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2014年4月4日金曜日

蕾の割れた梅の林

たとえば、《瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉として面を撲つ。俗塵を一洗し得たるの思あり》と、断腸亭日乗大正十年三月三十日にある。荷風四十歳のおりの日記だが、こうやって荷風の日記を繙くのは季節の変わり目のことが多い。ああ梅の季節が過ぎいまは桜の季節なのだな、と日本に住まうひとたちの言葉を目にして荷風の文を読み返すということもある。《四月四日。天気定まらず風烈し。梅花落尽して桜未開かず》。
                                        
荷風の日記には花や樹木の記述がふんだんにある。《五月廿六日。庭に椎の大木あり。蟻多くつきて枝葉勢なし。除虫粉を購来り、幹の洞穴に濺ぎ蟻の巣を除く。病衰の老人日庭に出で、老樹の病を治せむとす》と読めば、庭木の木蓮三株のうちの一株が葉がことごとく落ちてしまってあれはなんのせいなのだろうと思いを馳せることになる。


この時期の荷風は自ら雑草を抜いていたようだ。


四月十九日。風冷なり。庭の雑草を除く。花壇の薔薇花将に開かむとす。
五月三日。半日庭に出でゝ雑草を除く。
六月廿六日。雨の晴れ間に庭の雑草を除く。

いまこの大正十年の日記からのみを無作為に抜き出しても、次の如く如何に荷風が自然の風物を愛でていたかが瞭然とする。


去年栽えたる球根悉く芽を発す。
細雨糸の如し。風暖にして花壇の土は軟に潤ひ、草の芽青きこと染めたる如し。
毎朝鶯語窗外に滑なり。
雨中芝山内を過ぐ。花落ちて樹は烟の如く草は蓐の如し。
四月十五日。崖の草生茂りて午後の樹影夏らしくなりぬ。
新樹書窗を蔽ふ。チユリツプ花開く。
五月九日。日比谷公園の躑躅花を看る。深夜雨ふる。
五月二十日。夕刻雷鳴驟雨。須臾にして歇む。
五月廿五日。曇りて風冷なり。小日向より赤城早稲田のあたりを歩む。山の手の青葉を見れば、さすがに東京も猶去りがたき心地す。
六月六日。正午頃大雨沛然たり。薄暮に至るも歇まず。
清夜月明かにして、階前の香草馥郁たり。
桐花ひらく。
松葉牡丹始めて花さく。
門前の百日紅蟻つきて花開かず。
石蕗花ひらく。
久雨のため菊花香しからず。
暮雨瀟瀟たり。
夜、雨ふりしきりて門巷寂寞。下駄の音犬の声も聞えず。山間の旅亭に在るが如し。


もっともここで坂口安吾の「通俗作家 荷風」から引用しておくべきだろう。

荷風の人物は男は女好きであり女は男好きであり、これは当然の話であるが、然し妖しい思ひや優しい心になつてふと関係を結ぶかと思ふと、忽ち風景に逃避して、心を風景に托し、嗟嘆したり、大悟したり、諦観したり荷風の心の「深度」は常にたゞそれだけだ。

 男と女とのこの宿命のつながり、肉慾と魂の宿命、つながり、葛藤は、かく安直に風景に通じ風景に結び得るものではない。荷風はその風景の安直さ、空虚なセンチメンタリズムにはいさゝかの内容もなくたゞ日本千年の歴史的常識的な惰性的風景観に身をまかせ、人の子たる自らの真実の魂を見究めようとするやうな悲しい願ひはもたないのだ。

 風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。

だがすこしは容赦してもらおう、そもそも安吾は志賀直哉も夏目漱石も貶しているのだから(「志賀直哉に文学の問題はない」)。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。
夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。

…………

荷風を繙くきっかけになったのは直接には暁方ミセイの《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》という詩行だった。糸のように漂いやってくるのは、次の行に、《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》とあるので、過去の記憶だと「誤読」することもできるだろう。

…………

蕾の割れた梅の林、――今からほぼ三十年前から十年ほどのあいだ、京都の西にある梅宮大社の近処に住んでおり、そこには手入れのわるい寂れた梅園があった。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでに、お社の傍らの道を通り抜ける。梅の季節であれば境内にはいって、梅園の入口に一株ある形のよい白梅の蕾が綻びかけたのを愛でる。そもそもそれ以前は梅などに目もくれない不粋な人間だったが、これ以来桜よりも梅を愛す。

もっとも梅の木を観賞するために境内に入ったといったら嘘になる。お社に奉納された酒がほとんどつねに枡酒で飲めその無料の冷酒が目当てだったが、日本酒の芳香と梅の香との記憶がいまでも、《糸のように漂いやってくる》。ああ、アリアドネの糸! 《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ) 当時なんの迷路に嵌っていたかは敢えて書くことはしない。

京都のふたつの梅の名所の一処とはいうが、北野神社の整備された梅園とは段違いであり、社そのものも慎ましい住宅街のなかにあり、観光客も梅の季節になってさえまばらで、神主一家は、鳥居と楼門のあいだの駐車場の賃貸収入で、生計を立てているとしか思えなかった。

もっとも由緒は正しく檀林皇后、いつの時代の皇后かといえば、延暦5年(786年) - 嘉祥354日(850617日)などとあるその皇后が梅宮大社の砂を産屋に敷きつめて仁明天皇を産んだらしく、子授け・安産の神として、「またげ石」なるものがあり、男女のカップルが訪れ、その石をまたげば子が授かるということになっている。あるいは古来から酒造の神として名高く、すぐそばの桂川にかかった松尾橋を渡って正面にある著名な松尾神社の酒造の神よりも、由緒が正しいと聞いたことがある。松尾神社にはただ酒はなく、お社も味気ない。湧き水を汲んでその効験を尊ぶ習慣はあるが、わたくしはそれを飲んでお腹をこわした。

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とはエロスの詩行としても読めるだろう。少女の割れ目から糸が引く、などと書くまでもなく。

