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2014年5月28日水曜日

五月廿八日 『性欲論』におけるBemächtigungstrieb

『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb」に引き続き、Bemächtigungstrieb(征服欲動)をめぐる。これまでは1920年以降のいわゆる後期フロイトの論文からBemächtigungstriebという語が書かれる叙述を拾ったが、今回は前期フロイトの『性欲論三篇』DreiAbhandlungen zur Sexualthearie 1905(人文書院旧訳)より。

以下は幼児の性感帯は口唇領域や肛門領域が先に芽ばえると書かれた後の箇所。この幼児期性愛の口唇欲動と肛門欲動の指摘により人間はすべてもともと倒錯的である(多形倒錯性)、というフロイトの有名な、ヴィクトリア朝時代のモラルが支配的だった当時としてはスキャンダラスな言葉が生まれている。ラカンの四つの部分対象「乳房」「糞便」「眼差し」「声」のうちの前二つはこのフロイトの論から生まれているといってよいだろう(この部分対象にかかわる部分欲動をめぐっては、「症例ドラの象徴界/現実界、あるいは「ふたつの無意識」」の記事の後半を見よ)。

小児の身体の性感帯のなかには、確かに主な役割を演じているのでもなければ、またもっとも初期の性的興奮の担い手でもないが、しかし将来大事な役目を果たすように定められている一つの性感帯がある。それは男児の場合にも女児の場合にも、排尿に関係づけられており(亀頭、陰核)、それに男児の場合には粘膜嚢に包まれているので、その性感帯は早期に性的興奮を煽るかもしれないような分泌物からうける刺激にこと欠かないのである。実際の性器の一部分となっているこの性感帯の性的活動は、のちの「正常な」性生活の始まりなのである。

解剖学上の位置や分泌物の充溢のため、身体の洗浄や摩擦、さらにはある種の偶然的な刺激(女児のおける体内寄生虫の移動のような)などのために、この身体部位が生みだすことのできる快感が小児の乳幼児に早くも認められるようになったり、これを反復したいという欲求が、めざめさせられたりするというのは、避けがたいことであろう。こうした実状のすべてを概観し、また純潔保持のための方策もかえって不純化の効果しかあげることができないという事実を考えあわせるならば、ほとんどの個人のさけることのできないこの乳児期の手淫によって、この性感帯が将来の性活動に対してしめる優位が確保されるのだ、という見解は拒むことができないだろう。刺激をとり除き、満足感をよび起こす動作の実体は、手で摩擦しながらの接触とか、あらかじめ教えこまれたようになにか反射的に手によって圧迫することとか、太股を密着させることなどにある。このあとのやり方は女児の場合にはるかに多く行なわれるものである。男児の場合にはこのんで手を用いるこということがすでに、男性の性活動に対していずれは占有欲Bemächtigungstriebがいかに重要な貢献をするようになるであろうかということを示唆している。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集 5 p51)

この訳文では占有欲となっているBemächtigungstrieb(支配欲動)について(欲動そのものの発露の仕方は男女の間に変わりがないのに))、なぜ男性ほうが女性に比べていっそう支配的傾向を帯びるのかについての一つの理由となるものが挙げられている。すなわち陰部が出っ張っているので、男児は性器を掴むことができる(占有しやすい)。これが男性の能動性につながり、逆に女児の場合は、そういうわけにはいかない。太腿を密着させるなど受動性への傾きがあるということになる。後年の筋肉の発達の相違が、男性の攻撃性を女性よりいっそう促すのは当然であるが、それ以前の幼児期段階での男女の肉体的特徴による支配性、能動性の傾きの違いが説かれている。

これ以外にも『欲動とその運命』1915において、サディズムの分析のあと、《覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出す》とされている(参照:「欲動と原トラウマ」の後半)。覗き見衝動は、男性に強く、女性には少ないだろう。これも能動性=支配欲動の一貫であるが、なぜ男のほうが視姦欲動が強いのか、と言えば、やはり陰茎が出っ張っていることに由来するという説明をしてもよいだろう。これらが後年の女性に比べて男性の支配欲動のより一層の強さの原因のいくつか(少なくとも外面的に現われた)であるに相違ない。

このあたりは、そんな馬鹿な! という反応があるのだろうが、男性ののぞきやフェティシズム的傾向をこれほど巧く説明して納得させる仮説がいまだほかにあるだろうか(ラカンの微調整を除いて)。やはりソーセージをもっているか、がま口をもっているかは決定的な原因のひとつではないか。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910  フロイト著作集3 P116)

レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。

分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるともしばしば語っている。

さらにフロイトーラカン派の見解から演繹すれば、これらの理由以外に、男性は標準的には最初の愛の対象である母=女を変える必要がないが、女性はこれも同じく最初の愛の対象、母=女を父=男に変換することによって支配欲動を諦める訓練が幼い頃になされているとすることができる。誰しも《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)のだが、女性は母への排他的な愛を転換する成長過程をもっているのだ。また、これは女性のエロトマニア(被愛妄想)的傾向を説明する。


このあたりについて、一般読者向けにとても分かり易く書かれたPaul Verhaegheの、『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』における叙述を見よ。いまはそこからいくらか抜粋するだけにする。

・男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。

・反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。

・この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面(部分対象へのフェティッシュ、あるいは対象支配ともしておこう:引用者)に囚われるのと対照的である。

こうして本来男女間に変わりがない欲動であるはずのBemächtigungstrieb(征服欲動)が、たとえばフロイトの別の論文では、《男性特有の獣的な征服欲Bemächtigungstrieb》などと書かれることになる。
抑圧された性的欲求が原因で第一の夢を見て以来、彼の妄想の中心部にその娘の身体の状態にたいする好奇心、嫉妬、そして男性特有の獣的な征服欲Bemächtigungstriebがいったいいかなる口実のもとに、いかなる変装をして現われたのか、そのことについてはすでに指摘しておいた。(W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢 Der Wahn und die Traume in W. Jensens ‘Gradiva1907 P73)

だが、女性の関係性志向とはいいつつ(たとえば斎藤環の『関係する女 所有する男』)、この抑圧された征服欲動は消滅してしまったわけではなく別の形で奔出する。Quirino Zangrilliが書く「冷感症と支配欲動」はその一例であるし、もっと一般的にはフェラチオそのものが、征服欲動(能動性)に由来するという調査・見解もある。

