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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

自分が見えていない

 指導されたことを丁寧に習得しようと心掛ける人がいます。一方で同じことを何度も何度も指導されているにもかかわらず、同じことを繰り返す人がいます。どちらの人が習得が速いか言うまでもありません。
 何度も同じことを指導される方は自分で考えることを師の指導よりも優先するのですから流派の稽古をしていても流派の中で上達することが難しいのです。自己満足をしているだけです。
 自分を深く見つめることができる人は上達し、深く求めず自分の思うとおりにしたい人は遠ざかります。

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  1. 2025/01/23(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

強さは弱さから生まれる

 何度も言っていることですが、強さは弱さから生まれます。正しく動けるようになった結果として強さが身につくのであり初めから強さを求めて持っている筋力を使ったり暴力的な動きをするものではありません。
 これは何度も言っていることなのにいまだに「我」から離れられない人もいます。その人の行っているのは各流派の手順の真似をして自己満足をしているだけです。流派の稽古にも入っていないのです。
 同じように速さはゆっくりとした動きから生まれます。無理無駄がなくなり自然に速くなるのです。
 このような稽古をしない方は流派と離れ自己流をしているにすぎません。

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  1. 2025/01/22(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

思いが異なればできるものもできない

 梅本先生は「居合は守り」だと教えてくださいました。しかし自ら斬りにいっている人たちがたくさんいました。据物斬りです。その様な方が梅本先生と同じ居合ができるはずはありません。師の教えと異なることをしているのですから。
 畝先生は柔術を「心の武道」と教えてくださいました。柔術を自分の名誉欲のために行っている人が畝先生が伝えられたものを会得できるはずはありません。
 大石先生は稽古をつけてくださる時には常に無念無想でした。私を斬ろうとも突こうとも思うことなく動いておられました。いくら教えても強く切ろうとか素早く突こうと思う者が上達するはずはありません。自己満足の塊です。

 思いが異なれば会得できるどころか遠ざかるばかりなのです。流派を継いでおられる師の心を心としなければ、流派を習っているのではなく流派を利用して自分の欲を満たそうとしているだけです。

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  1. 2025/01/21(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

ダメな動きの定着

 それをしてはダメだと言われていることを繰り返す人は自分の「我」に基づいて稽古しています。自分に自覚はなくてもそれが真実です。ダメだと言われたことを自分自身で自覚していればそれをするまいと努力するものですが、してしまうのは自分自身がその方が心地よいからですすなわち「我」です。
 改めずにダメな動きを繰り返していたらやがて気付いたとしても取り返しがつきません。自分自身でそれを癖づけているからです。そうなってしまったら元に戻るには何年もかかってしまいます。
 すべては自分次第です。

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  1. 2025/01/20(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

YouTubeの悪影響

 世の中が便利になり古武道の情報もYouTubeで見ることができるようになりましたが、困ったことに情報の多くが注目を集めるためだけに行われているので決して正しいとは言えないことなのです。むしろ害悪になることの方が多いのです。
 8月にダンビル支部で「これは本当ですか。」とみせられたYouTubeは日本人が英語で日本文化を紹介するものでした。流暢なネイティブにのような英語を話していましたので帰国子女だと思います。その内容を簡単に言うと西南戦争の時警視庁抜刀隊は直刀を用いていた。それは幕末に盛んになった防具着用の剣術に起因しており竹刀の形に刀を作ったことによる。というものでした。アメリカ人は完全に直刀と理解しており、反りが少ないとは理解していなかったので、完全な誤情報です。
 日本人がこのような日本文化に関する誤情報を流しますので知らない外国人は騙されてしまいます。
 このような誤情報はたくさん発信されています。陣笠をかぶりあたかも江戸時代の武士がしていたかのように錯覚させ試し切りをし刀を試すためではなく自分の斬る腕が優れていると喧伝する者・・・試し切りを刀を試すための技から人を切るための基本的な技術習得のためにしたのは軍部であり、競技化した剣道では敵兵を切ることが困難だと感じたからです。したがって試し切りを武道として行うのであれば軍服で行わなければなりません。武士が行ったことではないのです。
 このほかにも多々あります。支部でそのような誤情報を信じ切っていた人もいます。NHKでさえ古武道に関しては大きな取り返しがつかない誤情報を発信します。
 人をだますのがより簡単な時代になったのだと思います。

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  1. 2025/01/19(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

頭を空にする

 手順を覚えたら、手順を体に覚えさせ、そのあとは頭を空にして稽古しなければなりません。いつまでも頭で考えて次はこう動こう、その次はこうと頭で考えて動いていたら自由からはますますかけ離れ不自由な決められたとおりの動きしかできなくなってしまいます。武道はスポーツと異なり決められた打突部位はありませんし、どこに斬りかかられるかもわからず、また隙のある所に自然に刀がいかねばなりません。そのための自由になる稽古です。心をどこにもとどめないための稽古なのです。
 形・手数は方便であり、それを見事に演じるのは武道の稽古ではありません。頭を空にして動いてください。

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  1. 2025/01/18(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

同行の士

 梅本先生は「同行の士」という言葉を使われました。もとの言葉は同好の士ですが、そうではなく「同行の士」です。「同行の士」とは同じ方向にともに歩む者という意味で使われます。誰に対してでも使われたわけではありません。先生の晩年に先生の業と心が飛躍的に向上されたとき、その時まで残っていた兄弟子の誰もが、先生のわざは若い時の方がよかったと語りました。先生の目指されていたところがわかっていなかったのです。
 わかっていない者が同行の士となれるはずはありません。目指す方向が異なるのですから。目指す方向が同じであれば子弟であっても「同行の士」でありともに歩む者なのです。

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  1. 2025/01/17(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

威張る

 米国で面白いことを聞きました。米国では〇〇道の先生は威張った態度をとるのだそうです。したがって他の武道の先生も威張った態度をとるものだと思っているのだそうです。その武道をする人たちは他の武道の先生もそうあってしかるべしと考え、もし威張った態度をとっていなかったら「本当に先生なのか。」と疑われるほどだというのです。
 梅本先生も畝先生も大石先生も一度たりともそのような態度をとられたことはありません。米国で〇〇道を普及させた日本人が威張る方が権威があると考えたのかどうかわかりませんが、そのような態度を高段者はとるものだという日本武道に対する大きな誤解を与えているのは悲しむべきことです。
 そういえば貫汪館のホームページから写真を○○道の機関誌に無断盗用されたときに○○道の本部に連絡したら○○道の担当者は出版社にすべて任せてあるので出版社に連絡するようにと言い、出版社の連絡先も言わず、出版社の担当者の名も言わず、一言のわびも言わず機械的に対応されたことがありました。出版社に電話しても出版社からはお詫びもなく、○○道の担当者に再度連絡してもらちがあきませんでした。そのような態度の人の比率が○○道にはたかいのかもしれません。
 そういえばさらに思い出したことがあります。かつて居合の稽古日に武道場を半面だけ使い残りの半面は○○道の人たちが稽古していました。写真を盗用したのとは異なる団体です。広島県のトップの方が来た時にその人は私たちの稽古を見て「なかなかいい稽古をしていますね。」と門人たちに言い、居合はこうでしょう。と木刀で居合のまねごとをしたことがありました。途中で鞘代わりにしていた手を開き仮想の鯉口からは刀が出ず鞘を割ったような小手先の居合です。「○○道をしていれば居合もできるんですよ。」というようなことを話していました。確かにそういう比率は高いのかもしれません。
 

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  1. 2025/01/16(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

