■ 初出場の1988年大会は0勝3敗1分け初出場となった1988年12月のカタール大会の記憶は全くないので記録を調べてみたが、横山監督がチームを指揮している。しかしながら、Aマッチ扱いではなくて、若手中心のメンバー構成である。初戦のイラン戦のスタメンはGK真田、DF堀池、DF田口、DF阪倉、DF大嶽、MF白澤、MF池ノ上、MF松山、FW黒崎、FW前田治、FW高木の11名で、MF大榎、FW中山、DF井原などがベンチスタートだった。
今、Jリーグのクラブで監督をしている人が非常に多いが、このときのアジアカップの約1カ月半ほど前に行われた1988年10月26日の日韓定期戦のスタメンは、GK松永成立、DF佐野達、DF井原正巳、DF堀池巧、MF佐々木雅尚、MF名取篤、MF柱谷哲二、MF水沼貴史、MF草木克洋、FW原博実、FW前田治だったので、やはり、フルメンバーには程遠かったと言える。(※ こちらはAマッチ扱いとなる。)
アジアカップの本戦に出場できる数が当時は少なかったことも関係しているが、Jリーグができるまでは、「(予算不足もあって)アジアカップの予選に参加することも難しかったこと。」、「予選を突破できたとしても、本大会で勝利することはできなかったこと。」の2つは覚えておく必要があるだろう。そして、それははるか昔の話ではない。30年ほど前までの日本サッカーというのはそのレベルだった。
表2. 1988年のカタールアジアカップのメンバー
1 土田尚史 | 2 上野展裕 | 3 堀池巧 | 4 田口禎則 | 5 阪倉裕二 |
6 本吉剛 | 7 井原正巳 | 8 大嶽直人 | 9 白澤久則 | 10 大榎克己 |
11 池ノ上俊一 | 12 中山雅史 | 13 黒崎久志 | 14 野田知 | 15 簔口祐介 |
16 前田治 | 17 鋤柄昌宏 | 18 松山吉之 | 19 真田雅則 | 20 高木琢也 |
■ 広島で開催された1992年のアジアカップはっきりと記憶に残っているのは広島で開催された1992年大会以降であるが、当時の出場国数は8か国で、日本・UAE・北朝鮮・イランがA組で、サウジアラビア・中国・カタール・タイがB組となった。このときは全くサッカーに詳しくなかったので、報じられていたことをそのまま信じるしかなかったが、UAE・北朝鮮・イランの3チームは完全に格上で、「グループリーグを突破するのは難しい。」と言われていた。
最近の日本代表のことしか知らない若い世代には信じがたいことだと思うが、当時の日本代表の立ち位置というのはアジアの中でもそのくらいだった。『ホームで戦うことができる。』というアドバンテージを加味したとしても、「厳しい戦いになるだろう。」というのが大方の見方で、「この組はイランが大本命で、対抗がUAEで、その次が北朝鮮で、4番手が日本」という予想が主流だったと思う。
なので、長年、サッカーに携わって来た50代や60代の日本のサッカー解説者やサッカーライターやサッカーファンがネガティブ志向になりがちなことはある意味では仕方がないことで、「10代や20代のサッカー選手やサッカーファンとは考え方が全く違っている。」ということも頭に入れておく必要があると思う。マイナースポーツだった時代の感覚が染みついていると、そういう傾向になるのは当たり前である。
ちなみに、イランはそれまでに3度(1968年・1972年・1976年)もアジアカップを制覇しており、UAEは2年前に行われたイタリアW杯(1990年)に出場している。北朝鮮も実績では日本より上だったので、広島でのアジアカップの日本代表の成績は「0勝1敗2分け」あるいは「0勝2敗1分け」という予想が大半だったと思うが、初戦のUAE戦はスコアレスドローで、2戦目の北朝鮮戦も1対1の引き分けだった。
表3. 1992年の広島アジアカップの組み分け
A組 | 日本 | UAE | 北朝鮮 | イラン |
