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2013年12月11日水曜日

コビトの国の王様

……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』 講談社文庫 P24)




「コビトの国の王様」は、戦後日本において「抑圧されたもの」としてよいだろう。もちろんマッカーサーとの会見の約一年後に米国からいわゆる「押しつけられた」とされる現行憲法もその影を大きく背負っている。

経済発展期や議会運営などがまがりなりにも上手くいっているときは、抑圧されたものはある意味で忘れ去ることができた。なにかが上手くいかなくなったとき、ーーたとえば国内に大きな事故や消費税値上げ、あるいは財政逼迫、少子化などの将来にわたっての「引き返せない道」の苦難が瞭然とすれば、さらには二大大国の狭間で「見栄えのしない課題」に汲々とせざるをえないのならば、ーー「天皇」が直接回帰するだけでなく(天皇制論)、その隠喩としての「現行憲法」も否応なしに回帰する。

……われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。

たとえば、被分析者は、「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを想い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)

コビトの国の王様にとっての、権威としての親への反撥は、米国だけではないだろう。今後、かつて土足で上がりこんだ本来の「親」の家、中国への気遣いもますます増してゆく。

ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p418)

武藤国務大臣 (……)

 そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日
『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七


昭和二十年九月廿八日。 昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るか たなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜし ことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云ふ者に もあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

…………

だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒だという感じが常に先立っている。むかしあの天皇が、僕らの少年期の終りイギリスへ行ったことがあった。あるイギリス人画家のかいた絵、これを日本で絵ハガキにして売ったことがあったが、ひと目見て感じた焼けるような恥かしさ、情なさ、自分にたいする気の毒なという感じを今におき僕は忘れられぬ。おちついた黒が全画面を支配していた。フロックとか燕尾服とかいうものの色で、それを縫ってカラーの白と顔面のピンク色とがぽつぽつと置いてあった。そして前景中央部に腰をまげたカアキー色の軍服型があり、襟の上の部分へぽつんとセピアが置いてあった。水彩で造作はわからなかったが、そのセピアがまわりの背の高い人種を見あげているところ、大人に囲まれた迷子かのようで、「何か言っとりますな」「こんなことを言っとるようですよ」「かわいもんですな」、そんな会話が――もっと上品な言葉で、手にとるように聞こえるようで僕は手で隠した。精神は別だ。ただそれは、スケッチにすぎなかったが描かれた精神だった。そこに僕自身がさらされていた。(中野重治『五勺の酒』)
これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男(「東京新聞」「中日新聞」文芸時評 昭和五十年十一月二十八日夕刊)
志賀氏が、天皇を天皇制の犠牲者として、自由にものを云うことを奪われた、残念ではあるが気が弱い、人間的には好い人と…見ていたことは…明白である。中野氏の『五尺の酒』を読めば…あの繰り人形さながらの動作とテープ録音そっくりのセリフを棒たらに繰り返す天皇への憐れさへの何とも処理しがたい心持ちと焦立ちを…描いていることもまた明白である。(藤枝静男、「志賀直哉・天皇・中野重治」昭和五十年「文藝」七月号)
今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。 然し天皇制には責任があると思ふ。‥‥  天子様と国民との古い関係をこの際捨て去つて了ふ 事は淋しい。今度の憲法が国民のさういふ色々な不安 を一掃してくれるものだと一番嬉しい事である。  (志賀直哉  「昭和21. 4.『婦人公論』)
…………

日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言へないところがあり、いはゞ大義名分といふものはさういふ意味で利用せられてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によつて矛をすてたといふのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考へてをり、政治家がそれを利用し、人民が又さらにそれを利用したゞけにすぎない。

日本人の生活に残存する封建的偽瞞は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。(坂口安吾『天皇小論』)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」)
我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」)

…………

昭和63年、昭和天皇が病床に就かれ、多くの人が陛下のご平癒を祈って宮城を訪れ、記帳した。その光景を見た浅田彰曰く、『連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです(「文学界 平成元年二月号)』)
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


◆『柄谷行人 中上健次全対話』(講談社文芸文庫)より


中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。

《実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。……》(図像学というアリバイ 浅田彰


北一輝は、明治以前の天皇は「土人の酋長」と変わらないといっている。事実、先にのべたように、元号も明治までは自然を動かす呪術的な機能であった。「一世一元」とはそれを否定することであり、天皇を近代国家の主権者とみなすことである。北一輝にとって、明治天皇は立憲君主であり「機関」としてある。つまり、天皇個人もその儀礼的本質も、彼にとっては本質的にはどうでもよかったのである。ヘーゲルもいっている。≪君主に対し客観的な諸性質を要求するのは正当ではない。君主はただ「イエス」といって最後の決定を与えるべきなのだ。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要でなくなるようにあるべきものだからである≫(『法哲学』280補遺)。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収P27-28)

◆柄谷行人『倫理21』より抜粋
1970年天皇をかついだクーデターを訴えて自決した三島由紀夫のような人は、死ぬ前のインタビューでも、昭和天皇に対する嫌悪と軽蔑を隠していません。また、天皇の戦争責任を認めて右翼から襲撃された長崎市長本島等は、左翼どころか、どちらかといえば「右翼的」な人物です。総じて、天皇の戦争責任を認める者は、蜷川新のように「明治気質」の人間です。日本国家の戦争責任を認めるならば、天皇の責任を認めるべきであり、そうでないなら、戦争責任を全面的に否定すべきだ、その二つに一つしかありません。
今日において史料的に明らかなことは、戦争期において、天皇がたんなる繰り人形でもなく、平和を愛好する立憲君主でもなく、戦争の過程に相当積極的に加担していたということです。さらに、天皇自身がその地位の保全のために画策したということです。戦争末期にそれは「国体の維持」という言い方をされたのですが、つまりは天皇制および天皇個人の地位の護持ということが、当時の権力の最大の目的でした。
イタリアはいうまでもなく、ナチス・ドイツが降伏した後でさえ日本が戦争を続けたのは、なんら勝算や展望があったからではなく、降伏の条件として天皇制の「護持」をはかって手間取ったのです。その結果として、何百万人の兵士、市民が戦場や都市爆撃、さらに二度の原子爆弾によって死ぬことになりました。
にもかかわらず、敗戦の決定は、天皇自身の「御聖断」によってなされたという神話ができています。そのような神話づくりには、占領軍のマッカーサー将軍も加担しています。彼は「国民が救われるなら、自分はどうなってもいい」と語った天皇に感動したということを伝記に書いていますが、これは明らかに虚構です。「自分はどうなってもいい」のなら、もっと前に終戦をいうべきだったし、もし「立憲君主」のためにそのような介入ができない立場にあるなら、敗戦においてもそれはできなかったはずです。
実際には、天皇制を保持し天皇を免責することを決めたのは、ソ連あるいはコミュニズムの浸透をおそれたアメリカ政府です。また、マッカーサーは、東京裁判のあと天皇が退位することを当然とする日本の識者の意見に対して、それを抑えました。

※参考:三島由紀夫の天皇論


浅田彰の共感の共同体批判、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している》という文章は、ラカン用語で仮装されているが、丸山真男や、あるいは加藤周一らのモダニスト系譜のものだろう。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』より

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(加藤周一の死

2013年11月23日土曜日

一片欣々たる皇室尊崇の念(森鷗外)


断腸亭日乗 大正七年戊午 荷風歳四十

正月廿四日。鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。

荷風の日記には、鴎外にたいして殆ど崇拝の念を感じさせる記述ばかりが目立つが、上の文はその稀な例外である。

もっとも鴎外は、この大正七年前後、完全に執筆活動をやめていたわけではなく、遅々として進まぬながら『北條霞亭』を書いていたようだ。

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

この作品の完結にかくも長い期間を要したのは、世間がこの作品を喜ばなかったからである。最初この作品の連載を載せた新聞(東京日日新聞)は、開始後二か月で連載を中止した。本編165回分のうち57回分を終えたところだった。1年以上の中断を経て今度は雑誌(帝国文学)に続編を発表したが、これも遅々として進まず、大正9年1月には雑誌社そのものが廃刊してしまう。最後に連載を引き受けた「あららぎ」は創刊したばかりで、創始者の齋藤茂吉は鴎外に尊敬の念を抱いていたから、いわばご祝儀のようなつもりだったのだろう。連載中作品そのものが世間の話題を呼ぶことは殆どなかった。(森鴎外「北條霞亭」:文化文政時代の精神を描く

《大正5年(1916)1月13日から鴎外「渋江抽斎」を「東京日日新聞(毎日新聞)」に連載開始。同年、3月28日、鴎外の母死す。その1ヶ月後、「渋江抽斎」完結。それから10日もたたぬうちに漱石が「明暗」を「朝日新聞」に連載開始。その年、12月9日、漱石死す(50才)。鷗外(55才)も漱石の葬儀には参列している。