待て、待て、待て

 無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古を始めて抜付けがうまくできなかった高校生のころ梅本先生は「待て、待て、待て」と教えてくださいました。中心からの力が切先に伝わるのを待たずに腕で振り回そうとしていたのです。腕で振り回した方が速いように感じられるのです。
 梅本先生に従って切先が回ってくるのを待つのは何ともまどろっこしく、肩を使わなくても肘から先を使ったり、手首を使ったり、四指を使ったりしようとしていましたが、それをやめると抜付けができるようになりました。
 待てない人は待つように心がけてください。これは大石神影流にも澁川一流にも共通するところです。

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  1. 2025/01/15(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

言い訳

 言い訳は修行の上では不要なプライドから出てきます。

 曰「今日は床が固く膝が痛かったので大小詰がうまくいかなかった。」
膝が痛かったのは正しく立膝で座れていないからであり、立膝の稽古が足りないからです。私は正座もそうでしたが立膝の稽古は高校生の頃に1年以上かけて毎日自宅で稽古しました。はじめは座ることそのものが苦痛で、背中は曲がり見るに堪えない姿勢でしたが1年たつ頃には次第に座れるようになり最後に梅本先生にアドバイスをいただいて、まあまあ合格点で座れるようになりました。
 曰「自分は肩甲骨が固く背が丸くなるのです。」と言われるので肩甲骨が固まって動かない人のための肩甲骨が働くようになる運動を教えてあげました。しかし何か月たっても改善せず肩甲骨が働かず尋ねてみて、努力をしていないのがわかるとき、これまで言ってきたことが言い訳としか感じられません。努力しなければ結果はないのです。
 何々だから・・・というのは自分で自分の上達を妨げるために言い訳であり、自分自身で上達を妨げています。身体に不調があってできないというのと稽古をせずにできないというのでは全く異なっており、後者の言い訳は稽古・努力が足りないのをごまかす手段にすぎません。導場ではなく日常生活の中での努力が足りないのです。

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  1. 2025/01/14(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

人は名誉を求める

 人は名誉を強く求める人とそうではない人がいます。名誉欲がなければ物事は前に進まないという人もいますが、この世の中をよくするのに人に対する愛に基づいて行うのと、自分の名誉のために行うのとでは結果に大きな違いがあります。どこかの国の政治を考えればよいと思います。
 名誉欲は権力欲(権勢欲)ともつながります。名誉を得れば物事を自由自在に自分の思う通りに操りたくなるのです。行動が人に対する愛に基づいていないのですからそうなるのは必然です。
 先祖が始めた流派でもないのに自分が宗家を称したくなるとしたら名誉欲です。それは武道を行じながら権力欲(権勢欲)を求めることにもつながります。何事も自分の思うままにしたいのです。そうなったら古武道には何らの価値もありません。価値がないどころか世の中に害悪を広める元になり、ないほうが良い存在と化してしまいます。
 いくつかの流派の先生方は自分が代表者となった後に先代以前から始まっていた「宗家」を称されるのをやめられました。流祖の家ではないという理由です。高齢になってそうされた方々で精神的に立派な先生方でした。
 貫汪館で稽古される方にどのような道を歩んでいただきたいかは言うまでもないと思います。

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  1. 2025/01/13(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

構えない

 大石神影流の二刀では構えない手数があります。文字通り構えないのです。相手の起こりを待って動こうという気持ちがあっても構えることになります。心も構えません。難しいのですが全体の手数の中であの順番に置かれているということは、それができなければ大石神影流にはならないということです。


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  1. 2025/01/12(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

長刀の遣い様

 大石神影流剣術の長刀の遣い様は澁川一流柔術の六尺棒の遣い様と基本的に変わるものではありません。六尺棒で棒廻しをするのは六尺棒での突き技の基本を養っているのですが、体の中心がうまく使えなければ業にはなりません。同様に大石神影流の長刀も体の中心を使っていますので六尺棒の棒廻しを十分に稽古し、六尺棒の表の形また「刀と棒」を稽古していれば長刀は難しいものではないはずです。もし難しさを感じたとすれば六尺棒の稽古もまちがっているということになります。みなおさなければなりません。

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  1. 2025/01/11(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

手首

 澁川一流柔術の「巻返」で間違える人が多いのですが右手の親指と人差し指は受の指の位置ではなく確実に受の手首をとります。ここを間違えるので形が有効に働かないのです。「絞り」も間違えている方が多くおられますが、これも同じで手の甲をとっていたら有効に働くことがありません。同じように他の形も手首をしっかりととらなければなりません。言ってあることなのですが間違えている方が多いので述べておきます。

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  1. 2025/01/10(金) 21:25:00|
  2. 柔術 業

内側の働き

 外に現れる動きは内面の働きの結果です。したがって外側をいくら真似して似せてもも物まねにすぎません。本物ではないのです。梅本先生が物まねを嫌われた所以です。
 あるとき外側ではなく内面を見なさいと言ったところ、「よく見ている。先生の柄手手はこうではなく、このようにかかっている。」といった人がいます。すぐにそれは外側ですと指導しました。その人は以前外側を競わせる居合を稽古していたのでそこまでしか見えていなかったのです。なぜこのようになっているのかという大元を考えなければならないのです。またここだと思ってもその奥さらにまたその奥があります。そのような見方をしないかぎり猿真似となってしまいます。

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  1. 2025/01/10(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

面がね

 現代剣道の経験者が刀を使った時に竹刀の遣い方から脱することができないのは「面がねに当たる打ちは1本になりにくい」ということから最後にスナップを聞かせて面布団を打つ癖がついているところが大きいように感じます。現代剣道の遣い方と無雙神傳英信流や大石神影流の刀で正面を斬る遣い方では根本的な動きが異なりますが、一度ついた癖は抜けるものではなく刀を用いてもそのような打つ動きになってしまいます。長年現代剣道をしていればそれだけ癖は抜けにくくなっているので余程自分自身に気を付けなければなりません。
 心して稽古してください。

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  1. 2025/01/09(木) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 8

Ⅵ.まとめ
1.愛洲新陰流
村上傳次左衛門の経歴や伝書内容、試合稽古等を考えると村上傳次左衛門は岡藩で心貫流を学んだ後に廻国修行等を経て独自の剣術を編み出し、それに新陰流、愛洲陰流、愛洲神影流などの流派名をつけたと考えられる。

2.試合
 村上傳次左衛門は形稽古と試合稽古を剣術・槍術ともに並行して行っており、上覧の際にも必ず試合を行っている。他流試合の記録は宝暦年間と思われる島原藩浪人の黒木四郎太との試合の記録しかないが、墓誌に「諸州ヲ経歴シ、跋ミテ艱難ヲ嘗ム。其ノ習ウ所ヲ試ミ、遠トシテ到ラザル無シ。」(下線は筆者)とあったことから廻国修行をなし他流試合を行ったことが考えられる。剣術の試合の道具は大石進種次が「幼ナキ時愛洲新陰流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ學タリトモ」記したように竹製の面と袋撓であったと考えられる。小手については記されておらず不明である。

