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2014年11月9日日曜日

「いまの痛みか vs 近い将来のより大きな痛みか」

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)


国家のホンネはひとびとが年金受給年齢になったら死んでくれることだ

健康保険金を食いつぶす病者たちははやくお陀仏してくれることだ

失業保険や生活保護だと? 税金払わないやつらは野垂れ死んでくれることだ

国の経営者だったらそう願うのは当たり前だ


ただし優秀な官僚たちは「企業」や「政治家」たちとの配偶関係(その娘や孫娘を娶る)や天下り先などで「えげつない」資本主義に絡め取られているには相違ない。



どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

だが高級官僚たちは少なくともきみたち衆愚のように阿呆ではない
そして「国家」とは税金の収奪装置に決まっている

持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返し(義務)として年貢を払うかのように考え、商人も交換の保護のお返しとして税を払う。そのために、国家は超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。したがって、収奪と再分配も「交換」の一種だということができる。人間の社会的関係に暴力の可能性があるかぎり、このような形態は不可避的である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ごたごた言ってくるヤツがいるから書いているのだが
ーーワタクシが逃げたなどと!
だがすでにワタクシは十分に書いた、以下のようにして。

・「人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる
高齢化社会対策の劇薬
「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)


どうせ読みもしないだろうから、次ぎのごとくを読んでおけばよろしい。これがごく「常識的」な経済学者の見解だ。日本はいったん「劇薬」を飲むべきだという見解とはほど遠いが、このままでは--要するにきみたちのような人情派が猖獗する日本ではーー劇薬をこの数年のあいだに飲むことになるだろう。それもまたいい。「日本はいったん亡びるべきだ」(北野武)。

小黒一正@DeficitGamble11月6日

本当の対立軸は「いまの痛みか vs 近い将来のより大きな痛みか」→(NBO)再増税を巡る対立の本質は「実施 vs 延期」ではない http://goo.gl/gi3bdY
池尾和人 ‏@kazikeo 12月4日(2013)

私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。RT @iida_yasuyuki

きみたちの消費税増反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いあるのにそのことに気づいていない(参照:アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン)。それを阿呆、あるいは完全ロバという。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

もっとも、日本は消費税導入時に、3%などというネズミのションベン的数字で導入した大きな政策的ミスがあったのは否定できない。すくなくとも10%で導入して、その当時、他の税をいくらか下げておいたらよかったのだ。


諸外国における付加価値税の標準税率の推移




というわけで、このたぐいの話はもう御免こうむる。ワタクシはいま忙しいのである。

ーーそうそう、これぐらい読んでおけよ。

クルーグマン教授、“消費増税で国債暴落”論を一蹴 デフレ対策徹底を首相にも直言


話半分にな、そのうち「クルーグマン教授“日本に謝りたい…”」と、またいうかもしれないからな。


2014年11月5日水曜日

われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれない

いちじくの実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。

このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さあ、その果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

さあ、おわかりであろうか、こニーチェの引用から始めたのがなぜか?
なによりも「いちじくの実」が肝要であるのだ。そして澄んだ空が。
甘いいちじくの実を落とすには、あなたは北風でなくてはならぬ。
曖昧模糊とした春の駘風ではいちじくの実は腐ってから落ちるだけだ。

――というわけで、このところ「経済」とか「財政」とかをめぐる論文を眺めすぎたので、気分転換である。


ところで日銀黒田バズーカ砲第2弾が炸裂したがあれは北風だろうか。
澄んだ丘の上から日本の湿り澱んだ空気を吹き払う清い風だっただろうか。
「失われた20年」をさらに引き延ばしたいらしい慎重臆病派の経済学者たち
あの「下士官道徳」の連中を震えあがらせる冷気を送りこむことができただろうか。

もしあなたが北風種族であるならば、
反リフレ派と称されるらしい慎重臆病派の彌縫的睦言よりも

弱気な連中を蹴散らかす軍の司令官黒田東彦のギャンブルを

よりいっそう好むべきではないか、

――などと書けば懐疑派の経済学者たちやらその取り巻き連中が
このなにも分かっていないドシロウトが戯言を書きよって! 
とノタマウに相違ない。

連中は「失われた20年」を「失われた40年」にしたい種族である。

連中も彼らの睦言を守っているだけでは

2030年代には遅くとも財政崩壊があることを知っている

ただ黒田の博打ではそれが5年先に早まる可能性がある
(いや2年先かもしれないし、もっとはやいかもしれない)
それを怖れているのではないか


黒田日銀はその可能性を怖れつつも、
2、3割はありうるだろう好転に賭けている

――そうではないだろうか、と問いを発するのも

ディレッタントでしかないいまこうやって書きつつあるこの阿呆である


この阿呆のよりどころになるひとつの文を示そう。

敬愛すべき慎重派のすぐれた経済学者池尾和人氏の

アベノミクス導入前の冗談めかした「ホンネ」が滲み出ている文である
いやこの阿呆にはそういう錯覚に閉じこもらせてくれるに過ぎないが。

この記事は5年前に書かれたものとしてすばらしい
現在起こりつつあることを説明してくれるもするし
かつまた慎重派の経済学者が何を「誠実」に怖れているのかも明かしてくれる。


ある財政破綻のシナリオ--池尾和人(2009.10.4)

先の池田さんの記事へのコメントですが、字数の関係で記事にします。

現在は、資本移動も自由だし、金利規制もない(10%以上のインフレになると、利息制限法が制約になるが...)ので、3%とかいった緩やかなインフレで、政府債務の軽減を図れるとはあまり期待できません。これは池田さんもよく分かってらっしゃることですが、むしろインフレ期待の発生が財政破綻のトリガーを引くことになりかねないと考えられます。

すなわち、インフレ期待が生じると、既存の国債保有分については、インフレによる損失を回避するために、その前に売却しようという動きが生じることになります。これは、国債価格の暴落=長期金利の急騰につながります。投資家が、何もせずに、インフレによる債務の実質カットを甘受し続けることはありえません。

このことを避けようとして、日本銀行が買いオペをして代わりに現金を供給しても、インフレで価値が低下することが分かっている円をキャッシュのままで持ち続けようという者はいないはずですから、外貨建て資産や実物資産への転換が図られることになります。前者であれば、円安を招くことになって、輸入物価の上昇につながります。

こうしたことから、インフレ・スパイラルに陥る可能性が高く、安定的に穏やかなインフレ状態を続けることは難しいと思います。
かりに穏やかなインフレ状態が続くということになっても、その場合にも、固定利付きの長期国債の発行は難しくなります。物価連動債にするか、債務の短期化を強いられます。引き続き固定利付きの長期国債が発行できたとしても、フィッシャー効果で名目金利はインフレ期待分上昇しますから、借り換えと新規発行分の政府の負担は軽くなりません。インフレになると、税収が増える効果もありますが、歳出の名目額も拡大せざるを得ないので、財政赤字は続きますから、政府は国債の借り換えと新規発行を続けなくてはなりません。

ところが、インフレ・リスクが高まると、投資家の警戒感も高まることから、国債の入札に失敗するといった事態が起こる可能性も無視できなくなります。そして、国債の入札が不調に終わったといったニュースが流れると、ますます国債の借り換えと新規発行がしがたくなって、ついには政府の資金繰りがつかなくなり、公務員給与の遅配や(夕張市のように)病院のような基礎的サービスの供給にも支障が生じることが想定されます(これは、櫻川くんがちらっと言っていた財政破綻のシナリオ)。

要するに、むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)

…………

ここで二度も次期日銀総裁として「絶対視」されたのに、
政局のせいで(民社党にキラワレタせいで、ーーことさら小沢一郎にーー)、
日銀総裁の地位を棒にふってしまった武藤敏郎氏
ーー黒田東彦氏は当時ダークホースにすぎなかったーー
の記事をいくらか掲げよう。
彼であるなら量的緩和はより穏健であったかもしれない。

ただし、現在すこぶる過激な社会保障制度改革を提案している。
慎重派の反リフレの経済学者がアベノミクスに反対するのは
それはそれでよろしい。
だが彼らからこういった「別の道」をさぐる具体的な提案
まともな社会保障制度改革案さえ提議されないのは
なにゆえであろうか、ーーここでもまた「逃げ切る」つもりであろうか?


「日本の社会保障制度を考える」(武藤敏郎)より。

国民の中では、「中福祉・中負担」でまかなえないかという意見があるが、私どもの分析では、中福祉を維持するためには高負担になり、中負担で収めるには、低福祉になってしまう。40%に及ぶ高齢化率では、中福祉・中負担は幻想であると考えている。

仮に、40%の超高齢化社会で、借金をせずに現在の水準を保とうとすると、国民負担率は70%にならざるを得ない。これは、福祉国家といわれるスウェーデンを上回る数字であり、資本主義国家ではありえない数字である。そのため、社会保障のサービスを削減・合理化することが不可避である。


◆社会保障改革 武藤敏郎 (大和総研 2013.8.11

日本の総人口は2008年をピークに減少し続け、2050年代には9000万人を割り込むと推計される。総人口は約60年前に戻るだけだが、問題は高齢化率(総人□に占める65歳以上の割合)だ。現在の23%(2010年)から、2060年には約40%になる。国連の定義では高齢化率が21%を超えた社会は「超高齢社会」である。超高齢社会を維持するには、人数が減った現役世代の生み出す付加価値によって、人数が増加した高齢者の生活を支えていかねばならない。現行の社会保障制度をそのまま続けることは不可能だ。

現行の社会保障制度を維持しつつプライマリーバランスを均衡させるには、国民負担率(税と社会保障の負担が国民所得に占める割合)を現在の4割から7割近くまで引き上げねばならない。しかし、これでは働く意欲を衰えさせ、経済に悪影響をもたらしかねない。福祉国家と言われ、かつては国民負担率が70%を超えていたスイゥーデンでも、現在は59%程度に下がっている。

では、いったいどの程度まで国民負担率を増やし、給付を削れば社会保障制度を持続させることができるのだろうか ―。

国民負担率は現在の欧州諸国に近い60%程度を超えないように設定し、消費税率は25%まで引き上げることが可能だと想定してみた。その上で、①年金支給開始年齢を69歳に引き上げ②70歳以上の医療費自己負担割合を2割へ引き上げ ― など思いきった給付削減を想定した。

しかし、この程度の改革では社会保障制度を維持できないばかりか、プライマリーバランスの構造的な赤宇も解消できず、国の債務残高は累増し続ける可能性が高いという結論になった。要するに、社会保障の給付削減と負担増を図るだけの従来の発想の延長では、問題を解決する処方箋は容易に描けないのである。

超改革シナリオとは、政府による直接的な給付をナショナルミニマム(国による必要最低限の保障)に限定して国民皆年金や皆保険を維持する一方、民間部門の知恵と活力を総動員して国民が自らリスクを管理していく発想である。

超改革シナリオでは、前述した改革シナリオの内容に加え、①公的年金の所得代替率(その時点の現役世代の所得に対する年金給付額の比率)を現在の62%(2009年財政検証時)から、40%に引き下げる医療費自己負担割合を全国民一律 3割とする③介護給付の自己負担割合を現在の1割から2割に引き上げる― など給付削減と受益者負担の引き上げを行うこととした。

結論を言えば、この超改革シナリオでは、プライマリーバランスが黒字化し、財政の債務残高そのものをGDP対比で減らしていくことができ、社会保障制度を確実に持続可能なものにしていくことができる。社会保障改革の在り方を、大きな政府か小さな政府かという視点ではなく、超高齢社会において機能する政府とは何かという視点で考えることが重要である。


◆「中福祉・中負担は幻想」 武藤敏郎氏 2013年9月12日

斎藤 それでは、日本の国民負担率は長期的にみてどの程度にすべきだと考えているのですか?

