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2014年9月21日日曜日

痴漢文化といじめ文化

日本以外では珍しい「痴漢」との先入観を持っていたのだが、ウェブ上には次のような記事がある。


◆「日本だけじゃなかった!実は「痴漢大国」だったエジプト





この画像を眺めて想い起こしたコプチェクの講演(2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学)で語られた《イスラムにおける恥じらい、或いは「慎み深さのシステム」》をめぐっての講演録から抜き出してみよう。


コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。

もちろん、日本にはかねてより「恥の文化」という伝統がある。《

日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ。》(中井久夫「暴力について」)


さて、ふたたびコプチェクの見解に戻って、彼女の親しい友人であるジジェクの文によって捕捉しよう。


……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)


ここで少し前ネット上で話題になっていた「痴漢にあいやすい人とあいにくい人のちがい」のイラストを貼付しておこう。


このイラストで注目すべきなのは、恥じらい勝ちな少女・乙女が痴漢にあいやすく、派手で挑発的な女性は痴漢にあいにくいとされていることだ。

このイラストの信憑性の多寡はここでは疑うことなしに話を進めるなら、コプチェク曰く、《隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為》を誘発する、あるいはジジェク曰くの《彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる》という見解を裏付けるものとしてよいだろう。

…………

ところで、「痴漢対策&痴漢冤罪対策まとめ」などという比較的由緒正しそうなサイトがある。



海外ではどうなのか

痴漢が多い日本。では海外では痴漢事情はどうなのでしょうか?

実は痴漢は海外ではポピュラーなものではありません。

そもそも痴漢行為は満員電車などで行われるものですが、外国では祝日など以外に日常的に満員電車があるという状況がありません。ですので痴漢行為が生まれ難い土壌があります。

アメリカの大都市では電車が満員になることも頻繁にあるようですが人権が強い国ですから、莫大な慰謝料の事を考えると、痴漢の数は多くありません。

また、海外の男性は触れるだけで性的に満足すること自体がおかしいと考える方が多く、理解に苦しむ行為だそう。

国ごとの正確も関係するそうで、日本は積極的でない性格の方が多く、そういったことも痴漢につながっています。

普通の国は痴漢する前にナンパをする、そういったところが多いそう。

ただ、日本が絶対的に悪いということでもありません。

国によっては痴漢するぐらいなら最後まで襲う、というのが一般的なのです。それと比べるとまだマシと言えるかもしれません。

最近では韓国やブラジルの地下鉄でも痴漢が発生しているそう。海外に行く際には充分注意しましょう。



ここには、《国によっては痴漢するぐらいなら最後まで襲う、というのが一般的なのです。それと比べるとまだマシと言えるかもしれません》などという記述がある。


これはすぐさま中井久夫の「いじめの政治学」の冒頭の叙述を想い起こさせる。


長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。ーー「日本人の精神構造・社会構造の鍵概念をめぐる」)


おそらく「痴漢文化」と「いじめ文化」は相関関係があるのだろう。日本では最後まで襲うこと少なく、かつ学校での本物のギャングは少ない。



ここでやや論点を飛躍させる。


差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)


《差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある》とあるが、『闘争のエチカ』1988には柄谷行人の《いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている》とあって、その機微の由来が説かれている。

柄谷) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。

共同体的、すなわち「他者」はいなく同質のものの集まりであるから、陰湿な「いじめ」があると語られているとしてよいだろう。では「痴漢」も同様なのか。ーーと議論を展開するほど「痴漢」に詳しくはない。

ここでさらに論述を飛躍させ、日本の排外主義、ネオナチなどの猖獗も、海外でのそれと同質なものではなく、柄谷行人のいう《異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならない》といういじめ文化の文脈でさえ捉えうるかもしれない、としておこう。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーー「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

ーーなどとすればかねてからの「常識的」な見解、「村社会」における「村八分」ということになり、排外主義やネオナチをそれだけで片付けるわけにはいかないのは十分承知している。ただこういう側面もあるだろう、というだけの話である。

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』より)


2014年7月16日水曜日

きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい?

