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2013年12月11日水曜日

コビトの国の王様

……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』 講談社文庫 P24)




「コビトの国の王様」は、戦後日本において「抑圧されたもの」としてよいだろう。もちろんマッカーサーとの会見の約一年後に米国からいわゆる「押しつけられた」とされる現行憲法もその影を大きく背負っている。

経済発展期や議会運営などがまがりなりにも上手くいっているときは、抑圧されたものはある意味で忘れ去ることができた。なにかが上手くいかなくなったとき、ーーたとえば国内に大きな事故や消費税値上げ、あるいは財政逼迫、少子化などの将来にわたっての「引き返せない道」の苦難が瞭然とすれば、さらには二大大国の狭間で「見栄えのしない課題」に汲々とせざるをえないのならば、ーー「天皇」が直接回帰するだけでなく(天皇制論)、その隠喩としての「現行憲法」も否応なしに回帰する。

……われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。

たとえば、被分析者は、「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを想い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)

コビトの国の王様にとっての、権威としての親への反撥は、米国だけではないだろう。今後、かつて土足で上がりこんだ本来の「親」の家、中国への気遣いもますます増してゆく。

ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p418)

武藤国務大臣 (……)

 そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日
『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七


昭和二十年九月廿八日。 昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るか たなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜし ことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云ふ者に もあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

…………

だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒だという感じが常に先立っている。むかしあの天皇が、僕らの少年期の終りイギリスへ行ったことがあった。あるイギリス人画家のかいた絵、これを日本で絵ハガキにして売ったことがあったが、ひと目見て感じた焼けるような恥かしさ、情なさ、自分にたいする気の毒なという感じを今におき僕は忘れられぬ。おちついた黒が全画面を支配していた。フロックとか燕尾服とかいうものの色で、それを縫ってカラーの白と顔面のピンク色とがぽつぽつと置いてあった。そして前景中央部に腰をまげたカアキー色の軍服型があり、襟の上の部分へぽつんとセピアが置いてあった。水彩で造作はわからなかったが、そのセピアがまわりの背の高い人種を見あげているところ、大人に囲まれた迷子かのようで、「何か言っとりますな」「こんなことを言っとるようですよ」「かわいもんですな」、そんな会話が――もっと上品な言葉で、手にとるように聞こえるようで僕は手で隠した。精神は別だ。ただそれは、スケッチにすぎなかったが描かれた精神だった。そこに僕自身がさらされていた。(中野重治『五勺の酒』)
これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男(「東京新聞」「中日新聞」文芸時評 昭和五十年十一月二十八日夕刊)
志賀氏が、天皇を天皇制の犠牲者として、自由にものを云うことを奪われた、残念ではあるが気が弱い、人間的には好い人と…見ていたことは…明白である。中野氏の『五尺の酒』を読めば…あの繰り人形さながらの動作とテープ録音そっくりのセリフを棒たらに繰り返す天皇への憐れさへの何とも処理しがたい心持ちと焦立ちを…描いていることもまた明白である。(藤枝静男、「志賀直哉・天皇・中野重治」昭和五十年「文藝」七月号)
今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。 然し天皇制には責任があると思ふ。‥‥  天子様と国民との古い関係をこの際捨て去つて了ふ 事は淋しい。今度の憲法が国民のさういふ色々な不安 を一掃してくれるものだと一番嬉しい事である。  (志賀直哉  「昭和21. 4.『婦人公論』)
…………

日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言へないところがあり、いはゞ大義名分といふものはさういふ意味で利用せられてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によつて矛をすてたといふのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考へてをり、政治家がそれを利用し、人民が又さらにそれを利用したゞけにすぎない。

日本人の生活に残存する封建的偽瞞は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。(坂口安吾『天皇小論』)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」)
我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」)

…………

昭和63年、昭和天皇が病床に就かれ、多くの人が陛下のご平癒を祈って宮城を訪れ、記帳した。その光景を見た浅田彰曰く、『連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです(「文学界 平成元年二月号)』)
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


◆『柄谷行人 中上健次全対話』(講談社文芸文庫)より


中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。

《実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。……》(図像学というアリバイ 浅田彰


北一輝は、明治以前の天皇は「土人の酋長」と変わらないといっている。事実、先にのべたように、元号も明治までは自然を動かす呪術的な機能であった。「一世一元」とはそれを否定することであり、天皇を近代国家の主権者とみなすことである。北一輝にとって、明治天皇は立憲君主であり「機関」としてある。つまり、天皇個人もその儀礼的本質も、彼にとっては本質的にはどうでもよかったのである。ヘーゲルもいっている。≪君主に対し客観的な諸性質を要求するのは正当ではない。君主はただ「イエス」といって最後の決定を与えるべきなのだ。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要でなくなるようにあるべきものだからである≫(『法哲学』280補遺)。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収P27-28)

