の半ば》としたように思えるのです。(《長い間、私は早くから床についた》『テクストの出口』所収)

1977年10月25日の母の死の翌年、上のように語るロラン・バルトは、このときすでに62歳だった。そしてパリの街頭での自動車事故でのあっけない死は1980年の3月のことだ。

プルーストにとって、《人生の半ば》は、もちろん、母親の死でした(1905年)。生活の突然変異、新しい作品の開始が数年後のことであったとしてもです。つらい悲しみ、唯一の、何物にも還元できないような悲しみは、私にとって、プルーストの語っていた《個人的なものの頂点》をなし得るように思えます。遅まきながら、この悲しみは、私にとっても、私に人生の半ばとなるでしょう。というのは、《人生の半ば》とは、おそらく、死は現実的なものであって、もはや単に恐るべきものではないということを発見する瞬間以外のものではあり得ないからです。

このように道を辿って来ると、突然、次のような明白な事実が現われます。一方では、私にはもういくつもの人生を試みる時間がないということです。
《残された時間が少ない》、明確でなくとも、不可逆的な秒読みが始まる時がくるものです(これこそ意識の問題です)。人は自分が死ぬものであることを知っていました(人の話が聞けるようになった時から、そう教え込まれてきました)。それが、突然、自分が死ぬものであると感ずるのです(これは自然な感情ではありません。自然なのは自分は死なないと思うことです。だから不注意による事故が沢山起こるのです)。

――しかし、「不注意による事故」とは! まさにその事故が、その数年後、パリの街頭で起こったのだった(バルトの母は長寿であり84歳で亡くなっている)。

「ほら、ヴェルトは再び母親を見つけ出そうとしているのよ」、病院の救急看護室から出るとき、デボラがぼくにそういった。ヴェルトはそこの血液注入台の上で死にかけていた…彼はほとんど裸同然でそこにいた、いたるところに管、漂流したまだ息のある大きな魚のようだった(……)みんなまだそこにいて、嘘をついていた。彼はそんなに悪くなく、事故はそれほど大したことじゃなかったんだと…実際には、彼はすぐ危篤に陥り、もうだめだった…

ーーーこのように『女たち』のなかで書くバルトの若き親友ソレルス。もちろん小説のなかでの出来事だ、だがここは素直に、ヴェルトはバルトであり、デボラはソレルスの妻クリステヴァ…として読みたくなる個所だ。

病院の中庭で、ぼくは気を失わないように幾度か努力したはずだ。それから再び彼のそばに駆け上がった。蘇生室。彼の心臓はそこで鼓動していた、上から下へ、黒いスクリーンの上で。
ぼくは、自分がそこに突っ立って、祈り始めていたころに突然気づいた…「父」と「子」と、「聖霊」の御名によって…そいつは、絶望と災厄のまっただなかで、一気にぼくのもとに舞い戻ってきたのだ…この見捨てられた最期、貧しきもののそれ、つまるところひとりの浮浪者の最期のむごたらしい愚かしさを前にして…


バルトの遺作『明るい部屋』は、彼の初めての小説への試みである、という見解もある。『明るい部屋』の第一部と第二部の間で母の死は起こったのだ、そして第二部から母の喪をロマネスクに語るバルトが出現する。すくなくともプルーストの『ジャン・サントゥイユ』でありえるだろう。

もっとも現在はバルトの多くの翻訳、紹介で活躍される石川美子女史は、1987年に書かれた 『ロラン・バルトにおける小説の探求』の「むすび」で、次のように書いている。
コレージュ・ド・フランスにおける最後の講義で,バルトはニーチェに関して次のように語った。森を散歩していたニーチェはある巨大な岩を見て『ツァラトゥストラはかく語りき』を構想したが,実はそれ以前に彼の音楽的鰹味が決定的に変化していたという事実があったのだと。新たな趣味が新たな作品を生んだというのである。さらに言葉を続けて,バルト自身に関しても,「私が音楽の趣味を変えたそのときにこそ,私にとっての新たなエクリチュールは可能になるだろう」と語る。この言葉は,バルトが最後まで新たな形式を見出せなかったこと,そして,小説実践までまだ長い道程の必要なことを告げている。愛する母とだけでなく,愛する音楽とまで別離しなければならないほど,新たな形式の創造は遙か遠くにあったのだろうか。

ロラン・バルトにおける小説の探究バルトは,小説へのためらいがちな意志(書きたい)と決意(これから書く)との間で揺れ動きながら,「批評」作品を生み出してきた。それらの作品のもつ魅力は,小説への執拗だが不毛だった意志によって支えちれていたとも言えよう。批評の場に安住しつつ小説を憧憬していたのであれば,小説の模索は隠喩的領域に収まり,批評と対峙することもなかっただろう。断章は批評作品の中で快楽の形式として機能し続けえただろう。だが,小説実践への意志はすべてを一変させ,批評と小説とは二者択一のものとしてバルトを引き裂いた。批評にとって幸福な園だった断章は,小説への不幸な壁となる。結果的に,バルトは断章形式に対する「形式への執拗さ」を否応なく守り通してしまったことになる。理論は単なる変奏にすぎず,形式こそが,作家の生き方にも等しい変更困難な主題なのだという主張を,バルトは小説実践の失敗によって自ら証明して見せたのである。


2014年5月11日日曜日

五月十一日 歴史にみる「戦後レジーム」 中井久夫

以下の「戦後レジーム」をめぐる中井久夫の文には、「首相(安倍)」とあるが、第一次安倍内閣(2007年)の時のことである。安倍総理は、今年の三月久しぶりのその言葉を発した。

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相

さて中井久夫の随筆「歴史にみる「戦後レジーム」」は、一見たんたんと書かれているかにみえる文だが、隠し味がたくさんある。いや、わたくしはそのようにして読む。だが《総評のために辞を費さぬ》ことにする。《若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。》(森鷗外『伊沢蘭軒』)。

首相が脱却したい「戦後レジーム」とは何か、という問いが冒頭にあり、直接には書かれていないのにも拘わらず、戦後レジーム脱却の是非をめぐる中井久夫の思いが読めば自然に分かるように書かれている。ここで引用される文は、三ヶ月に一回「神戸新聞」に連載された「清陰星雨」の「「歴史にみる「戦後レジーム」」全文である。「清陰星雨」の連載は二〇一二年三月次のように書かれて休まれることになった。

《私はどこか日本の学者を信頼して、それが体験の基礎になっていた。官僚も、政界も、はてなと思うことはあっても、終戦の時と同じく、列車が走り、郵便が着くという初歩的なことで基盤にゆえなき信頼感があったのであろうか。私が20余年続けたこのコラムを休むのは、その代わりに考えきれない重しのようなものが頭の中にあるからである。》(中井久夫さん、最後の「清陰星雨」


歴史にみる「戦後レジーム」


年金問題の陰に隠れているが、首相(安倍)が脱却したいという「戦後レジーム」とは何か。ほとんど内容が取り上げられず、また何に変わりたいのか、誰もいわない。そこで私は射程をぐっとのばして日本史全体を眺めなおしてみようと思う。

日本史上、大陸への大規模外征は三度行なわれ、悉く失敗している。その後には必ず旧敵国の優れた制度を導入して、一時の混乱はあっても、安定した平和の時代を迎えることに成功している。「戦後レジーム」もその一例であると、私は見る。

天智天皇二年(六六三年)百済王子を擁して朝鮮半島に傀儡政権樹立を試みた倭の約四百隻の艦隊は、百隻の唐艦隊に白村江河口において短時間で全滅した。古代の「ミッドウェー海戦」である。以後、日本は専守防衛に転じて半島出兵をやめ、唐の国制を取り入れて内政を整備し、半世紀かけてようやく唐との国交回復をなしとげた。

南蛮人の世界征服に刺激されたかもしれない秀吉の朝鮮出兵も、戦争目的を果たせずに終わった。後を継いだ徳川政権は朝鮮の国学である朱子学を採用し、儒教にもとづく文治政策を打ち出し、朝鮮との修好に努めた(維新の際に徳川に援軍を送ろうという提案が朝鮮政府の中に起こっている)。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。

ドイツとは全然違った。ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。

なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。日本国憲法は、当時の日本側の提出する大日本帝国憲法の焼き直しに業を煮やして米国主導で作られたので、仮に日本側草案が行なわれていたら、戦後の日本人は民主主義を享受できなかっただろう。また、日本国憲法は先に列挙した徳川幕府の祖法にもかなり似ている。軽武装・経済中心は日本人に馴染むものである。

憲法二〇条の政教分離規定は詳細を極める。当時国内外にあったキリスト教の国教化運動の道を断つ規定であることに注目したい。マッカーサー元帥の信仰はスコットランド長老教会かと思う。勤勉、節約、清潔、貯蓄を徳目とする宗教的少数派である。キリスト教の国教化と表記のローマ字化とをしなかったのは、米占領軍の「なさざるの功績」である。

白村江の戦いの前は部族間抗争が大詰めを迎えていた。昭和の敗戦の前は、明治以後敗戦までの「レジーム」であった。半世紀だった安土桃山時代と同じく「レジーム」というよりも、本質的に不安定な「移行期」で、立役者の寿命しか持たなかった。明治維新を闘った最後の元老・西園寺公望の死と敗戦への引き返し不能点である日独伊三国同盟とは、どちらも一九四〇年である。この「移行期」は維新以後七二年で終わったということができる。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)

見事に凝縮された文章である。《思考の単位はパラグラフである》とは中井久夫が繰り返して語る言葉だが、そのパラグラフの塊ごとの進行の具合が心地よい。読み手に私見を強いたり、ことさらの強調もない。今はそんな文章ばかり読まされるなか、爽快な読後感を抱く。

