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2013年10月19日土曜日

生まれる光や消えゆく光に向けられた無目的の歌

◆メシアンMessiaen on Birds



するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ




鳥の目は邪悪そのもの
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は破壊するが建設しない
彼は再創造するが創造しない
彼は断片 断片のなかの断片
彼には気嚢はあるが空虚な心はない
彼の目と舌は邪悪そのものだが彼は邪悪ではない
燃えろ 鳥
燃えろ鳥 あらゆる鳥
燃えろ 鳥 小動物 あらゆる小動物
燃えろ 死と生殖
燃えろ 死と生殖の道
燃えろ 

言葉のない世界」より/ 田村隆一


<黒ツグミ le merle noir (1951)>



クロード・サミュエル(C・S)ーオリヴィエ・メシアンさんの前で《鳥》という言葉を口にすると、その顔が明るくなります。これは音楽家としての反応だけではない。人間としての反応でもあります。つまり、オリヴィエ・メシアンさん、鳥があなたの音楽語法中でかくも大きな地位を占めているということは、それはなによりもまず、あなたが自然を愛しておられるからなのでしょう。


[O・M]ー確かにそうです。芸術的な順位からいって、鳥類はわれわれの遊星上に存在するおそらく最大の音楽家です。(中略)しかしあらゆる驚異の中で最大のもの、作曲家にとって最も貴重なものはいうまでもなく、その歌です。鳥の歌はまことに驚くべきもので、もしよろしければ鳥の歌の動因を検討してみたいと思います。


異様に思われるかも知れませんが、鳥の歌というものは何よりもまず領土的な側面をもっているものです。すなわち、鳥は自分の小枝や食べものを防衛したり、雌や巣や小枝や、あるいは自分が糧を得る地域の所有者であることを確保するために歌うのです。事実、領域の所有権に関する鳥どうしの争いはしばしば歌合戦で解決されるので、侵入者が自分の領域でないところを不当に占領しようとすると、本当の所有権者は歌って、非常によく歌うと侵入者は逃げていってしまうのです。


C・S-「タンホイザー」の第二幕みたいですね!


O・M-そう。しかしワグナアが予見しなかったような逆の場合もあります。つまり、もし盗人のほうが本当の領有者よりも上手に歌った場合には、領主は彼に場を譲るのです。人間どうしの場合も、こういう魅力的な方法で争いを解決したほうがよいのではないでしょうか。


鳥が歌う第二の動向はいうまでもなく性愛の衝動によるもので、鳥が愛の季節である春になかんずく歌うのはそのためです。歌はー若干の例外を除きー原則として、雌を誘惑しようとして歌う雄の特性です。他の性愛的誇示行為、たとえば婚姻のパレード。


しかし第三の種類の歌もあり、これは全く讃嘆すべきもので、何の目的も社会的機能ももたない歌であって、ふつう生まれてくる光と消えゆく光によって誘発されるものです。たとえば私はジュラ地方で特別に有能な≪ウタツグミgrive musicienne≫を見ましたが、その歌は、日没が赤や紫の素晴らしい光彩で非常に美しかった時など全く天才的なものでした。しかし色がそれほど美しくなかったり日没が短かったりしたとき、この鶫は歌わなかったり、歌ってもそれほど興味のない主題で歌うだけでした。


最後に、鳥類が発する音楽的な音で、鳥類学者が≪歌≫としてではなく≪呼び≫という題で分類するものについてもお話しなければなりません。こういった「呼び」は真の音楽的言語を形づくっていて、ここでわれわれは、指導動機(ライトモチーフ)という方法による音楽的符号で想念を表現しようとしたワグナアの感動的な探求を想起せずにはいられません。事実、鳥たちは、容易に識別できる明確な意味をもった「呼び」でできた会話をするもので、たとえば、愛への呼びや食物への呼びや警報の叫びなどがあります。警報の叫びは非常に重要なもので、切迫した危険を告げるためどんな種類の鳥がこの叫びをあげようと、すべての鳥がこれを理解できるのです。