負担は5割増福祉は2-3割減

武藤 ここには学問的答えはありません。先ほど言いましたように現在の日本は38%と低い。借金に頼っていますから、表面的な租税負担率は低く、低負担社会です。半面、現行の制度を続け、同時にプライマリーバランスを均衡させれば国民負担率は70%程度になる。どの程度にすべきか。世界の例をみて考えるしかない。現状、フランスは60%、ドイツは50%、英国は47%、財政規律が弱いと見られているイタリアでも62%、スェーデンはかつて70%近かったのですが今は59%。日本の高齢化率は先進各国の中で最も高く、いずれ40%になる。そうした状況をふまえ総合的に考えた上で、日本の将来の国民負担率は60%を何とか下回る水準にとどめられないかと考えた。それにあわせた社会保障というのがどのようなものになるかを思考実験してみた。(図表2参照)





斎藤 つまり「中福祉・高負担」ということですか?

武藤 国民負担率が60%超なら高負担とか55%なら中負担と言うべきかどうか……。いずれにしろ、これまでは財源を国債に依存していたのだから、負担は今よりもかなり上げる。一方福祉水準はかなり下げる。それがだいたいのイメージでしょう。国民負担率を40%近くから60%近くに上げるのですから負担は約5割上がる。一方社会保障水準はおそらく2-3割下げるということでしょう。負担を5割上げて、福祉水準が2-3割下がるのでは、辻褄が合わないように感じると思いますが、これは、これまで国債に頼っていた分を減らし、プライマリーバランスを改善させなければならないからです。現在の日本の福祉は、国際的に見てもかなりいい水準にあります。

例えば、年金の給付額も為替レートにもよるが、換算してみるとドイツやフランスと比べてもそん色ない。医療サービスにいたっては、むしろレベルは高い。医者の数は多く、病床数も多い。日本くらい簡単に医者にかかれる国はないのではないか。まあ、保育所だとか児童手当の水準なんか少子化対策はまだ十分ではないかもしれないが、中福祉よりは高福祉に近い水準にあると思う。

斎藤 福祉水準が2-3割下がるとはどういうことですか?

武藤 私たちは分析にあたっては、社会保障の受益者が得るサービスについて「所得代替率」という概念を使いました。年金受給額の水準を測る時によく使われる概念を、福祉全体にも適用して考えるということです。つまり65歳以上の高齢者一人あたりの社会保障給付額、これには年金受給額や医療サービス、介護サービス受給額などが含まれますが、この合計額を生産年齢人口(15-64歳)一人当たりの平均所得で割ってはじいた比率です。この比率を福祉水準を測る尺度として分析してみた。

現在、この社会保障の平均所得代替率は82.4%です。これが3割下がるということなら57.7%になる、2割下がるなら66%になるということです。今世の中で広く議論されている中で最も厳しい削減案だと思います。

斎藤 具体的には?

武藤 たとえば年金の支給開始年齢を69歳まで引き上げる。世界をみても2030年くらいに向けて67,68歳に上げていくという流れになっている。日本は高齢化のフロントランナーです。平均寿命も健康寿命も最も高い国の一つだ。

政府は、受給開始年齢を2030年度までに順次65歳まで引き上げることを決めていますが、このペースを早めたうえで、2025年度以降、2年に1歳のペースで69歳まで引き上げるという案です。

70歳以上の高齢者医療の自己負担は現在、政治的な配慮もあって1割になっていますが、これを75歳以上も含めて2割に上げたらどうかと考えた。さらに安価なジェネリック薬品の普及を一段と押しすすめる、などです。消費税も2020年代を通じて20%程度まで引き上げる。私たちはこれを「改革シナリオ」と呼んでいるのです。

ところがこれでも国家財政の収支を計算してみると、財政のプライマリーバランス(基礎的収支)は均衡しない。年々の赤字は縮小するが、赤字は出続ける。債務残高の対GDP(国内総生産)比率は250%あたりのままほぼ横ばいになる。

斎藤 それではまだ不十分ということですか?

武藤 ええ、国の財政を破たんさせず、社会保障制度をサステイナブルなものにするにはプライマリーバランスを黒字化させ、GDPに対する債務残高の比率を引き下げていかなければならない。

斎藤 ずいぶん厄介なことですね。

武藤 そうです。改革シナリオでも不十分と言うことは、事態は非常に厳しいということです。


この消費税25%、社会保障費3割カット案における財政再建シミュレーションの国債金利設定は次の通り(大和総研「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」2013より)。

長期金利(10 年国債利回り)は、2010 年代で平均 1.5%、2020 年代で同 2.5%、2030 年代で同 2.6%と予想している。名目成長率と長期金利の関係をみると、2020 年代中頃までは成長率の方が高く、2020 年代後半以降は金利の方が高い状況を予想している。財政にとって好ましい状況が 2020 年代中頃まで長期に続くかという点には反論があるだろうが、物価上昇率 2%を目指す金融政策は超長期にわたる低金利政策を余儀なくさせ、短期金利がアンカーとなって長期金利もファンダメンタルズからいえば低い状況が続くと見込む。長期金利の推移としては、政府の債務残高 GDP 比が緩やかに上昇していく中で、 2010 年代までは 2000 年代と同程度の水準で推移した後、 デフレ脱却後の短期金利の正常化に伴って 2020 年代以降は 2~3%へ上昇すると見込んでいる

ここで財政状態の悪化に伴うプレミアムの発生で長期金利が上昇する「悪い金利の上昇」は想定していない。これは、過去の経済構造に依存するマクロモデルの特性上、そうした恣意的なシナリオを予測に反映できないためである。しかし今後も財政赤字が改善しなければ、債務残高は現在よりもはるかに高い水準に達し、いつかは財政プレミアムが金利を大きく押し上げる局面を迎えるだろう。この点、本予測は実体経済の状況のみを反映した楽観的な見通しといえるかもしれない。
……今後も財政状態の悪化が金利上昇を招かないということを何ら保証しない。現在の政府の歳出と歳入の構造を前提とすれば、多少楽観的な日本経済の姿を描いたとしても、財政収支や政府債務残高の見通しは極めて厳しいものになる。そうした状況下で財政再建や社会保障制度改革を取り組む姿勢が政府と国民に見られなければ、国債市場の参加者がリスクプレミアムを求めるようになるだろう。悪い金利上昇(国債価格の大幅な下落)が起きる可能性は決して小さくないと考えるべきである。

 


こうした問題意識に対しては、 日本国債の大半は日本国内で消化され、 外国人の保有比率が 1割以下と十分に低いので懸念する必要性は小さいという見方がある。言い換えれば、現在、日本は経常黒字国であり、経常黒字国の財政赤字はさほど深刻ではないという見方である。

この苛酷なシミュレーションでも、国債利回りがここにある設定よりも上がってしまえば、プライマリーバランスは黒字化されない。たとえば野口 悠紀雄氏の「金利上昇がもたらす、悪夢のシナリオ」における4%設定などだったらーー野口氏のやっているのは単純化されたモデルであり、実際は仮に金利が高くなっても、新規発行分と借り換え分のみに適用されるため、トータルの金利上昇はゆっくり進むーー、どう社会保障費削減しても、消費税40%にしても、プライマリーバランスは黒字にならないだろう。とすれば累積財政赤字がいっそう増えていくことになる。



2014年10月31日金曜日

「日本の財政は破綻する」などと言っている悠長な状況ではない?

財政制度等審議会会長の吉川洋東大大学院教授曰く、

 --消費税増税を延期すべきだとの声が高まっている

 「予定通り来年10月に10%に引き上げるべきだ。そもそも、消費税増税の目的は社会保障制度を持続可能な制度にするためだ。高齢化で年金、医療、介護の給付金など支出が膨らみ、現役世代が払う保険料だけでは賄えない分を税金で支えてきた結果、日本は国内総生産(GDP)の2倍超の財政赤字を抱えることになった。大きな戦争が起こっていない平和な国で、この巨額の赤字は異常だ。放置すべきではない」(吉川洋・東大大学院教授に聞く 社会保障維持へ10%判断を

吉川洋氏は2009年に次のように語っている。


一人っ子家庭が増加するにつれ、若者たちは 「結局は年老いてからひどい扱いを受け、蔑まれることになるのに、若い時分に自分の望みを押さえ生活を窮乏にしなければならない理由がどこにあろうか」と考えはじめる。また「なに よりも女房と子供のために働きかつ貯蓄せん」 という動機は失われ、個人主義的功利主義が支配するようになり、人々は「ただ将来のために働くことを命ずる資本主義的倫理をも喪失する に至る」とする。吉川は、 「シュンペーターによれば、優良な 投資機会が少なくなるということで資本主義は滅びはしない。それは家族の変容を伴いながら 企業家精神が喪失されることにより自壊するのである」と結論づけている。(『企業家精神―シュンペーター『経済発展の理論』財務総合政策研究所研究部長 田中 修)

…………

ところで知る人ぞ知る『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』なるものがある。研究会発足にあたる2012年時点での問題意識は、《われわれは日本の財政破綻は『想定外の事態』ではないと考える。参加メンバーには、破綻は遠い将来のことではないと考える者も少なくない》とされている。

2012622日の第1回会合では、三輪芳朗氏の《もはや『このままでは日本の財政は破綻する』などと言っている悠長な状況ではない?》という論点メモが提出されている。疑問符をつけているのがやや遠慮深いとはいえるが、経済理論的にはいつ財政破綻してもおかしくない状況でまた回避できようもないのだから、そんな「悠長な」ことはやめて「その後」を考えようというものだ。これは冒頭に掲げた吉川洋氏のいまだあきらめきれない「誠実な」立場とは異なり、一見「ひねくれた」、あるは「やけくそ気味」の人たちの集まりとも感じれれる。

 メンバーは次の通り。




直近の会合の概要欄(第21回2014.8.27)には次のようにある。

日本の深刻な財政危機状態や2%の物価上昇率を目標に掲げる日銀の歴史的な積極的金融緩和策が続行されるなか、8月末時点の長期債の最終利回りは0.5%を下回っている。ある意味、不可解な現象である。われわれは過去2年間「現状の日本でなぜ国債価格の大幅下落、急激なインフレを伴う「財政破綻」は現実化しない、その予兆も見えないのはなぜか・・・?」という問題意識を抱き、研究会を続けてきた。そして過去数回の研究会では、日本の国債価格の形成メカニズム、とりわけ投資家の期待形成メカニズムや資産選択行動を解明する糸口を求めて関連するファイナンス研究について見てきた。

 エライ学者先生にとってはーーあるいは「とっても」ーー、国債価格が下落しないのは《不可解な現象》なようだ。実際、日銀首脳もアベノミクス導入後、つねに国債価格の下落を怖れている。


来年10月予定の消費税再増税について「増税で景気が落ち込みば財政・金融政策で対応可能だが、延期で国債価格が下落(金利は上昇)すれば対応が難しい」との持論を繰り返した。「今のところ政府の財政再建の方針は守られている」と増税決行に期待を示した。(追加緩和手段に限界ない、現時点で議論不要=黒田日銀総裁 2014.9.11)


──異次元緩和後の金利動向をどうみているか。

「金利に対しては2つの違う働きの効果が働いている。国債を大量に買い入れたため、名目金利やリスクプレミアムは下がる。一方、予想インフレ率が上がることで名目金利が上昇する要素もある。金融政策の結果、予想インフレ率が上昇し、実質金利が下がっているかどうかが一番大事だ。そうでなければ株や為替、実体経済に対する影響が出てこない。(現在の実質金利は)BEIでみるとマイナスだ」(岩田日銀副総裁インタビューの一問一答 2103.6.24)

