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2014年11月9日日曜日

“Wohin? どこへ?”(マタイBWV244とヨハネBWV245)

《昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……》(1996年2月19日)

武満徹はこう語って逝った(1996年2月20日)。武満徹は誰の指揮のマタイを最期に聴いたのだろう。

 いつだったか私は、『西洋の音楽では、バッハの《マタイ受難曲》がいちばん偉大な音楽だと思っている。西洋音楽から、ひとつだけとるというのなら、これをとるだろう』と書いたことがある。この考えは今も、変わらない。芸術(つまり、ものを考えてつくる営み)と芸術をこえた精神の最高のものに至るまでの間で西洋の音楽の成就したすべてが、あすこにはあるというのが、私の考えである。(吉田秀和『私の好きな曲』p7)
……私は《マタイ受難曲》は、これまでほんの数回しかきいたことがない。レコードでもはじめから終りまできいたのは、何度あったか。数はおぼえてはいないが、十回とはならないのは確かである。私は、それで充分満足している。私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてもよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる。(同p172)
とにかく、《マタイ受難曲》の感動の中には恐ろしいものがあり、その迫真性という点からいっても、悲哀の痛烈さには耐えがたいものがある。(……)《マタイ受難曲》はおそろしい音楽だ。話はもちろんのこと、レチタティーヴォが多く、全曲としてはるかに長大なのも、きき通すことの困難さを増す。それから、また、単純にして痛切なコラールの表現性の峻厳さ。P173 
リヒターの指揮と曲のつかみ方は、一面では峻厳をきわめ、一面では驚くほど自由である。その棒で彼はどこを切っても鮮血のほとばしり出そうな生気に満ちた演奏を創りだす。それは復古的な姿勢を全然持たないくせに、個人的な恣意とは逆の、規範的な様式の樹立に向ってつきすすむ。(……)

合唱が、《マタイ》の「真に彼こそは神の子だった」で一瞬だがすごい漸強と漸弱の曲線を描いたり、あるいは《ヨハネ》でイエスの処刑を知らせるバスのアリアのまっただ中に割って入り「どこへ? どこへ?」と何回となく問いを投げてくる時は、音自体は囁きの微妙な段階的変化でしかないのに、その響きはきくものの意識の中で反転反響しながら棘のようにつきささる。ここでは対位法は技術であると同時に象徴にまで高められている。

こういう感動は私たち一生忘れられないだろうし、それを残していった音楽家は、天才と呼ぶ以外に何と呼びようがあるだろうか?(吉田秀和「カール・リヒターとバッハ」)

リヒターによる《マタイ》の「真に彼こそは神の子だった」の一分間は何度も貼り付けたので、ここでは割愛する。たとえば、「ナウモフ BWV244-BWV727 「血しおしたたる」」にある冒頭から二番目のものが「真に彼こそは神の子だった」である。

吉田秀和の文には「《ヨハネ》でイエスの処刑を知らせるバスのアリアのまっただ中に割って入」ってくる「どこへ?Wohin?」ともあるが、それは後述する。まずは《マタイ》である。マタイにも棘のようにつきささってくる「どこへ?Wohin?」がある。

それは、第 60 曲 アリア(マタイ受難曲 BWV.244 歌詞対訳)であり、そこには《kommt! 来なさい!Wohin? どこへ?》とある。この“Wohin?どこへ”ーー同時に”kommt! 来なさい!”もーーには、少年のころ強く衝撃をうけて、意味もわからず発音も正確に聴き取らず「ホギ! ホギ!」と頭のなかで鳴って囚われの身となっていた時期があるのだ。カール・リヒターのものは実に強烈であり、他の指揮者の”kommt!”あるいは”Wohin?”と、リヒターのものを聴きくらべてみるといいが、もちろん彼の指揮が強烈なのはここだけではない。

吉田秀和のいうように、マタイとは、《私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてもよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる》、ーー 「血しおしたたる」、ーーまさにそういった気分になってしまう。だが、カール・リヒター指揮のものではなく、ほかの何人かの指揮者による演奏だったら、いまのわたくしにはやや穏やかな気分で今後も何回かは聴けそうだ。心理的土台が崩落する気分になることは少ない。快楽のテクストとして扱うことができる。カール・リヒターのものはあくまで、わたくしにとっては悦楽(享楽)のテクストなのだ。初老の軟弱な身にはほとんど堪え難い。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーーベルト付きの靴と首飾り

《彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある》と書いたのは、グールド論におけるミシェル・シュネデールだが、カール・リヒターのマタイはなおいっそうのことしばらく御免蒙る。今は遠ざけておくしかない。

彼の演奏について語ろうとしても、いくつかの言葉しか思い浮かばない。遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐えられないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(『Glenn Gould PIANO SOLO』ミシェル・シュネデール 千葉文夫訳)

…………

さて、これにてカール・リヒターのマタイとはしばらくお別れしようと思う。もうわたくしは齢を重ねた。あなたの演奏には堪え難い。今は快楽のテクストに逃げ込みたい。疲れきってしまったのだ。

お別れに、マタイ第60曲のアリア「Sehet,Jesus hat die Hand.見よ、イエスは手を差し伸べて」における《kommt! 来なさい!Wohin? どこへ?》を聴く。まずはカール・リヒターによる1958年の録音から。


◆BACH BWV244 Sehet, Jesus hat die Hand/Karl Richter(1958)





◆Sehet Jesus hat die Hand(Philippe Herreweghe





◆Bach - Matthäuspassion - Sehet, Jesus hat die Hand(Ton Koopman





…………

さて、次ぎは、ヨハネ受難曲の“Wohin? どこへ?”