もし私がここで
ロンサールの“朱色の割れ目”とか
レミ・ベローの“緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘”
などと引用したら<あなた>はなんというだろうか

――とはナボコフ『ロリータ』のほぼパクリである。

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

――というのは、わが国至高の少女愛詩人吉岡実からの孫引きだ。

またぎ石とすれば吉岡実の詩句を想い起こさずにはいられない。

《一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく》

《大股びらきの洗濯女を抱えた》

《夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる》

《紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ》

《姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根》

…………


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)

吉岡実のエロティック・グロテクスな詩は次のような起源があるようだ。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)。

…………

北野大社の梅園は整然としすぎていて好みではなかったが、京都で最も美しいお社であるのは、杉本秀太郎の書くとおり(『洛中生息』)。

北野天満宮 杉本秀太郎


京都で最もうつくしいお社は北野神社である。屠蘇の酔いにまぎれていうのではない。けれども私の酔眼には、北野のお社は猶いっそう美しい。

あの長い石だたみの、白い参道がいい。参道のつきるところで石段の上に見上げる門は、お参りにきた人をいかにも迎える様子をしていて、すこしも威圧的でない。

門をぬけると、すぐ左のほうにいって絵馬堂の下に立たずにはいられない。あごをつき出して、高い絵馬を見上げる。話に聞くと、仰ぐような姿勢になって酒杯を傾けると、酔いがたちまち回るそうだ。ふり仰ぐとき、われわれは自然と息を大きく吸いこむから、杯から立ちのぼる酒精が胸の深くに染みとおって、酔いつぶれるのである。なるほど、そうかもしれない。しかし、絵馬堂で天井をふり仰ぐときの私には、冷静に絵の出来具合を判定しようというつもりはまったくなくて、ただ絵馬の奉献の日付けや奉納者の名、また絵師の名が、ぼんやりと目にうつるのを楽しむつもりしかないのだから、天井の絵馬から降ってくる埃のおかげで、ますます楽しくなるだけだ。いま吹きさらしの絵馬は、古くてせいぜい明治も二〇年代のものだが、それでも、もうほとんど剝げて、図柄さえ定かではない。

それがいいのだ、ここでは裁きをつけるのは、くり返される四季の自然力であって、流行の美学ではない。しかし、剝げてしまえば絵馬はおしまいではなくて、のこったわずかな岩絵具と板の木目との偶然から生まれる古色が、北野のお社の、あの苔むす回廊の屋根や本殿の造作の一切と、わけもなく溶け合っている。

銅製や石彫りの幾頭かの牛の目が柔和に光っているのを見ながら、本殿に近づいて高い敷居をまたぎ、一気に鏡のまえに行く。この間合いが、よその神社では、ちょっと味わえないほど爽快である。ここには、逆立ちで歩いても、とんぼ返りをしながら横切っても、いっこう咎めがなさそうなほど、気楽な、くつろいだ広がりがある、しかも決してそういう曲芸をやるわけにはゆかず、歩幅ただしく、さっさと歩かねば恰好がつかないような、なんともいえない品位をそなえた空間の味わいがある。

回廊をひとめぐりして、次は本殿の外まわりを歩く。檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く。格子の窓や軒端の彩色は、あでやかで、しかも渋い。この色がまさに京都の色だ、と正月の礼者にありがちな屠蘇の酔いをいいことにして、私も少し大胆につぶやく。

私は北野のお社を飽かずながめつつ、遠いイタリアの、フィレンツェの町を思い出すことがある。そして、なつかしさに気もそぞろ、文子天神の横から、北のほうへ抜けてゆく。

2014年1月1日水曜日

あけましておめでとう

あけましておめでとうございます、ーーということで本日はごたごた書かずに好きな文章を引用するだけにしよう。


                   (杉本邸宅)




暮れの二十四、五日頃に、隣家から餅つきの音が聞こえてくる。台所のたたきに臼を据えて搗いている。こちらの台所にまで、地響きが伝わってくる。裏庭にまわると、地響きに代わって、杵音が聞こえる。隣家の餅つきの気配だけで、こちらも気分がゆったりするのはありがたい。

わたしの家では、正月に、輪取りという形式の鏡餅を祖先にお供えする習慣がある。輪取りというのは、径二寸五分のまんまるい檜のたがをはめた、厚さ一寸の餅で、これを三つ重ねにしたものを左右一対、三方に載せて仏壇に供えるのである。この輪取りを承知している餅屋は、いまではほとんどないが、蛸薬師通りの新町東入ル鳴海餅という店だけは、いまでもきちんと作ってくれる。年の暮れに輪取りをこの店に注文するのは、順照寺という真宗西本願寺派のお寺と私のところと、二口だけになったそうである。私の家は西の門徒である。輪取りは、この筋からきているしきたりのようである。

序でながら、門松というものを、私の家では昔から立てたことがない。子どもの時分、どの家にの門口にも、根引きの小松が水引で結わえて柱の袖に掛けてあるのに、うちにはそれがないのがさびしく、父にわけをたずねたことがある。
「門徒物知らず、というてな。諸事簡素にするのがしきたりになっている」
と父が応じたような記憶がある。そういえば、他宗でするような盆のお精霊さんの行事もなければ、歳徳棚や荒神松も、うちには見当たらなかった。大晦日の夜のおけら参りというものさえしなかった。柳田国男が浄土真宗を目の敵に、いやむしろ眼中にも置かなかったのはもっともである。

したがって、正月の用意といっても、さして煩雑ではない。テレビが普及するにつれて恐るべき勢いで流行し、いつのまにやらあらゆる家庭が正月の準備の中心みたいになったおせちというものも、私のところでは従来作らなかった。年始のあいさつにきた人は、玄関で応々と呼ばわり、はきものを脱ぐことはせず、その場であいさつして、さっさと帰っていくのがしきたりだったからである。店の間に、ひつじ草の池沼を描いた時代屏風を立てかけ、そのまえに名刺受けをととのえておくと、名刺を投じただけでそのまま去ってゆく人を少なくなかった。年始の客は数が多いということくらい、だれも心得ていたから、あいさつ以外の冗語は互いに遠慮しながら、年始の往来をとり交わしたのだ。これを水くさいというなかれ。礼節は、形式的であればあるほど虚礼から遠ざかるものである。砕けた付合いがもてはやされる時代は、かえって虚礼がはびこる時代であろう。