これらの「懸念」のよってきたるところの大きな理由のひとつを池尾和人氏は次のように説明している。

 「日銀が大量の国債を買い取ることで、これまで民間部門が保有していた国債が減るために、国債の需給が引き締まり、長期国債の利回りは低下する要因となるはず。一方で他の資産市場にシフトして国債市場から離脱する市場参加者の方が多ければ、かえって需給が緩み、結局利回りは下がらない。何らかのストレスが市場に発生することで、財政に伝播してしまうリスクや、金利上昇の際のリスクが大きくなったともいえる」と不安を示す。

ただし「何が起こるかは、民間金融機関の行動次第だ。買えるだけの国債は買った上で買えない部分だけ外債投資に移すのか、あるいは、国債市場から離脱して他の投資先を本格的に求めていくのかによって、生じる結果も変わる。確定的なことはわからない」として、今後の市場の動きを見極める必要性を指摘する。

さらに大きなリスクとみているのは、デフレから脱却して景気が回復すれば、金利が上昇し、利払い負担が膨らむこと。「これまでは、デフレのもとで財政が奇妙な安定を保ってきたが、デフレから脱却して金利が上昇すると、財政の安定が崩れるというリスクがある。その際、成長率上昇による税収増と利払い費の比較になる。税収に比べて利払いが大きくなっているので、成長率が1%上がった場合、金利も1%上がると、税収増より利払い増が大きくなり、資金繰りが苦しくなる」というものだ。

そのうえで、デフレ脱却を目指す以上、財政リスクへの備えが欠かせないと指摘。「これだけの公的債務を抱えている国の首相が、金利上昇方向の政策を推進し、大胆な緩和策をとる以上は、それに見合った財政のコンティンジェンシープランが必要だ」と強調する。(インタビュー:利払い負担で資金繰り苦しく、財政不安定化も=池尾教授

※参照:



冒頭に掲げた学者先生たちを「ひねくれた」と書いてしまったが、それでは、あれら

『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』メンバーにはひどくシツレイである。ただマスコミを軽くあしらう癖はあるメンバーであるようで、その議論はあまり知られていないということはあるだろう。

……数日後、来年の日本経済に関する予測特集を組む予定だという経済誌の記者から、「先生が主催されている『財政破綻後の日本経済』の姿に関する研究会について一度お話を伺えませんか?」というメールを受け取った。「毎回議事録を掲載しています。あれ以上に具体的に何を聞きたいというのですか?」と返信した。「日本財政はどういう帰結をたどる可能性が高いか」「その結果、何が起きるのか(国債デフォルトあるいはハイパーインフレ?)」「財政破綻を防ぐにはどうすれば良いのか?」など6項目だという。「議事録を読んで聞きたいことを明確にしていただけませんか?マナーというものがあるでしょう」という返信に対する、数時間後の「大変失礼しました。申し訳ありませんでした」という回答で終了した。多くの「関係者」にとって、「想定外の」内容の議論・研究会であることを象徴するように見える。  年金受給年齢に達した生活者としてはあまり現実化して欲しい内容のものではない。そういう「利害」を棚上げして、内容を真摯に受け止め、積極的に議論に参加したメンバー各位に深謝します。


実際、彼らは「誠実な」ひとびとの集まりであり、第一次世界大戦後のドイツの財政破綻によるハイパーインフレーションなども「真摯に」研究されており、そこにはこうある。


ドイツのインフレ、あの有名なhyperinflationが現実化したのは1923年秋の8月から11月の短期間であり、ドイツ皇帝が退位した1918年11月やVersailles条約調印の1919年6月から4年以上経過後のことである点に何よりも驚いた。敗戦後の混乱した状況下ですぐに現実化したのではない。敗戦後もかなりの率のインフレが進行し、1922年の高率のインフレの後に半年間以上の安定期を経て、1923年8月から11月までの短期間に物価水準が107倍(つまり10,000,000、1千万倍)になるというhyperinflationが現実化した。これに比べれば、先行する時期のインフレ(あるいは第2次世界大戦後の日本のインフレ)もかすんでしまうだろう。

この発表をされた福井義高氏のメモにはこうある。

意外に悪影響の少ない劇薬? 
・長期的視点でみれば、単なる一時的落ち込み
・ 政治的影響も小さい 
・(ハイパー)インフレのメリット – 最終局面を除き、低失業率の実現 
・国民の広い範囲にインフレ利得者が存在
・日本への教訓 – ハイパーインフレ恐るるに足らず? 
むしろ究極の財政再建策として検討すべき?


ーーなかなか過激な見解である。物価も、たとえば500円のざるそばが5万円(百倍)になれば驚くが、50億円になれば(1千万倍)笑ってすますことができるかもしれない。北野武の「日本はいったん亡びたほうがいいんじゃないか」、という発言のヴァリエーションのようにさえ思える。これを読むと岩井克人の見解などひどく「常識的」にみえてしまう。彼らは、いったん日本の財政は崩壊して新たに出直すべきだという議論までしているのだから。

……デフレはすべて悪であるが、インフレはすべて善ではない。それは、さらなるインフレを予想させてインフレをさらに強めるという悪循環に転化する可能性を常に秘めている。その行き着く先であるハイパーインフレこそ、貨幣の存立構造それ自体を崩壊させる最悪の事態である。

好況は多数の人が永続することを願っている。その多数の声に逆らって、善きインフレが最悪のハイパーインフレに転化するのを未然に防ぐ政策を実行すること、それが中央銀行の独立性の真の理由である。しかし、その心配をするのはまだ早い。いまはインフレ基調の確立により総需要が刺激され、日本経済が長期にわたる停滞から解放されることを切に望むだけである。(「日本経済新聞2013年3月14日 経済教室 岩井克人」)

財政破綻後、食料確保の次に懸念されるだろう医療についても、東京大学医学部の橋本英樹氏から「財政破綻は医療を破綻させるか? 話題提供のためのメモ」などにより検討されている(内容はいまは割愛)。

ひとが不安に思ったり驚愕したりするのは、たとえば経済小説家の橘玲氏による「20XX年ニッポンの国債暴落」に叙述される程度のハイパーインフレであり、数カ月でざるそば一杯が50億円になれば、場合によっては一部の人はお祭りのような気分にさえなりうるものかもしれない。バタイユもどきの過剰な蕩尽によるトランス状態,飲んだり喰ったり,踊ったり姦淫したり,この狂騒的リズムーー。

実は消費税増反対をくり返している「左翼」のひとたちも、蕩尽を、内心ーー仮に無意識的にであれーー、望んでいるのなら、なかなかの器である。先日、「左翼」の論客を貶してしまったが、彼らの器量はひょっとしてわたくしに窺い知れない偉大なものがあるのかもしれない。いたずらな嘲笑は、わたくしの凡庸さのなせる技であった。『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』の学者センセの議論を読んで反省することしきりである。ーーシツレイしました!

外苑前で2万円のビジネスランチを食べ、麻布十番の顧客を訪問する。50歳でリタイアし、マレーシアで海外移住生活を送っていたのだが、円安と地価の下落を見て、外貨資産を円に戻して日本に帰ってきた「海外Uターン族」だ。

彼ら新富裕層のおかげで、私は会社でトップ5に入る営業成績を維持できている。目標に到達できなければ問答無用で解雇されるが、成績次第で青天井の報酬が支払われる。私が以前勤めていた電機メーカーはインドの会社に買収され、「同一労働同一賃金」の原則のもと、いまでは日本人社員もインド人と同じ給料で働いている。

今日は早めに仕事を切り上げて、6時の特急電車で南アルプスの家に帰る。

金融危機とそれにつづくハイパーインフレで、私の実家も妻の実家も、祖父母が年金だけは生活できなくなった。そのうえ父と義理の父がリストラされ、路頭に迷ってしまった。それで田舎に3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らすようにしたのだ。同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。

東京駅前には、赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まっていた。その枯れ枝のような細い腕を掻き分けて改札を通り抜けると、5000円のビールとつまみを買ってあずさのグリーン席に乗り込む。平日は都心のワンルームマンションで単身赴任し、週末に家族の待つ田舎に戻る生活を始めて1年になる。

プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込む。この週末は、失業した妻の弟が、いっしょに暮らせないかと相談に来ることになっている。娘の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員がわたしを頼っているのだ。

中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。

…………

ところで、国債価格が下落しない《不可解な現象》が起こっているのはなぜなのか? ここではわたくしが依拠するところの多い「常識的な」岩井克人センセにもういちどお出まし願おう。

【ケインズの「美人投票」の理論】(岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』より

ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。

ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。

ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。

というわけで、日銀首脳もある種の経済学者も、《ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性》を怖れているわけだ。そしてその動因のひとつが、消費税増延期によって、日本は財政破綻の回避に真剣に取り組む気がないんじゃないか、という「あやふやな噂」が市場関係者のあいだで流通してしまうことになるのだろう。

これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。(「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)


ケインズの「美人投票論」というのは、市場関係者の「欲望」にかかわるのはよく知られている。ドゥルーズ&ガタリは、「通貨の問題」と書いているが、「国債価格の問題」を代入して読んでおこう。

ケインズがいくつか貢献したことのうちのひとつは、通貨の問題の中に欲望を再び導入したことであった。こうしたことこそ、マルクス主義的分析の必要条件にあげられるべきことなのである。だから、不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが大抵の場合多くは、生産様式の考察や『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていないということである。(こういった点にこそ、マルクスに回帰する(つまり、マルクスの通貨理論に回帰する)意味があるのである)。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)

2014年9月28日日曜日

「左翼っぽいこと書いてるくせに、真摯な「左翼」を罵倒」だって?

偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」にコメント貰ってるがね
飛んで火にいる夏の虫だから、無視せずに応答しとくよ

左翼っぽいこと書いてるくせに、真摯な「左翼」を罵倒だって?

ーーああすまなかったね
でもそんなの、ほかにもいくらでもあるぜ
たとえばこれもそうだな→ 「経済なき道徳は寝言

このところ顕揚している野間易通だって、
「消費税反対」の主張ってのは彼の「現場主義の限界」だね
結局、弱者の首をしめる見解じゃないか、あれは

オレはフリードマンの「負の消費税」か、
BIかしかないんじゃないかという考えだな

前から言ってるけど、人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない今、ベーシック・インカムのようなドラスティックな方法を取る必要があると改めて痛感するね(田中康夫「憂国呆談」)

参照:「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)

それか、早く消費税20~25パーセントに上げて
しかも社会保障費三割カットしないとどうしようもないんじゃないか

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)より)

社会保障費カットなんて選挙でかわるわけがないんだから
老人が大半を占める選挙でさ
若い者たちが「搾取」されるのが続くだけさ

(インフレ政策で年金スライド制やめて実質三割カットなんだろうか
深謀遠慮の「誠実な」高級財務官僚が考えている「効果的な」施策のひとつは)

経済学的に考えたときに、一般的な家計において
最大の保有資産は公的年金の受給権です。

今約束されている年金が受け取れるのであれば、
それが最大の資産になるはずです。
ところが、そこが保証されていません。》(池尾和人


(ネオナチの猖獗なんてのも根にはこれがあるんじゃないかと憶測するぐらいでね
まあそんなことはこっそりしかいえないのだが)

アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。(……)

現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。(資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連

「戦争」の選択肢とりつつあるの、このせいじゃないか、実のところは。
戦争だけはやめとけよ、デフォルトのほうがましだぜ


まあこれは高みの見物ってところで、
日本に住んでたら消費税増反対してるさ、もちろん!

