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2014年10月27日月曜日

ギリシャ人を装うこと

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352ーー『幻影の哲学者ニーチェ』山口誠一からの孫引きーー聖者と道化、あるいはニーチェとラカン

さて、ギリシヤ人になることとは、どういうことであろうか、ギリシア人の仮面を被ってみるということは? 《ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせ》ることと蓮實重彦は書くが、これはすぐさま器官なき身体、蜘蛛になることを想起させもする。にもかかわらず、この仮面をかぶった元東大総長は、その同じドゥルーズ追悼文にて次のようにも言っている。

プラトン的でないものにプラトンを「接ぎ木」することを選び、哲学史を放棄すること。それがドゥルーズの一貫した姿勢であることは、ギリシャ哲学を深くきわめたことのない者の目にも明らかである。にもかかわらず、その事実があっさり無視され、「リゾーム」や「器官なき思考」、あるいは「戦争機械」だの「遊牧論」だの「襞」だのといった言葉ばかりで彼の思考が語られがちなのは、いったいどうしてなのか。人びとは、ドゥルーズに欺かれているのだろうか。そうではない。彼の思考の中に「一気に身をおく」ことだけが必要とされていながら、誰もがその身振りを自粛してしまうのだ。

おわかりだろうか、接ぎ木の姿勢を。その刻限をーー、《この小径は地獄へゆく昔の道/プロセルピナを生垣の割目からみる/偉大なたかまるしりをつき出して/接木している》(西脇順三郎)




もちろん巧みに接ぎ木をするには、「神々しいトカゲ」の舌のゆらめく閃光の刻限、「一瞬よりはいくらか長く続く間」、それなりの準備をする必要があるのはよく知られている。

《まだこの坂をのぼらなければならない/とつぜん夏が背中をすきとおした/石垣の間からとかげが/赤い舌をペロペロと出している》(西脇順三郎)




「ただ この子の花弁がもうちょっと/まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

ジョルジョ・アガンベンによると、狂宴(サバト)のただなかにサタンの肛門に接吻をしたと審問官に訴えられた魔女たちは、「そこにも顔があるから」と応えたそうだ。

ところで、〈あなた〉がいくら謹厳居士であろうとも、いまどきこの程度の画像貼り付けるだけで、《驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた》(吉岡実)ーーなどというたぐいの人物ではあるまい。母親が驚愕したのは《子供の臀に蕪を供え》られたせいであるが、それさえいまでは陳腐化してしまった。

そもそもひとは現役まっさかりなら、こんなものは貼り付けはしない。蕪の硬質さがめっきりおとろえた初老の男が玩味するたぐいのものである。わたくしにあるものは「距離のパトス」である。

ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(中井久夫「カヴァフィス論」)

で、何の話だったか。そう、器官なき身体の話である。器官なき身体やら蜘蛛やらをぐたぐた論じるのではなく、蜘蛛になること、蜘蛛の巣に一気に身をおくこと、《生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまること》。それが〈あなた〉に求められることだ。

しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(……)そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。……(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章)

とはいえ、蓮實重彦が《ものの形の、音調の、言葉の崇め人》、恩寵=音調のひとであるかどうかは、議論の余地があるだろう。が、彼の文章は、巷間に輩出する解釈のみに汲々とするのみの「誠実で真摯な」論文とは異質の言葉で成り立っていることは間違いない。

《知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。》(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

ギリシャ人を装うことーーあえて「ギリシャ的」であることーーでドゥルーズの思考がまとうことになる豊かな拡がりがどんなものか、(……)だが、その豊かさ、哲学者としての彼が、ギリシャ人たちの思考をそっくり自分のものとしていたが故に可能になったものと理解してはなるまい。

たとえば、ヘーゲルもハイデッガーも、その時代のその土地にはぐくまれた思考に深く通じていたし、哲学の誕生とギリシャとの関係にも充分すぎるほど意識的だった。だが、ギリシャに投げかける視線を彼らと共有しあう意志などこれっぽちもないと『哲学とは何か』のドゥルーズはきっぱり宣言する。何かにつけて、ギリシャ哲学の起源を求めずにはいられない精神というものが、彼には我慢ならないのである。

(……)ギリシャ哲学との関係は、ドゥルーズにとって、「歴史としてというより、生成として、……本性においてというよりはむしろ恩寵として」考えられねばならない。そう口にする言表の主体が「マルクス主義者」であろうはずもない。

とはいえ、「恩寵」の一語を、世界を超越したものがもたらす願ってもない特典、予期せぬ喜ばしい報酬といった程度のことと理解してはなるまい。ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせているとき、あたかもその姿勢が導きだしたかのように、ただその瞬間にのみ、嘘としか思えぬ身軽さで現前化するできごと、それだけが「恩寵」の名にふさわしいものなのだ。哲学がギリシャに生れたのは、「恩寵」のような瞬間をうけとめるにふさわしい大気の流れといったものが、その時代のその土地んいみなぎっており、それに進んで身をまかせる者がいてくれたからなのだ。「偶発的」なものを「絶対的」なものへと変容せしめるものがこの「恩寵」のほかならず、もちろん、そこにはいかなる神学的な色彩も影を落としてはいない。いずれにせよ、「起源」といった言葉で「生成」に背を向けるドイツの哲学者たちに、ドゥルーズはきっぱりと顔をそむける。

あたかもギリシャ人であるかのように振る舞うドゥルーズが、この二十世紀末のヨーロッパであれこれ思考をめぐらせていた姿を思い描こうとするとき、われわれもまた「恩寵」の一語を口にせずにはいられない。ドゥルーズとプラトンの出会いは、哲学の歴史が必然化する時空に位置づけられるものというより、それを遥かに超えたところで、あたりの大気の流れに触れた者が、その表層に走り抜ける感知し得ないほどの変化にも同調せずにはいられないときに出現するできごとにほかならない。そのとき、そこにみなぎっている朗らかさは、例えば、「ライプニッツ主義者」には微笑みかけないが、「ライプニッツとともにある」存在には微笑みかける。それは、「マルクス主義者」には微笑みかけはしまいが、「マルクスとともにある」存在にはあまねく微笑みかけるだろう。思考は、そのようにしてしかできごととはなるまい。そこには、文字通りの「襞」がいくえにもおりこまれてゆくのであり、そのかぎりにおいて、「われわれは、なおライプニッツ的な存在である」と口にできるのである。

「恩寵」としてのドゥルーズ。彼を哲学者と呼ぶべきか否かがもはや問題となりがたい時空に、「一気に身をおく」こと。だが、哲学は、その「恩寵」に向けて投げかけるべき視線に恵まれていたことなどあるのだろうか。(蓮實重彦 ドゥルーズ追悼文『批評空間』1996Ⅱ-10)


 

この蓮實重彦の一見して、徹底的なドゥルーズ顕揚とでも読める文章を「額面通り」とる阿呆はいまどきいまいが、二十一世紀はフローベールの時代にもまして「愚かさは進歩する」(フローベール)の時代ではあり、やはり次のように同じ『批評空間』のに前号に掲載された談話を附記しておくことにする。

◆『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)より

蓮實)孤島のロビンソンが、なぜきれいな奥さんと結婚して、子供をふたりもつくるの(笑)。これはもう無頼漢ですよ。それで、浅田さんはドゥルーズが「偉大な哲学者」だと、もちろん誠心誠意おっしゃているんだろうけれども、どこかずるいと思ってない?

浅田)そりゃ、思ってますよ(笑)。

蓮實)あんなことされちゃ困るでしょ。この20世紀末にもなって、いけしゃあしゃあとあのような著作を書いて、家族なんてものはなくていいというような死に方をする。あの図々しさというか、いけしゃあしゃあぶりというものは、哲学者に必須のものなんですか、それとも過剰に与えられた美点なんですか。だってあんな人が20世紀末にいるのは変ですよ。ぼくはデリダよりドゥルーズのほうが好きですけれども、その点では、デリダにはそういうところは全くなくて、一生懸命やっている。フーコーがいるというのもよくわかる。しかし……。

浅田)フーコーは同時代にドゥルーズがいるから自分が哲学者だとは決して言わなかった。哲学者はドゥルーズだから。

蓮實)いいんですか。ああいう人がいて、浅田さん。

浅田)あえて無謀な比較をすれば、ぼくはどちらかというとガタリに近いほうだから、ああいう人がいてくれたのはすばらしいことだと思いますよ。

蓮實)しかし、彼はそれなりにひとりで完結するわけですよ。許せますか、そういう人を(笑)。ぼくは、浅田さんがドゥルーズを「偉大な哲学者」だと言っちゃいけないと思う。そうおっしゃるのはよくわかりますよ。わかるけれども、やっぱり否定してくださいよ。

浅田)でも「彼は偉大な哲学者だった」というのは、全否定に限りなく近い全肯定ですよ。否定するというなら「最も偉大な哲学者」として否定すべきだろう、と。

蓮實)どうしてきっぱりと否定しないの? さっき言ったことだけど、とにかくドゥルーズは確実にある問題体系を避けているわけです。それを避けることで「哲学者」としてあそこまでいったわけですからね。そうしたらば、それは悪しき形而上学とはいいませんけれども……。

浅田)「偉大な哲学」である、と。

蓮實)浅田さんが「偉大な哲学者」とおっしゃることが全否定に近いということを理解したうえでならばいいけれども、その発言はやはりポスト・モダンな身ぶりであって、いまでははっきり否定しないと一般の読者にはわからないんですよ。

浅田)いや、一般の読者の反応を想定するというのがポスト・モダンな身ぶりなのであって、ぼくは全否定に限りなく近い全肯定として「ドゥルーズは偉大な哲学者だった」と断言するまでです。

ただ、たとえばこういうことはありますね。さっき言われたように、ドゥルーズとゴダールは、言葉のレヴェルにおいては非常によく対応する。ただ出来事だけがある(eventumtantum)というのは、たんにイマージュがある(juste une image)ということですよ。しかし、ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです。

蓮實)うん、そこを言わせたいのよ(笑)。

浅田)そんなの自分で言ってくださいよ(笑)。

蓮實)だから浅田さんにとっては、ドゥルーズは一般的に偉いけれども、特異なものとして見た場合はやはりゴダールを取るでしょう。

浅田)絶対にゴダールを取ります。

蓮實)そうしたらば、ドゥルーズに対してもう少し強い否定のニュアンスがあってもいいと思う。

浅田)でも「偉大な哲学者」というのは最高に強い否定のニュアンスでもあるわけですよ。たとえばニーチェは哲学者ではないが、ハイデガーは哲学者である。それで、ゴダールがニーチェだとしたら、ドゥルーズはしいてどちらかといえばハイデガーなんです。

蓮實)ただし、ドゥルーズにとっての美というのは、ハイデガーのそれと全く違いますけれどもね。それともうひとつ、やはり彼は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。

浅田)ベルグソンを超えてしまったんですね。

蓮實)そう、超えてしまった。ぼくがいちばんドゥルーズに惹かれるのは、そこまで見た人はいなかったということです。不意に不ノワールが出てくるでしょう。それでルノワールに負けているんですよ。おれの言ったことをもう全部やってしまている、と。

浅田)『物質と記憶』とほとんど同時に映画が生まれた。で、映画が哲学を完成してしまったんですね。

蓮實)そうです。それも、だれが完成したかというと、ゴダールではなくて、ルノワールなんです。それでもなお「偉大」ですか。

浅田)だから、たかだがそんな哲学だといえばそれまででしょう。でも、ほかにそんな哲学者がいます?(笑) フーコーは、自分は歴史家だと言わねばならなず、デリダだって、自分は物書きだと言わねばならない。しかし、ドゥルーズは単純に、私は哲学者であると言ってしまうんですからね。そして現にハイデガー以後はドゥルーズしかいないでしょう。



            (DELEUZE, GODARD, MARLON BRANDO)

さて、おわかりであろうか、この画像を貼り付けた意味合いが? ここでいささか親切心をだしてそれを明かすのなら、すなわち「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」であり、また次の如くの意味である。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中ツイート)