――ところで、きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい? オナニーしているときのことだけどさ

「耳だわ、もちろん」

'Which part of the body is most intensely used while masturbating? The ear.' (“THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE” Paul Verhaeghe)



鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)


◆Conversations with Zizek(Slavoj Zizek and Glyn Daly)より私意訳。

究極のファンタジーの対象は、まなざし自体だね。そして私は思うんだが、これは政治に当てはまるだけでなく、セックスも同じだね。ひとは、どうやってポルノは可能かという基本的な問いをいつもなすべきだな。精神分析の物議をかもす答は、セックスとしてのセックスはいつもすでにポルノだからだというものだ。私が愛人、あるいは愛人たちといっしょにいるとき、ーー強調しておくよ、複数形を。というのは二項ロジックとして非難されないためにねーー私はいつも第三のまなざしを想像しているんだな。つまり私は誰かのためにヤッテいるんだ。こういえるかもしれない、ここに恥の基本的な構造がある、と。きみがヤルことに没頭してるとき、いつも魅惑/怖れがあるんだな、〈大他者〉の眼にはどうみえるかというね。

The ultimate object of fantasy is the gaze itself. And I think that this goes not only for politics but also for sex. Here one should always ask the basic question as to how pornography is possible. The controversial answer of psychoanalysis is that it is possible because sex as sex is always already pornographic. It is pornographic in the sense that even when I am with my lover or lovers - let me stress the plural so as not to be accused of a binary logic - I always imagine a third gaze; that I am doing it for someone. One might say that there exists a fundamental structure of shame. When you are engaged in sexual activity there is always a fascination /horror as to how this would look in the Other's eyes.
私たちの最も内密の行動でさえ、いつも潜在的なヴァーチャルのまなざしのために行動してるのだよ。だからこの構造、すなわち誰かが私を観察しているという考えに取りつかれた構造ね、これはいつもセクシャリティ自体に刻みこまれてるんだな。ファンタジーとはヤッテいるのを観察している〈他者たち〉という考えにそれほどかかわるわけではなくて、むしろ逆だね。最も基本的なファンタジーの構造というのは私がヤッテいるとき、誰かが私を観察しているのを幻想しているfantasizeことだな。

Even with our most intimate acts, we always act for a potential virtual gaze. So this structure surrounding the idea that somebody is observing me is already inscribed into sexuality as such. Fantasy concerns not so much the idea of observing Others having sex but, rather, the opposite. The most elementary structure of fantasy is that when I have sex I fantasize that somebody is observing me.


◆『ラカンはこう読め!』より


貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」

目撃者としてつねにそこにいるこの〈;第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)


《セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである》とあるが、ではほかの行為はどうなのだろうか。「意識とは躊躇の別名だ」(荒川修作=河本英夫)とするなら、意識された行為はほとんどつねにそうではないか。いや神経症圏のひと(標準的な人びと)が眼差しであるなら、精神病圏のひとは声であるかもしれない。

欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。……《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

ところで、ラカン派の疾患分類は、神経症、精神病、倒錯が三大カテゴリーがあり、それぞれ抑圧、排除、否認の語彙によって規定される。神経症の下位分類にヒステリーと強迫があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。ラカン派においては、ひとはこのカテゴリーのどれかに入るのだが、上に書いたように、いままでは神経症が標準的だといわれた。

だが、最近は(前世紀末あたりから)、「ふつうの精神病」、あるいは「二十世紀の神経症の時代から、二十一世紀の精神病の時代へ(あるいは倒錯の時代へ)」などということが言われている。

晩年のラカンは、その副次的なテキストでありながら、《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである》としている(ミレール2008セミネールより)。この妄想的délirantという用語は、パラノイアにかかわり、すなわち、ひとは皆精神病であるということになる。ここにミレール概念の「ふつうの精神病」の起源のひとつがあるのだろうとは思う。

ミレールは同じ2008年のセミネールでサントームについてこう語っている。

(旧来の臨床、症状を中心とした象徴界の臨床ではなく)、第2の精神分析臨床は症状symptômeの概念を、この〔「終わりのない分析」で示される症状の〕残余のモデルに基づいて再構成するものです。こうしてラカンはそれを古い綴り方でサントームsinthomeと呼びました。サントームとは、治癒不可能なものの名前なのです。


ここで「終わりのない分析」とされるのは、もちろんフロイトの最晩年1937の論文(ラカンがフロイトの遺書と呼んだ)のことであるが、症状の彼方にある残余については、フロイトは初期から語っている(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」


だがここではラカン派内部でも論議がさかんな(すなわち異論の余地が多い)「ふつうの精神病」をや「サントーム」をめぐるのではなく、「ふつうの精神病」概念(1998年にECF)を言い出すまえの、ごく一般的なミレールの文を抜き出しておこう。


神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。たまに、さらなる神経症的存在として恐怖症に注目することもあります。ラカンの著作のなかには、あるときにはヒステリーと強迫の二項対立があり、またあるときには恐怖症・ヒステリー・強迫の三つ組みの区別があります。(ミレール「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」1996)

少し前にもどれば、そこでは、神経症者と精神病者は、それぞれ眼差しと声を意識する(幻想する)とした。だがここでの「幻想」の用語自体をも気をつけなくてはならない。幻想とは基本的には《欲望は〈他者〉の欲望》にかかわる。

