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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

立場を自覚することで上達する

 あくまでも上達したいと思う人に限ることですが自分が置かれた立場を自覚することによって上達します。
 指導者が指導する中には様々な才能を持った方がいます。自分が指導しながら部分的には指導した以上のことができるようになる人(弟子)もいます。その人が持つ才能なのだと思いますが指導者は、その人から学ぶとともに常にその人の上を目指していかなければなりません。指導者はその心構えがあって上達していきます。
 出藍の誉れという言葉はありますが、低レベルなところでで弟子の方が自分よりも上手と思っていたら自分自身の上達もありませんし、弟子を導くこともできません。
 指導者に限らず古参の弟子にも言えることです。自分よりも経験の浅い人が上達してきたときに、それに負けまいと思い工夫研究して上達しようと思う人はさらに上に行くことができますが、自分の方が先輩であると古いことだけを誇る人は上達できません。心掛け一つです。

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  1. 2022/05/01(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

言葉遣い

 言葉は心の表れです。完璧な言葉遣いをせよということではなく、場にふさわしい言葉遣いをしようと心がけた方が良いということです。武道は相手とのやり取りですが、このやり取りが正しくできなければ相手とのつながりは途切れ破滅へと向かいます。武道を理解するためには日ごろの人とのやり取りも大切でその一つが言葉遣いです。
 たとえばたいへんお世話になっている方が自分にお話しされていて、それに「うん。」と返事をしたらどうでしょうか。お世話になっている方は自分の父親でも身内でもありません。そのような方に「うん。」では武道のレベルも知れています。
 またお話の最中に「ほお。」と相槌を打ったらどうでしょうか。そのような対応がふさわしいかどうかは考えればわかりそうなものですが、それができないということは武道でも相手に対して場違いな対応をしているということです。
 直接対面しての話について述べましたが、手紙やメールのやり取りであっても同じです。SNSで不特定多数の方が見ておられる可能性がある場合でもその場にふさわしい言葉遣いが必要となります。
 そのような状況に慣れていない場合で言葉遣いを間違ったとしても、正しい言葉遣いをしようと努力していれば相手に誠意が伝わりますが、誠意もなくいい加減に対応していれば、またそれも伝わります。
 日常生活はすべて武道とつながっているものです。

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  1. 2022/05/02(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 1

 昨年末に日本武道学会中四国支部会で発表した「土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について」を数回に分けて載せていきます。この発表は平成23年の日本武道学会第44回大会発表で発表した「土佐藩大石神影流 樋口真吉の廻国修行について―嘉永5年の廻国修行を中心として―」と対になるものですので、平成23年の発表抄録と照らし合わせて読んでください。貫汪館の門人でで平成23年の発表抄録をお持ちでない方は館長までご連絡ください。 

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について


Ⅰ.はじめに

樋口真吉(1815~1870)は土佐中村の人で天保8年(1837)、天保11年(1840)、弘化4年(1847)、嘉永2年(1849)、嘉永5年(1852)と計5回、九州に赴いている。そのうち柳河藩の大石進のもとでの稽古を含んで廻国修行したのは天保8年(1837)、天保11年(1840)、弘化4年(1847)、嘉永5年(1852)の計4回であり、嘉永5年(1852)は江戸の剣術家でのちに土佐藩士となる石山孫六とともに九州から江戸に至っている。なお嘉永2年(1849)は長崎へ砲術修行に赴いており剣術の修行はしていない。
天保8年(1837)の廻国修行については日記を解読して全文を資料として付して平成21年の日本武道学会第42回大会で発表し 、嘉永5年の廻国修行日記についても『彬齋囊語』 全文を解読して天保11年の廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』等とともに『壬子漫遊日記』を資料として付して平成23年の日本武道学会第44回大会で発表した 。
本研究の目的は嘉永5年の廻国修行日記である『壬子漫遊日記』と廻国修行の際に試合した相手を記した英名録である『諸兵家尊名鈔巻四』 を照合し新たな知見を得ようとするものである。なお『壬子漫遊日記』には嘉永5年5月14日の宇和島での滞在中の記録に「試合姓名及技術ノ巧拙等ハ別録アリ」という記述があり、試合姓名に関する別録が『諸兵家尊名鈔巻四』のことであると考えられる。「技術ノ巧拙等」に関する記録は『諸兵家尊名鈔巻四』にはないことから別の記録帳があったと思われるが未見である。

発表抄録_資料A4:土佐藩樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について-001A 
  1. 2022/05/03(火) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 2

Ⅱ.樋口真吉について

樋口真吉の略歴は既に第42回、43回大会で述べているが、確認のため再度記述する。
樋口真吉は文化12年(1815)土佐幡多郡中村に足軽 樋口信四郎の子として生まれた。はじめ平八郎、名は武、字は子文という。
父信四郎は砲術を田所庄兵衛に、無外流剣術を土方三之丞に学び、文化6年(1809)、三之丞の子の半三郎より無外流の印可を得て、門生に指導した。文化12年(1815)には砲術の印可を得ている。
 樋口信四郎は無外流の師家の土方半三郎と意見を異にしたところから子の真吉とともに天保8年(1837)に破門され同年、子の真吉を廻国修行に出させている。真吉は大石神影流の免許皆伝後、中村に道場を開き門人を教育するとともに、高島流砲術を習得、中村下田など幡多郡内17カ所に砲台を築造、山内容堂と行動を共にするなどして小荷駄裁判役として戊辰戦争に参入。徳大寺大納言家公務人となり、明治3年に東京麻布の客舎にて没している