以上、鳥たちの発声の種々のカテゴリーを要約するとこういうことになりますー一方に社会的コミュニケーションの手段として「呼び」があり、他方に本来の意味の歌があり、これには領土的なもの、誘惑の歌、そしてすべての中で一番美しいものとして、生まれる光や消えゆく光に向けられた無目的の歌があるということになります。 (『現代音楽を語る オリヴィエ・メシアンとの対話』クロード・サミュエル著 戸田邦雄訳 芸術現代社 昭和50年)


 世の終りのための四重奏曲(1941): Quatuor pour la Fin du Temps

ーー直訳すれば、「時の終りのための」だろう。

<鳥たちの深淵 Abîme des oiseaux>



地上の星 (瀧口修造)


鳥、千の鳥たちは
眼を閉じ眼をひらく
鳥たちは
樹木のあいだにくるしむ。

真紅の鳥と真紅の星は闘い
ぼくの皮膚を傷つける
ぼくの声は裂けるだろう
ぼくは発狂する
ぼくは熟睡する。

鳥の卵に孵った蝶のように
ぼくは土の上に虹を書く
脈搏が星から聴こえるように
ぼくは恋人の胸に頬を埋める。

 Ⅱ
耳のなかの空の
ぼくは星の俘虜のように
女の膝に
狂った星を埋めた。

忘れられた星
ぼくはそれを呼ぶことができない
或る晴れた日に
ぼくは女にそれをたずねるだろう
闇のなかから新しい星が
ぼくにそれを約束する。
美しい地球儀の子供のように
女は唇の鏡で
ぼくを ぼくの唇の星を捕える
ぼくたちはすべてを失う
樹がすべてを失うように
星がすべてを失うように
歌がすべてを失うように。

ぼくは左手で詩を書いた
ぼくは雷のように女の上に落ちた。

手の無数の雪が
二人の孤独を
手の無数の噴水が
二人の歓喜を
無限の野のなかで
頬の花束は
船出する。

 Ⅲ
鳥たちはぼくたちをくるしくした
星たちはぼくたちをくるしくした
光のコップたちは転がっていた
盲目の鳥たちは光の網をくぐる
無数の光る毛髪
それは牢獄に似た
白痴の手紙である。

白いフリジアの牢獄は
やがて発火するだろう
そして涙のように
消えるだろう。

 Ⅳ
鳥たちは世界を暖めた
ぼくの下の女は眼を閉じている
ぼくの下の女は眼を閉じている
鳥たちはぼくたちに緑の牧場をもってくる。

彼女の肥えた牡牛のような眼蓋は
こがね色に濡れている
レダのように 聖な白百合のように
彼女の股は空虚である
ぼくはそこに乞食が物を乞うのをさえ見た
あらゆる悪事が浮遊していた
ぼくは純白な円筒形を動かすことができる。
仏陀は死んだ。

 Ⅴ
闇のように青空は刻々に近づく
ぼくは彼女の真珠をひとつひとつ離してゆく
ぼくたちは飛行機のように興奮し
魚のように悲しむ
ぼくたちは地上のひとつの星のように
ひとつである
ぼくの精液は白い鳩のように羽搏く
ぼくは西蔵の寺のように古い詩を書く
そしてそれを八つ裂きにする
ぼくは詩を書く
ぼくは詩を書く
そしてそれを八つ裂きにする
それは赤いバラのように匂った
それはガソリンのように匂った。

氷のように曇った彼女の頬が見える
花のように曇った彼女の陰部が見える
そして鳥たちは永遠に
風のなかに住むだろう
狂った岩石のように。

盲目の鳥たちは光の網を潜る。

…………

<イエスの永遠性への賛歌 Louange à l'Éternité de Jésus>




植物の熱気、おお、光、おお、恵み!…
それからあの蠅たち あの種の蠅ときたら、庭のいちばん奥の段へと、まるで光が歌っているかのように!

