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2014年7月23日水曜日

フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」

ここのところ一世紀ほどまえの男たちの女性ヒステリー畏怖の事例を、ジジェクの文の引用を中心に続けて投稿した(エリオットーヴィヴィアン、そしてムンクーーオスロワイン商人の娘)。ジジェク曰く、カフカにもその気があるというので、カフカーミレナをめぐってメモしようとしたが、ミレナがヒステリー症状であったかどうかは寡聞にして確かでない。カフカの女性畏怖は間違いなくあるだろうが。

・自分のなかの悲鳴に加えて、あなたの声を同時に聞くなどはできません。 [カフカ ミレナへの手紙]

・彼女が好きなのに話ができない。不意に出くわさないように、現れるのを待ち受けている。 [カフカ 創作ノート]

・それにしても、どうも私はあなたのお顔をはっきり思い出すことができません。後であなたが喫茶店のテーブルの間を遠ざかっていかれたときの様子だけが、そのあなたの姿、あなたの服、それだけが今もってまざまざと目に浮かびます。[ミレナへの手紙]

ーーだが、これらも恋に陥った内気な男のごくふつうの姿なのかもしれない。




「あなたのおっしゃる通りです。私は彼が好きなのです。でもF、あなたのことも私は好きなのです」とあなたは書いています。この文句を私は実に念を入れて読みました。一言一言です。特に「のことも」のところでは長い間立ち止りました。みんなそのとおりです。これがそのとおりでなかったら、あなたはミレナではないでしょう。そして、もしあなたがいなかったなら、一体この私は何なのでしょう。(…)しかもなお、何らかの弱さから私はこの文句と手を切ることができずに、際限もなく読みつづけています。そして、結局それをもう一度ここに写して書き、あなたがこの文句を見て下さるように、二人が一緒にそれを読むように、額に額をよせて(あなたの髪が私のこめかみに)、と望むのです。(カフカ ミレナへの手紙)


というわけで、ここではやや異なった側面から、すなわち現代におけるかつてのヒステリーの消滅という面から、ーーまたしてもヒステリーにかかわるのだが、乗りかかった舟であるーーいくらか記してみよう。

いわゆるヴィクトリア朝風の厳格なモラルが支配的だった時代には、ヒステリーは頻繁にみられたのは間違いない。われわれはその後、女性解放やら避妊革命などを経てきており、また以前ほど父権制社会でもなくなってきている。すなわち、それらの原因により、現代はヒステリー患者が少なくなってきたと一般には言われるのだが、その代りに、パニック障害、摂食障害、自傷行為などが目立つようになってきたとされる。

実際、日本でも、夏目漱石の『道草』や宇野浩二の『苦の世界』などで描かれた女性の極度のヒステリー症状は、現在ほとんど見当たらなくなったといってよいだろう。これらの小説が書かれた時代は、明治維新以後の約半世紀、いわゆる擬似一神教時代のことであり、性風俗がおおらかであった江戸時代は、武士階級は脇にやるとしても、商人階級の女性たちはどうだったのだろう。厳格なモラルのあるところにヒステリーがあるとするなら、理論的には少なかったはずなのだ。そもそも日本では、明治以降の一時期を除いて、欧米にくらべヒステリーは少なかったのではないかと憶測されないでもない。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

――などと書いているわたくしは、この分野のまったくのシロウトであり、以下はそのディレッタントが、たまたまある機縁で、いくつかの論文に目を通した備忘に過ぎない。ここではベルギーのラカン派精神分析医のポール・ヴェルハーゲの見解を中心に記すが、精神医学のそれ以外の派の考え方について、多くを知るものでもない。

ヴェルハーゲの名を知ったのは、中井久夫のトラウマ論を読む傍ら、ラカン派のトラウマをめぐる考え方はどうなのだろうと思いを馳せるなかであり、三年ほどまえ、彼の『Trauma and Histeria』という小論にウェブ上でめぐり合い、いささか関心をもったことに始まる。彼は日本ではほとんど知られていないようだが、たとえばジャック=アラン・ミレールの「二十世紀の神経症から二十一世紀のふつうの精神病へ」という1998年に提出された見解における「ふつうの精神病」概念をウェブ上で英語検索すれば、オーストリアの精神科医Jonathan D. Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis(2013)に真っ先に行き当たる。そこにはミレールの「ふつうの精神病」概念とヴェルハーゲの「theory of actualpathology」が、精神病をめぐってこの十年に提案されたふたつの傑出した概念だとされている。

…………

まず、「来るべき精神分析」座談会からの文を掲げることにしよう。この座談会は、十川幸司・原和之・立木康介の三氏によって2009年になされたもので、十川幸司の『来るべき精神分析のプログラム』(2008) 上梓後、「来るべき精神分析」の展望の試みとして、十川氏の書を中心にしつつ現在の精神分析と臨床実践の問題が検討されている。


<情動について>

(立木)
 そろそろ理論篇に移りたいと思います。僕が十川さんのご本でまず取り上げてみたいのは、情動の問題とセクシュアリティの問題です。十川さんは欲動が大事だというご意見ですが、最初に情動にも触れておきたい。情動の問題は前著『精神分析』でも大きく扱われていて、それを読んだとき、情動こそが十川さんの構築なさりつつある新しい精神分析の中心になるのかな、という印象をもちました。十川さんが言われる情動というのは「エモーション」のことですか。