Ⅲ 廻国の経路

 『壬子漫遊日記』から廻国の経路がおおまかにわかるように日付と到着地・経由地を抜き書きする。なお江戸を発つのは嘉永6年に入ってからである。江戸からの帰路は他流試合はしていない。

5/10土佐中村発→5/12宇和島→5/20豊後佐賀関→5/22豊後府内→5/26岡→6/2阿蘇内牧→6/4柳河藩宮部(大石進居住地)→6/11熊本 海路→6/12島原→6/16長崎→7/3武雄→7/6小城→7/7佐賀→7/11柳河→7/26久留米→7/30博多→8/2小倉→8/4長府→8/6吉田→8/10萩→8/19山口→8/23徳山→8/25岩国→8/28宮島(海路)→9/5大阪→9/13京都→9/18津→9/21伊勢→9/24桑名→9/27三河吉田→9/29浜松→10/6江戸本郷→嘉永6年1/27江戸発→1/29鎌倉→2/1箱根→2/6岡崎→2/9関ケ原→2/11伏見→2/12奈良→2/14吉野→2/15大阪→2/25大坂発(海路)→2/28丸亀→3/4大洲→3/6帰郷
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  1. 2022/05/04(水) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 3

Ⅳ 嘉永5年の廻国修行日記『壬子漫遊日記』と英名録『諸兵家尊名鈔巻四』との照合

 1. 『壬子漫遊日記』で稽古・試合が行われたことが確認できる日付を記した。『壬子漫遊日記』と『諸兵家尊名鈔巻四』で日付の異なるものに関してはそれを記入した。
 2. 『壬子漫遊日記』で試合・稽古が行われている場合に流派名と師範名が記されている場合は両方を記し、流派名または師範名のみが記されている場合はそのように記した。試合が行われていることが記されていても流派名と師範名が記されていない場合には稽古または試合とのみ記した。必要に応じて『壬子漫遊日記』中の記録を抜き書きした。
 3. 『諸兵家尊名鈔巻四』で確認できる流派名と師範を含めた人数を記した。師範が在席していなかったと思われる場合にも師範名が記してある場合は人数に含めた。
 4. 表中では『壬子漫遊日記』を日記、『諸兵家尊名鈔巻四』を英名録と記した。

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  1. 2022/05/05(木) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 4

Ⅴ. まとめ

1.『壬子漫遊日記』と『諸兵家尊名鈔巻四』との齟齬
『壬子漫遊日記』は廻国中に記録したものを清書したものと考えられる。したがって写し間違いもあると思われるが『壬子漫遊日記』と『諸兵家尊名鈔巻四』には下記の齟齬がある。以下、『壬子漫遊日記』を日記、『諸兵家尊名鈔巻四』を英名録という。

(1)流派名の漢字の誤記
 1)府内での試合で日記には直神影流と書くが、英名録には直心影流とある。
 2)岡での試合で日記には抜刀流と書くが、英名録には抜討流とある。

(2)試合相手の流派名の記載
1)岡での試合で日記には東軍流が記されているが、英名録にはない。
2)長崎での試合で日記には一刀流松江精一一門との試合しか記されていないが、新陰流も松江の道場で試合している。
3)吉田での試合の記録で日記には中沢氏との試合しか記されていないが、英名録には東軍流との試合も記されている。

(3)姓名の漢字の誤記等
 1)大石導場での試合の記録で日記には大村巣山銕三郎とあるが英名録には須山とある。大石神影流『諸国門人姓名録』にも須山とある。
 2)萩での試合で日記には平岡与惣兵衛とあるが英名録には平岡彌三兵衛とある。
 3)江戸での北辰一刀流千葉定吉門人との試合で日記には清水小次郎、中尾舛三の2名の名があるが英名録には清水小次郎のみ記してある。
 4)江戸での試合で日記には11月2日に一刀流杉浦門人斉藤新二郎と11月4日に天野将曹門人小賀野春吉と試合したことになっているが、英名録では名前が前後している。英名録のこの部分は樋口真吉自身が記したと考えられる。
 5)江戸での桃井左右八郎門下との試合で日記では樋口真吉は笠井吉人小野某と試合したことになっているが英名録の記録からは小泉氏二郎と小野茂作と試合したと読み取れる。また笠井吉人の名は英名録にはない。

 これらの齟齬から考えると、日記には流派名や人名の誤記、また、日記に記された流派が実際に試合相手として存在したかどうか、日記への流派の書き漏らしなどがある事がわかる。資料一つだけを過信じてしまうことの危険性がわかる。
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樋口真吉の佩刀(左行秀)
  1. 2022/05/06(金) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 5