鷗外と漱石は、お互いに「見た」ことはあるが交流はなかった。

「実際には漱石は鴎外が同時代の小説家の中でただ一人尊敬していた人です。尊敬というか、好敵手と見ていた人です。」

鷗外の「ヰタ・セクスアリス」には、「夏目金之助君が小説を書き出した、金井君(主人公の鴎外)は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。」》(鴎外と漱石 江藤淳 要約


ーー漱石の「朝日新聞」における新聞小説の人気に対抗するようにして、鴎外は「

東京日日新聞」で執筆することになったのだろうが、最初の歴史物『渋江抽斎』はまだしも、その後、だんだんと読まれなくなったということなのだろう。

鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』P93)


柄谷行人は鷗外と漱石の共通性を言うが、漱石は「心理的なもの」をその新聞小説では書き、鷗外が「非心理的な」歴史物を書いて、公衆に受けが悪かったということは言いうるのではないか。そして、もし鷗外が「諸関係の総体」としての人物を書いたのなら、今、鷗外の新しさはそこにあるともいえる。

なぜなら、人工知能のパイオニアのミンスキーの、「心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるが、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ」やら、あるいはヒュームの、「自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ」とする「解離」「多重人格」としての「自己」を描いた、つまり「自閉症」と並び、現在、注目される課題のひとつでもある「自己」のあり方を書いた、ということになるわけだから。

精神医学の領域では、解離というメカニズムが、現代的な主体においては、抑圧よりもよく見られる防衛システムとして捉えられる傾向にある(座談会「来るべき精神分析のために」 十川幸司発言

実際、鷗外の叙す抽斎は、抽斎自身が解離的だとはどうみても読めないが、「解離的な」友人たちに翻弄・困惑されながらもその頓才・奇才を愛したひとのようには読める。ーー《人と交るには、その長を取って、その短を咎めぬが好い》(『渋江抽斎』)


ところで、冒頭の荷風の日記が書かれた大正七年とは米騒動の年であり、鴎外は当時の社会の激動に無關心で、歴史物を書くのに専念していた、という批判もあるようだ。


荷風の大正七年の日記には、「既に切迫し来れるの感」とあり、翌年には「朝鮮人盛に独立運動をなし」あるいは「新聞紙連日支那人排日運動の事を報ず」などとあり、文人趣味を横溢させる荷風にも、社会的な動乱への関心があるのが知れる。



わたくしは、鴎外の『渋江抽斎』は四五度は読んでいるが、『伊沢蘭軒』はどうもいけない(わたくしには漢文が多過ぎる)。『北条霞亭』は掠ったこともない。青空文庫にもない。が、いまインターネット上をみると、横書きにて打ち込んだものがあるようだ。

ここでは読んでいない小説のことをとやかく言わずに、またすでに多く語られた『渋江抽斎』の感想などを記すことも遠慮し、緒家の『抽斎』賛を掲げておこう。

大正十二年歳次 葵亥 荷風年四十五

五月十七日。 曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜森先生の『渋江抽斎伝』を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細 密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の妙あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頑(けつかう)す ることを得べし。

『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。(……)『抽斎』と『霞亭』と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしは信用しない。(……)では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える。『抽斎』第一だと。(石川淳「鷗外覚書」)
出来上がった作品としては「蘭軒」は「抽斎」に及ばない。うっとりした部分、遣瀬ない部分、眼が見えなくなった部分、心さびしい部分をもって、しかも「抽斎」はその弱いところから崩れ出して行かない世界像を築いている。いわば、作者のうつくしい逆上がこの世界を成就したのであろう。そういううつくしい逆上の代わりに今「蘭軒」には沈静がある。世界像が築かれるに至らないとしても、蘭軒という人間像をめぐって整理された素材の粛粛たる行列がある。(石川淳『森鴎外』)


丸谷才一は、『霞亭』ではなく、『抽斎』と『蘭軒』派のようだ。

日本の近代文学で誰が偉い作家かといえば、夏目漱石と谷崎潤一郎、そして森鷗外の3人だと相場はほぼ決まっています。戦前の文壇筋では、谷崎はともかく、漱石や鴎外を褒めるのは素人で、一番偉いのは志賀直哉だと評価が定まっていましたが、ここにきてやっと妥当なところに落ちつきました。

一般的に漱石や谷崎の作品はよく読まれているはずなので、あらためて触れる必要はないでしょう。問題なのは森鴎外です。だいたい、鴎外の小説は美談主義でたいしたことはない。それでも、国語の教科書で『高瀬舟』なんかを無理矢理読まされるものだから、みんなうんざりしてしまう。そもそも教科書にはつまらないものが載るので、教師の教え方も下手に決まっているから、印象が悪くなるのは当たり前。鴎外の作品で本当に価値があるのは、晩年の50代に書いた3つの伝記なのです。

その3作とは、書かれた順に『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』。いずれも江戸後期の医官でたいへんな読書家だった。鷗外は古本屋で彼らが売った本に出合い、「いったいどんな人がこれほど立派な蔵書を持っていたのだろう」と好奇心を抱いて探り出す。そこから話が始まります。(……)

先に挙げた3作の中では、僕は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』がいいと思う。この2作品は近代日本文学の最高峰といえるでしょう。なぜそれほど素晴らしいのか。この2作は続けて書かれたものですが、謎解きの構造がたいへん大仕掛けになっていて、『伊沢蘭軒』の中で、前作で解決されなかった謎がすっかり解けるのです。(文壇の重鎮 丸谷才一が語る「不朽の名作」

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鷗外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。

作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

《刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。

五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。

五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。

熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。》(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。(加藤周一著「『渋江抽斎』について」)


『渋江抽斎』賛ではないが、三島由紀夫の鷗外賛。

鴎外とは何か?(……)

鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創りあげてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。(三島由紀夫「作家論」―森鷗外)

…………



◆「史伝に見られる森鴎外の歴史観」(古賀勝次郎)より

鴎外は、「わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者」云々としている(『伊沢蘭軒』)。この学者とは和辻哲郎である。

私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)


漱石派/鴎外派の対立ということもあるのだろう。

森先生の歴史小説は、その心理観察の鋭さと、描写の簡素と、文体の晴朗とで以て、われわれを驚嘆せしめる。例へば、『寒山捨得』では、……俗人の心理や真の宗教的心境の暗示や人間の楽天的な無知などが、いかにも楽々と、急所急所を抑へて描いてあるのに感服した。しかし私は何となく、本質へ迫る力の薄さを感じないではゐられない。先生の人格はあらゆる行に沁み出てるるが、それは理想の情熱に燃えてない、傍観者らしい、あくまで頭の理解で押し通さうとする人格のやうに思はれる。そこへ行くと夏目先生は、口では徹底欲を笑ふやうなことをいってゐるが、真実は烈しい理想の情熱で、力限り最後の扉を押し開けようとしてゐる。夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてゐる問題である。あくまで心の理解で貫かうとする欲求も見える(同和辻)
ーー和辻は、「夏目先生の長所と森先生の短所との比較」としているが、これは己れの文の、鴎外批判(吟味)と漱石顕揚の対照の甚だしいことを韜晦する為につけ加えた但し書きに過ぎないだろう。



◆鴎外文学に対する三つの視点(井村紹快)より

この人たち(谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、等)ををさきの二人(漱石、鴎外) の人に比べてみると、大きい小さい、うまい・まずいということとは別に、今日のこの人たちが、すくなくともあの二人と同じ意味で偉大だとは義理にもいえないと思うということが自然に出てくる。(中野重治「漱石と鴎外との位置と役割」)
しかしそこに、古いものに対する鴎外の屈伏、あるいは妥協ということも私はあったと思います。必ずしも家族制度と限る必要はありません。家庭生活、官吏生活、それから政治生活、すべてを貫いて結局のところ鴎外は、古いものに屈伏しています。従順にそれに従っています。生涯をつらぬいて鴎外は、古いものを守ろうとする立場を守っています。むろんそこに、いろいろの、またなかなかはげしい内部衝突かおりますが、この衝突を、行きつくところまで行きつかせることを鴎外はしません・(中野重治「鴎外位置づけのために」)
そこで、鴎外で目立つ第二の問題ですが、それは、古い権威を維持するため彼がいかにも奮闘しているということだと思います。これは、話が多少面倒になりますが、森茉莉さんの言葉をかりれば、鴎外の思想の根底に『一片耿々たる皇室尊崇の念が確乎として存在』したということに関係があります。やはり必ずしも、皇室とか天皇とかいうものには限りませんが、徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になって再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため、鴎外がいかに奮闘したか、いかに五人前も八人前も働いたかという問題であります。