B組 | サウジアラビア | 中国 | カタール | タイ |
■ 当初の注目度は低かった地元でのアジアカップ当時の監督はオランダ人のオフト監督だったが、初戦のUAE戦のスタメンはGK松永成立、DF堀池巧、DF柱谷哲二、DF井原正巳、DF勝矢寿延、MF森保一、MF北沢豪、MFラモス瑠偉、MF吉田光範、FW高木琢也、FW三浦知良の11名で、第2戦の北朝鮮戦はDF都並敏史とMF福田正博がスタメンで起用されている。この13人にFW中山雅史とGK前川和也を加えた15名がオフトジャパンの主軸である。
グループリーグの3チームの中では「一番、組み易い。」と思われていた第2戦の北朝鮮戦は前半24分に先制ゴールを許したが、後半35分にCKから途中出場のFW中山が同点ゴールを決めて引き分けに持ち込んだ。この試合はFW三浦知がPKを失敗するなどなかなかチャンスを生かすことができなかったが、FW中山が救世主となって、何とか2引き分けで最終戦のイラン戦に望みをつなぐことができた。
「当時の日本代表に対する注目度がどの程度だったのか?」というと非常に低かった。この年に初の外国人監督となるオフト監督が就任して、8月に中国で行われたダイナスティカップで初優勝を飾って、さらには翌年(1993年)の5月には初のプロサッカーリーグであるJリーグがスタートすることが決まっていた。かつてないほどの追い風は吹いていたが、マイナースポーツの1つであることに変わりはなかった。
それは初戦のUAE戦の会場が1万人ほどしか収容できない尾道市のびんご運動公園で行われたことからも分かる。今、日本国内でアジアカップを開催するとしたら、埼玉スタジアムや日産スタジアムなど5万人以上を収容できるスタジアムで開催されるが、オープン間もないビッグアーチではUAE戦は行われなかった。「平日の金曜日に数万人規模のお客さんを集める。」というのは難しいと思われていた。
表4. 1992年の広島アジアカップのメンバー
1 松永成立 | 2 大嶽直人 | 3 勝矢寿延 | 4 堀池巧 | 5 柱谷哲二 |
6 都並敏史 | 7 井原正巳 | 8 福田正博 | 9 武田修宏 | 10 ラモス瑠偉 |
11 三浦知良 | 12 山田隆裕 | 13 阪倉裕二 | 14 北澤豪 | 15 吉田光範 |
16 中山雅史 | 17 森保一 | 18 神野卓哉 | 19 前川和也 | 20 高木琢也 |
表5. オフトジャパンの戦績(アジアカップまで)
勝敗 | 年月日 | スコア | 対戦相手 | 会場 | |
● | 1992.06.07 | 0-1 | ウェールズ | 愛媛県営 | キリンカップ |
○ | 1992.07.13 | 1-0 | アマ代表(オランダ) | ザイスト(オランダ) | |
○ | 1992.07.15 | 2-0 | AZ(オランダ) | アルクマール(オランダ) | |
△ | 1992.07.17 | 0-0 | トゥエンテ(オランダ) | バスメン(オランダ) | |
△ | 1992.08.14 | 2-2 | ユベントス(イタリア) | 神戸ユニバー | |
△ | 1992.08.17 | 1-1 | ユベントス(イタリア) | 国立競技場 | |
△ | 1992.08.22 | 0-0 | 韓国 | 北京(中国) | ダイナスティカップ |
○ | 1992.08.24 | 2-0 | 中国 | 北京(中国) | ダイナスティカップ |
○ | 1992.08.26 | 4-1 | 北朝鮮 | 北京(中国) | ダイナスティカップ |
△ | 1992.08.29 | 2-2 PK4-2 | 韓国 | 北京(中国) | ダイナスティカップ |
→ 2015/01/06
初のアジア王者に輝いた広島アジアカップ(1992年)の思い出 (後編) に続く。
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