2.各流派うち混じっての試合稽古
 これまでに地方の藩のなかには安政3年(1856)に設けられた幕府講武所よりも早い時期に各流派うち混じって槍剣術の試合稽古をした藩があることがわかっている。 土佐藩の樋口真吉が津藩で試合を行った嘉永5年(1852)9月19日と20日『諸兵家尊名鈔巻四』の津藩での記録にも流派名や師範名は記されていない。
高鍋藩石井寿吉の『英名録』には嘉永5年(1852)10月に津藩演武荘,伊勢講武荘,名張藩での試合が記されている。これらの試合では藩名・地名が記されているが流派名や師範名は記されていない。名張藩では槍術との試合も記録されているが同様に流派名や師範名は記されていない
飫肥藩矢野宗吾の英名録は幕府講武所が設けられた安政3年よりも遅い時期であるが,安政7年(1860)の三原藩での試合の記録でははじめに三原藩の流派名と師範名が書かれており、そのあとに試合した者の名前が続き、誰が誰の弟子かはわからない。これは諸流うち混じって稽古していたことの証左であろう 。
また土佐藩武市半平太の万延元年(1860)の『剱家英名録』の美作藩(津山藩)での記録でもははじめに美作藩(津山藩)の流派名と師範名が書かれており、そのあとに試合した者の名前が続き、誰が誰の弟子かはわからない。岡山天城藩、福山藩(誠之館)では流派名や師範名は記されていない。同じく文久元年(1861)の武市半平太の英名録『剱家英名録』の伊州藩(伊賀精武館)、津藩(津藩演武荘)での試合には流派名や師範名は記されていない 。これらの藩では試合や、稽古に関して流派を問わず防具着用の稽古がされていたと考えられる。
 このような幕末における各流派うち混じっての試合稽古が流派名を名乗らない試合技術が共通化した近代剣道の成立へとつながっていったと考えられる。
発表抄録_資料A4:土佐藩樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について-009A
  1. 2022/05/07(土) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 6

3.遊学生を受け入れる流派
 これまでみてきた英名録の中に他藩からの遊学生を有した流派が散見される。高鍋藩石井寿吉の『英名録』には嘉永3年(1850)には柳河藩の大石神影流、嘉永5年(1852)には柳河藩の家川念流、久留米藩の真神陰流や浅山一伝流が他藩からの遊学生を多く有している 。
 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』では嘉永5年に柳河藩の大石神影流、久留米藩の真神陰流や浅山一伝流が遊学生を多く有している。
 飫肥藩矢野宗吾の英名録では安政4年から文久元年までに断続的に滞在したと思われる久留米藩の津田一伝流に、安政6年(1859)の久留米藩の真神陰流、安政7年(1860)の大村藩の神道無念流(師範:斎藤歓之助)、万延元年(1860)の岡山藩の直心影流に遊学生を有している 。
 武市半平太の英名録『剱家英名録』では万延元年(1860)の美作藩(津山藩)神道無念流、久留米藩の直心影流、津田一傳流(浅山一伝流から流名変更)、真神陰流などが遊学生を有している
藩を超えて試合技術に優れた流派に遊学する動きは藩内での流派を超えてうち混じった稽古と同じように、藩や流派をこえた試合技術の共通化をもたらし剣術の近代化につながっていったと考えられる。

4.石山孫六と大石神影流
 石山孫六(1828-1924)は大日本武徳会から明治36年に第1回範士号を授与された一刀流の剣術家である 。土佐へは嘉永4年(1851)、嘉永6年(1853)、文久3年(1863)の3度訪れ、文久3年8月25日に正式に土佐藩士となっている 。 
 論者は日本武道学会第40回大会で『大石神影流『諸国門人姓名録』について』を発表したが大石神影流の門人の中に石山孫六の名があることを疑問に思われた方もあった。しかし、石山孫六が大石神影流に入門したと考えられる記録は『諸兵家尊名鈔巻四』にもある石山孫六の流派名は「一刀流小野派兼大石神影流」と記されている。ほかにも高鍋藩石井寿吉の英名録の嘉永5年6月の記録に「一刀 神影兼流 江戸石山孫六」と署名され 、長州藩吉田の笹尾羽三郎の『諸国武術御修行者姓名録』 にも嘉永5年8月7日の日付で「一刀流 神陰流兼 江戸石山孫六」と記されている。さらに樋口真吉一行が萩を訪れたときに記された長州藩の記録である『密局日乗』 の嘉永5年9月1日の記録にも「江戸石山権兵衛門人 一刀流 神陰流 兼 石山孫六」と記されている。大石進が居住する柳河藩御宮部への石山の滞在は『壬子漫遊日記』によれば嘉永5年6月4日から10日までの短期間の滞在で、そのうち稽古に出席した記録は4日間ではあるが大石神影流に入門したことは間違いないと考えられる。
発表抄録_資料A4:土佐藩樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について-010A
  1. 2022/05/08(日) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について 7

5.桂小五郎の神道無念流への入門
 齋藤彌九郎の長男新太郎は嘉永5年9月11日に門人募集のため萩に到った。桂小五郎は9月晦日に萩を発ち11月下旬に江戸に着いている 。
 『諸兵家尊名鈔巻四』の記録にも樋口真吉一行は嘉永5年8月14日に内藤作兵衛門人である桂小五郎とも試合し、江戸では同年12月9日に長州藩邸で桂小五郎と試合をしていることが記されており、桂小五郎が11月下旬には江戸に出ていたことを証している。2度の試合を通じて樋口真吉と桂小五郎は面識をもったことが考えられる。