このことでは、鴎外はさまざまの改革をもやっています。宮内省ないし帝室博物館の問題、陸軍軍医団の編成の問題、東京医学会ないし日本医学会の組織の問題、政府の文芸政策ないし芸術作品にたいする検閲の問題、革命運動にたいする弾圧政策の問題、こういう問題で、鴎外は、広い知識と高い見識とを働かして、なかなか立派な意見を出し、またそれが実行されるよう舞台裏で事を運んでいます。文部次官に手紙をかく。山県有朋に特別に会って話をする。そういうことをやり、またそのため、人と衝突したり、陸軍次官から叱られたりなどもしています。では何のために鴎外がそれほど働いたか。日本の民主化をおさえるため、日本の民主主義革命にブレーキをかけようとして五人前も八人前も仕事をしています。民主主義革命への日本内部の動きと活力、それをおさえるには、上からの力をふんだんに強め、不断に新しくせねばなりまぜん。この上からの力を、粗末なものから精密なものに、低級なものから高級なものに改めて行かねばなりませんが、この支配する力を思想的哲学的に裏づけ高めること、ここに鴎外の五人前も八人前もの力が発揮されたということ、これが第二の問題、また非常に大事な問題だと私は考えます。(中野重治「鴎外位置づけのために」)
労働者階級の成長を明らかに勘定に入れて、さまざまの社会政策を改良主義的に考え、その結果、改良主義から天皇制社会主義( ? )へ行き、排外・全体主義の極右政策に出ようとした一人の人によって近代日本文学が最も高く代表されているという事実、これを日本の労働者階級とその文学的選手団とから隠そうとするのはよくないことであって悪いことである。(「鴎外と自然主義との関係の一面」)
天皇を天皇制の中心として残そうという試みと、同時に天皇をいくらかでも人間的ものとしようという試みとの、分かり切つた空しい統一のための鴎外の努力は、今となっては同情をもって眺められるべきものかも知れない。ここでも古い意味での『忠義』という言葉をつかえば、鴎外は、明治・大正の全期間を通じて、その『忠義』のために金、位、爵位などを得たすべての人よりももっと純粋な意味で『忠義』であったとも言えよう。これは、強かった鴎外の弱点としての美点であった。(「小説十二篇について」)

ここに書かれる鴎外の態度は、いろいろ語られ過ぎた三島由紀夫の天皇にたいする態度と同じものというつもりはないが、すくなくとも「春の雪」の月修寺門跡の態度と驚くほど似通っている。

あの朝、聰子からすべてを聴かされたとき、門跡は聰子を得度させるほかには道がないことを即座にさとられた。宮門跡の傳統ある寺を預る身として、何よりお上を大切に思はれる門跡は、かうして一時的にはお上に逆らふやうな成行になつても、それ以外にお上をお護りする法はないと思ひ定め、聰子を強つて御附弟に申し受けたのである。

お上をあざむき奉るやうな企てを知つて、それを放置することは門跡にはできなかつた。美々しく飾り立てられた不忠を知つて、それを看過することはできなかつた。

かうして、ふだんはあれほどつつしみ深くなよやかな老門跡が、威武も屈することのできない覺悟を固められた。現世のすべてを敵に廻し、お上の神聖を默ってお護りするために、お上の命にさへ逆らふ決心をされたのである。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻 319-320頁)



◆「大岡昇平『堺港攘夷始末』論 : 単一の「物語」への回収を拒否する歴史」(尾添陽平)より

大岡の『堺事件』批判は、大岡自身によつて以下のようにまとめられている。

・全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨で、歴史小説の方法として疑間がある。

・一方には無法な洋夷としてのフランス人がおり、他方これを排除せんと決意し、皇国意識に目醒めた土佐藩士がいる。彼等は洋夷の圧力によって切腹しなければならなかったが、正にその切腹によって洋夷を遁走せしめた。洋夷に対して謝罪はしないが、切腹の場に臨み、無言のうちに、彼等の不幸を見守る、天皇家があった。封建的土佐藩は助命された九士を流罪にしたが、天皇制は幼帝即位を機に特赦する仁慈と権威を持っている。鴎外が捏造したこの構図ほど山県体制に役立つものはなかったであろう。(大岡昇平「『堺事件』の構図――森鴎外における切盛と捏造――」)


吉田熙生は、大岡の『堺事件』批判の動機を、「『レイテ戦記』の執筆と完成にあった」と指摘、『「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる」「兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだつた」と述べている。大岡は、『レイテ戦記』のあとがきにおいて「旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣」があった、と述べる。大岡は、旧軍人たちによるレイテ戦の記述が、レイテ戦を美化する「物語」を立ち上げ、レイテ戦を、その「物語」の構図に回収する記述であることを批判している。そして『堺事件』が、旧軍人たちによって記されたレイテ戦と同様に「全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨」であり、『堺事件』の歴史記述は、無法な洋夷としてのフランス人」を「皇国意識に目醒めた土佐藩士」が、「切腹」という命を代償にした行為によって遁走せしめ、天皇家は、「切腹」した土佐藩士の「不幸を見守」り、「助命された」土佐藩士を「特赦する仁慈と権威を持っている」〉という殉国の「物語」を立ち上げ、堺事件を、その「物語」の構図に回収する記述である、と批判するのである。


…………

戦後以降も、作家、芸術家批判というものがくり返されてきた。彼らがその「現在」、政治にいかにかかわっているか、あるいは体制批判の有無が、鴎外への批判と同じようなものを生む。美学的にいかにすぐれていようと、そのひとの体制へのかかわり方によって「凡俗」という評言が与えられる場合がある。ましてや思想家、批評家ならいっそうのこと。

中野重治や大岡昇平の批判は、本質的なことにかかわっている。そして中野や大岡の指摘する側面からいえば、最も鴎外のその態度に批判的であるべきはずの加藤周一(戦後体制が旧体制からの継続であるのを激しく批判する加藤)が、中野重治や大岡昇平の論点を外してひたすら鴎外顕揚の立場であるのは、加藤周一の「弱さ」、すくなくともある側面に於いて美学的過ぎることによる「脇の甘さ」をみるべきか、それとも別の見方をしていたのかは知るところではない。

いずれにせよ「さらば川端康成」を書いた加藤周一だが、鴎外にたいしては絶賛で終始した。

……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。(加藤周一「さらば川端康成」)

もっとも加藤周一の『日本文学史序説』の文脈からいえば、近代の文人として鴎外が至高の位置を占めるのは、止む得ない。

あるいはまた、《漢文学は国学者のプロテストにもかかわらず、日本の文学の正統であった。吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立したのである(「初期歌謡論」)。花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学による「意識」において存在しえたのだ。古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。》(柄谷行人『日本近代文学の起源』)であるのだから、柄谷行人の文脈からいっても漱石・鴎外が顕揚されることになる。そして柄谷行人は、明らかに和辻、中野、大岡と同じように漱石派である。

柄谷行人が鴎外ではなく、漱石をとるのは、和辻が書くように《夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてみる問題》であるからであり、それは「心的外傷」(トラウマ)にかかわるからといってもいい。
漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(『日本近代文学の起源』)

加藤周一の『日本文学史序説』からいくらか引用しよう。

・比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである。

・散文家としての日蓮は、一種の天才であった。その散文には、舌鋒火を吐く激しい気性がよくあらわれている。気性と信念。論戦的な日本語の散文は、早くも13世紀に、日蓮において、殊にその若干の消息文において、ほとんど最高の水準に達していた。

・(道元の)『正法眼蔵』の文章は、13世紀日本語散文の傑作の一つである。

・散文家としての(新井)白石の面目は、『藩翰譜』にみることができる。(……)けだし『藩翰譜』は、元禄期前後の、またおそらくは徳川時代を通じての日本語散文文学の傑作の一つであろう。(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーこの流れから、「文人」としての鴎外・荷風・石川淳が顕揚されることになる。

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(同『日本文学史序説』)

もっとも永井荷風や石川淳が、《哲学の役割まで文学が代行》した作家であるかどうかは議論の余地が大いにあるだろう。ただし、二〇世紀前半までの日本において、《哲学の役割まで文学が代行》したのは、否定しがたい説ではないだろうか。

そして二〇世紀後半のある時期からの文学の衰退により、いささか断定的すぎる嫌いもないではない柄谷行人の絶望の嘆きが生れることになる。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(『近代文学の終り』柄谷行人)

…………

さてここで、《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》とする大岡昇平の、たとえば《旧職業軍人》に別の言葉を代入すれば、、2011年春以降ことさら《怠慢と粉飾された物語》に汚染されているのが瞭然としているにもかかわらず、それに憤懣・苛立ちを垣間見せさえしない作家や芸術家たちーー、思想家、批評家はもちろんのことーー、彼らに対して、いかに小粒で歪んだ「鴎外」でしかないひとが多いだろうか、などといまさらもっともらしく嘆くふりをするつもりはない、ーーと書くのは、いささか「逆言法」であるのが以下に示される。

芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

この「芸術家」は「知識人」でもある。そして仮に批判的な言葉を呟こうしても、制度は、権力は、すでにその言葉を取り込む「装置」としてある。

われわれは、ここで、いわゆる第二帝政期が、それに批判的であろうとする姿勢そのものが規格化された言葉しか生み落とさないという悪循環を萌芽的に含んだ一時期であると認めざるをえまい。それは、いわゆる知識人や芸術家たちを積極的にとりこむ力学的な装置のようなものだ。顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序なのだといいかえてもよい。というのも、知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。(同)

このことが、「装置の罠」といわれるものなのだ。

酒井直樹の「共感の共同体批判」に対し、『思想としての3.11』(河出書房新社)において、小泉義之が、「この類の批判は正当で必須であるにしても」(『思想としての3.11』124頁)と前置いたうえで、「共感の共同体への批判と原発産業や政府機関への批判とがワンセットになる構図こそが何度も繰り返されてきたことであって、そこにこそ何か得体のしれない罠が仕掛けられているという気がする」(東日本大震災、福島原発事故における言説の諸関係について

…………

しかし制度の力学的装置の罠に陥らないようにしつつ、次のようでなければならないのは間違いない(美学者や自己愛者を除いて?ーーとしたらそんな人間は存在するだろうか)。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

鴎外は比較的後年の随筆「沈黙の塔」で次のように書いていることをも付け加えておこう。
芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。(……)学問も因襲を破って進んで行く。一国の一時代の風尚に肘を掣せられていては、学問は死ぬる。







2013年9月17日火曜日

相対的には聡明なガキ(蓮實重彦)

語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそれが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー 「海」 初出1977.12号)

表題を「聡明なるガキ」としたが、けっして聡明なる猿のことではない。ポイントは「相対的には聡明な」である。

《フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです》(ドゥルーズ


…………

記号でも作品でもいい。文章でもかまわない、それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評ではないか。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P50

――とあるように、氏のいくつかの作品を輝かせる批評に遭遇することにより、まずはなりよりも蓮實重彦にお世話になったのであり、それは安岡章太郎や藤枝静男、あるいは後藤明生であったり、夏目漱石の再評価であったり、最近では黒田夏子の発掘であったりする(映画作品のことはここでは触れない)。


安岡的宙吊りの世界は,世の道徳的水準における責任回避とは本質的に異なった身振りであり,世界の中核へと向けて自己の存在を全的に開示しようとする生の条件を構成するものである。(「安岡章大郎論」『海(昭和48年7月号)』中央公論社)

最近の若いのは、「宙吊り」という語彙がきらいらしいな。だが、この語が活きて使われだしたのは、ドゥルーズのマゾッホ論(蓮實重彦訳)起源じゃなかったかい? 《期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態において生きるものである。》

ドゥルーズ批判してみたらどうだい? いやそうじゃなくてよい、手ごろな相手がいるだろう、それとも今年になっての三冊のドゥルーズ研究者批判ってのは、相手が小者すぎて、きみたちには物足りないのかい? (まさか仲間内だから批判できないなんてことはないだろうな)

いずれにせよ、きみたちよ、蓮實批判もいいが、ツイッターなどでやっておらずに、すこしまとまった文で書いてみたらどうだろう。そして、それよりなりより、まずは自ら慈しむ作品を輝かせてみることはできないのだろうか。きみらにはそんな気配は毛頭ないのだかね。そもそも何を愛してるのかも判然としない。

……みんな、批評っていうものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)

批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P159)

こう引用すれば、「魂の唯物論的擁護」なる語句が気に入れない連中もいるのだろうが、魂とはドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)であり、光であって、「アクションを必然化するもの」と蓮實重彦が書く文句から想到すれば、ドゥルーズ=プルーストの次の文がここではふさわしい。

プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の章)
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

恋人の表情に嘘のシーニュを読みとるもの、恋する者の沈黙した解釈、それのみがアクションを必然化する。ーーこの「解釈」ってのは「解釈学」とは訳が違う。

《Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)、Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning》(.「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン


そもそも、今年になってドゥルーズ研究書がいくつか出ているのだから(そしてもうすぐ真打的な「動きすぎてはいけない」ってのが出るのだから)、「強制forcé」がキーワードのひとつであるのを知らぬわけではあるまい(オレは読んでいないがね)。動きすぎてはいけないのは、蜘蛛になるためであり、恋人の表情に嘘のシーニュを読むためじゃないのかい? つまりは「魂の唯物論的擁護」さ---私はとても旅をしようという気になれない(ドゥルーズ)

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分的事物の機械(衝動)・反響の機械(エロス)・強制された運動の機械(タナトス)machines à objets partiels(pulsions), machines à résonance (Eros), machines à movement forcé (Thanatos) .である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”
※訳語はいささか違和があるだろうが(たとえばobjets partielsってのはフロイト=ラカンの「部分対象」なんだろうな、仏語には疎いがね)、あえて訂正はしないよ。


観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛などの二項対立があるとして、前者ばかりでやっていては埒が明かない。蓮實重彦が次のように語るのは、ほとんどその意味だろう。

僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)

僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。たとえば、ジョン・フォードには太い大きな幹が出てくる。僕は、それを美しいと思う、というよりそのことに理由のない恐れをいだく。しかしそれには何の意味もない。ただ、太い樹木の幹が見えるというだけなんです。だから『静かなる男』にもあった、『タバコロード』にもあった、『我が谷は緑なりき』にもあったと際限なく羅列してゆくしかない。(『闘争のエチカ』)


以前も蓮實批判をしつつ、それなりに聡明ではあるようにみえる若い輩が、《……私は、たとえば蓮實の言った身体性・動体視力・運動神経をはじめとして、この種の自己認識言語(ぶっちゃけキャッチコピ-であり、他党派を「奴らには~~が無い」と指弾するときに使われる評言にもなる)をそのまま鵜呑みにして使う奴は馬鹿だと思ってる。》とか発話していたが、《勘を鈍らせるものがパラダイムである。》(『闘争のエチカ』 p242)の「勘」やら、「動体視力」であれば、次のような文が気に入らないのだろう(まあここはいっけん蓮實批判ではなく、鵜呑みする手合い批判だがね、そうはいっても、魂、勘やらは嫌いなのだろうよ、それで蜘蛛や動きすぎてはいけないってのも実は嫌いなんだろ? いまから推測されるぜ、10月出版以降、新種の鵜呑みの手合いが輩出するのが)。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、“できごと”として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(『表象の奈落』「あとがき」)

ーー批評とはたかだか「翻訳」かい、などと愚かなことを云わないようにしよう。

《自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。》(古井由吉「文藝」2012年夏号)

あるいはその威勢のいい若輩はこうも発言していた。《丹生谷は優秀な人だった…嗅覚が利いてたとか、蓮實に対する抵抗に見えるときもあった…とかの愛着は私も結構あるのだが。いや、それはそれとして、「~~をこう読解する」と「それは~~の産物であると自己認識する」はつねに別々になりえて、後者の「自己認定の評」とは別に分析・読解の結果から遡行すると、自己認識なんて当てにならないというか、単なる「信念の表明発話」であり、そう発話することを欲している主体あるいは共同体が透けて見えることがザラなわけですよ》《やっぱ字面として「身体性・運動神経」を落としどころに持ってくる言葉に、人はあっさりやられてるんじゃね?》云々。




最初にあげた発話の「私は……そのまま鵜呑みにして使う奴は馬鹿だと思ってる」の文が、この当人自身の「そう発話することを欲している主体あるいは共同体が透けて見え」てしまっていることに、この人物が自覚的であるなら、それなりに穿った見解として扱うことができもしようが、その発話当人が、みずからの狭い共同体というのか村社会というのか、その内部でのみの「相対的な聡明さ」の誇示であることに気づいている気配がないのなら、ションベン臭いガキの戯言として扱うよりほかあるまい。

ガキとは失礼な言い草であるなら「凡庸」の典型と呼ぼう。

凡庸さとは才能の欠如のことではない。凡庸さとは《相対的な聡明さに自足しうる精神と、その精神に一つの役割を演じさせることで社会を安定させる力学の支配》(『凡庸な芸術家の肖像』)に侵されていることを云う。きみたちの村社会はさぞや慰安の場所なのだろう、うなずきあいやら無数の相槌によって。