ところで、八坂神社におけら参りをし、知恩院の除夜の鐘を聞いて帰れば、もう真夜中ということになるが、私の家でおけら参りをしなかった理由は、元旦が一年を通じてもっとも早起きしなければならない朝だったからだ。戦後も、これは当分そのとおりだった。夜ふかし朝寝坊のくせがついた学生時代には、早朝五時に叩き起こされるというだけで正月がいやだった。六時前にはもう来訪する分家の家族を仏間に迎え入れ、仏壇を正面にして左右に分かれて対面し、家族すべて顔をそろえて新年のあいさつを交すーーーこれが中京の多くが、心学の教訓にのっとった家訓にもとづき、長いあいだ実行してきた元旦のしきたりである。

集合の時間が、いつの間にか七時になった。やがて七時半にまで繰り下がった。こうなれば、廃絶までは時間の問題だ。三年まえ、分家の家族ふくめての参集のしきたりは絶えた。

いまでは八時頃、お雑煮を祝うまえに、私の家だけの親子三代が仏間に顔をそろえる。そしていささか堅苦しく「あけましておめどうとうございます。旧年中は……」と型通りのあいさつを表白する。小学生の娘がくすくす笑っている。

正月三ガ日のお雑煮は白味噌、七日は七草粥、十五日は小豆粥というしきたりは、いまもつづいている。食事というものが儀式の一端であるとすれば、この点では、正月は猶かすかに節を保ち、時の折り目の名ごりを、暮しの中にとどめている。(杉本秀太郎『洛中生息』1976)

…………

除夜の鐘がきけない海外に住んでいるのだが、 知り合いがそれを癒してくれる素晴らしい演奏をアップしてくれた。





すばらしい素材のシャツだが、シルク入りかな、演奏もビロードの肌触りとしておこう。

《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》

沈黙とスカンシオン(どもるかのような)を綯い混ぜたこの演奏は、コルトーでもリヒテルなどの著名な演奏ともまた異なる、ちょっとビックリさせるものだね


ああ遠くからやってくる鐘の音を聴きながら
異国の屠蘇を飲もう
美容師の妻の妹が肴をもってきた
さて痛風のぐあいはダイジョウブか

詩人は葡萄畑へ出かけて
こい葡萄酒をただでのむだろう
クレーの夜の庭で満月をみながら
美容師と女あんまは愛らしいひようたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる
ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ
お寺の庭の池のそばにはもう
クコの実が真赤になってぶらさがる
ダンテの翻訳者はクコ酒をつくる季節だ(西脇順三郎『失われた時』から)

実はあの曲は、宴のときのオレのレパートリーのひとつだった。





「おめでたう」はお正月の専用語になつたが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者即子分・子方が、親分・親方の家へ出て言うた語なのである。上は一天万乗の天子も、上皇・皇太后の内に到られた。公家・武家・庶民を通じて、常々目上と頼む人の家に「おめでたう」を言ひに行つたなごりである。「おめでたくおはしませ」の意で、御同慶の春を欣ぶのではない。「おめでたう」をかけられた目上の人の魂は、其にかぶれてめでたくなるのだ。此が奉公人・嫁壻の藪入りに固定して、「おめでたう」は生徒にかけられると、先生からでも言ふやうになつて了うた。此は間違ひで、昔なら大変である。一気に其目下の者の下につく誓ひをしたことになる。盆に「おめでたう」を言うてゐる地方は、あるかなきかになつた。でも生盆・生御霊と言ふ語は御存じであらう。聖霊迎への盆前に、生御魂を鎮めに行くのであつた。室町頃からは「おめでたごと」と言うた様であるから、盆でも「おめでたう」を唱へたのである。正月の「おめでたう」は年頭の祝儀として、本義は忘れられ、盆だけは変な風習として行はれて来たのだ。(折口信夫『若水の話』)






2013年12月18日水曜日

アランの「四つの徳」

前投稿(「プラトンとフロイトの野生の馬」)に引き続き、プラトン『国家』をめぐる資料。

◆アランのプラトンの『国家』について

プラトンは自己抑制について、素晴らしいことを言ひ、内面の統制は貴族的でなければならないことを示してゐる。つまり、優れたものが劣るものを統治するのだ。「優れたもの」で彼がさしたのは、私達の一人ひとりが内に持つ、知り、理解する力である。私達の内にある民衆、それは怒りであり、欲望であり、欲求だ。私はプラトンの『国家』を読んで欲しいと思ふ。それについておしやべりをするため、つまり、普通に言はれてゐるところを再確認するためではなく、自らを統治する術を学び、自らの内に正義を打ち立てるために。

彼の主な考へは、かういふものだ。人が自らをうまく統治できれば、さうしようと考へなくても、他人のためにも善き人、役に立つ人になる。これは全ての倫理の理念だ。それ以外は、野蛮人の取締りに過ぎない。諸君が恐怖といふ手段だけで、人々が争ひを避け互ひに助け合ふやうにすれば、確かに国の中にある種の秩序を築いたことになる。しかし、一人ひとりの内側は、単なる無政府状態だ。暴君に他の暴君が取つて代はる。恐怖が物欲しさを牢に入れてゐる。内側ではあらゆる悪が泡立つてゐる。外側の秩序は不安定だ。暴動、戦争、地震が来ると、牢から囚人達が吐き出されるやうに、私達の内でも牢が開かれ、怪物のやうな欲望が街を占領する。