シツレイした、ケンキューシャ君だけでなく、学者センセたちをも含めた〈あなたがた〉を子ども扱いして。

その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(テオ・アンゲロプロス 蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)


と、ここまでのところは、目新しい発見など何ひとつ含まぬごく貧しい日常の再確認にすぎない。物語は勝利するという物語の、一つの変奏を提示したまでのことであって、とりたてて詳述するにもおよぶまい退屈な現実であろう。というより、現実をいかにして回避しつつ生をなし崩しに消費してゆくかという退屈きわまりない自分自身の物語がくり返されているまでだ。この罠という善意の虚構装置が、時代によって、またその無意識の捏造者が属する文化形態によっていくつもの異なった名前を持っているという点も、また衆知の事実であろう。もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話も、そんな名前の一つであったはずだ。個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、それとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない。物語は、間違いなく勝利するのだ。

とはいえ、いまはもう忘れてしまったものからつい先刻覚えたばかりのものまで、そんな一連の名前を列挙しながら、いささか冷笑的に、あるいは道化のけたたましい闖入ぶりによって虚構の歴史をたどりなおして悦に入っていられる時代ではない。それぞれの虚構にはそれなりの有効性はそなわっていたし、だいいちそれはまごうかたなき現実として罠たりえもしたのだから、いまさら愚痴っぽくあれこれ批判めいた言葉をつぶやいてみてもはじまらないと思う。さしあたっての急務は、善意の虚構へのほとんど普遍化されたといってよい確信が、普遍的であることに見あった希薄さであたりに漂いでた結果、罠の捏造者自身をはじめその直接=間接の共犯者たちから何を奪ったか、またいまも奪いつつあるかを明らかにしてみることにある。罠でもない装置を罠として思い描き、それにだけは足をとられまいとして身がまえる仕草が希薄に連帯されることで捏造してしまった善意の装置は、邪悪なるものとして想定された装置が現実のものであった場合に持ちえたであろう残酷さにもおとらぬ残酷さで何ものかを奪うが故に罠なのだが、その装置が、欲望から何をかすめとっているかを生なましく触知することこそが問題なのである。なぜ欲望からなのかと問うものがいるなら、ごくぶっきらぼうに生からと呼びなおしてもかまわない。だが、呼び名などはこの際どうでもよろしい。善意のものであれ悪意のものであれ、とにかく虚構は、その構築の過程できわめて具体的に生きた何ものかを犠牲に供することなしには虚構たりえないのだから、いま、この瞬間、虚構が現実にいかなる犠牲を提供せよと迫っているのか、その力学を捉えることこそが必要なのだ。力学、といってもことはきわめて曖昧である。虚構を生きつつあるものが放棄せざるをえない自分自身の一部、それを無理にも手放すことの痛みを緩和し、犠牲を犠牲としては意識させない何やら麻薬めいたものまでがそこに含まれてもいるからだ。善意の罠の真の恐しさは、何よりもまず、それが大がかりな忘却装置として機能してしまう点にある。


絶望と饒舌

では、誰もが驚くべき執着のなさで放置することでその忘却装置を機能させてしまう自分自身の一部とは、 何なのか。欲望から、あるいは生から不断にかすめとられつつありながらその痛みする感ずることのないものとは、いったい 何なのか。

何か 。その何かをこれ だと口にすることほど容易なはなしはないし、同時にそれほど困難なこともまたとあるまい。では、なぜ容易であり、かつまた困難なのか。まず、その何ものかをこれだとあっさり指摘しうるものは、指摘しつつある自分が虚構の物語の語りつがれる圏域の外部に位置していると確信しなけれならないということがある。つまり、自分はその物語に醜く汚染してはいないが故に装置にはいかなる犠牲をも提供してはおらず、したがって多くのものが信じがたい素直さで譲りわたしているものが 何であるかを明確に識別することができるという確信が存在する。この確信を共有することはきわめて容易であろう。事実、多くの人が口にする「批判」とか「分析」なるものはその種の確信から生まれ落ちてくるものだ。だが、汚染せざる自分への確信があたりにばらまく「批判」的言辞や「分析」的思考、それが、いま「批判」し「分析」しつつある物語の言葉によってしか語られえないという点を便利に無視しているという意味で、この圏外者の指摘ははじめから抽象たるべく運命づけられているといえる。しかもこの手あいの抽象にもそれなりの物語がそなわっていて、間違いなくあの偉大なる忘却装置の中枢に据えられた歯車としてせっせとまわり続けているのだから、それは何もいわずにおくことと選ぶところがないわけだ。にもかかわらず あれだ、これだと指摘してまわらずにいられない言葉たちを、無償の饒舌と名付けよう。忘却装置の円滑なる機能ぶりを促進すべく放棄する自分自身の一部を これだと名付けることが、容易さと困難さとをともに生きざるをえないとしたら、それが無償の饒舌たるほかはないとあらかじめ決定されているからである。だから何かと問うことそのものが、そもそも無効なのである。

無償の饒舌を避けるにはどうするか。問うことの無効性を自覚するに至ったものは、まず絶望を選ぶだろう。それが真剣なやり方というものだ。だが、実はその真剣な絶望すらが装置の潤滑油にすぎないのである。いま、欲望から、生から、かけがえのないものが不断にかすめとられている。そのかすめとられた貴重なる 何かを目指そうとして、いくつもの言葉を口にしてもそれは言葉であることをやめてしまう。その失語意識、その記憶喪失は文字通り絶望的といってよい。こうしているうちにも奪われてゆくかけがえのない自分自身の一部を的確に言語化しようとすると、その言葉さえが奪われてしまうという二重三重の困難。だが、人はこの困難にたやすく絶望するみちを選んでしまってはならないのだ。

絶望を回避すること。それには希望を持つといったことが有効な手段とはなりがたい。希望などと口にして新たな罠に陥ることなく、何でもよろしい、ただあっけらかんとした風情で適当な一語をつぶやいてみる。それが、真に奪われた言葉であるかどうかは問題ではない。とりあえず一言、たとえば 肯定することとでも口にしてみるだけで充分だ。そして、かれにその一語が人から言葉を奪うあの忘却装置にこそふさわしいと思われようと、奪われかすめとられた一語がまさに 肯定の一語にほかならなかったかのように振舞えばよろしい。人が絶望するのは、いま、 肯定することが禁じられているからだと思い込むふりをすること。口実はなんでもよろしい。 価値の多元化とやらがその元凶だとでも信ずるふりをしておけばよい。それが無償の饒舌にいささか類似し、すんなりと装置に吸いこまれてしまいそうでも気にすることはない。そもそも世にいう記憶回復の儀式など貧しい抽象にすぎないし、その記憶という奴にしてからが、完璧な再現などを自分からこばむもっともいいかげんで荒唐無稽なものなのである。嘘だと思うならマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んでみるがよい。欠落した記憶の切れはしを難儀しながら拾いあつめ、それで総体としての記憶が回復するなどと信じている人がいたとするなら、この小説は、そんな人間の鼻さきに、ただもう荒唐無稽というほかはない充実した過剰としての記憶が、畸型の動物めいたけもの臭さをふっとはきかけてくれるにちがいない。だから、いまはさしあたって、欠落した記憶を回復せんとする試みにならって失われた言葉を生真面目に探し求めたりせず、とりあえず選ばれた 肯定の一語こそがそれだと信じ込む演技を徹底的に演じきってみることだ。そうすることで真剣な絶望をひとまずかわし、物語に汚染しきった無償の饒舌をも模倣したりしながら、まさに物語自身の言葉で、忘却装置の機能のために自分が犠牲にしたものが何であるかを口にすればよい。肯定の一語が物語の秩序に従って自分になりかわり次の一語をつぶやいてくれるだろう。で、その次の一語とは 何であろうか。

その一語は何であろうか。それを耳にするには、何も物語の圏外に身を置く自分を確信する必要はない。むしろ積極的に装置の一部として機能しながら物語の圏域にとどまり、その続きを心待ちにする様子などしてみればもう充分だ。装置にさからうには、間違ってもその総体を破壊しようなどと目論んではならない。その総体がますます円滑に連動しかねぬ歯車のようなものへと自分を畸型化させても涼しい顔をしていること。肝腎なのは、戦略的に倒錯すること、そして倒錯に耐えうるだけの柔軟さを見失わずにおくことだ。倒錯すべき正統的な理由など求めてはならない。とりあえずの契機さえありさえすれば、もう心配はいらないだろう。ザッヘル=マゾッホを想起してみるまでもなく、倒錯とは、きまって戦略的なものではなかったか。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)


まさか、わたくしにその一語を書け、というほどには、〈あなた〉は阿呆ではあるまい。その一語がなにであるかわからないなどというほど不感症ではあるまい。ここではその一語を書き記すなどというはしたない振舞いは避けるのが〈あなた〉を信頼するひとつの礼儀正しいあり方だろう。そんな厚顔無恥な仕草に身をさらすのではなく、もっともらしく無償の饒舌に耽るのみの手合いーー彼らには戦略的倒錯に身をまかせることにも、ギリシア的時空に一気に身をおくことにもまったく無縁であるかにみうけられるがーーそういった連中への嘲弄の言葉を「世間を真に受けぬための積極的な方法」より再掲して並べておくだけにする。

みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦)
どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)
・同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆といいうやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。P7

・説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。P27

・制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する不可視の装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章に冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こそが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが、『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者たちは、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。P50(『物語批判序説』)

おわかりだろうか、これらの振舞いだけはやめにしなければならぬ。ギリシア人であることを装うーーわれわれはニーチェやゴダールのように真のギリシヤ人ではありえないとしたら、次善の策は、ドゥルーズや蓮實重彦のようにギリシア人の「仮面」を倒錯的につけることだ。





樫村晴香がいみじくもドゥルーズ批判の論文で最後にポツリとドゥルーズ顕揚の言葉を語っているように、「音楽を聴くように」対象と接すること。それが蜘蛛になることである。

例えばニーチェの永劫回帰は、 Dz の「理論構造」から判断する限り、永劫回帰の隠喩として受容‐処理されているが、現 実には、Dz はすべての言説を、隠喩ではなくそれこそ「音楽を聴くように」、または小説の エクリチュールを読むように、「半覚醒的に」受信していたのだろう。そしてその感覚があれ ばこそ、意味作用を完全に確定することなく宙吊りにし、理論的分節を半ば未確定に開い たまま次々進み、個々の論点相互の差異へは鷹揚なまま、すべてを取り入れ絶え間なく 移動していく、増殖するエクリチュール‐小説のごとき彼の記述スタイルが可能になる。こ の半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される過程 にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共 鳴に、帰属する。子供が泣き、豚が叫び(キャロル)、Kの分身の学生が走り、廷丁が走る (カフカ)。意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層 にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異‐変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異 ‐移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそ Dz の内発的感覚がある。(「dyssyntagmatismus者」たち、あるいはニーチェと樫村晴香

ロラン・バルトも言っているではないか。学者さんたちよ、「器官なき身体」について、がたがたピントはずれのことをもうこれ以上書かないでほしいと願う。

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(バルト『テクストの快楽』)

だが、「とはいえ」とする樫村晴香の言葉を、ここで〈あなた〉のためにつけ加えておくぐらいの親切心は、わたくしにはある。これが凡庸さというものだ、--《それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。》

……とはいえ現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dz のある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。(『ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点』)





事実そのとおりにあれらケンキューシャ諸君の不感症ぶりのなんというさま! なによりもまず解説書を書くことを書くことと勘違いしておられる! 《私たち他の者、私たち静穏なる者がヴァーグナーに欠けているのに気づくものに、どうして彼らが気づくことができようかーー悦ばしき知識 la gaya scienzaに、軽やかな足に、機智、熱火、優雅に、大いなる論理に、足の舞踏に、気力あふれる精神性に、南方の光のわななきに、滑らかな海にーー完全性に・ ・ ・》(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』)