もっとも、《あたりに氾濫する無自覚な凡庸さを何とか超えようとする姿勢そのもの》が「凡庸さ」を形作るのであり、《誰も、凡庸な連中を笑う自由など持っていない》のであって、実際、他人の欠点を嘲笑してきた連中は、《等しく彼と同程度に凡庸な人間ばかりである》のだから、ひとは「凡庸」から逃れようもないが、「共感の共同体」に憩いつつの「批判」だけはやめとけよ、それが凡庸の真打って奴だぜ

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

ここでいう愚かさは、蓮實の愚鈍じゃなくて凡庸のことだがね、クラスタ内でのみ呟いて凡庸を進歩させるのだけはやめとけよ


それともすこしはこういった気配があるのかね、きみたちのクラスタとやらには。

・気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる外部の力学
・共感とは異質のある種の齟齬感
・同調からくる納得ではにわかに処理しかねる違和感
・親密さではなく、むしろそれをこばんでいるかにみえる隔たり


ーーそもそもこの式辞をもろに聞いて反撥を感じた世代かね、きみたちは。


繰り返すが、批判するなら、ツイッターなどで仲間同士で相槌など打っておらずに、ブログなどでもいい、もうすこし長い文でやってそれをツイッターに貼り付ければよいのだし、それよりも先に、まずは何かを輝かせてみたらどうだろう。

なあ、おい! 「ツイッターはインテリのパチンコ」っていう名言があるのを知らぬわけではあるまい、パチンコばかりやっていても致し方ないぜ

それとも、そんな才能は微塵もないないから、ちょろい悪口をやっているのかい? 

何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

いや、そもそも夜郎自大のナルシシストの口じゃあるまいな? 自分自身を輝かせるのだけはやめとけよ

サブカルチャーはいい、マンガはいい、アニメはすばらしいというようなことは、かつてはイロニーとしていわれていた。その限りで、一応の批評性があった。ところが、今の日本ではもうイロニーはありません。たんに夜郎自大の肯定があるだけです。はっきりいって、現在の日本には何も無い。そして回復の余地も無い。》(柄谷行人「イロニーなき終焉」「近代文学の終り」2005よりーー柄谷行人の「構造と反復」をめぐって

ーーなどと書けば本人に届くつもりか、このおっさんとかなんたら言ってくる連中がいるかもしれないから、そんな意図は毛頭ないと先に答えておくよ。これは投壜通信さ。


航海者は遭難の危機に臨んで、自分の名と自分の運命を記した手紙を瓶に封じ込め海へ投げる。幾多の歳月を経て、砂浜をそぞろ歩いていて、わたしは砂に埋もれた瓶を見つけ、手紙を読んで遭難の日付と遭難者の最後の意思を知る。わたしにはそうする権利がある。わたしは他人あての手紙を開封したりはしない。瓶に封じ込められた手紙は、瓶を見つけた者へあてて書かれているのだ。見つけたのは、わたしだ。つまり、このわたしこそ秘められた名宛人なのである。……(オシップ・エミリエヴィチ・マンデリシュターム 早川眞理訳)


2013年7月29日月曜日

猟場の閉鎖

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳

須賀敦子さんはこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか。》と。(『遠い朝の本たち』)

おそらく多くの人はこのようなのだろうし、それは生活していく上では(食べていく上では)ある程度は止む得ないともいえる。

かつて仏国では、法科と医科の学生は、ここでいう「敗北者」たちであったと読める文をレヴィ=ストロースは書いているが、現在の日本ではどうだろう(もっとも晩年のレヴィ=ストロースが、体制のなかにちゃっかり座りこんでいなかったか、といえばそれも疑わしいーー参照「共感の共同体」)。

文科と自然科学の学生? 教員たち? 子供っぽい世界に留まりたいと願う連中、とレヴィ=ストロースは書いているが、これも現在どんな具合なのか知るところではない。彼らのなかに有能な専門家もいるには違いない。そして、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)であるだろう。

しかしながら、彼らのすべてが共同体の「体制主義者」であったり、隠れ体制派ばかりでもあるまい。
大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)

…………
一九二八年頃には、様々な学科の一年目の学生は、二つの種類というより、ほとんど別個の二つの人種と言ってよいようなものに分けられた。一つは法科と医科の学生で、もう一つは文学と自然科学の学生である。

外向的と内向的という言葉は、およそ陳腐ではあるが、恐らく、この対照を表現するには最も適当であろう。一方には、「若者」(民俗学が伝統的に、この言葉を年齢階級の一つを指すのに用いているような意味での)、騒々しく無遠慮で、およそ最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡ろうと心を砕き、政治的には極右(その時代の)を指向している「若者」。そしてもう一方には、今からもう老け込んでしまった青年たち、慎重で、引っ込み思案で、一般に「左傾」しており、彼らが成ろうと努めているあの大人たちの仲間に今から数えられるべく、苦行している青年たちがあった。

この差異を説明するのは、それほどむずかしいことではない。第一の、一定の職務を遂行する準備をしている青年たちは、学校というものもこれで終りであり、すでに社会の機能の体系の中で占めるべき地位を確保されていることに、彼らの言動によって凱歌をあげているのである。リセの生徒という未分化の状態と、彼らがそれに就くことを予定されている専門化した活動との中間の状況に置かれて、彼らは自分たちを欄外余白のようなものとして感じており、一方の条件にも他方の条件にも適合する、矛盾した特権を要求するのである。

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。(……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。(……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』Ⅰ 川田順造訳 p77-79)


この二つのカテゴリーのひとたちが、たとえば「危機」の際、役立たずであったにしても、在野の「知識人」やら「芸術家」がいるではないか。

あたかもそれが内的な感受性の繊細さを証拠だてるものであるかのように、彼は外的な葛藤を内的な不幸としてしか体験していない。(……)芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序(……)。知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。

……それにきまって顔をしかめてみせる一部の知的=感性的な特権者たちの拒絶反応とによって支えられた政治的な秩序(……)。距離をとろうとする意識が口にさせる「紋切型」に無自覚な者たちをこれまで凡庸の一語で呼んできたが、○○は、まさしくそうした凡庸さをきわだたせる現象にほかならない。いささかの軽蔑をこめて顔をそむける知識人や芸術家の居心地の悪そうな表情そのものが、○○にはなくてはならぬ情景ですらあるわけだ。それが、あたりを埋めてくれる無表情な群衆とともに、この国家的な行事を活気づけてさえいるのである。(同上)


《……職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(中野重治「芸術家の立場」)

ーーこう引用して、柄谷行人は次のようにかつて書いた。

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。(……)

しかし、中野のいう「芸能人」は、べつに1950年代後半以降の新しい現象ではない。むしろ、芸術家や知識人は、それがあらわれたときすでに中野のいう「芸能人」のような存在だったというべきなのである。べつに芸術を実現しているわけでもないのに、「芸術家」と名乗る人たち。「知識」を追求しているわけでもなく、そのことを指摘されれば、実践が大切であり大衆に向わねばならないという人たち。そして、大衆から孤立しているが、その理由が大衆の支持を最も必要とするからにすぎないような人たち。こういう種族がもともと知識人や芸術家なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」)

もちろん、そんな連中ばかりではない、という錯覚にわれわれは閉じこもる必要がある。それでなければ、危機の際、下り坂を転げ落ちるしかない。

現代には、ある種の諸力がみなぎっていることは確かである。それも莫大な量の力であるが、しかしそうした諸力は、野放しの衝動的な力であり、まったく荒々しい直情径行的な力なのである。人々は、まるで地獄の厨の釜をのぞき込むときのような怯えた目つきで、不安そうにそれらの力の動静をうかがっている。いつなんどき沸騰して、爆発し、恐るべき災厄を予告するかわからないからである。(……)

諸個人は、あたかも自分がそんな不安や懸念などまったく知らぬかのようにふるまっているけれども、そういう事実のせいでわれわれの眼がくらませられることはありえない。彼らの不安そうな落ち着きのなさを見ると、どれほど彼らもそのような懸念に影響されているかがよくわかる。彼らはこれまでいかなる時代にも見られなかったほどの性急さと、一種の排他主義で、私利私欲のことばかり気にしており、たとえば建築したり、作づけしたりする場合でも、それはもっぱら自分のためであって、また将来のことを念頭においてはおらず、目先のためでしかないのである。幸福という獲物を求める狩は、その獲物を今日か明日のうちに捕らえねばならぬとしたら、そういう場合ほど性急でせわしない狩となることはないだろう。というのも明後日に、猟場が閉鎖されてしまうと予告されているのだから。われわれが生きているのは原子の時代、原子のひしめく混沌の時代なのである。(『反時代的考察』――ドゥルーズ『ニーチェ』より 湯浅博雄訳)

ーーさて、いささか「偽善的」な引用から、以下は、「偽悪的」な語りに移調することにする。



あれら巷間に渦巻く「芸能人」的お喋りは、明日の猟場の閉鎖を観念しているせいじゃあるまいな?