だから、私は、計算や用心深さに基礎を置く倫理の教へは、凡庸だと判断してゐる。それ以上は言はないが。愛されたいと思へば、優しくしろ。お返しをして貰へるやうに、同胞を愛せ。子供に尊敬されたかつたら、親を敬へ。これは街頭警備に過ぎない。誰もが常に良い機会を、不正を犯しても罰せられない機会を待つてゐる。

私は、若いライオンの仔らが、倫理の教科書や教理問答集、全ての慣習や格子で爪を研ぎ始めたら、すぐに、別のやり方で語るだらう。彼らに、かう言ふだらう。何も恐れるな。自分が望むところを為せ。金の鎖にせよ、花で飾られた鎖にせよ、どのやうな束縛も受け入れるな。ただ、君たちは、自分自身の王になりたまへ。位を譲るな。欲望を、怒りを、そして恐れを支配する者たれ。羊飼ひが犬を呼び戻すやうに、怒りを呼び戻す訓練をせよ。諸君の欲望に君臨する王たれ。怖ければ、諸君を恐れさせるものに静かに歩み寄れ。諸君が怠惰なら、自らに任務を課せ。無気力なら、体を鍛へよ。我慢が足りないなら、縺れた糸の球を自分に与へよ。煮込みが焦げたら、大いなる食欲で食べるといふ王の贅沢を持て。悲しみに襲はれたら、自分に喜びを布告せよ。眠られず、草の上の鯉のやうに寝返りを打つてゐるなら、動かずにゐて、命令により眠る訓練をしたまへ。さうすれば、諸君は、自分の王になつてゐるのだから、王のやうに振る舞ひたまへ。そして、自らが良いと思ふことを為したまへ。

《君たちは、自分自身の王になりたまへ》とある。この勧告をどうどらえるか。前回みたように、フロイトーラカンの考えでは、われわれは自身の王にはなりえない。ここではあまりややこしいことは書きたくないが、ラカンの言い方では、主体の核には欠如がある。言語化されない欲動(欲望ではなく)の蠢きがある。もし己れの王になることを極限まで言うならば次のような定言命令がある。

汝の生み出した発話行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ。(アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』)
だがいまはその話ではない。


◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より

「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。

(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。

小林秀雄の読みはここではアランよりずっとペシミスティックであると言えるだろう。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)

《三島由紀夫が生きていたら、彼に読まれるということだけで、書けない小説があったはずだ。三島が死んでしまったら、同世代の作家たちの中に、あいつに読まれたら恥ずかしいという意識がなくなって、歯止めがきかなくなってしまった。小林秀雄が現職のときも、そういうことがあったと思う。》——蓮實重彦


後年、柄谷行人は小林秀雄批判の言葉を洩らすにしろ、柄谷行人の初期評論のモデルは小林秀雄にあったことは間違いない。



恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)


いまそんなモデルはどこにもない。




◆プラトン『国家』(藤沢令夫訳)より


アデイマントス発言)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)
それではまた放埓であることが昔から非難されているのも、同じような理由によるとは思わないかね。すなわち、そのような状態においては、あのおそろしい、あの巨大で複雑怪奇な獣が、しかるべき限度以上に解放されるからなのではないかね?(……)

また強情や気むずかしさが非難されるのは、それがライオン的な部分や蛇的な部分を不調和に大きく成長させ、緊張させる場合ではあるまいか?(……)

他方、贅沢や柔弱が非難されるのは、まさにその部分をゆるめて弛緩させるためではあるまいかーーその部分の内に臆病さを植えつける場合にね(……)

また、へつらいや卑しさが非難されるのは、同じその部分、気概の部分を、あの荒れ狂って始末におえぬ獣の下に屈従させ、金銭のため、またその獣の飽くことなき欲望のために屈辱に甘んじさせ、ライオンであることをやめて猿となるように、若いときから習慣づける場合ではないだろうか(590B)


プラトンの議論では知恵、勇気、節制が国家の正義をもたらすということになる。

この国家は、<知恵>があり、<勇気>があり、<節制>をたもち、<正義>をそなえていることになる》(427E)


これは前回しめした、魂の三分説<知を愛する人>、<勝利を愛する人>、<利得を愛する人>、あるいは理(ロゴス)を知る「理性的部分」、怒りや情熱をおぼえる部分「気概的部分」、飢えや金銭欲感じる部分「欲望的部分」のそれぞれが「知恵」「勇気」「節制」に対応し、その三つが相俟って「正義」を生むという議論だが、実際は小林秀雄が指摘するように、不正ばかりが書かれている。あるいは同じ小林秀雄が要約するソクラテスの「民主主義政体」については、当時は奴隷や女性の投票権がない小さな民主主義(いまではエリートだけの民主政とでもいうものだろう)にもかかわらず、衆愚政治やファシズムに陥らざるをえない機微が書かれており、あらためて反デモクラシーの言説として読まざるをえない。それはまたフロイトが『ある幻想の未来』で次のように書いていることをも想起させる。


……指導者は、自分たちの影響力を持ちつづけたいと思うあまり、大衆を自分たちに近づけるよりはむしろ自分たちのほうが大衆に迎合してしまう危険にさらされている。そこで、大衆からの独立を保つためには、指導者たちに権力手段を与えることが必要に思われてくる。これは要するに、文化の諸制度維持のためにはある程度の強制が絶対に必要とされる原因は、人間には自発的に働く意志はなく、また、情熱のとりこになった人間は道理に耳をかそうとはしないという、多くの人間に見られる二つの性質に求められるのである。

以下はふたたびアランだが、ここではプラトンの名は出していないにもかかわらず、明らかに『国家』が下敷きとしてあり、アランは四つの徳を並列的にならべ、最後に知恵=叡知だけが肝要だと説くことになる。この議論はカント的、あるいはフロイト的観点からはそのまま受け容れがたいにしろ、通俗道徳としてはいまでも基本であろう。いま通俗道徳としたが悪い意味ではなく、われわれの生は99パーセント、その道徳によって生きていくことができる。ただそれだけではない、ということが、カントやニーチェ、フロイト、ラカンなどによって言われているのを忘れてはならないということだけだ。