6.来嶋又兵衛と樋口真吉

 樋口真吉は天保8年に大石神影流の免許皆伝を授かっており、長州藩の来嶋又兵衛は天保14年に大石神影流の免許皆伝を授かっている。『諸兵家尊名鈔巻四』にも樋口真吉一行は平岡彌兵衛門人としての来島又兵衛、亀之進父子と嘉永5年8月12日に試合していることが記録されている。樋口真吉は『壬子漫遊日記』に8月10日宿に来嶋又兵衛が訪ねてきたことを記し、「来島光次郎、革名又兵衛来る、肩衣着、当藩剣家五流也ト云」、12日の試合について「達人格別なし、来島又兵衛 田中耕助と試合也。」と来嶋又兵衛について記している 。しかし来嶋又兵衛日記には8月9日に「江戸本郷石山孫六、只今来着書状遣候事。」、同12日に「平岡稽古場江執行者引受、東都稽古場ニ而石山孫六、田中新助立合申候事。」としか記されておらず 、樋口真吉のことは記されていない。これは来嶋が樋口真吉に興味がなかったというよりも、石山孫六との関係が強く存在したためであると考えられる。
来嶋又兵衛は弘化3年に江戸に出ており、弘化4年4月には江戸藩邸内の稽古場諸事御用掛となっている。嘉永2年位は一度国に戻ったが、嘉永3年に再び江戸に出たが養父の師によって帰国している 。この江戸滞在期間に来嶋又兵衛は石山孫六との接点を持った。来嶋の日記によれば弘化3年8月6日に石山権兵衛(孫六の父)方で行われた寄合稽古に来嶋は出席した。その時、孫六も出席している 。同年9月3日の窪田助太郎形の寄合稽古に石山孫六も来ており来嶋は石山と試合している 。また10月4日に行われた試合にも石山権兵衛門人が出席している 。11月と思われる記録にも石山権兵衛の来訪と石山権兵衛方への稽古に行く予定などが記されており 、来嶋又兵衛が石山権兵衛、孫六父子との親交があったことをうかがわせている。

Ⅵ.おわりに
現在までいくつかの英名録や廻国修行日記を分析してきた。剣術は廻国修行や他藩への遊学とその受け入れにより,流派を超えた技術の共通化が行われその近代化がはかられたといえる。
今後,どのような試合技術がどのような価値観のもとに取捨選択され,共通化し近代化がはかられたのかを明らかにしていきたい。また、有効打突の基準はどのように形成されたかも明らかにしたい。


本発表に当っては龍馬の生まれたまち記念館 森本琢磨様に御指導とご協力を賜りました。
心より御礼申しあげます。

発表抄録_資料A4:土佐藩樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』について-011A
  1. 2022/05/09(月) 21:25:00|
  2. 武道史

目的の違い

 大学生になったばかりの頃、筑波大学で大恩ある現代剣道の先生に「森本、剣道と古武道は明治以降に道が分かれ始め絶対に一つにはならないものとなった。」と教えていただきました。このことが私を古武道のみの道へと歩ませることになりました。
 剣道と古武道(流派剣術)の決定的な違いは竹刀を特定の一本の価値観で特定のルールの下に効率的に用いるための技術に特化したか、あくまでも刀を用いる技術に基盤を置くかの違いでした。この違いは大正時代に顕著に表れてきたことが明治大学の長尾先生のご研究で明らかになっています。

 以前も引用させていただいたことがありますが、長尾先生の『近世・近大における剣術・剣道の変質過程に関する研究―面技の重視と技術の変容-』を抜き出させていただくと

「東京高等師範学校における金子の先輩である富永堅吾は,『最も実際的な学生剣道の粋』(大正14年)において「正面の(基本的な)撃ち方」として,「刀を正面に振上げ,両足にて踏み切ると同時に,右足を充分前に踏込み―中略―,相手の正面を敏活確実に撃つ」としている。また,同書の「乗込み面」の項では,「乗込み面は,全然我が身を棄てて一刀のもとに相手を制しようとする撃方で,比較的遠間から施す頗る壮快な業である。刀を振上げると同時に,思ひ切って一足跳に深く乗込み」と述べている。「一足跳に」とあることから,おそらく「踏み込み足」を念頭においた記述と思われる。さらに,この「乗込み面」の場合は,先の記述に続いて「余勢は以て相手を押倒すやうであるがよい」とあり,打撃に伴う「余勢」を積極的に肯定しているところが注目される点である。このように大正期には,大日本武徳会武術専門学校の指導書や東京高等師範学校関係者(高野・富永・金子)らいわゆる剣道専門家の著書において,(打突後の余勢も含め)飛び込み技や踏み込み足が剣道技術として取り扱われるようになった。その後,中山博道に代表されるような刀法的技術観から,あくまで飛び込み技や打突後の余勢を認めない意見も一部にあったが,大勢としては飛び込み技や踏み込み足は明確には否定されず」,剣道技術として認知され,一般化して行った。」

「近代剣道において高野佐三郎と並び称される中山博道は,「対手を打つと手で打ってあとヒョロヒョロと二足三足位前に出て行く。―中略―。あれは、一足一刀で打つと共に足の数だけ打って行かねばならぬ」(慶応義塾大学校友会誌「つるぎ」6,1934)と述べているように,打突に伴う余勢を明確に否定している。また,ライパル的関係にあった高野の道場「修道学院」においても,「中山博道先生は剣道の形をくわしく知って居るが,昔の形に一つでも飛び込んで打つ手はないといわれた」として,中山の飛び込み技についての見解をめぐって議論が交わされていた。(川田徳覚こ剣道教訓集,1939年10月12日・11月24日部分)」

