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2014年11月9日日曜日

“Wohin? どこへ?”(マタイBWV244とヨハネBWV245)

《昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……》(1996年2月19日)

武満徹はこう語って逝った(1996年2月20日)。武満徹は誰の指揮のマタイを最期に聴いたのだろう。

 いつだったか私は、『西洋の音楽では、バッハの《マタイ受難曲》がいちばん偉大な音楽だと思っている。西洋音楽から、ひとつだけとるというのなら、これをとるだろう』と書いたことがある。この考えは今も、変わらない。芸術(つまり、ものを考えてつくる営み)と芸術をこえた精神の最高のものに至るまでの間で西洋の音楽の成就したすべてが、あすこにはあるというのが、私の考えである。(吉田秀和『私の好きな曲』p7)
……私は《マタイ受難曲》は、これまでほんの数回しかきいたことがない。レコードでもはじめから終りまできいたのは、何度あったか。数はおぼえてはいないが、十回とはならないのは確かである。私は、それで充分満足している。私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてもよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる。(同p172)
とにかく、《マタイ受難曲》の感動の中には恐ろしいものがあり、その迫真性という点からいっても、悲哀の痛烈さには耐えがたいものがある。(……)《マタイ受難曲》はおそろしい音楽だ。話はもちろんのこと、レチタティーヴォが多く、全曲としてはるかに長大なのも、きき通すことの困難さを増す。それから、また、単純にして痛切なコラールの表現性の峻厳さ。P173 
リヒターの指揮と曲のつかみ方は、一面では峻厳をきわめ、一面では驚くほど自由である。その棒で彼はどこを切っても鮮血のほとばしり出そうな生気に満ちた演奏を創りだす。それは復古的な姿勢を全然持たないくせに、個人的な恣意とは逆の、規範的な様式の樹立に向ってつきすすむ。(……)

合唱が、《マタイ》の「真に彼こそは神の子だった」で一瞬だがすごい漸強と漸弱の曲線を描いたり、あるいは《ヨハネ》でイエスの処刑を知らせるバスのアリアのまっただ中に割って入り「どこへ? どこへ?」と何回となく問いを投げてくる時は、音自体は囁きの微妙な段階的変化でしかないのに、その響きはきくものの意識の中で反転反響しながら棘のようにつきささる。ここでは対位法は技術であると同時に象徴にまで高められている。

こういう感動は私たち一生忘れられないだろうし、それを残していった音楽家は、天才と呼ぶ以外に何と呼びようがあるだろうか?(吉田秀和「カール・リヒターとバッハ」)

リヒターによる《マタイ》の「真に彼こそは神の子だった」の一分間は何度も貼り付けたので、ここでは割愛する。たとえば、「ナウモフ BWV244-BWV727 「血しおしたたる」」にある冒頭から二番目のものが「真に彼こそは神の子だった」である。

吉田秀和の文には「《ヨハネ》でイエスの処刑を知らせるバスのアリアのまっただ中に割って入」ってくる「どこへ?Wohin?」ともあるが、それは後述する。まずは《マタイ》である。マタイにも棘のようにつきささってくる「どこへ?Wohin?」がある。

それは、第 60 曲 アリア(マタイ受難曲 BWV.244 歌詞対訳)であり、そこには《kommt! 来なさい!Wohin? どこへ?》とある。この“Wohin?どこへ”ーー同時に”kommt! 来なさい!”もーーには、少年のころ強く衝撃をうけて、意味もわからず発音も正確に聴き取らず「ホギ! ホギ!」と頭のなかで鳴って囚われの身となっていた時期があるのだ。カール・リヒターのものは実に強烈であり、他の指揮者の”kommt!”あるいは”Wohin?”と、リヒターのものを聴きくらべてみるといいが、もちろん彼の指揮が強烈なのはここだけではない。

吉田秀和のいうように、マタイとは、《私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてもよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる》、ーー 「血しおしたたる」、ーーまさにそういった気分になってしまう。だが、カール・リヒター指揮のものではなく、ほかの何人かの指揮者による演奏だったら、いまのわたくしにはやや穏やかな気分で今後も何回かは聴けそうだ。心理的土台が崩落する気分になることは少ない。快楽のテクストとして扱うことができる。カール・リヒターのものはあくまで、わたくしにとっては悦楽(享楽)のテクストなのだ。初老の軟弱な身にはほとんど堪え難い。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーーベルト付きの靴と首飾り

《彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある》と書いたのは、グールド論におけるミシェル・シュネデールだが、カール・リヒターのマタイはなおいっそうのことしばらく御免蒙る。今は遠ざけておくしかない。

彼の演奏について語ろうとしても、いくつかの言葉しか思い浮かばない。遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐えられないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(『Glenn Gould PIANO SOLO』ミシェル・シュネデール 千葉文夫訳)

…………

さて、これにてカール・リヒターのマタイとはしばらくお別れしようと思う。もうわたくしは齢を重ねた。あなたの演奏には堪え難い。今は快楽のテクストに逃げ込みたい。疲れきってしまったのだ。

お別れに、マタイ第60曲のアリア「Sehet,Jesus hat die Hand.見よ、イエスは手を差し伸べて」における《kommt! 来なさい!Wohin? どこへ?》を聴く。まずはカール・リヒターによる1958年の録音から。


◆BACH BWV244 Sehet, Jesus hat die Hand/Karl Richter(1958)





◆Sehet Jesus hat die Hand(Philippe Herreweghe





◆Bach - Matthäuspassion - Sehet, Jesus hat die Hand(Ton Koopman





…………

さて、次ぎは、ヨハネ受難曲の“Wohin? どこへ?”

第24曲の「Eilt, ihr angefochtnen Seelen 急げ、お前たち悩める魂よ」からである。こうやって並べて聴くと、冒頭の出足の管弦楽のフレーズの最後の二つの音の音型からすでに、マタイ受難曲の “Wohin? どこへ?”と同じ型(たぶん?)であることに気づく。いずれにせよ、どこもかしこも「ホギ!」だ、死にそうになる、--少年時代の癒着したはずのつもりのひどい傷口がパックリが開き血しおしたたるのだーー、パンドラの箱が開いてしまった。それではサヨウナラ! カール・リヒターよ、ヨハネも鈴木雅明の快楽のテキストに乗り換えることにする。ーーいや鈴木雅明でさえ堪えられるかどうか。ーー --


◆Kieth Engen "Eilt, ihr angefochtnen Seelen" Johannes-Passion(Karl Richter 1964)





◆Bach - St John Passion - Eilt ihr eingefocht'nen Seelen (bass aria)John Eliot Gardiner




◆Bach - St. John Passion BWV 245 (Masaaki Suzuki, 2000) - 8/12





24.

Arie (Baß) und Chor

24.

アリア(バス)と合唱

Baß solo: Eilt, ihr angefochtnen Seelen, 
Geht aus euren Marterhöhlen,
Eilt ― 
Chor: Wohin?
Baß solo: ― nach Golgatha!
Nehmet an des Glaubens Flügel,
Flieht ― 
Chor: Wohin?
Baß solo: ― zum Kreuzeshügel,
Eure Wohlfahrt blüht allda!

独唱:急げ、お前たち悩める魂よ、
逃れよ、お前たちの苦しみの洞窟から、
急いで行け---
合唱:どこへ?
独唱:---ゴルゴダへ!
信仰の翼をもって、
逃れ行け----
合唱:どこへ?
独唱:---十字架の丘へと!
お前たちの幸せはそこでこそ花咲くのだ!




2014年10月8日水曜日

山師ニーチェ

むさぼるように私は『曙光』の断章を読みました。ニーチェを読むときに役だつ、あのあらゆるひねくれた感情を込めながら。そして翻訳者にたいする、一巡してはまた生まれてくる感謝の気持を、その“ひねくれた”感情に交えたのです。……(「ニーチェとヴァレリー ヴァレリーのニーチェに関する手稿から」 丹治恒次郎 著 – 1985 ネット上PDFより)

ヴァレリーは仏国では、もっとも早くからのニーチェの読者のひとりだったらしい。上の文は、ニーチェの翻訳者である友人アンリ・アルベール宛(1901)の書簡からであり、彼に感謝の気持を表明しているのだが、それに続いて現われる「“ひねくれた”感情」という表現がいかにもヴァレリーらしい。”Tous les mauvais senntimenntos utiles”――悪感情、不快感としてもよいだろう。

もっともヴァレリーは死の二年前のカイエ(72歳)にも、ニーチェに触れている。


ニーチェを読むーーニーチェ(かれはイデオロギーの分野で私のもっとも高く評価するもののひとりだが)にある詐りのものはーーかれが他者に付与する重要性――論争術、――およびいろんな理論立てを思わせるものすべてである。彼はすでに「文学史」中に席を与えられた物事をあまり眼中におきすぎる。――ソクラテスとカントを制服した「彼」が、だ。――/それから魔術的な語の『生』。しかしこれに助けを呼ぶのは安易というものだ。(寺田透訳)

この時期に到っても熱心にニーチェを読んでいたことになる。しかもやはり「詐りのもの」という表現を差挿させて。


だが《イデオロギーの分野で私のもっとも高く評価するもののひとり》ともあるわけだが、ヴァレリーはマルクスの最初期の読者であることも知られている(もっともマルクスーニーチェーフロイトという偉大な三人組(イデオロギー、道徳、自我の)の残りの一人フロイトへの言及というのは殆んどなかったんじゃないか)。


まあそれはこの際どうでもよろしいが、ニーチェを、”道徳の分野で”、とはいわず、”イデオロギーの分野で”もっとも高く評価すると言っているのも、ヴァレリーらしい。たぶんニーチェの同情道徳批判など端から信じていなかったのだろう。


ニーチェのなかでもっとも面白いものはあの断固たる風采、倫理的執心である。――これが僕をいつも笑わせる。――というのは、要するにこれは台所仕事なのだ、道徳のなかで働こうとする。道徳の現代的基礎が見かけのよい無関心でだということに気がつかない。(ヴァレリー ジッド宛ての書簡 1899.1.13)


◆ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』より


・私はニーチェが言っていることを気にかけない。ニーチェが考えねばならないことに関心がある。

・あまりにも教授気質、あまりにもドイツ的、あまりにも非古典的、形而上学と美学の不純な混合だ。

・山師根性の発生源〔は何か〕。存在の分割。

・大ほら吹き。――構築家ではない。


山師だって?、大ほら吹きだって?