ところで冷感症の女性は、男たちをわたり歩くそうだ。あのケンキューシャくんたちの好奇心の旺盛ぶりもそのたぐいではなかろうか、すなわち、あれやこれやと好奇心でいろんなことに頭をつっこむのは、オーガズムの経験がないせいではないか。

性興奮不全の冷感症のタイプの女性たちは、飽くことを知らない性的な欲求を持っているように見える。もし彼女らが超自我の抑圧に打ち勝つのなら、ひとりのパートナーから他のパートナーたちに渡り歩いていく、だが、ああ、なんという空しく! すなわち新しい経験が熱望されたオーガズムを齎してくれるのではないか、というわけだ。稀なケースでは、レイプ、鞭打や暴力の無理強いの様相を想定する限定されたファンタジーに拘わってのみ膣によるオーガズムが実現されることがある。(冷感症と支配欲動Bemächtigungstrieb

わたくしはここで親切心をさらに露わにして、鞭打ちや緊縛の画像は貼り付けるべきだろうか。いやいまはそこまでしてまで「恩寵」やら「オーガズム」を促すつもりはない。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

蛇足ながら、これらの文はわたくしが語っているのではない、ニーチェその人が、現代の温和な仔羊たち、〈あなたがた〉に--それはわたくしも含めたければそうしたらよいーー言っているのだ。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

ところでラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールもわたくしと同様、荒木経惟ファンであるのか、『A New Kind of LoveJacques-Alain Miller』なる記事に、アラキの画像が貼り付けてある。





ああ、こうやってその一語を口に出してしまった、しかも緊縛画像をも。これは、わたくしの凡庸さのなせる技である。

さて、ところでひょっとしてJudith Miller Lacanは、冷感症タイプなのではないか、とわたくしは疑わないでもない。








2014年10月23日木曜日

犬猫の降参のポーズ

裏庭に大型の黒い野良猫がはいり込んで、わが家に四匹いる犬のうちの猛犬一匹が猫を血だらけのずた袋にしてしまったので、マンゴスチンの樹の根もとを掘って埋めた。

果物の女王樹は植えて十年以上たつのに、まだ結実しない。二匹の犬の屍も埋めてあるのに。果物の王ドリアン七年、マンゴスチン十年とはいうものの、ドリアンの樹は六年で実をつけた。

ああ女王の根も貪婪な蛸のように屍を抱き、水晶のような液をたらたら垂らす猫の軀に、いそぎんちゃくの食糸の毛根を聚めて、腐乱して蛆が湧いた屍の養分を吸い、女王の娘のための花弁や蕋を作り出さないものか。

我が庭から出現したアフロディアの深紅の鮮やかな衣裳をぱっくり割って、ふくよかな白いお尻の裂け目に舌を絡めて、官能に酔った口もとから果汁を滴らせつつ、果実を貪りかぶりつく夢は徒花なのか、わたしは未来の空しい煙を吸っていただけか。

果実が溶けて快楽(けらく )となるように、

形の息絶える口の中で

その不在を甘さに変へるやうに、

私はここにわが未来の煙を吸ひ

空は燃え尽きた魂に歌ひかける、

岸辺の変るざわめきを。(ヴァレリー 若きパルク 中井久夫訳)


ところで犬と猫の喧嘩は、猫がいくら降参のポーズをとっても通じないよようだが、猫同士の降参のポーズはどんな具合のものか、と検索してみれば、犬と似たようなものらしい。







とはいえ猫は不遜な女王様のような姿態で、こんな恰好ではバカにされている気分にならないでもない。やはり犬の降参のポーズとはかなり印象が異なる。






ーーなどとウェブサーフィンしていたら、懐かしい名に行き当たった。言語学者の

鈴木孝夫先生である。少年時代、岩波新書で鈴木先生の本を読んで感心した記憶があるのだが、書名は覚えていないし、内容も失念した。調べてみると『ことばと文化』(岩波新書、1973年)とあり、たぶんこれだろう。その後はいっこうご無沙汰しているので、四十年ぶりの再会である。1926年生まれだそうで、今年88歳になられる。

以下の文は講演録のようでいつのものかはわからないが、たぶん最近になってのものだろう。


……「殺さない本能」と言うのは、文字通り本能であって理性ではありません。(……)オオカミとかセイウチとか、いかにも獰猛な動物がたくさんいますけれど、相手と時に激しく喧嘩するのは、どっちが強いかという優位性の序列を決めるだけで、序列を決めれば深追いしないのです。

ところが人間は深追いするのです。相手が「降参」と言っても殺すことを今でもやっています。その意味では人間というのは生半可な肉食獣というべきでしょう。もともとはアフリカの密林で果物とネズミと鳥の卵ぐらい食べていたものが、いろんな理由で地上に降りたわけですね。で、そうしたなかで共同で狩りということになって、弱い人間が強い動物を狩るためにお互いにことばを使って連絡し合うようになったのです。(……)

……人間は、草食獣にはない「殺す」本能をもつというところまではいっているけれど、本当の肉食獣ならたいてい持っている「不必要に殺さない」という、その絶対の歯止めの仕組みをまだ持っていないのです。オオカミにも犬にも降参のシグナルがあって、ひっくり返っておなかを出せば、それが降参。勝者はその無防備なおなかを噛めばトドメをさせるのに、そこまではしないのです。

人間も何かのシグナルを出せば、降参で、そうしたら絶対に攻撃できないという仕組みをつくれば、かなり状況は違ってくるはず。たとえば、女の人が降参と言ったら強姦できないというようなサインがあれば、ものすごく性犯罪が減るのですが、人間には無理なのでしょうね。どんなことをしても本質的に賢くはなれない。「No!」と言っている人間も無視して強姦したり殺したりするわけです。

さて、あなたはこの文を読んでどう思うだろうか。わたくしは少年時代のように額面通りに感心してしまうことはできない。

《人間だけが深追いする》、要するに人間だけがアウシュビッツやコソボがある、そこまではいい。だが、《人間は、草食獣にはない「殺す」本能をもつというところまではいっているけれど、本当の肉食獣ならたいてい持っている「不必要に殺さない」という、その絶対の歯止めの仕組みをまだ持っていないのです》などという文は、四十年たってヒネクレてしまったわたくしの頭には、どうあっても受け入れがたい。

わたくしが、ヒネクレてしまったのは、きみたちのせいだよ、蓮實センセ、浅田彰や、ジジェクよ。どうしてくれる?

……『閉ざされた言語・日本語の世界』の著者の鈴木孝夫氏は、オットー・イェスペルセンやブルームフィールド、さらにはJ・B・キャロルという欧米の代表的な言語学者の学説を紹介しながら、(……)おそらくわれわれ日本人が漠然と感じている気持を代弁しておられる。これは、はなはだ心強い味方を得たものだと、人は一瞬うれしくなる。また、それと同時に心から心配にもなる。というのは、(……)この書物の言語的知識があまりにも貧弱だからである。(……)鈴木氏の希望的観測に心情的に同調しながらも、この種の書物にありがちな科学者の信じがたい杜撰さに、あらためて驚くことから始めなければならない。

(……)まるでブルームフィールドより一世紀以上も前の言語観でブルームフィールドを攻撃しようというわけではないか。(……)

しかし、鈴木氏のいかにも杜撰な「文字」顕揚の試みを嘲笑することが重要なのではない。また、大学の教師なり研究者なりが、英語のLanguageとwordといった基本的な単語の意味をとり違えるといった現象を介して、日本の言語的環境の曖昧さを改めて指摘することもさして重要ではない。問題は、鈴木氏のような専門家でも、「音声」的帝国主義の真の恐ろしさにいまだ無自覚であるという点にあるのだ。……(蓮實重彦『反=日本語論』1977)

この『反=日本語』は、数多くの著名な学者への罵倒が書かれているのだが、この書を読んだせいで、大学教師や専門家という人種の書き物の瑕瑾を見出しては嘲弄する悪癖がついてしまった。でも、まあそれはこの際どうでもよろしい。引用された鈴木孝夫の文にまっこうから対立する二十四歳の浅田彰の文を掲げよう。

フォン・ユキステルの示した、有機体と環境世界の相互的・円環的統一というヴィジョン。これを人間の世界にあてはまることの拒否から、人間学が始まったと言ってもいいだろう。シェーラーは、有機体が環境世界被拘束性を特徴とするのに対し、固有の環境世界をもたない人間は世界開放性を特徴とする定式化を行い、プレスナーは、環境世界の原点に安住している有機体を中心的、中心からズレてしまい自己との間にする距離をもたずにはいられない人間を離心的と呼んで、そこから各々の人間学を展開したのである。シェーラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」(『宇宙における人間の地位』)と呼んでいるのは興味深い。この延長上に、衝動解除と、社会制度を通じたその回路付けによる負担免除を中核とするゲーレンの人間学があることは、よく知られた通りである。

ここで衝動と呼んだものは正確に言うと何なのか。ここの問いに答えるためには、人間学と遠からぬ所から出発し、遥か先まで到達した精神分析に、目を移した方がいいだろう。そこでは、有機体と人間の対比は、Instinkt/TreibないしInstinkt/pulsionの対比に集約される。最近の慣例に従って、これに本能/欲動という訳語をあてよう。本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。

自然からのこのようなズレは、一体どうして生じたのだろうか。最近援用されることの多いボルクのネオテニー(幼態成熟)説やポルトマンの早産説が重要なポイントのひとつを突いていることは疑いない。彼らの理論とシェーラーやゲーレンの人間学との相互関連はよく知られているが、精神分析家ラカンもまたボルクを援用しつつ、「胎児化」による「発達のおくれの結果」として「視知覚の早すぎる成熟がその機能的さきどりの価値をもつ」(『エクリ』)という事実を根拠に、先に「鏡の地獄」と呼んだ鏡像段階の理論を展開していることを付け加えておこう。

しかし、ネオテニーはひとつの契機であっても唯一の原因ではない。ホモニゼーション(人間化)は多くの契機から成る多元的プロセスとしてとらえなれなばならないだろう。そして、そのプロセスの「震央」と目されるべきは、脳の「爆発的進化」(ケストラー)であり、その結果としての、大脳の「超複雑化」(モラン)である。実際、ノイロン(ニューロン)の膨大の数とシナプスの恐るべき錯綜ぶりは、コンピューター時代にあってもなお驚異の的であり、しかも、かなり未完成な状態で誕生を迎えるため、多くのシナプスが後から形成されるという事情が、それに加わるのである。これらは、進化の現段階において出現した全く新しい現象である。

元来、エントロピーを増大させる環境の中で局所論的な秩序を維持していく存在である生物が、情報による制御の高次化という道を辿るのは当然であった。このプロセスは、頭化(cephalisation)ないし頭脳化(cerebralisation)、即ち、神経系の階層的樹状〔トゥリー〕構造と中枢の形成という形をとった。目的性に対し機能分担のハイアラーキーで応ずるという、極めて一般的な解決である。ところが、このプロセスが極限的に進行するとき、いわば情報の過剰が生み出され、それらの情報は本来の目的を離れて空回りし始める。レヴィーストロース風に言えば、浮遊する情報群(informations flotantes)の洪水が出現するのである。生の方向=目的性によって要請された樹状〔トゥリー〕構造の高次化過程としての頭化は、その極限において、シナプスの横断的な網目状連結(リゾーム!)に基づく「無頭」(acephale)のカオスを生み出す。進化における最大の逆説。今や、この「焼けつく大頭」の中では「屋内の火災」が猛威をふるっている(バタイユ「松果体の眼」)。(浅田彰『構造と力』p33-36 1981年2月 執筆 1981-1982『現代思想』掲載)


わたくしにとっては以来、これが「常識」なのだが、鈴木孝夫先生は、きっと晩年になってこの「常識」を覆すことをオッシャッテイルに違いない。とても聡明な顔貌をした方なのだから。まさか蓮實センセの嘲弄を浴びた《一世紀以上も前の言語観》で語る癖を繰り返して、プレフロイトの一世紀以上前の人間観で語っておられるのではあるまい。