(……)

想いだすのは塩、黄いろい乳母が私の眼尻からふきとらねばならなかったあの塩。
黒い妖術師が祭式に際してしかつめらしく宣言していた、<世界は丸木舟のごとし。ぐるぐる廻り廻って、風が笑わんとするか泣かんとするかをもはや知らぬ…>
するとたちまち私の眼は 輝く波にゆられる世界を描こうと努めて、木の幹になめらかな帆柱を認め、葉陰に檣桜をまた帆桁を、蔓草に支檣索を認めるのだった。
そのしげみでは 丈高すぎる花々が
鸚哥(いんこ)の叫びをあげてかっと開くのであった。

ーー「サン=ジョン・ペルス詩集」多田智満子訳


<イエスの不滅性への賛歌 Louange à l'Immortalité de Jésus>




2013年8月3日土曜日

おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫)

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。》(松浦寿輝『クロニクル』)






浮き彫りの飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に坐る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、物語の陰に、おのれのさまざまな仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と改悛のあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと聖性の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。(リッツォス「カヴァフィスにささげる十二詩の一、詩人の部屋」中井久夫訳)


何度か中井久夫訳のカヴァフィス「市」を引用しているのだが、ここでも反復しよう。

「いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。/いつかおれは行くんだ」と。/「あっちのほうがこっちよりよい。/ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?/眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。/ここで何年過したことか。/過した歳月は無駄だった。パアになった。//きみにゃ新しい土地はみつかるまい。/別の海はみあたるまい。/この市はずっとついてまわる。/……/まわりまわってたどりついても/みればまたぞろこの市だ。/他の場所にゆく夢は捨てろ。/きみ用の船はない。道もだ。/この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには/きみの人生は全世界で廃墟になったさ」(カヴァフィス「市」中井久夫訳)


《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。》



「埋葬」といえば、エリオットの『荒地』の第一節の題は、The Burial of the Dead(死者の埋葬)である。

田村隆一は、中桐雅夫訳の『荒地』を引用しつつ次のように謳い呟く(「だるい根」)。

「死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす」

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている


老いてくると、《ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつた》、
あるいは、《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ》、と
むなしい気分に襲われることがあるのさ
そうだな、若かりし頃熱狂した音楽や詩
あるいは女に
だるい根のおぼつかない顫えしかない
そんな刻限

まだだるい根は残っている
ときおり掘りかえして磨耗してしまったひげ根の
かすかな残留のさまを慈くしむため
水撒きしてみることだってあるさ
乾ききっているわけじゃない

驟雨のびっしょりした濡れ具合じゃなくていい
霧雨ほどのかすかな濡れ具合でいい
だるい根の表皮を蔽う鈍重なかさぶたが罅割れて
免疫の薄い年頃のかすり傷から新しいひげ根が芽生える
そんなむなしい願いだってないわけじゃない
老少年が埋葬された少年の屍を掘りかえすため


――この中桐雅夫訳「だるい根」は、西脇順三郎訳では「鈍重な草根」だが、これは前者でなくてはならない、すくなくともこの「老少年」にとっては。

「かなしみ」 谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

…………

ところで、中井久夫にはエリオットの詩句の次のような訳がある。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264


この中井久夫が「超訳」するエリオットの詩句は、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実 には堪えられない」とでもされるところだ。この詩句は『四つの四重奏』からくるのだろうが、エリオットの原詩では、“Go, go, go, said the bird: human kindCannot bear very much reality.”であり、いささかの相違がある。だが、中井久夫の引用するそのままの詩句あるいはフレーズは、エリオットのほかの詩や論のなかにはみつからず、おそらく、少年時から多くの詩の暗唱の習慣があるとしている中井氏が、その暗唱の記憶で書かれているのだろうと推測する。

ちなみに、バードン・ノートンの第二節には”Protects mankind from heaven and damnationWhich flesh cannot endure.”endureの語が出てくる。