(十川)
 いや、「アフェクト」です。

(立木)
 そうですか。それならなおいいのですが、ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることです。その状態のパラダイムは「不安」ですが、それ以外の形で情動にアプローチするのはなかなか難しい。フロイトに遡っても、欲動の代表として「情動」と「表象」が分けられていますが、いずれもきちんと扱えていない感じがします。とりわけ情動の問題をそのものとして取り出した個所がほとんどない。もっとも、不安の場合だけは別ですが。ラカンに戻れば、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界によってアフェクトされる。現代思想的な言葉を使すなら、「触発」される。それに対して十川さんの場合は、システムとしての自己が他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視されています。十川さんは、子供が両親の会話に耳を傾けていたり、子供が寝ているところで両親がコミュニケーションをしている状況--十川さんは「原風景」と呼んでおられます--に注目なさっていますが、子供はそこまでまさにコミュニケーションにアフェクトされ、触発されている。そこから自己のコミュニケーション回路が徐々に形作られ、情動調律というプロセスを通じて情動的なコミュニケーションが始まっていくわけですね。コミュニケーションとしての情動。そこに焦点があてられています。

ここでは、当面、《

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされること》という立木康介氏の発言に注目しておこう。そして《十川さんの場合は、システムとしての自己が他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視》されているとある。これは、症状の身体的側面(情動、欲動、ソマティック)などを重視しつつも、言語機能による治療の有効性を捨て去るつもりはないという態度だと読むことができる(その発言については、末尾に附す)。

いまは敢えて引用しないが、この座談会で語られていることから読み取れるのは、日本でも精神分析、いやもっと大きく精神医学の領野では、現在の患者の「症状」は、旧来の言語の領域(シニフィアンの媒介による「症状」の領域)のみに重点を置く治療では対応しがたくなっているという共通の認識であるようだ。それが「情動」なのか、「欲動」への対応の必要性なのか、あるいはまた別の対応の仕方かは、治療者の視点の置き方によって、さまざまなのであろうが。

…………


以下に、仮にそのレクチャアの冒頭部分を仮に訳出したポール・ヴェルハーゲは、現在の新しい「症状」は、身体、ソマティック(流動する身体)にかかわるとしている。《the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic.》

ところで、この「ソマティック」は、すでに初期フロイトに現れている、”Somatisches Entgegenkommenとして。人文書院の旧訳では「身体側からの対応」と訳されている(参照:症例ドラのソマティックなフェラチオ欲動)。(岩波新訳ではどう訳されているのかは不明の身である)。

フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommenと呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。(Lacans goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

さて、上に記したように、ポール・ヴェルハーゲの2008年のダブリンでのレクチャアの冒頭を掲げるが、以下の訳文は専門家でないものが、仮に訳したものであることを断わっておく。


三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

About 30 years ago I saw my first patient. My classic education and training meant that the following clinical characteristics were to be expected: a patient would have symptoms that can be interpreted; these symptoms are meaningful constructions, although the patient is unaware of this meaning due to defence mechanisms; the patient would be aware that these symptoms were connected with a life history. The aim of the talking cure is to uncover this connection so that the underlying conflicts may find another and better solution. Furthermore, a relatively positive transference was forthcoming. These were the basic criteria put forward by Freud in 1905 for a successful psychoanalytic treatment (Freud, 1905a). In short: a classic psychoanalytic treatment is intended for the classic psychoneurosis, and I must stress the prefix “psycho.”
現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。

Today, a hundred years after Freud, we are confronted with totally different symptoms. Instead of phobic constructions, we meet with panic disorders; instead of conversion symptoms, we find somatization and eating disorders. Instead of acting-out we are confronted with aggressive and sexual enactments, often combined with self-mutilation and drug abuse. Furthermore, the aspect of “historization” is missing: i.e., the elaboration of a personal life history in which these symptoms find a place, a reason and a meaning. Finally, the development of a useful therapeutic alliance is not forthcoming. Instead, we meet with an absent-minded, indifferent attitude, together with distrust and a generally negative transference. Indeed, such a patient would have been refused by Freud. I can say, with some exaggeration, that the well-behaved psychoneurotic patient of the past has almost disappeared. Hence the contemporary conviction that you will find everywhere in clinical practice: we are meeting with new kinds of symptoms and, especially, with a new and difficult kind of patient.


こうして、新しい症状の特徴について次の三つが挙げられることになる。

①主に身体にかかわる、さらにいえばソマティックに。
②それらはふつう、パフォーマティヴな特徴がある。
③意味作用の異なったレイヤーが欠けている、ヒストリゼーションの側面の欠如とともに云々、とある。

すなわちヒステリー≒ヒストリーなら、かつてのヒステリー的な特徴が現在の患者の症状にはなくなってしまっているという捉え方なのだろう。ここでさらにヴェルハーゲのActual-pathology 」をめぐっての説明を、英文のまま抜き出すことにする。

Firstly, the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic. Secondly, they are usually of a performative nature. Thirdly, they lack the different layers of signification together with the aspect of historization. Moreover, these three characteristics are combined with a typical therapeutic alliance that is everything but positive and cooperative. We will now go more deeply into their differences from classic psychopathology.

Concerning the importance of the body, it is quite obvious that in the new symptoms the somatic aspect is central in a direct, unmediated way. In the classic symptoms, the reality of the body is kept outside the psychopathology; insofar as it enters the neurotic game, it is always in an imaginary fantasising manner. For example, conversion symptoms do not concern the real body in a permanent way. In contrast to this, the new symptoms imply it directly: self-mutilation and eating disorders are the most spectacular examples of putting the body in the centre, as is the case with aggressive and/or sexual enactments.