第24曲の「Eilt, ihr angefochtnen Seelen 急げ、お前たち悩める魂よ」からである。こうやって並べて聴くと、冒頭の出足の管弦楽のフレーズの最後の二つの音の音型からすでに、マタイ受難曲の “Wohin? どこへ?”と同じ型(たぶん?)であることに気づく。いずれにせよ、どこもかしこも「ホギ!」だ、死にそうになる、--少年時代の癒着したはずのつもりのひどい傷口がパックリが開き血しおしたたるのだーー、パンドラの箱が開いてしまった。それではサヨウナラ! カール・リヒターよ、ヨハネも鈴木雅明の快楽のテキストに乗り換えることにする。ーーいや鈴木雅明でさえ堪えられるかどうか。ーー --


◆Kieth Engen "Eilt, ihr angefochtnen Seelen" Johannes-Passion(Karl Richter 1964)





◆Bach - St John Passion - Eilt ihr eingefocht'nen Seelen (bass aria)John Eliot Gardiner




◆Bach - St. John Passion BWV 245 (Masaaki Suzuki, 2000) - 8/12





24.

Arie (Baß) und Chor

24.

アリア(バス)と合唱

Baß solo: Eilt, ihr angefochtnen Seelen, 
Geht aus euren Marterhöhlen,
Eilt ― 
Chor: Wohin?
Baß solo: ― nach Golgatha!
Nehmet an des Glaubens Flügel,
Flieht ― 
Chor: Wohin?
Baß solo: ― zum Kreuzeshügel,
Eure Wohlfahrt blüht allda!

独唱:急げ、お前たち悩める魂よ、
逃れよ、お前たちの苦しみの洞窟から、
急いで行け---
合唱:どこへ?
独唱:---ゴルゴダへ!
信仰の翼をもって、
逃れ行け----
合唱:どこへ?
独唱:---十字架の丘へと!
お前たちの幸せはそこでこそ花咲くのだ!




2013年9月8日日曜日

「ペテロの否認の部分で泣かない者は音楽を聴く必要がない人」

風邪がいったんは治まったと思ったのに、またぶりかえす。

ーーマタイの聴き比べなどするものではない、最近のものならまだしも、かつての重々しい録音などで。疲れ切って病気になってしまう。

いつだったか私は、『西洋の音楽では、バッハの《マタイ受難曲》がいちばん偉大な音楽だと思っている。西洋音楽から、ひとつだけとるというのなら、これをとるだろう』と書いたことがある。この考えは今も、変わらない。芸術(つまり、ものを考えてつくる営み)と芸術をこえた精神の最高のものに至るまでの間で西洋の音楽の成就したすべてが、あすこにはあるというのが、私の考えである。(吉田秀和『私の好きな曲』p7)
……私は《マタイ受難曲》は、これまでほんの数回しかきいたことがない。レコードでもはじめから終りまできいたのは、何度あったか。数はおぼえてはいないが、十回とはならないのは確かである。私は、それで充分満足している。私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてもよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる。(同p172)
とにかく、《マタイ受難曲》の感動の中には恐ろしいものがあり、その迫真性という点からいっても、悲哀の痛烈さには耐えがたいものがある。(……)《マタイ受難曲》はおそろしい音楽だ。話はもちろんのこと、レチタティーヴォが多く、全曲としてはるかに長大なのも、きき通すことの困難さを増す。それから、また、単純にして痛切なコラールの表現性の峻厳さ。P173


《昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……》(1996年2月19日)

武満徹はこう語って、その次の日(1996年2月20日)に逝った。

吉田秀和は、他にもどこかで、マタイの第39曲のアリア(Erbarme dich)のことだろう、「この演奏のペテロの否認の部分で泣かない者は音楽を聴く必要がない人である」と書いているそうだが、今なら、ひとはこういう言い方はしないだろう。上に引用された文も70年代に書かれたものであり、現在の感覚からすれば大仰な語り口ではある(当時の、啓蒙的な挑発として捉えるべきかもしれない)。


Erbarme dich、すなわち「どうかお憐れみください」は、昨日、フルトヴェングラーの指揮のものを附したが、高橋悠治はその同じアリアをピアノ用に編曲している(波多野睦美さんの歌での伴奏版もあって、演奏会で共演している)。


ここではErbarme dichの前の、わずか15秒ばかりの輝かしい合唱、”Wahrlich, du bist auch einer von denen; denn deine Sprache verrät dich".(ほんとうだ。お前もあの男たちの一味だ。お前の方言を聴けばすぐに分かる。)を置いておくだけにする。









もうひとつ、ヨハネ受難曲の合唱を二人の指揮者のもので(鈴木雅明/リヒター)。






ーーつい先日、世界的に評判の高い鈴木雅明の演奏をはじめて聴いて(冒頭の合唱は以前聴いたことがありそれ以外は)、こんな生気溢れる鮮烈な合唱箇所だったか、といささか興奮し、カール・リヒターの同じところを聴いてみたのだが、この部分に関しては、鈴木雅明、あるいは最近の指揮者たちの解釈のほうを好みつつある。