A recent survey showed that many women experience fellatio as a sense of power—on condition that they take the initiative, and that it is not imposed on them, in other words, on condition that they take the active role.(Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaegheーー低級な人種ですよ!/その種のものとしては最高さ

これは少し異なった文脈で語られた中井久夫の言葉なのだが、《他者巻き込み型》の暴力、ーー男性的な「肉体的」暴力ではなく、女性的な「関係性」のうちに奔出する言葉の暴力ーー「こういう暴力は、端的な物理的な暴力よりもあきらかに破壊的です」「物理的な暴力をふるわれて自殺した患者を私は知らないですから」(こんなとき私はどうしてきたか 中井久夫)ということはあるのではないか。もっともここでの「女性的な」というのは、セックスやジェンダーにおける「女性」とは関係がない。男性にも「関係性」の暴力に「秀でた」タイプはいるだろう。

ところでかつては攻撃欲動の社会的捌け口の仕組みがあった。祭りはその典型だろうし、もっと遡れば「歌垣」の集団的な性の饗宴もあった。いまはインターネットの書き込みか、スポーツぐらいか(個人的な話を書けば、妻がテニスをするようになって家庭にて「攻められる」こと甚だ少なくなった)。

「ヒステリー女が欲するものは何か?……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

ファルスはラカン、ルツがアルチュセール(妻エレーヌを絞殺している)がモデルであることが知られている。

ーーと引用して何を言おうとするわけでもない(まさか妻を絞め殺したい心持をもった時期があったなどと間違っても口から洩らすつもりはない)。ここでは、Bemächtigungstrieb(支配欲動)の飼い馴らしの話である。そしてそれは男も女も誰にでもある。《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫


いずれにせよ、《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)のに相違なく、ここで男性側のみの見解を言えば、自立した存在として幼少の砌の髑髏を振り払うべく男は女=〈母〉に対して受動性に置かれるのを一般的に倦厭するようになる。だがすべての女性には〈母〉の全能性の影が落ちている。ヴェルハーゲによって、ある種の男性の女性蔑視や女性嫌悪の理由が次のように書かれることになる。

The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother.

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。
This is every young policeman's nightmare: a middle-aged woman rolls down her car window and asks, 'What is it, son?'

これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
It is this original omnipotence that evokes fear in all its aspects, from sexism to misogyny

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(同 Paul Verhaeghe 私訳)

もちろん敢えて子供のように振舞って、女性の支配欲動と巧みに操るというマゾヒズム的戦略家たちもいる。

マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供、しかもとくにきかん気な子供として取り扱われることを欲している。》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』人文書院旧訳 p302

「きかん気な」はこの旧訳では「いたいけな」となっているが、「きかん気な」に変更した(英訳と原文の参照による)。

マゾヒズム? それは支配されることで支配する倒錯的な戦略なのだ。だが多くの女性がこのマゾヒスト的戦略をとっているとしたら?


…………


さて、--次の投稿にしたらいいのだが、「言葉の暴力」としたところで、ふと思いついたついでにそのまま書くのだがーー、男女のあり方が大きく変わりつつあると言われる現代、男の愛し方、女の愛し方は変わったのだろうか。女の男のもとめ方は、わたくしにはよく分からない。だが男の愛し方、というか、女への欲望のもち様は、かつて例えば、「一盗、二婢、三妾、四妓、五妻」と言われた。これはたちまちラカンの娘婿でもあるミレールの言葉、“You are the woman of the Other, always, and I desire you because you are the woman of the Other.”と重なる。女が〈他者〉の所有になっているから、その女を欲望するのだ。

ところで、ジジェクは『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』にて、ファルスの享楽/〈大他者〉の享楽(女の享楽)に関して、サイバースセックスの例を挙げている。

男たちはネット空間にて、自慰行為の愚かな反復に耽ることが女たちに比べて格段に多い。他方、女たちはチャットルームにて、言葉の交換(誘惑的な)に享楽を見出す、と。

これはなにもセックスに限らなくてもよいのであり、たとえばツイッターでの男たちの発話は自慰的ではないか? そして女たちは誘惑的(関係的)ではないか? メンションを送ったり送られることに、男たちよりも格段に喜びを見出しているのではないか。仮に他者とのやりとりを拒んでいるふりをしていても、誘惑的な言葉(「この私を見て!」に象徴されるような)が呟かれることが男よりも格段に多いのではないか。

女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。》(ミレール 愛について)ーーこれはフロイトの『性欲論三篇』におけるフェティストの男/エロトマニアの女という区分けに由来する。

Let us clarify this passage apropos of the opposition between the jouissance of the drives and the jouissance of the Other, elaborated by Lacan in Seminar XX, which also is sexualized according to the same matrix. On the one hand, we have the closed, ultimately solipsistic circuit of drives that find their satisfaction in idiotic masturbatory (auto-erotic) activity, in the perverse circulating around object a as the object of a drive. On the other hand, there are subjects for whom access to jouissance is much more closely linked to the domain of the Other's discourse, to how they not so much talk as are talked about: erotic pleasure hinges, for example, on the seductive talk of the lover, on the satisfaction provided by speech itself, not just on the act in its stupidity. Does this contrast not explain the long-observed difference in how the two sexes relate to cybersex? Men are much more prone to use cyber-space as a masturbatory device for their lone playing, immersed in stupid, repetitive pleasure, while women are more prone to participate in chat rooms, using cyberspace for seductive exchanges of speech(ZIZEK.THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)

もっとも現在は次のようなことはあるので、自慰的な女、誘惑的な男もそれぞれ漸次増えているのかもしれないが。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート・バダンテール)

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(Élisabeth Badinter

…………

ジジェクは言語の世界に耽溺するのは女である、と言う。《woman is more fully “in language” than man.》

あるいは、《it is women who are immersed in the order of speech without exception. 》(The Real of Sexual Difference Slavoj Zizek)

この言語の世界に囚われるというのは、象徴界の囚人ということであり、旧来の通念、女性とは自然、身体などのより現実界的な世界に住まうという思い込み(男とは文化、論理などの象徴界的な生き物)とはやや異なる印象をまずは受けるだろう(たとえば「女は子宮で考える」)。