ニーチェは妹への手紙で言っている、

自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ。

ーーたぶん、「お兄さん、どうして物を書くとき、あんなに大言壮語するの?」 とでも訊ねられたのではないか。



ところで冒頭の「ひねくれた感情」については小林秀雄もすでに昭和二十五年のエッセイ「ニーチェ雑感」にて次のように引用している。

「私はニイチェを読む、彼を読むに必要な悪意をもって」とヴァレリイは言っている。これはニイチェの知らぬフランス風のアイロニイだ。彼は、彼が腹を立てようと立てまいと、ルーテルの血筋をひいている。そういう血筋についての日本人としての一種の不感症の意識が、ニイチェを読むには、およそ女々しさを知らぬ善意が必要だ、と私に言うようである。ニイチェは暴露心理学の名人ではない。それは彼にはあんまりやさしい芸である。心理は暴露されるが、ひたすら隠そうとしているものが、常にそこにある。それは真理の絶対性であり、そこにはドイツの伝統的精神の血が流れている。頑固な執拗な容赦のない精神の渇望が、憧憬がある。これを、彼の「悪意の知恵」のうちに、いつも感じているのには強い善意を要する。


ここには上に引用したヴァレリーの『ニーチェに関する手稿』における《あまりにも教授気質、あまりにもドイツ的、あまりにも非古典的、形而上学と美学の不純な混合だ》の翳も窺われる、すなわち《彼は、彼が腹を立てようと立てまいと、ルーテルの血筋をひいている》とは、《あまりにもドイツ的》の変奏だろう。


ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和ーー 『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』(神崎繁)よりの孫引き)

吉田秀和はもちろん小林秀雄の弟子筋であり、この見解も起源は小林秀雄にあるに相違ない。

反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)

ニーチェの主著のひとつ『道徳の系譜』では、この書に収められた三論文のテーマ、第一論文「善悪」、第二論文「同情」、第三論文「禁欲主義」に対して、それぞれ激しく反駁しているのだが、ニーチェこそ善悪の彼岸にある「善=真理」の人、窮極の「同情」の人、至高の「禁欲主義」の人であった、と小林秀雄はすでに暗に言ってしまっているのだ。


そして小林秀雄の見解も、ヴァレリーに負うところが大きいように見える。


ニーチェは卓越した人間であった。文献学の優等生。メッツの城壁の下では良き看護兵。勤勉で控え目な青年。屈託よりも病気で身を退いた優れた教授。狂気にいたってもなお静かな人柄であった。彼の生涯は真のキリスト教徒の、あるいは賢者の生涯であった。いや、賢者よりもキリスト教徒としてこそ適わしいと思える貞節、そのような貞節のつらぬく生涯であった。

ところが彼の存在の、さほど重要でもない内的部分が、書くことへと向かった。そしてこの部分こそが心神喪失をきたしたものと思える。全体的には穏和で規則正しいこの体系〔人間〕が、ある熱狂的な一部分に、錯乱した冗漫な一部分に、とり憑かれたのだ。」(ポール・ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』sur les manuscrits de Paul Valery au sujet de Nietzsche)

たとえばショーペンハウアーの《哲学上のドグマを、後年のニイチェは罵倒しているが、哲学上のドグマなぞ、初めから問題ではなかったのである》とある次の文を読んでみよう。

ニイチェは、「教育者としてのショオペンハウエル」を、私という人間を知る鍵だと、これを書いてから十年も経ってから、ローデへの手紙で言っているが、どんな鍵だかは言っていない。鍵をあけるのは読者の方だ。これはニイチェの変わらぬやり方である。

彼はショオペンハウエルの第一ページを読むやいなや、あらゆるページを読んで、あらゆる言葉を傾聴するに違いないことを決定的に感じてしまう、そういう種類のショオペンハウエルの読者だ、と言っているが、彼の書いたものは、まさにそういう読者の書いた「ショオペンハウエル論」であって、この哲学者の哲学上のドグマを、後年のニイチェは罵倒しているが、哲学上のドグマなぞ、初めから問題ではなかったのである。相手を信頼しきった愛読者として、ニイチェがショオペンハウエルから感得したものは、もっと深い処にあるもの、ドグマが死んでも今日もショウペンハウエルが私たちを動かしているものだ。感得とは私の勝手な言葉ではない、ニイチェはこの哲学者を語り、愛読者の「生理的印象」を語るのだ、とさえ言っている。「教育者としてのショオペンハウエル」は、同時代への攻撃が目的であり、それは鋭く雄弁で、一篇の重点をなしているのだが、ニイチェの鍵をあけるなら、私としては、彼が愛読者としての気持ちを語る最初の部分を選びたい。

ショオペンハウエルが、カントの「批判」から立ち上がったのは周知のことであるが、この点で、ニイチェは特色ある洞察を述べている。カントによって厳密に証明された知性の相対性を、いろいろと弄くり廻しているような「計算機械」たちには自分は何の興味もない、なぜ絶望しないのかと彼は言う。彼は、カントから与えられた打撃により、絶望した心を語るクライストの手紙を引用し、人間はいつになったら、クライストのように自然にすなおに感じるようになるか、いつになったら哲学の意味を自分の心の底に照らして計ることを学ぶようになるかと言っている。ショオペンハウエルは、それをやった。それをやったところに、ニイチェが見たものは奇怪なほど明らかなあたりまえなことであった。正直な思想家。その点で、彼に肩を並べられる思想家はモンテエニュ一人だと断言しているのもおもしろい。同時にニイチェは、当代の思想家の、不機嫌、憂鬱、錯雑が、つまるところ自分自身に対する信頼感の不安定をごまかそうとする虚偽から来ているのであって、他にもっともらしい理由なおいっさいないのだと見る。ところで、正直であるとは、「人生の全像」が、この苦痛と不幸との絶えぬ絵が一つ目で見えているという意味だ。ショオペンハウエルは、この絵から、画家を発見しようと男らしく、単純に誠意をもって考えて行く、他の思想家たちが、絵も見えずにカンヴァスと顔料とを研究している間に。この愛読者は、そういうふうに読んだ。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)

小林秀雄の、しばしば「はったり的」とも批判される様をこの文章に読むひとがいるかもしれない。ショーペンハウアーの「哲学的ドグマなぞ初めから問題ではなかった」だって? 研究者だったらこの断言に苛立つのを憶測できないわけでもない。

ニーチェはこう書いてるじゃないか、と。

ショーペンハウアーは生に敵対した、このゆえに彼にとっては同情が徳になったのである・・・アリストテレスは、周知のごとく、同情のうちに、ときどきは一服の下剤でなおすのが好ましい、病的な危険な状態をみとめた。彼は悲劇を下剤と解したのである。ショーペンハウアーの場合が(そしていかんながら、セント・ペデルブルグからパリまでの、トルストイからヴァーグナーまでの現代の全文学的芸術的デカタンスもまた)示しているような、同情のそうした病的な危険な鬱憤に一撃をくわえる手段が、生の本能からこそ事実探しもとめられなければならないであろう、すなわち、この鬱積が炸裂するためにである・・・(ニーチェ『反キリスト』原佑訳  P172)

だがニーチェが山師なら、小林秀雄を山師として読んでどうしていかないわけがあろう。その山師根性から生み出される神経や情動に働きかけてくるエクリチュールに魅せられないひとーーたとえば学者共同体のひとびとはーー、地道に研究活動に精をだしておればよろしい。それが《絵も見えずにカンヴァスと顔料とを研究している》のではないことを、ここで他人事ながら祈願しておこう。


《――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。》(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475

もっともいま黒字強調をした箇所も、たとえば次の文とともに読む必要があるだろう。

ひとはものを書く場合、分ってもらいたいたというだけでなく、また同様に確かに、分ってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にはならない。おそらくそれが著者の意図だったのだ--著者は《猫にも杓子にも》分ってもらいたくなかったのだ。すべて高貴な精神が自己を伝えようとする時には、その聞き手をも選ぶのだ。それを選ぶと同時に、《縁なき衆生》には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこに起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである」(『悦ばしき知識』381番 秋山英夫訳)

もちろんニーチェはこれだけではない。ここでニーチェ読みなら欠かせないとされるクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』を次のように引用しておいてもよい。

強度、刺激、音調。それが思考である。思考が何を語るかはまた別の問題であり、思考が何を語ろうとも同じである。そして思考が何かに適用されれば、また他 の強度、他の刺激、他の音調が生み出される。いまやニーチェは、もはや概念的能力においてではなく、情緒的能力において、思考を実践しようとする。それは 一つの限界点。知が、悟性の平和のためにではもはやなく、〈カオス〉の呼びかけにも似た諸力の意のままに活動する、そのための手段のようなものを手にする 限界点にほかならない。(『ニーチェと悪循環』「トリノの陶酔」兼子正勝訳)

「音調」という語彙が出てきた。ならば、こう重ねて引用せざるをえない。

二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』ーー「自分の声をさがしなさい」)

で、小林秀雄のニーチェ小論はこの側面が欠けているって? まさか!

ニイチェは、「ツァラトゥストラ」を音楽だと言っている。比喩ととるのは間違いだ。音楽は、まさしく、かくのごときものとして、彼には聞えていたのだと私は思う。もう一つ奇怪な例をあげよう。彼の一生で彼を本当に驚かした書物が三つある。二十一歳の時読んだショウペンハウエルの主著、三十五歳で出会ったスタンダアルの「赤と黒」、四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。第二部は、「汝自身を知れ」というパロディイに関する天才的な心理学だが、第一部は全く非ドイツ的な(ドイツという言葉は、ニイチェの用いた最大の反語の一つであることに注意したい)世にも不思議な音楽だと言うのである。「地下室の手記」を読んだ人に、これが音楽として聞えて来る耳を私は要求したいのだ。これが音楽家ニイチェの鍵だ。……(小林秀雄「ニーチェ雑感」)

…………

※附記

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収ーー意図的な誤読の「楽しみ」


2014年10月1日水曜日

ニーチェの隠し事

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………


『ツァラトゥストラ』の第二部に「同情者たちVon den Mitleidigen」という項がある(Thomas Commonの英訳では the pitiful)。

以下、手塚富雄訳より抜粋する。

わたしは、同情せずにいられないときにも、同情心の深い者とは言われたくない。また、同情するときには、自分の身を離して遠くから同情したい。まことに、わたしは苦悩している人たちに何ほどかのことをしたことはある。しかし、それ以上によいことをしたと思えたのは、わたしがよりよく楽しむことを覚えたときである。
……わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う。そればかりでなく、自分の魂をも念入りに拭うのだ。というのは、悩む者が悩んでいるのを見たとき、わたしはそのことを、かれの羞恥のゆえに恥じたのだから。また、かれを助けたとき、わたしはかれの誇りを苛酷に傷つけたのだから。
大きい恩恵は、相手に感謝の念を起こさせない。それどころか、相手のうちに復讐心を芽ばえさせる。また小さい恩恵が記憶のうちに残っているあいだは、それは呵責の虫となって、その恩恵を受けた者の心を食い荒らす。
……だが、わたしは贈り与える者である。友として友にわたしは喜んで贈り与える。しかし未知の者や貧しい者たちは、わたしの果樹から自分の手で果実を摘み取るがいい。そうすればかれらに羞恥の念を起こさせることが少ないだろう。