やはりある程度年齢をへたら男は顔で勝負しなくちゃいけない。キレキレのさすがに二十ヶ国語がぺらぺららしい鈴木孝夫先生の顔である。そんなお方が《人が漠然と感じている気持を代弁して》、共同体への慰めの言葉を呟くなどということはアリエナイ……。しかもかの神話的な井筒俊彦の弟子筋らしいのだから。

黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。(……)

本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。(……)

隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)

フーコーも《すべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうる》と言っているからな。やっぱり面貌を磨かなくちゃいけない。

私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物 objets としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた、芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かせました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。なぜ、ひとつの画布あるいは家は芸術の対象 objets であって、私たちの生はそうではないのでしょうか。(フーコー「倫理の系譜学についてーー進行中の作業の概要」)

やっぱりフーコーのように生を芸術作品にするには、本だけじゃだめさ。

ーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(出典:ギベール著『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者あとがき)。

《フーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです》(ドゥルーズ

で、面貌の話はどうでもいいが、いやここで思い出したから、世紀の男前であるジャコメッティをめぐるボーヴォワールの話をもうひとつ引いておこう。

サルトルやオルガとしゃべっている時には、私は出たり入ったりする人を眺めるのが大好きだった。(……)とりわけ私たちの興味をそそり、何者だろうと思った男がいた。ごつごつした美しい顔に、髪はぼさぼさ、貪るようなまなざしの男で、彼は毎夜、ひとりきり、または非常に美しいひとりの女性と連れだって、通りを徘徊していた。彼は岩のように強固な、同時に妖精よりも自由な様子をしていた。あんまりすばらし過ぎる。私たちは外見に騙されてはならないことを知っていたし、彼の風貌はあまりにも魅力に溢れていて、見かけ倒しではないかと思いたくなるほどだったのである。彼はスイス人で彫刻家、その名はジャコメッティといった。(ボーヴォワール『女ざかり』上

ーーというわけで、この記事の流れに戻って、最後にジジェクさんのお出まし願うことにしよう。

……こうした詩と暴力のつながりは偶然によるものなのだろうか? いかにして言語と暴力 は接続するのだろうか? 「暴力批判論」において、ヴァルター・ベンヤミンは次のように問 題提起している。「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」 彼の出 した答えは、そのような係争の非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼の ある「内輪の人間どうしの関係において」である、というものだ。「暴力を行使せず人間同 士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である 場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」このテーゼは主流の伝統に掉さしている(則っている:引用者)。その伝統では、言語や象徴界という広く普及した発想は、和解や仲裁の 媒体となる発想のことであり、無媒介かつ剥き出しのまま対峙させる暴力的な媒体の発想 とは対極にある、争いを好まない共存共栄の発想のことだ。言語のなかでは、互いに直接 暴力をふるうのではなく、われわれは畢竟するに、議論をぶつけ、言葉を交換する定めに ある。――そんなやりとりは、それが人の攻撃に向かう場合でさえ、最小限、相手の立場を 〔事前に〕承認するという前提に基づいている。

とはいえ、人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかなら ぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマに したてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイ デガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦 点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人 間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガー のモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科 学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。「フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体なのです」。(スラヴォイ・ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所ーーいかにして詩は民族浄化と関係するのか」







2014年10月17日金曜日

「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」(ニーチェ)

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽jouissance、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。(『彼自身によるロラン・バルト』佐藤信夫訳)

この文は、《享楽の垣根における欲望の災難》(ラカン)のパクリである。

神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。

欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより


バルトの文の、《欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもの》とあるが、これもパクリである(たぶん――、「漂流」の原語を調べてみることは今はしない)。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール フィンク英訳からの私訳)

《欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。》(ジジェク『斜めから見る』)


フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状(症候)には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。(“Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)私訳ーー症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)

もちろんロラン・バルトのパクリには何の問題もない。

彼の《優雅な身振りでその出典を曖昧にしながら、自分の言説にくみいれる》そのやり方、《つまり、バルトは他者の言葉をあからさまに引用する》のだ。

他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう…出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる…バルト的な犠牲者の言説は、文脈を奪われた語句たちによる浅さの戯れを介して理論の閉域を解放する…(蓮實重彦『物語批判序説』)


…………


ところで、ニーチェ『ツァラトゥストラ第四部』(酔歌)、いわゆる「永劫回帰」が謳われるツァラトゥストラのこのグランフィナーレには、手塚富雄訳では「悦楽」という語が出てくる。これはLustの訳語であり、文脈によって「快」とも訳される(参照:悦楽(享楽)と永劫回帰)。


悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する、蜜を欲する、おりかすを欲する、酔いしれた真夜中を欲する、息を欲する、墓を欲する、墓の涙の慰藉を欲する、金色にちりばめた夕映えを欲するーー

Alle Lust will aller Dinge Ewigkeit, will Honig, will Hefe, will trunkene Mitternacht, will Gräber, will Gräber-Thränen-Trost, will vergüldetes Abendroth –

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -

さて、ここで再度、バルトに戻ろう。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳)

「悦楽jouissance」は、さきほども見たように、訳者によって「享楽」と訳される場合もある。

バルトにはこの「快楽/悦楽」の変奏であるだろう「ストゥディウム/プンクトゥム」が、最晩年の『明るい部屋』(花輪光訳)にある。

・ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

・プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

・ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する。

ーー「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか(ニーチェ)」より

ここで再度ニーチェを引用する。この文は、フロイトの『快感原則の彼岸』の出所のひとつではないかとさえ疑う。

人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである。(ニーチェ「権力への意志・第三書・二・三・権力への意志および価値の理論」原佑訳ーー「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」)

フロイトは、その『自己を語る』1925のなかで次のように書いているを以前みた。

私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。

フロイトはショーペンハウアーのなかにさえ、抑圧理論の端緒があるといっている。もちろんショーペンハウアーはニーチェの若き日の大先生である。

――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475)

さて、ここではフロイトの『快感原則の彼岸』からではなく、より後年の論文『文化への不満』(新訳では『文化のなかの居心地の悪さ』)から引こう。

読者もおわかりのとおり、人生目標を設定するのは快感原則のプログラムに他ならない。われわれの心理機構の働きは、そもそもの始めからこの原則によって支配されている。この原則が合目的なものであることは疑いをいれない。(……)

厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話〔エピソード〕的な現象としてしか存在しえない。快感原則が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快感は与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか居売れるな快感を味わえないように作られているのだ。(フロイト『文化への不満』人文書院 フロイト著作集3 P441

ーーと書かれ、次の註が付されている(

「欲動と享楽の反倫理学」覚書より)。


註)ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとも、これは誇張と言っていいかもしれない。

以下、そのうちにーー気が向いたらーーたぶん? 続く。




2014年10月10日金曜日

「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか」(ニーチェ)

エピローグ

一閃の電光、ディオニュソス エメラルド色の美に包まれて現われる。

(ディオニュソス)               

賢くあれ、アリアドネ!……
そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。
一つの賢き言葉を汝が耳に納めよ!--
ひともし愛し合うべきなれば、先ずもって憎み合うべきにあらずや?……
われは汝が迷宮なり……


ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)
第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)より

アリアドネの「小さき耳」とはなにか
アリアドネは「耳」の中の「耳」、内耳(Labyrinth)を持つこと
眼を閉じよ、そうすれば内耳への小道が開ける

武満徹は瀧口修造への追悼曲「閉じた眼Ⅱ」
の題名について問われてこう応じた
《閉じた眼と謂う言葉が、私に 開かれた耳 と謂う言葉を聯想させたから》

「われは汝が迷宮なり」とは
「内耳」(Labyrinth)の「迷宮」(Labyrinth)のなかに真実を探さないこと
真実とは迷宮にさ迷うことではないだろうか

アリアドネは迷宮の王ミノスの娘
迷宮の奥に怪物をさぐろうとするテセウスに
帰りの道に迷うないようにと糸を渡す

その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

 (「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ここでバルトは何を言っているのか
《迷路の人間は、決して真実を求めず、
ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ 遺稿)

真実を求めるのは、ストゥディウムの次元に属するとまではいっていない
だがアリアドネの糸はプンクトゥムの次元に属するに相違ない。

・ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

・プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

・ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する。(ベルト付きの靴と首飾り

ストゥディウムとはたんに「好奇心」の次元に属するものである。

快楽も、愛も、好奇心から生まれるものではない(……)。好奇心とは、感覚器官の粗雑さを忘れるために、知的に遂行されるストリップのごときものであり、自信にみちた心の動きだ。ニーチェにならって、「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのだろう」とバルトが書くとき、科学の名で指し示されているのは、まだ見えていないものへの究明へと人を向かわせるものが好奇心だとする社会的な、それこそ粗雑きわまる暗黙の申し合わせのことである。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」『表象の奈落』所収)

…………

《ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。》(ニーチェ)

ーーニーチェ三十歳のときの作品『反時代的考察』からであり、
ここだけ抜き出せば口あたりのよい
「人生指南」的な言葉としても読めるかもしれない。

だが、今はこの言葉を素直に読もう。
ときに忘れてしまっているのだから。

《これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか》

ーーときには過去をふりかえって見ることも必要だ。
初老の男にとっては過去に耽溺する仕方でない限り。
また若い人であれば次のようであるべきだろう。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)

われわれはたいして愛していないものに
たんなる「好奇心」に促されて時間をとられていないか

好奇心とは、特権的な感覚器官を粗雑なままに特権化し、主体を拡散と断片化の力学にさからわせようとする、知性の、独断的で退屈な拒絶の儀式にほかならない。ことによると、それは、無自覚なまま先取りされた死の実践であるかもしれぬ。自分に対しても、他者に対しても、いたわりを欠いた振舞いであるが故に、それは独断的なのだ。好奇心とは別の文脈に生きること。中庸の記号たるバルトの真の美しさは、そうした願望を、決定的な実現へと導くことなく、退屈と倦怠のよるべなさと戯れさせた点にある。それが彼自身の生の倫理だ。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」)

…………

さてニーチェの言葉を単に「人生指南的」に読まないために、もうすこし長く引用しておこう。

群衆に属すまいとする人間は、自己に対し安易であることをやめさえすればよい。「君自身たれ! 君がいま行い、思い、欲求している一切のものは、君ではないのだ」と呼びかける自分の良心に従えばよいのだ。

すべての青春のたましいは日夜この呼びかけを耳にし、うちふるえる。なぜなら、彼らは、そのたましいの真の解放を思うとき、そこに定められている測りしれない幸福を予感するからだ。しかも彼らが俗見と恐怖の鎖にしばられているかぎり、とうていこの幸福にたどりつくことはできないのだ。そして人生は、この解放をもたない場合、なんと味気なく無意味になりかねないことか!