◆柄谷行人『倫理21』より抜粋
1970年天皇をかついだクーデターを訴えて自決した三島由紀夫のような人は、死ぬ前のインタビューでも、昭和天皇に対する嫌悪と軽蔑を隠していません。また、天皇の戦争責任を認めて右翼から襲撃された長崎市長本島等は、左翼どころか、どちらかといえば「右翼的」な人物です。総じて、天皇の戦争責任を認める者は、蜷川新のように「明治気質」の人間です。日本国家の戦争責任を認めるならば、天皇の責任を認めるべきであり、そうでないなら、戦争責任を全面的に否定すべきだ、その二つに一つしかありません。
今日において史料的に明らかなことは、戦争期において、天皇がたんなる繰り人形でもなく、平和を愛好する立憲君主でもなく、戦争の過程に相当積極的に加担していたということです。さらに、天皇自身がその地位の保全のために画策したということです。戦争末期にそれは「国体の維持」という言い方をされたのですが、つまりは天皇制および天皇個人の地位の護持ということが、当時の権力の最大の目的でした。
イタリアはいうまでもなく、ナチス・ドイツが降伏した後でさえ日本が戦争を続けたのは、なんら勝算や展望があったからではなく、降伏の条件として天皇制の「護持」をはかって手間取ったのです。その結果として、何百万人の兵士、市民が戦場や都市爆撃、さらに二度の原子爆弾によって死ぬことになりました。
にもかかわらず、敗戦の決定は、天皇自身の「御聖断」によってなされたという神話ができています。そのような神話づくりには、占領軍のマッカーサー将軍も加担しています。彼は「国民が救われるなら、自分はどうなってもいい」と語った天皇に感動したということを伝記に書いていますが、これは明らかに虚構です。「自分はどうなってもいい」のなら、もっと前に終戦をいうべきだったし、もし「立憲君主」のためにそのような介入ができない立場にあるなら、敗戦においてもそれはできなかったはずです。
実際には、天皇制を保持し天皇を免責することを決めたのは、ソ連あるいはコミュニズムの浸透をおそれたアメリカ政府です。また、マッカーサーは、東京裁判のあと天皇が退位することを当然とする日本の識者の意見に対して、それを抑えました。

※参考:三島由紀夫の天皇論


浅田彰の共感の共同体批判、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している》という文章は、ラカン用語で仮装されているが、丸山真男や、あるいは加藤周一らのモダニスト系譜のものだろう。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』より

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(加藤周一の死

2013年11月13日水曜日

五石六鷁の作法

他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。(志賀直哉「城の埼にて」)

とありますが、初心の者にはなかなかこうは引き締められない。

日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居たが、それを見ると淋しかった。

と云う風になりたがる。それを、もうこれ以上圧縮出来ないと云う所まで引き締めて、ようやく前のようなセンテンスになるのであります。(谷崎潤一郎『文章読本』)

上に引かれた段落の前には、《それを刷ってある活字面が実に鮮やかに見える》として志賀直哉の見事なお手本を繰り返し玩味すべきとされ、その圧縮した文章、すこしの無駄もないものを作り出す工夫が絶賛されている。そして、かくの如き文を生み出すには、《センテンスの構造や言葉の順序を取り変えたり、全然用語を改めたりする必要》も起る云々、と書かれた直後にあらわれる。しばしば名文を褒めるときに、字面が立ち上がっているなどと云われることがあるが、それを言い表わす代表的な文章のひとつとしてよい。

もっとも、流麗な文(和文調)と簡潔な文(漢文調)――源氏物語派と非源氏物語派――に分けて文章の美を説く箇所でもあり、谷崎潤一郎自身は流麗な調子を好み、《この調子の文章を書く人は、一語一語の印象が際立つことを嫌います》とされる。他方、志賀直哉の文が一語一語が際立つ簡潔な名文の代表とされて上のように書かれているわけだ。

ところで文章の作法の教えのひとつとして「五石六鷁〔ゴセキロッゲキ〕の作法」というものがある。『春秋』の注釈書『公羊伝』による教えであって、中井久夫は日本語の作法として格別に肝要だとしている。さて、志賀直哉の上の文には「五石六鷁」の形跡はあるのだろうか、と思いを馳せてみる。