だがここでは中期以降のラカンの話をしている。前期の想像界/象徴界で語られたラカン理論なら、女性は想像界の住人とされるのはほぼ「常識的」だろう。。だがセミネールⅩⅠ移行のラカン、すなわち、「想像界と象徴界」/「現実界」のラカンであるならばどうだろう。そこでは想像界は象徴界によって構造化されているとされる。この意味で、「想像界と象徴界」=「象徴界」とした上での象徴界/現実界の対比における、女性の象徴界の住人という論旨である。

ここでジジェクとあわせて、同様の見解を示すヴェルハーゲの文を引用しておこう。

It seems as if woman stands for nature, drive, body, semiotic, and so on, and man for culture, symbolic, psyche, and so forth. Yet this is not confirmed by day- to-day experience, nor by clinical practice. Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts. Biblically or not, woman conceives for the most part by the ear and is seduced by words. In contrast, an unmediated, drive-ridden sexuality seems much more characteristic of masculine eroticism, whether gay or straight. Nor does motherhood’s apparent linking of woman and Nature stands the test. In my clinical practice, I have seen far too many mothers who reject their children or–even worse–had no interest in them whatsoever. The maternal instinct is a myth, and maternal love is an effect of an obligatory alienation. Many new mothers must face the fact that their reactions to their new baby fail to coincide with this anticipated love.(Paul Verhaeghe『 Phallacies of binary reasoning:drive beyond gender 』)

All one should add here is that there is also a more literal reading of the jouissance féminine which totally breaks with the topos of the Unsayable―on this opposite reading, the “non-All” of the feminine implies that there is nothing in feminine subjectivity which is not marked by the phallic-symbolic function: if anything, woman is more fully “in language” than man. Which is why any reference to pre-symbolic “feminine substance” is misleading. (Slavoj Žižek: The Real of Sexual Difference

ジジェクはここで非-全体の論理(女性の論理)を使って、女性がより象徴界の住人であることを説明しているのだ。《the “non-All” of the feminine implies that there is nothing in feminine subjectivity which is not marked by the phallic-symbolic function》

さらに精神分析臨床家でもあるヴェルハーゲ曰く、《Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts.》

「女性の享楽」というラカンの言葉がある。これは快原則の彼岸にある現実界にある享楽ということだが、「女性の享楽」における「女性」という言葉に騙されてはならない。

In a purely differential relationship, each entity consists in its difference from its opposite: woman is not‐man and man is not‐woman. Lacan’s complication with regard to sexual difference is that, while one may claim that “all (all elements of the human species) that is not‐man is woman,” the non‐All of woman precludes us from saying that “all that is not‐woman is man”: there is something of not‐woman which is not man; or, as Lacan put it succinctly: “since woman is ‘non‐all,’ why should all that is not woman be man?” (Slavoj Žižek: Formulae of Sexuation: The Non-All)

もっともこれらはいささか捕捉をしなければならないのは知っている(そうでないと女性に怒られる)。だが、それは次回? あるいはそのうち書くかもしれない。




2014年5月25日日曜日

五月廿五日 『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb

『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb」に引き続き、フロイトの「ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡」(Warum Krieg? 1933におけるBemächtigungstrieb(征服欲動)。だがこの論文は手元に邦訳がなく、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から抜粋することにする。“instinctと出て来る語は“driveと読み替えなければならない。下に黒字強調した”the instinct for mastery”が”Bemächtigungstrieb”である。

Why War?

I can now proceed to add a gloss to another of your remarks. You express astonishment at the fact that it is so easy to make men enthusiastic about a war and add your suspicions that there is something at work in them - an instinct for hatred and destruction - which goes halfway to meet the efforts of the warmongers. Once again, I can only express my entire agreement. We believe in the existence of an instinct of that kind and have in fact been occupied during the last few years in studying its manifestations. Will you allow me to take this opportunity of putting before you a portion of the theory of the instincts which, after much tentative groping and many fluctuations of opinion, has been reached by workers in the field of psycho-analysis? According to our hypothesis human instincts are of only two kinds: those which seek to preserve and unite - which we call ‘erotic', exactly in the sense in which Plato uses the word ‘Eros' in his Symposium, or ‘sexual', with a deliberate extension of the popular conception of ‘sexuality' - and those which seek to destroy and kill and which we group together as the aggressive or destructive instinct. As you see, this is in fact no more than a theoretical clarification of the universally familiar opposition between Love and Hate which may perhaps have some fundamental relation to the polarity of attraction and repulsion that plays a part in your own field of knowledge. But we must not be too hasty in introducing ethical judgements of good and evil. Neither of these instincts is any less essential than the other; the phenomena of life arise from the concurrent or mutually opposing action of both. Now it seems as though an instinct of the one sort can scarcely ever operate in isolation; it is always accompanied - or, as we say, alloyed - with a certain quota from the other side, which modifies its aim or is, in some cases, what enables it to achieve that aim. Thus, for instance, the instinct of self-preservation is certainly of an erotic kind, but it must nevertheless have aggressiveness at its disposal if it is to fulfil its purpose. So, too, the instinct of love, when it is directed towards an object, stands in need of some contribution from the instinct for mastery if it is in any way to obtain possession of that object. The difficulty of isolating the two classes of instinct in their actual manifestations is indeed what has so long prevented us from recognizing them.

・《human instincts(drives) are of only two kinds》、すなわち人間の欲動はふたつの種類しかないとあり、エロス欲動と並べて、「殺害し破壊するを追求する」欲動とされており、「攻撃欲動」ともある。《those which seek to destroy and kill and which we group together as the aggressive or destructive instinct.》。

・エロスと破壊欲動は、愛と憎悪を言い換えたに過ぎない、とされる。だが速断してならないのは、これらの二つの欲動はどちらも欠かすことができないことだ、と。《Neither of these instincts is any less essential than the other》。

・エロスと破壊欲動は独立して働くことは稀にしかない。《an instinct of the one sort can scarcely ever operate in isolation》。

・愛の欲動(エロス)は、“the instinct(drive) for mastery”の助けがあって初めて可能になるとある。《the instinct of love, when it is directed towards an object, stands in need of some contribution from the instinct for mastery if it is in any way to obtain possession of that object.》