善悪智愚醇醨功過、あらゆる美刺褒貶は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。 わたくしは果して能く此の如き余地遊隙を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。(森鴎外『伊沢蘭軒』)

アンゲプロスがモンタージュをめぐって語る《観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさ》を示す文章が跳梁跋扈する現在である。あるいはファストフード的読者、《道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式……。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせる》(ジジェク)ような文章が著名な大学の教師によってさえも書かれる現在である。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(テオ・アンゲロプロス 蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)

さて、三つの歴史的事実が書かれていることだけ整理しておこう。それは

旧敵国からの優れた制度の導入という視点である。


・白村江との中国(唐)との戦いの後、

唐の国制の取り入れによる内政の整備

・秀吉による朝鮮出兵の失敗の後、徳川政権による

朝鮮の国学である朱子学の採用

・太平洋戦争敗戦後、米国「民主主義」の受容 



ところですこし前に引用した鴎外の文は次のように続く。


史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。(森鴎外『伊沢蘭軒』その三百六十九)

鴎外は、史実の選択取捨は事実の批評とする。それは価値判断ではない、としているが、どの史実を選択するのかは、やはり価値判断であることを免れない。大岡昇平の森鴎外『堺事件』批判はそのことに係わっている。そうして大岡の未完の遺作である『堺港攘夷始末』が書かれることになる。

もともと大岡昇平の憤りの由来は、代表作のひとつ『レイテ戦記』の執筆に関係するようだ。

「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる。……兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだった。(吉田照生「大岡昇平の人と文学」1990)

大岡昇平の『レイテ戦記』の「あとがき」には《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》ともある。

だがこのように大岡昇平の鴎外批判をめぐって記したところで、中井久夫の歴史認識を批判するつもりは毛頭ない。おそらくある種の人たちは批判することもあるだろう、と憶測するだけだ。いや日本の歴史における三つの大規模外征失敗後の《旧敵国からの優れた制度の導入》による日本国の成功という認識には苛立つひとたちもいるだろう、と思うだけだ。


この中井久夫のエッセイは、「「和様化」今が好機 」と題された毎日新聞の磯崎新インタヴュー記事(2010年のものだが、元記事はウェブ上からなくなっている)とともに読んでみるとまた面白いかもしれない。中井久夫は1934年生まれ、磯崎新は1931年生まれであり、少年期を太平戦争さなかに送った世代である。

……

中国とは対照的に意気消沈する日本。磯崎さんは90年に著した「見立ての手法」(鹿島出版会)に記していた。

 <数多くの先達の仕事ぶりをみていると、「日本」に激しい憎悪をもち、それとの対立と破壊によって自らの方法を組みたて、成熟していくにつれて和解や回帰がはかられた例をいくつも挙げうる。「日本」を常に異国人(他者)の眼でみることである>

 磯崎さんは、海外で仕事をする時に「日本的なものを売り出そう」などという日本人の言葉をよく耳にしていた。だから、「日本的なものとは何か」という問いに頭をめぐらせてきた。

 「僕は歴史を通じて日本のオリジナルはどこにあったかを考えた。というのも、日本のオリジナルがあったとするならば、日本的と改めて言う必要はな いわけです。海外から『日本は特別だよ』と言われるから、日本が日本的なものを探していると思っていた。建築では、伊勢神宮などが日本的と言われるけれ ど、僕が調べると必ずしもそうではない。あの時代に日本的なものを作らなければならなかったから伊勢神宮もできた。一種のナショナリズムです」

 7世紀に白村江の戦いで唐・新羅に敗れた日本は、伊勢神宮を国家的な規模で祭ったとされる。12世紀には大胆な構造の東大寺南大門を再建した。 「伊勢神宮は唐・新羅による侵略の恐怖などに対し、国を誇示するものとして、東大寺南大門再建は13世紀後半の元寇の前に蒙古の侵攻を予感していた結果で す」

 16世紀に南蛮文化の外圧にさらされ、鎖国していた日本は19世紀半ばに黒船の来航により開国して、近代国家の道を歩んだ。

 「でも僕は1990年代前半には、海外から日本に戻る多くの日本人を見て、鎖国状態になっているのを実感したんです。90年代後半に、海外で大きな事業を手掛ける日本人が2人でも3人でもいたら、この島国にも少しの可能性があるのではないかと考えたのですが……」

 だが、磯崎さんが周りを見渡した時、みんなが日本国内へ内向きになっていた。磯崎さんは「今も鎖国状態は変わらない」と言い切った。

    ■

 米軍普天間飛行場移設問題などでは米国との関係に揺れ、中国には今年にもGDP(国内総生産)で追い抜かれる。政権交代はしたものの、鳩山政権は視界不良だ。

 日本は鎖国状態でやっていけますか? 「日本は鎖国状態を恐れる必要はありませんよ。今の日本は、米国から外される、中国から追い抜かれるとビクビクしている。だけど、日本はむしろ孤立した方がいいんです」。意外な答えが返ってきた。

 「僕はこの鎖国状態の期間を『和様化の時代』と呼んでいいと思います。歴史を見れば、和様化の時代は、輸入した海外の技術を徐々に日本化していく時期にあたります。今はこの和様化、つまり『日本化』を徹底する時期だと思いますね」

 磯崎さんに言わせれば伊勢神宮もしかり。漢字とひらがなが入り交じった日本語も、外国語をいかに日本化するかを考えたことから今の形となった。戦 後で言えば、自動車やカメラだ。日本が始めた産業ではないにもかかわらず、実用化、大量化、精密化して世界の群を抜く製品化に成功した。

 「どう言ったらいいんですかね」などと言葉を探しながら語る磯崎さん。

 「歴史を振り返ると、日本人は鎖国状態の時期、非常に細かい技術を駆使して、発案した人たちを脅かすものをつくり続けてきた。そして、その時期にできた日本語や自動車などの日本的なものが、日本の文化や産業の歴史的な主流になってきています」

   ■

 一昨年秋のリーマン・ショック以後、先進国である日米欧の経済は低迷を続けているにもかかわらず、新興国の中国やインドは成長を続ける。一国の力 ではどうにもならないグローバリゼーションの渦中にあるのではないだろうか。海外で日本がどれだけ評価されたか、海外で日本人がどれだけ活躍したか--。 我々の海外への関心は高い。海外の目は日本人を相対化することができる。例えば、イチローの活躍は国民を勇気づける。多くの日本人が持つ視点だろう。

 「日本には、海外でグローバルスタンダードを作ることができる外向きの人々と、国内で和様化を洗練する内向きの人々がいます。外向きの人々は企業 でも個人でも、世界の一部分としてしか動けないから、どんどん海外へ行けばいい。日本にとって意義あることは、ダブルスタンダード、つまり役割を分担して 外向きと内向きをともに推し進めることだと思います」

 磯崎さんは一気に2時間近くも語った。「細かな芸の洗練」という美学を持つ島国、ニッポン。鎖国状態を悲観することなく、強みとなる「日本化」を進めることができるだろうか。



2013年12月20日金曜日

暗闇をさまよう者は、歌をうたってその不安をうちけそうとする(フロイト、ドゥルーズ)

私はおよそ世界観の製造などを心がけていない。そういうことは哲学者にまかせるがよい。疑いもなく哲学者というものは、あらゆる事情が書きしるしてある旅行案内をもたないと、人生の旅行ができないのである。彼らはその高次の必要性の立場から、軽蔑をもってわれわれを見下すにしても、われわれはあまんじてそれをうけよう。われわれに自己愛的な傲慢があるのは否定できないにしても、自らを慰めて、こう言いたい。これら「人生の指導者」どもは、いくばくもなく、すべて古ぼけてしまうのであって、その旅行案内の再版を余儀なくさせるのは、まさにわれわれの近視眼的にせばめられたささやかな仕事であり、かれらの最新版の旅行案内さえも、もとは、昔の便利で完全な教義問答に代わろうとしているにすぎないのだ。科学が今日まで、世界の謎に光明をあたえることが、どんなに少なかったかは、われわれとてもよく承知している。だが、哲学者のあらゆる騒音は事態を変えはしないこと、確実性を唯一の信条として追求していく忍耐づよい研究の続行だけが、徐々に変革をもたらすこと、これもわれわれはよく知っている。暗闇をさまよう者は、歌をうたってその不安をうちけそうとするが、だからといって、すこしでも明るく見えてくるわけではない。(フロイト『制止、症状、不安』(1926)旧訳フロイト著作集6からだが、一箇所訳語を変更 「高級な貧困」→「高次の必要性」)

《暗闇をさまよう者は、歌をうたってその不安をうちけそうとするが、だからといって、すこしでも明るく見えてくるわけではない。》


まったく異なった文脈で書かれているのだが、『ミラ・プラトー』には、《暗闇をさまよう者は、歌をうたって》カオスのなかに秩序をつくれ、とある、まるでフロイトの美しい表現を使い反フロイトの言葉を紡ぎだすかのようだ。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(……)

歌はカオスからとびだしてカオスのなかに秩序をつくりはじめる。ひとりの子どもが、学校の宿題をこなすために、力を集中しようとして小声で歌う。ひとりの主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「リトルネロについて」厚表紙版p359)