自分の守護本尊を手ばなし、四方八方をぬすみ見している人間以上に、味気なく疎ましい生物は自然界にはない。こういう人間はついにもはや全然つかみどころがなくなってしまう。彼はまったく核心のない表皮であり、虫の食った、派手な、だぶだぶの衣裳以外のなにものでもなく、恐怖どころか、同情する気さえ起こらぬ飾りたてた幽霊にほかならぬからだ。

……ほかならぬ君が生の流れを渡って行く橋は、君ひとりを除いては誰もかけることはできないのだ。なるほど世間には、君をになった川を渡してやろうという無数の小道や橋がある。しかしそれは君自身を犠牲にするにきまっているのである。君は人質にとられ、自己自身を失うであろう。世には、君を除いて他の誰も行きえぬただ一つの道がある。どこへ行くか、と問うことは禁物だ。ひたすらその道をいけ。「自分のたどる道がどこへ行くのか自分にも分からないときほど、先へ行っていることはない」と述べたのは、誰であったか。(ゲーテ「格言と反省」901番)

しかし、どうすればわれわれは自分自身にめぐり会えるであろうか。どうすればおのれを知ることができるか。

人間は一つの暗い、覆いかくされたものだ。そして、うさぎに七枚の皮があるとするなら、人間は七の七十倍の皮をむいても、「これこそ本当のお前だ、これはもう皮ではない」と言いえないであろう。

ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。

尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。

そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。

なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。

君の真の教育者・形成者は、君の本質の真の根源的意味を根本素材とを、君に洩らしてくれる。すなわち君の教育者は、君の解放者にほかならぬのである。

そして、これこそすべての教養の神秘であるが、義手義足や、蠟性の鼻や、めがねをかけた目を貸しあたえてくれるものが、教養なのではない、――むしろ、そういう贈物をくれるようなものは、教育の偽者にすぎない。

解放こそ教育である。若木のきゃしゃな芽を侵そうとかかる、あらゆる雑草、瓦礫、害虫をとりのぞき、光りと熱をそそぎ、愛情をもって夜の雨を振りそそいでくれるものこそ、教育なのだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874 秋山英夫訳)

途中ゲーテの言葉として
「自分のたどる道がどこへ行くのか自分にも分からないときほど、
先へ行っていることはない」とある。

これが迷宮にさ迷うことの起源ではないか
そしてニーチェのアリアドネの起源ではないか

迷宮あるいは耳。迷宮はニーチェにしばしば現われるイメージである。それはまず無意識を、自己を、指示する。アニマだけがわれわれを無意識と和解させ、無意識を探すための導きの糸をわれわれに与えることができる。次に、迷宮は永遠回帰そのものを指示する。迷宮は循環的であって、行きどまりの道ではなく、同一の地点に、また、現在、過去、未来の同一の瞬間にわれわれを導く道である。だがより根本的に言えば、永遠回帰を構成するものの観点からみると、迷宮は生成であり、生成の肯定である。ところで、存在は生成に由来し、生成そのものによって自己を肯定する。そのかぎり、生成の肯定は別の肯定(アリアドネの糸)の対象である。アリアドネがテセウスのところに足繁く通ったあいだは、迷宮は逆の意味にとられていた。それはましな価値に開放され、糸は否定と怨恨の糸、道徳の糸であった。だが、ディオニュソスは彼の秘密をアリアドネに教える。真の迷宮はディオニュソス自身であり、真の糸は肯定の糸である。「私はおまえの迷路なのだ。」ディオニュソスは迷路にして雄牛、生成にして存在であるが、その肯定そのものが肯定される場合にのみ存在であるような生成である。ディオニュソスはアリアドネにたんに耳を傾けることだけでなく、肯定を肯定することを要求する。「おまえの耳は小さい。私の耳と同じだ。その耳で私の細心の言葉を聞くがよい。」(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』足立和浩訳)

…………

閑話休題。

ニーチェという名の基体として、自分が何を書いているかを意識することができるのは、まさにその瞬間に、書くということが起こるために何が生み出されたのかを自分が知らない、いやそればかりか(もし彼が書き思考したいと思うならば)知らないでいる必要があるということを、さらには、後に彼が衝動たちのあいだの闘いと名づけるものをその瞬間にはまったく必然的に知らないでいるということを、彼が知っているからなのである。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

では、クロソウスキーは何を言っているのか。
《知らないでいる必要がある》だって?
これも迷宮にさ迷うことだ
ーーそう、作家は知らないでいる必要があるのだ。


ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』から
辞書のようにアルファベット順に列挙されていくGの項目のひとつ、
「GRADIVA」(「グラディヴァのような女」)の項目の冒頭を挿入しよう。

『グラディヴァ』の主人公は尋常ならざる恋人である。ほかの者なら思う浮かべただけで終るものを、幻覚として体験し、とり憑かれているのだ。それと気づかぬままに愛している女性がいて、そのフィギュールとなるのが、いにしえの女グラディヴァなのであるが、彼はこれを現実の女性として知覚している。そのことが彼の錯乱(妄想? ※引用者)である。ところで問題の女性は、ひとまずは彼の錯乱に同調したうえで、穏やかにそこから引き出そうとしている。ある程度まで彼の錯乱の中へ入りこみ、あえてグラディヴァの役を演じ、幻影を一挙に打ちこわしたり、夢想から唐突んび目覚めさせたりはせず、それと気づかぬうちに現実に近づいていってやろうとするのだ。そのことで、ひとつの恋愛体験が、分析治療と同じ機能を果たすことになるのである。

「グラディヴァ」とはもちろんフロイトの論文からである。

われわれの仲間の一人が『グラディーヴァ』に出てくる夢とその解釈可能性に関心をもった(……)。その人が当の作家に直接会って、あなたの考えに非常によく似た学問上の理論があることをご存知だったのかと尋ねれみた、はじめから予想できたことだが、これにたいして作者は知らないと返答した、しかもそこには多少不快げな調子がこもっていた。そして、自分自身の空想が『グラディーヴァ』のヒントをあたえてくれたのだ、(……)これが気に入らない人はどうかかまわないでいただきたい、と言った。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

《作者はこのような法則や意図を知っている必要などまったくないし、だから彼がそれを否定したとしてもそこに微塵の嘘もないのである》としつつ、フロイトは続けてこのように書く。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

批評家と創造者の振舞いを混同してはならない
リルケは、才能を無くするということでフロイトの治療を断わられた

リルケ?
クロソウスキーがリルケの隠し子であるかどうかは知るところではない

クロソフスキーの《ディアーナとアクタイオーンII》1957





これは女に襲いかかったつもりで
ひそかに手助けされてしまう男だな
チガウカナ?

(あなたガンバッテ!
そこじゃないの
アタシが手引きしてあげるわ)

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

心の傷が疼くんだよな
(オレは全然ミソジニーではないけどさ
と言っておかないとな)

これが彼のーーオレの、あるいはクロソフスキーのーー
グラディヴァであり、ひょっとしとアリアドネである
とするよりはリルケ隠し子説は信憑性が低い

ピエール・クロソウスキーはバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ
という弟をもっており、別名バルチュスであるのはよく知られている


でなんの話だったか?
オレがホントウに愛してきたものの話だな、
タブン?

時刻は遅い午後、といっても陽が落ちるにはまだ遠く、燦々と輝いていた陽光がその盛りをすぎ、どれほどともわからぬ時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていったことはぼんやりと意識にのぼっているのだが、正確な時刻となると見当もつかない晴れた日の昼すぎ、まるで部屋の外にはなにも存在せず、ただこの室内だけが世界のすべてであるかのようだ。まるで眼につかぬほどゆっくりと、だが着実に翳ってゆく陽射しが、長椅子の肘掛や背凭せ、テーブルの縁、またあれら少女たちのスカートや剥き出しになった下着の上に落ちかかり、それぞれの粒子の物質的な手触りを際立たせながら優しい白さで輝き出させ、穏やかに暖めている。





……まるで浴槽の熱い湯の中に浸りこむようにして、少女は自己の内部の充足のなかに浸りこむ。甘美な自己放棄。視線がうつろになる。もうわたしは何も見ていない。眼をつむる。猫のように、うっとりと伸びをし、軀を丸める。だが、―――だがまさにその瞬間、ふと軀から溢れ出すものがある。何かが、足りないような気がするのだ。苛立ちと呼ぶにはあまりに甘ったるく熱っぽい、この胸苦しいやるせなさ。むずかゆさ。これはいったい何なのか。何もかもが満ち足りていたはずなのに、今は、しきりと何かが不足しているように思われてならない。何かが欲しい。われしらず溜息が漏れる。けれども、わたしの息はどうしてこんない熱いのだろう。このせつない欠乏感は決して嫌悪をそそる種類のものではない。むしろ快いとさえ言っていいような、奇妙に甘美なやるせなさ。(……)少女は眠りの中に閉じてゆきながら、しかも同時に自分を世界に向かって押し広げてみずにはいられない。脚と脚とがわれしらず離れてくる。しだいに頭の上へとあがってゆき、頭部を抱えこんで自分を内へ閉ざそうとする両腕のやるせない動きそれ自体が、そのまま、腕の付け根の柔らかな腋窩を思いきり開ききって外へさらけ出すことになる。(……)そして、目に見えないほど細かな粒子として、しかしくまなく全身から、じっとりと滲み出してくる夢を吸いとっているブラウスと下着の、決して純白というわけではない白さの何とすばらしいことだろう。この汚れた白さの何という輝き、捲くれ上がったスカートの下のシュミーズの縁取りのレースのよじれと縮み、股間を覆う下着によった襞。そして、折り曲げた左足によってかたちづくられ、この股間の白いよじれた襞をのぞかせている三角形と照応するもう一つの、逆向きの三角形、襟元のブラウスの下からのぞいている小さな三角形の、何という蠱惑。顔を横に捩っているために筋肉の腱がくっきりと浮かび上がっている首筋の真下に、強く打たれた句読点のように輝いているこの小さな白い三角形の染みこそ、少女の夢がそこから発散してくる負の起源、またそこへと収斂してゆく虚の焦点であるかのようだ。夢想に軀を預け背を後ろに倒しながら、しかし完全な自己放棄には至らず、背筋をわずかにこわばらせ、不安定な角度で身を支えているこの緊張した姿勢のうちに、開くことと閉じることとの官能的な共存が生きられている。その微熱を帯びた緊張のただなかで滲み出した夢の粒子は、あたり一面に拡散して空気中に漂い、椅子やテーブルや水差しや猫や猫がなめているミルクと親しく交流し合う。……(松浦寿輝「インテルメッツォ―――バルテュスの絵をめぐる」(『官能の哲学』より)

もっともオレはパンストフェチ、ストッキングフェチであり
(理由はどこかに書いたな
ーー「遠い道」にあるよ、かなりぼかして書いてあるが)
同じ「変態」でもややクロソフスキー兄弟と趣味が異なる






「これまで本当に愛してきた」にもかかわらず
当地は暑い国であり
よほどの高級オフィスガールでなければパンスト類を穿かず、






すなわち滅多にお眼にかかれないという限りない不幸は
画像を収集することでなんとか埋め合わせてはいるのだが
なぜか椅子とストッキングの組み合わせを好み
これはひょっとしてバルチュスの影響ではないか









2014年10月2日木曜日

「沖合いはるかな遠い未来のなかに」

人が私に同意するときはいつも、私は自分が間違っているに違いないと感じる。

Whenever people agree with me I always feel I must be wrong. (オスカー・ワイルド)

ははあ、ワイルドの言葉のなかに、すでにロラン・バルトがいるな。


何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)

遡ればデカルトだっているさ。

人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』)

すぐさま理解されたら引退という規約の集団だってあったらしい。

フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。(中井久夫「書評の書評」『リテレール』創刊号 1992)

どうして、いまでは大量ハテブされたり、ツイッターで大量RTされたりなどしても、恥じない手合いばかりなんだろ? 

ーーというのは捏造されて疑問符だよ、そんなことは分かってる。

ただ「承認欲求」という言葉は使用したくなくてね、
ああ使っちまった、消去線引いとかなくちゃな

《誰もが、誰かに見られていることを求める》。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

クンデラはこう書き、四つの視線のカテゴリーをあげる。

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)

ーー③か④にしとけよな、「承認」されたいのなら。


ここでなぜかシュネデールのグールド論の言葉を引用しておこう。

実際コンサート・ホールという場にあっては、音楽はめったに人の心に届かないと彼はすでに感じていた。うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる。ぬるま湯につかったような態度で音楽に接する人々や、音楽を聞きながら夢想や計算をやめずにいられる人々に比べれば、音楽に恐れをなして逃げ出してしまう人々のほうがよかった。p7


これは演奏会の話だが、ネット上の読者なんてのもーーいや「文化人」の書き物をあり難がる手合いももちろんーーこういった連中がほとんどなんだからさ。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

「わかりやすさのファシズム」の時代だからな。

結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。

登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。(北野武

…………


……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

なんてのは芸術家のみなさんも生活かかってるんだから
「沖合いはるかな遠い未来のなかに」なんて

こんな物言いも無視したらよろしい。
せいぜいレスポンスをもらうことに専念したらよろしい。
なあ、ソウダロウ?