Secondly, the new symptoms are usually performative: they imply action. With the exception of obsessive-compulsive actions, the classic symptoms remain almost always within the field of the imaginary (see phobic complaints, hallucinations, obsessive thoughts, delusions), and don't give rise to actions. In cases where they do, our term for them, acting-out, implies that this action has a meaning, usually taking place at the limit of symbolisation. The classic patient has to be driven to a certain point before he crosses the threshold and acts. In cases of the new enactment, it is exactly the other way around; this form of enactment is one of the reasons why these are difficult patients, their demand from us is more coercive.

Thirdly, unlike the classic symptoms, the new ones seem to lack meaning, together with a clear-cut connection to the life history of the patient. This comes as a surprise because usually when someone consults a therapist, he or she will talk about his problems in such a way that these problems form part of his or her history, with the parents and the siblings playing important roles. By and large, this is not typical for the new clinical situation. For example, while most of these patients suffer from a combination of anxiety and depression, what in the DSM-dialect is called “mood disorders,” there is a lack of significant content. Classic depression, as described by Freud (1917e), goes back to the loss of a significant object and the ensuing (partial) loss of identity. It is not too difficult to find both losses in clinical practice, the classic ones being the loss of a love partner or a conflict in the work-place. In both cases, there is a significant loss of identity for the subject. Again, this is not the case with the new type of patient. It seems as if the depression has always been there and there is no obvious link with the loss of an object. In these times of genetics, the aetiology of such a depression will be considered as biological, something to do with “chemical imbalances,” although there is no clear-cut scientific proof for such an assumption. Clinical evidence shows that such a depression arises against a background of a general meaninglessness, where the most insignificant drawback is enough to trigger the depression that is already there. The same reasoning can be applied to the anxiety that is ever ready to materialise without the need for a specific object or situation. Finally, this group of characteristics can be linked to something also present in the idea of personality disorders. It seems as if these patients are different in matters of identity and because of this difference their way of relating to others is unusual.

Based on my contemporary reading of Freud, I believe it is possible to bring these new symptoms together under one heading, and to put forward a common diagnostic difference from the classic group. The best label for the first group is psychopathology; the name for the new group is actual-pathology. Psychopathology means that the psychological part is in the foreground, i.e., psychological symptoms, with a meaning and with a history. Actual-pathology means that the actual - the here and now - fills the scene, together with the body, and apparently without a link to the life history. These two groups should be understood as two poles of the same continuum. This is what Freud discovered quite early in his clinical practice.

この文は、ヴェルハーゲが初期フロイト用語の変奏である”Actual-pathology”を現在の症状の名とする理由が書かれている。こうして、ヴェルハーゲは、DSM批判の急先鋒でありつつ、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念にも異議を唱えることになる(参照:ラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって)。

Actual-pathology”は、邦訳でどうのように訳すべきかは判然としないが、これはもともと1890年代のフロイトの著作に現れた ”Aktualneurose”(actual neurosis)を起源としており(そこでは「精神神経症」と対比されて語られている)、 ”Aktualneurose”は「現勢神経症」やら「現実神経症」と訳されているので、ここで仮に「現勢病理」としておく。すなわち旧来の「精神病理」(精神神経症に起源を発する)に対する概念である。

なぜ「現勢病理Actual-pathology」が、この何十年間のあいだに顕著になってきたのかについては、通常、ジジェクなどによってしきりに主張される「エディプスの斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の文脈からの憶測が可能だが、ヴェルハーゲは、冒頭に掲げた2008年のダブリンレクチャーの一年まえに、同じダブリンで次のような説明をしている。

◆“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007 – Health4Lifeconfererence – DCU.(敢えて訳出するが、重ねて繰り返せば、英文を充分に参照のこと)

ラカン派のタームであるなら、鏡像段階のあいだに何かがうまく行っていないのです。鏡像段階、すなわち、アイデンティティの形成が欲動の規制と共同して始まる時期です。まるで現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗しているかのようです。その結果は、子供は心理的に発達しないのです、すなわち、欲動やそれに伴う興奮を取り扱う表象的な方法に欠けているのです。さらにアイデンティティ自体の形成さえも狂わされています。結果として、欲動の処理はソマティック(身体的な)レベル、すなわち原初の現実界のレベルに立ち往生してしまっています。

To put it in Lacanian terms, something went wrong during the mirror stage, that is, the period where the identity formation starts in combination with the drive regulation. It seems as if the contemporary Other – meaning the parents, but also the symbolic order – is failing more and more in taking on his/her mirroring function. The result is that the child does not develop a psychological, meaning a representational way of handling his drives and the accompanying arousal. Moreover, the identity formation as such is hampered as well. Consequently, the processing of the drives remains stuck at the somatic level, that is, the original level of the Real.
これが、なぜ症状が、なにものにも介入されない、さらにはパフォーマティヴな仕方で身体に呼びかけるのかを説明してくれます。同様に意味の欠如をも説明してくれます。それらは、防衛メカニズムのたぐいではなく、意味のない「解除反応Abreaction」により接近しています。私の考え方の道筋では、これはフロイトが命名した「現勢神経症」ものへと導いてくれます。時間がないので、フロイト理論の現代的解釈を詳しく述べることはしませんが、こういうだけで充分でしょう、すなわち。「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である、と。