上にプラトンの国家からアデイマントスの発言、《ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないから》と引用したのは、不正ではないが、以下にアランが巧みに書くように’節制の徳がたいして尊敬されず、その理由は人間の器の小ささによると思われがちなことを示すためだ。前記事でしめされた己れの核の享楽(死の欲動)を認めつつのフーコー的な節制であればだれも文句はいうまい。

《節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。》

成熟もしかり。

《「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう》(加藤周一「老年について 」1997)

《停滞をとりあえず成熟と呼ぶことで、みんながおのれの貧しさを肯定しあ》う(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

プラトンの冒頭近くに印象的な会話がある。
『どうですか、ソポクレス』とその男は言った、『愛欲の楽しみのほうは? あなたはまだ女と交わることができますか?』

ソポクレスは答えた、

『よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの』

私はそのとき、このソポクレスの答を名言だと思ったが、いまでもそう思う気持にかわりはない。まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。さまざまの欲望が緊張をやめて、ひとたびその力をゆるめたときに起るのは、まさしくソポクレスの言ったとおり、非常に数多くの気違いじみた暴君たちの手から、すっかり解放されるということにほかならない。(329D)

ニーチェならひどく嘲弄する言葉だろう、連中の哲学はすべてこのたぐいさ、と。

わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者を笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「崇高者たち」手塚富雄訳)


さてようやくアランのプロポ「四つの徳」全文を引用することができる。実は前投稿から引き続き、このアランの文章を吟味するために、プラトンやフロイト、ニーチェ、小林秀雄などを引用しているようなところがある。ようするに十代の後半に出逢ったすばらしい文章であるにもかかわらず、齢を重ねて雑念が積み重なった身の者が引用するにはいささかの留保が必要なのだ(そして少年時にひどく愛したアランをなんとか救いたいという心持がある)。

そう、たとえばラカンならこう言う。

「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン「メルロポンティ追悼」)でありつつ、『セミネール一巻』では、それなりに好意的に取り上げていることを抜かさずにおこうーー《アランは、パンテオンについて心に描くイマージュにおいては人はその円柱の数を数えることはできない、と強調しました。それについては私なら、パンテオンを設計した人を除いては、と答えましょう。これだけでもう、私達は現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものそれぞれの関係に入り込んでいます。》(「フロイトの技法論」上 P231 岩波書店)


徳ということばは、まずそれ自身おどろくべき曖昧さをふくんでいる。日常のことばづかいにおいてもそうだ。植物の徳とはなにかは、だれでもこれを理解できる。それは植物に附された有効性のことで、これはけっして欺かず、けっして務めをおこたらず、確実にひとがそこに見出しうるものである。徳とは、これをいかように解そうともつねに力であることはかわらない。他方、徳とはつねに断念である。この矛盾は勇気のない精神の持主をなやます。まったく反対に、この矛盾は、語勢のためにすぎないときでも、まさしく人の個々とを刺激し、目ざめさせ、挑発すべきものなのだ。徳とは、たし
かに無力さゆえの断念ではなく、むしろ力ゆえの断念である。もし私が気狂いじみた怒りゆえに勇気があるのなら、それは徳ではない。もし私が卑怯さからして断念するならば、それはすこしも徳ではない。徳とはなにかといえば、自己の自己に対する力である。なんの役にも立たぬのについに罵りかえしてしまって、これを得意におもうものはない。肉屋の店先で、犬がやるのを見かけるように、快楽をまえにしてハアハアあえいで、これを得意におもうものはない。自分のかせぐお金によって自分の意見を規制するのを得意におもうものはだれもいない。自分の主人にへつらうことの好きなものはだれもない。自分の考えるところをいうこと、そして、まずもって自分の考えるところ、いうところを、そのため失敗をまねくかも知れないとおもわれるその状況のなかで、吟味すること、これが徳である。

古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。ある人に対して勇敢にいどみつつ正義を体することは、自己の自己に対する正義を体することよりもやさしい。それならば、勇気に対するこの熱情はどこから来るのか。おそらく、勇気のあかしということには論議の余地がないからである。問題は危険な行動をおこなうこと、しかも、躊躇によってであれ、軽率によってであれ、けっして挫かれてしまうことなしにそれをやることだ。そうしたものは、顔や手や声でわかる。それゆえにこそ、いかなる人に対しても勇気のあかしを示すことがもとめられていいこと、またこの条件によってしかなにびとも尊敬されないということが、なん世紀にもわたって人びとにみとめられて来たわけだ。こんにち決闘や挑戦はいささか忘れられている。もっとも、すっかり忘れられているわけではない。むしろ、勇気のあかしということは依然として人びとのうえに君臨している。戦いへの招きはこばみがたいものだが、それもこうした理由によるのである。

人間のいま一つの敵、それは快楽だ。かくして、節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。こういうわけで、この節制という徳は、ややもするといかがわしく思われる。自己の自己に対するばあいでもそうだ。というのは、およそ金づかいというもののほうが、いかにも勇気ありげにみえるものなのだから。それゆえに、人はこのヴェールをかむった徳、節制のまえではためらう。

富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、かくして奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。そして、この盗みたいという魅力にわれわれが抗しうる徳、あるいは内なる力とは、すなわち正義である。警官や裁判官による強制的な正義ではなく、自由な正義、自己に対する正義、だれもこれについてはなにも知らぬということを前提としての正義である。ところで、この徳は不確実さによってわれわれを疲れさす。というのはわれわれは、自分が四方八方から盗まれているような気がするし、またしばしば自分が、みずから欲せずに、しかも万人にほめられながら、盗人になっているような気がするから。ふつうの人は自分の正義をあかすよりも、その勇気をあかすのにいっそう注意ぶかいと、私がいったのはこのゆえである。このことはつぎの逆説をいくぶん説明してくれる。すなわち、ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだと。