蓮實重彦)なぜ書くのか。私はブランショのように、「死ぬために書く」などとは言えませんが、少なくとも発信しないために書いてきました。 マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表象の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。私は彼らの後継者を自認するほど自惚れてはいませんが、この動物的な「愚鈍さ」の側に立つことで、何か書けばその意味が伝わるという、言語の表象=代行性(リプレゼンテーション)に対する軽薄な盲信には逆らいたい。

浅田彰)  …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。

蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。

――中央公論 2010年1 月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田 彰)


蓮實重彦なんて、サルトルまで貶しているわけだからな

…………

サルトルは第二次世界大戦終結後の五日後、『大戦の終末』という文を発表している。《一発で十万人もの人間を殺すことのできる小さな爆発》が導きだした大戦の終末、この武器は《明日ともなれば、二百万人もの生命を奪うこと》にもなろうから《これが突如として我々の人間の責任と、我々とを対決させることになったのだ》。そのとき人は《自己の死滅の鍵》を握って茫然とする、と。

この次の機会には、地球は破裂するかもしれぬし、この不条理な結末は一万年も前から我々人間の心にかかっていた様々な問題を、宙ぶらりんにしてしまうだろう。

もし明日また新しい事変が起ったと告げられても、我々は、あきらめたように肩ををびやかせながら、「予定どおりさね」と言うに違いない。(「大戦の終末」)

――なにやら2011年の極東の島国での「想定外」の事態をめぐって、ある種の「知識人」によって同じようなことを呟かれてもおかしくない文であるし、実際、いくらかの語句修正を施された《聡明、かつ反射神経鋭敏な》評論家連によって語られたともいえる。

蓮實重彦はその『物語批判序説』のなかで、上記のサルトルの文を引用して《世界の表層を不条理というほかない亀裂が走りぬけたとき、みずからのもっとも神経過敏な部分をその痕跡に重ね合わせるほとんど反射的といえる身体反応の美しさ》と語りながらも、《ある種の身体的な聡明さとは、あくまで相対的なものでしかなく》、《誰もが否定しえない知的聡明さと、人間的な誠実さにもかかわらず、この爽快なまでに短い論文を綴ったサルトル》の言説への齟齬感をめぐって書き進める。
……大洪水前の虚無からは幾世代にもわたる祖父たちによって守られており、未来の虚無に対しては、何代にもわたる甥孫によって守られており、つねに時間の流れの中間にあって、決してその末端にはいなかったのだ。しかし、今や我々は、この「世界終末の年」へ戻ってしまったのであり、朝起きる度毎に、時代の終焉の前日にいることになるだろう。(同サルトル)


蓮實氏は、《サルトルのもっともできの悪い文章をとりあげて、作家サルトルの文学的資質をことさら軽視しようとしてこの一節を引いたのではない》、としながらも、《終りという事態を前にした場合、サルトルさえもがこうした貧しい比喩に逃れるほかないという点が問題》であるとするのだ。

「世界終末の年」への逆戻りという表現は、サルトルのいわんとすることの表現であるより、むしろその思考の運動を出来合いの言葉の方へと招きよせ、語りつつある主体を、それが喚起するもろもろの象徴へと、検証を欠いた安易さで同調させる機能を演じているように思う。
……『大戦の終末』はきわめて素直な文章だといえるかもしれない。素直な、というのは誰かに教えこまれたのでもないのに、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えるからだ。事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもののはずである。あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議でもない文脈が用意されていたのであり、それにふさわしいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったといえるだろう。

もちろん、サルトルは、いちはやくその事実を察知する聡明さに恵まれていた、それは日本の2011年の早春における何人かの[知識人」も同様だっただろう。彼らは《聡明さのみならず、ある大胆さと、そしておそらくはいくぶんかの通俗性にも恵まれていたので、誰よりもさきに予定されていた言葉を口にしてしまったのである》。

このようにして、『物語批判序説』の作者によって、『大戦の終末』の文章は、「説話論的な権利に従った自然さ」、あるいは「物語の罠に陥る甘美さ」があると指摘されることになる。つまりは、

しかるべき文化圏に属するものであれが、誰もが暗記していつでも口にする用意が整っていた台詞であり、その意味で、それをあえて言説化してみることはほとんど何も言わずにおくことに等しい。

この後、同じ「人間の死」を語りながらも、つまり《思考が人間の顔を描きえたのはたかだか過去百五十年ほどのことでしかなく、その人間の横顔も、とうぜん、知の配置が体験するだろう新たな変容とともに「波打ちぎわの砂の上に描かれた顔のように消滅する」ほかあるまい》と語るフーコーとの言説的戦略の差を語ることになるのだが、それはここでは割愛する。




2014年9月30日火曜日

「正義とは不快の打破である」

蓮實重彦)僕は非常に影響を受けやすい人間だと思う。というより、どちらかというと物真似がうまくて、いわゆるバスティッシュは他人にひけをとらないつもりです。たとえば、バルトの模倣で一冊の本は書けるだろうし、ヤコブソンの模倣で言語学の論文を一つ書きあげる自身があるのです。吉本隆明の詩も一晩で二、三篇は書けますね。事実、一度やってみて自分でこわくなって捨てちゃったけど、絵の方でいう贋作の才能があるんです。いわゆるアカデミックな学術論文だって、アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある。僕はボルヘスをつまらないと思うのは、ボルヘスよりうまくボルヘス的な短篇が書けちゃうからなんです。だから、モデルということになると、僕には無限にある。文体を模倣するんじゃあなく、言葉の生き方においてそっくりになっちゃうということです。だから逆に、影響ってことに関しては非常に厳しいし、また意識的だといえる。たとえば、デリダは絶対に真似もしないし、影響も受けていない。先ほどいったフーコー的な不快さという点からすると、デリダの文章は不快なんです。(柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』PP.200-201)

元東大総長が、1988年にこんなことをオッシャッテイル。
バルトやヤコブソン、吉本隆明やボルヘスの話は
ここでは、いったん聞かないふりをするとしても、

ーーいや、少しだけ思いを馳せれば、
これはツイッターで拾って出典は明らかでないのだが

私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。(蓮實重彦)

などともオッシャッテイルようだ。
これはデカルトとスピノザのパクリといっているわけではなく
テクストは「引用の織物」なのであり、

(もちろん「引用の織物」の捕捉はあるから、文句言う前に
リンク先読んどいてくれよな)

またテクストは「小説」のように読まなくちゃいけない
と言っているはずだ。
すなわちこういうことだろう、

ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ただし『闘争のエチカ』の発言と並べて読むと、いっそう「興味深い」ねえ
なにが「興味深い」のは敢えて書かないでおくけど


ところで、《いわゆるアカデミックな学術論文だって、
アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある》
などという言明は、
学術論文(すくなくとも人文系の)などほとんど贋作にすぎない、
と言っていることにならないか?


いやいやオレは門外漢で、そんな失礼なことはケッシテ言わない。
きっとオリジナリティいっぱいの「学術論文」はたーくさんあるんだろ

《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》(ニーチェ 遺稿)

ニーチェ以上のオリジナリティのね

ーーで、最近の「剽窃」談義というのはなんだろう、学者先生のみなさん!
あれは、コピペを禁止しているだけなんだろうか。

たとえば「優雅な置き換え」ってあるよな
それはもちろん許しちゃうということだろうか

これは学術論文ではないのだが
大澤真幸のジジェクの優雅な置き換えってのは、
学術論文の世界では許されるのだろうか

ジジェクの『斜めから見る』を優雅に置き換えているサンプルはここにある
論文指導要項そのⅠ:「コピペはやめて優雅に置きかえなさい」

さてここでの文脈とはまったく”関係なしに”、次の文をも引用しておこう。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『新潮』2005年5月号より

…………

などということが書きたいわけではない。

実はすこしまえ野間易通にかかわるなかで「正義」などという語彙を
口にしてしまったので、次の文を探していただけだ。


蓮實)僕にとってのフーコーの偉大さは、彼が知識人でありながら、生涯を通じて、何ひとつ指針らしいものを残さなかったことに尽きています。共同体に受け容れられるような行動の方針は一つも示さなかった。ただし、一貫して一つの闘争を戦いぬいていたのであり、そのことが指針といえばいえるかもしれない。それは何かというと、彼の戦いが、不快なものをめぐって、ただその一点をめぐって展開されたという点です。彼は、社会的な不正に対して正義の立場から戦ったのではない。ましてや、社会的な不正に対して戦う義務感など持っていなかった。僕の驚きは、正しくないことに対して批判を加えるべきだという知識人的な郷愁の徹底した不在です。たとえば、それをサルトルと比較してみれば明らかでしょう。サルトルの倫理は、彼の正義の理念と切り離しえない。

不快さに対するフーコー的な戦いというのはまったく理不尽なものです。彼は、監禁という状態が不快であるからこれを論じ、これと戦う。不正に対して正義の反抗を試みているわけじゃあない。だから、フーコーを論じる日本人の多くが、彼の社会的な行動に一つの指針を見ているけど、そんな愚かな話はない。彼のコメニイ擁護なんて理不尽そのものでしょう。しかし、あれはまったく政治的なものではなく、快=不快の原理だけの問題なのです。だから、それを全体化するとまったく役に立たない。その意味じゃあ、フーコーは知識人的ではないわけです。

僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。だから、フーコーの倫理を素通りしてしまうのだし、そのことで自分が何を失っているかにも無自覚なのです。不快さに対する戦いの倫理性は理不尽でありながらも自分を実験台にするという積極性を持っている。(『闘争のエチカ』P197

やっぱり、「正義」じゃなくて「不快さ」なんじゃないか、出発点は。
どうだい? ロールズの『正義論』やら
デリダの「脱構築の正義」が好きな政治学の先生たちよ



◆ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」

正義〔正しさ〕は、さまざまな徳〔よい特質〕のなかでも特別な地位を占めています。 はるか古代、しばしば正義は徳の主人、つまりそれ以外の徳すべてを秩序づける唯一の徳 だと考えられていました。プラトンにとって、正義とはまさにこの支配的な地位にありま した。彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。

 現在のほとんどの哲学者は、プラトンの視点を細かな点で否定しています。それぞれ全 く違う生活をおくる永続的な統治階級、永続的な軍事階級そして永続的な労働者階級の三 つにがっちりと階層化している、これが正しい社会だ、などと信じている人は今日では皆 無でしょう。ただし、多くの哲学者は、プラトンの次の思想は受け入れます。すなわち、 正義は多くの徳のうちの単なるひとつではなく、徳の主人、あるいは超越的な徳として特 殊な地位にあるのだ、という思想です。この構想の一つのバージョンが、ロールズの執筆 した『正議論』にあらわれています。その本でロールズは、「真理が思考体系にとって第 一の徳であるように、正義は社会制度にとって第一の徳である」と述べています。そ こで彼が言わんとしているのは、正義が最上級の徳であるということではなく、むしろ、 正義はそれ以外の徳すべてを発展させる基礎を保障する、根底的な徳であるということな のです。理論的には、さまざまな社会編成からさまざまな徳を見つけることができます― ―例えば、その徳は効率的であることだったり、秩序的であることだったり、調和的であ ることだったり、ケア的であることだったり、高貴であることだったりするかもしれませ ん。しかし、そうした徳を実現できるかどうかは、ある前提条件、すなわち、そこで問題 となっているその社会編成が正しい〔正義にかなっている〕という前提条件にかかってい ます。したがって、正義とは次の意味で第一の徳であるといえます。すなわち、それ以外 の徳が社会的にも個人的にも発育できるだけの肥えた土壌を私たちが作ろうと思った場合、 そもそも構造化された不正義を打倒することによってしかそれは為し得ないのです。