◆中井久夫「一つの日本語観ーー連歌論の序章としてーー」より(『記憶の肖像』所収)。

日本語が論理的に曖昧であるという声が内外にある。どんな言語でも曖昧な文は作ろうとすればできる。英語でも、受身にすれば、主語を回避できるし、実際、日常なされていることである。しかし、日本語が曖昧であるという印象の根拠で、われわれの問題と関連して注目する価値のあることが二つあると私は思う。自然な、よい日本語とそうでない日本語の区別は、主にこの二つをどうするかにある。

一つは、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さの如何である。この点に関してのよい教えを、私は、日本語作法の本ではなく、中国古典『春秋』について周末から漢初にかけて書かれた注釈『公羊伝』に見出す(竹内照夫『四書五経』より引用)。

僖公十有六年。春、王正月戊申、朔、隕石于宋、五。是月、六鷁退飛過宋都。
(春、王の正月戊申、朔、宋に隕石あり、五つ。是月、六鷁退飛して宋の都を過ぐ)

公羊伝は「なぜ、まず隕といい、次に石というか。隕石とは記聞(聞こえたことの記録)である。まず何かが隕〔お〕ちた音が聞こえる。次に調べてみると石と知る。次に数えてみると五つである。だから隕石……五という文になるわけだ。……なぜまず六といい、次に鷁〔ゲキ〕というか。六鷁退飛とは記見(見えたことの記録)である。まず何かが飛んでいるのが見える、六つである。よく見ると鷁という鳥である。なおもよく見ると後方へ飛びしさってゆく(「退飛」とは強風のため鳥が頭の向きとは反対の方向へ吹き戻されながら飛んで行くこと)。だから六鷁退飛……という文になるわけだ」と説き、春秋の文は、……論理や文法の上でも記事文一般にとって模範とすべき表現法を有するもの、と見ている。……穀梁伝も同じで、次のように説いている、「隕を先に石を後に書くのは、隕ちた物があって、次に石と知るからである。……君子は隕石や鷁飛などの事件にすら、その書法をおろそかにしない。ましてや人事に関して謹厳なるべきこと、論をまたない。すなわち、五石六鷁の記事文を厳正にすることも、また、王道を盛んにする一法なのである」。

私は日本語の作文には「五石六鷁の作法」が重要であると思っている。日本語発話の状況依存性と既知メッセージ省略の大きさを考慮すれば、この作法は特別の考慮に値する。この作法は、物事を認知する順序であるから、当然、イメージが聞き手に自然に浮かぶような順序となる。おそらく、日本語の発話においては、未知を順々に既知へと繰り込む際、「五石六鷁の作法」によって次第に眼の前が開けてくるような快い感覚を与えるものが、よい質の発話と感じられるのであろう。日本語の発話においてイメージは無視できない要素である。必ずしも視覚イメージばかりでなくーー。

この後、「第二は」、と続き「時枝の風呂敷」をめぐって書かれるがここでは割愛する。


さて、《他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた》である。

《他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮》において、日暮が先の印象ではあるまい。同時、もしくは《他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた》のにまず心眼が向かい、そこで「ああ、もう夕暮れだな」という感慨が生れたとするのなら、「五石六鷁の作法」に適う。《日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って……》とされては、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さは劣る。

夕暮れとなり、日中、陽に照らされていた瓦は冷え冷えとして見える。これも印象の順序に書かれている。そこでの《冷たい瓦の上に一つ残つた死骸》なのであって、あらためて冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見遣る事で、《淋しかつた》のであれば、これも「五石六鷁の作法」に適う。《その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居た》の文のように「冷たい瓦」がうしろに来てしまえば、感覚の印象の順序が守られていない(ここはいささか強引かもしれない。「……とも解釈できる」としておこう。「一つ残つた死骸」が先にきても違和はすくないが、「日暮れ」→「冷たい」と続くほうが物事を認知する順序としては好ましく感じる)。

一般には、電車に跳ねられた事故の療養のために温泉宿にひとり淋しく過ごす志賀氏の心境が二重写しになっている、と解釈される箇所であり、上の「五石六鷁の作法」の解釈はいささか牽強附会気味かもしれないが、谷崎潤一郎が初心者がやり勝ちな、として冗長に書き換える二番目の文よりは、志賀直哉原文のほうが、明らかに「五石六鷁の作法」に適っているという風に言えるには相違ない。

志賀の文が常に「五石六鷁の作法」に従っているわけではないだろう。だが彼の一読なんの変哲のないような文章までがときおり思いがけず後々まで印象に残っていることがあるのは、その簡潔な美以外に、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さに負うところが大きいのではないか、--そういった観点で読み直してみる価値はありそうだ。