次に『この人を見よ』から。

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(手塚富雄訳)


これらの断片から窺われるのは、ニーチェは決して同情=憐れみを感じることそれ自体を批判しているわけではなく、ただその感情を露骨に表してしまうのを嫌厭すること甚だしいということだ。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。( ……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)

《ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。》(吉田秀和ーー 『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』(神崎繁)よりの孫引き)

《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

…………

ニーチェがトゥリンにあるホテルから外出する。向かいに馬と、馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると、馭者の見ているところで馬の首を抱き、涙を流す。

それは一八八九年のことで、ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば、それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。

そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬の頭を膝にのせているテレザが私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」の道から、退きつつある。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P332ーー「軽さと重さ」)

写真はいわば、穏やかな、つつましい、分裂した幻覚である。一方においては、《それはそこにはない》が、しかし他方においては、《それは確かにそこにあった》。写真は現実を擦り写しにした狂気の映像なのである。…写真と狂気と、それに名前がよくわからないある何ものかとのあいだには、ある種のつながりがある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。しかしながら…その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。写真によって呼び覚まされる愛のうちには、「憐れみ」という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた。私は最後にもう一度、私を《突き刺した》いくつかの映像、…を思い浮かべてみた。それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを胸に抱きしめたのだ。ちょうどニーチェが、1889年1月3日、虐待されている馬を見て、「憐れみ」のために気が狂い、泣きながら馬の首に抱きついたのと同じように。comme le fit Nietzsche, lorsque le 3 janvier 1889, il se jeta en pleurant au cou d’un cheval martyrisé : devenu fou pour cause de Pitié(ロラン・バルト『明るい部屋』).

…………

ニーチェはショーペンハウアーとの遭遇を次のように語っている。

或る日(1865年秋:二十一歳)、私は古本屋でこの本(『意志と表象の世界』:引用者)を見つけ、全然未知のものであったので、手にとってページを繰った。・・お前はこの本を家に持ち帰れ・・と私に囁いたのはどういうデーモンであったのか私にはわからない。いずれにせよ書物の購入をあまり急がないという私の日頃の習慣に反した出来事であった。(ニーチェ『回顧』)

ここでは『意志と表象の世界』からではなく『存在と苦悩』から。

すべての生きとし生ける者に限りない同情を持つことこそ、倫理的に正しい態度をとる上で最も堅固、確実な保証を与えるものであり、これについてとやかく良心の問題などを取り上げる必要はない。この気持ちに満たされた者は、必ずや、誰にも危害を加えたり、侵害したり、なんびとをも陥れようとせず、むしろできる限り他人のことをおもんばかり、あらゆる人を許し、助けるようつとめるであろう。さらにそうした人の行動は、正義と人間愛の刻印を担うことになろう。(ショーペンハウアー『存在と苦悩』)

ここにまた「正義」なんて言葉が出てくるのだよな
この文はじつは、「"正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク)」やら
正義とは不快の打破である」の続きものだ、ということを分かってもらえるだろうか
あるいは、「「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ」の。
ーーまさか! だれにもそんなことは期待してないさ


《――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。》(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475)


ショーペンハウアーは生に敵対した、このゆえに彼にとっては同情が徳になったのである・・・アリストテレスは、周知のごとく、同情のうちに、ときどきは一服の下剤でなおすのが好ましい、病的な危険な状態をみとめた。彼は悲劇を下剤と解したのである。ショーペンハウアーの場合が(そしていかんながら、セント・ペデルブルグからパリまでの、トルストイからヴァーグナーまでの現代の全文学的芸術的デカタンスもまた)示しているような、同情のそうした病的な危険な鬱憤に一撃をくわえる手段が、生の本能からこそ事実探しもとめられなければならないであろう、すなわち、この鬱積が炸裂するためにである・・・(ニーチェ『反キリスト』原佑訳  P172)

《カントをもまた、道徳の毒蜘蛛であるルソーが刺していた。カントにもまた、魂の底には道徳的な狂信の思想が伏在していた。》(『曙光』序文)

ルソーに反対。――われわれの文明は何かあわれむべきものそれ自体を持つということが真であるなら、ルソーとともに「このあわれむべき文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」と結論を続けるか、あるいはルソーに反対して次のように逆の結論を出すかは、諸君のお好み次第である。「われわれのすぐれた道徳は文明のこのあわれむべき状態に対して責任がある。善悪に関するわれわれの弱い、男らしくない、社会的な概念、および心身に対するその絶大な支配は、すべての身体とすべての心をとうとう弱めてしまい、自主的な、独立的な、とらわれない人間を、すなわち強い文明の支柱を破壊してしまった。劣った道徳に現在なお出会う場合、これらの支柱の最後の破片が見られる。」やはりこのように逆説が逆説に対立するとすれば! この場合真理がどちらの側にもあることは不可能である。それでは真理はそもそもどちらかの側にあるのか? 吟味せよ。(ニーチェ『曙光』P163番 茅野良男訳)

ーーとしつつ後年、カントやショーペンハウアーよりも、ルソーを相対的に持ち上げている。

二人のドイツ人。――精神に関してではなく、魂に関して、カントやショーペンハウアーとを、プラトンや、スピノザや、パスカルや、ルソーや、ゲーテなどと比較するなら、上述の二人の思想家は不利な立場にある。彼らの思想は情熱的な魂の歴史を形成していない。そこでは、物語も、危機も、破局も、臨終も、何ら推測されない。彼らの思索は同時にひとつの魂の無意識的な伝記であるのではなく、カントの場合にはひとつの頭脳の歴史であり、ショーペンハウアーの場合には、ひとつの性格の(「不変なものの」)記述と反映であり、「鏡」そのものの、すなわち優れた知性の喜びである。カントは、その思想を通して彼がちらちら光るとき、最上の意味で実直で、尊敬すべきように思われるが、しかし重要でないように思われる。彼には広さと力が不足している。彼はあまり多くの体験はしなかった。しかも彼の流儀の仕事は、重要なことを体験する時間を彼から奪いとる。――当然のことながら、私は外面的な粗っぽい「出来事」のことを考えているのではない。閑暇を所有して思索の情熱に燃えている全く孤独で全く静かな生活の帰属する、運命と戦きとのことを考えているのである。ショーペンハウアーは、カントよりも先んじている。彼は少なくとも生まれつきある種の激しい醜さを身につけている。憎悪や、欲望や、虚栄心や、邪推の点で、彼は幾分野性的な素質の持ち主であり、この野性のための時間と閑暇とを持っていた。しかし彼の思想圏にも不足していたように、彼には「発展」が不足していた。彼はいかなる「歴史」も持たなかった。(『曙光』481番)

ところでカントの正義ってなんだったっけ?
これでいいのかな、カント研究者さんたちよ

カント自身、その方法の斬新さは、いまや法が<善>に依存するのではなく、逆に<善>が法に依存するのだという点にあるのだと口にしている。それが意味するところは、もはや法には、その権利の源流となる上位の原理を基礎にしてみずからを築く必要性もなければ、またその可能性もないということである。(……)

事実、法がそれに先立ってある高次の<善>に根拠をおくことがもはやなく、その内容をまったく非限定的なものとして放置するそれ固有の形態によって有効であるとするなら、最善をめざして正義が法に服するということは不可能になる。というよりむしろ、法に服するものは、然るが故に正義にかなっているわけではないし、またそう自覚することもないということだ。事態は逆であって、自分は罪を犯しているという自覚があり、彼は前もって有罪者なのである。しかも厳格に法に服すれば服するほど、ますます罪深いものとなるのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』「法、ユーモア、そしてイロニー」の章 蓮實重彦訳ーーメモ:超自我、良心、罪責感(フロイト)

ラカンの「サドとともにカントを」なんていうのは持ち出さないでおくよ
この程度にしておくぜ、ここでは。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン

さて、なんのはなしだったか?
ニーチェは、後年ルソーを持ち上げる、なんて書いてしまったんだなーー、まさか!

私の意味での進歩。――私もまた「自然への復帰」について語るが、もっともそれは、もともと帰ることではなく高まりゆくことであるーー高い、自由な、怖るべきものでさえある自然と自然体、大いなる課題と戯れる、戯れることの許されているそうした自然と自然性のうちへと高まりゆくことである・・・それを比喩で言えば、ナポレオンは私が解する意味での「自然の復帰」の一つであった(たとえば戦術のことにおいて in rebus tacticis それでころか、軍人の知るとおり、戦略的なことにおいて)。――ところがルソー ーーこの男はもともとどこへ帰ろうとしたのであろうか? ルソー、この最初の近代的人間は、理想主義者と下層民とを一身にそなえている。この男は、しまりのない虚栄としまりのない自己軽蔑に病んで、おのれ自身の外見を保つために、道徳的「品位」を必要とした。近代の閾ぎわに陣取ったこの奇形児もまた「自然への復帰」を欲したーー繰り返したずねるが、ルソーはどこへ帰ろうとしたのであろうか? ――私は革命の点においてもやはりルソーを憎悪する、革命は理想主義者と下層民というこの二重性を世界史的に表現するものであるからである。この革命が演ぜられた血なまぐさい茶番、その「無道徳性」は、私にはほとんどかかわりない。だが、私が憎悪するのは、そのルソー的道徳性であるーーこの道徳性がいまなおそれで影響をおよぼし、一切の浅薄な凡庸なものを説得して味方にしている革命のいわゆる「真理」である。平等の教え! ・・・しかしこれ以上の有毒な毒は全然ない。なぜなら、平等の教えは正義について説いたかにみえるのに、それは正義の終末であるからである・・・「等しき者には等しきものを、等しからざる者には等しからざるものを」――これこそが正義の真の言葉であるべきであろう。しかも、そこから生ずるのは、「等しからざるものをけっして等しきものになすことなかれ」ということにほかならない。――あの平等の教えの周囲ではあれほど身の毛もよだつ血なまぐさいことがおこったということは、この選りぬきの「近代的理念」に一種の栄光や火光をあたえ、そのためこの革命は演劇として最も高貴な精神をも誘惑したのである。このことは結局は、この革命により以上の敬意をはらう理由とはならない。――私は、この革命が感じとられなければならないとおりに、嘔吐をもってそれを感じとったたった一人の人を知っているーーゲーテを・・・(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」『偶像の黄昏』原佑訳 P142)

ルソーを読むには、鼻をきかせなくちゃな。もちろんニーチェを読むのにも、さ。

《私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりに進歩的思想を語ったが、一方で自分が産ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。(……)ドストエフスキーを 感傷的な作家と呼ぶ場合、それは、読者の側に因襲的な同情の念を機械的に惹起しようと、 ありふれた感情を非芸術的に誇張する作家、という意味なのである。》(ナボコフ『ロシア文学講義』ーー「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ


…………

◆『悦ばしき知識』338番 「苦悩への意志と同情者たち」より 、(「共苦Mitleid」/「共喜Mitfreude」)の叙述。

何はさておいても同情深い人間であるということは、君たち自身の身のためになることであろうか? さてまた、…苦悩している人たちの身のためになることだろうか?