「芸能人」とは、徹底した観客重視の態度を恥じない人物たちのことだぜ

受けねらいも生活するには大事だろうよ、人文学の危機の時代らしいからな

それとも単なる自己顕示欲の変形であり、虚しい社交的慰戯の一様態かい?


日本の情報ってのは、最近はツイッターぐらいでしか見ないのだけれど、人間観察にはいいねえ

新種の「人間園」って感じだな

一九世紀の動物園設立に先立って精神病院の見物が一八世紀都市住民の日曜日の楽しみであった(“人間園”)としても、これにも一つだけよい点、すなわち精神医療を公衆の目にさらすところがあり、精神病院をめぐる忌まわしい事件、とくに遺産横領のために相続人を病院に入れる事件は、むしろ一九世紀の特徴である。(中井久夫『分裂病と人類』)

最近の若い研究者が、いまだ大好きらしい、ドゥルーズやらデリダ、最近ではポール・ド・マンも復活らしいが、残念だな、同時代的な思想家がいなくて。


かつて三十代の浅田彰が同時代の思想家たちと軒並対談したわけだがーージジェク、サイード、ボードリヤール、バラード、ヴィリリオ、リオタール、フクヤマなど(対談集「歴史の終わり」と世紀末の世界』)、そんな試みは今はないのかね。相手がいないってわけかい? それとも目立たないだけで、だれかがどっかでやってるのかね

もっともこの対談は、「冷戦終結」という議題があった時期で、出版社による企画だったのかもしれないけれど。いまでも、議題がないわけでもないだろう、たとえばジジェクは四つ挙げている。

歴史的現実のなかに、この[コミュニズムの大文字の]〈概念〉を実践に写すよう強く働きかける敵対性の存在を位置づけなければならない。……

そのような敵性は四つある。①迫りくる環境破壊の狂気。②いわゆる「知的所有権」に関連した知的財産についての不適切な考え。③とりわけ遺伝子工学などの 新しい科学テクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味。……④新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム。

最 後の特徴――〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップ――は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶ もの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体の別の側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってし てでも抵抗しなければならない。(スラヴォイ・ジジェク 『ポストモダンの共産主義』

このなかでの、とくに「新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム」ってのは、いやでも目に付くわけでね。


ーー浅田彰はそれぞれの専門分野の人たちから微細な批判はあるにしろ、やっぱり特別な才能だった(過去形でいうのはマズイのかもね)ということで諦めているわけでもあるまい?

対談でも言ったことだが、わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。相手方のパスを遮断して自分のものにしたボールを、すばやくジグザグにドリブルし、一人、二人、三人と抜き去って、いきなり鋭く長いパスを出す。このパスがなかなか一筋縄で行くような代物ではない。俊足をもって鳴るフォワードの面々も、まずたいていのところは追いつけず、シュートの機会を空しく逃してしまう。浅田氏は無表情のまままた新たにボールを追いはじめるが、なぜあれに追いつけないのか、あれに追いつけないかぎりシュートの機会など永遠にめぐってくるまいと、内心ではチッと舌打ちしているに違いない。一方、フォワードはフォワードで、いきなりあんなところに蹴り出されても困る、そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない。

ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。

四方田犬彦や伊藤俊治と雑誌『GS』を始めたとき、浅田氏はまだ二十七歳くらいだったはずである。「ニューアカ」などと蔑称される二十年前の知的風土は、なるほど軽薄と言えば軽薄、卑俗と言えば卑俗であったが、しかしそこには少なくとも、大学をもジャーナリズムをも巻き込んで制度に幾つもの風穴を開け、そこから新鮮な風を呼び入れようという勢いだけはあった。手堅い研究発表で業績を稼ぎいい子、いい子と褒められたいなどとは彼らの誰も思っておらず、ただ華麗なゲームを組み立てて満場の観客を唸らせたいという野心にのみ突き動かされ、ときにいかがわしい香具師や曲芸師を演じることも恐れずに、とにかくフィールドの端から端まで度胸よく、全力疾走しつづけていたのである。

浅田 彰の衣鉢を継ぐ攻撃的ミッドフィールダーが若い世代から出てくるべきだと思う。むろん、往時と今では様々な条件が異なっていることはわかっている。これまでにないような陰鬱な閉塞状況があたりを覆い尽くしているのに、それを閉塞とも逼塞とも感じさせない巧緻な力学が働いて、若い世代を萎縮させている。社会は大学に目先の有用性のみ求め、人文科学は徹底的に馬鹿にされている。浅田氏自身誰も拾ってくれないパスを出しつづけることにいささか倦んで、後退戦に入りかけているようにも見える。だが、だからこそ、である。こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。

対談で浅田氏は、翌日に予定された研究発表パネルの要旨を見るかぎり、既成のパラダイムの中で動いているにすぎないという印象を否めない、という趣旨の発言をされたが、これもまた彼の出した攻撃的なパスの一つなのではあろう(「攻撃的」というのは敵に対してのみならず、味方に対してもということだ)。ただ、このボールを受けてくれる味方のプレーヤーは誰もいまい、いるはずがあるまいという諦念とともに蹴り出された、やや自棄的なパスのようにわたしには感じられた。

現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。(対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)「人文知の現在」

ーーということで、「何ができるだろうか」と言いっ放しで、諦めたせいでもあるまいが、松浦寿輝は東大早期退職しちゃったけど

ジジェクやバティウは古すぎるのか過激すぎるのか、ひょっとして訓詁学に専念していて同時代的すぎるのか、あるいはコミュニズムを敬遠しているのかはしらないが、ナンシーやらアガンベン、ダマシオ、デュピュイやら(古い名前しかあがってこない「知識」しか持ち合わせていないが)、あるいはメイヤスーやマラブーが何を言っているのか知らないけれど、この比較的新しい名の人物だっていい、彼らと対談してみようとする日本の「優秀な」研究者ってのはいないのかね。

メイヤスーは確かに興味深い哲学者だが、彼自身がまだ1冊しか本を出していない段階で英語のメイヤスー論の単著(Graham Harman,”Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making”)まで出るという状況は異常だろう。フーコーやデリダの時代に英米の大学で「フレンチ・セオリー」が流行した、ところが巨匠たちがどんどん去っていくなか、残ったバディウが異常に有名になり(他方、フランスでも遅まきながらスラヴォイ・ジジェクの影響が強まって、その線でバディウが浮上しもした)、その弟子も英米の学者たちが先物買いでもてはやしてるという感じではないか。(浅田彰「メイヤスーによるマラルメ」

訓詁学も専門家のみなさんには必要なのだろう、それに、《彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ》って振舞いは最近は得意らしき研究者もいるし、尊重しなければならないがね

或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて、難問の箭を放ちました。何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大に窘められたのでしたが、余り窘められたのでやがて昂然として難者に対って、「僕は読書ただ其の大略を領すれば足りるので、句読訓詁の事などはどうでもよいと思って居る」など互に鎬を削ったものである。(幸田露伴「学生時代」



ところで、きみたちの「大好きな」ドゥルーズは「議論」と聞けば、逃げ出したらしいぜ

It took me some time to learn this, but I think that I truly became a philosopher when I understood that there is no dialogue in philosophy. Platos dialogues, for example, are clearly fake dialogues in which one guy is talking most of the time and the other guy is mostly saying ‘yes, I see, yes my God it is like you said — Socrates, my God that’s how it is’. I fully sympathise with Deleuze who said somewhere that the moment a true philosopher hears a phrase like ‘let’s discuss this point’, his response is ‘let’s leave as soon as possible; let’s run away!’ Show me one dialogue which really worked. There are none!”
―――Slavoj Žižek in Conversations with Žižek

まあ、なんでもいいが、きみたちの好きな思想家なり文学者なりが、SNSなどで、すこし調べたら済むような紹介やら、内輪で論文の褒め合いやら、夜郎自大の承認欲求の劇を演じるものかどうか、たまには振り返ってみたらどうだい? きみたちの振舞いが彼らにどう映るのか、と。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

そうだな、紹介しあうのも、新蛸壺社会が進化しているのだったら、あながち無駄とはいわないけれどね、--《「紹介書評」は初歩的書評のようであるが、人々が日々関心を持つ世界が狭くなり、「新タテ社会」といおうか、多数の書が出版されつづける現在では非常に有用である。》(中井久夫ーー「ただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退く」より)

…………

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』


これを似非能動性とジジェクは呼んでいるのだが、どうせ能動的になるなら、次の「能動性」にしろよな。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(「構造主義とポスト構造主義」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』黒田昭信訳)


強迫神経症者なんて、いまはめったにいないのかね

ラカン派によれば、二十世紀の「神経症」の時代から、二一世紀の「ふつうの精神病」やら「ふうつの倒錯」の時代らしいからな

ひょっとして、きみたちは新種のパラノイアじゃないかい? 