以下はしばしば引用される有名な箇所である。
踏切りの所まで来ると白い鳩が一羽線路の中を首を動かしながら歩いていた。私は立ち留ってぼんやりそれを見ていた。「汽車が来るとあぶない」というような事を考えていた。それが鳩があぶないのか自分があぶないのかはっきりしなかった。然し鳩があぶない事はないと気がついた。自分も線路の外にいるのだから、あぶない事はないと思った。そして私は踏切りを越えて町の方へ歩いて行った。
「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。(『児を盗む話』)
Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水に遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面に結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。

舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声がだんだん遠くなった。(志賀直哉『焚火』)

すくなくともこの『焚火』のふたつの段落に於て「五石六鷁の作法」の実践、つまり、感覚の印象の順、物事を認知する順序に書かれていることは瞭然としている。

ところで中井久夫には、上に引用された『焚火』の箇所を想起せざるをえない圧縮された・無駄のない文がある。
岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収

ーー倒置法が使われている箇所(「小さく、あくまで小さく」)を除いては、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さがあるとしてよいだろう。

…………


小林秀雄は昭和四年に次のように書いている(谷崎潤一郎の『文章読本』は昭和九年)。
なるほど志賀氏の文体は直裁精確であるが、それはある種の最上の表現がそうであるように直裁精確であるにすぎないので、ここに氏の細骨鏤骨の跡を辿ろうとし、鑿々たる鏨の音を聞こうとするのはおそらく誤まりだ。(小林秀雄『志賀直哉』)

小林秀雄は志賀直哉の文章に《細骨鏤骨の跡を辿ろうとし、鑿々たる鏨の音を聞こうとするのはおそらく誤まりだ》--つまり、彫琢の跡などを探し辛い、としているわけだ。

もっとも今では草稿と定稿の比較研究もあってそれなりの推敲がなされているのが知られている。たとえばインターネット上にある「志賀直哉における「自分」の一人称代名詞用法について]」(金,晶)という論文をみればそのことは自ずと知れる。この論文は志賀直哉の文章の特徴のひとつである、再帰代名詞としての「自分」ではなく、主格としての「自分」の用法を分析する目的で書かれているのだがーーたしかに「私」が使われる場合と「自分」が使われる場合とどう違うのか、は翻訳者の方であれば苦労されるのだろうーー、それを検討するなか、草稿と決定稿との比較がなされている。

上の「彫琢の跡などを探し辛い」と読める文は、小林秀雄一流のレトリックとして取り扱うべきであり、小林の言いたい肝腎な事は次に続いて書かれる志賀直哉の《物を見るのに、どんな角度から眺めるかということを必要としない眼》であろう。

私はいわゆる慧眼というものを恐れない。ある眼があるものをただ一つの側からしか眺められない処を、さまざまな角度から眺められる眼がある、そういう眼を世人は慧眼と言っている。つまり恐ろしくわかりのいい眼を言うのであるが、わかりがいいなどという容易な人間能力なら、私だって持っている。私は慧眼に眺められてまごついたことはない。慧眼のできることはせいぜい私の虚言を見抜くくらいが関の山である。私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。物を見るのに、どんな角度から眺めるかということを必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定めることができない態の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はそういう眼なのである。(小林秀雄『志賀直哉』)

…………

最後に、中井久夫が「五石六鷁の作法」を説く小論「一つの日本語観」は、「連歌論の序章として」という副題をもっており、連歌の「五石六鷁」に触れた箇所を抜き出しておこう。

連歌について私の言わんとすることはすでに明らかであろう。これは全体の意味が存在しない詩という点で特異でもあり、複数で作るという意味でも稀な詩形式である。

雪ながら山もとかすむ水無瀬かな
ゆく水とほく梅にほふ里
川風に一むら柳春みえて
舟さす音もしるき明け方
月やなお霧渡る夜に残るらむ
霜おく野原秋は暮れけり

…………

連歌にうとい私もこの「詩」とその接触の美学を味わいうる。外国語に訳せないなどとくだらぬことは言うまい。連歌を高く評価しているのは、とりわけドナルド・キーンの日本文学史である。この六番の間にも季節は第四番を介して、春から秋へ転換している。この六番が非常に鮮明に視覚的であるのは、まず、さきの五石六鷁の作法にかなっているからである。そして、焦点がソフトになったりシャープになり、距離が遠ざかり近づく(第四番だけ聴覚が前景に出ており、これが舞台まわしをつとめている)。地表の人工衛星写真がフィルムの感光特性によってさまざまな影像を与えるように、ここでフィルム特性をかえれば、まだまだいろいろな映像が得られる。たとえば音の分析である。背景に共有されている文化である。具体的には王朝の名歌のかずかずである。われわれには、作者が知らなかった味わい方もできる。これらに触発された俳諧である。蕪村と芭蕉がすでに顔をのぞかせているのではないか。