あるいは『四つの四重奏』の「エピグラフ」(ヘラクレトスの英訳)は次の如し。
"Although logos is common to all, most people live
as if they had a wisdom of their own."
"The way upward and the way downward are the same."
Heraclitus

”most people live as if they had a wisdom of their own.”は、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである》と訳せないこともないだろう。


…………


《ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?》


この箇所のギリシャ語原詩は次の通り。






下線部の、中井訳では「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。」の箇所は、


And my heart is—like a corse--buried (代表的な英訳とされるKeeleySherrard

Mon cceur est enseveli comme un mort (ユルスナール仏訳)

などであり、もし直訳すれば「私の心はーー死体のようにーー埋葬されている。」となるらしい。


この箇所を、各国の十一もの翻訳を引用して比較されている中村幸一という方がおられる(「おれの心はムクロ。」――中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』における翻訳技法の研究

この部分の眼目は何といっても、(……)「死体のように」という煮え切らない明喩を、「おれの心はムクロ。」と吐き捨てるような片仮名表記で、ピリオドを打ち、暗喩に転換したことに尽きる、(……)中井訳の、ここまで思い切った、しかも作者の心奥に肉薄し、それに対応する表現を再構成して提示するのは、翻訳というより、詩作それ自体と変わらないであろう。普通の文学研究者に、これはできないのではないだろうか。目に見えない心理を把握し、言語化する精神科医の力はあまりにも大きいことを思い知らされる。


精神科医であることが強調され過ぎているきらいがないでもないが、中村氏のいう通り稀にみる訳であるには相違ない。

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。》(中井久夫『治療文化論』)

しかし、文学研究者のなかにも、「精神科医」のようにしてテクストを読む人たちが、仮に稀にせよ、いるのではないか。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?

私たちは星座をみるのではない。星座はコンヴェンションだ。むしろ、新しい星のつながりのための補助線を引く。いやむしろ、暗黒星雲を探し求める。語られないことば、空白域の推論である。資料がなければ禁欲する歴史家と、そこが違う。

また、時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。

テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかし、厖大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはものを書く時に、語る時に、私たちの中に起っていることだ。患者の中にもおそらく起っていよう。ただ、重症の患者の中では、揺らぎや置き換えが起らない。しかし、治癒に近づくと彼ら彼女らの文章はしばしばそんじょそこらの“健常者”をしのぐ。病いにはことばをきたえ直す力さえあるのだろうか? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

わたくしには、むしろ本来は詩人となるべき人が精神科医になったのだ、としたくなるときがある。

私が別に臨床医という仕事を持っていることは、この場合に大きな救いとなっている。専業著者であれば私は発狂しそうな気がする。しかし、臨床医であるということには大きな制約もある。私が訳詩で止まって詩を書かないのはなぜかと聞かれることがあるが、才能は別としても、もし詩を書こうとすれば、そのために、私は分裂病患者の診察の際に重要な何ものかを流用せざるをえなくなり、患者にたいへん申し訳ないことになるであろう。私は何も一般論として精神科医と詩人とが両立しないと言っているのではない。私の器量では双方が一つのうつわに収まらないという確実な感触があるというのである。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)


風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を!


ーーーヴァレリー『海辺の墓地』最終節 中井久夫訳


徹底的に暗誦すればよいかというと、どうもそこまでは行かないほうがよいらしい。私は十六歳が十七歳の時、翻訳する廻り合わせになるなどゆめ思わずにヴァレリーの「海辺の墓地」を暗誦してしまった。六十歳近くになってさて翻訳に取りかかった時、私の訳の歩みは完成した形の原文に先回りされてしまって何度も立ち止まった。訳文はできかけては霧散霧消した。しょせん、原詩の美と完成度に敵うわけがない。どうもある程度の覚え間違いと覚え残しがあるぐらいでないと、訳詩過程に必要な日本語の最適語juste motを選ぶための自由な言語空間が閉ざされて失われてしまうようだ。心理学には「本の内容を記憶し活用するためには完全に読み切らないで未読の部分をごく一部でも残しておくのがよい」という実験的事実があるが、それとどこか関連している事柄ではなかろうか。