3.大石進種次と大石神影流への影響
 大石進種次は試合によって高名となった。文政7年2月、大石進種次は弟の志摩助とともに島原藩を訪れて試合をしている 。また大石進の父である大石太郎兵衛は同年に廻国修行中の川崎八郎と試合している 。また同じころに川崎八郎は柳河藩の家川念流師範立花内膳、新陰流師範田尻藤太、抜討流師範寒田安左衛門も川崎八郎と試合している 。立花内膳は柳河藩でご両家と呼ばれる家の一つで千石を領している高禄の家柄である。柳河藩の各流派が高禄の師範を含めて江戸の師範たちよりも早い時期に他流試合を引き受けていることがわかる。
柳河藩槍剣師範である大石進種次は文政11年(1828)6月、「武術出精ニ付」30石から60石に加増されている。藩政日記には「但別而剣術之方他方迄称シ候段被聞召届被遊御満悦候由」と記されており 、大石進種次の剣術が他藩から称賛されていたことが加増の理由であることがわかる。これは大石進種次が藩命によって天保3年(1832)に出府して男谷精一郎と3月24日に試合 をする4年前のことである。
村上傳次左衛門は槍剣術の稽古方法としての試合を柳河藩で盛んにし、柳河藩の各流派が他流試合を行う素地を作ったと考えられる。
また、村上傳次左衛門が柳河藩にもたらした愛洲陰流を受け継いだ大石進種次が『大石神影流剣術陰之巻』に

鉄面腹巻合セ手内ヲコシラヘ、諸手片手突胴切ノ業ヲ初メタリ、其後江都ニ登リ右ノ業ヲ試ミルニ相合人々皆キフクシテ今ハ大日本国中ニ広マリタリ、夫ヨリ突手胴切ノ手カズヲコシラヘ大石神影流ト改る也、シカル上ハ諸手片手突胴切ノ試合ヲ学モノハ伊予イヨ吾コソ元祖タルヲ知ルベシシ

と記しているように大石進種次は村上傳次左衛門が用いた試合のための道具や袋撓を改良し、さらに試合に突き技や胴切りの技をとりいれた。大石進種次が出現したのは村上傳次左衛門が柳河藩の槍剣師範であったからだと言える。


Ⅶ.おわりに
 大石神影流の源流である愛洲陰流を柳河藩にもたらした村上傳次左衛門は稽古に試合を取り入れていた。また、その経歴によれば宝暦年間(1751-1764)、またそれ以前に諸国を廻国して他流試合を行っていたことがわかる。島原藩の記録では享和3年(1803)に島原藩士が長崎に出向き他流試合をおこなっている。また文化文政のころから島原藩士はさかんに他藩に出向いて他流試合を行うようになった 。『剣道の文化誌』には寛延3年(1750)の伊勢・亀山藩士の仙台藩狭川派新陰流との手合わせ、宝暦11年(1761)の熊本藩士の廻国修行、明和年間(1764-1672)の神道無念流の戸賀崎暉芳の廻国修行、天明2年(1782)の人吉藩士の廻国修行について記されている 。九州の中には宝暦(1751-1764)頃には柳河藩以外にも他流試合を引き受けていた師範、藩があるのではないかと考えられる。引き続き調査を行いたい。
村上傳次左衛門が用いた剣術の試合のための道具はわかるが槍術の試合のための道具は現在のところ不明である。大石進種次が剣術の試合に用いた道具は槍術用のものを改良したとも考えられているため引き続き調査を進めたい。

無念流の戸賀崎暉芳の廻国修行、天明2年(1782)の人吉藩士の廻国修行について記されている 。九州の中には宝暦(1751-1764)頃には柳河藩以外にも他流試合を引き受けていた師範、藩があるのではないかと考えられる。引き続き調査を行いたい。
村上傳次左衛門が用いた剣術の試合のための道具はわかるが槍術の試合のための道具は現在のところ不明である。大石進種次が剣術の試合に用いた道具は槍術用のものを改良したとも考えられているため引き続き調査を進めたい。

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本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。

柳川古文書館 白石直樹様
大分県の武道史研究家 狹間文重様
 心より御礼申しあげます。
  1. 2025/01/08(水) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 7

Ⅴ 村上傳次左衛門の槍術 
1.大嶋流槍術の伝系
 本論は村上傳次左衛門の剣術について論述するものであるが、村上傳次左衛門は先述のように柳河藩槍剣師範であったため槍術について簡単に言及する。村上傳次左衛門が記した槍術伝書は柳川古文書館に所蔵されておらず他にも見つけることができない。村上傳次左衛門が柳河藩へ伝えた大嶋流の伝書で見ることができるものは村上傳次左衛門から四代後の師範の加藤善右衛門が発行した伝書 のみである。伝系は遺憾のように記されており、
 
大島伴六吉綱 ― 大嶋雲平源高賢 後号草庵 ― 髙橋武兵衛正明 ― 畑勘平尉秀勝 後号成鬼 ― 松原番右衛門尉正武 ― 吉田八郎兵衛尉雅□ 後号衛水 ― 村上傳次左衛門尉長寛 後号一刀 ― 田尻藤尉太大神惟神 後号捨暦 ―  田尻藤尉太大神惟長 後号捨水 ― 加藤捨助尉藤原信義 ― 加藤善右衛門藤原清房

2.試合
 村上傳次左衛門は『剣士松崎浪四郎傳』に載せられている墓誌に「剣ヲ善クシ、最モ槍法ニ妙ナリ」 とあるように槍術に秀でていたように考えられる。村上傳次左衛門が試合稽古をしていたことは先述の立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に三と記されていもの に「其上御覧之節毎度致仕相」と記されており、村上傳次左衛門は柳河藩槍剣師範であり、史料には剣術とも槍術とも特定して書かれていないことから剣術・槍術ともに試合をしたと考えられる。
村上傳次左衛門から四代後の師範の加藤善右衛門の槍術に関して日本武道館発行の月間武道に連載された島田貞一氏の『槍と槍術』第7回には次のように記されている。

柳河藩は早くから仕合剣術、仕合槍術の発達した土地であった。先に記した剣術の大石進もそこに出現した名手であった。そして槍術では幕末の槍術界にもっとも大きな影響を及ぼしたのが同藩大島流の師加藤善右衛門清房である。天保のころから清房の道場へは諸国からの訪問が絶えず、いずれもその仕合の精妙に舌を巻いた。そしてやがて全国各地の数十藩から夥しい留学者がここへ来たのである。留学者の流儀は全くまちまちであった。たとえば長州藩から差遣わされたのは横地夢想流鍵槍の正統を継ぐ横地長左衛門であった。土佐藩から来たのは高木流素槍の名手岩崎甚八郎であった。下総佐倉藩から来たのは佐倉でもっとも由緒ある誠心流素槍の師家の跡継ぎの井口辰次郎(宗兵衛)であった。摂州高槻藩から来た藤井貞臣は佐分利流鍵槍の士であった。このように幕末には、もはやいかに優れた流派でも、他流仕合に優れなければ流儀を保持し得ないようになって来たのである。留学生は国元に帰るとそのあたらしい技をもって師範として門人を指導し、またそれを聞き伝えた他藩の士を新たに引き受けて教える場合も多かった。…中略…要するに江戸時代後期は、従来の閉ざされた諸藩の流派の時代から、開かれた諸流共通の仕合という技によって結ばれる時代へと移ったのである。

 大石進種次が剣術で日本中に名を知られたのと同じように同時代の加藤善右衛門は村上傳次左衛門伝来の槍術で試合を行い日本中に名を知られている。加藤善右衛門の他藩の門人を記した安政3年の(1856)『旅弟子姓名録』 には他藩の門人446名の名が記されている 。加藤は柳河藩の槍剣師範であり村上傳次左衛門が伝えた剣術も指導しており他藩からの廻国修行者の剣術の他流試合も引き受けている。
 大石進種次もまた村上傳次左衛門が伝えた大嶋流槍術を指導しており、長州藩夢想流鍵槍の師範であった横地長左衛門は加藤善右衛門に入門したが、はじめ大石進種次に槍術を習おうとして天保10年(1839)6月の内演説に次のように記している。(下線、読点は筆者による)