This explains why the symptoms address the body in an unmediated and even in a performative way. It explains their lack of meaning as well, they are much closer to a meaningless “Abreaction” than to whatever kind of defense mechanism. In my reasoning, this leads to what Freud has called actual neurosis. For lack of time, I can't elaborate on our contemporary interpretation of Freud's theory; suffice it to say that the main characteristic of actual neurosis is the failure to process the drive arousal via representations.
ラカンの鏡像段階の理論とフロイトのアイデンティティ発達の理論の光の下では、表象能力の失敗とは、原初の〈大他者〉との関係における失敗として理解されなければなりません。ごく一般的には、そうなのです。古典的な精神神経症では、欲動興奮は表象的なオブラートがあり、意味溢れる古典的に分析され得る症状を通して、象徴的な表現を見出せます。

In the light of Lacan's theory on the mirror stage and Freud's theory on identity development, this failure of the representational capacity has to be understood via a failure in the relationship with the primordial Other. Normally, that is: in classic psychoneurosis the drive arousal obtains a representational coating and finds a symbolic expression via meaningful and classically analyzable symptoms.
現勢神経症の場合では、この表象の処理がひどく妨げられています。臨床像に関する結果は、“意味溢れる”症状の不在です。そこにはソマティックな現象にかかわるパニックな攻撃と不安が伴っています。不安とは原初の興奮arousalの表現なのです。結果として、興奮状態excitationが過剰な割合を占めてしまいます。そして行動をとおした捌け口が見出されるのです。それは自らの身体に向けてであったり、他者に向けてであったりします。

In case of actual neurosis this representational process is seriously hampered. The effect with regard to the clinical picture is an absence of ‘meaningful' symptoms combined with the preponderance of panic attacks and anxiety related somatic phenomena, the latter being expressions of the original arousal. Consequently, the excitation obtains excessive proportions and finds an outlet via actions that are either directed towards the own body or towards the other.

いま訳出した文の冒頭近くにある、《現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗している》とは、「鰐の口のつっかえ棒」が機能していないということであり、それが《エディプスの斜陽》(父性的な象徴権威の弱体化)やら「父なき世代」と言われる内実であるだろう。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。(向井雅明「精神分析と心理学」2002)

さて、すこしまえに戻って、ポール・ヴェルハーゲは、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念批判をしているとしたが、--すなわち、その概念に対して”Actual-pathology”(現勢病理)を前面に押し立てているのだがーー、ラカン派における新しい対応法のひとつ「サントームの臨床」をめぐっては、ミレールの立場と大きく異なることはないようにみえる。

◆ミレールの2008年のセミネールから

・新たな精神分析臨床はラカンの最後期の教育から切り出されたものですが、これは古い臨床より圧倒的に優れているものです。それは、構造論的臨床と対立するボロメオの臨床であると言われます。構造論的臨床は神経症と精神病の断絶を前面に出してきます、より完璧を期すなら神経症、精神病、倒錯です。
・この第二の臨床は正常性やメンタルヘルスに範をとる基礎を葬り、次の公式をその原則とします「ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである」。これは一度ラカンが副次的なテクストのなかで書いたものですが、私は昨年これを広めました。
・第2の精神分析臨床は、症状symptômeの概念を、この〔「終わりのない分析」で示される症状の〕残余のモデルに基づいて再構成するものです。こうしてラカンはそれを古い綴り方でサントームsinthomeと呼びました。サントームとは、治癒不可能なものの名前なのです。

ヴェルハーゲの2001年に上梓された書にも、既にほぼ同じような見解を見ることができる。

フロイトとラカンのふたりとも見出していた、まさに、この現実界における症状の根には治療効果を妨害するものがあることを。分析は、無意識の抑圧された部分、すなわち表象されたファリックシステムにねらいをつける。しかし〈他者の享楽〉に直面したとき無力である。現在のまさに事実とは、われわれは、抑圧などほとんど現れない患者に直面することだ。これは、精神分析にとってまったく新しいチャレンジを意味する。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』ーー二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

そもそも「サントーム sinthome」とは、ラカンによる「症状symptom」の新しいヴァージョンなのであり、旧来の「象徴界の症状」に対して、「サントーム」とは「現実界 réelの症状symptom」としてよい。とすれば、ヴェルハーゲの「Actual-pathology」(現勢病理)は、「現実界病理」とか「リアル病理」と 呼ぶこともできよう。ヴェルハーゲはあえて「サントーム」というラカン派ジャーゴンを使用せず、初期フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」起源の用語遣いをしたのだろう。実際、1890年代のフロイト論文は、トラウマに関わった、すなわちラカン文脈では現実界にかかわった用語がそれ以外にもみられる。たとえば「Fremdkörper」(異物としての身体)や、上にも挙げた 「Somatisches Entgegenkommen」(身体からの対応)など。ヴェルハーゲはこれらの用語を取り出しつつ、フロイトは初期から二種類の症状を考えていたのだとしている(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)。


さていずれにせよ、ミレールの「ふつうの精神病」概念は仮称であるだろうし、ラカンの「サントーム」概念も、ラカン派以外は通用しがたい。精神医学に携わる方は、ラカンジャーゴンを耳にしただけで抵抗がある口もいるだろう。そのとき初期フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」起源の”Actual-pathology”「現勢病理」概念は、いまでは熱心に読まれることの稀になっているはずのフロイトへの再度の回帰を促し、しかもラカン派内部のしがらみを超えた親しみやすい言葉遣いであるには相違ない。ラカン派とされる斎藤環氏からもこんな発言が出るくらいなのだから、やはり「ふつうの精神病」は仮称にしてもいただけない。

@pentaxxx: しかし今日のコロックでつくづく思ったが、こう「普通精神病」や「普通倒錯」が一般化したというのなら「普通境界例」とか「普通自閉症」なんてのも出てきそうな気が。そして私が10分間の「普通精神分析」で治療をする、と。いやマジでね。(2014.3.9)