また、読めば読むほどよいかというと、これにも限度がある。文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。詩というものは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。それだけではない。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなる。ヴァレリー詩の翻訳の際に、彼のフランス語の「イディオシンクラシー」(医学でいえばまさに体質的特異性!)が私の中で煮詰まってきて、生理的な不快感となった時期があった。彼の詩を英詩やイタリア詩あるいはボードレール詩に関連づけようと比較文学研究の真似事をしたのは、この不快感を中和するためであったとは後から気づいたことである。(中井久夫「訳詩の生理学」 『アリアドネからの糸』所収)

…………


最後に四方田犬彦が驚愕した須賀敦子のタブッキ訳、「窓ぎわですっぽりはだかになって」をめぐるメモをつけ加えておこう(一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら(須賀敦子、プルースト))。


文芸別冊の須賀敦子追悼特集(1998)に四方田犬彦の「須賀敦子、文体とその背景」という追悼エッセイがある。

《翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けてみえるということがままある。とりわけ詩的言語を相手にしたときにそれは顕著となる。》

また、《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と、ある。


そうしてダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)の一節を、まず彼は自ら逐語訳してみて、須賀敦子の文体と比べてみる試みを読者に提示する。

彼女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)

須賀訳ではこうだ。

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(須賀敦子訳)

―――《平仮名が多用されているせいで、全体に柔らかい印象がする。「裸になる」は「すっぽりはだかになる」であり、「出る」は「どこかへ行く」となっている。……行動を示す言葉に、原文よりも派手な身振りが添えられていて、原文の持つ素気なさを越えて、強い官能性が伺える》、四方田犬彦はそう指摘する。

《あるいは付けられた句読点の多さ……。須賀敦子の訳文を眺めていると、イタリア語が本来的にもっている単語の凝縮性を簡潔性を、どのように日本語に置き換えていけばよいのかという問いをめぐって、彼女の長らく思索していたことが、ありありとわかる》、と。







2013年5月25日土曜日

月橘の樹


過日、庭師に芝刈りを頼んだついでに、西側の庭にある巨木の細葉榕(ガジュマル)の下枝を払ってもらい、庭がめっきり明るくなる。

二階の書斎からはいままで葉篭りに隠れて見えなかったおびただしい気根が、梢から垂れ下がるのが眼をひくようになり、それら何百本もの細いひものような根がいくつかに束ねらたようにして風に揺れている。雨が降れば雨滴が気根に伝わって流れ落ちる。我が家の樹は樹齢百年を越えるらしいが、このガジュマルは何百年ほどの樹であれば、アンコールワットに見られるように屋敷まで食べ尽くす。気根が地につけばそこから根はすくっと立ち上がり枝を支える形になる(そもそも十八年まえ、アンコールワット遺跡にある樹容に魅せられて、多くの植木屋をあさって選べる範囲での最も古い木を庭に植樹したものだ)。






細葉榕の大樹のまわりは玉砂利で敷いた楕円形の散歩道で、その小道に沿って膝下の高さの灌木が植え込まれていたのだが、巨木の根がその植え込みの下まで這い伸びてところどころ持ち上がってしまい、不揃いで見苦しかったのを、いっそう全部の植え込みを引き抜いてしまって、東側と後庭の壁際に植え替えた。二百本ほどの灌木の移動だが、三人の若い庭師が一日弱で仕上げた(水牛の糞をたっぷりやったせいか、いまだ臭い漂う)。