※引用されている連歌はもちろん「水無瀬三吟百韻」から。


…………

上の文を読み返してみれば、谷崎、志賀、小林、中井各氏の文の、なんという優れて簡潔なひきしまり具合よ、それに引きかえ、オレの書いた文の冗長さ、その憐れなさま。

これでもすこしは書き直したんだがね、やりだしたら全部変えたくなるんだよな、そしていじくっているうちに文章がかたくなってきたり、枯れてきたりで……マイッタネ










2013年11月12日火曜日

自ずと浮んだ「嘘」(志賀直哉)

『鵠沼行き』失敗した長い小説の一部分を切り離した日記のようなものである。すべて事実を忠実に書いたものだが、ただ、一か所最も自然に事実ではなかったことを書いた所がある。そういうふうにはっきり浮んできたので知りつつそう書いた。後にその時いっしょだった私の二番目の妹が、いろいろなことを私がよく覚えていると言い、しかし自分もこのことはよく覚えていると言ったが、それがその一か所だけ入れた事実ではない場所だった。私は、そこは作り事だとは言いにくくなって黙っていたが、妹がでたらめを言うはずはないので、私に最も自然に浮んできた事柄は自然なるがゆえにかえって事実として妹の記憶に蘇ったのだろうと考え、おもしろく思った。(志賀直哉「創作余談」)

おもしろい話だ。志賀直哉の妹にとって、ほかの事実は殆ど忘れてしまっても、自ずと浮んだ「嘘」(志賀直哉の心に最も自然に浮んだ虚構)だけが「事実」として強く印象に残っている、ということが書かれている。

柄谷行人が次のように語る内容のコインの表裏の関係にある。

たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。(『闘争のエチカ』)

ここでは、《小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれている》とされるが、志賀直哉の妹は、自ずとした記憶の約束からずれていない「虚構」がもっとも印象に残る事実として記憶されているということだ。

吾々が「事実」として語ることは、このような「虚構」であることが、思いのほか多いのではないか。


プルーストの『失われた時を求めて』の最終巻「見出された時」の手頃なメモがEvernoteの引き出しにある。

話者の友人ジルベルトの第一次世界大戦中の手紙、その「美徳」の物語、自ずと浮んだ「虚構」の箇所から。

……ジルベルトの手紙によると(なんでも一九一四年の九月だった)、彼女は、ロベールの消息がききやすいからパリに残っていたいのは山々だったが、パリの上空をたえずおびやかすタウペの空襲がおそろしく、とりわけ小さな娘のために心配でたまらないので、まだコンブレーに行けるという最後の汽車に乗ってパリから逃げだしたのだが、汽車はコンブレーまでさえ行かず、ある農夫の荷車に乗せてもらったおかげで、十時間の難コースをおかして、やっとタンソンヴィルまでたどりつけたのだった。(……)ジルベルトは、そのおわりに書いていた。「ドイツの飛行機をのがれるためにパリを発った私は、タンソンヴィルなら何もかも安心して避難できると考えていたのです。まだ着いて二日も経たないうちに、何が起きることになったか、想像もおつきにならないでしょう、ドイツ軍はラ・フェールの近くでわが部隊をうちやぶったそのいきおいでこの地方に侵入してまいりますし、一個連隊をしたがえたドイツの一司令部がタンソンヴィルの門前にあらわれるというわけで、私はその宿舎を提供しないわけにはまいりませんでした、のがれる方法はございませんし、もう汽車も、何もないのです。」(「見出された時」井上究一郎訳 文庫p111-112)
ところでこんど、私が二度目にパリに帰って、着いたその翌日にジルベルトからあらたに受けとった手紙によると、彼女は先刻私がここでお知らせした手紙のことを、すくなくともその内容のことを、どうやら忘れてしまっているらしかった、というのは、一九一四年のおわりに彼女がパリを発ったときをふりかえりながら、だいぶちがった模様を述べているからだった。「ごぞんじではないかもしれませんけれど、親しい友よ」と彼女は書いてきているのだ、「私がタンソンヴィルにまいりましてから、まもなく二年になろうとしています。私はドイツ軍と同時にこちらに着いたのです、みんなは私が出発するのをひきとめようとしたのでした。私は気違いあつかいにされました。《どうしたのです》といわれました、《パリにいればあなたは安全なのに、敵の侵入を受けた地方に向けて出発するなんて、誰もがみんなそこから逃げだそうとしているちょうどそんなときに。》そうした考えかたが正しいのを認めなかったわけではありませんでした。でも仕方がありません、私のただ一つの美点といえば、卑怯なのがいやで、というよりも、義務に忠実なと申しましょうか、私の親しいタンソンヴィルが危険にされされているのを知ったとき、私たちの老管理人だけを一人残してそこをまもらせる気にはどうしてもなれませんでした。私の立場は、彼のそばにいてやることだと思われました。それにまた、そうした決心のおかげで、私はどうにか館を救うことができたのですーー近辺のほかの館はすべてその所有者がとり乱して投げだしたために、ほとんど全部、根こそぎに破壊されてしまいましたーー館ばかりではございません、私のなつかしいパパがあんなにたいせつにしていた貴重なコレクションも救うことができたのでした。」つづめていえば、いまジルベルトが思いこんでいるのは、彼女がタンソンヴィルにやってきたのは、一九一四年に私に書いてきたように、ドイツ軍をのがれて避難するために、ではなくて、逆に、ドイツ軍に遭遇し、彼らの手から館をまもるために、なのであった。P118-119