消費税大幅増と社会保障費三割カットしないと
どうあがいてもデフォルトの道しかないってのは
有能な「経済学者」であればーーもちろん例外の見解はあるけれどーー
分かっていて、だがなかなか言い出せないだけさ

彼らも経済学者である前に高齢者もしくは高齢者予備軍だからな
ひっそりと「逃げ切る」つもりだったのさ
アベノミクス反対なんてのもさ、資産・貯蓄の目減り政策だからな

むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10ーーアベノミクスの博打

…………

「公共的合意」じゃあラチがあかないんだよ

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

《人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。》(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231)

まあたまには選挙で「奇跡」が起こることもあるけれど、
社会保障政策変更の奇跡は起こりえないな。

《中長期の課題は、短期の課題が片付くまで棚上げにしておきましょうという話は成り立たない。》(池尾和人「経済再生の鍵は不確実性の解消」2011 fis.nri.co.jp/ja-JP/knowledge/thoughtleader/2011/201111.html )

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)


2014年7月24日木曜日

二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障

最近、NHKスペシャル「認知症を食い止めろ」で「ユマニチュード」というフランス生まれの介護法が紹介されたそうだ。(「ユマニチュード」という言葉の意味は【人間らしさの回復】)

この「ユマニチュード」とは直接関係がないが、ーーいや、すばらしい介護ケアのあり方だが、金がかかるのだろうな、というごく凡庸な感想を抱いたわけではあり、それにかかわる家族と社会保障政策をめぐって、ここでいままで何度か断片的に引用してきた三種類の文献をやや長目に並べておく。

◆中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収




もし、現在の傾向をそのまま延ばしてゆけば、二一世紀の家族は、多様化あるいは解体の方向へ向かうということになるだろう。すでに、スウェーデンでは、婚外出産児が過半数を超えたといい、フランスでもそれに近づきつつある、いや超えたともいう。同性愛の家族を認める動きもありこちで見られる。他方、児童虐待、家族内虐待が非常な問題になってきている。多重人格は児童期の虐待と密接な関係にあるという見解が多いが、その研究者で治療者のパトナムは、その主著『解離』の最後近くで「児童虐待をなんとかしなければ米国の将来は危ない」という意味のことを強調している。

しかし、外挿法ほど危ないものはない。一つの方向に向かう強い傾向は、必ずその反動を生むだろう。家族の歴史というものはあるけれども、その中にどうも一定の傾向はないようだ。地域によっていろいろあり、時代的にもいろいろあるとしか言いようがない。

人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。心理だって、そう変わっていまい。そして、生理と心理は予想以上に密接である。

だから、えいやっと、人類にまで立ち返って、うんと遠くから眺めてみよう。遠くから眺めると小さな誤差や揺れは消えてしまうので、かえって見やすい。そして、家族は、人類が原初から持っている矛盾の中から生まれてことが見えてくるだろう。

2~7節略



ヒトの千世紀ほどの長い歴史の中で家族に代わる発明はついに起こらなかった。ただ、家族と社会との軋轢が生じた。家族問題の大部分は家族と社会の接点で起こる。

家族内部のことは実際、個人内部以上にわかりにくい。これは精神科医としての実感である。一つ一つの固有の匂いがあり、クセがあり、習慣があり、当然とされていることと問題となることがある。家族を一種の「深淵」にたとえたことがある。

家族の形態は実に多種多様で、どんな形が現れても驚くに当たらない。しかし、家族なき社会は知られていない。ギリシャ、ローマ、あるいはアメリカの奴隷制でも奴隷に家族を認めている。でなければ奴隷は働かない。近代になっても、家族をやめて、共同体に換えようとした例はけっこうあるが、理想どおりに行ったことはなく皆短期間で崩壊した。最近の実験はカンボジアにおけるポルポトの家族性廃止である。ナチスの強制収容所でも家族を認めなかった。しかし、それ自身が処罰であった。


ただ、二〇世紀には今までになかったことが起こっている。(……)百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。

しかも、ヒトは依然スズメ型の力を潜在させている。生活が困難になればなるほど、産児数が増える。いや現に人類の八割は多産多死である。スズメ型である。ちょうど気候不順の年に花がよく咲いて実を稔らせるように私たちの中の自然が産児を増やしているのであろうか。逆に、快適な生活をした社会は産児数が減る。現在のフランスで二〇世紀初頭のフランス人でだった人の子孫は何割もいない。過去のギリシャも、ローマもそうであったと推定されている。少産少死型の弱点は、ある程度以下になると、種の遺伝子の弱点が露呈することだ。また、個体が尊重されるあまり、規制力が弱り倫理が崩壊することだ。

冷戦の終わりは近代の終わりであった。その向こうには何があったか。私にはアメリカがローマ帝国と重なって見える。民族紛争は、ローマ時代のローマから見ての辺境の民族の盛衰と重なって見える。もし国家というタガがはまっていなかったら、民族紛争が起こり、あっという間に滅ぶ民族が出ただろう。二十数個の軍団を東西南北に派遣して、国境紛争を鎮めるのに懸命だったローマと、空母や海兵隊を世界のどこにもで送る勢いのアメリカとが重なる。市場経済などは当時からあった。グローバル・スタンダードもあった。ローマが基準だった。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(……)。
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今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。

それは不幸な消滅の仕方であり、アルミニウムの有害性がはっきりして調理器から追放されてアルツハイマーが減少すれば、それは幸福な形である。運動は重要だが、スポーツをしつづけなければ維持できにような身体を作るべきではない。すでに、日本では動脈硬化は非常に改善しており、私が二〇歳代に見た眼底血管の高度な硬化は跡を絶った。これは、長期的には老人性痴呆の減少につながるはずである。もっとも、長寿社会は、二〇年間で済んだカップルの維持を五〇年間に延長した。離婚率の増大はある程度それに連動しているはずだ。

むしろ、一九一〇年代に始まる初潮の前進が問題であるかもしれない、これは新奇な現象である。そのために、性の発現の前に社会性と個人的親密性を経験する前思春期が消滅しそうである。この一見目立たない事態が、今後、社会的・家族的動物としてのヒトの運命に大きな影響をもたらすかもしれない。それは過去の早婚時代とは違う。過去には性の交わりは夫婦としての同居後何年か後に始められたのである。
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問題はまだまだある。近親姦はアメリカでは家庭の大問題で、日本でもけっこうある。わたしは、その一部は、幼年時代からの体臭の共有が弱まったからではないかと思う。父親は娘には女性の匂いを性的に感受しないのが普通であった。娘だけは「無臭」なのであり、近親姦のタブーは生理的基礎があってのことだと私は思う。胎内で接した蛋白質を異物と感じない「免疫学的寛容」と同じことが嗅覚にも起っていると考える。この歯止めが過度の清潔習慣と別居など共有時間の減少とによって弱体化したのではないか。

児童虐待も、一部は、出産が不自然で長くかかり、喜びがなくなったからかもしれない。トレンデレンブルクの体位と言われる病院でのお産の体位は、医療側の都合にはよいが、出産には不都合である。私はあれがいかにいきみにくい姿勢かを知ったのは、手術後にオマルをあてがわれた時であった。そして、赤ん坊は、出産後数分、はっきりと眼が見え、それから深い眠りに入る。眠りは記憶のために最良の定着液である。しかし、今、最初に見るものは母親の顔ではない。母親から愛情を引き出す、子ども側の「リリーサー」(引き金)が損なわれている疑いを私は持っている。いちど虐待が始まると、ある確率で「虐待のスパイラル」に進む。それは虐待された子どもは虐待する親に対して無表情になり眼だけは敏感に相手を読みとろうとする。「フローズン・ウオッチフルネス」すなわち凍りついた「金属的無表情」「不信警戒の眼つき」である。これは「不敵」な印象を与えてしまい、いかに恭順の意を表しても「本心は違うだろう、面の皮をひんむいてやりたい」と次の虐待を誘い出す。いじめの時にも同じことが起る。被虐待者の「本心」が恐怖であり、ただもう逃れたいだけであっても、虐待者は相手の表情に不敵な反抗心を秘めていると読み取ってしまう。虐待者に被虐待体験があればそのような読み取りとなりやすいだろう。

私は、これだけで近親姦、児童虐待、配偶者殴打のすべてを説明するつもりはない。それらはフランスの古い犯罪学書にも記載がある。学級崩壊だってフランスでは一九世紀から大問題だった。だから最近だけのことではない。辿れば意外な根っこがみつかるだろう。
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難しさは、犯罪という概念が社会的概念であることである。それは家庭になじみにくい。実際、近親姦と児童虐待とに関して、法は、家庭の戸口で戸惑い、ためらい、反撃さえ受けている。個人は家庭にだけ属するのではないが、最後は家庭だという矛盾がここにある。私は、よくないと思われることを、社会が崩壊する前に、できることから変えてゆくしかないと思っている。

人類が家族に代わるものを発明していないとすれば、その病理を何とかするために、私の中の医者があれこれと考えていることを、一度人類まで問題を広げて考えていた。これは大風呂敷にすぎるかもしれない。しかし、私はこの一世紀かそこらの傾向から外挿するのは危険で、たぶん間違うと思っている。


◆経済再生 の鍵は 不確実性の解消  (池尾和人  大崎貞和)
ーーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011


池尾:日本については、人口動態の問題があります。高齢化・少子化が進む中で、社会保障制度の枠組みがどうなるのかが、最大の不安要因になっていると思います。

 経済学的に考えたときに、一般的な家計において最大の保有資産は公的年金の受給権です。

大崎:実は、そうなんですよね。

池尾:今約束されている年金が受け取れるのであれば、それが最大の資産になるはずです。ところが、そこが保証されていません

 日本の家計の金融資産は過半が預貯金で、リスク資産に配分しようとしない、とよく言われます。会計上見える資産では確かにそうなっています。しかし、実は不安定な公的年金制度という枠組みを通じてリスクを取らされているとも言えるわけです。公的年金の受給権という資産が安全資産化すれば、ほかにリスクを取る余地が生まれてくるはずです。

 そういうことをやったからといって家計の将来に 対する自信が回復するかどうかは分かりません。しかし、自信を回復し得る環境を整える必要はあります。消費についても同じです。大きな不確実性を背負った状態で、 「活発な消費をしろ」と言われても、それは無理だと思います。

大崎:国は「公的年金で老後の生活は安心だ」という説明をしたいんだけれども、国民はそのようには受けとめていなくて、 「制度は変更されるかもしれない。どちらかというと悪いほうへ変わりそうだ」と読んで行動しているということですね。

池尾:そうです。

大崎:ただ、 「何年には給付を削減します」と宣言してしまうと、これはこれでまた不安を呼ぶのではないかとも思います。

池尾:例えば、公的支援が限定的だということになると、残りは自助で支えなければいけない、という意識が高まります。既に高齢の場合には、確かに心細さは生じます。ですが、いわゆる予備的動機で行われる予備的貯蓄と言われる部分については、貯蓄する必要性は下がるはずです。

大崎:それは、リスクが読める分、自助努力で補充すべき分がはっきり計算できるからですね。

池尾:自助と言われたときに準備する時間が残されている世代もあります。高齢世代に関しても、これまでの将来への不安から貯蓄に励んできて、大量の金融資産を保有している方も多くいらっしゃいます。要するに、自身の長生きリスクと公的支援の変更リスクの両方に備えているんです。

 ですから、先行きの見通しをはっきりさせることが、政策運営上求められていると思います。抜本的改革をやって、持続可能性を持った社会保障制度を確立するというのは大きな課題だと思います。
(……)

大崎:今のお話を伺っていて思ったのは、政策当事者が事態を直視するのを怖がっているのではないか、ということです。例えば、二大政党制といっても、イギリスやアメリカでは、高福祉だけれども高負担の国をつくるという意見と、福祉の範囲を限定するけれどもできるだけ低負担でやるというパッケージの選択肢を示し合っているように思います。

 日本ではどの政党も基本的に、高福祉でできるだけ増税はしない、どちらかというと減税する、という話ばかりです。実現可能性のあるパッケージを示すことから、政策当事者が逃げている気がします。