―我々は最も深刻に、最も個人的に悩んでいるものは、他人の誰にもほとんど理解されえないし、窺い知られないものである。…それなのに、我々が苦悩者だと気づかれる際は、いつも、我々の苦悩は浅薄な解釈を蒙る。他人の苦悩から、その独特に個人的な契機を剥ぎ取ってしまうのが、同情という感情の本質に属したことだ。…不幸な人たちに施される大方の慈悲には、同情深い者が運命をいじり回す知的軽率さが見られて、何となく腹立たしい気持ちになる。

同情深い者は、私や君にとって不幸とされているもの、内面的いきさつやもつれの全体について、何ひとつ知るところがない! …彼らは援助しようとするが、不幸の個人的必要性というものが存在することには思いつかない。のみならず私にも君にも恐怖・窮乏・零落・暗夜・冒険・離れ業・失敗など が、その反対のものと同様に必要であることに、いや、神秘的な言いあらわしをすれば、自分の極楽に至る道が、いつでも自分の地獄の歓楽を突っ切っていくも のだということに、思い及ばない。

ああ、君たち安楽で善良なる方々よ、君たちは人間の幸福について何と僅かしか知っていないことか! ―なぜかといって、幸福と不幸とは兄弟であり双生児であって、そろって大きく育ってゆくか、あるいは君たちの場合のように、そろって―小さいままでいるからである!……

……さもあれ私は自分に次のように告げる私の道徳を秘密にしておく気はない、―お前はお前自身を生きうるために、隠れて生きよ!お前と現代との間に、少なくとも三世紀の皮膚を張りわたせ! …お前とて人を助けようとはするだろうが、しかし、お前と苦悩を一にし希望を同じくするがゆえに、その人の憂苦をお前が残らず了知している者たちだけを、助けよ、―つまり、お前の友達だけを助けよ。それも、お前がお前自身を助けるようなやり方でだけ助けるがいい。―…私は、彼らに、こんにちごく僅かな者だけが理解して、あの同情共苦の説教家たちがほとんど理解しないものを、教えようと思う、―つまり同喜共歓をだ! (信太正三訳)

◆『曙光』より「同情する人間と同情を持たない人間」

「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているのに、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、それはすでにそれ自体で、他人に対するわえわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることをしまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。

しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれがその際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快楽の衝動に服従することもやはり確実である。――快楽が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあらゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――

おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずーーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。(彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である。――しかし彼らをすぐれた意味で悪いと呼び、同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番 茅野良男訳)

ーーとだけ引用して、ニーチェの「同情」を、逆張り的に解釈するのは一面的であるに相違ない。以下、次回?、もしくはそのうちに続く(たぶん)。

ところで、同情をもたない人間は、《大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない》というのはーー、そうだなよなあ

自分が苦しんでいるときに他人への同情なんてしないだろうから。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』フロイト著作集5 p117)


現代日本では、生活苦という「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」人間が多くなったのだろうな。ーー《みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。》(「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より

「ルソーの憐れみのひと」らしい東浩紀氏がこんなこと言ってたなあ。

@hazuma: ぼくは第二次大戦については、戦争悪いとかとは別に、いちどあれだけリベラルでモダンになった日本が急速に竹槍とかモンペ一色になっていく、その文化的墜落にいつも衝撃を受けるのよね。その点では、この15年ほど似たような墜落が生じていると感じていて、このあと戦争がなかったとしても嫌だ

@hazuma: いまはバブル世代や団塊ジュニアって評判悪いけど、95年までの日本はどうのこうのいいながら余裕があって、嫌韓本がベストセラーになったりすることはなかった。それは単純にいいことなんじゃないですかね。「戦わなければ生き残れない!」とか、そりゃそうかもしれないけど、基本下品ですよ。 (東浩紀)

ーーというわけで、この話題を続けようと思ったら、百投稿ぐらい連投しなくちゃならないんじゃないか。で、やっぱり「専門家」にまかせるよ。この投稿自体、これで12000字ほどだから、そこらあたりのブログの5~10投稿分ほどはあるのだよな

原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。(森鴎外『伊沢蘭軒』 その百三)

で、問題は、専門家や学者はお上品な種族のひとがほとんどで、鼻が退化しているのじゃないか、ということだな

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。(M.ホルクハイマー、Th.W.アドルノ『啓蒙の弁証法』)


2014年7月6日日曜日

波紋のように空に散る笑いの泡立ち

@RichterBot: 何にも増して[ベートーヴェンの]ピアノ協奏曲第一番*が好きです。オーケストラが演奏しているのを聴くと、まるで輝いた光を放つ美しいものが現前したかのような、他の何とも異なる感覚に圧倒されます。*http://t.co/irZBfrbFjD. 

いいこというなあ、リヒテル

「まるで輝いた光を放つ美しいものが現前したかのような」なんて
初期ベートーヴェンは
このピアノコンチェルト一番だけじゃなくて
この感覚をあたえてくれる曲がおおいんだよなあ
1795年作曲だから25歳か

「波紋のように空に散る笑いの泡立ち」(大岡信「春のために」)

――なんだよなあ

ビロードの肌ざわりだよなあ、あの感覚


理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出された時」)

ピアノコンチェルト2番もおなじ25歳のときの作品なんだな
「私はもう弾かない
初期のベートーヴェンだと軽くみるひとが多いからね」(ルドルフ・ゼルキン)だってさ



だいたい中期のアパッショーネとか皇帝をいつまでも好んでいるヤツってのは

なんとうか、あれは若い頃めぐりあって感動しておけばいいので

幼いころから音楽を聴きつづけていまだ好きなままでいるヤツってのは

信じがたいなあ

ホモセンチメンタリスじゃあないかい?


ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』P295)

中期のベートーヴェンは、声をあげて泣くのだよなあ

《その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。

彼が誇張したとはいわないが

その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、

彼はよく知っていた》(吉田秀和)


いやいやなかにはいい曲もあるよ

気分にもよるしさ


でオレの好みをいってもしょうがないんだよな

どこかの馬の骨が好きだといってもね


……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

リヒテルが好きっていうから意味があるのさ

田舎町で少年時代をおくったんだけど

県境をこえた隣町にリヒテルが訪れて

はじめて海外演奏家をまじかにみたのが

リヒテルでね

近親のものがヤマハで技師していてね

練習しているところ(ブラームスの間奏曲)をのぞかせてもらったんだなあ






だからリヒテルにはときにおいおいという演奏があっても

許しちゃうんだなあ

「波紋のように空に散る笑いの泡立ち」と引用して想いだしたけど
めったに聴かないストラヴィンスキーの
ーーConcerto for 2 solo pianosは1935年の作品かい?
五十歳すぎての作曲なんだなあ
「まるで輝いた光を放つ美しいものが現前したかのような」
あの泡立ちにくらくらするのは
この馬の骨の耳がへんなせいだろうよ




ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。(吉田秀和『私の好きな曲』)

2014年2月17日月曜日

カペー四重奏とプルースト

表題は「カペー四重奏とプルースト」だが、書いているうちに別のところにいってしまった。

カペークァルテットの演奏録音のいくつかを貼り付け、そこにプルーストとカペーの関係をすこし付加しようと思っただけなのだが、そのなかでプルーストの次の言葉に出遭った。


・音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない

・粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

すなわち隠れたテーマはこの文にかかわるが、そして重点の置き方を構成し直すべきかと思ったが、メンドウなのでそのままにする。

…………


◆カペークァルテットCapet String Quartet ラヴェル




◆エベーヌクァルテット Quatuor EBENE

ーーこの若いクァルテットのヴィオラ奏者の自己主張の強さが好みなのだが(第一ヴァイオリンの呼気がまざまざしく聞こえてきそうなその歌いようはもちろんのこと!)、第一ヴァイオリンが際立つカペー時代にはこういうことは少ない。





◆カペー ドビュッシー弦楽四重奏G





…………

◆カペー ベートーヴェン OP131





ここではあえてほかの著名な演奏楽団のものは貼り付けないが、フレージングやアーティキュレーションなどが、驚くほど「現代的」にわたくしにはきこえる(ポルタメントの古さには耳を塞ぐわけにはいかないが目を瞑ろう)。もちろん第一ヴァイオリン主導であり過ぎる当時のスタイルの翳は色濃く落ちているが、第二ヴァイオリンのなんと素晴らしいこと! それにボウイングの新鮮さ。その飄逸と清澄、高雅と峻厳。媚を排した孤高。これは、大時代的、ロマン派的な演奏スタイル以前の、すなわち第一次世界大戦以前の香気ということか? ディレッタントに過ぎないわたくしには、いわゆる現代的なアンサンブルの妙技といわれるものよりも、こういった演奏のほうがモダン(モダン? いや来るべきモダンといおう)に聞こえてしまう。いや一時期比較的熱心に聴いたアルバン・ベルク四重奏団のアンサンブルの妙技なるものに食傷しているだけなのかもしれないが。(《カペーは良いけれど、今きくと、私にはどうしてもついてゆけない古めかしさがある》(吉田秀和 ベートーヴェン作品131『私の好きな曲』--ワルカッタナ、時代錯誤的で。まあたしかに第一楽章はアンサンブルの妙の楽章だからちょっといけない、かつてここだけ聴いて続けて聴くのをやめたせいで、今までカペーに親しんでいなかった)

当時〔一九一三年から翌年〕パリ中の人々が熱狂し(とはいってもプルーストの関心はそのためにかきたてられたわけではなかったが)、最近編成しなおされたばかりのカペー四重奏団の十八番だったベートーヴェン晩年の四重奏曲に彼は熱中していた。音楽会がすんだのち、プルーストは楽屋に足を運び、率直な、しかし微妙さを欠いてはいない言葉で自分の感動をのべ、カペーを驚かすと同時に魅了した。「ベートーヴェンの天才と演奏者の技倆に関して、あれほど深い洞察を見せた評価を聞いたことはかつてなかった」--のちカペーはそう断言した。(ペインター『マルセル・プルースト』)

『この傑作では、すべてが、完璧で、必然で、変更の余地が全くない』と、この曲(ベートーヴェン 作品 131)について賛辞をおしまなかったのは、晩年の死ぬごく前の、ストラヴィンスキーであった。

ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。これは、どういうことだろう? もっとも、ストラヴィンスキーは、若いころだってベートーヴェンの偉大さを認めてなかったわけではないと、後年、ロバート・クラフトに述懐しているが、しかし、それもまた奇妙な事情の下で、だった。というのは、彼は、一九二二年《ルナール》の初演のあと、招かれていたパーティでマルセル・プルーストに出会った。