まず第一に想像界の幻想がある。

誰でも次のフレーズは知っている、何度も何度も繰り返される、“欲望は〈他者〉の欲望である”と。しかしラカンの教えのそれぞれの決定的段階で、このよく知られた公式は異なった読み方に該当する。ます1940年代にすでに現れた“欲望は〈他者〉の欲望”とは、単純に、欲望のパラノイア的な構造を触れている。簡単にに言えば、羨望の構造だね。ここでは主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、外作用的な、想像的関係のたぐいだ。基本的な羨望の構造であり、私はある対象を欲望する、〈他者〉が欲望するかぎりにおいて等々。これが最初のレベル、いわば想像的レベルだ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳)

これ以外に通常の「幻想」(象徴界のファンタジー)がある。

「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

だがラカン理論において決定的なのは現実界の幻想である。

しかし私の考えではラカンの決定的な最後の公式は、分析家のポジションが大文字の他者 (A)、すなわち象徴的秩序の具現化としての分析家の場所からもはや始まらないと定義したときだね。分析家は小文字の他者 (a)、その幻想的な対象と同一化するときとしたときだ。言い換えれば、分析家は〈他者〉の欲望の不透過な謎を体現したときということ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳1995)

すなわち再度、『ラカンはこう読め』から抜き出せば次のようなことになる。

……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。

この現実界の「幻想」とパラノイア的な「妄想」とはどう異なるのだろうか。事実、ジジェクは最近の書で、幻想とパラノイアは本質的に繋がっているとしている。これは、すなわち、幻想と妄想はあるレベルでは(現実界のレベルでは)ほとんど同一なものだと言っていることになる。

This notion of the lacking Other also opens up a new approach to fantasy, conceived as precisely an attempt to fill out this lack of the Other, to reconstitute the consistency of the big Other. For that reason, fantasy and paranoia are inherently linked: at it most elementary, paranoia is a belief in an “Other of the Other,” in another Other who, hidden behind the Other of the explicit social reality, controls (what appears to us as) the unforeseen effects of social life and thus guarantees its consistency.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

さて、いささかややこしい話は、ここではこれ以上展開しない(というか、このあたりはわたくしには瞭然としていない。そもそも想像界でさえ、ラカンによれば精神病的なものなのだから、イマジネールな幻想と妄想の相違でさえも再考に値する。神経症者の幻想とは、象徴界の幻想のみなのではないか、と)

※参考

精神病者の世界は、想像界と現実界で構成されている。

1.想像界による症状:前述のパラノイア的世界=妄想(例、誰かが私を監視している、私を略奪する、という妄想)

2.現実界による症状:象徴界から排除されたものの回帰=幻覚(例、精神病性の幻覚として人の姿や顔があらわれたり、背中を血の塊が流れているなどの訴え)(「ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)


さて倒錯の一般的な話に戻ろう。

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。……主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。……サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)


すなわち、倒錯者は彼自身の快楽のために行動するのではなく、〈大他者〉の享楽のために行動する。《主体は他者の享楽の道具として己れを位置づける》(ラカン『エクリ』)。

視姦症と露出症において、倒錯者は覗見欲動の対象として自身を位置づける。他方、《サディズム/マゾヒズムは、主体は声の欲動の対象として自身を位置づける》(ラカン『セミネールⅩⅠ』)ということになるらしい。これについては、ジジェクのマイケルマンの映画『マンハンター』を例にしたすばらしく明晰な解説がある(参照:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$」)。もちろんこれらはラカン派内の見解であり、異論も種々あるだろう。


…………


ところで大江健三郎の『懐かしい年からの手紙』第六章では、次のような二つの似た叙述が短い間隔をおいて反復される。


《屋敷の囲む両側の森、谷あいの空、そしてありとあらゆるそこいらの樹木や石、草の眼にさらされながら、マスターベイションをすることを僕は想像し、その想像によって欲望のとりことなった》

《屋敷を囲む森から谷のありとあらゆる樹木、草、石にまで見まもられてマスターベイションするという着想に、カッと昂奮した》

これは大江が森という〈他者〉の眼差しのもとに自慰行為を、ラカン理論的に、あるいはサルトルのまなざし論をもとに、無意識的にせよ、意識的にせよ、書き綴った文だとしてよいだろう。

大江健三郎は、「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求しつつ長年執筆活動を続けてきたこと、かつサルトルの強い影響を受けて作家生活を開始している。


眼差しは意識の裏面である、という表現はまったく不適切というわけではありません。というのは、眼差しには実体を与えることができるからです。サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。

これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。(…)

眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。

彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)