池尾:細川政権が誕生したのが今から18年前です。それ以後の日本の政治は、非常に不幸なプロセスをたどってきたと感じています。

 それ以前は、経済成長の時期でしたので、政治の役割は余剰を配分することでした。ところが、90年代に入って、日本経済が成熟の度合いを強めて、人口動態的にも老いてきた中で、政治の仕事は、むしろ負担を配分することに変わってきているはずなんです。余剰を配分する仕事でも、いろいろ利害が対立して大変なんですが、それ以上に負担を配分する仕事は大変です。

大崎:大変つらい仕事ですね。

池尾:そういうつらい仕事に立ち向かおうとした人もいたかもしれませんし、そういう人たちを積極的にもり立ててこなかった選挙民であるわれわれ国民の責任も、もちろんあると思います。少なくとも議会制民主主義で政治家を選ぶ権利を与えられている国においては、簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。



…2040 年度までの世界と日本の見通しの中で、 日本にとって最も重要な課題の一つである財政や社会保障制度はどうなっていくだろうか。 公的年金にしろ、 医療保険にしろ、介護保険にしろ、現在の制度が長期的に維持可能であるのかどうか、強い不透明感がただよっており、人々の間には不安と不信が募っている。若者世代も、壮年世代も、引退世代も、生まれ年にかかわらず、それぞれがそれぞれの立場で鬱憤を抱え、日本の将来に明るい展望を持てないでいるようである。

また、既に GDP の約 2 倍に達している政府債務残高がさらに増えていっても何も問題が起きないとは考えられない。現在の財政状況が維持可能なものであるのかどうか、将来には大増税が必要にならないか、懸念は大きい。社会保障制度の改革は財政健全化と同時に達成しなければならない。社会保障給付は政府の財政を通じてなされている以上は、財政が安定的に運営されていなければ社会保障制度も不安定になってしまう。

社会保障制度の持続可能性が著しく低下していると考えざるを得ない理由は、働き方の多様化や家族形態の変化など多数あるが、最大の要因は、超少子化に起因する超高齢化である。年金、医療、介護の社会保障財政は、基本的に賦課方式といわれる仕組みで運営されているからである。賦課方式とは、その時点の国民の負担(社会保険料と税金)を財源にして、その時点の国民に給付を行う方式である。負担は主に現役世代が負い、給付は主に引退世代になされている。いわば、引退世代の生活を現役世代の負担で支えているわけである。
社会保障制度全体の財源に占める公費負担割合を現在のまま一定とする前提で試算すると、代替率 82.4%を維持した場合、 2030 年頃でも 20%程度の消費税率でないと中央・地方政府の基礎的財政収支は均衡せず (図表 7-5 参照) 、 社会保険料率は現在の 1.5 倍必要になる。 さらに、その状況を 2050 年頃まで延伸すると消費税率は 25%を超え、 社会保険料率は現在の約 2 倍となる。 これは、 現在 40%に満たない国民負担率51を 70%超に引き上げるということに相当する (図表 7-6 参照52、なお 2011 年度の財政赤字53を含む潜在的国民負担率は 48.6%)。代表的な福祉国家であるスウェーデンの現在の国民負担率が 62.5%(2009 年、潜在的国民負担率は 63.9%)であることなどに照らして、国民負担率 70%への道を辿るということは、日本の国家像や国民意識という点で考えにくいのではないか。

しかも、ここで消費税率 25%とは、かなり控えめにみた税率である。①医療や介護の物価は一般物価よりも上昇率が高いこと、②医療の高度化によって医療需要は実質的に拡大するトレンドを持つこと、③介護サービスの供給不足を解消するために介護報酬の引上げが求められる可能性が高いこと、④高い消費税率になれば軽減税率が導入される可能性があること、⑤社会保険料の増嵩を少しでも避けるために財源を保険料から税にシフトさせる公算が大きいこと――などの諸点を考慮すると、消費税率は早い段階でゆうに 30%を超えることになるだろう。では、 代替率を抑制していけばどうだろうか。 図表 7-5 や図表 7-6 にみるように、 代替率を 1割抑制する程度では大きな効果は得られない。 だが、 代替率を現在から 3 割程度抑制できれば、状況はかなり違ってくる。年金・高齢者医療・介護に関する賃金で測った実質給付を今より 3割減らして平均代替率を 57.7%とすれば、 2030 年頃までは消費税率を 10%台半ばに抑制し、 2050年時点でも消費税率を代替率一定ケースの約 7 割に抑制できる。上で述べた①~⑤の要因を考えると、代替率 3 割引下げとは、今後の 30 年程度をかけて現在の大陸欧州並みの付加価値税率を目指していくシナリオといえよう。代替率 3 割の引下げは、現在の年金水準の高さや高齢者医療の自己負担割合の低さなどを考えると、実現不可能ではないと考えられる。

ここで改めて確認したいのは、所得代替率の 3 割引下げとは、あくまでも賃金で測った実質給付水準の話だという点である。 ここでは長期の名目 GDP 成長率を年率 2%として試算しているが、 そのとき物価上昇率を 1%とすれば、 一般物価で測った実質給付水準を引き下げるほどの給付抑制にはならない(既出図表 7-3 参照)。つまり、代替率の 3 割引下げとは現在の給付水準を大幅にカットせよという意味ではない。高齢者の生活水準(年金や医療・介護)について、高齢者の数が増加する分はもちろん、物価上昇分についても名目給付額を増加させるシナリオである(社会保障支出総額は、物価上昇率と高齢者人口増加率の合計の率で増加している)。

もっとも、ここで物価は一般物価を考えているから、医療に係る物価や介護に係る物価が一般物価以上に上昇しやすいことを考えると、医療の物価や介護の物価でみた 1 人当たりの実質給付は多少抑制されなければならないかもしれない。ただ、医療や介護の価格は市場メカニズムで決まっているのではなく、政策的に公定されるため、一般物価の動向をみながら適正に改定していけば一般物価でみた場合と比べて極端に異なるということにもならないだろう。

また、 この試算に対しては、 名目 2%の成長が楽観的という批判があるかもしれない。 生産年齢人口が減少している中で GDP を伸ばしていくためには、生産性上昇率の向上が必要であり、名目成長率 2%で物価上昇率 1%とすれば(すなわち、実質成長率を約 1%とすれば)、2020 年代までは年平均 1%台後半の、 2030 年代以降は 2%超の生産性 (生産年齢人口 1 人当たりの生産量)の上昇が必要となる。その実現のためには不断の技術革新とそのための投資、そして資源配分の効率化が必要であり、それを目指す成長戦略が必要である。

だが、それは十分に可能性のあることである。生産年齢人口 1 人当たりの実質 GDP の伸び率は、資産バブル崩壊後の 1990 年代でさえ年平均 1%強、2011 年度までの直近 10 年間で年平均1.4%だった。生産性の上昇率を高めることは簡単ではないが、ベーシックな生産性向上努力の結果に相当するとみられる 1%に、 どれだけ創造性を追加的に上乗せできるかという問題ではないか。2020 年代において 1%台後半の生産性上昇率を実現しながら代替率を引き下げて社会保障制度を持続可能なものへと再構築して 2030 年代を迎えるという「国家の大計」が求められている。





2014年5月4日日曜日

五月四日 基軸通貨と基軸言語

数日前「文科省、省内会議に英語導入 「まず自分達から」」という記事に行き当たった。すなわち《文部科学省が省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めた》らしいが、この記事にたいして若い有能な哲学者・批評家が「国辱だね」というような反応をしていた。まさにそのような感慨を抱かざるをえないのだが、もうすこし検索してみると、「日本人の英語、アジア30ヶ国内で第28位、文科省ではなく総務省のテレビ電波対策が必要だ!」などという表題をもった記事もある。と読めば、いくらなんでももう少し「英語」に親しまなくてはならないのではないか、という気もしてくる。とはいえ、日本は「幸福な村社会」だったのだ。いわゆる「後進国」の人たちは、エリート層だけでなく、ごく平均的な人たちも英語を話せることが、生活向上の道具となること甚だしい。二十年近く前に、この、かつての仏領インドシナの国に住み始めた当初感じたことだが、路上の煙草売やバイクタクシー、あるいは当地ではシクロの運転手でさえ、英語が話せることが売上げ向上に覿面に効果をもつ。それは結局「基軸言語」の話になる。



…………


まず

岩井克人の「アメリカに対するテロリストの誤った認識」(朝日新聞2001年11月5日夕刊)より引用するが、この記事の表題を見ればわかるように、9.11をめぐって書かれている記事ではあるが、ここではその箇所ではなく、「基軸貨幣」と「基軸言語」をめぐる箇所を抜き出す。

アメリカは世界で唯一の超大国です。それは世界最強の経済力と軍事力を持っているからだけではありません。いま世界のどの街を訪れても、意思の疎通はすべて英語で可能ですし、代金の支払いもすべてドルで済みます。ホテルに戻ってテレビのスイッチを入れるとCNNニュースが流れ、チャンネルを替えるとハリウッド映画が上映されています。ヨーロッパや日本に閉塞感が漂っている現在、アメリカはますますその存在感を大きくしているのです。

だが私は、それにも関わらず、世界がアメリカによって支配されているという世界認識は誤りだと考えます。いま世界の中でアメリカの存在感が突出しているのは、アメリカが世界の「基軸」国としての位置を占めているからにすぎないのです。

では、ここで言う基軸国とは一体どういう意味なのでしょうか?ドルは世界の基軸貨幣です。だが、それは世界中の国々がアメリカと取引するためにドルを大量に保有しているという意味ではありません。ドルが基軸貨幣であるとは、日本と韓国との貿易がドルで決済され、ドイツとチリとの貸借がドルで行われるということなのです。アメリカの貨幣でしかないドルが、アメリカ以外の国々の取引においても貨幣として使われているということなのです。

まさに同じことが英語に関してもいえます。英語が基軸言語であるとは、日本人と韓国人、ドイツ人とチリ人の間の対話がアメリカの言語でしかない英語を媒介として行われているということなのです。いやアメリカはいま、貨幣や言語だけでなく、文化や政治や軍事にいたるまで世界の基軸国となっているのです。世界は著しく対称性を欠いた構造をしています。一方には自国の貨幣や言語、さらには文化や政治や軍事がそのまま世界で流通する基軸国アメリカがあり、他方にはアメリカの貨幣や言語や文化や政治や軍事を媒介としてお互い同士の関係を結ぶ他のすべての非基軸国があるのです。

このような基軸国と非基軸国との間の関係は、すべての国に一票をという国連的な平等意識を逆撫でにします。だがそれを支配と従属の関係と見なしてしまうと、事の本質を見失ってしまうのです。

次に、岩井克人の『二十一世紀の資本主義論』(2000年)から基軸通貨、あるいはシニョレッジをめぐる箇所を引用するが、まず基本的な誤解をまねかないように、池尾和人氏の「インフレとともに消える造幣益(シニョレッジ)」から引用しておく。

ベースマネーの供給を増やせば(現在価値合計では)それと同額の造幣益(シニョレッジ)が増える、といった単純な(あるいは、スッ呆けた)話は少なくとも成り立たない。ヘリコプターマネー政策によって生じた財政赤字は、いずれ国民負担になる。フリーランチは存在しない。

ーー通貨発行益(シニョレッジ)について、どんな誤解がなされているかは、たとえば池田信夫氏の「通貨発行益は打ち出の小槌か」を見よ。


このあたりの議論は、以下の岩井克人の文の《非機軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。(それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。)》に相当する。