  前略…私儀文政六年未年六歳ニ而家督仕、誠ニ幼少ニ而亡父教諭を請候間も無之、巧者の門弟申合追々執行仕且々門弟取立仕候得共、彼是無覚束相考片時も無油断相働候、然所、筑後柳川御家中大石進と申者剣槍当時西国無双にて所々ゟ入込候門人数多抜群之達者も段々有之由伝承り候、私方兼流之槍術同流と申事ニ御座候間彼方江入込稽古仕候ハヽ切磋之益ニ而流儀自得ニも至り可申欤と奉考候何卒当八月より来子ノ八月迄十三ケ月之間御暇被差免被下候奉願候…後略

 村上傳次左衛門が柳川藩にもたらした剣術も槍術も大石進種次に伝えられている。

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  1. 2025/01/07(火) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 6

4.試合
 先述の村上傳次左衛門に関する立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に二と記されているもの には次のように記されている。

    村上傳次左衛門
其方儀御当地江罷越候以来、弥増武術之心懸不浅、一分之嗜者不及申、大勢之弟子 引立、其上三年以前従嶋原黒木四郎太と申浪人之剣術者、御家を心掛、師範等も可仕覚悟ニ而罷越候處、侍中之内誰そ仕合之儀望申候段承及、早速参會、其場之仕方始終具ニ被聞召届、御名目ニ相拘り候儀彼是神妙之至被遊御満悦候、仍為御褒美御加扶持只今被下置候御合力ニ被結、拾弐人扶持被為拝領、給人格且組付ニ被仰付候、此段可相達旨被仰出之、以上
八月

 これによれば村上傳次左衛門は柳河に居住して以来多くの門弟を育ていることがわかる。また3年前に嶋原浪人の黒木四郎太が柳河藩の剣術師範になろうとして柳河藩士と試合しようとしていたところ村上傳次左衛門がこれに応じ見事な働きをしたことにより現在支給されている合力に加えて合わせて十二人扶持を支給し、給人格と組付を命じられている。内容から考えると村上傳次左衛門は柳河藩士という身分を得たのちに嶋原藩浪人黒木四郎太と試合をしている。
 黒木四郎太は天保2年(1819)に島原藩士大原久茂によって印された『深溝松平家藩中芸園録』 に

    黒木四郎太調實
黒木四郎太調實者者初メ周助卜呼、堀波右衛門尚春ニ随身シテ復心流之刀術ヲ修行シ其奥旨ヲ得タリ、是ヨリ調實其刀術ヲ以テ人々ヲ教導ス、爰ニヲイテ調實ニ従テ専ラ刀術勉習スル者、是永小左衛門光治・橋田久太夫武親等ナリ、調實後御暇ヲ乞ヒ浪人ヲ業トシ島原南有馬村ニ籠居シ安永年中卒スト云々
 或人曰、四郎太調實ハ刀術ヲ好テ能稽古ヲツトメ其志シ浅カラス御徒歩ヲ勤メ其行迹質朴之人ニテ有りシト也

と記されており黒木四郎太が島原藩を致仕した浪人であることがわかり柳河藩の上記の資料の記述の正確さを確認できる。
同じく立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に三と記されていもの には次のように記されている。

  村上傳次左衛門
其方儀門弟中稽古之節昼夜相手ニ成、其上御覧之節毎度致仕相、扨又志厚弟子中引立之趣委細被聞召、為抽儀被遊御満足候、仍為御褒美御上下被為拝領之旨被仰出之候、已上
六月

 村上傳次左衛門が上覧のたびに試合を行っていることがわかる。このころの上覧は一門ごとに行われていたので村上傳次左衛門と門弟との試合、また門弟間での試合であったと考えられる。褒美として上下を拝領している。
大石神影流の伝書である『大石神影流剣術陰之巻』に種次自身が「幼ナキ時愛洲新陰流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ學タリトモ」 と記しており、村上傳次左衛門の流派では竹製の簡易な面と袋撓を用いて試合稽古をしていたものと考えられる。大石神影流では竹刀・刀の長さの上限を総長で地面から乳通りの高さまでとしているが、村上一刀が定めた長さは記録にはないが、村上傳次左衛門が記したと考えられる先述の『新陰流刀術印可』 によれば「一 太刀 弐尺三寸ヨリ五寸迄用之 一 脇差 壱尺八寸ヨリ九寸迄用之」と記されており脇差は通常のものよりも長いが、太刀は通常使われる長さとかわりはない。

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  1. 2025/01/06(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 5

3.流派の体系
 村上傳次左衛門が発行した現存する伝書は橘軍八(村上傳次左衛門)が発行した『新陰流刀術印可』 と『愛洲陰刀術甲冑傳』 である。『新陰流刀術印可』には形名があるが、『愛洲陰刀術甲冑傳』には形名はなく二十一箇条の項目が羅列してある。大石神影流成立以前の現存する伝書は村上傳次左衛門の子の粟生次郎右衛門が発行した『新陰流剣術陽巻』 、村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が発行した『愛洲陰流刀術』(仮題) 、大石遊釼の名代として足達右門が発行大石進種次に発行した『新陰流剣術陽巻』 のみであり、これらを表にまとめ比較する。
同じ形が記してある箇所を比較するため本来伝書にはないスペースをあけた。

表省略

 村上傳次左衛門(橘軍八)が発行した伝書とその子粟生次郎衛門が発行した伝書、村上傳次左衛門の門人が発行した伝書を比較してみると基本的に形名とその体系が同じことがわかる。
 一方、2)伝系 で論じたように岡藩出身で広島藩で信抜流(心貫流)を教えた永山大学の伝系と村上傳次左衛門の子の粟生次郎衛門が記した伝系は類似しており永山と同じく岡藩出身であった村上傳次左衛門はその釼術の伝系から岡藩に伝わっていた心貫流を修めていたと推定できる。
しかし同じ源流のものと思われる元禄6年(1693)発行の『新影流伝書』 によればその形名は「両燕帰、千人詰、剣之巻、乗太刀、車菱、心之無二剣、宝寿剣、石之唐櫃、剣無切」となっており、時代は下るが永山大学が伝えた文久3年ころと思われる信抜流(心貫流)の『神文前書』 にも同じ形名が記されている。「両燕帰」に異体字が用いられ「両燕皈」となっている違いしかない。
村上傳次左衛門の剣術の形名と同じ源流から発したと思われる流派の形名は大きく異なっている。

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  1. 2025/01/05(日) 04:25:00|
  2. 武道史

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 4

Ⅳ 村上傳次左衛門の剣術
1.流派名
 村上傳次左衛門が柳河藩に伝えた剣術の流名は一定していない。村上傳次左衛門が橘軍八名で寛延3年(1750)に発行した『新陰流刀術印可』 には流派名は新陰流とあり、宝暦9年(1759)に塩見松次(後の大石遊釼)に宛てて発行した『愛洲陰流刀術截目録』 には愛洲陰流とある。足達右門が天明5年(1785)に村上一刀から授けられた奥意を記した『神傳印鑑 全』には愛洲神影流 とあり、村上一刀(傳次左衛門)が天明5年(1785)に米多比正見に出した『愛洲陰刀術甲冑伝』 には愛洲陰(流)とある。また村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が文化5年(1808)に発行した伝書『愛洲陰流刀術』(仮題) には愛洲陰流とある。大石進種次が文政5年に祖父の大石遊釼名代の足達右門から授けられた伝書には新陰流とある 。村上傳次左衛門は新陰流、愛洲陰流、愛洲神影流の流名を用いていた。