…………

◆大江健三郎『懐かしい年への手紙』より

谷川を見おろす敷地の西の端に、風呂場が別棟になっている。石垣の上の狭い通路から風呂場を廻り込んで向うへ出ると、石垣でかこわれた一段低いところにセイさんが花を作っている小さな畑と物置がある。風呂の焚口は物置の並びにあり、戸外の水汲み場から風呂水を運びこむ戸口も開いている。風呂場の窓は石垣の上にに張り出して谷川を見おろし、対岸をのぞむ。窓は高く、庭から廻り込む通路からは風呂場を覗くことができない。足音をしのんでそこを通り抜けながら、ギー兄さんが窓をあおいで僕の注意をひくそぶりをしたので、なんらかの手段で内部を覗き見する手段をギー兄さんが考案したのだと見当はついていた。案の定! いったん畑の平面へ降りてから風呂の焚き口へ登る、小石を積んだ短い段々の中ほどに、そこで立ちどまれば顔の高さに、こちらへゆるくかたむいた50センチ×30センチの薄暗いガラスのスクリーンが風呂場の板壁を壊してとりつけられているのだ。剥がした羽目板や新しい角材の残りと大工道具が、物置の脇にたてかけられていた。僕らが並んで位置につくやいなや、僕らの頭をまたいで前へ出る具合に向うむきの若い娘ふたりの下半身が、かしいだスクリーンに現れた。

――この角度がな、Kちゃん、女をもっとも動物的に見せるよ、とギー兄さんは解説した……

若い娘たちが全裸でスックと立っている。その丸い尻の下で、それぞれの二本の腿が不自然に思われるほど広い間隔を開いているのに、まず僕は印象を受けた。セイさんとの経験に教えられながら、なお性的な夢に出て来る裸の娘の腿は、前から見ても後ろから見てもぴったりくっついていたから。いま現に見ている娘たちの、その開いた腿の間には、性器が剥き出しになっていたが、それはどちらも黒ぐろとした毛に囲まれ股間全体の皮膚も黒ずんで、猛だけしい眺めだった。

すぐにも娘たちは窓のすぐ下の低く埋めこんだ浴槽に向って進み、しゃがみこんだ。娘たちの尻はさらにも横幅をあらわして張りつめ、窓からの光に白く輝やいて、はじめて僕に美しいものを見ているという思いをあたえた。湯槽から湯を汲み出し、そろって性器を洗っているふたりの、その尻の下方にチラチラ見える黒い毛は、やはり油断のならぬ鼠の頭のようだったが。それから湯槽に入りのんびりとこちらを向いた様子は、日頃のももこさん、律ちゃんと比較を絶して幼く見えた。彼女たちがそろってスクリーンのこちらの僕らを見つめているふうであったのはーー放心したような顔つきからみてもーー僕らがひそんでいると見当をつけたのではなく、新しく浴室の入口脇にとりつけられた鏡を発見して、ということであったわけだ。そのうちスクリーンが翳ってきたのは、ふたりが湯を搔きまわしたので、湯気がこもって鏡の表面を曇らせたのだろう。

――よし。自分が曇りをふいてやる、とギー兄さんがすぐ脇から無警戒な微笑を僕に向けていった。

――なんのために? 自分も風呂に入るのなら……

――え? Kちゃんも楽しんでみているじゃないか?

そういいすてて、ギー兄さんは物置の側から母屋の方へ廻り込んで行った。逆に僕は、石垣の上の狭い道を通って庭へひきかえした。いかにもこちらのために覗き窓を造ってやった、というギー兄さんの口ぶりに僕は傷つけられていたのだ。ところが庭から窓ごしに勉強部屋に入りこみ、その勢いのまま机と壁の間の畳の上にデングリ返しをして寝ころがったとたん、僕はカッと燃え上がるような欲望にとらえられた。ギー兄さんもなかへ入ってしまった以上、風呂場の覗き見のスクリーンのところへひとり立って、屋敷の囲む両側の森、谷あいの空、そしてありとあらゆるそこいらの樹木や石、草の眼にさらされながら、マスターベイションをすることを僕は想像し、その想像によって欲望のとりことなったのである。僕はあたらめて窓を乗り越えた。ズボンのなかで勃起している性器が行動の邪魔になるのを感じながら、それでさらにもいどみかかるような気分になって、息使いも荒く。石垣の上を廻りこむ時には、頭上の窓からギー兄さんとももこさんの言葉にならぬせめぎあいのような気配が聞こえてきた。