だが、《歌には、いつ分解してしまうかもしれぬ危険がある》という面も肝要なのだろう。そして上の

文だけでは反フロイトであるかどうかは、実のところわからない。だが上の文のすこしまえにはこうある。精神分析家は、歌の、そのリトルネロのことが分っていない、と。

われわれは、リトルネロ(リフレイン)こそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える。一人の子どもが暗闇で心を落ち着けようとしたり、両手を打ち鳴らしたりする。あるいは歩き方を考え出し、それを歩道の特徴に適合させたり、「いないいない、ばあ」(Fort-Da)の呪文を唱えたりする(精神分析家は《Fort-Da》を適切に語ることができない。《Fort-Da》は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読みとろうとするからだ)。タララ、タララ。一人の女が歌を口ずさむ。「小声で、やさしく一つ節を口ずさむのが聞こえた。」小鳥が、独自のリトルネロを歌いはじめる。ジャヌカンからメシアンにいたるまで、音楽は実にさまざまな形で、小鳥の歌に貫かれている。ルルル、ルルル。音楽は幼児期のブロックによって、また女性性のブロックによって貫かれている。音楽はありとあらゆるマイノリティに貫かれているが、それでもなお絶対な力能を構成する。子供たちのリトルネロ、女たちの、さまざまな民族の、さまざまな領土の、そして愛と破壊のリトルネロ。そこにリズムが生まれる。シューマンの全作品はリトルネロや幼児期のブロックから成り立ち、そこに独自の処理がほどこされている。こうしてシューマン独自の子供への生成変化と、クララという名をもつ女性への生成変化が生まれる。子供の遊戯や子供時代の光景、そして小鳥の歌をすべて拾いあげ、音楽史上のリトルネロが示す斜線上の、あるいは横断的な用例を一覧表にまとめあげることはできるだろう。しかし一覧表など何の役にも立たない。実際には音楽にとって本質的で必然的な内容が問題となっているのに、一覧表を作ってしまうと、主題や題材のモチーフの豊富な実例に目を奪われることになるからだ。リトルネロのモチーフは不安、恐怖、悦び、愛、労働、行進、領土など、さまざまでありうる。しかしリトルネロ自体はあくまでも音楽の内容なのである。

われわれは、リトルネロが音楽の起源であるとか、音楽はリトルネロをもって始まると主張しているのではない。いつ音楽が始まるのか、実のところよくわからないのだ。それにリトルネロは、むしろ音楽を妨げ、祓いのけ、あるいは音楽なしですませるための手段ではないか。しかし音楽が存在するのは、リトルネロもまた存在するからだ。音楽は内容としてのリトルネロととりあげ、これをつかもとって表現の形式に組み入れるからだ。音楽がリトルネロとブロックをなし、それを別のところにもたらすからだ。それ自体は音楽でない子供のリトルネロが、音楽の<子供への生成変化>とブロックをなす。((同「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p344)

《精神分析家は《Fort-Da》を適切に語ることができない。《Fort-Da》は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読みとろうとする》だけでないように、ラカンは最晩年ララング概念を紡ぎだしたとしてよい。

lalangue(ララング)とはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望(ここでは、まずは、敢えて、要求とか欲求ということばを用いないで説明したい)を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième




……一つの<線―ブロック>が音の中間を通りぬけ、位置決定が不可能な独自の環境(中間)で芽を吹くのだ。音のブロックはインテルメッツォ〔間奏曲〕である。つまり音学的組織をすりぬけ、なおさら強度の音を放つ器官なき身体、あるいは反-記憶なのである。

「シューマン的身体は一箇所にとどまることがない。(……)インテルメッツォは全作品と一体化している。(……)極言するあんら、インテルメッツォしかないのだ。(……)シューマン的身体には分岐しかない。この身体はみずからを構築していくのではなく、ただ間奏曲(休止)を積み重ね、不断の分岐を続けるのだ。(……)シューマン的鼓動は、狂乱しながらもなお、コードをそなえている。そして鼓動を刻む音の狂乱が一般には見過されがちなのは、一見したところ、この狂乱が穏当な言語の限度内に収まっているからである。(……)調性には、矛盾し、しかも共存しうる二つの面があると想定してみよう。一方にはスクリーンが、つまり既知の組織にしたがって身体を分節する言語がありながら、しかしもう一方では、矛盾したことに調性が、別の水準では馴致すべきはずの鼓動に対して、その巧みなしもべとなるのだ。」(ロラン・バルト『第三の意味――映像と演劇と音楽と』)(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p342)

◆ロラン・バルトがその晩年もっとも愛した曲のひとつ、op133の冒頭の『暁の歌』






別の観点から、次のような言い方もある。古井由吉は、カオスのなかに秩序をつくるということではなく、リアル(現実界)に直面したときに、それに耳を塞ぐために、音楽を聴くのではないか、という意味に受けとれる文章を書いている。もっともドゥルーズ&ガタリは《

リトルネロは、むしろ音楽を妨げ、祓いのけ、あるいは音楽なしですませるための手段ではないか》と書いていることを忘れているわけではない。

騒音に押し入られるままになっている人間にとって、ときたまはさまる静まりこそ、おそろしい。静まりとは言いながら内に狂躁の、おもむろな切迫のようなものをはらむ。内にふくらみかかる狂躁を出し抜くためにも、外へ向かって自分から躁がなくてはならない。取りあえず喋りまくる。人がいなければ何でもよいから音を立てる。誰もいない部屋にもどるとまずテレビをつける。まさに、沈黙を忌む、である。耳を澄ますのも、沈黙を招くおそれがあるので、よほど用心しなくてはならない。人との話によけいな間を置くのも、お互いに沈黙の中へ惹きこまれそうになるので、あぶない。

これでは耳の上げ底どころか、心の上げ底になる。道理で物を深くは感じ止められないばかりに、深く思うこともできなかったはずだ。そのことは自嘲して済ますとしても、そうなるとしかし、今の世の男女の交わりは、お互いに沈黙をふせぐための、躁がしさの交換になるはしないか。死者たちのもとまで通じるような沈黙の中へぽつりぽつりと滴る、睦言や兼言や怨言は、絶えて久しい。(古井由吉『蜩の声』)

 あるいは。
音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛ーートラウマを飼い馴らす音楽

ある種の音楽を聴きつづけるには、《よほどの神経の鈍磨が必要》であるには相違ない。

《If we make music and listen to it,. . . it is in order to silence what deserves to be called the voice as the object a".( Jacques-Alain Miller, 1989 cited in Dolar, 1996)》-- Mladen Dolar,”The Object Voice”

"Why do we listen to music?": in order to avoid the horror of the encounter of the voice qua object. What Rilke said for beauty goes also for music: it is a lure, a screen, the last curtain, which protects us from directly confronting the horror of the (vocal) object.(……)

The true object voice is mute, "stuck in the throat," and what effectively reverberates is the void: resonance always takes place in a vacuum—the tone as such is originally a lament for the lost object.— ---Zizek"I Hear You with My Eyes"――「「声」と「沈黙」

音楽が《沈黙と測りあえるほど》(武満徹)のものであるなら、つまり現実界の沈黙の声に耳をすますことを促すものであるならば、どうやって絶え間なしに聴きつづけることができよう。

たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」

ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』 「音の輪が回る」ーー音と沈黙の「地」と「図」

◆Glenn Gould PIANO SOLO(ミシェル・シュネデール 千葉文夫訳)より。

彼の演奏について語ろうとしても、いくつかの言葉しか思い浮かばない。遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐えられないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。
美は耐えがたいものであり、また不寛容なものでもある。美は容赦なくわれわれの視線をさぐり、音を聞こうとする耳を誘惑し、待機中の言葉をつかみかかり、電撃と緩慢さを交錯させる。美はみずから充足し、わたしたち抜きで存在するのだが、それでいて嫌になるほど執拗に呼びかけ、こちらにはわかるはずもない答えを要求する。<パルティータ>第六番の冒頭の数小節からは、あの苦痛をともなう喜び、あのわれわれを分割する瞬間的な光、リルケが語ったあの「恐るべきもののはじまり」が感じられる。完成しながら消えてゆくなにかだ。アルペジオで奏される単純な和音は、ほとんど無に近くも、安定し厳格で簡素な構造となっている。それが開かされるのは、われわれを切り開くという理由だけのことからだ。意図も計算もなく、自身をもって切りつけてくる身振りだ。メスのような冷たさで、音楽の肉体とひとつになった肉体、わたしの肉体めがけて曲線を切りつけてくるのだ。

グールドは連続と切れ目が同時に見いだされるアーティキュレーションのもとにあの数小節を弾いた。そこには長いこと気がかりを見すえ、自分自身の裂け目を真正面から受け止めようとしてきた人間の無頓着な手つきのたしかさがある。
グールドの場合には、なによりもヘルダーリンが望んだ表現の透明さ die Klarheit der Darstellungがある。このような透明な光は熱狂的な憑依体験の対極にあるわけではない。このような光は、静謐なものでもなければ抑制されたものでもない。それは奪い取ることであり、切開を意味するのだ。それでいてこの光は冷たく遠くにある。神的なるものの訪れは火、炎、煙の上がる光景を意味しない。グールドを訪れた神はヘルダーリンを訪れた神と同一である。ディオニュソスではない。熱狂的な暗闇の神ではない。アポロンであり、正しきもの、透明なるものなのだ。


だがグールドのバッハ演奏には事物の謎めいた明証性――われわれからはなにも期待せず、われわれに欲望や記憶があるとは夢にも思わないでいる事物の明証性がある。そのとき音楽は耳に聞えてくるものではなく、われわれを聞くものとなる。

グールドによるバッハの<トッカータ>の演奏はこうしたものだ。この音楽は、耳をそばだてわれわれのことを聴きながら、しかも音楽それ自身しか聴いていない。そのとき人が受け取ることになるのは、親密さをことごとくそぎ落してしまった音のもつれであり、凍てついた微かなフレーズの光であり、手が摑むのは、ひろげた両方のてのひらに入る分量の沈黙なのだ。