あるいは旧式の執着気質者として復活したのかね、小破局の再建者として。


かりに執着性格者のみからなる社会を想定してみるがよい。その社会が息づまるものであるか否かは受け取る個人次第で差があるだろうが、彼らの大問題の不認識、とくに木村のpost festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起すおそれがあるーーこの小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』)

どこの海に溺れたいのかい?

戦争の海だけはやめとけよな

それとも隠れ戦争主義者ってわけかい?

こうやってウェブにお世話になってるわけだからな、きみたちもこのオレも

つまりアメリカの国防総省のエリートたちが軍事費で作り出したインターネットのおかげで

自在な夜郎自大を誇ることができるってわけさ


※追記:中井久夫は「執筆過程の生理学」という小論(『家族の深淵』所収)にて、下記のように書いている。編集者の役割、あるいは能力の衰退がいわれる中で、書き手たちのSNS上でのやり取りが、このような呟き合いであるならば、あながちつねに非難されるものでもないとしておこう(この論で、中井久夫が「自由連想」、「抵抗」あるいは「徹底操作」という語彙を使用しているのは、もちろんフロイトの『想起、反復、徹底操作』からのものである)。

ある程度本格的な企画の場合に、初期高揚だけで完成することは決してと言ってよいほどない。しかし、この時期に「パレット」をできるだけ充実させておくことがずっと後で生きてくる。「パレット」の充実には、聞き手がいるとずっと楽である。独りでは限界がある。ここにも一つ、編集者の「治療」の有用性がある。

これは、「自由連想」をさせて、「抵抗」を破って、「徹底操作」をして「洞察」に到達せしめる精神分析治療に似た過程であると私は思う。「自由連想」とは編集者との駄べりである。

「自由連想」は、主題やキーワードの持つ意外な側面を明らかにし、新しい可能性を開く。著作というものは、発端に立った時に終点まで見通せる直線道路のようなものではない。そういうものであれば、おおよそ詰まらないものだろう、予期外の転回に引かれて読者は読み進むものである。「自由連想」によってこれから書く領域の思わぬ複雑なひだひだが見えてくれば成功である。

「抵抗」にはいろいろある。怖い批評家の言葉の先取りもある。従来の自説が足を引っ張ることもある。ある箇所がとうてい越せない難所に見えることもある。ある部分についての知識が絶望的に欠如していると思うこともある。これらは、みな「抵抗」である。しかし、対話のうちに、難所もさしたるものでないようにみえてくる。ある部分は回避してもよいことがわかる。あるいは違った接近法がよいと知れる。このように「抵抗」を言語化し吟味することが「徹底操作」である。そうすると、この課題でこのようなものなら著者にもできるという、「現実原則」に則った「洞察」が生まれる。この手続きなしで、編集者が「ま、よろしくお願いします」で引き下るとロクなものができない。

編集者は地方にはいないが、その代わり、さいわい、私は大学教師で、周囲に若い人がいる立場にあるので彼らを大いに利用させてもらっている。私のほうが聞き役になることもむろんある。






2013年4月19日金曜日


先々夜、自らは須臾の間の不摂生のつもりが、たちまち、ひと月かかって養生し回復しつつあった足の具合が、とくに蹠の痛みが再発する。ふたたび階段の昇り降りが苦行の身になり、妻に二階まで食事を運んでもらうことになった。尿酸値が高いせいなのだが、少し前に調べてみたかぎり、そもそもわたくしの好物は、要警戒の食べ物ばかりで、とくに今年に入って、歩いて買い物ができる近場に新鮮な魚介類を売る店ができ、以前から蝦や蟹はあったにしろ、この魚屋にて、蝦蛄や赤貝、名のしらぬ牡蠣に近い味のする貝などが手軽に入るようになり、それらを二日に空けず大量に食したのが大きな原因のひとつだろう。

運動不足もあり、しばらく前までは、早朝、二日に一度、妻とともにテニスに出かけたのだが、今年に入って肘の具合が悪くなり(いわゆる「テニスエルボー」)、旧正月の祝いの前後から、息子たちと一緒に出かける週一度しかやっていないのも悪い。


ベッドに病臥し慰みに、晩年脊椎カリエスに冒された正岡子規の名品『病牀六尺』を読む。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして……。
わたくしの場合、《苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ》にはいまだほど遠い症状であり、あまり文句はいうまい。子規の死を間じかに控えたこの時期の作品、たとえば「死後」などにも顕著だが、独特のユーモアがあり、それは、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》(ボードレール)態度だ。
誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
あるいはフロイトはこうも言う、《ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。》


これは晩年の漱石のエッセイの末尾書かれる態度でもあり、子規が親友漱石の「滑稽味」として評している若年時からのこのユーモアの力を忘れてはならない、漱石の根のひとつが、かりに中野重治のいうようであっても。――《「てめえたちはな……」と彼は彼らにいつた、「日本の読者階級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。ほんとに気違いでもあつたんだ。ところがあいつあ、一方で、はらの底から素町人だつたんだ。あいつあ一生逃げ通しに逃げたんだ。その罰があたつて、とうとうてめえたちにとつつかまつて道義の文土にされちまつたんだ。」(中野重治「小説の書けぬ小説家」1937

私は今まで他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺くほどの衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。(夏目漱石『硝子戸の中』)
ここには、まるで『ユーモア」のフロイトがいるようであり、『硝子戸の中』は、1915年(大正4年)に朝日新聞連載、フロイトの『ユーモア』は、1928年に書かれている。

ーーいずれにせよ、子規や漱石のユーモア的態度は、ちょっとした困苦のときに力づけられる。


ところで、わたくしの場合、病臥していると、読書のために手にとる書物や耳を傾ける音楽がふだんのものと変る傾向がある。昨晩から子規を読み、あるいは漱石や鴎外などの日本の古典に手が伸びる。音楽は、バッハやヴェーベルンではなく、モーツアルトやスカルラッティだ。昨晩は、グールドの奏するモーツアルトを聴き続ける。

「モーツァルトを聴く人はからだを幼な子のように丸め/その目はめくれ上がった壁紙を青空さながらさまよっている/まるで見えない恋人に耳元で囁きかけられているかのようだ」(谷川俊太郎)

音楽に耳を傾けていれば、食事の時間がわずかに遅くなっても癇癪は起すまい。

病気が苦しくなつた時、または衰弱のために心細くなつた時などは、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。殊にただ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護してくれさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである。しかるにその看護の任に当る者、即ち家族の女どもが看護が下手であるといふと、病人は腹立てたり、癇癪を起したり、大声で怒鳴りつけたりせねばならぬやうになるので、普通の病苦の上に、更に余計な苦痛を添へるわけになる。(子規 同上)

二階の書斎兼寝室の窓からは、木蓮、プルメリアやジャスミンの白い花が風に靡いて芳香を運んでくるのだから、一鉢の草花がなくてもかまわぬ。

暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の声もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬほどに、向島より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より七、八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き出でて物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るにその傍に細き字して一名夕顔とぞしるしける。(正岡子規『病牀六尺 』)

当地には、いまだ物売りの声も生き残っている。


起き上がることを許されていなかった私は、童話を聞き、まだ聞かない話を想像し、同じ庭の植込みを何度も眺め、天井板の木目をあらゆる細部まで観察し、しかし時間をもて余して、六畳の部屋の外の世界からやって来るすべての音に耳を澄ませていた。(……)廊下を近づいてくる母の足音には、あらゆる期待があったし、遠い台所での物音には、食べものについてのすべての考えがよびさまされた。玄関の戸の開く音は、父が往診に出かけるのか、外から帰ってきた報らせであった。そして家の外から納豆売りの声と豆腐屋のらっぱの音の聞こえてこない日はなかった。しじみ売りや竿竹屋やパン屋さえも、それぞれ節をつけて呼ばわりながら、塀の外を通っていった。そういう物売りの声は、高い板塀にかこまれ静まりかえった家の六畳の一部屋のなかにまで、働いて生きている男たちの、さまざまな息づかいを、実に鮮かに、はこんできた。今では、東京の郊外の家の窓をひらくと、疾走する自動車の機械的な音だけが入ってくるけれども、その頃の東京には、まだ人間の肉声があふれていたのである。寒い冬の夜、シナそば屋の笛が近づき、はっきりと節を唄い、またはるかに遠ざかってゆく。その哀調は、凍りついた道や、ふところに手を入れて急ぎ足にゆく人の下駄の音や、近所の風呂屋の温かそうな明り窓、電信柱の上に高く冴えている鎌のような月のすべてを、忽ちよびさました。また雨戸を鳴らす木枯、渋谷駅を通る貨物列車の遠い汽笛……母の弾く琴の音は、そういう私の音の世界の一部分であり、おそらくあのヴェルレーヌがうたった「街のざわめき」から本質的に異なるものではなかったろう。(加藤周一『羊の歌』上P39-40