ここでフロイトはアインシュタインへの手紙ということもあり、専門的な語彙を極力使用せずに語ろうとしている。「タナトスthanatos」という用語も出てこないし、「欲動融合Triebmischung」(エロスとタナトスが融合して現れること)とも言わない。そのとき現れるのが、「支配欲動the instinct for mastery」である。

the instinct for mastery”とは繰りかえせば、Bemächtigungstrieb(征服欲動)のことであり、ここでフロイトは殆ど「殺害し破壊を追及する」欲動、攻撃欲動と征服欲動を同じものとして扱っている。もちろん愛の対象を所有するためには、征服欲動が欠かせないには相違ない。もし「征服」という言い方に異和があるのなら、こう言ってもいい、――《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)――すなわち「排他欲動」と。

「排他」、すなわち排除と選別の運動であり、そこには攻撃する力が要請される。夏目漱石は「排除」と「差別」ではなく「融合」と「共存」と日本的風土のまどろみから目覚めさせられた衝撃を、英国留学から帰還後次のように書き綴っている。


二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのじや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己を節する器械ぢや。自らを抑える道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷つけぬ為め自己の体に油を塗りつける[の]ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人に勝てる訳はない。― 夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のあるものは必ず負ける。清廉の士は必ず負ける。醜を忌み悪を避ける者は必ず負ける。礼儀作法、人倫五常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪の問題ではない ―powerデある ―willである。(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

ここで『マゾヒズムの経済的問題』にてみた《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)を想い起こし、ニーチェの「権力への意志」をめぐる叙述を引用してもよい。

善とは何か? ――権力の感情を、権力への意志を、権力自身において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。
幸福とは何か? ――権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。
満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)。(ニーチェ『反キリスト者』)

この意志を飼い馴らすためには、どうあるべきかをめぐる示唆については、「『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb」の後半を見よ。


ところで愛と憎悪をめぐっては、最晩年のフロイトの著作『終りある分析と終りなき分析』(1937)‘Die endliche und die unendliche Analyse’にて、「Philia 愛とNeikos闘争」と言い換えているのだが、それをめぐっては長くなりそうなので次の投稿に続く、→「フロイトの『Why War?』における愛と憎悪」。




2014年5月24日土曜日

五月廿四日 『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb

引き続き、Bemächtigungstrieb(征服欲動)をめぐる。フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』1924(人文書院旧訳)より。

《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)の形で出て来るが、前後を含めて、すこし長く引用する。ドゥルーズのマゾッホ論におけるサディズムとマゾヒズム解釈と一見、著しく相反する箇所であるということもある。

サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P163)

ドゥルーズが書く笑い話に、《マゾヒストが、「いためつけてくれ」という。するとサディストが「ごめんこうむる」》(P52)というものがある。これはサディストはマゾヒストを求めはしないし、逆も真なりということだが、この箇所では、フロイトとドゥルーズはまったく異なった水準でサド=マゾを語っているということも言える。フロイトの叙述には《有機体内で作用する死の欲動ーー根源的サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない》とあるのだが、死の欲動=根源的サディズムとは、ドゥルーズによって死の欲動=反復と言い換えられ、《快感原則は、〈エス〉にあっての心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるもの》(P139)を「死の欲動」としている(これは《すべての欲動は実質的に死の欲動である》(Ec, 848)とするラカンの立場に一致する)。

エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、エロス化されたマゾヒズムとしての二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけであり、そのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)ーー「ドゥルーズとジジェクの死の欲動」より

さて、『マゾヒズムの経済的問題』の邦訳そのものにわたくしにはやや分かりづらい箇所があるので、今回はフロイト郵便氏の「翻訳正誤表」を参照することなく(冒頭一部正誤表案に則って訂正したが)、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から抜粋して併記することにする。なお以前にも書いたが、この英訳の”instinct”の訳語(原語 treib)は、”drive”と読み替えなければならない。

私は、『性欲論三篇』中の一章において幼児期性愛の源泉に関してこう主張した。性的興奮は、きわめて数多くの内的事象がある量的限度を越えて強烈なものになるや否や、その副作用として発生する。いやおそらく、有機体中に生起する一切の重要なことは、かならずその構成要素を性欲動興奮のために役立たせるような性質を持っているのであろう。したがって、苦痛興奮や不快興奮もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張におけるこうした随伴的リピドー興奮は後年には枯渇するところの幼児的生理的機制なのではあるまいか。この随伴的リビドー興奮は性的体質の異なるに応じて異なった発達度を持ち、いずれにせよ、のちに心理学的には性愛的マゾヒズムというものを作りあげるところの生理学的基盤をなすものではあるまいか。

In my Three Essays on the Theory of Sexuality, in the section on the sources of infantile sexuality, I put forward the proposition that ‘in the case of a great number of internal processes sexual excitation arises as a concomitant effect, as soon as the intensity of those processes passes beyond certain quantitative limits'. Indeed, ‘it may well be that nothing of considerable importance can occur in the organism without contributing some component to the excitation of the sexual instinct'. In accordance with this, the excitation of pain and unpleasure would be bound to have the same result, too. The occurrence of such a libidinal sympathetic excitation when there is tension due to pain and unpleasure would be an infantile physiological mechanism which ceases to operate later on. It would attain a varying degree of development in different sexual constitutions; but in any case it would provide the physiological foundation on which the psychical structure of erotogenic masochism would afterwards be erected.
しかし、この説明には不充分なところがあって、マゾヒズムと、欲動生活の上でその敵対者となっているところのサディズムとの規則的で緊密な関係は、このような説明では少しも明らかにはならない。さらにもう一歩遠く遡って、生物体中にはたらいていると考えられるところの二種類の欲動という仮説にまでたちもどると、われわれは上述のものと矛盾することのない、別の筋道に到達する。(多細胞)生物においてリピドーは、細胞中に支配する死あるいは破壊の欲動にぶつかる。この欲動は、細胞体を破壊し、個々一切の有機体単位を無機的静止状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ還元してしまおうとする。リピドーはこの破壊欲動を無害なものとし、その大部分を、しかもやがてある特殊な器官系、すなわち筋肉の活動の援助のもとに外部に放射し、外界の諸対象へと向わせる。それが破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性愛興奮作用によってリピドーに奉仕する。これが本来の、性愛的マゾヒズムである。