だが基軸貨幣国だけは異なる。《アメリカが純債務国に転落した1986年以降は、ドルの過剰発行はたんにシニョレッジを増やすだけではない。それがもたらすドル価値の下落は、対外債務の実質的な負担を軽減するという一石二鳥の効果までもつようになっている。ドル切り下げの誘惑はますます強まっているのである。》ーーと書かれたのは2000年のことだが、さて現在はどうなのだろう(リーマン・ショック後、ドルの大幅な下落があったのは周知の通り)。

……貨幣が貨幣であるかぎり、その貨幣としての価値はモノとしての価値を大きく上回っている。ましてや、その生産費をはるかに上回っている。そしてそれは、100円硬貨や一万円札を発行している日本政府も、100万円の電子マネーを発行している民間企業も、それぞれ硬貨や紙幣や電子マネーを発行するたびに、その生産費を上回る貨幣の貨幣としての価値がそのままじぶんの利益となることを意味することになる。これは、なんの労力もなく手に入るまさにボロ儲けである。

貨幣の発行者が貨幣の発行によって手に入れるこの利益のことを、一般に「シニョレッジ(seigniorage)」という。それは、貨幣が貨幣であるかぎり、その発行に必然的にともなう利益である。

もちろん、グローバル市場経済の貨幣であるドルを発行しているアメリカも、このシニョレッジを多いに享受しているはずである。たとえば日本の円がなんらかの理由で海外にもちだされても、それは日本の製品しか買うことができず、いつかはかならず日本にもどってくることになる。非機軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。(それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。)これにたいして、アメリカ政府の発行するドル紙幣やアメリカの銀行が創造するドル預金は、そのまま外国製品の購入に使うことができ、しかもそのようにして外国に支払われたドルの一部は、それがまさに基軸通貨であることによって、タイからロシア、ロシアから韓国、韓国からブラジルへと回遊し続け、アメリカ製品の購入のために戻ってくることはない。アメリカはその分だけ、なんの労力もかけずに、自国で生産されている以上の商品を外国から手に入れたことになるのである。すなわち、基軸通貨として国外で保有されているドルの価値分が、基軸通貨国アメリカがうけとる「シニョレッジ」にほかならない。
註)上の議論は、基軸通貨として保有されているドルにはまったく利子率が支払われていないと仮定してある。もし外国によって保有されているドル預金にたいしてアメリカの銀行が利子を支払っているならば、その利子率とほかの通貨の預金に支払われる利子率との差異を現在価値化してものが、シニョレッジとなる。

……ドルを基軸通貨とするグローバル市場経済のもとでは、アメリカは自国通貨ドルを多く供給すればするほど、多くのシニョレッジが手に入る仕組みになっているのである。こんなにうまい話はほかにない。

しかし、もしこのシニョレッジの誘惑に負けて、アメリカが実際にドルを過剰に供給しはじめたらどうなるだろうか。そのとき、ドルは暴落をはじめてしまうだろう。(……)

……近年では、国内産業の保護のために意図的にドルの価値を低めに誘導する、危険なゲームを試みたりするまでになっている。皮肉なことに、まさに社会主義という大きな「敵」の消滅が、アメリカからグローベル市場経済の基軸国としての自覚を奪いつつあるのである。そして、アメリカが純債務国に転落した1986年以降は、ドルの過剰発行はたんにシニョレッジを増やすだけではない。それがもたらすドル価値の下落は、対外債務の実質的な負担を軽減するという一石二鳥の効果までもつようになっている。ドル切り下げの誘惑はますます強まっているのである。(……)

いまヨーロッパや日本を中心として、ドルが基軸通貨を独占している体制から、ドルとユーロと円という複数の基軸通貨が共存する体制への移行をめざす動きがある。そしてそれは、1999年にユーロがEUの共通通貨として現実化してから、さらに強くなっている。だが、もしそのような動きが、複数の基軸通貨のあいだの勢力均衡をもとめているのならば、それはもっとも危険な筋書きである。

基軸通貨の問題にたいして、政治における覇権(hegemony)理論や勢力均衡(balance of power)理論を応用することほど愚かなことはない。ドルが基軸通貨であるのは、それが世界中の多くのひとびとに受け入れられているから世界中の多くのひとびとに受け入れられているという、一種の自己循環論法の結果にすぎない。それは、そのドルを発行しているアメリカという国の経済支配力とはかならずしも一対一対応していないのである。もしドル以外の通貨がドルより多くのひとに基軸通貨として受け入れられはじめるならば、さらに多くのひとびとがそれを基軸通貨として使いはじめ、その通貨がただちに基軸通貨という位置を独占してしまうだろう。基軸通貨体制とは、どの通貨であれ、ひとつの通貨が基軸通貨の地位を独占しはじめて安定(balance)するのである。複数の基軸通貨が競合している状態とは、言葉の真の意味での不安定(unbalanced)な状態であり、複数の基軸通貨の勢力均衡などありえない。事実、歴史は、複数の基軸通貨が競合していた時代がいかに不安定な時代であったかを教えている。(註:金と銀とが基軸通貨として共存するいわゆる二十金属本位制(Bimetalism)時代)

それだけではない、仮に大混乱のうちに基軸通貨がドルから別の通貨に移行するようなことがあったとしても、それは「ドル危機」を「ユーロ危機」や「円危機」におきかえるだけにすぎない。基軸通貨体制がつづく限り、基軸通貨をめぐる本質的な矛盾はそのままつづくことにならざるをえないのである。

※参考:「ドル基軸通貨に代わる「魔法の杖」はない」(竹中平蔵)


◆附記:大和総研 DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」より

世界経済は、 著しく高齢化する中国のプレゼンスが低下し、 経済の中心は依然として米国であり続けるだろう。
米国の高齢化の進展速度は、中国やブラジル、インドといった新興国と比べても緩やかである。米国が若さを保つチャネルの一つは移民だが、オバマ大統領は 2 期目の就任演説の中で移民制度改革に言及しており、 1,000 万人を超えるとされる不法移民の取り扱いに加えて、 高い技術を持つ者の受け入れに一段と積極的になれば、潜在成長力を押し上げることにつながろう。

長期的な強みに綻びが見え始めているといわれる米国だが、他の国々に比べると若さを維持する人口構造になっている。長期的には現役世代の負担感は現状よりも高まるものの、それも長期的には安定すると見通されている。 米国の場合には、 ベビーブーマーの高齢化が進む一方で、その子どもや孫の世代が入れ替わるように誕生してきたため、高齢者を支える安定した人口構造が見込まれているからである。中長期的にも世界経済の中心は米国と中国になるとみられるが、高齢化という視点では、両国は対照的な環境に置かれることになろう。
世界の構図を変える可能性を持つ米国のシェール革命

技術革新によって開発・利用可能になったシェールガス・シェールオイルの増産(シェール革命)で、米国は 2020 年頃までには世界最大の原油生産国になると国際エネルギー機関(International Energy Agency :IEA)は見込んでおり、米国内のガス需要は 2030 年頃には石油を抜いてエネルギーのなかで最大のシェアになるという。

2014年3月3日月曜日

あのね、

あのね、オレはあんまり同情がないの
あんた日本の若者たちの困窮状態知っているかい?
そっちの国で安楽な生活してやがって
とか言われてもね

これかい?

国立社会保障・人口問題研究所によると、20〜64歳の1人暮らしの女性の31.6%が年収125万円未満で暮らす「貧困」層とされる(2010年国民生活基礎調査を基に分析)。女性の生涯未婚率は2030年には23%に上るとも予想され、単身女性の貧困は今後より大きな社会問題になる可能性がある。(リアル30’s:選べてる?(4) 私の居場所どこかに

ほんとかねとは思うがね
95年以降は日本のことを知らないオレには
一人暮らしってのがわかんないな この年収で

いわゆる発展途上国と先進国とあいだの貧しさは
安易に比較はできないけどさ
日本の場合は逃げ場がすくないのだろうな親族とかの

米国でもこんな具合らしいからな

……貧困問題の核心は、先進国では、雇用が生み出されず、むしろ減少する傾向にあるために、労働者の立場が弱体化し、低賃金化が進行することにあるが、雇用の不足は、需要の物理的制約があるため、根本的な解決は難しいように思われる。 よく言われる、先進国は、低スキルの仕事は新興国に任せて、高スキルのクリエイティブな仕事に専念すればよい、といった意見は、人間の能力の普遍性を無視した暴論としか、私には思えないし、実際、あれだけの高度人材を揃えたアメリカでも実現していない。 

このまま、格差を拡大して、アメリカ型の社会になるのか、再分配機能を強化して、ヨーロッパ型の社会を目指すのか、日本の選択が迫られているように思われる。(アメリカの貧困問題と日本の選択 - 辻元

この最後の文は岩井克人の次の主張に共鳴する。

消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン

もしどっちつかずのあいまいな選択のままであるなら、自ずと米国型になっていくのではないか。それを避けるためには、消費税大幅増に視線をやらなければならないという主張とシミュレーションがある。


日本が設けることになるであろう最終的な消費税率は、どれだけ高いとしても 25%が限界だと思われる。それ以上となれば、日本の国民負担の大きさは明確に北欧国家グループに含まれることになるが、市場経済に対する考え方や官民の役割分担などの観点から、それを目指すことに合意が得られるとは考えにくい。他方、世界で最も高齢化していく先進国である日本において、米国型の社会保障や福祉の体系を目指すという国家像も受け入れられないだろう。日本が目指すべきは、おのずと欧州大陸主要国並みの負担と受益ということになる。改革シナリオのシミュレーション上は 2036 年度以降の消費税率を 25%と想定する。

今は詳しく引用しないが、このシミュレーションはこの140ページにあまる論のなかに書かれているように楽観的なシナリオなのだ。

ここで財政状態の悪化に伴うプレミアムの発生で長期金利が上昇する「悪い金利の上昇」は想定していない。これは、過去の経済構造に依存するマクロモデルの特性上、そうした恣意的なシナリオを予測に反映できないためである。しかし今後も財政赤字が改善しなければ、債務残高は現在よりもはるかに高い水準に達し、いつかは財政プレミアムが金利を大きく押し上げる局面を迎えるだろう。この点、本予測は実体経済の状況のみを反映した楽観的な見通しといえるかもしれない。

「悪い金利の上昇」、ーーそれは、別の観点から見たら次のようなことでもある。

大きなリスクとみているのは、デフレから脱却して景気が回復すれば、金利が上昇し、利払い負担が膨らむこと。「これまでは、デフレのもとで財政が奇妙な安定を保ってきたが、デフレから脱却して金利が上昇すると、財政の安定が崩れるというリスクがある。その際、成長率上昇による税収増と利払い費の比較になる。税収に比べて利払いが大きくなっているので、成長率が1%上がった場合、金利も1%上がると、税収増より利払い増が大きくなり、資金繰りが苦しくなる。(池尾和人ーー
アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン

いずれにせよ、《社会保障システムを維持し、財政破綻を回避するためには、政府支出の抑制と国民負担増が必要である》のだよな

高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人、2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。

というわけで、これしかないらしいぜ→ 《年金・高齢者医療・介護に関する賃金で測った実質給付を今より 3割減らして平均代替率を 57.7%とすれば、 2030 年頃までは消費税率を 10%台半ばに抑制し、 2050年時点でも消費税率を代替率一定ケースの約 7 割に抑制できる。》

社会保障費3割「以上」削減して、若者の貧困すくうしかないってわけだな
それとも消費税30%程度にするか。

まあいいさこういう話は
雑誌や新聞にあの手この手で書かれているはずだから


こっちの話は下手に書くと
美談のメロドラマになるからね
あんまり書きたくはないし
まあ半ば虚構の物語としてもらってもいいけどね
二十年前にこの国に逃げ出したときは
極貧状態のなごりがあったわけでね