ここでプルーストは格別皮肉っているわけではない。そもそもひとの発話などそんなものであり信頼しすぎるほうがどうかしていると言いたいはずだ。

ことによるとジルベルトはパリを逃げだす際にもどちらのほうが安全であろうかという逡巡があったのかもしれず、しかしながら、いったんタンソンヴィルに向かうという決断をしたあとは自らの決意を正当化するために「タンソンヴィルなら何もかも安心して避難できると考えていた」と1914年の手紙に書き綴ったとも考えられる。だがその当てが外れてコンブレー=タンソンヴィルで思いがけずにもドイツ軍の客を迎えなくてはならなくなったというのは当時のおそらく正直な感想であろう。さて二年後には《彼女はまったく掛値なしに、前線の生活を送》ることになって、《新聞などでは、彼女のあっぱれな行為が、最大の讃辞をこめて語られ、勲章をさずける問題まで起きていた》(p119)。その勇敢なる英雄の物語の主人公であるジルベルトが自らの二年前の逃避行を「美徳」の物語として虚構化するのは当然といえば当然なのであり、ひとは多かれ少なかれそんなことをやっている。「自分語り」などというものはその程度のものなのであり、「私」だけは真実を正直に曝けだしているなどという手合いにはことさら用心しなければならない。告白やら自分語りは、《精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない》(ロラン・バルト)のであり、ラカンが「同一化」セミネールで《見解上の「私は思う」は、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合にーーつまり厄介なことが起こるというわけだがーー言う「私は思う」以外の何でもない》と語るのも似たようなことを指摘している。「過去の私(ジルベルト)はそのような美徳の行動をしたと今の私は思う」のだ。《人間は、自身で経験した事件についてさえ、数日後には噂話に影響された話し方しかしないものだ》(小林秀雄「ペスト」)なのであり、ましてやジルベルトの場合は二年後である。

あわせて次の文を読めばそのあいだの消息がわかるのではないか。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)
(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(同上)


…………


ジルベルト、すなわちプルーストの初恋の女性、ジャンヌ・プーケあるいはマリー・ド・ベナルダキがモデルと言われる。ベナルダキについて、プルーストは世を去る数年前にも「自分の生涯の二つの大恋愛の一つ」と語っている。

もっとも、「モデル」などと安易に書くとプルーストは顔を顰めるだろう。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (「見出された時」)

少女ジルベルトと少年マルセルが藪で絡まる長い小説のなかでも性的風景として最も印象的な場面のひとつーー主人公がモンジューヴァンのしげみで、ヴァントイユ嬢と女友達のサディスム的遊戯を覗く場面やら、シャルリュス男爵がソドムの館の鞭打ちされて快楽の呻き声をあげる場面、あるいはアルベルチーヌの死後、マルセルはある地区の洗濯屋の二人の小娘を売春宿にこさせて隣室で聴耳をたてる箇所などともにーーその場面ついてプルーストのテクスト生成研究で著名な吉田城はつぎのように書いている。

プルーストのラブシーンは多くの場合何らかの口実によって始まる一一くすぐってもらう,ポケットの中のコインを探させる,取っ組み合いを演じる一一のだが,ジルベルトのキスも別れの挨拶に名を借りた恋愛遊戯なのである。「遺伝的ではあるが新しい,私にとっては未知の力」と作者も明記している。性的風景もまたその欺臓を暴く役目を担っている。だが,ジルベルトの暖昧とも言えるこの態度ではまだ物足りなかったのであろう,ブルーストは決定稿において, さらにはっきりと,無邪気を装って性的行為へと誘う,小さな妖婦のごときジルベルトの姿を創造した。ぐったりとなった主人公に間髪を入れず「もしよかったらもう少し取っ組み合いをしてもいいのよ とささやく小悪魔の姿を。(「プルーストと性的風景」)