この三つの徳を考察してみると、これらのものが第四番目の徳、すなわち叡知によってもたらされた影のようなものだということに気づく。というのは、問題なのはつねに、欺かれぬことであり、自分の明晰な精神を保持することなのだから。そして、情念の第一の作用とは、われわれを盲目にすることである。それゆえ、第一の徳とは、よく判断することであり、よく判別することであり、自分になにがもとめられているか、なにが約束されているか、自分にとってなにが重要なのか、自分はなにを欲し、なにを欲しないのかを知ることである。そして、あきらかなことだが、われわれを連れ去ろうとする人たちは、はなばなしくもそうぞうしい外観の花火により、賞讃により、侮辱により、皮肉により、恥辱により、威嚇によって、われわれの注意をおびえさせ、疲れさせ、がっかりさせることからまずはじめる。じつは、徳という名のもと、つねに目ざされているものは、判断力なのだ。徳は一つしかなく、自己自身をまえにした精神の自由な態度こそそれである。もろもろの徳のかげに姿をみせているのは、うまいことばでいえば、自己尊重ということである。有徳の人とは、自分がいわば精神の捧持者であると知り、またこの高い属性に対しみずから責任あると知る人のことである。それゆえ、賢者はただ自己をしか信ぜず、自己についてはただ自己の精神をしか信じない。かくして彼はときに、徳とはなにものでもないとさえいうにいたる。(アラン『人生語録集』(プロポ集 )彌生選書 1978 井沢義雄・杉本秀太訳)

これらはプラトンだけではなく、わたくしの狭い読書範囲でも、仏モラリストたちの系譜の言葉であることが分る。

たとえば、ラ・ロシュフーコーの箴言集から。

正義とは、自分に属するものを奪われるのでないか、との生ま生ましい危惧にほかならない。隣人のすべての権益に対する配慮と尊重、隣人にいかなる迷惑もかけまいとする、細心の注意はここから生まれるのである。この危惧が人間を生まれや運によって自分に与えられた富の限度内に踏みとどまらせるのであって、これがなければ、人間はとめどなく他人の財産を掠め取ろうとするようになってしまうだろう。

アランと小林秀雄より

森有正は、「彼(アラン)はアリストテレスを十八回読破したと言う!」と、感嘆の声を発しているが、およそアランほど、徹底して古典を読みこんだ者はいないであろう。

例えば、彼は、トルストイの大作『戦争と平和』を10回以上、あの厖大なサン・シモンの『回想録』を一行も飛ばさずに少くも三度以上反読する。『谷間の百合』、『パルムの僧院』、『赤と黒』に至っては実に五十回以上も読み返し、しかも読むたびに喜びを新にする。

「ステイヴンソンの『宝島』は、はとんど記憶の中に書きとめられている」と言う。おそらく、プラトンやスピノザ 、デカルト、ヘーゲル、(……)などの哲学者も、こんな風にして、その全著作をくり返し彼は熟読したのであろう。

例えば『谷間の百合』が退屈だとかつまらぬとか言う者がいるが、彼等はかけ足でページからページへと急いだだけで、ろくによく読みもしないで勝手な言辞を弄している、これこれしかじかの素晴らしい個所を引用してみると、彼等はそんな部分があったことにさえ全く気づいていない。

肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ、とアランは嘆くのである。

ーー森有正もアランに熱中した同じ頃熱愛したのだが、彼を救うための文章を書こうとして書き切れていない(もちろん救うといっても、わたくしの個人的な読書歴のなかで「救う」のであって、他人に強要するつもりはないが、少年時の愛は森有正のかんしては救い切れていないのだ)。

…………

アランは第一次大戦に自ら望んで従軍している。《46歳で兵役義務はなかったにもかかわらず、そして戦争を憎んでいたにもかかわらず、しかもアンリ四世校という名門中の名門の学校で哲学教師の職を得ていたにもかかわらず、志願して従軍しました。それも、アランの年齢と地位に配慮して後方任務が用意されたのを断り、重砲兵を希望して前線に赴いたのです。》(村井章子

《アランが世に知られるきっかけとなったのも、ドレフュス事件(1894年)の際に、スパイ容疑をかけられたドレフュス大尉を擁護し軍部を攻撃する論陣を張ったことでした。》

ほかにも一九三六年に組織された反ナチズム知識人連盟の会長になっている。
ボーヴォワールの日記を読むと、ふたつの大戦間、いかにアランが敬愛されよく読まれていたかを知ることができる。ただし第二次世界大戦間際には、あのオプティミズムは、ナチの侵攻に対しては通用しない、という意味のサルトルかあるいは他の友人との会話が書かれていたはずだが、いま確めてみることはしない。

アラン( 1868-1951)は、彼がプロポと名づけたこの種の短文を、 1906年いらい三十数年間、一日に一つ書くのを原則として、ほぼこの間の日数の半分に匹敵するおびただしいプロポをのこした。「君に天分があろうとなかろうと、毎朝、二時間ずつ書きたまえ。」というスタンダールのことばをアランは好んで引用するが、しかし彼はこうした短文をいたずらに書きためていたのではない。「自分の原稿を日ごとに活字にする人は、大理石ないし石材に彫刻する人んい似たところがある。彼は慎重をまなぶのである。」アランは 1906年2 月16日から 14年9 月1日にいたる間、『ルーアン日報』紙に「一ノルマン人のプロポ」と題して毎日かならず一篇の短文を、つまり合計して三千九十八篇のプロポを掲載したのである。以後も、数種の新聞・雑誌に定期的にプロポを発表しつづけた。慎重さは、まさに彼がいうように、翌朝には印刷されもはや修正加筆のきかない形にされた自分の文章が、無数の読者の手もとに配されてしまうという余儀なさによってまなばれる。まなばれた慎重さは、書き手のペン先を規制し、方向逸脱を監視するであろう。それにしても、まずはじめには決断をもってペンを動かすことが、つねに必要であろう。翌日の記事はさし迫っているからである。ところで、あつかう題目は、新聞の読者がよく知っている日常的な経験と毎日の報道のなかに求められねばならない、という余儀なさが、さらに加わる。人々が述べあう諸問題、しかも決して支配者ではなく民衆が語る話題。政治・社会体制は、そこで広い部分を占める。労働、情念、家庭、学校、小説、祭り、その他。以上が、アランのプロポの独特な展開とその文体とを鍛練した主たる条件だと考えられる。そして proposという語は、これらの条件をそのまま一語のうちに含むのである。プロポーー決意・主題・時宜・話題。(『アラン人生語録』弥生書房 1978 杉本秀太郎「あとがき」より)