 私の見立てどおり、ロールズのこの考えが正しいとすれば、そこでの社会編成を評価す ること、これが私たちの問うべき最初の問題となります。すなわち、その社会編成は正し いのか?と。それに答えるには、ロールズの別の知見が参考になるでしょう。すなわち、 「正義の第一の主題は、社会の基礎構造である」。この文章は私たちの関心を、社会生活 についてすぐ思い浮かぶような雑多な特徴から離れさせ、それらの根底にある文法原理へ と向かわせます。文法原理というのは、社会活動の基本的な語られ方〔言葉の用いられ 方〕を定めている制度化されたグランド・ルール〔社会の土台にある規則〕のことです。 このルールが正しく秩序立てられている場合にのみ、その他のより直接に体感できるよう な日常生活の側面も正しくなれるのです。確かにロールズの正義に関する見方は、――プ ラトンのそれと同様に――問題がないとはいえません。正義というものをもっぱら配分的な関係のなかで判断できるとする考えは、「原初状態」という道具立てと同様に、窮屈す ぎます。とはいえ、本論との関係では、正義を検討するにあたっては社会の基礎構造に焦 点をあてるべきだ、というロールズの考えに依拠することにします。このアプローチにつ いて説明し、その威力をお伝えするため、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さない で』を取り上げたいと思います。

本書はどのような洞察を私たちに示してくれているのでしょう? その最も重要なもの は、正義についてその否定を通じて考えさせるという点です。プラトンとは違い、イシグ ロは何らかの正しい社会秩序というものを提示しようとはしません。そのかわりに、これ は絶対に正しくないと読者が考えるようなひとつの社会秩序を冷徹に描き出します。これ が重要なポイントの一つです。つまり、正義〔正しさ〕をじかに体験することは決してで きないということです。反対に、私たちは不正義を体験しますし、むしろその体験を通じ てしか、正義という考えを形作ることができないのです。不正義だと思われるものの性質 をしっかり見定めることからしか、そのオルタナティブへの感覚を得ることはできません。 不正義を打倒するものが何かをじっくり考えるときにしか、さもなくば抽象的になりがちな私たちの正義概念に具体的な内容を盛り込むことはできません。したがって、「正義と は何ぞや?」というソクラテスの問いには、こう答えることができます。正義とは、不正義の打破である、と。

《正義とは、不正義の打破である》とあるな
優雅に置き換えて、「正義とは不快の打破である」としておくよ


で、ヘイトスピーチやネオナチってのは、
「正義論」教えている学者センセは「不快」じゃないのかねえ
寡聞のせいか、彼らはこの場に及んでも、オトナシイように見えるのだけど

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)

まさか「正義」を語るのは、不正義が生起しつつある瞬間から視線をそらせるためじゃないだろうな。



※附記:デリダの「正義としての脱構築」をめぐるジジェクのコメント。

Even Derrida's notion of “deconstruction as justice” seems to rely on a utopian hope which sustains the specter of “infinite justice,” forever postponed, always to come, but nonetheless here as the ultimate horizon of our activity.
In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

だからといってローティのプラグマティズムがいいわけでもないようだな。

ジジェクは、「マルクスへの回帰」という口当たりのよいスローガンを唱えることでしばしばマルクス主義を脱政治化してしまう最近の左翼の傾向を批判し、あえて「レーニンへの回帰」を主張する。(もちろん、同じことはフロイトとラカンの関係についても言えるだろう。)こうして、シニシズム批判から出発したジジェクは、あえてパウロ的あるいはレーニン的なドグマティズムを選び取るところまで至りついたのである。だが、問題は、ジジェクのシニシズム批判そのもの、したがってまたドグマティズムを選び取るというジェスチュアそのものが、きわめてシニカルであるということだ。それは形式的なジェスチュアであって、ドグマの内容は何でもいいということになりかねない。現に、なぜレーニンであって、スターリンではなく、マオではないのかという内容的な論証は、ほとんど与えられないだろう。実のところ、60年代末のラカン=アルチュセール主義過激派は、同じようなドグマティズムに基づいてマオを選んだのだった。当時の過激派の生き残りであるバディウと、バディウ(そしてミレール――ただしジジェクは本書で師のミレールさえラカンのドグマを相対化しすぎているといって批判している)の影響を受けたジジェクは、30年以上たったいま、マオとは言わないまでも、結局はほとんど同じことを繰り返しているように見える。もちろん、ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?――ジジェクの『信仰について』/浅田彰)
まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。(浅田彰ーー「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」


2014年9月28日日曜日

マジョリティの「選択的非注意」

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてやかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」)


排外デモで、“go home! ”というのは、いじめさ

相互性がないからな


(もっともイジメだけではないだろうことは重々わかっているつもりだが)

ということは誰かがすでに言っているだろうと思い

ネット検索してみると

なんとかの松島みどり「法務大臣」がオッシャッテイルではないか


「ヘイトスピーチの最たるものは子どものいじめ」とさ

で、《不見識発言に非難殺到》だって?


インテリ諸子はいったん嫌うとなんでも非難ってわけじゃないだろうな

それともオレが「不見識」なんだろうか?


誰か味方がいないかとさらに探せば

「男組」――レイシストデモの「カウンター」の連中が

 「ヘイトスピーチはいじめだ」声明しているじゃないか

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。(旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通


松島みどり大臣は男組をパクっただけじゃないのか

ヘイトスピーチをする人々に対しては“目の前で行われている「いじめ」に「おい、それ止めろ!」と私たちは言い続けます。差別やいじめに対して難しい理屈は要らないのです。(釈放された「男組」 差別ない社会目指すと改めて宣言

どうだい、インテリ諸子よ
ツイッターで脊髄反応的に語ってしまったことを批判するつもりはないさ
さしあたっての急務は、
きみたちが単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、
また脊髄反応装置としてのツイッターの恐ろしさは、
とても馬鹿とは思えない人間の思考をも
無償の饒舌化する点にあるのだからな

ーーというのはもちろんパクリさ

だが、さしあたっての急務は、『文章読本』の著者(丸谷才一:引用者)が単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、また、教育装置としての風景の恐ろしさは、とても馬鹿とは思えない人間の思考をも「知」的に分節化する点にあるのだから、いましばらくは、現代の風景論的な展開にいま少しつきあわねばならない。それは存在から「知」を奪い、あらゆる人間を痴呆化させるからではなく、むしろ「知」の流通を活性化させながら思考の体系化をめざすかにみえて、逆に思考を単調なる物語の一挿話としてそ知らぬ顔で分節化し、イメージによる相互汚染を普遍性と錯覚させてしまう点が恐ろしいのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収) 

さて急務のほうは、傍観者の「選択的非注意」のほうだな

いじめは次第に「透明化」して周囲の眼に見えなくなってゆく。

一部は、傍観者の共謀によるものである。古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(「いじめの政治学」)

嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」のたぐいは今では至る所にあるのであって、「善良」なひとたちは「選択的非注意」で対応しているのじゃないか。

ちがうかい?、傍観者の「優等生」たちよ
みずから「日本人」というマジョリティーに同化して

浅田) 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

千葉) そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。(つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん 2013.12)

ここでは敢えて「不良」や「切断」なんてことはいわないさ
ただ「選択的非注意」やら
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)やらは
なんとかならないものだろうかね、

それに松島みどり大臣発言を批判する大学教師らしきおっさん、お嬢さんよ
同じ人に対して同じように怒りをぶつけ
同じ人に対して同じように賞賛する
脊髄反応装置に浸りきったツイートの
「相互汚染作用」の餌食ってわけじゃないだろうな
まさか《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》(小林秀雄)
というわけではあるまい

ただツイッターにて集団ヒステリーになってるだけだろ?


《だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう》(シラー フロイト『集団心理学と自我の分析』より孫引き

現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。(『醜い日本の私』中島義道)

ーーと書くオレもきみらのツイートの前後の文脈を読まずに
こう書いてんだから同じ穴の狢かもな
ツイッターだけでなくブログも似たようなものさ


……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。〔蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」)

安心感を無責任に享受させてしまったかな
でも「厚顔無恥」の「無限連鎖」だけはやめとけよ

…………

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩として問題にしてこなかったとすれば、これは実に不思議である。むろん、権力欲自体を消滅させることはできない。その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(「いじめの政治学」)

中井久夫の「いじめの政治学」というのは、
中井版フロイトの『集団心理学と自我の分析』みたいなものだからな、
ラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文さ
日本のネオナチ躍進の序文として読んだほうがいいかもな

いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。

いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである

私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。(……)これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。(「いじめの政治学」)

ネオナチ猖獗を「透明化」するのだけはやめとけよな
すなわち「選択的非注意」に憩うのだけは。


※附記:現在の自民党のイメージ


二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合。

自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(徴兵制復活やら核軍備など)。共産主義から国民の羊化と情報統制、強制収容所化。民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって主人を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。資本主義からバブルと剥き出しな資本の利害。ケインズ主義から自己循環論法(美人投票論、合理性のパラドックス)。自民党からかつてのその名前。


2014年9月26日金曜日

この〈オカマホリ〉!

@yoshimichi_bot: 私が道徳的に善いとされていることに従うのは、大多数が善いと思っていることに自分の行為を合わせたほうが、生きるのに便利だから、社会から排斥されないから、つまり快だからであり、それ以上の意味はない。(中島義道『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』)

――わるくない、なかなか巧みな剽窃だ。

さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(……)けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにく真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』)

すこしまえ次の文を拾ったのだが、こっちの「剽窃」よりもよい。

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。(『差別感情の哲学』中島義道)
ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント)

二番目のほうは「剽窃」と言えるのかどうかさえ危うい。

剽窃は、自分の文に他人の文を溶け込ませてこれを消滅させようとする。希釈による掠め取りである。文体模写(パスティッシュ)は逆に他人の肉を纏って、その人に見せかける。こちらは役者の演技練習に似ている。しかしこの練習において自らが偽者であることを洩らすのは、パスティッシュの実践者ではなく、模作それ自体だ。この巧妙な文学的手管は、しかも、<文体>を模倣しようとすればするほど、気づかれやすくなる。つまり、剽窃による奪取とは違って、ジェラール・ジュネットが言うように(『パランプセスト』)、パスティッシュはつねに、これはXがYを真似たテクストであるという<契約>を暗黙の前提にしているのである。パスティッシュはなにがなんでもパスティッシュだと悟られなければならない。さもないと、著者が書いた正真正銘のテクスト、つまり手本となるテクストそのものになってしまう。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』)

どうも次のような気味もいささかある。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

マンフレート・エーガーは、ニーチェを「受容の天才」と呼んでいる。最近の著書『ニーチェとバイロイトの受難劇』においては、「盗みの天才」とも。ニーチェ自身、その遺稿には、《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》とある。

ニーチェとディオニュソス : ニーチェのバッハオーフェン受容』(谷本愼介)によれば、ニーチェの『悲劇の誕生』のディオニソス賛は、バッハオーフェンの影響下で書かれている。バッハオーフェンの「バッコス的世界観」は、ニーチェによって「ディオニュソス的世界観」と書き換えられている。バッコスはもちろんディオニソスのことであり、古代ギリシャ・ローマ人たちは、深夜に得体の知れない物音が通過したら「あ、バッカス(ディオニュソス)の楽隊が通る」とした。会話の不意の途切れを「あ、天使が通る」という伝である。どの程度ニーチェが「盗み」を働いているかは、バッハオーフェンとニーチェの論文を並べつつの比較対照がなされている。

で、こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。

コピペはやめて優雅に置きかえなさい」、大澤真幸がジジェクを置きかけえたようにーー、などと言うつもりもない。

《自分の曲があるとすると、たぶん僕のオリジナリティは5パーセントあればいい方じゃないか。》(坂本龍一 於シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」)ーーニーチェはオリジナリティは1パーセントと言っているが、坂本龍一は5パーセントと言っている。やや不遜気味だとはいえ今は喉頭癌治療のおりでもあり許さなくてはならない。

という次第で私はここに、現代のぶよぶよの大頭ども(ロートレアモンの言葉)に向けて手短な美学を、つまり剽窃のエロティシズムを素描したいと思う。というのも、私はこれまで剽窃し、また剽窃されてきたが、この〈オカマホリ〉! とか、よくも魂を奪ったな! とか、俺の実体を盗みやがって! とか、そんなくだらないことを叫んだためしはないからである。私は他人の傘下で、他人の傾きに沿って、他人の仕立てで(縫い子が言うような意味において)それぞれの本を書いてきた。しかしそこにはまた手当たり次第、気の向くままに耽った周辺的な読書の記憶が加わっている。そうした読書のなかで私は文の断片を、ときには語を掠め取ってきたが、こんどはその掠め取った文や語のほうが、知らぬがままに行きたがっている場所へと私を引っ張っていってくれた。こうして、すでに書かれた文が、私の未来のエクリチュールになっていったのである。というのも、文章はつねにそれ固有の意味以外にも無数のことを語っていて、剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもないのだから。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』)

間違っても無粋に、この〈オカマホリ〉! などと叫んではならない。

でも、《剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもない》だって? 