本文も井上究一郎訳訳で附そう。

まもなく私は「侯爵夫人」にいとまを告げ、フランソワーズのあとにしたがったが、ジルベルトのそばにもどろうと思ってフランソワーズから離れた。私は月桂樹のしげみのうしろの椅子に腰をかけた彼女をすぐにさがしあてた。彼女は友達から見つけられまいとしてそうしているのであった、彼女らはかくれんぼうをしていたのだ。私は近づいて彼女とならんで腰をかけた。彼女は目のあたりまでずりさがった平べったいトック帽のために、私がはじめてコンブレーで彼女に認めたあの「下目づかい」の、夢みるような、ずるそうなまなざしとおなじ目つきをしているように見えた。( ……)椅子にあおむけに寄りかかって、手紙を受けとるように私に言いながら、わたそうとはしないジルベルトに近づいた私は、彼女の肉体にはげしくひきつけられる自分を感じて、こういった( ……)。

「ねえ、ぼくに手紙をとらせないようにしてごらん、どっちが強いか見ようよ。」

彼女は手紙を背中にかくした、私は彼女のうなじに両手をまわして、彼女のおさげをはねあげた、その髪は、また彼女の年にふさわしいからか、それとも彼女の母が自分自身若やくためにいつまでも娘を子供っぽく見せておこうとしたためか、編んで肩にたらしてあった、私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)






2013年8月14日水曜日

焚火




カンボジアの若い踊り手たちがジプシーのようにして訪れ近くの広場で宴をもよおしている。男たちが太鼓と笛の鳴り物、そして歌、女たちが踊り、ときおり男たちの呼び声に応えるようにして裸蹠で地を踏み鳴らしつつの腹の底から搾り出すかのような深いアルトの合いの手。ときに野卑な嬌声ともきこえるしゃがれた声音は決して無垢ではない陶酔感を齎す。

彼は立止まった。目的のない散歩だったが、煙草が無くなっているのを思い出して、また歩き出した。近所の商店街に、夜店が立並んでいるようにおもえたが、それは錯覚だった。アセチレン燈をともした夜店とか、祭りの日の神社の境内に並んだ見世物小屋とか、そのような幻覚がしきりと彼を襲った。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)





焚き火を囲んで、女たちがゆっくり動く。軀の振れはすくなく、わずかずつ右回りに歩んでゆく、ほとんど垂直の姿をたもったままの肢体と、それにひきかえ目まぐるしく表情を変える腕から先、殊更くねり狂う手頸と指先。何かに触れ、あるいは触れられるような悪徳の指先の動きの蠢動。闇夜のなかで焚火のゆらめく光に照らされただけの、それら淫らな蠢きによる闇の官能化、「桶の底をはいつくす/なめくじやむかでの踊り」(吉岡実)。そして女たちの眼が美しい、男の視線に耐えるまっ直ぐな眼差し、そこにある陽気さと諦念の混淆(もっともカンボジアの少数民族の村のものたちだから、一般的なカンボジア女性と顔つきがかなり違う)。

ふだんは露天市の立つだけの平凡な空間が突如異化され、チマタ(巷)=道の股、《異質な他者や共同体へと開かれた「交通」の場所》(赤坂憲雄)、あるいは《共同体をはみ出ておこなわれる歌垣という性的交歓の場》(西郷信綱)に変貌する。






わたしたちがふつうに歩くときの歩みは、じつにたやすく、何とも親しいものなので、それ自体として、また奇異なる行為として考察されるという名誉を得たことがない(不随や障りある身となって、わたしたちが歩みを奪われ、他人たちの歩みに感歎するという場合は別ですが) …… だから、歩みについて素朴に無知であるわたしたちを、歩みはみずから知るとおりのやり方で導いてくれます。土地の状態によって、また人間の目的や気分や状態によって、あるいはさらに道の明るさにさえ左右されて、歩みは歩みとしてある。すなわちわたしたちは、歩みというものを考えぬまま、歩みを失っているのです。(ヴァレリー「魂と舞踏」清水徹訳)