2.伝系 
村上傳次左衛門が発行した伝書には流祖とした愛洲移香からの伝系にやや混乱がある。
寛延3年(1750)の橘軍八(村上傳次左衛門)の『新陰流刀術印可』では流派の伝来を足利日向守愛洲移香から上泉伊勢守藤原信綱へと伝わったとしている。しかし文化元年(1803)の村上傳次左衛門の子である粟生次郎右衛門が発行した『新陰流剣術陽巻』 では足利日向守愛洲惟孝から奥山左衛門大夫宗を経て上泉武蔵守信綱へと伝わったように変化している。理由は不明であるがこの伝書では石原傳次左衛門尉正盛の次の村上傳次左衛門の名は省略されている。
広島藩に伝わった信抜流は永山大学によって伝えられた。永山大学は村上傳次左衛門と同じ岡藩の人で心貫流を極め広島に来て流名を信抜流とかえて弟子をとった 。この信抜流の相伝者を文久3年(1863)の『信抜流相伝書』 にみると村上傳次左衛門の子の粟生次郎右衛門の伝書の相伝者とほぼ同じである。
 また、山口県熊毛郡上関町の吉田家に伝わる表題を『新影流伝書』とされている新抜之流の伝書 では愛洲惟孝の名はなく初めに岡山左衛門尉家次をもってきており次に上和泉伊勢守信綱、長尾美作守鎮宗としている。 岡山は奥山の間違いであろうが、この伝書でも奥山の次に上泉信綱がきて長尾美作守が記されている。
 岡藩出身で広島藩で信抜流(心貫流)を教えた永山大学の伝系と村上傳次左衛門の子の粟生次郎衛門が記した伝系はよく似ており永山と同じく岡藩出身であった村上傳次左衛門はその釼術の伝系から岡藩に伝わっていた心貫流を修めていた推定できる。しかしながら岡藩があった現大分県竹田市の古文書が収蔵されている竹田市歴史文化館・由学館に心貫流関係の古文書はなく、幕末の廻国修行の英名録にも岡藩で他流試合をした流派に心貫流がないためそれ以上は不明である。
 なお奥山左衛門大夫は正徳4年(1714)に記されたとされる『本朝武藝小傳』によれば上泉伊勢守の門人の丸目蔵人の弟子で心貫流を称したとあり、また明和4年(1767)に版行があり、寛政11年(1799)に改版があったとされる『日本中興 武術系譜略』にも同様の記述がある 。天保14年(1843)に版行された『撃劒叢談』にも同じく丸目蔵人の弟子の奥山左衛門大夫が心貫流を立てたとし、笊をかついだり、円座を負ったりする独特の稽古方法をすると述べているが、村上傳次左衛門の弟子の伝書にも広島藩に伝わった信抜流の伝書にも相伝者に丸目蔵人の名はない。

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  1. 2025/01/04(土) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 3

Ⅲ 村上傳次左衛門の伝記
柳河藩に新陰流とよばれる流派をもたらしたのは岡藩浪人で柳河藩槍剣師範となった村上傳次左衛門である 大石家が柳河藩の槍術剣術師範となったのは大石家第十二代大石太郎兵衛種芳のときであり、大石太郎兵衛種芳の師が村上傳次左衛門である。村上傳次左衛門の略歴はその墓誌に記されている。現在墓石は地下に埋められて確認することはできないが、『剣士松崎浪四郎傳』に墓誌の漢文を書き下して載せられている。墓誌は以下の通り。

   翁姓ハ源、名ハ長寛、伝次左エ門ト称シ、私カニ練乗院一道無三居士ト謚ス。豊後ノ人ナリ。世々竹田候ニ仕エ、世々勇悍ニシテ武略アリ。亦剣ヲ善クシ、最モ槍法ニ妙ナリ。宝暦中故有ツテ国ヲ去リ、諸州ヲ経歴シ、跋ミテ艱難ヲ嘗ム。其ノ習ウ所ヲ試ミ、遠トシテ到ラザル無シ。後ニ後筑(筑後ノコト)ノ北𨛗ニ至リ、子弟ヲ集メテ而シテ之ヲ誘導シ、駸々トシテ日夜倦マズ。声竟ニ肥筑ノ間ニ籍々タリ。是ニ於テ乎、柳川侯其名ヲ聞キ、聘シテ而シテ之ヲ迎ウ。終ニ師員ニ擢ンデラレ、寵遇殊ニ厚シ。寛政七年、禄ヲ辞シテ而シテ折地ノ里(元水田村)ニ老シ(隠居スルコト)又胤子(あとつぎノ子)長供ヲシテ北𨛗ニ往キ、襲ギテ師弟ニ課セシメ、而シテ翁在シマスガ如シ。是ノ日、余輩モ亦与ルコト有レリ矣。翁年八十ヲ踰エテ、尚剣ヲ舞ワスコト少壮ノ時ニ異ナラズ、或ハ跳躍シテ上ニ揚ル。試ミニ一撃スレバ便チ風雷ノ怒号スルガ如キ者有ル也。則チ其ノ平生養ウ所ヲ察スルニ足ル也。寛政十年冬十一月廿日、八十有七終スルニ病ヲ以テ卒ス。胤子長供乃チ其ノ考(亡父ノコト)ヲ追思シ、因テ師弟ト相謀リ、力ヲ鳩メテ而シテ石ヲ建テ、将ニ以テ朽ニ伝エントス焉。嗚呼君ノ寵遇ト而シテ父ノ美名ト、之ヲ無シテ伝エズシテ而シテ朽チシムルハ、臣子ニ非ザル也。因ツテ其ノ略ヲ記スト云ウ。 (原漢文)
    文化六年己巳夏五月
           粟生次郎右エ門長供弟子門弟子謹ミテ撰ス。

 この墓誌は書き下し文が『伝習館剣道部史』 にも載っているが、異同はなく(  )の中の注も全く同じであるので『剣士松崎浪四郎傳』の書き下し分をそのまま載せたものと考えられる。
 村上傳次左衛門墓誌のほかに村上傳次左衛門について言及したものに飫肥藩士佐土原友衛が記した『極内輪覚』がある。『極内輪覚』 は柳河藩槍術師範加藤善右衛門に免許を授かった佐土原友衛が備忘録として記したものらしく大嶋流の代々の師範について簡単に記述している。

      覚
    聞きかき
  一 大島伴六出生も終りも不詳
    子 大島雲平中興開矩加州ニ止り門弟三千人あり、内三人上達、其壱人髙橋武兵衛其後雲平紀州ニて死子孫今ニあり
    髙橋武兵衛傍輩をアヤメ加州を立退讃州丸亀ニ行く、被抱候處右之仕合敵持ニ付被断、□は□□抱城内ニ□門人数あり、其後丸亀没落之節右之弟子松原権之助と申者は豊後岡ニ被抱、□□武兵衛高弟畑勘平ニ申ハ三□末修行不足之処有之、御□三ヶ年も三□教免許相免、御□ニ付先岡ニ参り三ヶ年間権之助ニ教免許ゆるす、其後権之助□末ニ松原萬右衛門門人吉田八郎兵衛門人粟生勘平と申人岡ヲ出村上一刀と改メ柳川江被抱大嶋流抜討流ヒロム、八郎兵衛門人と申義其頃は免許相済□□は則弟子取り候事也