…………

※附記:冒頭に掲げた「来るべき精神分析」座談会で十川氏はヒステリーをめぐり次のように発言していることをここにつけ加えておこう。

(原)
 言語を介して情動のレベルに働きかけるというテーゼは、ご本の中に繰り返し出てきますが、それがなぜ可能なのかについては、どうなんでしょうか? 二つの切り離されたものがあって、一方が他方に働きかけるイメージにどうしてもなってしまうのですが。

(十川)
 どうして可能なのかと聞かれると、なかなか答えるのは難しい(笑)。言語と情動が最も緊密に結びついているのは、ヒステリー患者です。ヒステリー患者は、みずからの無意識を自由連想によって物語る驚くべき能力をもっています。そして、その話に対して解釈を加えると、その解釈が情動を巻き込んだ形で患者の症状にまで届く。フロイトが『ヒステリー研究』で取り上げているのも、ヒステリーのこのようなメカニズムです。ヒステリー患者が少なくなってきたという話はよく聞きますが、実際少なくなったのは派手な症状を呈するヒステリー患者であって、ほとんど無症状で、一見ありきたりの悩みを抱えているヒステリー患者は今でも数多くいます。そういう人の治療では、言葉の力というものを明確な手ごたえをもって実感できます。




2013年10月7日月曜日

ラカン派の「転移」のいろいろ

《……分析関係が深まると、セッションで起きていることは、微細に見るならば、ほとんどすべて転移現象として捉えることができます。しかし、転移概念をこのように拡大すると、「転移の外部はない」という常套句とあまり変わらなくなる。むしろ、転移という文脈で理解した方がいいコミュニケーションと、そうではないコミュニケーションがある、といったふうにプラグマティックな観点から考えたほうがいいと思いますね。》(来るべき精神分析のために(2009/05/29 岩波書店)十川幸司発言)

(精神分析治療において、<知っていると想定された主体>としての分析家の役割)……患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る(これが意味しているのはたんに、患者は秘密を隠しているという罪悪感を最初から抱いており、彼の行動には実際に隠された意味がある、ということだ)。分析家は経験主義者ではない。さまざまな仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている」と仮定したときはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトとラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。(ジジェク『ラカンはこう読め』

《ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。》


いや違います


「転移」は 英語で transference と言います。ドイツ語では Übentragung、フランス語では transfert です。 「転移」とはそもそも何でしょうか。精神分析を学び始めた人は誤解しやすいのですが「気持や感情を相手に移してしまうこと」だと思い込んでいる人が意外に多いのです。たとえば「あなたのことが好きです」と言ったら、相手に 自分の感情を移しており、これが「転移」と思っている人が少なからずいます。しかし、転移というものはそういう ものではありません。「転移」とは、発達のごく初期に自分が深い愛情を抱いた対象との関係を、現前の対象との間で再現し反復することをいいます。つまり転移の本質は、発達の初期に生じた対象関係を、後になって別の対象を選択して反復することなのです。(藤田博史 セミネール断章 2012.3 )http://euroclinique-dc.com/_src/sc2239/seminaire20120320.pdf

《「転移」とは、発達のごく初期に自分が深い愛情を抱いた対象との関係を、現前の対象との間で再現し反復することをいいます》

いや違います


転移はしばしば反復現象と混同される。転移とは、過去において患者にとって重要な人物、特に幼児期における両親に対する欲動・態度が分析の場で分析家に向けられて出てくる現象を指すと考える傾向がある。過去の出来事が反復されて出てくることが転移現象と考えると、転移の解釈がなされるようになる訳だが、それは常に分析家との関係の中で起こることが中心になる。そこでは患者と分析家との間に二者関係が成立し、分析家が患者に対して抱く逆転移の感情までが解釈のために利用されるようになる。そうなると分析家は患者の葛藤に巻き込まれてしまって、抜き差しならない関係に陥る危険が生じるだろう。

ラカンは転移と反復現象とをはっきりと分けて考える。転移は患者の自由連想作業の結果、無意識の知が想定され、その無意識の知に主体が想定されること(SSS,sujet supposé savoir)から生じるというのだ。その想定が分析家に向けられると、分析家は患者の無意識について知っている者とされ、知に対する愛情が芽生え転移性愛情となる。つまり、転移性恋愛はSSSの生み出す効果なのだ。他方、反復は外傷体験、つまり現実界と繋がっているものと考えられる。

患者が最初分析家のキャビネットを訪れるのは、そこに自分の問題を解決してくれる何かがあるという想定、期待があるからで、そこには分析家に対する治療以前の転移がすでに成立しているはずである。それがなければ分析家を訪れることはないだろう。したがってあらかじめ転移が成立していない場合、たとえば周りの人から無理矢理送られてきたような場合には分析は困難である。ただし子供の場合はこうしたあらかじめの転移は通常成立しておらず、親が送ってくるのであるから別であるが、親には転移が成立しているので間接的転移がなされていると言える。しかしこうした転移は予備的な転移であって、分析の場で作用する転移とは区別される。分析の中での本来の転移は、自由連想で語る中に患者自身も気がついていない無意識の知があることが想定されるようになってはじめて成立する。そしてその結果、転移による無意識の作用が始まる。(向井雅明「精神分析における臨床について」 『I.R.S.――ジャックラカン研究』9/10巻 )



ミレール登壇。

はたして仲裁なるか?