『プルーストは、ストラヴィンスキーとは戦前〔第一次大戦〕すでに知りあいになっていたが、〔このパーティで〕最初に口をきいた時、荒れ模様の初演を終えたばかりの大作曲家に呈する質問としては、もっとも無器用な質問を彼にむけたのだった。―― 「ベートーヴェンはお好きですか?」 ――「大嫌いですよ」――「しかし晩年の四重奏曲などは ……」とプルーストは抗議した。「彼が書いたもののなかで最悪の作品ですよ」とストラヴィンスキーはどなった』(ペインター、岩崎力訳《マルセル・プルースト》)

晩年になって、この時の様子を改めてクラフトにきかれると、こう弁解したのだ。『プルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフランス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露していた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断というより、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴するところだったのだ』(ストラヴィンスキー、ロバート・クラフト、吉田秀和訳《百十八の質問に答える》)

本当に、そうかしら? いや、そうだったとしておこう。
だが、彼がプルーストの音楽についての真剣な関心を全くみそこなったのは、これはもう釈明の余地がないのではないかしら。

――― 吉田秀和『私の好きな曲』上  P15-16

プルーストが自宅に呼んで己れのためにのみ演奏させたのは、プルーストの年譜(吉田城作製)によればプーレ四重奏団でとされているが(ガストン・プーレはドビュッシーと親交があった)、これはセレスト(家政婦フランソワーズのモデル)の証言もある。だがAnne Penesco Proust et le violon interieur 書評 安永愛)によれば、《プルーストは、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の他に、 リュシアン・カペー弦楽四重奏団にも自邸での演奏を依頼している》とある。ただしセレストは否定しているとする情報もあり、ひょっとして「演奏を依頼している」だけで実現しなかったのかもしれないが判然としない。


この安永愛氏の書評は、プルーストの小説に頻繁にその名が出てくる架空の音楽家ヴァントゥイユ、そのソナタや七重奏曲のモデルをめぐって実に興味ふかいことが書かれており、一読の価値あり。ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/7321/1/8-0101.pdf

引用してもいいのだが、断片では誤解を招きそうな個所がある。すなわち今まで一般にはサンサースがモデルとされたり、いやフランクやフォーレだとされたりしてきたが、プルーストは後年サンサースは凡庸な音楽家だと言っているらしい。だが、そのあたりが微妙なのだ。ラヴェルやフォーレの記述個所は除き、サンサースをめぐる個所だけ引用しよう。

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

《音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない》とは、プルーストの小説のなかで、このブログでもしばしば引用しているとても示唆的な次の文と似たような見解を感じる。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

安永愛氏によれば、ベネスコはプルーストのサンサースの評価を次のように書いている。

プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

音楽だけでなく芸術作品一般において(あるいは男女の愛の対象においてさえも?)、「石鹸の広告」のような作品を愛していても恥じることなかれ! と宣言するつもりはないが、《粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ》には相違ない。「社会の」? いや「個人の情緒の歴史」でももちろんよい。これは<対象a>にかかわるのだ。→ 「人間的主観性のパラドックス」覚書

それは、「好き」の次元に属するのではなく、「愛する」の次元には属するものであり、ロラン・バルト用語のプンクトゥムのことと言ってもよい、――刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目、または骰子であり、「私」を突き刺すばかりか、「私」にあざをつけ胸をしめつける偶然。


たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)

サンサースの作品は、プルーストにとって、己を引き渡すことになってしまうものだったのかもしれない。ひとは己を引き渡すものについて語るときはアンビバレントな愛憎の仮装によってしか語れない。ロラン・バルトは彼の至高のプンクトゥムの写真(母の幼年時代の「温室の写真」)を写真論でもある『明るい部屋』に掲載することを拒む。《「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう》(『明るい部屋』)

心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない。(堀江敏幸『河岸忘日抄』)

ーー本来、そうであるはずだ。

ところで、<あなた>はそういう作品をもっているか?

実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。(蓮實重彦『随想』)

堀江敏幸がいうような「ぜったいに明かせない」というのは極論だろう。長い生涯において、ふとその名を口に洩らすことがあるだろう、少年が秘密の宝を親しい友と共有するようにして声をひそめてつぶやくことが。だがおおやけの作品にはめったにその名がでてこない。作家や芸術家たちの秘密、場合によっては作家の核心はそこにある。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。( ……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)










2014年2月10日月曜日

「えらくなろう」という不滅の幼児願望

蓮實重彦の伝説の言葉(真偽は確かではない)「私を偉そうと言う人がいますが、偉そうなのではなく、偉いのです」における「偉い」というのは、承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことをやるということです。だから若者には「偉そうなのではなく偉い」態度で行け、と言いたい。(千葉雅也ツイート)

この「偉い」は、『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』における渡部直巳との対談のなかでの発言だったはず。

ところで浅田彰が最近の対談で《不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか》と発言しているようだ(インターネット上から拾ったので前後関係は不詳)。

この「偉そう」は、蓮實重彦の発言の文脈では、「偉そう」ではなく、「偉くしていればいいじゃないですか」としたほうがいいだろう。


 

◆SPA抜粋 2/11・18合併号 
浅田彰)……東浩紀さんなんてとても優秀な人だと思うし、柄谷行人さんと僕で編集していた『批評空間』でデリダ論(『存在論的,郵便的』)を書いてくれたことはありがたいですよ。あれは単行本で一万部くらい出て、15年たった今でも本屋で売れている。それが最大の承認でしょ?
ところが、例えばアニメについてツイートしたら、すぐにレスポンスが来る。それが承認だと思っちゃったんじゃないか-そんなの、翌日にはなかったも同然なのに。

そういう即時的レスポンスを求めて、彼は情報社会論とおたく文化論に行った。彼の時代認識に基づく決断だったから反対はしないけど、 何十年も読まれる本を書ける人なのにもったいない気がするんだな。やっぱり、反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。

ツイッターなんかでの評価を気にしすぎなんですよ。千葉さんのドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』について、僕は「不良の思想であるところが面白い」と褒めたけれど、不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか。もっとも、東浩紀がオタクをデータベース的動物として評価したのに対し、単に動物的なものとして切り捨てられたヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。

NHKの討論番組に若手論客と呼ばれう人たちがよく出てくるじゃないですか。2、3分しか見ないけれど、情報の整理も討論もなかなか上手だと思いますよ。
しかし、あれではほとんど学級会でしょう。「良心的」な「優等生」が、ネットも駆使してマイノリティの声を取り入れましょう、民主主義をヴァージョン・アップしましょう、と。
僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

福田和也)「それ、本気で言ってんの?」という。最初はジョークかと思ってたけれど。

浅田彰)代議制の可能性と限界については昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。

浅田彰)京大の人文研にいる、東浩紀の同級生でディドロ研究者の王寺賢太が、國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。
じゃあ何を言うのかと思えば、住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。

ともかく國分のような「似非優等生」よりは千葉のような「不良」のほうが面白い。
ただ、自己批判しておくと、僕はガキのアナーキーをあえて肯定する立場だったんだけど、その前提をもっと強調しておくべきだったかもしれない。
ドゥルーズ&ガタリの概念に「マイナーになる」-女性に、子供に、動物に、知覚不能になる、というのがありますね。
しかし、子供に「なる」のと、子供で「ある」ことに居直るのは、全然別のことです。
大江健三郎がアドルノやサイードを踏まえて言う「晩年様式」じゃないけれど、老人が子供に「なる」ときに新鮮な驚きを感じたりするのであって、子供で「ある」ことに居直ったままでは子供に「なる」ことはできない。
というわけで、死にそびれたことでもあり、ここは潔く転向して・・・。福田さんは昔から一貫して、「成熟が必要だ」と。
僕は僕で、子供に「なる」ためにこそ成熟が必要である、という当たり前のことを言っておかざるをえない、と。

この発言の一部は浅田彰ならそう語るだろうと以前に推測したもので、浅田彰と蓮實重彦の対談「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰中央公論20101 月号、)を引用したことがある(ふたりの対談内容はくどくなるので再掲しない)。

そこでは己れの拙い印象を次のように書き始めている。

《ドゥルーズ研究者の評判の書を、序章、一章、二章と読みつつ、ツイッター上やらブログで感想を呟き、それを著者がリツイートしたり、感謝の念を表明する。

こんな現象がこの一週間ほど頻発している。

ダイジョウブカネ
クルッテルゼ
ハシタナイ連中ダ

…………》

もっとも浅田彰は福田和也氏の対談では千葉雅也氏のヤンキー論ベースの切り口にも言及しており、その立場を顧慮して、《単に動物的なものとして切り捨てられたヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。》と語っているが、このあたりのことについてはわたくしは全く不案内である。

いずれにせよ、冒頭の千葉雅也氏のツイートは、昨年末来、蓮實重彦との対談や、浅田彰の批評(吟味)を織り込んでの《承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことを》やりましょうという若者へ向けてのメッセージのはずだ。

すなわち千葉氏からみても《承認欲求のみみっちい競争》ばかりが目につくということだろう。

実際ツイッターを眺めていると、人文学系の研究者だけでなくたとえば「芸術家」の範疇に括られる仕事をしている人たちでも、もっと「偉そう」、いや「偉く」していたらいいのに、と感じることがある。そんなに媚をふりまいて気に入られようとしなくてもいいのではないかと。

だが彼らも生活がかかっているはずであり、人文学や文芸への公衆の関心が凋落しつつあるのが事実とするならば《公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消》(ヴァレリーーー「承認欲望と承認欲動」より)せざるをえない状況にあるのかもしれない。

だがそうして自らの作品や書き物の宣伝活動をすると失われるものがある。ジョン・エルスターが「本質的な副産物であるような状態」といったものの「魅惑」、すなわち〈対象a〉としてのアウラが。もちろんいまどきアウラなどというのは時代錯誤もはなはだしいという立場があるのを知らないわけではない。


もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。そうした状態をもたらす唯一の方法は、その状態をめざして行動するのではなく、他の目標を追求し、それらが「自然」に生まれるのを望むことである。たしかにそれらはわれわれの行動に属しているが、究極的には、われわれが何をするかによってではなく、われわれが何であるかによってわれわれに属している何かなのである。このわれわれの行動の「副産物」にラカンが与えた名前は<対象a>である。これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち、われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないXである。(ジジェク『斜めから見る』p148

蓮實重彦が《読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ》と比較的最近のエッセイ(『随想』)で書くのも、ある部分ではそれにかかわるのではないか。

もっとも若いひとたちからは、次のような反発はあるだろう、蓮實重彦や浅田彰はすでにある時期に大いに「承認」された人物であり、承認欲求うんぬんを批判するのはもうすでに承認に食傷しているからにすぎない、と。