 上記を読んでいただけばお分かりになるように、技術的に竹刀を用いるための動きなのか刀を用いるための動きなのかという点において大きな違いが大正時代には顕在化します。ここが現代剣道と古武道(流派剣術)との決定的な分岐点です。現在は「手で打ってあとヒョロヒョロと二足三足位前に出て行く。」ではなく、積極的に継足で前に進む稽古をさせ、子供たちには体育館の端から端まで空間打撃の後に進ませているところもあります。何が良い悪いではなく違いなのです。この違いに関する知識が一般化しないので現代剣道と古武道(剣術)が同じものと考えられます。
 現代剣道が日本の伝統文化に培われた剣道といい、その「伝統文化に培われた」という文面を剣道があたかも江戸時代の剣術の技法をそのまま受け継いでいるかのように多くの人は誤解しますが、伝統文化に培われてなりたっているものの、防具を着用して竹刀を用いる動き(現代剣道の稽古の大半を占めます)は技法的には古武道(流派剣術)の刀を用いる技法とは大きく異なっています。中山博道が言うように「対手を打つと手で打ってあとヒョロヒョロと二足三足位前に出て行く。」と真剣では決して行わない競技としての技法へと変化していったのです。
 支那事変などの経験から剣道は白兵戦では役に立たないという意見が軍人から出始め、軍隊における剣道改革や、本来刀を試すための試し斬りであったものが、斬る技術を身につけるものに変わっていき、剣道だけでなく居合を稽古しなければならないとなっていったのは、ここに起因します。
 ここを切り替えることができない人も多く、剣道経験者が貫汪館の居合や剣術を稽古するうえで苦労する原因となっています。技法や動きが同一のものだと考え続ける剣道経験者は、現代剣道の竹刀を用いる動きを基盤とするために、違いに気付くまでに時間がかかるのです。
 これは逆もいえることで貫汪館の流派の技法で防具を身につけ竹刀を手にして現代剣道の方と稽古しても非効率甚だしい役に立たないものになっってしまいます。違うものだからです。同じように防具を身につけ竹刀を手にして稽古しても、お互いに違う世界を見ているのでかみ合うことはありません。現代剣道を稽古する人たちは剣道形を基本とした動きをすることはありませんし、私たちは現代剣道の動きをすることはありません。価値観が異なるのです。

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  1. 2022/05/10(火) 21:25:00|
  2. 武道史

打突の後

 昨日述べたことと関連しますが、大石神影流で防具着用の稽古をするときに絶対に忘れてはならないことがあります。大石英一先生に教えられたことです。

 大石神影流では打突の後には切先を相手の面(目)につけなければ一本とならない。

 これは、入門させていただき、程ないころに先生にお尋ねしたときの御答えです。現代剣道とは異質な動きですが、大石英一先生は大石進種次の孫である大石一先生(大石英一先生はお父様が早くに亡くなられたため、お生まれになった頃から御祖父である一先生に育てられました)に教え込まれたことです。
 引き上げをするわけでもなく、中山博道が言うように「対手を打つと手で打ってあとヒョロヒョロと二足三足位前に出て行く」わけでもなく、ましてや打突の余勢で勢いよく向こうへ継足でステップしていくわけでもありません。防具を着用して竹刀を手にして行う稽古は刀を用いるための手数の変化なのです。大石一先生は戦前の大日本武徳会に入っておられましたが、まだこのような動きをし、指導しておられました。戦前に剣道をしていた人たちの中では打ったのち前に進む人たちと、江戸時代のように竹刀は刀の代わりという発想で前に継足で進んでいくことを良しとしなかった人たち(中山博道のように)が混在していたのだと思います。
 大石神影流の稽古で防具を着用して稽古をするときにここを間違えると、たとえ手数の手順は残ったとしても大石神影流の本質は変化して何流かわからなくなってしまいます。稽古される方が絶対に忘れてはならないことです。
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  1. 2022/05/11(水) 21:25:00|
  2. 剣術 業

蹲踞

 澁川一流柔術では受と捕の礼は蹲踞礼です。
 蹲踞するための動きは貫汪館で稽古しているほかの2流派にとっても良い影響をもたらします。初心者の方はとくに蹲踞の姿勢から立姿勢に戻るときに意を用いて稽古してください。立姿勢に戻るときに上半身の無駄な力は極力なくし、下半身のみでゆっくりと、どこにも力を入れずに立ち上がってください。その時に上半身が下半身に乗っているのだということが意識できると思います。それを感じられない時にはさらにゆっくりと動き、意識を下半身の動きにもっていってください。
 一度「上半身が下半身に乗っている」という意識が持てたらその意識を棄てずに木刀や刀を用いてください。木刀や刀を用いたときにその時の感覚がなければ上半身中心に体を用いていることになります。蹲踞してゆっくり立ち上がるときの感覚を取り戻してください。
 蹲踞は家で何かしているときの合間などに1回だけなら無理なくすることができます。感覚をつかむことが大切です。

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  1. 2022/05/12(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