そして僕があらためて明るくなっているスクリーンに見出したのは、すぐ眼の前の檜の床に横坐りして脇腹を洗っている律ちゃんの幅広の躰だった。その向うの湯槽の低いへりに、こちら向きに腰をかけたギー兄さんの、濃い毛の生えた腿の上にももこさんがまたがっている。僕がスクリーンから覗き見しているのを勘定に入れて、ギー兄さんがわざわざももこさんに性交をしかけているのだ。色白のギー兄さんの裸のそばでは淡い褐色に見える、ももこさんの筋肉質の背中が機敏に上下する様子は、床を蹴りたてるような足の動きともども、ももこさん自体性交に乗り気になっていることを感じとらせた。そしてすぐ眼の前に自分の躰を鏡に映しながら洗っている、つまりはスクリーンに泣きべそをかいたような顔つきで覗き込んでくる律ちゃんの、胸と喉の間をゆっくり動いていた右手が、そのうち下腹部に降りて来た。石鹸を塗った手拭いをピンクの腿に置くと、もう片方の太い腿をグイとずらせ、その手は自分の性器を優しげに覆うように押しつけて揉みしだいている。スクリーンのこちら側に立っている僕の、ズボンのあわせめから斜めに突き出したペニスは、自由になるやいなや勢いよくおののいて風呂場の腰板下方の石積みに、西陽に赤く光る精液を発射した…… 

頭をたれ、ペニスをしまいながらその場を引揚げようとして、僕はピクリと立ちどまった。物置への段々にそって焚木を積んだ上から、オセッチャンの三つあみにした丸い頭が覗いて、活気みみちた黒い眼をこちらへ向けているのである。僕は胸うちを真暗にして、畑の斜面へ跳び下ると、そのまま石垣をすべりおりるように谷川へ降りて行った。谷川に沿って走り、いったん暗い杉木立の中に入ってからそこを出はずれても、夕暮の谷間の陰鬱な土埃りの乾いた道を、そのうち脇腹の痛みに走り止めて歩きながら帰る間、僕は身悶えする後悔のなかにいた。家に帰りついても母親と顔をあわせぬようせだわの裏口から入り、そのまま狭い自分の寝場所にこもって、妹が夕食を知らせに来ても出て行かぬほど僕は思い悩んでいた……

幼いオセッチャンの純潔な魂にしみをつけた、という罪悪感に僕はとらえられていたのである。それこそ僕は幼女に暴行を働いた人間の血まみれの穢れが自分にかぶさっていると感じた。なぜオセッチャンの眼を警戒しなかったかと、僕は恥を塗りたくられた心で後悔した。屋敷を囲む森から谷のありとあらゆる樹木、草、石にまで見まもられてマスターベイションするという着想に、カッと昂奮したことを思い出しても、自分の愚かしい軽薄のしるしとして、それは後悔のたねとなるのみだった。

夜ふけまで眠れぬまま展転反側するうちに、後悔に染めあげられた想像力は、とめどなく逸脱する方向に行く。風呂場の建物の土台の、わずかに草が生えた石積みの上に飛び散り土埃りを吸って小さなナメクジのように点々とかたまった精液。好奇心からオセッチャンがあれを点検し、その手で性器をさわってしまったら、どうなるか? わずかに眠りえたと思うと、アッと叫ぶようにして眼をさます。自分の臭いのするセンベイ蒲団の上で汗をかいた躰を胴震いするようにして、いま見た夢のおぞましさから逃れようとする。それは試験問題集で読んだ『今昔物語』の「東の方へ行く者、蕪を娶ぎて子を生む語」とからんだ夢なのだった。とぎれとぎれの短かい夢のなかで、オセッチャンが僕の精液のたっぷりついた蕪の、《皺干たりけるを掻き削りて食ひて》いる様子まで見た…… (大江健三郎『懐かしい年からの手紙』p267~)




2014年3月1日土曜日

パンツという制度

彼女達は、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部を隠すパンツが、それまでにないはずかしさを学習させたのである。(井上章一)

ははあ、パンツという制度が恥という内面を作り出したのだということになるのだな

告白という形式、あるいは告白という制度が、告白されるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。問題はいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出すのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』

この論理を使えば多くの「洒落たこと」が言えるだろう
洒落心の欠けたわたくしもそのおこぼれにあずかろう

《内面の貧困化があって浅いコミュニケーションが蔓延したのではない。インターネットという「制度」によって発酵なしの思いつきばかりを書き散らすようになったために、内面の貧困化が生みだされたのだ》

…………


ところで、上野千鶴子は『スカートの下の劇場』でなんといっていたのだったか。あまり覚えがない。ネット上にはころあいの引用が見つからない。

かわりにコプチェクの「恥じらい」の講演(2006/10/8 Joan Copjec 講演会要旨)から抜き出しておこう。

……恥じらいとは、「喪失」ではなく、ラカンのジュイサンスとも響きあう「過剰」または「余剰」の感覚である。また、ここでの不安と恥じらいの差異は、前者が逃避を望むのに対して、後者が見たくないもの、隠してしまいたいという感覚である。