《いまだ起出る気力なし。終日横臥読書す。》(荷風)でありながら、鬱蒼と繁った樹間からは《鳥語欣々たり》であり、雨季の前触れのようにして強風がふけば、《西北の風烈しく庭樹の鳴り動く声潮の寄来るに似たり》であるのだから、澄んだ空気はなく、雲が美しくない土地でも我慢しよう。

高原の夏は、郭公の声と共にはじまる。中学校の最後の年の夏を、信州の追分村で過してから後、私は毎年の七月にその声を聞くようになった。浅間山麓のから松のなかで、その声は遠くまた近く、澄んだ空気をふるわせ、かえって周囲の自然の静寂をひきたたせた。東京の騒音は俄かに遠く、私は林の中の小さな家に着いた瞬間から、汗と埃にまみれた合宿練習や、渋谷駅の雑踏や、美竹町の家の西陽のさす二階の部屋を忘れた。そこには郭公の声と共に、芝と火山灰の小径があり、青空のなかで微風にそよぐ白樺の梢があり、雑木林の間を縫って流れ来るり流れ去る霧があり、また浅間の刻々に変る肌と、遠く西の地平線を限る紫の八ヶ岳があった。そこでは群青の空が深く、真昼の入道雲が壮大で、夜空の星は鮮やかあった。七月の末まで避暑の人々はほとんどあらわれず、近所にあった学生の夏期寮も閉じたままで、八月には忙しくなる油屋や、夏の間貸しをする村の農家も、まだ客を迎えていなかった。演奏会のはじまるまでに管弦楽団が楽器の調子を合わせるあのざわめきのように、私は郭公の声を聞きながら、やがて村が東京から集まって来る人々でにぎやかになるのを待っていた。(同 P137

2013年4月17日水曜日

創作家と批評家ーー夏目漱石『作物の批評』より


創作家と批評家(評者)について夏目漱石は前者が「生徒」で、後者が「教師」としている。

今の評家のあるものは、ある点においてこの教師に似ていると思う。もっとも尊敬すべき言語をもって評家を翻訳すれば教師である。もっとも謙遜したる意義において作家を解釈すれば生徒である。(夏目漱石『作物の批評』

両者を比べれば、もちろん創作家の方が「エライ」と相場は決っている。だが殆どの創作者が批評をもとめるのは確かだろう。たとえば書物を上梓すれば、書評をねがう。なんの反応もなければ失望する。

厄介なのは、教師=評者が融通が利かないことが多いせいだ。

作家は造物主である。造物主である以上は評家の予期するものばかりは拵らえぬ。突然として破天荒の作物を天降らせて評家の脳を奪う事がある。中学の課目は文部省できめてある。課目以外の答案を出して採点を求める生徒は一人もない。したがって教師は融通が利かなくてもよい。 
「批評」は過去の作品を参照せざるをえない。だが批評の対象が破天荒の作物であったらどうするのか。過去の作品からえた法則は通用しない。
過去を綜合して得たる法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰えるとはこのためである。法則がわるいのではない。法則を利用する評家が変通の理を解せんのである。(同)

こうして抜き出してみれば、漱石はかなり早い時期にプルーストやエリオットと似たようなことを書いていたことが知れる。

 

……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(吉田健一訳「伝統と個人的な才能」『エリオット選集 第一巻』)

スーザン・ソンタグは、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)と書いているが、漱石の作品が世界文学観とはどのように異質なのかは判然としないにしろ、漢文学、俳句が、漱石の作品の根のひとつであるには違いない。

余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もまたかくのごときものなるべし、かくのごときものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、まったくこの幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。在学三年の間はものにならざるラテン語に苦しめられ、ものにならざるドイツ語に窮し、同じくものにならざる仏語さえ、うろ覚えに覚えて、肝心の専門の書はほとんど読む遑(いとま)もなきうちに、すでに文学士と成り上がりたる時は、この光榮ある肩書を頂戴しながら、心中ははなはだ寂寞の感を催ほししたり。(……) 
春秋は十を連ねてわが前にあり。学ぶに余暇なしとはいはず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏にはなんとなく英文学に欺かれたるがごとき不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、又西の方熊本にゆけり。熊本に住する事数年いまだこの不安の念消えぬうちロンドンに来れり。(夏目漱石『文学論』序論)

あるいは、もともと「漱石」は正岡子規の雅号であり、夏目金之助はそれを親友から頂戴したのだし(ロンドン滞在中に子規は病死)、学生時代のレポートには「老子の哲学」(明治二十五年1892年)がある。漱石の「水の女」のテーマは、オフェーリアと同様に、老子の「上善水のごとし」の影があるに相違ない。


子規は『墨汁一滴』のなかで、漱石がもっている滑稽趣味は俳句に向いていると評価している。

わが俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率いるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。
《もし漱石が小説をひとつも書かずに終わったとしても、明治時代を代表する俳人として記憶されただろう。》(夏目漱石のこと

漱石の「水の女」は、丘の上に立ち谷間の水を覘き見る(たとえば、地名「谷中」の頻出はただ単に住居のそばであったせいだけではないだろう)。
谷神不死。

是謂玄牝。

玄牝之門、
是謂天地之根。

緜緜若存、
用之不動。(老子)
福永光司氏による書き下し(玄牝の門)。
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ




 

ところで『三四郎』には、「批評家」は、《自分はあぶなくない地位に立って》、《世の中にいて、世の中を傍観している人》と書かれる。

三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。

創作者側からみれば、この外部に立った「批評家」の態度が許しがたくみえる。だが、他方、すぐれた「批評」は作品になっている。たんに批評家、評論家だからといって貶すわけにはいかない。日本においても、小林秀雄、江藤淳、柄谷行人、蓮實重彦、…の系譜の「批評家」たちの「作品」がある(それらが果たして、同時代の小説に比べて「作物」として劣っているかどうか)。

小説でも批評、評論、あるいはエッセイでも、古井由吉の書くような文体をもっているかどうかーーそれがおそらく分水嶺のひとつになるのではないか。

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス』)

これは柄谷行人が蓮實重彦との対談『闘争のエチカ』での、批評と批判をめぐる発話にそのまま繋がってくる。

柄谷) 僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある
その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。しかし、これは「自己意識」とは別だと思う。小林秀雄はそれを自己意識にしてしまった。(……)僕は、以前に「ゲーテル的問題」とか「自己言及のパラドックス」ということをいっていましたが、それは自己意識とはちがいます。形式的なものにかかわるからです。ウィトゲンシュタインは「論理学は超越論的である」といっている。論理学は言語に対して自己関係するものだからです。僕は「超越論的」ということを、カントやフッサールよりも最も広い意味で、つまり意識の問題からはなれたところで考えたいのです。
あるいは蓮實重彦は同じ対談で次のように語っている、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない……》


ここで別の視点を付け加えれば、岡崎乾二郎は「批評」をめぐって次のように語っている。

批評というものが不可能になったとか、力がなくなったとか言われるけれども、僕の理屈では、むしろ消費者や素人ほど批評家であらざるをえない。()彼らがデータとして頼りにできるものは、最低限、自分の身体的な反応しかないわけで、それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか。それが日常生きていく上で常に強いられる。これは基本的に批評の原理そのものでしょう。(岡崎乾二郎に関するテキスト 古谷利裕


この見解を尊重するなら、冒頭に引用した漱石の『作物の批評』の中の次の文、《評家は自己の得意なる趣味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、その縄張以外の諸点においては知らぬ、わからぬと云い切るか、または何事をも云わぬが礼であり、徳義である。》は、どう捉えるべきか。

ツイッターなどで、さる分野では専門家らしき人が、縄張り違いの批評をして、それが多大に流通しているのを垣間見るとうんざりさせられるのだが、「何事をも云わぬが礼」とは言い切れない。そもそもあそこは、あるいはこのブログなども、ひとによれば、気分転換の場である。

ルサンチマン批判のニーチェは、《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)とも書いているのを忘れてはならない。


嘲弄はときに楽しい。攻撃欲動のカタルシスもある。むしろ縄張り違いの分野への「称賛」に、いっそううんざりさせられることが、わたしの場合、多い。


何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

――《称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。》(ニーチェ『善悪の彼岸』170番)

《思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。》(同 184


いずれにせよ、批評には、《自分の身体的な反応(……)それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか》があるかどうかが肝要ではあるには相違ない。

そして次の視点があるかどうかも。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の<神秘的>性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)