ラカンは転移を心的現実と結びつけます。例えば、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」として定義するときです。しかし、この言葉は現実性[realite]と現実界[le reel]を区別したときにのみ、その真の意味を得ることができます。それゆえ、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」であるというとき、無意識における現実界の現勢化と言っているのではありません。あとで分かるように、これは基本的な区別です。ラカンは、無意識の現実性はつねに曖昧かつ騙すものであり、一方、反復は現実界と繋がっており、騙さないものであるということを示しています。セミネールXで不安について語るとき、ラカンは不安をその他のすべての情動と区別しています。分析においても生活においても、不安は欺いたり騙したりするような情動ではありません。ラカンは不安を、彼が現実界と呼ぶものと結びつけています。現実界とは人が掴むことのできないものですが、騙すことはありません。

セミネールXIを理解するためには、転移を騙すものとしての現実性と繋げる必要があります。そして、反復は欺かないものとしての現実界と繋げる必要があるのです。転移としての無意識を問題にするとき、欺いたり騙したりするものとしての無意識が提示されています――これはフロイトの著作に非常によく現れています。例えば、分析に関する患者の夢を議論するにあたって、フロイトは、 患者が夢をみることによって分析家のうちの何かを満足させるよう試みていることを指摘しています。もし、夢の柔軟性と流動性を真剣に受け取るならば、無意 識は嘘のない真理それ自体ではないということを認めなくてはなりません。これが、ラカンが真理は虚構の構造を持っていると言うときに意味していることで す。これは、ここでの転移についての講義から生まれたのです。(「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」Context and Conceptジャック=アラン・ミレール)


《Lacanian communities, where the group recognizes itself through the common use of some jargon-laden expressions whose meaning is not clear to anyone, be it “symbolic castration” or “divided subject”—everyone refers to them, and what binds the group together is ultimately their shared ignorance. Lacan's point, of course, is that psychoanalysis should enable the subject to break with this safe reliance on the enigmatic master signifier.》(Zizek THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE)


なに言ってるかわからないから、
ラカン派の言説に「転移」する
なんてことだけはないように注意しろよな、
最初からアガルマの対象aではなく
屑の対象aかもよ

a  ―> S/
S2 // S1


a―対象a、ここにディスクールのエージェントとしての分析家が置かれる。分析家は対象aの振りをするsemblantのだ。まず解釈によって患者のディスクールの分裂を指摘し、患者を分裂した主体にする。つまり主体を生み出すもの、主体の原因としてのa、そして、精神分析家の欲望Xを表わす対象a、分析者の現存としての対象である。また分析中はソクラテスのようにアガルマ=対象aを隠し持つ者であり、分析の終わりには屑=対象aのように患者から捨てられるものである。

矢印―>は分析家の介入を表わす。

S/―エージェントの他者としての分裂した主体、これは無意識の主体でもある。自由連想を実行し無意識の作業によってS1を生み出す。

S1―生産物としてのシニフィアンはひとつだけではなく一群(S1=essaim)のもので、これを生み出すことによってそれまで主体はそれまで自分を支配していた同一化S1 / S/が解消される。これはS2からは切り離された絶対的シニフィアンで分析家の欲望はこれを目指している。

S2―分析家は主体の分裂を引き起こすことによって、自らの下に真理としてのひとつの知を想定させ、転移を成立させる。この知は生産物としてのS1とは切り離されている。つまりS1は連鎖をなしていない。それはマテーム上では // で表わされる。(向井雅明「精神分析における臨床について」『I.R.S.――ジャックラカン研究』9/10巻 ) 



…………


転移に効果的側面と抵抗的側面があることはよく知られているが、この転移の二面性に関してラカンは「転移というこの両刃の斧の軸となり、共有点となるのは分析家の欲望である」と述べている。つまり、分析においては分析家の欲望のあり方によって転移は吉とも凶ともなるのである。このことは次のことを意味している。すなわち、分析家の欲望が明示的であれば、対象aは愛というルアーとして機能して分析を袋小路に導き、分析家の欲望が非明示的であれば、対象aは欲望を支える幻想として機能して分析の出口を提供するということである。愛と幻想という対象aの二つの機能は転移の二つの側面に対応しているのである。詳述しよう。

同一化の臨床においては、分析家の欲望、卑近な言い方をすれば分析家の意図や意志が分析主体にそれとはっきりとわかる場合、換言すれば、分析家側の解釈が一つのシニフィアンとなり、意味を産出させた場合、欲望を欲望する主体は、明示的な形で表現されたその意味を分析家の欲望と捉えて、それに同一化する傾向がある。この同一化は対象a[a厳密にはi(a)]と自我理想[I]との重なりで表現される。このような状況は一般には治療状況を好転させる転移、つまり転移性治癒をもたらす陽性転移と見なされる。しかし、分析家がそうした良い感情を持続発展させようとしたり、患者を治癒させたいという情熱だけで分析に臨むなら、この陽性転移は強化され、分析を停滞へと導く愛となっていく。このことを考慮すると、愛は転移の抵抗的側面であり、フロイトに倣えば、それは無意識的な陽性転移である。

幻想の臨床においては、分析家は沈黙やスカンシオンによって、主体に明示的な意味を与えないというスタンスを取る。その結果、分析家の欲望は謎のままに留まり、主体は同一化する対象を失い困惑するものの、分析家側の幻想を混ぜ合わせることなく、自ら思うところのシニフィアンを数え上げることによって幻想を反覆していく。それは対象a[a]と自我理想[I]との隔たりで示される脱同一化の過程を示している。(赤坂和哉「ラカン的臨床への助走 -ジャック-アラン・ミレールの議論を通して-」 ーーweb上 word doc有)