焚き火の焔がいっとき高く燃えあがり、周りを取り囲む見物人たちの姿が突如鮮明に照らされる。そして焔は急に弱まってゆき燠火のようになると、今度は踊り子たちの姿態が地からほのかに照らされるだけとなり異質の陰翳が生じる。彼女たちの軀が浮き上がるかのようであり、あるいはまた視聴覚に集中していた感覚がふと宙吊りにされ、炭火の焦げた匂い、闇の粒子の肌触りを敏感にまさぐりだす。闇が色濃くなって、向う側の観客が煙草に火をつけるガスライターのちいさな焔が蝋燭の灯にようにみえる。より闇の深い場所に眼をやれば、暗黒の壁に点綴するかのようにして巻煙草の先が赤い模様を描いている。「蛍火の今宵の闇の美しき」(虚子) 誰かが薪を継ぎ足し、焔の勢いを恢復させる。するとふたたび闇は柔らかい黒さの奥行を取り戻す。それにともなって束の間の静けさに襲われたかのような若い鳴り物師たちの荒々しさが恢復する。思いがけない半時間の刻。




「こんなに濡れていても焚火ができますの?」
「白樺の皮で燃しつけるんです。油があるので濡れていてもよく燃えるんですよ。私、焚木を集めますから、白樺の皮を沢山お集め下さい」
一面に羊歯や八つ手の葉のような草の生い繁った暗い森の中に入って焚火の材料を集めた。

皆は別れ別れになったが、KさんやSさんの巻煙草の先が吸うたびに赤く見えるのでそのいる所が知れた。

白樺の古い皮が切れて、その端を外側に反らしている、それを手頼りに剥ぐのだ。時々Kさんの枯枝を折る音が静かな森の中に響いた。

(……)

皆はまた砂地へ出た。
白樺の皮へ火をつけると濡れたまま、カンテラの油煙のような真黒な煙を立てて、ボウボウ燃えた。Kさんは小枝からだんだんに大きい枝をくべてたちまち燃しつけてしまった。その辺が急に明るくなった。それが前の小鳥島の森にまで映った。

(……)

先刻から、小鳥島で梟が鳴いていた。「五郎助」と言って、暫く間を措いて、「奉公」と鳴く。

焚火も下火になった。Kさんは懐中時計を出して見た。
「何時?」
「十一時過ぎましたよ」
「もう帰りましょうか」と妻が言った。

Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水に遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面に結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。

舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声がだんだん遠くなった。(志賀直哉「焚火」)

《水夫が一人溺れて沖に沈んだ/気づかぬ母は聖母イコンの前にいって/背の高い蝋燭に火を灯した/はやく帰ってきますように 海が凪ぎますようにと/祈り 風の音にも耳をそばだてた。//母が祈りこいねがうその間/母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは/じっと聞いていた、悲しげに荘重に。》(カヴァフィス「祈り」中井久夫訳)






《火は人を呼ぶ。盛大な焚き火は人々を集める。人々は火を囲んで焔が一時輝き、思い切り背伸びするのをみつめる。かと思うと、焔は身をかがめて暗くなり、いっとき薪にまつわって、はらはらさせる。火を囲む人々は遠い過去の思い出に誘われがちだ。

私は思い出す、戦後の大阪駅前を。敗戦後何年か、夏でさえ、南側の広場にはいつ行っても焚き火があって人々が群がり、待ち合わせ場所にも使われていた。私も長い時間をその焚き火の側で過ごした記憶がある。時代の過酷さを忘れて人々はいっとき過去を思い出す表情になっていた。

岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。

しかし、他の何よりも思い出を誘うのは火、ことに蝋燭の火だ。間違いない。「ロウソクは一本でいい。その淡い淡い光こそ/ふさわしいだろう、やさしい迎えだろう/亡霊たちの来る時にはーー愛の亡霊が。/……今宵の部屋は/あまり明るくてはいけない。深い夢の心地/すべてを受け入れる気持、淡い光――/この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る/亡霊たちを招くためにーー愛の亡霊を」(カヴァフィス)。終生独身のこの詩人の書斎の照明は最後まで蝋燭一本だったという。特にお気に入りの友が来た時は二本、稀には三本を灯したとか。》(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収)





ろうそくがともされた   谷川俊太郎

ろうそくがともされて
いまがむかしのよるにもどった
そよかぜはたちどまり
あおぞらはねむりこんでいる

くらやみがひそひそささやく
ときどきくすっとわらったりする
こゆびがふわふわのなにかにさわる
おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる

きもちがのびたりちぢんだりして
つばきあぶらのにおいがする
ぬかれたかたなのにおいがする
たいこのおととこどものうたごえ

(……)

きもちがのびたりちぢんだりする
ろうそくのほのおがちいさくなって
くらやみがだんだんうすれていくと
おはようとのんきにおひさまがやってくる

いちねん じゅうねん ひゃくねん せんねん
どこまでもまがりくねってみちはつづいて
ひとあしひとあしあるいてゆくと

からだのそこからたのしさがわく