だが依然として音楽であるには違いない。あらゆるものにもまして力強く、あらゆるものを横断してやってくる音楽、別の時間と別の場所から洩れて聞えてくる音楽。年老いていると同時に年齢のない音楽。信じがたいほどに音楽それ自体にぴったり調和した音楽。この音楽のなかには取り返しのつかぬなにかが存在している。そのなにかが前進する。むきだしの裸であって、恩寵はやってこないだろう。なおも夜のなかの声だ。消滅に抗して発せられる声、消滅そのものの声だ。その声はなんと忍耐強く執拗なのだろう、そしてこの音楽はなんと疲れを知らぬことか、もはや歩くことができなくなったようにして足を大地に引きずり、眼を天空にさまよわせながら前進するこの音楽は。


◆ジャン・ジュネ『ジャコメッティのアトリエ』 宮川淳・訳

美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を 去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。だから、この芸術と、ひとびとが悲惨主義と名付けるものとは、はるかに隔たっている。

ジャコメッティの芸術はあらゆる存在、のみならず、あらゆる事物のこの秘められた傷を見出だそうとのぞんでいる。この傷がそれらの存在や事物を照らし、輝かさんがために。私にはそう思える。




もちろん、われわれ「俗物」は、つねに彼らのようでありうるわけではないだろう。音楽や彫刻だけでなく、文学だってときには慰安の芸術が必要なのだ。

俗物(philistine)は成熟した大人であって、その関心の内容は物質的かつ常識的であり、その精神状態は彼または彼女の仲間や時代のありふれた思想と月並みな理想にかたちづくられている。(……)「ブルジョア」という言葉を、マルクスではなくフロベールの用例に従って私 は用いる。フロベールの意味での「ブルジョア」は一つの精神状態であって、財布の状態ではない。ブルジョアは気取った俗物であり、威厳ある下司である。

順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。(ナボコフ『ロシア文学講義』)

「成熟した大人」であるならば、慰めばかりの音楽を選び、いつまでも聴きつづけることができるのだろう。次の文はべつに女性だけの話ではない。

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」

つまりはこういうことだ。

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

ーーもちろんここでの「凡庸」とはナボコフのいう「俗物」性のことだ。


…………

夜のこわさ。夜でないこわさ。
ひとことでいい。もとめるだけ。空気のうごきだけ。きみがまだ生きている、待っているというしるしだけ。いや、もとめなくていい。一息だけ。一息もいらない。かまえだけ。かまえもいらない。おもうだけで。おもうこともない。しずかな眠りだけでいい。……………カフカ(高橋悠治『カフカ/夜の時間』より)
ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日

カフカは、ギムナジウム時代、ニーチェを読んでいた。《ぼくらの内の氷結した海を砕く斧》とは、たとえば、『ツァラトゥストラ』の「幻影と謎」に、《かれの心の氷が割れた》という表現がある。

あるいは、あらあらしい断崖と断崖の間に立っていたツァラトゥストラは、喉に匐いこんだ蛇のため、《のたうち、あえぎ、痙攣し、顔をひきつらせている》若い牧人を見る、そしてツァラトゥストラの絶叫の声、《蛇の頭を噛み切れ。噛め!》――命令どおり噛み蛇の頭を吐き出したあとは次のように書かれる、《それはもはや牧人ではなかった。人間ではなかった、――一人の変容した者、光につつまれた者だった》

この箇所も同じように、《ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないか》との照合がある。



                                      [Prague]August 28  1904]


現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオやテレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)




2013年12月19日木曜日

生命の稚い日に露われる一つの生涯(森有正)

《一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか》(森有正)

森有正は、渡辺一夫門下の東大仏文系の優秀な弟子の一人だったのだが、40歳前後にフランス留学(戦後官費留学第1号)し、結局、日本に帰ってくるのはやめてしまって、日本の職を投げ捨てた。日本に残っていた妻とも離婚した(渡辺一夫が激怒したらしい)。その森有正のパリ滞在記でもある日記風文章に10代のわたくしはひどくいかれてしまった、あたかも聖書のようなにして読んだといっていいかもしれない。加藤周一や木下順二、あるいは大江健三郎にもいくつかの森有正讃がある。

木下はどこかで次のようなことを語っている、《森有正と加藤周一を比較して、森には読者を包み込む愛がある》、と。

反面、こういう話もある。
辻邦生が森のデカルト研究の草稿が死後、何も残されてないと驚いたが、あれは驚く方がかまととで、間違いだ。因みに、渡辺格氏は『ももんが』の平成15 年5月号で晩年の父君(森有礼の三男:※引用者)は森が帰国し自宅を訪問しても頑として会わなかったこともその理由も引用するに忍びないほどあけすけに書いている。(平川祐弘

まあ辻邦生が「かまとと」であってもそれはどうでもよろしい。《距離の遠さが、わたしに蛇の汚さと悪臭を隠していたのだ。奸智にたけたとかげがみだらな気持でそこを匍いまわっていたことを隠していた》(ニーチェ「無垢な認識」『ツァラトゥストラ』としてもよい。

だがニーチェのこの言葉は本来、森有正向けではなく、「観照の者たち」向けだ。《おまえたち臆病者よ……おまえたちはおまえたちの去勢された「ながし目」を「観照」と呼ぼうとする。そして、臆病な目で撫でまわしたものを、美と名づけたがる。(……)おまえたちは欺瞞者だ、「観照の者たち」よ。ツァラトゥストラも、かつてはおまえたちの神々しい外観に心酔した。そのなかにつまっている蛇のとぐろを見抜くことができなかったのだ》--この言葉は、平川祐弘氏は東京名誉教授だかなんだかしらないが、たかだか凡庸な大学教師の平川氏にふさわしく、森有正にはふさわしくない。《生を、欲念なしに、また犬のように舌をたらすことなしに、観照する》者たちよ、森有正は犬のように女を追い回した。だがそれでなにがわるい? 《無邪気さはどこにあるか。生殖への意志があるところにある。》

《戦後日本の知的ヒーローだった「渡辺先生」以下の仏文出身者の正体は何だったのか。》(平川祐弘)だと? まあ氏は伊文研究者らしく日陰の身にながらく耐えていたのだろうし、敢えて文句はいうまい。


◆森有正氏の思い出――丸山真男氏に聞く」
「非常に広 く読まれた『バビロンの流れのほとりにて』なども含めて、けっきょく森さんは、自分の 哲学を周辺の部分しかのべないで終ってしまった、と思うんです。むしろある種の文学的 な受けとられ方をして愛読者をもったことで、本当の思想的影響を与えることが少なかっ た、とさえいえるのじゃないですか。森さんにいちばん期待していたことが果せないで終った。だから森哲学というのは、周辺から窺う以外にないんです」 。 「森有正をめぐるノー ト12」 、全集12付録、十九頁。

◆加藤周一著作集第7巻「単純な経験と複雑な経験」より

外国において詩人であった森有正氏は、まさに日本において哲学者になろうとする直前に亡くなったのかもしれない。

◆大岡昇平「加藤さんの印象」
私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳(ママ)を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。

 「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。

その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。」(加藤周一著作集「月報」ーー大岡昇平「加藤さんの印象」

◆中村雄二郎《森有正のこと》
およそどの書物も、書き出しの一節が、その作品のトーンを奏でる。稚拙なこと ばで始まれば、聴くに耐えない曲に似て、ページをめくる気にもなれない。だが <バビロン>は感動的である。1976年パリで客死した思索家・森有正。その翌年 秋、朝日新聞に彼を想う記事が載った。「去るものは日々に疎しといわれるが、 およそ森さんほど亡くなってからも私たちの心に棲みつづけている人も少ない。 このところ私なども、よく意外な人たちから、間もなく森さんの一周忌になりま すね、といわれておやっと思うことがある。そのたびに、ああこの人の心のうち にも森さんが棲んでいたのか、と思う。森さんは亡くなってから私たちの心に棲 みつづけている、といまいったが、あるいはむしろ、亡くなってからいっそう私 たちの心に棲むようになった、というべきかも知れない。これは尋常ならぬこと である。(考える愉しみ 中村雄二郎エッセー集1《森有正のこと》所収」 )


以下は、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭。読む年齢やそのとき置かれた環境によって、ときにひどく共鳴したり、ときに強く反撥を感じたこともあるが(たとえば野心の時代、三十歳前後には、ひどく反撥ししばらく森有正から遠ざかっていた)、いまは最近の心的外傷理論とともに読むこともできると敢えてしておこう。すなわち幼児期誰もが抱かざるをえない言語化不可能な三つの問い(女性性、父性、性関係)やら幼児型記憶などにかかわる根源的幻想(あるいは原抑圧)は、原トラウマとして(欲動衝拍として)ひとの生涯を決定的に左右するというものだ。

一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるをえない。この確からしい事柄は、「悲痛」であると同時に、限りなく「慰め」に充ちている。君はこのことをどう考えるだろうか。ヨーロッパの精神が、その行き尽くしたはてに、いつもそこに立ちかえる、ギリシアの神話や旧約聖書の中では、神殿の巫女たちや予言者たちが、将来栄光をうけたり、悲劇的な運命を辿ったりする人々について、予言をしていることを君も知っていることと思う。稚い生命の中に、ある本質的な意味で、すでにその人の生涯全部が含まれ、さらに顕わされてさえいるのでないとしたら、どうしてこういうことが可能だったのだろうか。またそれが古い記録を綴った人々の心をなぜ惹いたのだろうか。社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避の配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。しかしそのことはやがて、秘かに、あるいは明らかに、露われるだろう。いな露われざるをえないだろう。そして人はその人自身の死を死ぬことができるだろう。またその時、人は死を恐れない。