たとえば《隠れた人生が最高の人生である》(デカルト)やら《自己でありたくない欲望》(ヴァレリー)としたひとたちでさえ、実際にそうであったかは疑わしい。

デカルトがスウェーデン女王クリスティーナに招聘された(女王のために講義をしてわずか1ヶ月で体調を崩し、肺炎で亡くなった)のは、ただ生活のためだけだったとは思われない。

またしてもヴァレリーであるが、「あなたはなぜ書くか」というアンケートに「弱さから」と答えていたのは、そのとおりだと思う。執筆者とは自己不確実に悩み、批評に傷つき、ひそかに称賛によって傷口に包帯を当てている存在だと仮定して、編集者は間違わないだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

ほかにも職業としての詩人の立場を固持した谷川俊太郎、すなわち大学の先生とかの定職をもたなかった谷川は、公衆に承認される試みをときにはせざるをえなかったとすることができるだろう。《まあちょっと世間にサービスしすぎじゃないのかな、こういうのは歌謡曲の作詞家に任しておけば良いんじゃないのかな、なんて僕などはつい意地悪く考えてしまうこともある》(松浦寿輝 現代詩――その自由とエロス


ところでフロイトは『夢判断』で、己れの夢を分析して《不滅の幼児願望たる「えらくなろう」》と書いている。

……なぜ私が日中思想の、ほかならぬこの代用物を選ばなければならなかったのか。これに対しては、ただ一個の説明があるのみであった。R教授との同一化に対しては、この同一化によって不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望が充足させられるのであるから、私はすでに無意識裡にいつもその用意をしていたのである。(フロイト『夢判断』高橋義孝訳)

「えらくなろう」などという「はしたない」幼児願望はすでに拭い去ったよ、と「成熟」したつもりのひとたちもいるだろう。だがそれはそんなに簡単に払拭できるものではないのではないだろうか。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。(古井由吉――幼少の砌の髑髏

「えらくなろう」という言い方に抵抗があるのならば、「愛されたい」でもよい。それは「母」の愛を独占したい、という願いだ。

人間の幼時がながいあいだもちつづける無力さと依存性……。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行なわれ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない、愛されたいという要求を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』 フロイト著作集 旧訳)

これは無力な乳児として生れたわれわれ人間の原トラウマのようなものであり、誰もが否定するわけにはいかず、いくら後年「成熟」して拭い去ったつもりでも、ふとしたはずみにこの心的外傷は露顕する。

愛されたい欲望、それは、愛する対象objet aimantがそれとして捉えられる、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ、隷属させられる欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点son bienのため愛されることにはほとんど満足しません。これはよく知られています。彼の希求は、主体が個別性への完全なsubversionに行くほど愛されること、この個別性がもちうる最も不透明で最もimpensableなものにsubversionされることです。人はすべてが愛されたいのです。On veut être aimé pour tout.彼の自我のためだけではありません。デカル卜はこう言います。彼の髪の色、奇癖、弱さ、すべてのために愛されたいのです。(ラカン セミネール一巻『フロイトの技法論』)

巷間に「承認欲求」といわれるものの起源のひとつはこのフロイトやラカンの指摘にあるはずだ。

…………

ところでもう一度浅田彰のSPAの対談の発言に戻れば、「哲学者」として、もう一人の人気者國分功一郎に対し、「似非優等生」「あれではほとんど学級会でしょう」などとしている。


國分功一郎氏はキルケゴールのシンポジウム開催をめぐって、次のようにツイッターで発言している。

研究者に限らないかもしれないが、世の中には「…しないと…できない」という発想が多すぎる。僕は「…すれば…できる」という発想を多くの人に持ってもらいたい。どこぞの組織が後ろ盾にならなくても、こんな素晴らしいシンポが開けるし、それを出版もできるんだ。

これは通俗道徳としては「正しい」のだろうし、「啓蒙」哲学者、モラリストの言葉としては肯うのを躊躇うつもりはない(たとえばアランならそんなことを言いそうだ)。大学教師の言葉としてもふさわしいのだろう。また國分功一郎氏は若き仲間たちの「アニキ」分として振舞っており「オトウト」分たちには頼もしい存在なのだろう。もっともこうやって育てられた「弟」たちは恩義を感じて、後年互いの「批判」(吟味)がしにくくなるのではないかと邪推しないでもないが。

かれらのうちの若干の者は意志をもっている。しかし大多数の者は、ただ他人の意志によって動かされるだけである。かれらのうち、まがいものでないものも若干はいる。しかし大多数はへたな俳優だ。

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。
(……)

かれらのもとでわたしが最悪の瞞着と見なしたことはこれだ。それは命令する者も、仕える者の徳の面をかぶることである (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「卑小化する徳」手塚富雄訳)


ところで浅田彰のいう「哲学者」、すなわち《哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試み》の存在であるならば、國分功一郎氏の発言はあまりにも「哲学者」から遠く離れている、あるいは高校学園祭メンタリティのように感じられないでもないのだ。もともとそういう資質なのか、あるいはなにか深謀遠慮があって「俳優」をやっているのかはわたくしには窺知できないが。

もっとも、《いまは当たり前のことを当たり前にいわなきゃいけないんだ》、と中上健次は死ぬ一年前(1991)に語っており、学級会や学園祭メンタリティーを敢えて引き受けて、若者を鼓舞するそれなりに影響力のある人物は、現代ならいっそう不可欠であるには違いない。


ここで、ニーチェの『ツァラトゥストラ』第二部の「対人的知恵」の、「虚栄的な人間」と「誇りの高い者」を、冒頭に掲げた千葉雅也氏のツイート「偉そうなひと」と「偉いひと」として読んでみよう。《虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だ》とニーチェが書いているのは、もちろんジョークであり、虚栄的な人間の振舞いは、見世物としては面白いということだ。

わたしの第一の対人的知恵は、人間たちがわたしを欺くのにまかせて、詐欺漢を警戒せずにいるということである。(……)

さらに、わたしの第二の対人的知恵は、虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だということである。

傷つけられた虚栄心はあらゆる悲劇の母ではなかろうか。それとは反対に、誇りが傷つけられた場合には、おそらく誇りよりももっとよいものが生まれるであろう。

人生がおもしろい見ものであるためには、人生の劇がよく演じられねばならぬ。しかしそのためにはよい俳優が必要である。

わたしは、虚栄的な者がみなよい俳優であることを発見した。かれらは人々がかれらを喜んで見物することを望んで演技するーーかれらの全精神はこの意志と結んでいる。

かれらは舞台にあがり、自分の工夫した姿態を演ずる。かれらのほど近くにいて、人生劇を見物することを、わたしは好む。――それは憂鬱を癒してくれる。

そういうわけで、わたしは虚栄的な人間たちを大目に見る。かれらはわたしの憂鬱の医者であり、わたしを一つの演劇に結びつけるように、人間というものに結びつけるのである。

それにまた、だれが虚栄的な人間の謙遜の深さを測りつくすことができよう。わたしはかれの謙遜ゆえに、かれに好意をもち、かれをあわれむ。

虚栄的な人間は、おのれに寄せる自信を、君たちの手からもらおうとする。かれは君たちの視線を食料にしている。賞賛を君たちの手からもらい、かぶりついてそれを食う。

この虚栄的な人間は、君たちがかれを褒めて耳をくすぐる嘘をつけば、嘘でもそれを信ずる。というのは、心の奥底でかれは、「自分はいったい何者だろう」と嘆いているからだ。

もっともニーチェがこう書くのは、彼がひどく己れの虚栄心に悩んだせいではなかったか、とすこしは疑ったほうがいいだろう。

ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和  神崎繁『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』からの孫引き)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

最後にクンデラの『不滅』から、おそらくほとんど多くのひとがやっている自分のイメージづくりの指摘を掲げておこう。果たしてどれほどの数のひとがこの機制から免れているだろう。

《自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている》(クンデラ『不滅』P328)
哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(『不滅』P194ーー自己模倣と自己破壊

浅田彰が《反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。》と発言するときの《演技でもいいから》とは、ほとんど演技でしかありえないけれど、というふうに読んでみていいだろう。






2013年11月10日日曜日

向うからしのび寄ってきた邪悪なる意志

(母親の死によって)
首筋から肩へとかけて背後から寡黙に注がれていたはずの
親しい視線のぬくもりが不意に途絶えてしまったり

(地震によって)
目をつむったままでも細部を克明に再現できるほど
見馴れていたあたりの風景にいきなり亀裂が走りぬけ
幾重にも交錯しながら数をますその亀裂が
汚点のように醜く視界を乱してしまったり

(ツナミによって)
肌身をはなさず持ち歩いていたはずのものが
突然嘘のように姿を消し
その行方をたどる手がかりもつかめぬばかりか
それを身近に感じていた自分の過去までが
奇妙によそよそしい存在に思われてきたり

(被災生活によって)
足もとの地盤がいつのまにか綿なんぞのように
頼りなげな柔らかさへと変容し
しかも鳥もちさながらに粘っこく肢体にまつわりついて
進もうとする意志を嘲笑しはじめたり

(自失によって)
ことさら声を低めたわけでもないのに
親しい人の言葉がうまく聞きとれず
余裕ありげに微笑する相手の口から漏れる
無意味な音のつらなりを呆然としてうけとめるだけ

(行政の対応によって)
いったんは何か悪い冗談だろうと高を括ったものの
いつしかそんな事態が日常化してしまう
といった体験をしいられたりすると
人は何かが自分から不当に奪われた
誰もが何のためらいもなく信じていた秩序が崩れ落ちてしまった
そんなことが起こってはならないはずだと思い

(世間の無関心によって)
こちらは何も悪いことはしていないのに
向うからしのび寄ってきた邪悪なる意志が
この崩壊をこの喪失をあたりに波及させたのだと
無理にも信じこむことで
そのとり乱したさまを何とかとりつくろおうとする


ーー以上の文は、丸括弧内の言葉を付け加えた以外は、以下の620字ほどを一息に書かれる「健康という名の幻想」という論文の冒頭を、行分けし、句読点の削除、二つの接続詞を除いただけのものである。

首筋から肩へとかけて背後から寡黙に注がれていたはずの親しい視線のぬくもりが不意に途絶えてしまったり、目をつむったままでも細部を克明に再現できるほど見馴れていたあたりの風景にいきなり亀裂が走りぬけ、幾重にも交錯しながら数をますその亀裂が汚点のように醜く視界を乱してしまったり、肌身をはなさず持ち歩いていたはずのものが突然嘘のように姿を消し、その行方をたどる手がかりもつかめぬばかりか、それを身近に感じていた自分の過去までが奇妙によそよそしい存在に思われてきたり、足もとの地盤がいつのまにか綿なんぞのように頼りなげな柔らかさへと変容し、しかも鳥もちさながらに粘っこく肢体にまつわりついて進もうとする意志を嘲笑しはじめたり、あるいはまた、ことさら声を低めたわけでもないのに親しい人の言葉がうまく聞きとれず、余裕ありげに微笑する相手の口から漏れる無意味な音のつらなりを呆然としてうけとめるだけで、いったんは何か悪い冗談だろうと高を括ったもののいつしかそんな事態が日常化してしまうといった体験をしいられたりすると、人は、何かが自分から不当に奪われた、誰もが何のためらいもなく信じていた秩序が崩れ落ちてしまった、そんなことが起こってはならないはずだと思い、こちらは何も悪いことはしていないのに、向うからしのび寄ってきた邪悪なる意志が、この崩壊を、この喪失をあたりに波及させたのだと無理にも信じこむことで、そのとり乱したさまを何とかとりつくろおうとする。(蓮實重彦「健康という名の幻想」『表層批評宣言』所収)