妻の父方の家系は隣国との国境の町ではかつての名家で、その町の日本からも旅行者のある大きな仏寺では仏の名の次の曽祖父の名が唱えられる。かつては町の中央に銅像があったらしい。妻の父はいわゆる蕩児で、南北に分かれた戦後の混乱期に嫌気がさし隣国に出稼ぎにいってそのまま帰ってこない。妻の母は六人の子供を抱えてひどい貧窮に陥った。長女である妻と次男は小学校を修業しているが、その下の子どもたちはそれぞれ親族の家にひとりづつ預けられろくに学校も行っていず(小学校三年程度まで)、幼い頃から畑仕事などの手伝いをしている。妻も叔母とともに故郷の町を離れ幼くして隣国の路上市場で温麺を売ったり、海辺の町の漁村で網作りしたり、大都市の外国人向けバーに潜り込んだりーー無給なのだがチップで暮らしていたわけで、1ドルのチップを十人の客から貰ったら当時のこの国の平均月収が30ドル程度だったことを考えたら大金であり、わたくしのような客が原価0.5ドルの国産ビールとピーナッツのつまみを3ドルで飲んで5ドルのチップを渡す……などということがあったらやたらにモテルーー、という生活を送っている。後にわたくしと結婚後、妻は、妹弟たちが十代半ば前後の年齢になってからようやく小学校は卒業させたが彼らは小さなクラスメートと混じって学ぶのを恥じ中学には進むことを拒んだ(末妹はまだ幼くて年齢に支障がない時期に援助できたので中学校まで)。当時はGNPの差が日本とは百倍近く差があり、わたくしの乏しい資産でもなんとか補助できたというわけだ。弟妹たちはいまはそれぞれ結婚して子どもをふたりづつ持っており(末妹はひとり)、旧正月に集まれば、彼らとその配偶者だけで十二人の若い男女と十一人の甥姪たちということになる。

妻とは大都市で出会ったのだが、彼女の希望で結婚後は弟妹たちを養育しやすい都市部から三十キロほど離れた埃舞う田園地帯に住むことになった。畑地で一区画五百坪を三千ドルほどで購入し家を建て、また後義母を引き取り家付きの小さな土地を四千ドル程度で購入。今は近くに出来た工場団地の働き手向けに家の裏にアパートを建てその賃貸収入で暮らしている。七年ほど前義父をも引き取った。脳溢血になって女に逃げられ半身不随の義父の最後の四年は前妻の世話で生活し逝去した。結婚時妻は「わたしの夢は父と母がもう一度いっしょに暮らすこと」と執拗に語ったがそれが曲りなりにも実現したわけだ。


結婚するとき驚いたのは妻には正式の戸籍がないことだった。1974年という戦争末期に生れてなんらかの事情で届出なしで育っており、後に他人から借りた仮の戸籍を得てそれは1977年生である。だがこれは当時はそれほど珍しくないことらしく、ただ結婚時それを他人の戸籍から父方の戸籍に移すのにひどく手間取った。移した後も、戸籍上は1977年生まれであり、当時三十八歳のわたくしは一九歳の少女と婚姻したことになる。



どうもこうやって書くと

嘘っぽいんだよな
今は昔の話だけれどさ
わたくしの住まいの周りも
家が建て込んだよ

「過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ

(……)
それでとーーちょっともう続けようがないなこの先は」

(ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より)


…………

附記:「これはいつまで続くんだろうね。」がそろそろ続かなくなって来たという側面があるのだろう、冒頭の話だがね。この国は「兵量攻め」に遭った連中ばかりだから逞しいってのはあるぜ。

斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。

中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。

斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。

中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提 というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。

斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)ーー父なき世代(中井久夫

ーーこの三者でさえ、「本音」は黒字強調個所にあるはずだ。

…………

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた「外米」はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔…〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」)





2013年7月30日火曜日

アベノミクスの博打

いままで言ってきたように、アベノミクスってのがそもそも危険きわまりないギャンブルなんだけど、それがうまくいってるように見える今のうちに、参議院選挙に勝って両院のねじれを解消し、憲法改正をはじめ、いわゆる「戦後レジームからの脱却」を強引に進めようってのが、安倍政権の狙いだね。でも、国際的には「戦後レジーム」ってのは第二次世界大戦の戦勝国である米英仏ロ中が国連の安全保障理事会の常任理事国を構成する体制なんで、それを否定するのかってことになると、中国はむろん、アメリカその他だって黙っちゃいない。本来、北朝鮮に圧力をかけるため米中その他の諸国と協力すべき時だし、中国の覇権主義に対して日米同盟で対抗するってのが安倍政権の外交の基軸なんだから、他方でそれを揺るがし、アメリカにさえ警戒感をもたせるような言動をとるってのは、愚かとしか言いようがない。(田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 TALK 63

ここではアベノミクスのギャンブル、その異次元緩和のみをめぐれば、そのギャンブル性への危惧は、インフレが加速しないための制御が果たして可能なのか、という不安なのだろう。

──異次元緩和後の金利動向をどうみているか。

「金利に対しては2つの違う働きの効果が働いている。国債を大量に買い入れたため、名目金利やリスクプレミアムは下がる。一方、予想インフレ率が上がることで名目金利が上昇する要素もある。金融政策の結果、予想インフレ率が上昇し、実質金利が下がっているかどうかが一番大事だ。そうでなければ株や為替、実体経済に対する影響が出てこない。(現在の実質金利は)BEIでみるとマイナスだ」(岩田日銀副総裁インタビューの一問一答

そして日本を代表するケインジアンのひとり、岩井克人は次のように語ることになる(「アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン」より)。

……デフレはすべて悪であるが、インフレはすべて善ではない。それは、さらなるインフレを予想させてインフレをさらに強めるという悪循環に転化する可能性を常に秘めている。その行き着く先であるハイパーインフレこそ、貨幣の存立構造それ自体を崩壊させる最悪の事態である。

 


 好況は多数の人が永続することを願っている。その多数の声に逆らって、善きインフレが最悪のハイパーインフレに転化するのを未然に防ぐ政策を実行すること、それが中央銀行の独立性の真の理由である。しかし、その心配をするのはまだ早い。いまはインフレ基調の確立により総需要が刺激され、日本経済が長期にわたる停滞から解放されることを切に望むだけである。「日本経済新聞201331428ページ 経済教室 岩井克人」


デフレが悪なのは、ほとんどの経済学者は意見の一致をみているのだろう。それが分っていても、いい出せない、あるいは施策が打てなかったのは、ひょっとして優れて(かつ老いた)経済学者たちは、自分の世代は、なんとか逃げ切りたいとひそかに思っているせいだった、――などと勘ぐるのはよして、池尾和人氏のリフレ談義にぎやかなころ冗談めかした口から漏らした本音らしき言葉を引用しておこう。

むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10

まあいずれにせよ、インフレというのは、年金受給者にとっては、まずは年金の貨幣価値の減価(あるいは銀行預金の目減り)なのだから、その年齢に間近いひとたちが、そんなことを本心では願うはずもない(よっぽどの資産家か、あるいは海外資産の準備をしていなければ)。

…………

ケインズがいくつか貢献したことのうちのひとつは、通貨の問題の中に欲望を再び導入したことであった。こうしたことこそ、マルクス主義的分析の必要条件にあげられるべきことなのである。だから、不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが大抵の場合多くは、生産様式の考察や『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていないということである。(こういった点にこそ、マルクスに回帰する(つまり、マルクスの通貨理論に回帰する)意味があるのである)。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)

こうして、最晩年のドゥルーズは次のように語ることになる。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)
次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。)ドゥルーズの最晩年のインタヴュー「思い出すこと」ーー「柄谷行人の「構造と反復」をめぐって」より)

ドゥルーズ&ガタリの云うケインズの「欲望」をめぐっては、ケインズの「美人コンテスト」についての話が有名だ。それは、新聞紙上に掲載された100人の女性の顔写真の中から読者が投票で六人の美人を選ぶというものであり、読者からの得票がもっとも多く集まった六名の美人に投票をした読者に多額の賞金をあたえるという仕組み。

それぞれの投票者は、自分が美人だとおもう顔ではなく、自分とまったく同じ立場に立ってだれに投票しようかと考えている自分以外の投票者の好みに一番合うとおもわれる顔に票をいれなければならない。それは、自分が一番美人であると判断した顔を選ぶというのではなく、平均的な意見が本当に一番美人だと考えている顔を選ぶというのですらないのである。さらに第三段階にいたると、ひとは平均的意見が平均的意見をどのように予想するかを予想するために全知全能を投入することになる。そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想をおこなっているひとまでいるにちがいない。(ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』第十二章)


こうやって、資本主義市場の価格は、究極的には、たんにすべての投機家がそれを市場価格として予想しているからそのが市場価格として成立してしまう、つまりは美人コンテストのような「予想の無限の連鎖」のみによって支えられているとされることになる(とくに株式市場や債券市場)。そのとき、市場価格は実体的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然乱高下をはじめてしまう可能性をつねにもってしまうのだ。(ミルトン・フリードマンなどによる反論はあるがここでは触れない)。

参照:


あるいは、 

信任論/岩井克人(2)より

ケインズの貨幣理論では、手段と目的の逆転が起きることになります。

貨幣とは、本来金属のかけらであったり、四角い紙切れであったり、電磁的な記号であったりと、それ自体は欲望の対象とはならないものです。

本来的にはそれらがすべてのモノを手に入れる可能性を与えてくれる手段となるから、可能性というものをあたかも実体的なモノであるかのように欲望してしまうということになる。

可能性という幻想を生み出したのが「否定と抑圧」ということであり、これがフロイトとそれを発展させたラカンの理論ではないでしょうか。

つまり、可能性は時間の別名であり、欲望の別名であるということ。

貨幣とモノの関係は、言語とモノの関係より単純なので議論が迷いにくいと思われます。

貨幣は、本来モノを手に入れる手段に過ぎなかった。

貨幣を持つことは、今モノを直接食べないという意味では、欲望の否定に過ぎません。

しかしながら、それがすべてのモノを手に入れる可能性を与えてくれることから、モノを欲望するより、モノを手に入れる可能性を欲望するようになったということです。

つまり、ほんらい実体のない、単なる媒体、単なる記号である貨幣を、あたかもそれ自体がモノであるかのように欲望するようになったということです。

モノへの欲望の否定から、いわば否定そのもの、「無」そのもの(*未来性、可能性)への積極的な欲望という転換があったといえるのではないでしょうか。

これが人間の欲望の根源的な構造であると思われます。

そして、この貨幣そのものに対する欲望の存在が、資本主義経済に恐慌やハイパーインフレーションを惹き起こすことになります。

つまり、モノに対する欲望よりも貨幣そのものに対する欲望が強くなると、結果的にモノが売れなくなって恐慌になります。

逆に、人々が貨幣の存立根拠そのものに不安を抱き始め、貨幣よりもやはりモノの方を欲望し始めると、貨幣からの逃避が始まり、ハイパーインフレーションが起きることになります。


柄谷行人やジジェク文脈では、ここでの「欲望」は「欲動」と言い換えられる。
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』――「「金儲け」の論理、あるいは守銭奴(ヴァレリー、マルクス)」より)

ジジェクの『LESS THAN NOTHINGにおいてもドゥルーズガタリの「欲望機械」ラカンの「欲動」とすべきとする箇所がある(CHAPTER 9 Suture and Pure Difference )(「戦略的なマゾヒストたれ!」より)。


The starting point for a Lacanian reading of Deleuze should be a brutal and direct substitution: whenever Deleuze and Guattari talk about desiring machines (machines désirantes), we should replace this term with drive. The Lacanian drive—this anonymous/acephalous immortal insistencetorepeat of an organ without a body which precedes the Oedipal triangulation and its dialectic of the prohibitory Law and its transgressionfits perfectly what Deleuze tries to circumscribe as the preOedipal nomadic machines of desire: in the chapter dedicated to the drive in his Seminar XI, Lacan himself emphasizes the machinal character of a drive, its anti organic nature of an artificial composite or montage of heterogeneous parts.