2013年11月7日木曜日

春さん蛸のぶつ切りをくれえ  それも塩でくれえ  酒はあついのがよい





日本酒が飲みたしが
尿酸高値にて
米焼酎のみにて堪える日々なり

庭球仲間月一で各家にて宴する慣わし
当家の定番は純米酒をドバドバ注ぐ鼈鍋に決りしが
昨日の宴は鼈プリン体多しが為鴨鍋にす
鴨では物足りぬのか酒肴に卵つきの雌蝦蛄を
山のように持参するものあり

鴨も蝦蛄も尿酸には好ましくなき
のを知らぬではなく
鴨肉はわずかにて遠慮し
蝦蛄は五尾ばかりで我慢すべしと思いしが
結局十五尾ほど食すなり

鴨鍋といえば野菜は菊菜に決まりしが
はて鴨の脂をぞんぶんに吸った
好物の菊菜は大丈夫なりしか
ほうれん草はプリン体多きを知る身なり

乾季訪れ涼しく心地よき季節なり
ああ酒が飲みたし

母さん「蛸のぶつ切りをくれえ

それも塩でくれえ

酒はあついのがよい


それから枝豆を一皿」


…………

勧酒  于武陵 井伏鱒二訳


コノサカヅキヲ受ケテクレ (勧君金屈巵)

ドウゾナミナミツガシテオクレ (満酌不須辞)

ハナニアラシノタトヘモアルゾ (花発多風雨)

「サヨナラ」ダケガ人生ダ (人生足別離)



春暁   孟浩然  井伏鱒二訳


ハルノネザメノウツツデ聞ケバ (春眠不覚暁)

トリノナクネデ目ガサメマシタ (処処聞啼鳥)

ヨルノアラシニ雨マジリ (夜来風雨声)

散ツタ木ノ花イカホドバカリ (花落知多少)


静夜思       李


牀前看月光    牀前〔しょうぜん〕 月光を看る

疑是地上霜    疑うらくは是地上の霜かと

挙頭望山月    頭〔こうべ〕を挙げて山月を望み

低頭思故郷    頭を低たれて故郷を思う



井伏鱒二訳


ネドコニユクトキイイ月ガデテ

ニハハマッシロ霜カトミエタ

月ノヒカリヲミテイルト

ヒトリ妻子ニアタマガサガル

(昭和十年二月、随筆「中島健蔵に」)


井伏鱒二訳


ネマノウチカラフト気ガツケバ

霜カトオモフイイ月アカリ

ノキバノ月ヲミルニツケ

ザイショノコトガ気ニカカル

  (昭和十二年「厄除け詩集」)


(井伏鱒二夫妻 昭和二十七年)

ーーこの写真というのは、少し品を落とせば、母方の祖父母に驚くほど似てるんだよな、縁側というのか渡り廊下というのか、その感じも幼少年時育った祖父母の古い家に。

オレの「この一枚」だね


ある写真が私におよぼす魅力を(とりあえず)言い表わすとしたら、もっとも適切な語は、冒険(=不意にやって来るもの)という語であると私には思われた。ある写真は私のもとに不意にやって来るが、他の写真はそうではないのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)





(これは京都の杉本家住宅であり、祖父の家や庭はまさかこんな美しくはない)

ここで前にすこし湿った記憶を辿るようにして書いた文を挿入しておこう(今の気分とはすこし異なるが)


……庭には昔ながらの天然の飛び石が埋め込んであったが、よく磨かれた黒光りのする渡り廊下が右手の座敷の傍らを西に延びてゆく。廊下を隔てて庭に面したその座敷は庇が深いせいでいつも薄暗かったが、渡り廊下の側に寄れば、季節によって、大きく開けはなれた戸から、あるいは窓硝子を透して光が斜めに射し込んでいた。廊下突当りの左手には母のすぐ下の叔父の部屋がL字型に出っ張って庭を取り囲んでおり、右手に曲がれば厠に通ずる扉があり、扉を開ければそこにも渡り廊下があって、大小用の小部屋が三室西側に並んでおり、さらに廊下の奥の引き戸を開ければ一番下の叔父の部屋であって、そこにはその狭い部屋にある蓄音機でジャズやらクラッシックのレコードを叔父の身振りやら鼻歌とともに聴いて魅惑された少年がしばしば座り込んでいた。その小さな部屋を東側に引き返せば、座敷の北側にある仏間に通ずる。つまりは座敷の南側と西側を鉤型に渡り廊下が廻らしてあり仏間まで含めれば凹型に祖父の寝室兼居間の座敷を取り囲む形である。座敷の床の間の脇には、木製の鎧をつけた最初期のカラーテレビが古い家具のようにして新旧技術の成果を混淆させた奇妙な匂いと重々しい威光を放って沈座していた。

当時、仏間には少女時代に勤労奉仕で工場で働いていて爆撃に遭って吹き飛ばされたという母の姉の写真が飾ってあり、線香の香りと煙がいつも漂っていた記憶があるが、それは重苦しさともに湿った懐かしさの印象を齎す。柱も廊下もすべて黒々と艶光りをしていたのは、どこからから古材を仕入れてきて建てられたためらしいが、それが祖父の趣味だったのか節約のためだったのかは知るところではない。幼い少年は訪れた友人とよくかくれんぼをしたが、扉のある三つの厠の小部屋は隠れ場所としてすこぶる有効に活用された。ときおり皺深い小柄な「お手伝いさん」が少年たちの立てる騒音に嗄れた怒声をあげた以外は祖父母たちに怒られた記憶はない。お手伝いさんは「かあばあちゃん」と呼ばれ、牛川という近隣の田舎出であって、川婆ちゃんが訛ったものだった。かあばあちゃんは梅干壺のようなもののなかに入れた小さな白い虫を持参し、「精力」だか「健康」のためだか、時折蠢く虫を抓んで口に入れた。