 これによれば村上傳次左衛門はもともと粟生勘平と名乗っていたらしく、傳次左衛門の子が粟生次郎右エ門と名乗ったのは村上傳次左衛門の元の姓を名乗ったからだということがわかる。「大嶋流抜討流ヒロム」とあるが抜討流は愛洲陰流または新陰流の間違いである。
 村上傳次左衛門の墓誌によると宝暦中(1751-1754)に岡藩を出たと記されているが、寛延3年(1750)に橘軍八長寛より荒巻藤吉に出された『新陰流刀術印可』 は発行者が村上傳次左衛門ではないが諱は長寛であり、長寛という筆跡が宝暦9年(1760)10月吉日に村上傳次左衛門が塩見松次(後の大石家第十二代大石太郎兵衛種芳)に宛てた『愛洲陰流刀術截目録』 のものとほぼ同じであること、伝書の内容も愛洲陰流のものと似ていることから橘軍八長寛とは村上傳次左衛門長寛のことと考えられる。村上傳次左衛門は宝暦以前に岡藩を出た可能性も考えられる。
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 現存する岡藩の記録に村上傳次左衛門または前名の宝暦頃の粟生勘平の記録は見出すことができない。しかし第四代目藩主・中川久恒の項に元禄5年(1692)3月、藩主・久恒は四代将軍徳川家綱の13回忌の法主「竹内曼殊院良尚法親王」の御馳走役を仰せ付けられており 、この御供幷御馳走場詰の児小性13人の中に粟生勘平の名がある 。村上傳次左衛門は元禄5年には生まれていないが、この粟生勘平は村上傳次左衛門の関係者ではあるまいか。父親であるとも考えられる。
 村上傳次左衛門の事績を柳河藩の用人日記等から抜き出すと以下のようになる。

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 これらの史料からみると村上傳次左衛門は岡藩浪人で寛延3年(1750)頃には筑後に来ており武術を指導、宝暦4年(1754)には槍術を上覧し、また御目見えをしているのでこのころに柳河藩士として召し抱えられたと考えられる。以後寛政7年(1795)、84歳で禄を離れ、寛政10年(1798)11月20日に87歳でなくなっている。柳河藩に召し抱えられてから約40年間、武術師範として柳河藩に仕えている。明和元年(1764)から安永2年(1773)までの間に傳次左衛門から一刀と名を変え村上一刀と称している。
 村上傳次左衛門が柳河藩に召し抱えられた経緯等は年不明であるが、立花織衛家文書の5通の史料の内に記されている。
 端裏に一と記されている『村上傳次左衛門江御意伝達之覚』 には次のようにある。
  
   村上傳次左衛門江
   御意伝達之覚
其方儀此間天天叟寺寺内帳ニ在之候處、鑓致師範門弟中引立遂出精之段被聞召御満悦被思召候、依之今般人改支配被仰付、此段従拙者方可相達旨被仰出候事
十二月十九日 十時太左衛門
 
 「天天叟寺寺内帳ニ在之」とは天叟寺の家族という扱いであり、この時点では浪人であったと考えられる。浪人の村上傳次左衛門が槍術の師範をし、門弟を引立てていたので柳河藩士に取り立てられたのであろう。そして宝暦4年(1754)12月19日に村上傳次左衛門ははじめて槍術門弟の上覧を受け御目見をうけている ので、この御意伝達は宝暦4年に出されたものではないだろうか。
 端裏に四と記されている『村上傳次左衛門江御意之覚』 には下記のように記されている。

   村上傳次左衛門江
   御意伝達之覚
  其方鑓致師範弟子中遂出精御満悦被 思召候猶又此後無怠出精候様ニ門弟中引立可申候、此段拙者方より可申達旨被仰出候事
十二月十九日 十時太左衛門

 この御意伝達書は同日付で同一人物から発給されており、内容も重複する部分があるので、同じ時に出されたものと考えられる。明和8年(1771)から安永4年(1775)の間に記されたと考えられている分限帳 では立花勝兵衛組に配せられている。
 村上傳次左衛門が高齢となって禄を離れた理由は端裏に五と記されていて、柳河古文書館の立花織衛家文書目録で〔御意伝達書〕 と仮題が付けられているものに次のようにある。
       
       村上一刀 
       同傳次左衛門
  一刀内分逼迫ニ付今般御暇願出候口上書之趣達御聴被 聞召届候、然處御当家江被召抱候已来鎗釼術両藝共無怠令執行且門弟中心懸引立旁御満足被 思召候、仍御暇願之儀は被差留度被思召候、乍然當時一統役米被仰付諸士中も及難渋候得共、誠艱難凌相勤候砌ニ候、御附代格別舊功之筋目之者たり共被取分御取救も難被為相届御時節ニ候、仍當時其元ニ限格別訳可被為相立様も無之、乍御心外被任願御暇被仰付、御願仲住居可為勝手次第旨被 仰出候、此段中申達候様被 仰付之候、以上
   八月

 「一刀内分逼迫」とは経済的に困窮していたということであり、当時は柳河藩で「上り米」とも呼ばれる逼迫した藩財政を補填するため藩士の禄の何割か(禄高によりパーセンテージが異なる)を天引きする制度である役米もおこなわれていた。村上一刀とその子傳次左衛門は自ら禄を離れることを望んでおり藩も特別扱いはできないため「乍御心外」暇を与え、禄を離れた後も藩中に居住することを許している。禄を離れたのちは村上傳次左衛門墓誌 にあるように折地ノ里(元水田村)に隠居し、子の粟生次郎右衛門に武術の指導は任せている。
村上一刀(傳次左衛門)の子の傳次左衛門はその後、村上一刀が村上と名乗る前の粟生姓を用い、名もかえて粟生次郎右衛門と名乗ったと考えられる。粟生次郎右衛門の愛洲陰流は久留米藩の剣術下師範となった黒岩拾右ヱ門長保に伝えられ黒岩金右ヱ門と続いた 。宝暦12年(1768)11月6日の『〔六組諸願記録〕』 にある村上一刀からの息子の前髪執りの届を出した息子武之介と天明元年(1781)6月26日の『六組記録』 にある村上一刀の口上書にある息子の勝弥、そして寛政3年(1791)から同5年(1793)に記されたと考えられる『侍帳』 の「合力九石九斗 村上傳次左衛門」が同一人物と考えると15歳で元服したとすれば村上一刀がなくなった時に子の村上傳次左衛門(後の粟生次郎右衛門)は51歳前後だと考えられる。


  1. 2025/01/03(金) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 2

Ⅱ 柳川藩の幕末期の剣術流派と槍術流派
1.剣術流派
 柳河藩の剣術流派を他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
弘化4年(1847)10月に柳河藩で試合した長州藩の渡部直八の『諸国剣道芳名禄』には大石神影流、家川念流、新陰流の3流派のみが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
嘉永2年(1849)閏4月に柳河藩を訪れた神道無念流斎藤新太郎の廻国修行の英名録『脩行中諸藩芳名録』によれば柳河藩の幕末の剣術流派には大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流があった。新陰流の師範は田尻藤太と加藤善右衛門で相師範である 。
大石進種次のもとに遊学した高鍋藩の石井寿吉の英名録には嘉永3年4月(1850)に大石神影流と試合し、嘉永4(1851)年6月に家川念流、電撃抜討流、新陰流と、嘉永5年(1852)5月に家川念流、新陰流と試合したことが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
大石進種次の土佐藩門人である樋口真吉は4回大石進のもとに赴いているが、4回目は嘉永5年(1852)、江戸の剣術家でのちに土佐藩士となる石山孫六とともに九州から江戸へ廻国修業する途中に立ち寄っている 。この時の廻国の試合相手の流派と名前は『諸兵家尊名鈔巻四』に記されている。柳河藩では家川念流、抜討流(電撃抜討流)、神影流(ママ)(註:師範が田尻籐太であるので大石神影流ではなく新陰流)、匹田流(疋田豊五郎流)、家川念流と試合した。神影流の師範は田尻籐太のみが記されている 。
万延元年(1860)11月に廻国修行で柳河藩を訪れた土佐藩の武市半平太の『劔家英名録』には、家川念流、抜討流、新影流、大石神影流の4流派が記されている。新影流の師範は加藤善右衛門のみが記されている 。
以上からみるに柳河藩では大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流(神影流)の5流派が廻国修行者を引き受けている流派であり、他に廻国修行者を引き受けていない剣術流派があった可能性も残るが柳河藩が他流試合に積極的であったことを考えるとこの当時柳河藩の剣術流派は5流派のみが存在したと考えてもよいと思われる。