…………

オレかい? オレの程度の頭には、次の文がもっとも好みだね、転移だけに関すればだけれど、つまり「知を想定された主体」などと考えなければ(これは赤坂論文に感心したな)。


「わたしは恋をしているのだろうかーー然り、こうして待っているのだから。」相手の方はけっして待つことがない、自分も待つことのない者として振舞ってみようと思うことは多い。別のところで忙しくして、遅れてゆこうと努めてもみる。しかし、この勝負はいつもわたしの負けに終る。なにをどう努めてみても、結局のところ私は暇なのであり、時間に正確で、早めに来てしまっている。「わたしは待つものである。」これが、恋する者の宿命的自己証明なのだ。

(転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在――まるで欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのようにーーに隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

…………

※附記

ここで決定的に重要なのは、「イエス・キリストの信仰」という言葉のあいまいさである。この「の」は、主格にも目的格にも読むことができる。つまり、これは「キリストの信仰」か、「キリストに対する/われわれ信者の/信仰」か、そのどちらかである。われわれは、 キリストの純粋な信仰によって救済されるか、あるいは、われわれがキリストを信仰している場合にかぎり、キリストに対する信仰によって救済されるか、そのいずれかである。ことによると、この二つの意味を同時に読み込む方法はある、といえるかもしれない。われわれが求められているのは、キリストの神性そのものを信じることではなく、キリストの信仰、彼の罪のない純粋さを信じることであるからだ。 キリスト教が提示するのは、われわれにとって、信じていると想定された主体として存在するキリストである。われわれは日常において、何かを本当に信じることはまったくない。しかし、なにかを本当に信じている〈一者〉が存在するという慰めを得ることはできるのである。しかし、ここで最後のひねりが来る。それは、〈十字架〉の上では、キリスト自身が、みずからの信仰をつかの間ではあれ中断しなければならない、ということである。したがって、キリストは、深層のレヴェルにおいてむしろ、われわれ(信者)にとって、信じてい〈ない〉と想定された主体として存在するのかもしれない。つまり、ここでわれわれが他者に転移するのは、われわれの信仰ではなく、われわれの不信仰である。〈他者〉を通じて信仰を保ちつつなにかを疑ったり、ばかにしたり、疑問に付したりする代わりに、われわれは、絶えずわき上がる懐疑を〈他者〉に転移し、それによって信じる力を回復することもできるのだ。 (ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』)

<救い主=イエス>は、まず<信じていると想定される主体>として機能するとある。なにも信じていない主体は、それにもかかわらず、<救い主>に転移することによって慰めを得る。それはわれわれは始終やっていることだ、たとえば不信心者でも、神社のお守りを車内にぶらさげたり、鞄につけたりする。理論物理学者のニール・ボーア、《ボーアの家には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」。》(『ラカンはこう読め』p59)

ジジェクは、さらにひねりを加えて、<信じていないと想定された主体>への転移を挙げているが、これも、たとえば映画の悪役に転移して、われわれはそれによって信じる力を回復する(善人として振舞う力を得る)ということはしばしば起こっていることだろう。

このあたりの消息をより詳しく説明した文が、次にある。ジジェクのロジックのポイントは冒頭の文、《われわれが心の一番奥底に秘めている感情や態度を、なんらかの姿をした<大文字の他者>のもとへと移し替えるということが、ラカンのいう<大文字の他者>の概念のいちばんの中核にある》であろう。

われわれが心の一番奥底に秘めている感情や態度を、なんらかの姿をした<大文字の他者>のもとへと移し替えるということが、ラカンのいう<大文字の他者>の概念のいちばんの中核にある。それは感情だけではなく信仰や知識にも当てはまる。すなわち<大文字の他者>はわれわれの代わりに信じたり知ったりすることができる。このような、主体の知を他者の知に置き換えるという行為を説明するために、ラカンは<知っていると想定される主体>という概念を導入した。テレビの「刑事コロンボ」シリーズでは、犯罪--殺人行為--があらかじめ詳細に描かれる。したがって、解かれるべき謎は「誰がやったか」ではなく、刑事がいかにして欺瞞的な表面(フロイトの夢理論の用語を使えば、犯罪場面の「顕在内容」)と犯罪についての真理(その「潜在思考」)を結びつけるか、彼がいかにして犯人にその罪を証明するか、である。「刑事コロンボ」シリーズが大ヒットしたという事実は、刑事の仕事に対する関心の真の源泉が、謎の解明のプロセスそのものであって、その結果ではないことを証明している。

 この特徴よりももっと重要なのは、誰がやったのかをわれわれ視聴者はあらかじめ知っている(じかに目撃するのだから)ということだけでなく、理由はわからないが、刑事コロンボもまたすぐにそれを見抜くということである。犯行現場を訪れ、犯人に出会った瞬間、彼は絶対的確信を得る。犯人がそれをやったのだということを、彼はたんに知っている。彼はその後、「誰がやったのか」という謎を解くためではなく、犯人の罪をいかにして犯人に証明するかをめぐって、努力するのである。普通の順序が奇妙に逆転されているのだが、ここには神学的な意味がある。真の宗教的信仰においては、私はまず神を信じ、それから、自分の信仰を根拠として、自分の信仰の真実性を示す証拠が得られるようになる。ここでもまた、コロンボは、神秘的な、だがそれにもかかわらず絶対的な確信によって、誰がやったのかを最初から知っており、しかる後に、この絶対的な知にもとづいて、証拠を集めていくのである。