The inadequacy of this explanation is seen, however, in the fact that it throws no light on the regular and close connections of masochism with its counterpart in instinctual life, sadism. If we go back a little further, to our hypothesis of the two classes of instincts which we regard as operative in the living organism, we arrive at another derivation of masochism, which, however, is not in contradiction with the former one. In (multicellular) organisms the libido meets the instinct of death, or destruction, which is dominant in them and which seeks to disintegrate the cellular organism and to conduct each separate unicellular organism into a state of inorganic stability (relative though this may be). The libido has the task of making the destroying instinct innocuous, and it fulfils the task by diverting that instinct to a great extent outwards - soon with the help of a special organic system, the muscular apparatus - towards objects in the external world. The instinct is then called the destructive instinct, the instinct for mastery, or the will to power. A portion of the instinct is placed directly in the service of the sexual function, where it has an important part to play. This is sadism proper. Another portion does not share in this transposition outwards; it remains inside the organism and, with the help of the accompanying sexual excitation described above, becomes libidinally bound there. It is in this portion that we have to recognize the original, erotogenic masochism.
リピドーによる死の欲動のかかる繋縛がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも百パーセントに純粋な死の欲動や生の欲動というものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混合型がいつも問題にされざるをえないのだということである。同様にして、ある種の作用の下では、いったん混合した二欲動がふたたび分離することもあるらしいが、死の欲動が性愛欲動の繋縛をどの程度免れうるものであるのかは、目下のところ推察できない。

We are without any physiological understanding of the ways and means by which this taming of the death instinct by the libido may be effected. So far as the psycho-analytic field of ideas is concerned, we can only assume that a very extensive fusion and amalgamation, in varying proportions, of the two classes of instincts takes place, so that we never have to deal with pure life instincts or pure death instincts but only with mixtures of them in different amounts. Corresponding to a fusion of instincts of this kind, there may, as a result of certain influences, be a defusion of them. How large the portions of the death instincts are which refuse to be tamed in this way by being bound to admixtures of libido we cannot at present guess.
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー根源的サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転移され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズムが残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として生命体そのものを自己の対象とする。かくてこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向けられた投射されたサディズム、あるいは破壊欲求がふたたび摂取され内面に向けられうるのであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞かされても驚くには当たらない。これが二次的マゾヒズムなのであって、これは本来の(一次的)マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』フロイト著作集 6 P303-304)

If one is prepared to overlook a little inexactitude, it may be said that the death instinct which is operative in the organism - primal sadism - is identical with masochism. After the main portion of it has been transposed outwards on to objects, there remains inside, as a residuum of it, the erotogenic masochism proper, which on the one hand has become a component of the libido and, on the other, still has the self as its object. This masochism would thus be evidence of, and a remainder from, the phase of development in which the coalescence, which is so important for life, between the death instinct and Eros took place. We shall not be surprised to hear that in certain circumstances the sadism, or instinct of destruction, which has been directed outwards, projected, can be once more introjected, turned inwards, and in this way regress to its earlier situation. If this happens, a secondary masochism is produced, which is added to the original masochism.(The Economic Problem Of Masochism)

サディズムとマゾヒズムの反転をめぐっては、ジジェクに次のような叙述がある。

……ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。<存在>への通路を得る手段として彼らに開かれているのはそれだけだからである。ここで見逃してならない哲学的に大事な点は、<存在>への唯一の通路であるマゾヒスムは、近代のカント的主観性、つまり、自己関係する否定性という空虚な点に帰着する主体と、厳密に相関しているということである。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)

より日常的な感覚で《自己破壊性と他者破壊性》の反転が書かれる文としては、次の中井久夫の文がよいだろう。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及ぼしているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったのかもしれない。踏み越えは、通過儀礼という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』P322)

Bemächtigungstrieb、すなわちdrive for masteryは、フーコーの自己統治self-masteryにもかかわる。征服欲動がわずかしかない人間は、自らの欲動を征服することもすくない、というニーチェのテーマも現れる。ニーチェの次のような文は、フロイトの言うようなサディズムーマゾヒズム反転の文脈で読んでみる必要がある。

勇気にみち、泰然としており、嘲笑的で、暴力的であれーーそう知恵はわれわれに要求する。知恵はひとりの女性であって、つねに戦士だけを愛する。(『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)
わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(同上)
強さに対してそれが強さとして現われ"ない"ことを要求し、暴圧欲・圧服欲・支配欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲で"ない"ことを要求するのは、弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。(ニーチェ『道徳の系譜』)

もちろん、このようなことは柄谷行人や浅田彰がすでにさらっと語ってしまっている。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)







2014年5月23日金曜日

五月廿三日 『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb

冷感症と支配欲動Bemächtigungstrieb」に引き続き、フロイト用語 Bemächtigungstrieb(支配欲動、あるいは征服欲動)をめぐるメモ。

以下は、フロイト著作集6(人文書院旧訳)からだが、著作集の "Bemächtigungstrieb" 訳語そのものは「支配欲動」となっている。だが、ここではかねてからウェブ上で精神医学系の著書における訳語の吟味を積極的になされているフロイト郵便氏の「フロイト翻訳正誤表」の提案に則って、大幅に訳文を変更した(一部人文書院訳のままにした箇所もある)。この正誤表の提案には“Bemächtigungstrieb”は「征服欲動」となっている。

論文『快感原則の彼岸』(1920)からであり、フロイトのエロスとタナトス概念が初出した最も有名な論文のひとつであることがよく知られている。

フロイトのあらゆるテクストのうちで、傑出した書物たる『快感原則の彼岸』は、おそらくこれこそ哲学的と呼ぶほかない考察のうちに、最も直線的に、しかも驚くべき才能をもって、透徹せる視線を注いだテキストであるに違いない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

その論文のなかでも、もっともしばしば言及される箇所のひとつ、子どものfort-da(いないいないばあ)の糸巻き遊びの箇所。なぜfort(いない)だけが倦むことなく繰り返される場合があるのか、という問いが書かれた後の文。


こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。この遊戯を情動の面から評価するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発Anregungされてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母親の出発Fortgehenは、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快感原則に一致するのであろうか。出発はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。

このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受け身だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである。この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、征服Bemaechtigung欲動に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供〈のもと〉から出発fortgehenした母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動の満足でもありうる。さあ、出発fortgehenしろよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ。(……)ここで論議されたいくつかの例では、この衝迫が不愉快unangenehmな印象を遊戯のなかに反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快獲得が結びついているからでしかないかもしれないからである。