2.槍術流派
幕末期の柳河藩の槍術流派についておもに他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
 柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門より免許を授かった飫肥藩の佐土原友衛 の嘉永2年(1849)から安政5年(1857)までの廻国修行の記録である『列国槍手名字簿』 によれば、柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、宝蔵院流があった。
 棚倉藩士ではじめ大嶋流を秋月藩士の間角彌(加藤善右衛門門人)に習いついで加藤善右衛門に習った棚倉藩士の伊原勝司の安政2年(1854)から安政5年(1857)までの記録がある廻国修行の記録である『金蘭簿』 によると柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新撰流、宝蔵院流が記されている。
安政6年(1858)8月の清水正熾による自序がある『藝王姓氏録』 によれば柳河藩の槍術として新撰流、真心流、大島流、宝蔵院流、夫木流、新陰流が記されている。
柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門の門人である津和野藩の原田康人 の文久2年(1862)4月13日から11月8日までの記録がある『英名録』 によれば柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新選流、新蔭流、宝蔵院流、新心流があった。
以上からみるに柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新選流、新蔭流、宝蔵院流、新心流があったと考えられる。

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  1. 2025/01/02(木) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 1

Ⅰ はじめに
 大石神影流は柳河藩で大石進種次が愛洲陰流を改革して創めた流派である。愛洲陰流は宝暦年間に岡藩浪人である村上傳次左衛門(後号一刀)によって柳河藩にもたらされた流派で新陰流、愛洲神影流とも称していいる。
 村上傳次左衛門はまた柳河藩に大嶋流槍術をももたらし大石進種次は柳河藩の槍剣師範として大嶋流槍術と愛洲蔭流剣術を指導した。大石進種昌は剣術で高名となったが、同じく村上傳次左衛門がもたらした大嶋流槍術の師範となった加藤善右衛門は槍術で高名となった。
本研究では大石神影流のもととなった愛洲陰流がどのような流派であったのか、また村上傳次左衛門がどのような人物であったのかを明らかにしたい。

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  1. 2025/01/01(水) 21:25:00|
  2. 武道史

謹賀新年

謹賀新年

 新しい年を迎えお慶びを申し上げます。
古い我をすて前へ前へと進むことで上達していきます。
今年はどこまで進めるか、楽しみにしましょう。

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  1. 2025/01/01(水) 00:01:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

年の終わりに

 貫汪館で稽古される方は今年真摯に稽古に取り組んだ結果としての進歩があったと思います。
 貫汪館の無雙神傳英信流・大石神影流・澁川一流を正しく稽古していれば、心がゆったりとくつろぎ、体の緊張もなく楽になっています。これは「集中」「緊張」とは異なるものです。「解放」という言葉よりも「開放」のほうがよいかもしれません。今年1年を振り返り、来年自分がどの方向へ行くべきなのかを考えてください。

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  1. 2024/12/31(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

運剣

 抜付けた後に体を前に運ぶの動きを難しくしてしまうのは上半身から前に突っ込もうとするからなのですが、体を下半身から楽に運ぶには上半身の無駄な力を抜くだけでは不十分、ましてや体全体を力ませてさせてまっすぐにして進むわけではありません。そんなことをしてしまったら自由に動く武道ではなくなってしまいます。
 大切なのは運剣が正しくできているかどうかで運剣が正しくできていれば体が軽くなるときを感じると思います。体が軽くなったときに前に進みます。具体的には稽古の時に指導している通りなので詳しくは記しませんが心が「前に」と焦っていたらできなくなってしまいます。焦らないことが大切です。

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  1. 2024/12/30(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

血振い

 血振いも初心者にとっては難しい動きなのですが、体が一つになっていれば問題なくできるはずです。

左手は引込めて腰に執りつゝ右手は全指を伸し拇指と示指の付根の所にて柄を挟む様に軽く握り立上りつつ刀を右外より廻し肩の後ろへ釣下げ(拳の高さは身の横通りにて耳より四・五寸位右へ離し)血振ひして(大森流の血振ひの仕方は後へ釣下げて居る刀にて耳をかすめ小指より順次に締めつつ傘の雫を振落す様に刃部を右斜め下へ向け右拳は体より右前下へ突出した所にて止る)

「左手は引込めて腰に執りつゝ右手は全指を伸し拇指と示指の付根の所にて柄を挟む様に軽く握り」というところは左右同時に開くということを意味しています。左手は腰に、右手は右外より廻し肩の後ろへ釣下げますが「左手は引込めて腰に執りつゝ」と「執りつゝ」という表現に注意しなければなりません。
「肩の後ろへ釣下げ(拳の高さは身の横通りにて耳より四・五寸位右へ離し)」の具体的な位置は稽古していない人にはわかりません。「釣下げ」という動きは体全体で刀の重さが感じられなければ「釣下げ」てはおらず肩で刀を振り回しているだけです。

微妙な表現ですので決して字面で解釈しないでください。教えをしっかり理解したうえでなければ必ず間違った方向へ行ってしまいます。

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  1. 2024/12/29(日) 21:25:00|
  2. 居合 業

上体は稍前掛りに俯く事

 植田平太郎先生の形の解説は簡略です。教えを受けた者が読むのと、教えを受けていない者が読むのとではその解釈に大きな違いが生じます。初発刀で血振い後に倒れた相手の息を確認するときの動きを植田先生は次のように解説されています。

  左足を右前足に踏揃へ(後足を前足に踏揃へる時は何時も上体は稍前掛りに俯く事)

 どうでもよいように思えることですが、先に足を踏みそろえようとする動きが記してあり、その後に「上体は稍前掛りに俯く事」と記されています。つまり下半身が働くことによって状態は倒れた相手に覆いかぶさる形になるのですが、先に上体を傾けようとすると不安定な頭でっかちの姿勢になってしまいます。肚・足首・膝・鼠径部が連動して働いた結果として「上体は稍前掛りに俯く」形となります。結果を直接求めるとおかしなことになるのです。すべては様々な動きの積み重ねの結果であり結果を直接求めることはありません。

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  1. 2024/12/28(土) 21:25:00|
  2. 居合 業

斬撃

 振りかぶったときに手の内が変わってしまうと正しい斬撃はできず小手先の技になってしまいます。
 具体的には振りかぶったときに小指薬指が緩み時に左手の手の内を開いた状態にしてしまう。振りかぶり始めの手の内は正しくても振りかぶったときにしっかり握ろうと思い、横握りに握りしめていたり、大きく振りかぶろうとして両脇が空いた状態等々です。初めに正しく構えた手の内と振りかぶった状態が異なっていることが自分で確認し、間違っていたらこれを改めないかぎり小手先の斬撃をを続けてしまいます。

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  1. 2024/12/27(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