 多少の違いはあるが、精神分析治療において、<知っていると想定された主体>としての分析家はそれと同じ役割を演じる。患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る(これが意味しているのはたんに、患者は秘密を隠しているという罪悪感を最初から抱いており、彼の行動には実際に隠された意味がある、ということだ)。分析家は経験主義者ではない。さまざまな仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている」と仮定したときはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトとラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。

 転移は、より一般的な規則の一例にすぎない。その規則とは、新たな発明というのは、過去の最初の真理に戻るという錯覚的な形式においてのみなされるということである。プロテスタンティズムに話を戻すと、ルターはキリスト教の歴史において最大の革命を成し遂げたが、彼自身は、数世紀にわたるカトリックの堕落によって不明瞭になっていた真理を掘り起こしただけだと考えていた。民族復興についても同じことがいえる。民族集団が国民国家を建設するとき、彼らはふつうこの政体を古代の忘れられた民族的ルーツへの回帰として公式化する。彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。歴史家ならだれでも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルト[巻きスカート]は十九世紀に発明されたものである。

 ラカンの多くの読者が見落としているのは、<知っていると想定される主体>というのは、副次的な現象であり、ひとつの例外にすぎない。つまりそれは≪信じていると想定された主体≫というより根本的な背景の前にあらわれるということである。この≪信じていると想定された主体≫こそが象徴的秩序の本質的特徴である。ある有名な人類学者の逸話によれば、迷信的な信仰(たとえば自分たちの祖先は魚あるいは鳥だという信仰)をもっているとされる未開人が、その信仰について直接尋ねられた際、こう答えたという。「もちろんそんなことは信じていない。私はそんなにばかじゃない。でも先祖の中には実際に信じていた人がいたそうだ」。要するに、彼らは自分たちの信仰を他者に転移していたのである。われわれも子どもに対して同じことをしているのではなかろうか。われわれがサンタクロースの儀式をおこなうのは、子供が信じている(と想定される)からであり、子どもを失望させたくないからだ。いっぽう、子どものほうも、おとなを失望させないために、そして子どもは素朴だというわれわれおとなの信仰を壊したくないために(そしてもちろん、ちゃっかりプレゼントをもらうために)、信じているふりをする。「本気で信じている」他人を見つけ出したいというこの欲求は、同時に、他者に宗教的あるいは民族原理主義者を押したいという欲求を駆り立てるのではなかろうか。なにか不気味なかたちで、ある種の信仰はつねに遠くで機能するように見える。信仰が機能するためには、何かそれの究極の保証者、真の信者がいなければならない。だがその保証者はつねに遠ざけられ、疎んじられ、本人があらわれることはけっしてない。では、いかにして信仰は可能なのか。この遠ざけられた信仰の悪循環はいかにして短絡するのか。むろん重要な点は、信仰がちゃんと機能するためには、素直に信じている主体が存在する必要はまったくないということだ。その主体の存在を仮定するだけでいい、その存在を信じるだけでいいのだ。それは、われわれの現実の一部ではない、神話的な創造者という形であってもいいし、人格を保たない役者であってもいいし、不特定の代理人でもいいのだ。「彼らはこう言っている/そう言われている」。(ジジェク『ラカンはこう読め!』

 ところで2012年に出版されまだ日本では2014年春から夏にかけて和訳上梓予定の『LESS THAN NOTHING』では、「享楽していると想定された主体」、あるいは「主体であると想定された主体」などの、一見よりひねった表現がでてくる。S1—the subject supposed to believe; S2—the subject supposed to know; a—the subject supposed to enjoy; and … what about $? Is it a “subject supposed to be a subject”? (……)the subject itself is a supposition

これはなにを言っているのか。――そもそもラカン派では「主体」そのものが「想定」であるのだから、いっけん奇矯な表現であるにもかかわらず、よく考えてみれば当たり前のことなのだ。それは、たとえば「大文字の他者」の存在の想定やら、パラノイアの想定する「他者の他者などが存在しないにもかかわらず存在すると想定される、という文脈のなかにある。《an Other in the Real is "the Other of the Other". A belief in an Other of the Other, in someone or something who is really pulling the strings of society and organizing everything, is one of the signs of paranoia.》(Slavoj Zizek - Key Ideas

<大他者>に対する精神病者の不信、(間主観的共同体に具現化された)<大他者>は自分を騙そうとしている、という彼の固着観念は、つねに必然的に、一定不変の<他者>、断絶のない<他者>、すなわち「<他者>の<他者>」(……)に対する揺るがぬ信頼に支えられているのである。パラノイア症者が、象徴的共同体や「一般の意見」の<他者>をどうしても信用しないのは、騙されていない、手綱を握っている「<他者>の<他者>」の存在を信じているからである。パラノイア症者の誤りは、その徹底した不信や、すべては欺瞞に満ちているという確信にあるのではない。その点では彼はまったく正しいのだ。象徴的秩序は究極的には根本的に欺瞞に基づいた秩序なのだから。そうではなく、彼の誤りは、この欺瞞を操作している隠れた存在がいるという信念にある。(ジジェク『斜めから見る』P156)

ここで「精神病者」とあるが、「父なき時代」の現在、ミレール派ECFでは、21世紀は「ふつうの精神病」の時代という定式がほぼ定説化しており(もっとも「ふつうの倒錯」の時代というメルマン派ALIの主張もある)、われわれの時代の典型的主体は、「<他者>の<他者>」を信じているのではないだろうか。

今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信、つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり,すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)