たくさんの若い人々が、まだ余り遠くない過去何年かの間に、世界を覆う大きな災いのなかに死んでいった。君は、その人々の書簡を集めた本について僕が書いた感想を、まだ記憶していることと思う。そのささやかな本の中で僕の心を深く打ったのは、やがて死ぬこれらの若い魂を透きとおして、裸の自然がそこに、そのまま、表われていることだった。暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥かに空高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥、焼きつくような太陽の光の下に、たった一羽、濁った大河の洲に立っている鷲、嵐を孕(はら)む大空の下に、暗く、荒々しく、見渡すかぎり拡がっている広野、そういうものだけが印象に今も鮮やかにのこっている。そこには若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこには見えないのだ。このことは僕に一つの境涯を啓いてくれる。そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、坤きもないのだ。ただあらゆる形容を絶した Desolation(絶望)とConsolation (慰め)とが、そしてこの二つのものが二つのものとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ。もう今は、僕の心には、かれらが若くて死んだことを悲しむ気持はない。この現実を見、それを感じ、そこから無限の彼方まで、感情が細かく、千々に別れながら、静かに流れてゆくのを識るだけだ。これは少しも不思議なことではない。極めてあたり前のことなのだ。ただたくさんのものが、静かに漲り流れる光の波を乱して、人生の軽薄さを作っているのだ。人間というものが軽薄でさえなかったら ……。

僕を驚かすものが一つそこにある。いま言ったことは、人間が宇宙の生命に瞑合するとか、無に帰するとか、仏教や神秘哲学がいうしかじかのこととはまるで違うのだ。もっと直接で素朴なことなのだ。ライプニッツというドイツの哲学者が単子説に托して言っているように、この限りない彼方まで拡がってゆく光の波は一人一人の人間の魂の中に、さらにまたそれに深く照応する一つ一つの個物の中に、その全量があるものなので、あるいはそういうものが人間の魂そのものと言ってもよいかも知れない。しかしもうこういう議論めいたことは止めよう。つまり一人の人間があくまで一人の在りのままの人間であって、それ以上でも、それ以下でもない、ということが大切だ。

紗のテュールを篏めた部屋の窓からは、昨日までの青空にひきかえて、灰色がかった雲が低く垂れこめる夕暮の暗い空が、その空の一隅が、石畳の道の向う側にある黒ずんだ石造のアパートの屋根の上に見える。パリの秋はもう冬のはじまりだ。すこしはなれたところにあるゲーリュサック街を通る乗用車やトラックの音が時々響いてくる。小さいホテルの中は、何の物音もしない。本やノートを堆く重ねた机の前に僕はこれを坐って、書いている。これがすくなくとも意識的には虚偽の証言にならないように、ただそれだけを、念じながら。

人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんな立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は水の枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も射し出さず、他の光の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。

考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石には「 M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壷を入れるようになっている。その頃はまだ現在のように木が茂っていなかった。僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声もきこえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いて来た。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。

たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに深く立つ日まで、止まらないだろう。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)

加藤周一が森有正は哲学者としては失格だ、詩人であったというのは、この文章はもとより、後年の「経験」の哲学もあきらかにリルケの影響が窺われるからだ。詩人としての森有正はリルケの人としての森有正ということだ。

だが詩というものは、若いころに書いたものにろくなものはない。それには待つということが大切だ。そうして一生かかって、それもたぶん長い一生を倦まずたゆまず意味と甘味とを集めねばならない。その果てにようやくたぶん十行の良い詩を書くことができるのであろう。なぜなら、詩はひとの言うように感情ではない(感情ならはじめから十分あるわけだ)、 ――それは経験なのだ。一行の詩句を得るためには、たくさんの都会を、人間を、物を見なければならない。けものたちを知り、鳥の飛び方を感じ取り、朝小さな草花のひらく身ぶりを知らなければならない。はじめての土地の、なじみない道のことを、思いがけない出会いや、もう久しくその近づいてくるのが見えていた別れを思い出すことができねばならない、 ――まだよく意味が明らかにされていない幼年時代のことを、また、両親がぼくたちをよろこばせようとして持って来たものが、ぼくたちにはなんのことかわからず(それはほかの子どもならよろこぶにちがいないものだった)、両親の心を傷つける破目になってしまった思い出や、じつに奇妙な始まり方をして、思いがけない深い重い変化を伴う子どもの病気のことや、ひっそりとつつましい部屋のなかですごす日々のことを、海辺の朝を、海そのものを、多くの海のことを、高い天空をざわめきながら、星々とともに飛び去って行った旅の幾夜さのことを、―― そしてたとえ幸いにも、そういう一切のことを思い出すことができても、それはまだ十分ではない。ひとはまた、どの一夜も他の夜に似ることのなかった多くの恋の夜の思い出を持ち、陣痛にあえぐ女たちの叫びと、産み終えてかろやかに、しろじろとして眠っている女たちの思い出を持たねばならない。しかしまた、死んで行く人々の枕辺にはべり、死んだ人とひとつの部屋にすわって、あけた窓から高くなり低くなりしながらきこえてくる外の物音に耳傾けた経験がなくてはならない。そして思い出を持つだけでも、まだ十分ではない。思い出が多くなれば、それを忘れることもまたできなければならない。忘れられた思い出がいつかふたたび戻ってくる日を、辛抱強く待たねばならない。なんとなれば、思い出はそれだけでは、まだ何物でもないのだ。それがぼくたちの内部で血となり、まなざしとなり、身のこなしとなり、名もないものとなって、もうぼくたち自身と見分けがつかなくなってはじめて、いつかあるきわめてまれな時刻に、ひとつの詩の最初の言葉が、それらの思い出のただなかから立ちあがって、そこから出て行くということが考えられるのだ。(リルケ『マルテの手記』)


(Rilke with Lou Andreas-Salomé (1897) On the balcony of the summer house)


この写真から一年あとの四月、リルケはフィレンツェに滞在して、ルー・アンドレアス・サロメに書簡を送りはじめる。
これからあなたに宛てて日記を書き始めることができるほど、自分が十分に落ち着きを得、成熟の域に達したかどうかーーそういうことはわたくしには一切判らない。ただわたくしは、あなたが、あなたのものとなるこの一冊の本の中で、すくなくともわたくしが内密に、秘密に書きとめるものを通して、わたくしの告白をうけて下さらないうちは、いつまでもわたくしのよろこびは自分に縁の遠い、孤独のままでとどまるだろうということを感じるばかりである。それで、わたくしは書き始める。そして、かつて、あなたこそわたくしが優しい願いで自分を準備したその成就であることをまた知らずに、そこはかとない同じ郷愁にかられていたその日々をまる一年の歳月が隔てる今日この頃になって、わたくしの欲望のあかしをすることができる萌しが出て来たことを、わたくしは、喜んで承認するのである。(『フィレンツェだより』1898.4.15)

この『フィレンツェだより』の「あとがき」には、訳者森有正の「リルケのレゾナンス」という文が附されている。

こうして私はリルケの刻印を受けた。それは私自身のある姿でもあった。私の歩みがどういうものであるか、それは「バビロンの流れのほとりにて」の中に私は誌した。私は、リルケのではなく、私の歩みを続ける外はなかった。私のうけた刻印は、私の歩みに従って、苦痛や歓喜や感動や、さまざまの反応を起した。私はそれに耐えて行く外はなかった。(……)

そのようなわけで、リルケは、殆ど対蹠的に見えるアランと共に、ヨーロッパにおける私の生活と仕事との二本の支柱のようなものとなった。そしてこの二人によって代表される二つの思想傾向が本当は異質のものではない、ということを、長い時間をかけて読んだプルーストは私に教えてくれた。(森有正「リルケのレゾナンス」)

いま、わたくしの手元には『バビロンの流れのほとりにて』と、エッセイー集二冊、それにリルケの『フィレンツェだより』だけしかない。


◆J.S. Bach - BWV 653 - バビロンの流れのほとりにて





森有正は、パリ滞在では先輩格にあたる彫刻家高田博厚から次のような不評のことばをも貰っているし、製本家栃折久美子との奇妙な恋愛などもある(「四足の靴を抱えて、小間使いのように扱われている栃折さん」『森有正先生のこと』)。

〈世渡り〉の面で彼には矛盾を感ぜず、一見不器用そうなのに、むしろ得意になる点があるのを私は以前から見ていた。結局、有正は孤独な魂の所有者ではなかったのか?しかし、彼は私にはそういう点は一切見せず、パリの日本学生会館館長に二期もなり、その上、パリ日本人会会長になろうと奔走したことも言わなかった。(高田博厚「回想」『森有正全集7』、月報)

森有正はそのエッセイ「木々は光を浴びて」(1972年)で、フランス人女性の言葉として「3発目の原爆が落とされるのも日本だと思う」と書いた。この言葉を大江健三郎はエッセイで何度か引用してきた。少し調べてみると、森有正の文はこのような消息があるらしい。

新聞の随筆に話を戻すと、大江は森に尋ねたいことがあった。それは森の「木々は光を浴びて」において、森とフランス人女性の話についてである。インタビューをうまくすすめるために、大江は前もってその質問を森へレジュメで送っていた。森とフランス人女性との間で日本についての会話がなされる。日本をよく知るフランス人女性は独り言のように「3発目の原爆が落とされるのも日本だと思う」と言葉にする。それを聞いた森はそのことばに全く反駁する気持ちが起きなかったという。「胸を掻きむしられるような思い」であったという。

この逸話について大江はその後、そのフランス人女性と森との間にどんな対話があったのか、という質問を持っていた。

日本滞在時、ICUのチャペルで森は朝パイプオルガンを弾くことが日課であった。その日は重い感じのするバッハの単調の前奏曲とフーガを何度も運指の練習を弾いていたと大江は記している。