(……)子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである。しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由から快感を獲得することも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである。(フロイト『快感原則の彼岸』p156-158 人文書院旧訳)


これはラカンの有名な別解釈があるが、いまはフロイト解釈における「征服欲動」の能動性と受動性の反転の叙述にのみ注目したい。そもそもラカンのfort-da解釈では、上に引用された最後のパラグラフの《医者が子供の喉の中をのぞきこんだり》するのを、どのように解釈し直したらよいのか、やや困惑をおぼえる。

とはいえラカン解釈を示さないと、ジジェクの脅しのような言葉が浮かんでこないでもない。

フロイトの『快感原則の彼岸』にでてくる「いない-いた Fort- Da」遊びは、フロイトに関する理解度をはかる上で恰好のテストになるかもしれない。標準的な解釈によれば、フロイトの孫は、糸巻きを投げることによって、母親の不在と回帰を象徴化している。「いない Fort!」──そして糸巻きをたぐり寄せて──「いた Da!」というふうに。したがって、事態は明確であるようにみえる。母親の不在というトラウマを経験した子供は、その不在を象徴化することによって不安を克服し、状況を操作するのである。母親を糸巻きに置き換えることによって、この子供は、母親の出現と消失を演出する舞台監督になるのだ。かくして不安は、子供がこの支配力を嬉々として行使するなかで、首尾よく「止揚される aufgehoben」。(ジジェク『操り人形と小人』)

しかしながら、と続くのだが、ウェブ上では、この箇所のみの引用しかみつからず(なぜこの箇所の引用だけなのだろう? 次が肝要なのに)、さてわたくしは原文しか手元にない。既存の訳があるのに、まさか拙訳を附すわけにもいかないだろう。

The Fort-Da story from Freud’s Beyond the Pleasure Principle can perhaps serve as the best test to detect the level of understanding of Freud.According to the standard version, Freud’s grandson symbolizes the departure and return of his mother by throwing away a spool— “Fort!”—and retrieving it—“Da!” The situation thus seems clear: traumatized by the mother’s absence, the child overcomes his anxiety, and gains mastery over the situation, by symbolizing it: through the substitution of the spool for the mother, he himself becomes the stage-director of her appearance and disappearance. Anxiety is thus successfully “sublated [aufgehoben]” in the joyful assertion of mastery.

以下は「しかしながら……」の原文である。ポイントは糸巻きは母の代わりではなく、対象aであるというラカン=ジジェクの指摘だが、『ジジェク自身によるジジェク』によれば、この糸巻き遊びの例をあげ、ラカンの解釈はつねに変遷していく、としており、「ナイーブな=標準的な」解釈が完全に否定されるものでもないだろう。象徴界の時代のラカンから、現実界のラカン(もうひとりのラカン)の解釈が示されることがあったなら、標準的な想像界的解釈に近づく可能性もありうるのだ。だがそのときでも小文字の母ではなく、〈(m)Other〉、すなわち大文字の他者である〈母〉であり、あるいは究極の愛の対象としての〈母〉との関係であろう。であるならやはり対象aということになるのか。


However, are things really so clear? What if the spool is not a stand-in for the mother, but a stand-in for what Jacques Lacan called objet petit a, ultimately the object in me, that which my mother sees in me, that which makes me the object of her desire? What if Freud’s grandson is staging his own disappearance and return? In this precise sense, the spool is what Lacan called a “biceptor”: it properly belongs neither to the child nor to his mother; it is in-between the two, the excluded intersection of the two sets.Take Lacan’s famous “I love you, but there is something in you more than yourself that I love, objet petit a, so I destroy you”—the elementary formula of the destructive passion for the Real as the endeavor to extract from you the real kernel of your being. This is what gives rise to anxiety in the encounter with the Other’s desire: what the Other is aiming at is not simply myself but the real kernel, that which is in me more than myself, and he is ready to destroy me in order to extract that kernel. . . .Is not the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself, and can therefore be extracted from me only at the price of my destruction?

Consequently,we should invert the standard constellation: the true problem is the mother who enjoys me (her child), and the true stake of the game is to escape this closure. The true anxiety is this being caught in the Other’s jouissance. So it is not that, anxious about losing my mother, I try to master her departure/arrival; it is that, anxious about her overwhelming presence, I try desperately to carve out a space where I can gain a distance toward her, and so become able to sustain my desire.Thus we obtain a completely different picture: instead of the child mastering the game, and thus coping with the trauma of his mother’s absence, we get the child trying to escape the suffocating embrace of his mother, and construct an open space for desire; instead of the playful exchange of Fort and Da, we get a desperate oscillation between the two poles, neither of which brings satisfaction— or, as Kafka wrote: “I cannot live with you, and I cannot live without you.” And it is this most elementary dimension of the Fort- Da game that is missed in the cognitivist science of the mind. (ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)

《the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself》とある。

ここには、ラカンの対象aの説明のなかのex-timateが出て来ると同時に(この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということ),a foreign body at the very heart of myselfともある。ところで初期フロイトはすでに”foreign body”という用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。

それは”Fremdkörper”であり、英訳ではまさに”foreign body”、邦訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

結局、これらのやや親しみにくいラカン造語は、ほとんどすべて現実界をめぐる思考にかかわり、非ー全体の論理もそれである。たとえば、言語によって分節化された快原則の此岸の象徴界にあるファリックな享楽(快楽)に対して、分節化されえない快原則の彼岸に<他者>の享楽がある。その後者の享楽が<女>の享楽と言い換えられ、そして<女>の享楽が、非全体の論理にかかわる。上のジジェクの文脈では、「自我」には、対象aやトラウマなど言葉にならない現実界に属するFremdkörper(異物、寄生虫)がいる。

The not-whole whole insistently undertakes attempts to assume and colonise this foreign body that ex-sists in the not-whole itself.(同ヴェルハーゲ)

あるいは、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳

ところで、テクストでさえも、そこに書かれていない外-存在を視野に入れながら、われわれは読むはずだ。すなわちテクストも非ー全体であるだろう。詩には明らかに外ー存在があるが、言語による分節化に汲々としているだけの父性原理のみに侵された二流論文ではなく、一流論文、たとえばフロイトの論文にも〈詩〉はある。

詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

わたくしに言わせれば、中井久夫の「徴候」概念は、現実界のことを言い表わそうとしている。

《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前する如く恐怖し憧憬する》とする中井久夫の分裂症状の心理状態を表わす美しい言葉は、Fremdkörperや心的外傷の感覚を言い表わそうとする言葉でもある。

あるいは蓮實重彦の「表象の奈落」とは言語による分節化の先にふと垣間見える、象徴界の裂け目、すなわちこれも「現実界」のことを言い表わしている。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、“できごと”として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」)

繰りかえせば、蓮實重彦は「表象の奈落」という概念で、象徴界の裂け目を語ろうとしている。象徴界におけるたえまない「翻訳」により潜在的なものを目覚めさせること。たとえば現実界を垣間見るとは、子供のスライドするパズル遊戯の「穴」を顕在化させることである。


just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )

以下はすこし異なった文脈で若き浅田彰が書いているのだが、現実界の類の言葉は、「それをいっちゃあおしまい」のところがあり、優れた書き手は分かっていながらあまり多くを語らないだけである。

クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千語万語を費やしているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略なのだとしたら? (浅田彰『構造と力』 7《女》について)


《じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。》

「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2

ーーというわけで、それを語るにふさわしくない〈わたくし〉が、いささか安易に現実界を語ってしまったことに、すくなくともわたくしは自覚的であるつもりだ……。





2014年5月22日木曜日

五月廿二日 冷感症と支配欲動Bemächtigungstrieb

フロイトの著作には、“Bemächtigungstrieb”という用語が1905年に上梓された『性欲論三篇』以降、しばしば出現する。この語は、人文書院旧訳では、支配欲、占有欲、征服欲などと訳されている。岩波書店の新訳ではどうなのかは詳らかにしないが、Triebという語が含まれていることから分かるように、末尾に「欲動」という訳語を使用して訳されているのかもしれない、たとえば「支配欲動」と(人文書院のフロイト著作集においても一部「征服欲動」という訳語が当てられている論がある)。

Bemächtigungstrieb”は、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)では、“instinct for masteryという訳語にされているようだ(別にinstinct of masteryともいくつかの論文の数箇所では訳されている)。そもそもこの英訳では“trieb”という語自体が、すべて“instinct”とされていおり、ラカンの吟味を経た後なら“drive”とされるところだろう(ラカン派の精神分析医Paul Verhaegheの論文の英訳では、”drive for mastery”となっている)。



以下、試しに訳出したQuirino Zangrilliの小論では、“Bemächtigungstriebという用語が出現する論文としてフロイトの『性欲論三篇』1905、『強迫神経症の素因』1913、『欲動とその運命』1915に言及されているが、これ以外にも、なかんずく後期フロイトの時代(1920以降)の論、『快感原則の彼岸』1920、『マゾヒスムの経済的問題』1924、『文化への不満』1930(岩波書店新訳名『文化の中の居心地の悪さ』))、『ヒトはなぜ戦争をするのか?』1933(アインシュタインとの書簡)などがある。


とくに『マゾヒスムの経済的問題』においては、「破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志」(英訳 the destructive instinct, the instinct for mastery, or the will to power)という形であらわれており、フロイトの死の欲動、タナトス概念の周縁をとりまく用語のひとつとしてよい。あるいはまた見てのとおりニーチェの「権力の意志」と並べて書かれてもいる。イタリアの精神分析医Quirino Zangrilliの指摘する以上の含意をもって、後期フロイトではこの”Bemächtigungstrieb”という用語が使われているとしてよいだろう。

たとえばPaul Verhaegheの論文の英訳では、”drive for mastery”が、エロス欲動とタナトス欲動との対立をめぐる叙述箇所に次のように現れる(男性性と女性性をめぐって書かれており、注目すべき箇所なので、やや長く引用する)。


……Rather than interpreting this opposition as masculine versus feminine, it is much more interesting to read it as active versus passive. However, this does not imply that passive represents feminine and active masculine. Freud describes a “drive for mastery” through which the subject tries to master the object. Both man and woman fear being reduced to the passive object of enjoyment of the Other because such a reduction entails the disappearance of a separate existence. As a result, every subject actively strives for independence and autonomy. At the same time, however, everyone–whether masculine or feminine–aims to fuse with the lost part and be reduced to its passive object. This explains why every subject suffers from separation anxiety as well.   (Paul Verhaeghe “Phallacies of binary reasoning:drive beyond gender”)

男性性と女性性は能動性と受動性とされるべきであり、かつ、男性性は能動性、女性性が受動性を意味しない。Bemächtigungstrieb(支配欲動)を通して、主体は「対象」を支配する。というのは男も女も他者の享楽の受動的対象に陥るのを怖れるから、とある。それは「個」としての主体の消滅を伴うので、すべての主体は能動的に独立と自律を求める。だが同時にすべての主体は、受動的な対象になることを目指す、と。

最後の表現は、ここだけ抜き出すといささか奇妙であるかもしれないが、これはエロス欲動にかかわり、エロスとはある大きなものへの融合の欲動(たとえば〈母なる大地〉への)であり、これが受動的な対象になるという意味である。そして融合してしまうということは個の消滅に繋がり、そこから分離しようとする欲動が、ヴェルハーゲの主張ではタナトスということになる(これはラカン派内でも種々の異論があるだろう)。

ヴェルハーゲの見解は、この同じ論で次のような簡潔に書かれる文に収斂する。

生の欲動(エロス)は死に向かい、死の欲動(タナトス)は生に向かう。
life drive aims towards death and the death drive towards life 

だがいまの話題は直接的にはエロスとタナトス概念ではなく、“Bemächtigungstrieb”(支配欲動)である。

この概念で注目すべきなのは、初期フロイトの『性欲論三篇』と後期フロイトの代表的な論文に同時に表れていることだ。欲動概念をめぐり、たとえば「部分欲動」として現われた前期フロイトとエロスとタナトスとして現れる後期フロイトの「欲動」の橋渡しになる概念ではないか、という問いが生ずる。

原 和之)
 フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川幸司)
 それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために

ーーこういった議論は、エロスとタナトス欲動と部分欲動の関連がまったく理解されていない、というのがヴェルハーゲの立場であるが、いまそれはここでは触れることはしない。ここでは、Quirino Zangrilliの「冷感症と支配欲動」の拙訳をしめすのが当面の目的である。