それにしては素直すぎる「剽窃」が多すぎる。

たとえばつぎの文は、ひどく素直な「剽窃」か。
いや他人の肉を纏ったパスティッシュに決まっている。

そもそもわたくしがわたくしと書くとき、いつも同じわたくしであるとはどうやって確信できよう。わたくしが素直にうけいれがたく思っているのは、昨日のわたくしと今日のわたくしがあっさりと同一人物だと信じこんでしまう、人びとの信じやすさなのである。ここでは和訳すれば閉じた眼という意味の仏語が当ブログの最初の行に大きく示されているだけであり、しかもそのあとには一人称単数の場合はなかば虚構と書かれているではないか。そこにはまた海外住まいとも書かれており、たとえばわたくしはすくなくとも日常会話としては使うことの稀になった日本語を懐かしみ忘れないようにするためだけに虚構の書き手として一人称単数代名詞の「わたくし」を使ってここでの日記を日課として強制しているのかもしれぬ。他のブログやSNSでみられるような夜郎自大の「自己主張」の言葉のつらなりから遠くはなれた書き物であること、自己同一性の無邪気な確信をたやすくは共有してほしくないために、わざわざ「なかば虚構」であるという言葉が示されているのではなかろうか。また他の可能性だってかんがえられる。日本語を学びつつある息子や妻がわたくしの代りにここに日本語で書かれた文章を写経していることだってありうるのだ。そこにときおりわたくしという一人称単数単数代名詞で感想というのか見解というのかが書かれていたら、それがこのわたくしではなく彼らが書いている可能性だってどうしてかんがえられないことがありえよう。


…………

わたくしは日常会話で一人称単数代名詞を使用するときーーいまは滅多に日本語を使うことはないのだがーー、「僕」という、たまには「私〔わたし〕」と言う。たまには「俺」と言った。

ーーところで、「常用漢字音訓表」(1981年10月1日内閣告示)によれば、私の読み方は次のごとくだそうだ。

「私」の読み方として、訓の「わたくし」と音の「シ」が掲げられています。「わたし」という読み方は認められていません。「わたし」と表したいときは、ひらがな表記になります。(「私」の読み方

で、何が言いたいわけでもない。

「僕」やら「私」という一人称単数代名詞を使わないようにしているだけだ。
使用するのは、「わたくし」であったり、「オレ」であったり
--「俺」とも書かないーー
「小生」であったり、「アタシ」であったりする。

「わたくし」としたり「オレ」としたりすれば、
わずかなりとも自分との距離がとれる気になる。
元来の気質「夜郎自大」がいささかでも隠蔽できるのではないか
という「錯覚」に閉じこもり得る。

ーーというのは古井由吉のパクリさ


わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる」(ヘルダーリン)より

「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(中略)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

どうだい、そこの「夜郎自大」くん。
試してみたらどうだい?
はしたない自意識の尻尾がすこしは隠せるかもしれないぜ

私は、「私」という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理: 1962-1980年の対談集』)

ツイート削除癖のある貴君たちの繊細さは認めるよ

(私はきのう書いたことをきょう読み直す)、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。(痛みやすい果実

最近、記憶力減退が目立ってきたな
「腐りやすい果実」で検索してしまってなかなか見つからなかったのだな
でもそれはそれでいいさ
思いがけない果実に行き当たることが出来る場合もあるから。

ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マンーー1924 ニーチェ記念講演)

さてなんの話だったか
「つけひげ」の話だな
一人称単数代名詞などに過敏になっても
どうせ「つけひげ」ははがれちまうかもな

私は、発表のはじめに、大きなつけひげをつける。しかし、私自身のパロールの波(……)に少しずつひたされて、私はひげが皆の前でぼろぼろとはがれていくのを感ずる。何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)

おのれの発話が他人にウケてしまったとき
つまり、「何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませ」てしまったとき
なにか莫迦なこと言ったんじゃないか、あれは媚態だったんじゃないか、
雄鶏のマネやったんじゃないか
 《coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する》(九鬼周造)

ーーなどと疑念をいささかも抱かない厚顔無恥な輩
ばかりが棲息するネット上の発話には馴染み過ぎるなよ

わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。( 蓮實重彦+川上未映子対談

ーー厳密に言えば、これはそうではないのだけれど、まあそれはそれでいいさ。

《わたくしは、と、いまこの文章を綴りつつあるものは「作者」たることを怖れずに自分自身をあえて一人称単数の代名詞で呼ぶことにする。……》(『物語批判序説』)

一人称単数?
いや二人称単数や三人称だってヤバイ、「貴君」とか「彼」、「彼女」のね

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

前回、このように引用したのだけれど

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。(『彼自身によるロラン・バルト』)

このあと次のように続くのだな

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

エクリチュールというのは修業がいるからねえ
オレには手強いな

彼はいかなる点においても、自分の書物を述語とする主語にはならない。(『作者の死』)
作者、語り手、主人公のいずれを指すのか決定し難い一人称代名詞《私》を用いた独特な言表行為(「マガジーヌ・リテレール」誌〔1979年1月〕のプルースト論)
エクリチュールによって私は、きびしい除外作用に支配されることを余儀なくされる。それは、エクリチュールによって私が世間の常用の(「民衆の」)ことばづかいから分け距てられてしまう、という理由のみによるのではない。もっと本質的な理由は、エクリチュールが私に「自分を表現する」ことをさまたげるというところにある。だいいち、エクリチュールは《誰か》を表現しうるものだろうか。主体の非固形性、そのアトピー〔場所を問わないこと〕を裸かにしてさらし、想像界の疑似餌を撒きちらすことによって、それは、叙情表現(中心的な「心の動揺」をあらわす語法として)いっさいをなりたたなくさせてしまう。エクリチュールは、乾いた、禁欲的な、およそ心情の吐露といったもののない、享楽である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

一時期有名になり過ぎた「引用の織物」もいまでは引用しておくべきか

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。プヴァールとペキッシュ、この永遠の写字生たちは崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真実を示しているが、この二人に似て作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある〔記入の〕動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。仮に自己を実現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。(ロラン・バルト『作家の死』) 

ーーとすればエクリチュール至上主義のように思われるかもしれないから
長くなるがやっぱりネット上ではつけ加えておかなくちゃならない

・『作家の死』を書くという曖昧さと浅く戯れているが故に犯さざるをえない軽率さは、それじたいが浅さの美徳につながるバルトの最大の魅力を構成する。だから、こうした軽率さをいたるところに指摘してまわり、そのことでバルトの理論的な欠陥を批判したつもりになることほど滑稽な振舞いもまたとないだろう。それは、自分を「作者」として登録せずにはいられない「批評家」の、コードへの執着を露呈するのみである。また、バルトに倣って、「作者」はいまや死に絶え、白々とした地平に拡がり出すエクリチュールの時代が始まっていると主張するのも愚かなことだろう。それは二重の意味で愚かな主張である。まず、「作者」はいつでも存在可能だし、エクリチュールもまたつねに存在しているからだ。バルトは、エクリチュールの支配を深く確信してなどいはしない。ごく浅く、それを遊戯に導入してみる楽しみを提案しているまでにすぎない。そもそも、かつて「作者」が支配したようにこんどはエクリチュールの支配する時代が到来するなどといったことが起ろうはずもないのである。支配しないことこそが、エクリチュールのあり方にほかならぬからだ。

・人がエクリチュールに言及しうるのは、それがごく浅い環境として存在と触れあっているからにすぎない。かりに、エクリチュールなるものが濃密な環境として文学の全域に充満していたなら、バルトは間違いなく『作者の死』ではなく『エクリチュールの死』を書いていたことだろう。それは文学の未来を約束する絶対的な善なのではなく、それとごく浅く戯れることでかろうじてコードの「《裏をかく》」ことがありえるかもしれぬ虚構の楽しみの一つなのである。バルトはただ、「作者」を確信する人びとにこの楽しみの共有を慎ましく提起しているのだが、それとて深い意図からでたものではあるまい。

・足首のところまではコードに浸り、いくぶんか「作者」の役を演じ、しかも深みへの埋没をおのれに禁じつつ遊戯を演じつづけようとするとき、その曖昧な虚構をどこまでも維持するために必然的に分泌する汗のようなものとして、軽率さが存在の表皮を保護することになる。(蓮實重彦『物語批判序説』)

ところで次の文を読んでみよう。

長いこと、バルトについて語ることを自粛していた。パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界してから、その名前を主語とする文章をあえて書くまいとしてきたのである。いきなり視界にうがたれた不在を前にしての当惑というより、彼自身の死をその言葉にふさわしい領域への越境として羨むかのような文書を綴ったのが一九八〇年のことだから、もう二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていたことになる。とはいえ、その抑制はあくまで書くことの水準にとどまり、バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない。(蓮實重彦「バルトとフィクション」

上の『物語批判序説』は、一九八五年に上梓されており(この箇所の初出は『海』昭和五十九年三月号)、ここでは厳密に言わなくても、「バルトとフィクション」に書かれた言葉は「嘘」であることが知れる。

で、「嘘」が多い人ね、蓮實さんって、ーーなどとは言わないでおこう、「はったり」屋? そんなことはとっくの昔からわかってる。《知ったかぶりさえできないのはまあ批評のプロじゃないよ》(『闘争のエチカ』P144)

とはいえ、そもそも文章にどうして「嘘」を書いていけないというのか?

ここでまた余談になるが、「野球」評論において、一世を風靡した謎の覆面野球評論家「草野進」女史が実は蓮實重彦のペンネームであったのではというのはそれなりの信憑性のある噂であろう。

・三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ。

・権利としての走塁を阻止する送球の殺意が試合をおもしろくする。

・セーブはどこか堕胎を思わせて不愉快である。

・爽快なエラーはプロ野球に不可欠の積極的プレーである。

(『世紀末のプロ野球』角川文庫より)

この勇ましい「女性」の言葉と、次のように言う「後期高齢者」のぼやきに同じひとの語りを見ないのは難しい。

「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」(インタビュー)W杯の限界 仏文学者・蓮實重彦さん 2014.7.19)

ーーで、やっぱり最近の若い人は「真面目で行儀よくて誠実」すぎるんじゃないかい?

…………

ところで、「賞賛」されると、照れてしまうタイプのひとがいるのであって
下手な称賛は慎むべきなのだろうな

賞讃の効果。 ――ある人たちは、大きな賞讃によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる。(ニーチェ『曙光』 525番)

このあたりも「繊細さ」の問題さ、わかるかい、お嬢さん?

称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。(ニーチェ『善悪の彼岸』 170番)
思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。(『善悪』 184番)

このところ喋りすぎだな
貴嬢貴君の病気がうつったかな
デュラスは「書くことは語らないこと」っていっているわけだしさ
ツイッターやらブログやらはどうしても「語る」ことになりがちなのさ

全然黙っているっていうのも悪くないね
つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ
一度だけかそれともせいぜい二度
精一杯わめいてあとは座っている

ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より