人を得る

 貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術を稽古していますがこの三つの流派が続くには人を得なければなりません。
 稽古していても後輩を指導するつもりは全くないという人に教え続けていても流派は残りません。後から入門した人で、その上達はゆっくりであっても、しっかり稽古してくれ将来的には指導できる人となろうとする人でなければ流派は続きません。人に教えることができるようになろうという覚悟を持った人が必要です。
 また流派を続けるためには軍資金も必要です。様々な行事を自前で行い。また、流派の歴史を研究し、日本古武道振興会や日本古武道協会の演武会で演武するにもお金が必要です。軍資金など全く考えない人には流派を存続させることは出来ません。
 現在貫汪館では他の古武道流派の併修を禁じていますが、何流を稽古しようと自由と思っている方にも難しいものがあります。三つの流派が他の流派の影響を受けて変質していくからです。
 広報する能力も必要です。様々なインターネットの媒体を用いて広報しなければ存在すら知られません。無雙神傳英信流の師梅本三男先生に師事したころはインターネットもなく、御演武を中学時代に剣道の大会で拝見して感銘を受けたものの、道場の所在すら知りませんでした。中学校で剣道部を指導しておられた剣道の先生の紹介がなければたどりつけなかったかもしれません。澁川一流柔術の師畝茂實先生に師事したときにもインターネットでという時代ではありませんでした。大学生の頃に畝先生の近くに住んでおられた居合の先輩の紹介がなければ畝先生とお会いすることはできなかったかもしれません。大石神影流の大石英一先生との縁もそうです。すでにインターネットはあったものの、大石先生は広報をされることはなく縁がある方だけに教えられましたので、武道史の研究のためにお伺いしたときにはじめて流派の業がすべて続いていることを知りました。今の時代は様々に趣味が持てますので広報をしなければ流派を存続させることさえできなくなります。存在を知られなければ興味を持つ人もいません。そのためには広報の能力を持った人も必要になってきます。
 人がたくさん集まればそのような人の数も多くなってきます。

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  1. 2022/05/13(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

手順

 ある方と話していた時に「○○流と△△流は元が同じだから両方稽古していても支障はないだろう。」ということを話されたことがあります。
 確かに手順はよく似ているのですが、現在では表に現れるものが似ていても根本が全く異なっているのです。手順は同じでも奥にあるものが異なれば全く違うものといってよいのですが、その違いは実際にお教えしなければ理解できないところかと思います。指の動かし方、手の出し方そんなことまで奥にあるものは全く異なっています。何が良いとか悪いというものではなく似ている他流派がそうなったのには理由があるでしょうし、異なっているのです。奥にあるものが異なっていた場合には二つの流派を稽古しようとすれば一人の人間の中に二通りの根源的なものを備えなければならなくなり、多重人格にならなければなりません。その時々に完全に変わらなければならないのです。
 その部分を安直にとらえるので、たまに外国の方からコンタクトがあり、「××流、□□流、▼▼流、▲▲流を稽古しているが、大石神影流も稽古してみたい。無雙神傳英信流も稽古したい。」などと言われることがあります。おそらく手順の違い位にしか理解していないのでしょうが、人格を切り替えるくらいのことができない人には困難です。貫汪館で古武道の他流派の門人の方はお断りしている理由はそういうところにあります。手順を覚えることは出来ても根源にある流派のもととなるものは体得できません。同時にたくさんの同種の武道(居合を数流派、剣術を数流派、柔術を数流派)ができると思っている人は手順さえしっかりと覚えればそれで済むと考えているように感じます。

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  1. 2022/05/14(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

見る

 こうなりたいという思いがあり始めて上達していきます。ただ習い事として漫然と行っていたらそれなりにしかなりようがありません。思いがあって初めてそうなろうと体が変化していきます。
 こうなろうという思いのもとは見ることです。目標がなければうろうろするだけでどこにもたどり着けません。ここが上達の大きな分かれ目になります。同じように稽古しているのになかなか上達しない人は本質を見ずに手順を頭で覚えようとされます。知識としてバラバラに集めた手順をまとめたとしても自分の価値感に基づいてまとめているだけなので上級者と同じようなものにはならないのです。手順が同じであるというだけの動きです。中身がないのです。上達が早い人はよく見ます。手順を覚えようとしてみるのではなく、動きの中にある本質を見て取ろうとされます。中身があって外側ができますので上達が早いのです。せっかく稽古されるのであれば後者の稽古方法をとったほうがはるかに早道です。

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  1. 2022/05/15(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古のために順次そろえるもの

 貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術の3種類、3流派を稽古していますので稽古のために習得の段階に応じて順次そろえるものがあります。
 はじめに揃えていただかなければならないものは稽古着、袴、角帯(いわゆる居合帯は使いません)、足袋です。値段は高いものから安いものまでありますが、インターネットを上手に活用すれば、オークションなども用いて1万円を超える程度でそろえることができます。居合の稽古のためには模造刀が必要ですが初めのうちは鞘木刀でも良いので、これもインターネットを上手に使えば7000円くらいに抑えることができます。つまり稽古を始めるにあたりかかる初期費用は2万円程度です。はじめから模造刀を求める余裕がある方もおられますが、鞘木刀は将来的に無雙神傳英信流の太刀打、詰合、大小詰などの必需品になりますので入用です。
 しばらくお金をためていただいてから稽古を続けたい方には模造刀を購入していただきます。無雙神傳英信流は比較的長い刀を用いていただきますので、身長によりますが170cmくらいの身長の方は11万円程度かかります。それより身長が高い方は刀身が長くなるので高くなり、刀身が短ければ安くなります。これくらいまででしたら大学生でも一度に揃える人がいます。何か趣味をするには高すぎる金額ではないと思います。模造刀(居合刀)は私の師の梅本先生のころから濃州堂さんにお願いしています。先生好みのものを作っていただくことができるからです。よそでは私たちの流派に合ったものというようにはいききませんので、ぼてっとした木刀とかわらないような模造刀を何度も手にしたことがあります。無雙神傳英信流の稽古には向かないものです。刀の形をした物なら何でも良いというわけではありません。
 大石神影流の稽古には大石神影流用の特注の木刀が必要になります。特注なので1万円くらいかかります。自分で作ることができる人はご自身で削られた方が良いと思います。また長い木刀には長い鞘が必要になりますが、塩ビ管を加工すれば安くできます。他流派の木刀は店や流派によって、大石神影流のものよりもずっと高価なものがありますのでそれほど高価とは思えない値段です。手入れ次第で長くもちます。私の今の木刀は15年くらい使っていますが、損傷はありません。
 ここからは追々そろえていきます。澁川一流柔術は木製の懐剣や短い棒などが必要になりますが、これらは自分で作ることができます(作り方を知りたい方はご相談ください)。また半棒も必要になりますが市販の杖の太いもので代用できますので、それほど高くつきません。6尺棒は製材屋さんと知り合いであれば安く手に入れることもできます(太さは流派独特ですので、これも求められるときにはご相談ください)。さらに稽古が進めば、稽古用の鎖鎌や十手、分童などは自作します。
 大石神影流は稽古が進めば6尺棒、稽古槍、模造刀などが必要になりますが、六尺棒は澁川一流柔術と共用でき、模造刀は無雙神傳英信流と共用できます。稽古槍は高価で、材も少ないためなかなか手に入りませんが、骨董の槍の柄を利用したほうが安いかもしれません。
 無雙神傳英信流では教えるようになれば真剣が必要ですが(ピアノの先生でピアノを持っていない人はいません)、これもピンキリです。真剣はそれこそ高価なものから安価なものまでありますが、私の2尺8寸2分の真剣と3尺2寸の真剣は長船の植田先生に3尺の真剣は森先生に打っていただいています。値段はそれぞれです。骨董屋さんと親しい知り合いであれば長い刀を市で手に入れてもらうこともできます。人脈です。
 稽古が進めばそれだけ稽古道具も必要になりますが、稽古が進む方はそれなりに努力して集中して稽古する方ですので少しづつお金を貯めて行けば無理なことではありません。

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  1. 2022/05/16(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

独習

 市販のビデオを見て、その真似をし、その流派に入門しているわけでもないのに○○流ですと名乗った人のことを以前お話ししたと思いますが、そのような方は他にもいるようです。しかし物真似は物真似であって、本質を会得することは出来ません。それどころか自分勝手な思いで稽古をすることによって悪癖を身につけ実際にその流派に入門したときには悪癖を取り除く処から稽古を始めなければならないため何も知らずに入門した人にはるかに後れを取ることになります。
 貫汪館に入門して稽古している人にも同じようなことが言えます。現在、無雙神傳英信流抜刀兵法では素抜抜刀術の解説を全て記した冊子と大石神影流剣術に関しては試合口から陽之裏までの手数の解説を作っています。直接その形・手数を習った人がこれを読んで復習することは出来ます。また、これを読んで漠然としたイメージをつかむまでのことはしてもよいのですが、体を動かして独習することはしてはなりません。これを読んで習っていない形・手数を独習してしまうと取り返しがつかない悪癖が身につくことがあるのです。すべては直接指導を受けてからのことだと考えてください。

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  1. 2022/05/17(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

とある映画に

 ムビチケをもらって、とある映画を見に行ったことがありました。その映画では善と悪とが戦うのですが設定としては道場は江戸時代から続く家で幕末に剣豪を出した家であるということでした。
 そういう設定であるにもかかわらず、道場で稽古しているのは完全な現代剣道、試し切りで武道の雰囲気を出したかったのかと思いますが、行っていた試し切りは刀の切れ味を試すのではない腕試しの現代試し切りでした。歴史を知らなければそうなるのでしょう残念でした。流派名もなければ剣術の形もない、一般の人が思う現代剣道は江戸時代からのものだという解釈です。道場では現代剣道をして刀を持って戦う時には、時代劇風の刀を使う動きです。動きが根本的に異なる事には映画監督も気づいておらず、そういうものだと思っているのでしょう。
 一般の人が持っているこのイメージを変えることは困難だと思いますが、我々が何を稽古しているのかを伝えるためには違いを説明するわかりやすい方法を考えなければなりません。
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  1. 2022/05/18(水) 21:25:00|
  2. 武道史

流派の存続

 流派が現代において残るかどうかは広報の力によるところが大きいと考えます。たとえ来歴がはっきりしており、名のある流派であっても広報の力がなければ一般の人はその存在を知ることがありませんので縁もできません。反対に現代に新たに作られた古武道であっても広報の力によって人は集まります。伝えられた流派ではなく復元された流派であっても支部ができることがあります。
 たとえその流派が立派であり、それを伝える人物が適任者であっても隠れてひっそりと稽古をしているだけでは縁ができず消え去ってしまうことがあります。広島では私がこの世に生を受けて以降に多くの流派がなくなってしまっていることに武道史調査を始めてから気づきました。お話を聞くと立派な先生方が伝えておられていたようでした。
 広報に利用できる媒体は変化し続けます。Facebookはすでに古くなり、ツイッターはむしろ古武道の品位を落としているのではないかと思える発言が多くあります。いまはYouTubeの時代ですがそれも変わるかもしれません。一般の方は何が良くて何が悪いものなのかはわかりません。
 各支部はそれぞれ広報の方法を工夫してください。それには各支部で稽古している方の知恵を借りなければなりません。