(……)コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。

むしろコプチェクは、自分と自分自身との間のズレを感得し、自己の感情に目覚め、自身のアイデンティティの欠如が社会的に目に見える形になっていることに気づくこと、つまり恥じらいの経験こそ主体形成にとって重要であると考える。論証として、『風が吹くまま』の問題の場面(べザードが、地元の娘ゼイナブのいる暗い屋内に入り込み、牛の乳を搾らせる)を取り上げた。コプチェクによれば、イスラム女性の屋内の様子を見ようとするべザードの行為は、アブグレイブ収容所でのイラク兵の様子を暴く写真と同じく露悪的であるが、ここで注目すべきは、べザードの行為ではなく、乳搾りをする娘が恥じらいの感覚に目覚めることだという。ここでの目覚めとは、べザードという明確な対象によって引き起こされるものではない。むしろ、認知不可能な<他者>の眼差しを感じたために生じるような感覚である。コプチェクは、娘がべザードの口ずさむエロティックな詩によって乳搾りの行為を干渉され、乳搾りの行為と自分自身との間にあるズレに気づくこの場面こそ、恥じらいという感覚が自己にわきおこる瞬間、つまり、自身のアイデンティティの欠如が社会的に目に見える形になっていることを認識する瞬間を表していると分析した。

…………

※附記

鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)
……恥とは、面目〔顔〕を失う(losing face)という経験とは何か? サルトルによる標準的な説明によれば、「対自存在for-itself」としての主体は、その「即自存在in-itself」、つまり自分の身体的アイデンティティを構成するばかげた<現実的なもの>を恥じるのだ。私は本当にソレなのか、悪臭を放つこの身体、この爪、この糞便なのか? ようするに、恥は、精神〔霊SPRIT〕が不活性で卑俗な身体的現実に直接結びついているという事実を指し示しているーー例えば、公衆の面前で排便するということが恥ずかしいのは、そういう事実があるからなのだ。

だが、これに対してラカンは、恥は定義上幻想〔ファンタジー〕にかかわっていると主張する。アガンペンは、恥はたんなる受動性ではなく、積極的〔能動的〕に受け入れられた受動性であることを強調している。私がレイプされた場合、私に恥じるところは何もない。だが、レイプされることに喜びを感じている〔享楽している〕としたら、私は恥じ入ることになる、というわけだ。

したがって、ラカンの用語で言えば、積極的に受動性を受け入れるということは、受動的状況において享楽(jouissance)を見いだすということを意味する。そして、享楽の座標軸は、究極的には根源的幻想の座標軸、受動的立場に置かれる(そこに享楽を見いだす)という幻想の座標軸なのだから、主体が恥にさらされるのは、主体が受動的状況に置かれ、たんなる身体としてしか扱われていないということが明らかにされるときではない。社会的現実におけるそうした受動的立場が(否認された、内密な)幻想と関係するときのみ、恥が生じるのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

主体とは本質的な動揺の中で幻想に吊り下げられているようなものですが、視る関係においては、その幻想が依存している対象は眼差しです。眼差しの特権は、そしてまた主体があれほど長い間自らをこの依存の中にあるものとして認めずにいることができた理由も、眼差しの構造そのものに由来しているのです。

(…)主体がこの眼差しに焦点を合わせようとするやいなや、この眼差しは点状の対象、消えゆく存在の点となり、この点を主体は自身の瓦解と取り違えます。また、欲望の領野で主体が自らの依存を認識できるすべての対象の中でも、眼差しという対象は捕えどころのないものという特徴を持っています。このため、眼差しは他のすべての対象にもまして無視され、またおそらくそのために主体は、自身の消えゆく点状の特徴を、「自分を見ている自分を見る」という意識の錯覚という形であれほど幸運にも象徴化する方法を見出すのです。この錯覚においては眼差しは消えてしまいます。
 そういうわけで、もし眼差しが意識の裏面であるとしたら、眼差しを思い描くにはどうしたらよいでしょう。

 眼差しは意識の裏面である、という表現はまったく不適切というわけではありません。というのは、眼差しには実体を与えることができるからです。サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。

 これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。(…)

 眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。

 彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

 欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)



2013年9月29日日曜日

アウラと対象a

The semblant in Lacan
First, though a word on its significance. The importance of the concept is indicated by Lacan's description of objet a as a semblant that fills the void left by the loss of the primary object. If we can explore the nature of this semblant, we shall be able to come to a better understanding of some aspects of objet a. For Lacan a semblant is an object of enjoyment that is both seductive and deceptive. The subject both believes and doesn't believe in semblants but in any case opts for them over the real thing because paradoxically they are a source of satisfaction, better than the real thing that one avoids any encounter with at all cost. Or more accurately, because the semblant fills a lack, we should say that the semblant comes to the place where something should be but isn't, and where its lack produces affects focusing on anxiety. (The Concept of Semblant in Lacan's Teaching • .........Russell Grigg)