結局、そのあと朝食を共にするという約束を森が違えて、裏口から森は出て行ってしまう。

その日の夜に大江に速達が届き、①フランス人女性に人種的差別感を持たないでほしい ②あの件はもともと自分の思いついたことであったが、そのままの表現にすることに編集者が抵抗して、そのアドバイスに森自身が乗ったことが書かれていたとのことだ。(森有正と大江健三郎

◆BWV 564 Adagio





森有正の『バビロンの流れのほとりにて』は、性愛、その官能とエゴイズムが、哲学的あるいは芸術的の仮装の衣の下に生生しく蠢いており、十代の少年がなによりも魅了されたのは、女を感覚的に愛し、「ヤリマクレ」との御達し(?)を読んだせいでもあるだろう。たかだか萎びて抑圧された生涯を送ったに違いない大学教師たちが、森有正の哲学的な書き物のすくなさに驚く辻邦生を「かまとと」と嘲笑しても、それは彼らの「かまとと」ぶりを露くだけだ。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(……)

恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ(……)

ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…(ソレルス『女たち』)

◆森有正『バビロンの流れのほとりにて』
青いブルーズを来たアルジェリアの男が三人(……)かれらの体全体は気安さと、そこはかとないかなしみを表している。削げたようにやせこけた体、日に焼けた皺の多い皮膚、黒目がちの鈍い眼はどこを見ているのか判らない。かれらの体全体は、再びかえらぬ時、あるいは、花咲くことなく朽ち枯れてゆくと時の嘆きを発散している。(……)僕はこういうアルジェリア人を見るのが大すきだ。かれらは思想をもっていない、精神さえもっていないのかも知れない。かれらは輝く太陽の降り注ぐ、まっ青な地中海に切り立つイベリアやアフリカ、あるいはコルシカの岩壁に生えている香り高いジュネヴリやミルトの潅木のようだ。(……)かれらを見ていると一種のノスタルジー、感覚のノスタルジーが湧いてくる。それはかくされていて表面には出ていないが、恋というものをする宿命をもった人間の淡い本能的な憧れの一つの極限をなしている。かれらの恋は感覚の興奮と同じ長さの持続性しと同じ程度の強度しかもたない。激しく短いこと、そして次第に衰えてゆくこと、これがかれらの恋の姿だ。マイヨ門の白じらとして広場を背景にしたかれらの影絵姿は、鉄の柵にもたれたまま、じっとしている。それは感覚と神経と反射中枢とだけでできた人間だ。愛情も歓喜も悲哀も、この反射組織を、ダンスと女と音楽と食物と咲けとに結びつける機能にすぎない。かれらにとって賭は、思考の作用ではなく、かれら自身の存在を抽象化してみる本能の動きだ。この透明な人間たちは、人が恋をする時の理想、意識されない理想ではなかったのか。かれらはメトロの硬い鉄柵にもたれて何を待ち何を考えているのか。、愛ということで人が求めているものの、ぎりぎりの、裸の真実、もうそのうしろには何もかくされてはいない。それ自体で全部である愛欲の裸の姿。愛ということは、二つの人間が合わさることだと誰かが言っているが、かれらは女に対して合わさることしか考えない。P10
およそ人間でも、ものごとでも、恋愛関係としてでなければ考えられない型の人間があるものだ。(……)リールケがそうだった、ゴッホがそうだった、ドストエフスキーがそうだった。しかしその人たちの運命は悲劇に充ちている。殆どすべての場合、孤独の中に終るのだ。P16
仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由はすべて嘘だ。中世の人々は神を愛し敬うが故に、あのすばらしい大芸術を作るのに全生涯を費やすことができたのだ。しかし仕事の対象となるこの存在はいったい何なのだろう。何でなければならないのだろう。それでこの人の仕事の質が決定してくるのだ。実に恐ろしい問題だ。僕はたえずこの問題を考えている。P43
ミケランジェロの彫刻の肌は、実に深く、またこまかく、それが生れたトスカナの柔らかい空気を思わせる。パリやシャルトルやランスのカテドラルの肌がイール・ド・フランスの豊かな自然を思わせる様に。しかしここに否定することのできないことがある。それはこの宇宙的、あるいは全人生的なミケランジェロの芸術は、我々に一つのノルムを提供しているということだ。その作品の前に我々の存在の全機能は吟味されてしまう。これは実に辛く、苦しい道だ。その中で自己を破壊しないようにしつつ、この吟味に耐えてゆかねばならない。バッハ、ドストエフスキーに出会ってこの方、僕ははじめて、ここに三度目に僕の全存在を上げて向う対象に出あったという感じがする。(……)自分をどこまでもどこまでも引きずりこむ、底の知れない程深い対象にゆき会うということは人生の最大のよろこびの一つである。しかもそれは同時に最大の責任の一つなのだ。僕がこの吟味を通りこすことができるかどうか、その重みに耐え切れるかどうか。いまや一切はそこにかかっている。P45-46
ありのままの人間をぎりぎりに追いつめて見た時、それは一つの享楽の意志をもった肉体の塊以上のものだろうか。(……)本当の享楽は、自分と同じように意志をもった他の肉体と相互の享楽関係に入ることではないだろうか。これは議論ではなくて事実だ。P61
人は、愛の対象となる人は、その相手の自分に対する愛が利己的であるばあるほど満足を覚えるのではないだろうか、愛は徹底的にエゴイスティックになった時、はじめて相手を満足させるのではないだろうか、。そうに相違ない。僕は殆どすべての友人を喪ってしまった。しかしそれはそれでよい、僕は後悔しない。そんなことは人間の本当の価値とは何の関係もないことなのだ。P73

《真の女は愛が芽生える瞬間がどのようなものであるかを知っている。女はおびえた心を外へ呼び出そうとする声に抵抗できない。男は自分の声を女の心がこのように意識することに抗うことはできない。真の男は愛の魅力からは逃れられない。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』p185からだがいくらか変更)

フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。(……)

サビナはメランコリックな黙想を続けた。(……)
「で、なぜときにはその力を私にふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(同p131-132)
真の愛とは一人の男あるいは一人の女をその自我から引きはなす、そういう愛である。そして他の者の意志がそれにとってかわるのである。愛の行為とは相手をその自我から引きはなし、それを吸収することである。つまり、相手にとってかわるのである。相手は己れから決定的に引き離されてしまうのである。究極の行為はだから暴力である。しかしそれは、同意し同意された暴力だ。僕は何も、肉体に基づく行為のことを言っているのではない。ただ愛のもつ意義について語っているのである。(森有正『語彙集』

森有正はラカン、あるいはラカン派の言説は読んでいないはずだが、ここでは原初の「母」なるものとの共生symbiosis、享楽の愛が語られているとしてよいだろう。クンデラのいう女の「不安」は享楽の条件であるエゴの消滅の深淵を覗く瞬間を表している。だがほとんどの男はそんなものからは逃げ出し、ファリックな快楽に耽るのみなのだ。だが、そこにはエロスではなくタナトス、Tristis post Coitum(性交後の悲しみ)しかない。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。
                                    
――西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より


◆THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE(Paul Verhaeghe)
woman, jouissance and anxiety are part of Eros; man, phallic pleasure and sadness are part of Thanatos. The affect indicates the break where pleasure results in too great a loss: anxiety relates to the disappearance of the ego that is a condition for jouissance. Sadness relates to the loss of symbiosis as a result of phallic pleasure. In this respect, the opposition between man and woman is extremely relative and should be interpreted more as an active versus a passive position, which any subject can adopt vis-a-vis the other. This explains why sexuality, no matter how satisfying it may be, always contains the seeds of dissatisfaction—the pleasure of one direction detracts from that of the other tendency. Freud anticipated this when he wrote in 1896 that sexuality itself contained a source of displeasure. The two directions are clearly sex-related. Eros and jouissance belong on the side of the woman, Thanatos and phallic pleasure on the side of the man. Each has within itself the potential, or even the aspiration, for the other. The female orgasm is also phallic—she is even multi-orgasmic. However, she needs it less and does not feel it to be essential. Sometimes it can even diminish her potential for gaining pleasure from the other, the lasting aspect of symbiosis in which the original bond is restored. The man is all too familiar with jouissance and is constantly seeking it, though he also flees from it in the short-circuiting of his phallic pleasure, because this other enjoyment turns him into an object without a will, part of a larger whole.