この樹の名はこちらではQuế と呼んでおり、それで調べても英名や和名がはっきりしなかった。長男にもう少し正確に名を調べるように頼んでおいたら、実際はNguyệt Quếというらしく、それなら英名Orange Jasmine Murraya paniculata(オレンジジャスミン、シルクジャスミン)。和名は月橘〔ゲッキツ〕ということが分かる(いまこうやって備忘のためにメモしているわけだ)。ジャスミンと名がつくが、ほんとうのジャスミン(モクレン科)とは別種(ミカン科)。香りは似ているが、ジャスミンのこちらを包み込むようなまろやかな甘酸っぱさにくらべ、頭の芯を貫くようなつんと尖った芳香で、わたくしは月橘の香りのほうをより好む。それに白く小さな花の後は山査子のような赤い実をつけ、それも好ましい。


月橘の名は花が月夜に特によく香るといわれることからくるらしく、別名九里香とも。こうやって和名を知ると、急によりいっそう大事に育てようと思うようになる。月橘、九里香――、美しい名だ。いままでは植え込みで三ヶ月に一度は刈り揃えていたため、花はわずかしかつけなかった。ジャスミンとくらべて、成長の遅い樹だが、それでもこれら二百本の月橘は十年以上前苗木を植えたものであり、刈り揃えていたため背丈は小さいが幹はかなり太くなっている。樹木は成長の遅いもののほうが枝ぶり、樹幹のくねりが美しい。

今は壁際だ、枝を思う存分伸ばしてもらって、芳香に酔おう、月夜の庭歩きの友としよう。壁際に植え切れずに残った樹を前庭に二本、植木鉢に十本ほど植えたものは、肥料を十分にやってより慈しもう。







そもそも亜熱帯地域の当地の植物はそうじて成長が早すぎて「ゲテモノ」感がある。月橘はその稀な例外の樹のひとつだ。

東京の新緑が美しいといってもとうてい京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。(和辻 哲郎「京の四季 」)


樹というものは、一〇年後、二〇年後の姿を思い描いて慈しむと、長生きするのも悪くないと思うようになる。わたくしはいまだ死を思ったり、残された時間を考えたりする年齢ではないつもりだが、もうお付き合い的なことはいいではないかという気になりつつあるには相違ない(中井久夫「私の死生観」)。すこし前、体調を崩したときに(ほっておいたら脳溢血になる可能性があったらしい)、ある種の感慨が生じた。

フーコーが愛したビシャの言葉、《死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である》(『臨床医学の誕生』)を想いかえしたり、リルケの《昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた》(『マルテの手記』)などの言葉を反芻してみた。

女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ『マルテの手記』)

あるいはわたくしの「十三秒間隔の光り」はなんだろうといささか感傷的に問うてもみた。

…………

十三秒間隔の光り 田村隆一


 新しい家はきらいである

古い家で生れて育ったせいかもしれない

死者とともにする食卓もなければ

有情群類の発生する空間もない

「梨の木が裂けた」

と詩に書いたのは

 たしか二十年まえのことである

新しい家のちいさな土に

 また梨の木を植えた

朝 水をやるのがぼくの仕事である

 せめて梨の木の内部に

死を育てたいのだ

夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む

「未来にいかなる幻想ももたぬ」

というのがぼくの唯一の幻想だが

 そのとき光るのである

 ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上

 大島の灯台の光りが

十三秒間隔に

…………

ふと音楽がきらりと光ることがある、詩句が輝いてみえるときがある。
白い小さな花が宵闇に浮かびあがりはっとしたり、その匂いが風に乗って鼻先をかすめてつかのま陶然とすることがある。


一年ほどまえ、若い詩人が、《不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている/道端の青い小さな花を煮る六月十日は、》と謳った。

昼の灼熱のさかり、次男を学校におくるためにバイクで道をゆくとき、陽炎のゆらめきと太陽の光を十分に吸い込んだ枯草の匂いの「一瞬よりいくらか長く続く間」(大江健三郎)に慄くときがある。

暁方ミセイの詩句を、月橘と柑子の聯想から、もうすこし引用しよう。

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(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)


何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。



ーーー暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」(「現代詩手帖」2012年06月号)