Russell Griggが指摘するように
サンブラン(みせかけ)は対象aであったり
フェティシュ(呪物)であったりする

 

ラカンのセミネールにおける[対象aとしての声もサンブラン
ということになる
咳払いやらため息、喉を鳴らしたり、言葉を噛み含めたりする
そこに生じる間合い、それが意図的なものでないにしろ
サンブランとして機能する

それは「無」を覆う。覆うことによって
なにかが隠されているような幻想の効果を生む。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)


などと書いていれば
なんでもサンブランになってしまう
「知を想定されて主体」もサンブランだ
いやそれどころか$(斜線を引かれた主体)
――主体そのものがサンブランではないのか
その問いはこの際、脇にやる(つまり考えたくない)

ところでアウラはサンブラン、あるいは対象aであろうか

そもそもアウラとは何か。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。(ベンヤミン「写真小史」)

不可思議な織物とかある遠さが一回的に現れるものだと?
ご本家がこれじゃいたしかたない
アウラが消えていくことについての
ベンヤミンの説明はうなずけるにしろ

芸術作品が技術的に複製可能になった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである。この過程はある徴候である。この過程のもつ意味は、芸術の分野をはるかに超えて広がってゆく。(……)

対象をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある種の知覚の特徴である。この知覚は、〈世の中に存在する同種性に対する感覚〉をきわめて発達させているので、複製という手段によって、一回的なものからも同種性を見てとるのである。視覚の領域においてこのような現われ方をしているものは、理論の領域において、統計の重要性の増大として顕在化しつつあるものにほかならない。現実を大衆に合わせ、大衆を現実に合わせてゆくことは、思考にとっても視覚にとっても、無限の影響力をもつ過程である。(「複製技術時代の芸術作品」ヴァルター・ベンヤミン)


対象をその被いから取り出すこと、
そのときアウラもサンブラン、対象aも崩壊する
それはどうやら間違いないらしい

No wonder expressionism is usually associated with anxiety: anxiety arises when the gaze‐object is displayed too directly.76 Benjamin noted that the aura surrounding an object signals that it returns the gaze; he simply forgot to add that the auratic effect arises when this gaze is covered up, “gentrified”—the moment this cover is removed, the aura changes into a nightmare, the gaze becomes that of Medusa. (ZIZEK" LESS THAN NOTHING")

ヴェールの下にはなにもないといいながら
メドゥーサの頭ぐらいはあるらしい
ようするに享楽のねばねばした化け物さ





ではアウラはどうやって生まれるのか
無を被い隠すことさ、
ミレールがサンブランの定義で言うとおり

ヒッチコック映画における恋愛の役割に目を向けてみよう。それは、「無から」突然生まれ、ヒッチコック的なカップルの救済を可能にする、一連の「奇跡」である。言い換えれば、恋愛は、ジョン・エルスターが「本質的な副産物であるような状態」と呼ぶものの好例である。すなわち、あらかじめ予想したり意識的決定によって引き受けたりすることのできない、最も奥深い感情である(私は自分に対して「これからあの女性に恋をしよう」とは言えない。あるとき、恋をしていることに気づくのだ)。エルスターはそうした状態のリストを掲げているが、その中には「尊敬」とか「威厳」といった概念も含まれている。もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。そうした状態をもたらす唯一の方法は、その状態をめざして行動するのではなく、他の目標を追求し、それらが「自然」に生まれるのを望むことである。たしかにそれらはわれわれの行動に属しているが、究極的には、われわれが何をするかによってではなく、われわれが何であるかによってわれわれに属している何かなのである。このわれわれの行動の「副産物」にラカンが与えた名前は<対象a>である。これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち、われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないXである。(ジジェク『斜めから見る』p148)


アウラを生み出したかったら
まずはマスクしろよ
スター性などというものはそこからはじまる
ツイッターなどで己れの恥部まで見せびらかしていたら
アウラなんて生まれるわけがないじゃないか

「女」は本能的にわかっているぜ


そのあいだの消息を



それとも

さいきんの連中は、ファンタジーやらアウラは諦めたのか


滑稽にみえるかもな


ふつうの精神病の時代は


ラカンの幻想の式は通用しないらしいからな




いずれにせよ現代は次の如くらしいから


アウラ狙いでも


マスクはほどほどにしておけよ




コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(2006/10/8 Joan Copjec (コプチェク)講演会


つまりもうアウラなんてものは危険なだけらしいな


厄介な時代さ


…………


附記:

A fantasy scene is what fully deserves the term “auratic presence.” Insofar as it involves the point of impossibility, it can also be said to stage the objet petit a.》(Zizek”LESS THAN NOTHING”

