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留寿都村旭野

留寿都村旭野(平成30年6月12日探訪)

留寿都村旭野は農村集落である。

明治45年 兵庫県人野上甚平が野上農場開設に着手したことであるが単独移民では山形県人鈴木幸助、岩手県人上戸鎖初吉が入植した。
入植者はその後も増え、昭和5年福島県(牛木八百吉団長ら12戸)、高知県(広瀬良馬団長ら12戸)が奥地に入植した。高知・福島の頭文字をとって高福集落を形成した。
昭和8年12月、高福・御老円・旭登の両集落を統合し、学校を中心とした旭野集落となった。
学校は大正8年 登延頃特別教授場が開設。翌年上尻別特別教授場と改称、昭和9年旭野尋常小学校と改称した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正8年  登延頃特別教授場として開校(5月)
大正9年  上尻別特別教授場と改称(5月)
昭和9年  旭野尋常小学校と改称(3月)
昭和16年 旭野国民学校と改称(4月)
昭和22年 旭野小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(3月)

閉校の新聞記事を掲載する。
五十年の歴史閉じる 旭野小、きょう閉校式
【倶知安、留寿都】農村地帯の人口過疎現象から後志教育局管内では共和村旭小、留寿都村旭野小が3校の本年度いっぱいで閉校、また赤井川村常盤小は新年度から落合小の分校になるがこのうち留寿都村旭野小(及川覚明校長、児童2人)=同村旭野=の閉校式が25日午前11時から同校で行われ、ことしで50年の歴史を閉じる。
 旭野小は留寿都市街から約5キロ離れた辺地3級校で大正8年5月、旭野地区の農村子弟の教育施設として開校、一昨年ごろまでは在籍児童も10人以上を数えていた。しかしここ1、2年の間に離農者が相次いで児童数もへり、昨年の新学期の時にはわずか4人となり、しかもその後昨年夏ごろにこのうち2人が市街地区の留寿都小に転校したため現在残っているのは田中正美君(3年)田中美智子ちゃん(5年)の姉弟2人だけ。
 同村では同校校下の住民は8戸でこれ以上ふえる見通しがないこと、また教育効果の向上を目的に同校は本年度いっぱいで閉校、新年度からは近くの登利小学校に統合することを決め、この日閉校式を行なうことになったもの。
 このほか後志教育局管内では旭野小と同じように人口過疎現象から共和村旭小(児童数3人)も本年度いっぱいで閉校し、また赤井川村常盤小もこの春までいた5人いた児童のうち2人が卒業、児童数は3人になったため新年度からは落合小の分校に縮小される予定になっており、後志教育局の調べでは41年度いらい人口過疎現象で姿を消したり近く消す学校は合わせて7校になっている。」『北海タイムス後志版 昭和44年3月25日』

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平成30年6月、後志管内の廃校廃村探訪でラストに訪れた。

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学校付近の風景。
本当にここに学校があったのだろうか…と思わせるような道が続く。

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道路左手に学校跡の碑があった。

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草刈りもされている。
記念碑背後の樹はサクラである。

地形図を見ると、学校のそばに神社マークが記されているので神社を探す。
しかし、なかなか神社は見つからない。

諦めかけたその時、HEYANEKO氏から「神社見つけた」と言い、急斜面をよじ登って声の聞こえたほうへ向かう。

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地神さまである。
見つけたのは、一緒に訪れた北大生である。

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昭和7年9月24日に建立されたことが分かった。

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学校手前に残るサイロ。
学校は無くなり、無住化したが今も人々の営みは続いている。


参考文献
留寿都村史編纂委員会2001『留寿都村百年史』留寿都村
北海タイムス1969「五十年の歴史閉じる 旭野小、きょう閉校式」『北海タイムス後志版』昭和44年3月25日

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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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