2013年11月23日土曜日

一片欣々たる皇室尊崇の念(森鷗外)


断腸亭日乗 大正七年戊午 荷風歳四十

正月廿四日。鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。

荷風の日記には、鴎外にたいして殆ど崇拝の念を感じさせる記述ばかりが目立つが、上の文はその稀な例外である。

もっとも鴎外は、この大正七年前後、完全に執筆活動をやめていたわけではなく、遅々として進まぬながら『北條霞亭』を書いていたようだ。

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

この作品の完結にかくも長い期間を要したのは、世間がこの作品を喜ばなかったからである。最初この作品の連載を載せた新聞(東京日日新聞)は、開始後二か月で連載を中止した。本編165回分のうち57回分を終えたところだった。1年以上の中断を経て今度は雑誌(帝国文学)に続編を発表したが、これも遅々として進まず、大正9年1月には雑誌社そのものが廃刊してしまう。最後に連載を引き受けた「あららぎ」は創刊したばかりで、創始者の齋藤茂吉は鴎外に尊敬の念を抱いていたから、いわばご祝儀のようなつもりだったのだろう。連載中作品そのものが世間の話題を呼ぶことは殆どなかった。(森鴎外「北條霞亭」:文化文政時代の精神を描く

《大正5年(1916)1月13日から鴎外「渋江抽斎」を「東京日日新聞(毎日新聞)」に連載開始。同年、3月28日、鴎外の母死す。その1ヶ月後、「渋江抽斎」完結。それから10日もたたぬうちに漱石が「明暗」を「朝日新聞」に連載開始。その年、12月9日、漱石死す(50才)。鷗外(55才)も漱石の葬儀には参列している。

鷗外と漱石は、お互いに「見た」ことはあるが交流はなかった。

「実際には漱石は鴎外が同時代の小説家の中でただ一人尊敬していた人です。尊敬というか、好敵手と見ていた人です。」

鷗外の「ヰタ・セクスアリス」には、「夏目金之助君が小説を書き出した、金井君(主人公の鴎外)は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。」》(鴎外と漱石 江藤淳 要約


ーー漱石の「朝日新聞」における新聞小説の人気に対抗するようにして、鴎外は「

東京日日新聞」で執筆することになったのだろうが、最初の歴史物『渋江抽斎』はまだしも、その後、だんだんと読まれなくなったということなのだろう。

鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』P93)


柄谷行人は鷗外と漱石の共通性を言うが、漱石は「心理的なもの」をその新聞小説では書き、鷗外が「非心理的な」歴史物を書いて、公衆に受けが悪かったということは言いうるのではないか。そして、もし鷗外が「諸関係の総体」としての人物を書いたのなら、今、鷗外の新しさはそこにあるともいえる。

なぜなら、人工知能のパイオニアのミンスキーの、「心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるが、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ」やら、あるいはヒュームの、「自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ」とする「解離」「多重人格」としての「自己」を描いた、つまり「自閉症」と並び、現在、注目される課題のひとつでもある「自己」のあり方を書いた、ということになるわけだから。

精神医学の領域では、解離というメカニズムが、現代的な主体においては、抑圧よりもよく見られる防衛システムとして捉えられる傾向にある(座談会「来るべき精神分析のために」 十川幸司発言

実際、鷗外の叙す抽斎は、抽斎自身が解離的だとはどうみても読めないが、「解離的な」友人たちに翻弄・困惑されながらもその頓才・奇才を愛したひとのようには読める。ーー《人と交るには、その長を取って、その短を咎めぬが好い》(『渋江抽斎』)


ところで、冒頭の荷風の日記が書かれた大正七年とは米騒動の年であり、鴎外は当時の社会の激動に無關心で、歴史物を書くのに専念していた、という批判もあるようだ。


荷風の大正七年の日記には、「既に切迫し来れるの感」とあり、翌年には「朝鮮人盛に独立運動をなし」あるいは「新聞紙連日支那人排日運動の事を報ず」などとあり、文人趣味を横溢させる荷風にも、社会的な動乱への関心があるのが知れる。



わたくしは、鴎外の『渋江抽斎』は四五度は読んでいるが、『伊沢蘭軒』はどうもいけない(わたくしには漢文が多過ぎる)。『北条霞亭』は掠ったこともない。青空文庫にもない。が、いまインターネット上をみると、横書きにて打ち込んだものがあるようだ。

ここでは読んでいない小説のことをとやかく言わずに、またすでに多く語られた『渋江抽斎』の感想などを記すことも遠慮し、緒家の『抽斎』賛を掲げておこう。

大正十二年歳次 葵亥 荷風年四十五

五月十七日。 曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜森先生の『渋江抽斎伝』を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細 密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の妙あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頑(けつかう)す ることを得べし。

『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。(……)『抽斎』と『霞亭』と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしは信用しない。(……)では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える。『抽斎』第一だと。(石川淳「鷗外覚書」)
出来上がった作品としては「蘭軒」は「抽斎」に及ばない。うっとりした部分、遣瀬ない部分、眼が見えなくなった部分、心さびしい部分をもって、しかも「抽斎」はその弱いところから崩れ出して行かない世界像を築いている。いわば、作者のうつくしい逆上がこの世界を成就したのであろう。そういううつくしい逆上の代わりに今「蘭軒」には沈静がある。世界像が築かれるに至らないとしても、蘭軒という人間像をめぐって整理された素材の粛粛たる行列がある。(石川淳『森鴎外』)


丸谷才一は、『霞亭』ではなく、『抽斎』と『蘭軒』派のようだ。

日本の近代文学で誰が偉い作家かといえば、夏目漱石と谷崎潤一郎、そして森鷗外の3人だと相場はほぼ決まっています。戦前の文壇筋では、谷崎はともかく、漱石や鴎外を褒めるのは素人で、一番偉いのは志賀直哉だと評価が定まっていましたが、ここにきてやっと妥当なところに落ちつきました。

一般的に漱石や谷崎の作品はよく読まれているはずなので、あらためて触れる必要はないでしょう。問題なのは森鴎外です。だいたい、鴎外の小説は美談主義でたいしたことはない。それでも、国語の教科書で『高瀬舟』なんかを無理矢理読まされるものだから、みんなうんざりしてしまう。そもそも教科書にはつまらないものが載るので、教師の教え方も下手に決まっているから、印象が悪くなるのは当たり前。鴎外の作品で本当に価値があるのは、晩年の50代に書いた3つの伝記なのです。

その3作とは、書かれた順に『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』。いずれも江戸後期の医官でたいへんな読書家だった。鷗外は古本屋で彼らが売った本に出合い、「いったいどんな人がこれほど立派な蔵書を持っていたのだろう」と好奇心を抱いて探り出す。そこから話が始まります。(……)

先に挙げた3作の中では、僕は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』がいいと思う。この2作品は近代日本文学の最高峰といえるでしょう。なぜそれほど素晴らしいのか。この2作は続けて書かれたものですが、謎解きの構造がたいへん大仕掛けになっていて、『伊沢蘭軒』の中で、前作で解決されなかった謎がすっかり解けるのです。(文壇の重鎮 丸谷才一が語る「不朽の名作」

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鷗外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。

作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

《刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。

五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。

五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。

熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。》(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。(加藤周一著「『渋江抽斎』について」)


『渋江抽斎』賛ではないが、三島由紀夫の鷗外賛。

鴎外とは何か?(……)

鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創りあげてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。(三島由紀夫「作家論」―森鷗外)

…………



◆「史伝に見られる森鴎外の歴史観」(古賀勝次郎)より

鴎外は、「わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者」云々としている(『伊沢蘭軒』)。この学者とは和辻哲郎である。

私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)


漱石派/鴎外派の対立ということもあるのだろう。

森先生の歴史小説は、その心理観察の鋭さと、描写の簡素と、文体の晴朗とで以て、われわれを驚嘆せしめる。例へば、『寒山捨得』では、……俗人の心理や真の宗教的心境の暗示や人間の楽天的な無知などが、いかにも楽々と、急所急所を抑へて描いてあるのに感服した。しかし私は何となく、本質へ迫る力の薄さを感じないではゐられない。先生の人格はあらゆる行に沁み出てるるが、それは理想の情熱に燃えてない、傍観者らしい、あくまで頭の理解で押し通さうとする人格のやうに思はれる。そこへ行くと夏目先生は、口では徹底欲を笑ふやうなことをいってゐるが、真実は烈しい理想の情熱で、力限り最後の扉を押し開けようとしてゐる。夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてゐる問題である。あくまで心の理解で貫かうとする欲求も見える(同和辻)
ーー和辻は、「夏目先生の長所と森先生の短所との比較」としているが、これは己れの文の、鴎外批判(吟味)と漱石顕揚の対照の甚だしいことを韜晦する為につけ加えた但し書きに過ぎないだろう。



◆鴎外文学に対する三つの視点(井村紹快)より

この人たち(谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、等)ををさきの二人(漱石、鴎外) の人に比べてみると、大きい小さい、うまい・まずいということとは別に、今日のこの人たちが、すくなくともあの二人と同じ意味で偉大だとは義理にもいえないと思うということが自然に出てくる。(中野重治「漱石と鴎外との位置と役割」)
しかしそこに、古いものに対する鴎外の屈伏、あるいは妥協ということも私はあったと思います。必ずしも家族制度と限る必要はありません。家庭生活、官吏生活、それから政治生活、すべてを貫いて結局のところ鴎外は、古いものに屈伏しています。従順にそれに従っています。生涯をつらぬいて鴎外は、古いものを守ろうとする立場を守っています。むろんそこに、いろいろの、またなかなかはげしい内部衝突かおりますが、この衝突を、行きつくところまで行きつかせることを鴎外はしません・(中野重治「鴎外位置づけのために」)
そこで、鴎外で目立つ第二の問題ですが、それは、古い権威を維持するため彼がいかにも奮闘しているということだと思います。これは、話が多少面倒になりますが、森茉莉さんの言葉をかりれば、鴎外の思想の根底に『一片耿々たる皇室尊崇の念が確乎として存在』したということに関係があります。やはり必ずしも、皇室とか天皇とかいうものには限りませんが、徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になって再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため、鴎外がいかに奮闘したか、いかに五人前も八人前も働いたかという問題であります。