不可能性だと? 
なんの話だ

Lacan's twist here is that this presence of the objet a fills in the gap, the failure, of representation—his formula is that of the objet a above the bar, beneath which there is S(A), the signifier of the barred, inconsistent other. The present object is a filler, a stop‐gap; so when we confront the tension between the symbolic and the Real, between meaning and presence—the event of presence which interrupts the smooth running of the symbolic, which transpires in its gaps and inconsistencies—we should focus on the way the Real corrodes from within the very consistency of the symbolic. And, perhaps, we should pass from the claim that “the intrusion of the Real corrodes the consistency of the symbolic” to the much stronger claim that “the Real is nothing but the inconsistency of the symbolic.” Heidegger liked to quote a line from Stefan George: “Kein Ding sei wo das Wort gebricht”—there is no thing where the word breaks down. When talking about the Thing, this line should be reversed: “Ein Ding gibt es nur wo das Wort gebricht”—there is a Thing only where the word breaks down. The standard notion according to which words represent absent things is here turned around: the Thing is a presence which arises where words (symbolic representations) fail, it is a thing standing for the missing word. In this sense, a sublime object is “an object elevated to the dignity of the Thing”: the void of the Thing is not a void in reality, but, primarily, a void in the symbolic, and the sublime object is an object at the place of the failed word. This, perhaps, is the most succinct definition of aura: aura envelops an object when it occupies a void (hole) within the symbolic order. What this implies is that the domain of the symbolic is not‐All—is thwarted from within. So, again, what is presence? Imagine a group conversation in which all the participants know that one of them has cancer and also know that everyone in the group knows it; they talk about everything, the new books they have read, movies they have seen, their professional disappointments, politics … just to avoid the topic of cancer. In such a situation, one can say that cancer is fully present, a heavy presence that casts its shadow over everything the participants say and that gets all the heavier the more they try to avoid it.


2013年7月3日水曜日

無能な主人

第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」
「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」
「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」
「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」『日時計の影』所収)

さて二度目の安部政権がしばらく経った今、「性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはない」と信じてよいのだろうか。


日本は国の指導者を直接選挙で選ぶわけではないから、たとえば米国と同じようなことはいえないが、ジジェクの朋友コプチェクは、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純

そこにおいてアメリカ市民の忠誠はもはや主人が送り返す答のなかに向けられてはおらず、この大文字の〈他者〉そのものの存在に託されている。とすれば、この〈他者〉はアメリカ民主主義の主体にとってひとつのフェティッシュと化しているのではないだろうか。ここで露わになっているものもまた、フェティシズム特有の〈知〉と〈信念〉の矛盾ではないか。選出された主人が無能であることを、アメリカ人誰もが知っている。しかし、にもかかわらず、無意識においてはこの主人の万能が信じられているのである。「〈他者〉が無能であることは知っている、それでもやはり……(〈他者〉は万能だと信じている)」。(同上)

このようなメカニズムが起こっているなどということはないだろうね、日本でも?


ここでジジェクの「象徴的同一化」をめぐる文を並べてみよう。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)

ジジェクの説明では、「想像的同一化」が「理想自我」に、「象徴的同一化」が「自我理想」にかかわるということになる。

フロイトの『集団心理学と自我の分析』からひいてみる(「同一視」は「同一化」として読もう)。
同一視の場合は、対象は失われているか、放棄されてしまっている。そのとき対象は自我の中で再建され、自我は失われた対象の手本にしたがって、部分的に変化する。ほれこみの場合には、対象は保たれており、そのまま自我によって、自我を犠牲にして過大評価(過剰備給)される。しかしこれについても疑念がある。同一視が対象備給の放棄を前提とするのは、いったい確実なことなのだろうか、保持された対象にたいする同一視はありえないのだろうか、この微妙な問題の論議に入る前に、われわれには、すでに次のような洞察がほのぼのと開けてくる。つまり、他の二者択一、すなわち、対象は自我のかわりになるのか、それとも自我理想のかわりになるのか、という問題がこの事態の本質をふくんでいるという洞察である。(「フロイト著作集 6」P229


このあと、指導者の選択をめぐって、次の図が示され、《一次的な集団とは、同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集りである。》とされる。




この集団とは、象徴的同一化で「指導者」を選択し、その結果、想像的同一化しあう個人の集まり、ということになる。


指導者への象徴的同一化、すなわち、《そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化》。

われわれが何らかの疚しい感情をもっているとする、だが、ある種の「指導者」に象徴的同一化することによって、そこから自分を見ると自らが好ましく愛するに値する存在にみえる首長があり、彼はわれわれの疚しい心を慰安してくれる(都道府県の長であるなら、直接選挙であるのだから、端的にこのようなことが起こっているのではないか、ーー思いがけない人物が指導者として君臨する機微のひとつだろう)。



さてさて……。