さて、ここでもうひとつ、岩井克人のハイパー・インフレーションをめぐる叙述を『二一世紀の資本主義論』から抜き出しておこう。

ハイパー・インフレーションとは、ひとびとが貨幣を貨幣として受け入れることを拒否し、先を争って貨幣から遁走している状態である。それは、恐慌とは逆に、何らかの理由で、世の多くのひとびとが貨幣よりも商品を欲してしまうことによってひきおこされる。ひとびとがそれまで保蔵していた貨幣を使って商品を買いはじめ、経済全体の商品にたいする総需要が総供給を上回ると、物価も賃金も累積的に上昇しはじめることになる。もちろん、このようなインフレーションが一時的でしかないという予想が支配しているかぎり、実際にインフレーションは一時的でしかない。だが、もしどこかの時点で、インフレーションが将来さらに加速するという予測が強まると、事態は不可逆的になる。インフレーションとは貨幣の貨幣としての価値が持続的に減少していくことである。ひとびとは減価していくだけの貨幣をなるべく早く手放そうとして、商品にたいする需要をさらに増やすことになる。それによってインフレーションが実際に加速してしまうと、インフレーションがハイパー・インフレーションに転化するのである。もはやほかのひとびとが将来貨幣を貨幣として受け入れることを拒否してしまうのではないかという恐れが拡がり、その恐れによって、実際にひとびとは貨幣を貨幣として受け入れることを拒否してしまうのである。恐れが自己実現し、ひとびとは先を争って貨幣から遁走しはじめる。貨幣が貨幣として支えていたあの「予想の無限の連鎖」が崩壊し、それまで貨幣であったものがたんなる金属片や紙切れや電磁波にすぎなくなってしまうのである。

そして、そのとき、貨幣の媒介によって可能となっていた商品と商品との交換も不可能となってしまう。市場で交換されることによってはじめて価値をもつ商品それ自体もたんなるモノになり下がり、ひとびとは物々交換をはじめるよりほかなくなってしまうのである。ハイパー・インフレーションの行き着く先は、市場経済そのものの解体にほかならないのである。(岩井克人『二一世紀の資本主義論』ちくま学芸文庫P57-58)


アルゼンチンのハイパーインフレを想い起こしたいなら、ここにいくらかそのまとめがある、→「日本がアルゼンチンのようになる日 アベノミクスがインフレを引き起こすタイミングはいつか?


以下は、いささか際物のシュミレーションかもしれないが、ハイパーインフレーションをイメージするにはとても役に立つ経済小説家の橘玲氏のよる「20XX年ニッポンの国債暴落」


…………


ZAITEN20112月号の特集「20XX年ニッポンの国債暴落」に掲載された「シミュレーション20XX年ニッポン「財政破綻」」を、出版社の許可を得てアップします。これはもともと、編集部の要望で、同特集の巻頭のために匿名で執筆したものです。


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金利上昇、デフレ脱却が住宅ローン破産を呼ぶ


20XX110日(金)。午前6時に人形町のワンルームマンションを出て、徒歩で丸の内に向かう。出社前に近くのスターバックスに寄り、3800円のカフェモカを飲むのが私のささやかな贅沢だ。紙の新聞はずいぶん前になくなってしまったので、iPad5を開いてニュースをチェックする。


一面トップはあいかわらず「年金全共闘」で、新宿西口に3万人を超える団塊の世代の高齢者が集まり、「生きさせろ」と叫びながら警官隊と衝突した。大阪では公務員の大規模ストでゴミが回収できないため、道頓堀を巨大なドブネズミが走り回っている。スポーツニュースでは、中国の財閥が買収したFC銀座が、バルセロナを戦力外通告されたメッシに移籍のオファーを出したことが大きく報じられていた。


3年ほど前、さしたるきっかけもなく、国債価格が下落し、金利が上がりはじめた。最初はなにが起きているのか、誰にもわからなかった。経済学者のなかには、ようやく長いデフレから脱却できると、この現象を楽観的にとらえる者もいた。


それから、物価が上がりはじめた。最初はガソリンと野菜で、国際的な石油価格の高騰と冷夏が原因だとされた。だがそれが局所的なものでないことは、すぐに明らかになった。食料品や石油製品だけでなく、ありとあらゆるものの値段が一斉に高くなったからだ。


それでもまだひとびとは、比較的落ち着いていた。物価の上昇が急激でなかったため、経済評論家たちはニュース番組で、日本経済復活に必要なマイルドなインフレが起きているのだと解説した。


実際、この異変は当初、歓迎されていた。預金金利が5%に上がって、「利子で生活が楽になった」と喜ぶ高齢者がワイドショーで紹介された。円が120円まで下落したことで、トヨタやソニーなどの輸出産業が軒並み最高益を計上するようになった。


そして、住宅ローン破産が始まった。


超低金利に慣れ親しんだひとたちは、ほとんどが変動金利の長期ローンでマイホームを購入していた。それがいまや、ローン金利は10%台まで上がり、毎月の返済額は2倍になった。ローンを払えない契約者が続出すると、銀行は抵当物件を片っ端から競売で売却した。金利の上昇で大打撃を被った不動産市場に大量の競売物件が流れ込んだために、都市部を中心に地価は急落した。


政府は当初、住宅ローン破産を防ぐための特別措置を講じようと試みた。


だが金融当局は、銀行の財務内容を見たとたんに、ローンの繰延べや競売の猶予が不可能なことを思い知った。日本の銀行は大量の国債を保有しており、国債価格の下落で莫大な含み損を抱え込んでいた。そのうえ担保にしていた不動産価格まで暴落し、いまや数行を除いてほとんどが実質債務超過の状況にあった。不良債権問題を先送りする余裕などなく、返済が滞れば即座に処理する以外に選択肢はなかったのだ。


日本政府は銀行の連鎖倒産を防ぐために、超党派で金融危機特別法を可決させ、時価会計を一時的に停止し、簿価会計に戻すことにした。だがこれは、政府が公式に経済破綻を認めたと受け取られ、海外投資家が日本株と円を投げ売りし、日経平均は6000円まで暴落、円は1ドル=200円の大台を超えた。翌日物のコールレートは一時20%という消費者金融並みの水準まで上がり、各地で取り付け騒ぎが起こった。銀行救済のために政府は大規模な資本注入を余儀なくされ、大半の銀行が実質国有化される異常事態になった。


それと同時に、食料品や生活必需品を中心に物価が急速に上がりはじめた。スーパーの値札はたちまち倍になり、現金を握りしめたひとびとが買い物に殺到し、店頭からモノがなくなった。日本社会は、パニックに陥った。



ハイパーインフレが富裕層の顔ぶれを一転させた


コーヒーを飲み終えると、東京駅前のハイアールビルにある会社に向かう。金融危機前は丸ビルの愛称で知られていたが、いまや覚えているひとはほとんどいない。それ以外にも、サムソンプラザやタタ・ヴィレッジなど、東京都心の不動産はほとんどが外国企業に買収されてしまった。


私は三十代半ばまで、大手電機メーカーの技術者だった。海外企業との価格競争に巻き込まれてボーナスは年々減らされたが、会社にしがみついていれば定年まで食いつなぐことはできるだろうと、漠然と信じていた。


だがハイパーインフレが、すべてを変えてしまった。


最初に、年金生活の高齢者が家を失って路上生活を始めた。日比谷公園ではホームレスのための炊き出しが13回行なわれていて、1万人ちかくが公園内で暮らしている。同様に上野公園や新宿中央公園、荒川の河川敷もダンボールハウスで埋め尽くされた。


次いで、公務員のストライキが頻発するようになった。失業率は30%に達し、街には浮浪者が溢れていた。政治家は公務員の給与を引き上げることに二の足を踏み、実質給与はいまやかつての半額以下になった。週刊誌には、事務次官の妻がコンビニでレジ打ちをしたり、財務官僚の娘がキャバクラで学費を稼ぐ様が面白おかしく取り上げられた。


その大混乱を見て、生来臆病な私も、このまま座して死を待つわけにはいかないと腹をくくった。わずかな退職金で会社を辞め、まったく縁のない不動産営業の世界に飛び込んだのだ。


生き延びるために不動産業を選んだのには、理由がある。


半年ごとに政権と首相が変わったあげく、日本がIMF管理になるとの憶測が流れて、ようやく超党派の救国内閣が成立した。新政権の喫緊の課題は財政の健全化で、消費税率は25%になり、年金の受給年齢は70歳に引き上げられた。医療・介護サービスは保険料が大幅に上がり、自己負担は5割で、歯科治療が健康保険から外された。


財政再建の道筋が見えると、東京の中心部から不動産価格が上昇しはじめた。円安と地価の暴落によって、外国人投資家にとっては、銀座の一等地がかつての5分の1の価格で買えるようになったのだ。


私の唯一の取り得は、ビジネス英語が話せることだった。辞書を引きながら徹夜で契約書を翻訳し、欧米はもちろん中国やインド、東南アジアの投資家に東京の不動産を営業して回った。


私が契約営業マンになったのは財閥系の大手不動産会社の子会社だったが、いまでは親会社もろとも中国の投資会社に買収され、社員の半分が中国人、香港人、シンガポール人、中国系アメリカ人になった。外国人投資家は彼らが直接営業するから、私は日本人顧客の担当に変わった。


日本経済が大混乱に陥ったとき、バーゲンハンターとして登場したのは海外投資家だけではなかった。ほとんど知られていなかったが、金融危機以前に巨額の外貨資産を保有していた多数の日本人投資家がいたのだ。


ビデオ会議で上海の本社に営業報告をしてから、表参道に向かう。最初の顧客は、三十代前半の若者だった。


大学を中退してFXとパチスロで生活していた彼は、1ドル=100円から300円に通貨が下落する過程で、レバレッジをかけた巨額の外貨ポジションをつくり、30億円を超える利益を得た。その資金を元手に不動産投資を始め、いまでは渋谷や青山に数棟のビルを保有している。金融危機から3年で、日本の富裕層はほぼ全面的に入れ替わってしまった。


東京の夜を彩る中国語やハングル文字のネオンサイン


外苑前で2万円のビジネスランチを食べ、麻布十番の顧客を訪問する。50歳でリタイアし、マレーシアで海外移住生活を送っていたのだが、円安と地価の下落を見て、外貨資産を円に戻して日本に帰ってきた「海外Uターン族」だ。


彼ら新富裕層のおかげで、私は会社でトップ5に入る営業成績を維持できている。目標に到達できなければ問答無用で解雇されるが、成績次第で青天井の報酬が支払われる。私が以前勤めていた電機メーカーはインドの会社に買収され、「同一労働同一賃金」の原則のもと、いまでは日本人社員もインド人と同じ給料で働いている。


今日は早めに仕事を切り上げて、6時の特急電車で南アルプスの家に帰る。


金融危機とそれにつづくハイパーインフレで、私の実家も妻の実家も、祖父母が年金だけは生活できなくなった。そのうえ父と義理の父がリストラされ、路頭に迷ってしまった。それで田舎に3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らすようにしたのだ。同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。


東京駅前には、赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まっていた。その枯れ枝のような細い腕を掻き分けて改札を通り抜けると、5000円のビールとつまみを買ってあずさのグリーン席に乗り込む。平日は都心のワンルームマンションで単身赴任し、週末に家族の待つ田舎に戻る生活を始めて1年になる。


プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込む。この週末は、失業した妻の弟が、いっしょに暮らせないかと相談に来ることになっている。娘の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員がわたしを頼っているのだ。




中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。