冒頭はこのように始まり、この論の末尾には次のように書かれることになる。


「生」とは、局部的で過渡的な健康の乱れに接して全体や個体のあるべき健康を夢想するあの抽象的な問題であってはならぬのだ。その装われた善意こそが、「制度」の維持に貢献する悪しき頽廃の実態だからである。

あの事故は「

局部的で過渡的な健康の乱れ」としてのみ取り扱われ、ふたたびあるべき健康を取り戻すための「装われた善意」が、あいもかわらず旧来の「制度」の維持に貢献する悪しき頽廃のさまをいやというほど見せつけられて、二年七ケ月あまりの時が過ぎている。


たとえば、原発事故があっても資本主義への反省が芽生えるどころか、つぎのようであるのを目の当たりに見てきた。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる》(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)


「世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれ」(大岡昇平



中井久夫に阪神・淡路大震災後満二年に書かれた「二年目の震災ノート」というエッセイがある(『アリアドネからの糸』所収)

《今、被災地のことは非常に書きにくい。あることを書けば、必ず、いやそうじゃないという反論があり、それはそれで証拠がある》とある。

《貧富の差、地縁人脈の差、個人的才覚の差、年齢や体力の差は普段からある。(……)格差は時間とともに拡大してゆく。ハサミを開くのに似ているからハサミ状格差という》ともある。


…………

谷川俊太郎「そのあと」(「朝日新聞」2013年03月04日夕刊)


そのあと

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に


…………


少し思い返してみよう。



◆中井久夫は、三ケ月に一度の連載、20余年続けたコラム「清陰星雨」を震災後一年をへて休むことになった。



中井氏は終戦前後の記憶から語り出す。

そして、《以来、私は食糧難、悪性インフレを何とか切り抜け、迂回路を通って医学部を卒業し、最終的には精神科医になった。今日まで自分の体験の基礎は、ほぼ揺らぐことがなかったように思う》と。

しかし、
今度の東日本大震災をきっかけにそれが揺らいだ。77歳になって、ぼつぼつ「軟着陸」であればよいなと思う頃である。その時に、体験の基礎ととでもいうべきものがこんなに揺るがせられるとは予想していなかった。

振り返ってみると、日本の自然をずいぶん信頼していた。明治の三陸大津波は、絵をみたことだけはある。子どもの時、富士山が活火山ということは知っていたけれど、噴火は江戸時代の過去と思っていた。実際、鉄道で通る時に、美しいね、と言うだけである。

3・11以後、何かが違う。何かが起こるかもしれないという感覚がある。日本の自然は恐ろしい顔をむきだした。原子炉の状況もチェルノブイリまでは行くまいと思っていたが、どうも違うらしい。日替わりで情報が時には根本から変わり、何が何だかわからなくなることがしばしばあった。

以前、「チェルノブイリの子供たち」という本を読んで、東京の中央線で不覚にも泣いたことがある。しかし、まさかチェルノブイリが日本で起こるとは思っていなかった。通り一遍の知識もなかったことを悔やんでいる。

私はどこか日本の学者を信頼して、それが体験の基礎になっていた。官僚も、政界も、はてなと思うことはあっても、終戦の時と同じく、列車が走り、郵便が着くという初歩的なことで基盤にゆえなき信頼感があったのであろうか。私が20余年続けたこのコラムを休むのは、その代わりに考えきれない重しのようなものが頭の中にあるからである。

最後には、次のように書く。
私の中では東北の大震災は突然の破滅的事態という点では戦争と結びつく。無残な破壊という点では戦災の跡を凌ぐ。原発を後世に残すのは、戦勝の可能性がゼロなのに目をつぶって戦争を続けるのと全く同じではなかろうか。


◆関東大震災や東京大空襲をくぐるぬけてきた吉田秀和が「最大の絶望」と語ったのは、東日本大震災、とりわけ原発事故だった。

あの事故をなかったように、朝日(新聞)の読者に向け、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない。

 

――これが最後の寄稿となっているが(2011年の6月)詳しいことは分らない。



◆大江健三郎は、ルモンド紙(2012年3月16日)インタヴューで次のように語った。

今回の事故で明らかになったのは、日本社会の民主主義が脆弱なものであったということです。ぼくたちは問題に声を挙げることができるでしょうか。それとも、このまま黙ったままでいるのか。今から10年たてば、日本が「民主国家」の名前にふさわしい国であったのかどうかが分かるでしょう。こんなに深く日本の民主主義が未熟であったことを感じたことはありませんでした。今起きている危機は、福島原発事故についてだけのことではないのです。私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った「沈黙による陰謀」とも呼ぶべき行為です。去年の3月11日以来、たくさんの嘘が明らかになりました。そしておそらくは、まだこれからも明らかになってゆくでしょう。これらのエリートたちが真実を隠すため陰謀を巡らせていたことが明らかになって、私は動揺しています。ぼくたちは、そんなに騙しやすい国民なのでしょうか?

…………

二年目の「あの追悼」の日、若い詩人が次のように呟いていた。

@kumari_kko: 「東北が被災した」と思うことに、まず断絶を生む原因があると思う。被災したのはわたしたちで、日本だと、感じられたらいいよね。そして本当にはそうなんだけどね。

@kumari_kko: いや、それはわたしが特に、自分のことだと思わないと無関心になりがちな人間だからなのかもしれないけど!去年、一人で中国にいて、新聞のトップ記事が追悼記事だったの。嬉しいなと素直に思えた。

それがかりに「偽善」でもいい、いまこういったことをさりげなく語ることのできる人はそんなに多くない。

暁方ミセイの呟きは、わたくしにすぐさま次の文を思い出させた。


……たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するのは、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。(ジジェク『斜めから見る』p260


2013年11月3日日曜日

一瞬よりはいくらか長く続く間

昨日から大気の肌触り爽やかになり漸く乾季の訪れか。光の風合まで翻然と異なる。

昨年の日記(ウェブ上からは削除してしまったが)を探しだせば、十一月二十三日に同じようなことを書いており、もしこのままぶり返しがなければ、今年は昨年より早く乾季が訪れたことになる。そう、さきほども中原中也の「さらさらと」を想い起こしたところだ。

小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」、すなわち「さらさらと」ーー、《陽といっても、まるで珪石か何かのようで、/非常な個体の粉末のようで、/さればこそ、さらさらと/かすかな音を立ててもいるのでした》--は、中也の友人吉田秀和が次のように書いているのを想い起こしもする。《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(『ユリイカ』1970.9)。

時間が別の次元に変貌する瞬間がある。時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていくのではなく、微粒子の粒がひとつひとつ際立ってすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあって流れてゆく刻限。

それは盛夏の光の波ではなく、光の粒子の季節でもある。
私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)

…………



2012年11月23日


ようやく乾季の訪れか。台所のテーブルに坐って珈琲を啜りつつ開け放たれた窓のむこうの前庭をぼんやり見やれば、花崗岩で組まれた塀のでこぼこした表に、細かく拡がった梢の末の翳を柔らかく描くのは、少し前とは違っておだやかで懐かしい陽射しだ。かすかな風にゆらぐその梢の模様とこがね色の陽光は粘つかず、さらさらと、……《小石ばかりの、河原があって、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射しているのでありました》(中也)


傍らの古びていかめしい樹幹をもつプルメリアは湿気と寒さに弱く、雨季のおわりから乾季の始まり一、二ケ月のもっとも涼しくなるこの時節には、葉も落ちほとんどまる裸になって、いまだ花があるわけではないが(この樹は乾季終りの暑さのさかり、三月から四月にかけて薫り高い白い花をおびただしく咲かせてから新しい葉が出る)、庭隅のジャスミンやら日本名は知らないが当地ではクエと呼ぶーーこのクエの名が今年わかった、月橘というーー、これも白い小さな花の甘酸っぱい香りがかすかに漂っている。なにはともあれ、当地のこの乾季の始まりは、日本のいくつかの季節の感覚をもっともしばしば呼び醒ます時期であって、たとえば「かすかな」「ゆらぐ」としたことから、こんな文を引っ張り出してみよう。

京都の花便りは何と云っても最も気にかかるので、毎年四月の七、八日になると電話で聞き糺すのであった。平安神宮のお花見のことは「細雪」で余りにも知られ近年は雑踏のために花見らしい情趣も酌めなくなってしまったが、「細雪」を執筆しはじめたころは、内苑の池の汀に床几をもうけ緋毛氈を敷いて、蒔絵のお重に塗盃でお酒を酌み交し、微醺を帯びて枝垂を見上げ、そよともふく風のないのに梢の末(うれ)が幽かにゆらぐのが此の世のものとも覚えぬ風情で、私たちは花の精が集うていると云い合った。全く花に酔い痴れて花の下で何を語り何を考えたかそれも思い出せない。

夫と世を隔てて翌年の春、平安神宮の桜を思い起こさないではなかったが、あの花を独りで見る悲しさに堪えきれるものではなく、花に誘われて遠い遠い雲の彼方へ魂は連れ去られ、此の身だけが嫋々としだれる花にそと触れられながら横たわっている。そんな空想をしながら家に籠っていた。(谷崎松子『倚松庵の夢』)

あるいは「梢の模様」としたことから、次の文を。 

一年を通じて、この店の間がもっともあかるいのは、十一月の中、下旬、陰暦十月の小春と呼ばれている時期、および冬至をなかにして、これと対応する二月の中、下旬である。そのころ、京格子は上から下までいっぱいに、陽ざしを浴びている。格子の内側の障子をあけ放つと、たたみの上には規則正しい縞柄の日陰が横たわる。障子をしめていると、表の軒近くをとおる人影が、あらかじめ障子にえがき出された格子の縞のなかを通過する。そういう影のたわむれが、ふと目をうばうようなとき、ヴァレリーの一節が、私には思い出される。

木立の枝にとらわれた  かりそめの虜囚
並行する この細い鉄柵を ゆらめかせる入海……

「かりそめの虜囚」である人影は、たやすくこの格子の影、質量をもたないこの牢獄の柵からすり抜ける。「細い鉄柵」は、ヴァレリーにとっては睫毛の隠喩であった。それなら、京格子のつくる影は、カメラの暗箱にとりつけられた美しい人工の睫毛というべきかもしれない。そして南面に格子をもっている店の間こそあかるいが、間仕切りの襖のむこう、さらにもう一枚の襖をあけると奥座敷に通じる中の間は、四季を通じて暗箱のように暗いのが、京都の町のなかの住居の特色である。(杉本秀太郎『洛中生息』)