大石神影流剣術 5段論文

 論文の前半部分で指導者が持っておくべき心構えについて述べられ後半に各手数について具体的に述べられています。

Points to Teach Through the Practice of Oishi Shinkage Ryu

When I think about the points to teach in the practice of Oishi Shinkage Ryu I feel it is the school in the Kanoukan curriculum that I understand the least.
It is a reminder that I am still just a student and even with several years of practice I have much to learn about the school and about kenjutsu in general.
The points to teach are only correct in so far as I understand the meaning of the techniques and the principles associated with them.
As a Westerner practicing Kobudo in the United States more than one hundred and fifty years after the end of the age of the bushi, is it possible to understand the correct spirit or mindset required to cut a man down in battle or to defeat him in a duel?
Perhaps we can use the Japanese word “Bu” meaning martial as a frame of reference.
The kanji for “Bu” (武) is comprised of two radicals, to stop (止) and spear (戈).
While debates on the interpretation of these radicals continue in academic circles, the kanji “Bu” can be read as having a connotation of stopping or preventing violence.
Maybe as we learn through our training to first stop the conflicts in our minds, self-protection in the world around us becomes possible. Having a clear mind to correctly interpret a potentially threatening situation as well as the necessary traits to overcome that situation would be common to both now and times past.
Perhaps the best analogy I can draw between modern self-protection and Kobudo would be the mindset taught during firearms training.
Situational awareness is required when carrying a weapon for the purposes of self-defense. This requires having an awareness of your immediate surroundings similar to zanshin which is taught in Kobudo training.
In kenjutsu we look for tsuki or gaps in our opponent’s awareness or defense to strike. If your awareness lapses you may be caught unaware.
These are truths that are applicable both today and in the age of the bushi.
You are taught to leave your finger off the trigger of the firearm until you are certain of your target and to never to cover any object with the barrel of the firearm unless you are prepared to destroy it.
In training Kobudo we are taught that competition for the sake of self-aggrandizement or ego gratification is not to be sought. The only reason to use the techniques learned is to improve oneself as well as to defend yourself or loved ones should the need arise.
While not identical I believe the above ideas to be in the same spirit. Violence should always be reserved for the most extreme cases as it will always have lasting consequences for those involved.
It is also worth noting that in the United States Armed Forces there is a maxim “slow is smooth, smooth is fast”. This emphasizes relaxed movements performed correctly over the course of time until it is second nature, and no thought is required. The mind, body and spirit have been taught to respond. This seems to flow with the method of training in Kobudo arts as well.
The above is all theorizing based upon my experience. I do not claim to be an expert.
I make the points simply to suggest that to teach a thing even at a basic level the essence of that thing must be grasped. Based on my experience the essence of both the proper use of the gun and the sword is self-protection. While the technical methods of use differ greatly perhaps the spirit of these things are more similar than on first observation.

The practice of Oishi Shinkage Ryu kenjutsu has much in common with the practice of the Muso Shinden Eishin Ryu and Shibukawa Ichi Ryu. While they are not the same style there are traits common to both.
Relaxed, natural movements and using the tanden to generate power are two of those common traits. Both Muso Shinden Eishin Ryu and the Oishi Shinkage Ryu are also practiced with longer swords which creates the need for similar movements.
There also seem to be consistent “threads” of principle woven though out the Oishi Shinkage tekazu.
I will highlight a few here that I may have begun to understand.
Similar to Muso Shinden Eishin Ryu the beginning of the lessons are found in reiho.
The reiho for Oishi Shinkage is very simple but with nuance. Going to one knee for the bow to the Divine should feel like flowing movement to the ground somewhat similar to hakama sabaki in Muso Shinden Eishin Ryu or the reiho of the Shibukawa Ichi Ryu. The bow is performed by relaxing the muscles of the lower abdomen. Standing should feel like lifting from the tanden which is another similarity to both other schools.
Drawing the sword from the saya is performed by relaxing the tanden as well. From a standing position with both feet together you step out with your right foot, bringing the end of the kashira in front of your face. Relaxing the muscles of the lower abdomen drops the body enough for the sword to be pulled from the saya. If this cannot be done by relaxing the tanden alone, dropping the hips is a way to begin training the correct movement.
Raising into jodan is a foundational practice. It is not enough to simply swing your arms up while holding the sword. It is important to feel the connection between the sword with the rest of your body. The lower abdomen relaxes to provide the sense of the swords rising naturally. If your arms are stiff, you will be unable to feel the connection between the two.
Connection between training partners is important as well. The instructor should lead the class raising into jodan with the students observing and following the instructor’s timing.
Another practice is for the students to match distance and movement while observing each other’s minds. This can be done with swords in chuden posture or with only open hands. The important point is to feel the sense of connection and move in harmony.
Cutting or suburi practice is performed by raising into jodan and dropping the entire weight of the body to perform the cut. This is done by relaxing the muscles of the upper legs as well as the lower abdomen creating a controlled fall to be stopped by the front leg.
This practice of moving and relaxing the lower abdomen when moving the sword leads to training Haru.
Haru is a movement that is used in some form in all of the tekazu of the Oishi Shinkage Ryu.
Haru is a major component of the first set of tekazu, Shiaiguchi. To understand haru you must have learned how to drop your weight in a controlled fashion through the practice of previous exercises. The biggest mistake beginners will make is that they must push or force their opponents blade aside when performing haru. The arms should be empty and the movement should come from dropping your weight by relaxing the lower abdomen.
Shiaiguchi includes performing Haru from left, right as well as from a thrust.
Another important point to teach in Shiaiguchi is to observe your opponent’s mind. In Suigetsu you must watch as well as feel for the correct moment to strike.
The practice of relaxed movements when cutting is continued in the You no Omote set.
In Youken you intercept your opponent’s cut by observing his mind and “falling” forward to cut. This “fall” is then continued into Noru, suppressing your opponent’s blade, covering the right side of his body.
In Gekken connection with your opponent is important to understand the movements of the tekazu. Also we are again “falling” of the line of attack with an over head block as in Ichimi.
In Muniken we again return to the lesson of Suigetsu but with the variation that the opponent strikes down your cut to the wrist. Dispersing the energy from that strike by relaxing, letting your sword flow around the side you deliver the second cut.
In Nisho when your opponent draws back into jodan after missing the first cut it should feel as though you are being drawn into the space they have moved out of. This is again the sense of connection that has been developed.
The three cuts of Inazuma should be one continuous fall forward, the cuts performed with the body instead of the arms.
We return for a different application of relaxing the tanden in Taiyoken, dropping the weight by relaxing the lower abdomen. The arms should be relaxed as they extend to cut.
In Seitoken we relax the lower abdomen to generate the force for the downward block in response to the opponent’s thrust which is continued by again “falling” forward into Noru.
Muiken is the longest and perhaps most technical of the tekazu in this set.
Haru is performed twice, once high and once from a lower posture with the sword on the knee. After parrying two thrusts we again fall forward into Noru.
In Norimi we again observe the opponents mind catching him in the moment he shifts position driving him back.
I find it interesting that Chidori, which is the last tekazu of You no Omote sets up the first tekazu of You no Ura, Seiryu.
The lifting and falling of the tanden to slip the opponent’s cut, then falling forward into a cut to the arm and a block leading to a cut to the head respectively is a segway from one set of tekazu to the next.

In summary, I believe that the mindset of the bushi of old can be accessed by those of the modern age with the proper training. Bringing that mindset to the performance of the tekazu of the Oishi Shinkage Ryu along with attention given to relaxed movement and application of the tanden gives the art life and continues the Kobudo arts into a new generation. Without the merging of the two we are merely wearing costumes, waving our arms around and imitating the movements without understanding the meaning.

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