母が病をえて、母方の祖父の敷地内の裏庭の北側に家を建てて移り住んだのは、六歳のときだが、母は祖母に看病されて祖父の家で寝ていたので少年の生活はほぼ祖父母の家で為された。母の寝ていた部屋は渡り廊下の東の突き当たりにある玄関の間のさらに東側にあり、その向こうは台所であり、その角にはこれは西洋式の小さな厠が一室あった。




……町を歩いていると、いきなりその家の扉が内側から開いて女に招じ入れられ、 お父さまがお待ちかねです、と言われたのだ。微かに熱のにおいのする薄暗がりが、ぬるい風呂のなかに浸っている時の湯のように全身を包み込み、皮膚全体が 微かな熱のにおいにべったりとまとわりつかれたようにぞっとして、みるみるうちに皮膚が鳥肌立つのだった。
わたしを招じ入れた女に案内され、低い 天井と不規則に起伏するへこみのある長い廊下を通って、荒れ果てた雑草の生い繁っている中庭に面した部屋に入り、その間中、部屋のなかにも、消毒薬や甘苦 い刺激のある薬品と病人の身体から発しているらしい粘り気のある淀んだ熱のにおいが混じりあった重苦しい空気がたなびきつづけていた。(金井美恵子『くずれる水』)


母の寝込んでいた部屋にいけば、病人の軀から発している粘り気のある淀んだにおいがあったには相違ないが、庭には雑草など生えておらず、刈り込まれた灌木や灯篭や庭石などをめぐらし、かつては小さな池もあったが事故があって埋められてしまった。祖父の小さな事業を継いで新しく工場を建てて別の場所に住んでいた一番上の伯父の幼児が少年と座敷でふたりきりで遊んでいた折、池にはまって溺死したらしい。だが少年にはその記憶はなくただ大人たちが殺気だって慌てふためく印象だけが残っている。これが機縁となり祖父は池を埋めてて伯父夫妻は離婚した。

祖父の始めた事業は一時的に盛況を誇り、二番目の叔父などは旧式の丸い形をしたシルバーグレーのベンツを愛車とし、独身を通した彼の脇にしばしば乗せられた少年は、地方の田舎都市にすぎないその町では、いくらか特別なまなざしで周囲から扱われた時期もある。この叔父の女友達は夜道、車にひとりで乗って家に帰る途中故障して道路に佇んで助けを求めていた際、親切を装って近づいた暴漢に襲われて、婚約していた叔父はそれが許せず結局彼女は自殺してしまった。酒場の女をときに家に連れてきたりはしつつ独身のままこの叔父も母と同じ齢、五十歳で死んでしまった。
首筋から肩へとかけて背後から寡黙に注がれていたはずの親しい視線のぬくもりが不意に途絶えてしまったり、目をつむったままでも細部を克明に再現できるほど見馴れていたあたりの風景にいきなり亀裂が走りぬけ、幾重にも交錯しながら数をますその亀裂が汚点のように醜く視界を乱してしまったり、肌身をはなさず持ち歩いていたはずのものが突然嘘のように姿を消し、その行方をたどる手がかりもつかめぬばかりか、それを身近に感じていた自分の過去までが奇妙によそよそしい存在に思われてきたり、足もとの地盤がいつのまにか綿なんぞのように頼りなげな柔らかさへと変容し、しかも鳥もちさながらに粘っこく肢体にまつわりついて進もうとする意志を嘲笑しはじめたり、あるいはまた、ことさら声を低めたわけでもないのに親しい人の言葉がうまく聞きとれず、余裕ありげに微笑する相手の口から漏れる無意味な音のつらなりを呆然としてうけとめるだけで、いったんは何か悪い冗談だろうと高を括ったもののいつしかそんな事態が日常化してしまうといった体験をしいられたりすると、人は、何かが自分から不当に奪われた、誰もが何のためらいもなく信じていた秩序が崩れ落ちてしまった、そんなことが起こってはならないはずだと思い、こちらは何も悪いことはしていないのに、向うからしのび寄ってきた邪悪なる意志が、この崩壊を、この喪失をあたりに波及させたのだと無理にも信じこむことで、そのとり乱したさまを何とかとりつくろおうとする。(蓮實重彦「健康という名の幻想」『表層批評宣言』所収)



今でもときおりかつての小さな事業の創始者としてテレビで紹介されたりするとは唯一生き残っている一番下の叔父から先年聞いてはいた。しかしわたくしの記憶のなかでは祖父はいつも俯いている。そして祖母はそれをいつも遠目にみやっている。以前、縁先に坐る井伏鱒二夫妻の写真を見て、はっとしたことがある(こんなに上品なふたりではなかったが)。あの写真は、今みてもあの屋敷での祖父母の姿とともに庭に面した縁側の光の感覚、そして同時に蚊取線香の匂いなのか仏壇の線香の薫りかに襲われる(もちろん年長者に見守られ縁側に坐って西瓜にかぶりつきながら種を飛ばす少年の平凡でありながら幸福な時間の記憶がないではない)。





今の気分は、祖父のこんな声だな

ーー「お前さん、蛸のぶつ切りは塩でなくちゃあいけない」

昨日の宴の発話を和訳しておこう。

「おい、シャコは塩にちょいと檸檬汁をたらして喰うもんだぜ」
「焼酎じゃあだめだね、辛口の日本酒じゃないとな」



逸題


今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ
春さん蛸のぶつ切りをくれえ

それも塩でくれえ


酒はあついのがよい

それから枝豆を一皿
ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先づ腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ
今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ(『井伏鱒二詩集』)