こうしてかつて十年ほど住んだふたつの「京都」の描写を抜き出したからといって、ことさらノスタルジーに囚われているのではなく、《一瞬よりいくらか長く続く間》(大江健三郎)の感覚、その過去と現在の印象が唐突に重なるのが尊いのであって、《まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。》(ニーチェ)

豌豆のさや  (谷川俊太郎)


寝床の中で目を覚ますと
まずしなければいけないことが心に浮かぶ
しなければいけないことはしたいこととは違うが
自分が本当に何をしたいのかはよく分らない
そう思いながら手紙を書き
自転車で銀行へ行って金を振り込む

何もせずに一日を過ごしたことがないのを
恥じる必要はないかもしれないが
自慢することも出来ないような気がする

夕刻
屑籠の中に散らばった豌豆のさやが美しい
どうしてそんな些細なことに気をとられるのか
今日も人は死んでいるのに殺されているのに

この世にはあらゆる種類の事実しかない
その連鎖にはどんな法則もないように見えるが
多分そこに詩と呼ばれるものが隠されている


―――といいつつ、京都町中の季節のいい折の散策途上のお決まりの休憩場所であったイノダコーヒー三条店のカウンターに坐ってあのミルクコーヒーを(あれはけっしてカフェ・オーレと呼ぶにふさわしくない)啜ってみたいということはあるな


…………

などと昨年は書いている。このあとイノダ珈琲三条店やら本店のことをぐだぐだ書いているが、それはいまはどうでもよろしい。

いまは、大江健三郎の《一瞬よりいくらか長く続く間》をメモしたものがあり、投稿せずにいるので、それをここに抜き出す。


――……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。カジね、そしてそれはただそう思う、というだけのことじゃないと私は信じる。

それはこういうことが考えられるからだよ。もう一度、ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間を想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、きみがたとえ十四年間しか生きないとしても、そのような人生と、永遠マイナスn年の人生とは、本質的には違わないのじゃないだろうか?   

――僕としてもね、永遠マイナスn年とまではいいませんよ。しかし、やはり八十年間生きる方が、十四年よりは望ましいと思いますねえ、とカジは伸びのびといった。

――私もカジがそれだけ生きることを望むよ、というギー兄さんの方では、苦痛そのもののような遺憾の情を表していたが。……しかしそうゆかないとすれば、もし十四年間といくらかしか生きられないとすれば、カジね、私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? 自分が死んでしまった後の、この世界の永遠に近いほどの永さの時、というようなことを思い煩うのはやめにしてさ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)

――私は、総領事の最初の結婚を破棄して、自分と再婚させたわけだけど、それまでの後悔を引っくり返すほどの喜びをあたえたとは思わない、と弓子さんはいって、もう一度嗚咽され、鼻をかんだハンカチをまるめて握った手をまたK伯父さんの手の上に戻された。

――総領事と弓子さんをブリュセルに訪ねて、泊めてもらった時ね。翌朝、食堂に降りて行くと、きみたちは中庭のorme pleureurをじっと眺めていた。そこへ声をかけると、ふたりが共通の夢からさめたようにこちらを振り返ってね。ああいう時、総領事は、隆君の言葉を使えばさ、一瞬よりはいくらか長く続く間、弓子さんと喜び〔ジョイ〕を共有していたんじゃないの? しかも、そういうことは、しばしばあったんじゃないか?

イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ…… それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう? ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜び〔じょい〕なんだね。

じつはいまさっき、総領事の身の周りのものがまとめてあるなかに、イェーツの詩集があって、開いて見たんだけど、第四節はこういうふうなんだよ。《店先で街路を見わたしていた時/突然おれの身体が燃えさかった、/二十分間の余も/おれは感じていたのだ、あまりに倖せが大きいので、/祝福されておりみずから祝福もなしえるほどだと。》五十歳のイェーツの感慨なんだ、総領事が到達した年齢や、僕がいま生きている年齢より若い折の詩人の……

結婚したてのきみたちは、やはりロンドンから、この二十分間の余を現に体験していると、そういっている絵葉書をくれたじゃないか? きみたちは喜び〔ジョイ〕を共有していたぜ、あの時。それは一瞬のうちに永遠へ入り込んでいたことでね、失われようがない。……弓子さんがこれから休暇をとって、メリー・ウィドウの気分で、ロンドンの喫茶店を再訪でもすればさ、も一度その一瞬にめぐりあって永遠に戻ることになるよ!

――それがあったとしてもね、新しい一瞬を、このように死んでしまっている総領事と一緒に経験できるとは思えない……

弓子さんは老成した不機嫌さの躱し方だったが、その底に稚いような素直さの響きもあったからだろう、めずらしくK伯父さんはヘコタレなかった。

――バラバラの個ならば、そう。それにあわせて、全体のなかにふくまれる個ということも考えられるんじゃないの? とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても…… それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(同『燃え上がる緑の木 第二部』 P227-229)




※附記:大江健三郎「「涙を流す人」の楡」より(『僕が本当に若かった頃』所収)

――朝食の間、沈みこんでいるものだから、気がかりだったわ、と妻が声をかけていたのである。中庭の奥の大きい木を見ないように、身体を斜めにしているのも不自然だったし…… あなたが木が好きだということで、奥様はあの不思議な木を特別な御馳走のおつもりだったはずなのに。

――そこで話題が樹木の方向に進むようにとマロニエの花へ誘導してくれたのか…… しかし、沈みがちだったのはNさんじゃなかったかい? それでもホストとしてしっかりつきあってくれていて…… むしろそれをむりに笑わせるのもと、冗談をいわないようにしていただけだよ。……中庭の大きい木はチラリと見たように思うけど、つまりはNさんの鬱屈と思いこんだものに気をとられていたから。

――あなたが、あれだけめずらしい樹木をチラリとなり見て、そのままにしてしまうというのは、自然じゃないでしょう? いつもなら、すぐさま中庭へ廻らせていただいて、幹にさわってみるなりしたはずよ。そうやってあなたが楽しむのを、大使たちは期待されていたと思うわ。

――そういわれればね。昔きみには話したけれども、ある特別なかたちの大きい樹木で、それを見たり思い出したりすると、近年は鬱屈というほどでもなくなったけれど、気の滅入るやつがあるわけだ…… 

 

(……)朝食を始めた頃にはただ真青だった空に急速に雲がひろがって、しだれにしだれた枝のこまかな葉の茂りが凶々しいほどに翳ってゆく。僕はつい溜め息をついて、整えられたベッドのカヴァーの上へ横になり、これからすくなくとも一日二日は沈んだ気分においてつきまとうはずの、幼年時の記憶に面とむかった。海外にいることもあり、いくらかは進んでこちらからそれをかきよせるようだったと思う。そのうち僕は当の記憶の光景が、今朝早くからの気分を裏側でコントロールしていたことを認めるほかなかったのである。昨夜、月明りのなかの広大な前庭を大使の車で廻り込んだ時か、今朝の起きがけの散歩で、、僕はねじ曲げられた梢をチラリと見かけ、すぐ眼をそむけて見なかったふりをし、意識の表面ではそれに成功していたのだったろう……
(……)幼年時のひとつの光景の記憶という主題は、やはり夢のように淡い不定形なものなのだった。大使がその公的生活にはまぎれこむことがないにちがいない、こうした小説家の個人的な話に寛大な、またとない聴き手であったことをしみじみ思う。沈黙してこちらを穏やかに見まもっている沈着かつ機敏なかれの眼を、すでに現世ではもう再び見ることができぬことになったいま、さらに色濃く…… そしてあの最後の話合いはなにか自分らを越えたもののはからいではなかったかとすら疑うのだ。

われわれの座っている居間の大きいガラス仕切りの向こうには、全体に総毛立つふうなorme-pleureurが、斜め下方の谷あいから夕陽を受けて濃いワインカラーに燃えあがりもした。あの梢を押しひしいでいた見えない力と、つながっているところのものが、どこかでとりはからってくれていたのではなかったかと……

――確か五、六歳の頃の記憶なんですが、背景の樹木をふくめて画像としてくっきり頭にきざまれているのに、その光景を構成している人びとがすべてあいまいな、そういう記憶にね、永年とりつかれているんです。さらにこの光景につづいての出来事に、ぼんやりした罪障感があるんですね、自分自身と父親とに関わって…… しかし自分や父親が実際になにをしたか、ということは霧に包まれています。そういうわけで小説にも書くこともできない記憶なんです。ところが、きっかけがあってその記憶が表層の方へ浮びあがってくると、いつでも気持が沈んでしまう。それが一、二日は続く。とくに学生の頃、罪障感として意識するようになって、ずっとそうなんです。

(……)しかし、困るなあ、あはは! あなたにそんなベソをかいたような顔をされては! ……あのしだれた楡は、家内もいったとおりorme-pleureurで、pleureurというのは、枝がしだれにしだれているということですね、しかし、言葉の表面の意味としては「涙を流す人」の楡であるわけで、あの木の確かにベソをかいているような雰囲気が、あなたのみならずね、われわれみなを影響づけているかも知れないけれど……
この夏の終り、N大使は癌にもとづく肝不全で急逝された。自分の弔辞で、この樹木を思出についてのべたところを引用したい。

《ブリュッセルの朝から東京の夕暮に向けて、かつて聞いたことのない夫人の悲しみの声が大使の死をつたえる国際電話を受けてから、私はこの夏の終り、暗く茂っているはずのorme-pleureurの影に覆われるようにして時を過してきました。

あの秀れた異分野の友人は去った、かれと共にあることでのみ開かれたこの世界の独自の側面は自分から捥ぎとられた。そのことを私は繰りかえし思っています。現実と、あるいはその外部との関わりにおいて、こちらとは比較にならぬ経験をかさねた人物に、しばしば私は自分の自閉的な思い込みを越える展望を開いてもらいました。それが自分にとってかならずしもすべて受け入れやすかったのではない。しかしある時がたつと、私はその展望を介してはじめて可能な、積極的なものをかちえていることにつねに気づいたのです。

そのあれこれを思い出していると、いま自分がいくらかなりとタフな成熟をなしえているとすれば、しばしば対立しながら豊かな談論を楽しむことのできた、大使との交遊の日々にそれがもたらされていることをさとらずにはいられません。

N大使、私はいまもなおあなたがまさにそのようにタフな成熟と純粋さをあわせもつ眼で、微笑しつつ、わずかなイロニーも漂わせて、私を見おろしていられることを感じます。残された生の時、それを感じつづけもすることでしょう。》