…………


「冷感症と支配欲動」ーー「Frigidity and The Drive ForMastery Quirino Zangrilli」からだが、かなり意訳しているので、--そもそもこの文はイタリア語からの英訳であり、英訳文にもいささか雑なところがあるのではないか、と憶測されるのは気のせいか?--とはいえわたくしの訳文はいっそう信用してはならない。すなわちより正確には英訳を参照のこと。


”支配欲動”(Bemächtigungstrieb)は、精神分析に於て定義されることの最も少ない用語のひとつである。ラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』には、明瞭にコード化されえない形でフロイトによって時折使われている言葉とされている。

フロイトは、いくつかの論文(『性欲論三篇』1905、『強迫神経症の素因』1913、『欲動とその運命』1915)にて、この用語によって非性的な欲動を意味させようとしているようにみえる。仮にセクシュアリティに関連させるとしても二次的であり、その究極の目標は、力(強制)によって対象を支配することである。今われわれが何について語っているのかをはっきりさせるために、幼児期にしばしば行なわれる遊戯に言及しよう。子供たちは強制の力によって小さな生物を支配しようとする(蟻、蠕虫、蜥蜴、子猫、蝶など)。彼らの動きを妨害し子供自身の意志に服従させる。子供は対象を完全に支配下に置くことを愉しみ、対象を自分のなすがままの状態にする。

この独特の欲動は異なった方向に向うこともできる。セクシュアリテの領域に向えば、サディズムという活動に染められうる。崇高化に向うこともある(スポーツでの闘争)。この欲動が弱まれば、ただわずかの痕跡した残さないだろうし、あるいはまた強い仕方で固着すれば、性的攻撃性や人の性格に刻み込まれることになる。

人格に銘記されるという最後のケースでは、私は次のように信じている。女性のセックスにおいて、対象を支配する快楽に占有されると、いまだよく知られていない女性の冷感症においては、ある決定的な役割を演じるようになる、と。私は完全な不感症の話をしているのではない。それはよく知られているように、性的無感覚、性的無関心、膣痙攣がある。もっともそれらが性交疼痛症を伴うか否かはここでは不問にする(女性でこの症状に苦しむタイプは一般的に性交渉を相手に余儀なくされたときのみに持つ)。そうではなく私は相対的な冷感症の話をしている。このケースは、膣腔の半ば無感覚があり、性感度はクリトリスの領域に限定されている。またオーガズムの直前における性的興奮の突然のそっけない中断がある。彼女らにとっては、性的交渉はみたところ不快でないようであるにもかかわらず、そのようなそっけない立ち消えがあるのだ。

性興奮不全の冷感症のタイプの女性たちは、飽くことを知らない性的な欲求を持っているように見える。もし彼女らが超自我の抑圧に打ち勝つのなら、ひとりのパートナーから他のパートナーたちに渡り歩いていく、だが、ああ、なんという空しく! すなわち新しい経験が熱望されたオーガズムを齎してくれるのではないか、というわけだ。稀なケースでは、レイプ、鞭打や暴力の無理強いの様相を想定する限定されたファンタジーに拘わってのみ膣によるオーガズムが実現されることがある。

フロイトは、『強迫神経症の素因』(1913)にて、支配欲動を能動性と受動性の二面の関係に関連づけて語っている、「能動性は一般的には支配欲動に起因する。この欲動は性的欲動に奉仕されれば、サディスムの名を明示することができる」。『性欲論三篇』にては、フロイトは支配欲動の支柱として筋肉組織を提示している。事実、私が個人的に確めたところでは、相対的な冷感症を表わす多くの女性には、スポーツ活動に傾く目立った特徴がある。スポーツはエロス化され、かりに部分的であれ、性的攻撃性の蓄積を発散させるに至る。子供における支配欲動は他者への寛容という目標はもともと示さない(一方では、サディズムにおいてさえ寛容は生じるにも拘わらず)。子供たちは寛容などということは単純に考えもしない(われわれはそこに、憐れみや必要かつ予備的な罪の感覚に先行した、あるいはまたサディズムにも先行した状態を見出すとしてよいだろう)。

子供は単純に対象を支配しているという感じ方から楽しみをひき出している(自己愛的な安全装置を通しての愉悦)。そしてまた対象を滅ぼすというファンタジーからの楽しみ(身動きのできない物に陥れるという愉悦)。

これらの欲動満足の状態への重要な固着とは、受動的なくつろぎの不可能性を決定的に示していると、私は仮定する。すなわち能動性や支配の気配りに固執するのは、くつろぎに必要不可欠な絶頂(オーガズム)が得られないことが原因だとする。

冷感症の起源にかかわるほかの重要な考え方についてはここでは言わないでおこう(性行為の近親相姦的な含意、ホモセクシャルな潜在する欲動、性的攻撃性混淆の督促)。この記事では、キルケ(淫婦)シンドロームとして定義されうるものに言及したい。それは現代女性の心理学上のひとつのタイプで、とてもしばしば語られる。キルケ、すなわちヘリオスとペルセイスの娘、並外れたパワーを授けられた魔女。彼女の美しさによって人を蠱惑させることからよろこびを得るキルケは、己れの征服欲によって男たちを動物に変えてしまう。

私は、精神分析の場にて、このキルケタイプの数人の女性に関心をもったことがある。それらの女性のすべてはオーガズムに至らないことに不満を洩らした。彼女たちはクリトリスの刺激を顕著に楽しみ、しばしば男たちへの支配的なポジションにて摩擦刺激を得るのだが、最終的な絶頂には達しない。

魅惑的な女性たち、人魚のように誘惑的で、のみこみが早く、肉体的トーンを発散させる、そのような女には今ではこと欠かない。

どんなケースでも、精神分析は絶え間ない男への支配の幻想的な行動に光を照射する。中心的な幻想は、己れの美とエロティックな手腕によってパートナーの意志を揺るがせることによって成りたっている。彼女らの目標は男を欲望に渦によって我を失うまで狂わせてしまうことである。そして男を彼女らの掌中における動物に陥らせることだ。

絶え間ない能動性の女たち、くつろぎに必要な受動性の感覚、すべてのコントロールが無効にされる快楽の未知の奈落に身を委ねるために欠くべからざる受動感覚にまったく縁がないあの女たち。