このことでは、鴎外はさまざまの改革をもやっています。宮内省ないし帝室博物館の問題、陸軍軍医団の編成の問題、東京医学会ないし日本医学会の組織の問題、政府の文芸政策ないし芸術作品にたいする検閲の問題、革命運動にたいする弾圧政策の問題、こういう問題で、鴎外は、広い知識と高い見識とを働かして、なかなか立派な意見を出し、またそれが実行されるよう舞台裏で事を運んでいます。文部次官に手紙をかく。山県有朋に特別に会って話をする。そういうことをやり、またそのため、人と衝突したり、陸軍次官から叱られたりなどもしています。では何のために鴎外がそれほど働いたか。日本の民主化をおさえるため、日本の民主主義革命にブレーキをかけようとして五人前も八人前も仕事をしています。民主主義革命への日本内部の動きと活力、それをおさえるには、上からの力をふんだんに強め、不断に新しくせねばなりまぜん。この上からの力を、粗末なものから精密なものに、低級なものから高級なものに改めて行かねばなりませんが、この支配する力を思想的哲学的に裏づけ高めること、ここに鴎外の五人前も八人前もの力が発揮されたということ、これが第二の問題、また非常に大事な問題だと私は考えます。(中野重治「鴎外位置づけのために」)
労働者階級の成長を明らかに勘定に入れて、さまざまの社会政策を改良主義的に考え、その結果、改良主義から天皇制社会主義( ? )へ行き、排外・全体主義の極右政策に出ようとした一人の人によって近代日本文学が最も高く代表されているという事実、これを日本の労働者階級とその文学的選手団とから隠そうとするのはよくないことであって悪いことである。(「鴎外と自然主義との関係の一面」)
天皇を天皇制の中心として残そうという試みと、同時に天皇をいくらかでも人間的ものとしようという試みとの、分かり切つた空しい統一のための鴎外の努力は、今となっては同情をもって眺められるべきものかも知れない。ここでも古い意味での『忠義』という言葉をつかえば、鴎外は、明治・大正の全期間を通じて、その『忠義』のために金、位、爵位などを得たすべての人よりももっと純粋な意味で『忠義』であったとも言えよう。これは、強かった鴎外の弱点としての美点であった。(「小説十二篇について」)

ここに書かれる鴎外の態度は、いろいろ語られ過ぎた三島由紀夫の天皇にたいする態度と同じものというつもりはないが、すくなくとも「春の雪」の月修寺門跡の態度と驚くほど似通っている。

あの朝、聰子からすべてを聴かされたとき、門跡は聰子を得度させるほかには道がないことを即座にさとられた。宮門跡の傳統ある寺を預る身として、何よりお上を大切に思はれる門跡は、かうして一時的にはお上に逆らふやうな成行になつても、それ以外にお上をお護りする法はないと思ひ定め、聰子を強つて御附弟に申し受けたのである。

お上をあざむき奉るやうな企てを知つて、それを放置することは門跡にはできなかつた。美々しく飾り立てられた不忠を知つて、それを看過することはできなかつた。

かうして、ふだんはあれほどつつしみ深くなよやかな老門跡が、威武も屈することのできない覺悟を固められた。現世のすべてを敵に廻し、お上の神聖を默ってお護りするために、お上の命にさへ逆らふ決心をされたのである。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻 319-320頁)



◆「大岡昇平『堺港攘夷始末』論 : 単一の「物語」への回収を拒否する歴史」(尾添陽平)より

大岡の『堺事件』批判は、大岡自身によつて以下のようにまとめられている。

・全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨で、歴史小説の方法として疑間がある。

・一方には無法な洋夷としてのフランス人がおり、他方これを排除せんと決意し、皇国意識に目醒めた土佐藩士がいる。彼等は洋夷の圧力によって切腹しなければならなかったが、正にその切腹によって洋夷を遁走せしめた。洋夷に対して謝罪はしないが、切腹の場に臨み、無言のうちに、彼等の不幸を見守る、天皇家があった。封建的土佐藩は助命された九士を流罪にしたが、天皇制は幼帝即位を機に特赦する仁慈と権威を持っている。鴎外が捏造したこの構図ほど山県体制に役立つものはなかったであろう。(大岡昇平「『堺事件』の構図――森鴎外における切盛と捏造――」)


吉田熙生は、大岡の『堺事件』批判の動機を、「『レイテ戦記』の執筆と完成にあった」と指摘、『「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる」「兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだつた」と述べている。大岡は、『レイテ戦記』のあとがきにおいて「旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣」があった、と述べる。大岡は、旧軍人たちによるレイテ戦の記述が、レイテ戦を美化する「物語」を立ち上げ、レイテ戦を、その「物語」の構図に回収する記述であることを批判している。そして『堺事件』が、旧軍人たちによって記されたレイテ戦と同様に「全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨」であり、『堺事件』の歴史記述は、無法な洋夷としてのフランス人」を「皇国意識に目醒めた土佐藩士」が、「切腹」という命を代償にした行為によって遁走せしめ、天皇家は、「切腹」した土佐藩士の「不幸を見守」り、「助命された」土佐藩士を「特赦する仁慈と権威を持っている」〉という殉国の「物語」を立ち上げ、堺事件を、その「物語」の構図に回収する記述である、と批判するのである。


…………

戦後以降も、作家、芸術家批判というものがくり返されてきた。彼らがその「現在」、政治にいかにかかわっているか、あるいは体制批判の有無が、鴎外への批判と同じようなものを生む。美学的にいかにすぐれていようと、そのひとの体制へのかかわり方によって「凡俗」という評言が与えられる場合がある。ましてや思想家、批評家ならいっそうのこと。

中野重治や大岡昇平の批判は、本質的なことにかかわっている。そして中野や大岡の指摘する側面からいえば、最も鴎外のその態度に批判的であるべきはずの加藤周一(戦後体制が旧体制からの継続であるのを激しく批判する加藤)が、中野重治や大岡昇平の論点を外してひたすら鴎外顕揚の立場であるのは、加藤周一の「弱さ」、すくなくともある側面に於いて美学的過ぎることによる「脇の甘さ」をみるべきか、それとも別の見方をしていたのかは知るところではない。

いずれにせよ「さらば川端康成」を書いた加藤周一だが、鴎外にたいしては絶賛で終始した。

……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。(加藤周一「さらば川端康成」)

もっとも加藤周一の『日本文学史序説』の文脈からいえば、近代の文人として鴎外が至高の位置を占めるのは、止む得ない。

あるいはまた、《漢文学は国学者のプロテストにもかかわらず、日本の文学の正統であった。吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立したのである(「初期歌謡論」)。花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学による「意識」において存在しえたのだ。古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。》(柄谷行人『日本近代文学の起源』)であるのだから、柄谷行人の文脈からいっても漱石・鴎外が顕揚されることになる。そして柄谷行人は、明らかに和辻、中野、大岡と同じように漱石派である。

柄谷行人が鴎外ではなく、漱石をとるのは、和辻が書くように《夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてみる問題》であるからであり、それは「心的外傷」(トラウマ)にかかわるからといってもいい。
漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(『日本近代文学の起源』)

加藤周一の『日本文学史序説』からいくらか引用しよう。

・比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである。

・散文家としての日蓮は、一種の天才であった。その散文には、舌鋒火を吐く激しい気性がよくあらわれている。気性と信念。論戦的な日本語の散文は、早くも13世紀に、日蓮において、殊にその若干の消息文において、ほとんど最高の水準に達していた。

・(道元の)『正法眼蔵』の文章は、13世紀日本語散文の傑作の一つである。

・散文家としての(新井)白石の面目は、『藩翰譜』にみることができる。(……)けだし『藩翰譜』は、元禄期前後の、またおそらくは徳川時代を通じての日本語散文文学の傑作の一つであろう。(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーこの流れから、「文人」としての鴎外・荷風・石川淳が顕揚されることになる。

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(同『日本文学史序説』)

もっとも永井荷風や石川淳が、《哲学の役割まで文学が代行》した作家であるかどうかは議論の余地が大いにあるだろう。ただし、二〇世紀前半までの日本において、《哲学の役割まで文学が代行》したのは、否定しがたい説ではないだろうか。

そして二〇世紀後半のある時期からの文学の衰退により、いささか断定的すぎる嫌いもないではない柄谷行人の絶望の嘆きが生れることになる。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(『近代文学の終り』柄谷行人)

…………

さてここで、《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》とする大岡昇平の、たとえば《旧職業軍人》に別の言葉を代入すれば、、2011年春以降ことさら《怠慢と粉飾された物語》に汚染されているのが瞭然としているにもかかわらず、それに憤懣・苛立ちを垣間見せさえしない作家や芸術家たちーー、思想家、批評家はもちろんのことーー、彼らに対して、いかに小粒で歪んだ「鴎外」でしかないひとが多いだろうか、などといまさらもっともらしく嘆くふりをするつもりはない、ーーと書くのは、いささか「逆言法」であるのが以下に示される。

芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

この「芸術家」は「知識人」でもある。そして仮に批判的な言葉を呟こうしても、制度は、権力は、すでにその言葉を取り込む「装置」としてある。

われわれは、ここで、いわゆる第二帝政期が、それに批判的であろうとする姿勢そのものが規格化された言葉しか生み落とさないという悪循環を萌芽的に含んだ一時期であると認めざるをえまい。それは、いわゆる知識人や芸術家たちを積極的にとりこむ力学的な装置のようなものだ。顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序なのだといいかえてもよい。というのも、知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。(同)

このことが、「装置の罠」といわれるものなのだ。

酒井直樹の「共感の共同体批判」に対し、『思想としての3.11』(河出書房新社)において、小泉義之が、「この類の批判は正当で必須であるにしても」(『思想としての3.11』124頁)と前置いたうえで、「共感の共同体への批判と原発産業や政府機関への批判とがワンセットになる構図こそが何度も繰り返されてきたことであって、そこにこそ何か得体のしれない罠が仕掛けられているという気がする」(東日本大震災、福島原発事故における言説の諸関係について

…………

しかし制度の力学的装置の罠に陥らないようにしつつ、次のようでなければならないのは間違いない(美学者や自己愛者を除いて?ーーとしたらそんな人間は存在するだろうか)。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

鴎外は比較的後年の随筆「沈黙の塔」で次のように書いていることをも付け加えておこう。
芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。(……)学問も因襲を破って進んで行く。一国の一時代の風尚に肘を掣せられていては、学問は死ぬる。