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  1. 2022/05/19(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

義を見てせざるは勇なきなり

 義を見てせざるは勇なきなり

 もう日本では死後になりつつ言葉であるかもしれません、現代の為政者にとっては「利を見てせざれば・・・。」でしょう。私利私欲に基づく行動です。彼らの「国益」という言葉も「私と取り巻きの利益」と置き換えることができるものだと感じます。
 さて、前置きが長くなりましたが義を見て行動するには用意周到でなければなりません。何か行動するにしても日ごろから備えがなければならないのです。世の中何が起こるかわかりません。対応できるように備えだけは怠ってはなりません。そのためには時間的にも将来を見えるようにし、空間的にも近くだけでなく遠くが見通せるようにしておかねばなりません。何もなしで行動すれば滅びるだけです。武道に通じます。

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  1. 2022/05/20(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

試し切り

 無雙神傳英信流の師である梅本三男先生は秋月流という試し切りの流派も稽古されましたので毎年1回道場で試し切りをする機会がありました。秋月流というのは古い流派ではなく広島で刀屋さんが作られた流派です。
 この試し切りのときに先生は私にこっそりと「斬るために姿勢を崩したり、足を止めて居ついたりするのであれば、半分しか斬れなくても隙がない方が武道としてははるかに質が良い。ほかの人たちを見て見なさい。あれでは武道ではないよ。」と教えてくださいました。確かに両断しようと思って斬る方は歩み足で進んでいっても斬るときには足を止めていたり、振りかぶった時に隙だらけであったり、斬った時に大きく姿勢が崩れ相手にかわされていた時には次に対応できない姿勢でした。武道としての試し切りであれば梅本先生の教え通りです。先生が指摘されたように武道ではなく斬ることが目的となっていたのです。
 本来試し切りは、刀の切れ味を試すために行うものであって腕試しではありません。したがって刀を試すための本来的な試し切りでは斬るときの姿勢は武道での姿勢と異なっています。武道としてでは姿勢が悪くても隙があっても、それは関係ないことでした。また、刀を試すのですからその場にあって動かない巻き藁を返す刀で何度も斬るという曲芸のようなことはしません。
 貫汪館では道場として試し切りをすることはありませんが、個人的に試し切りをしてみようと思う方は上記のことを忘れないでください。「斬れた斬れた」と喜んでも武道としては下達しているということも起こりかねません。

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  1. 2022/05/21(土) 09:25:00|
  2. 居合 業

心と体を鎮める

 心と体が鎮まった時には天地と一体となったような感覚を覚えることがあります。稽古で相対しているときにもその感覚はあり、また良い刀剣を手に取っているときにもその感覚を覚えることがあります。
 このような感覚を覚えたことがまだ稽古が浅いころにもあったような気がし、よくよく思い出してみると35年前にテキサスのエルパソにあった米陸軍の学校で学んでいたころでした。その頃、時々車で走り、山の中のハイキングコースを歩いていたのですが、日本と違い人気を感じることは全くありませんでした。授業が夜間に行われていたこともあり、平日の日中に行動できたからかもしれません。自然の中に自分一人という感じです。そのようなときには前述の感覚をえていたのです。
 そのような感覚を覚える経験をしているかしていないかでその後の稽古の進み具合にも影響があるのかもしれないとも思っています。

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  1. 2022/05/22(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

体がもぞもぞする

 初心者の方が体でわかり始めたとき、自分の体に違和感が芽生えます。それまで普通だと思っていた状態が普通ではなくなり始めるからです。
 そのようなとき、人によっては体がもぞもぞするという表現をされることがあります。これまで力んでいた部分が、緩むことを覚え始めているので体に異なった感覚を感じるのを「もぞもぞ」と表現されるのです。体が緊張しているのがわかったと言われる方もおられます。このような感覚を覚え始められてから上達し始め、力みがないのが当たり前となって、さらに動きの最中にも自分自身が持つ違和感を感じられるようになります。
 女性は初めから無駄な力みがない人も多いので、このような感覚を覚えない人もおられますが、男性はこういう感覚を覚えることを経なければなかなか上達できません。 

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  1. 2022/05/23(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

体は固くなる

 何もしないでいると体は固くなっていきます。特に歳を重ねれば固くなる速度が速いように思います。
 無雙神傳英信流の正座は私が高校生の時に梅本先生から「足首の角度は女の子たちが正座するときのアヒルのようにお尻が床に落ち込んだ時のようなかんじになるように。」と習ったときには初めはできませんでした。先生の言葉程落ちる必要はないのですが、できませんでしたというより、小さなころは出来たのにできなくなっていたのです。しばらく心がけていたらできるようになりました。英信流の座り方も独特ですので初めのうちは足首が硬くなっている人には難しいと思います。
 また、一度柔軟性を身につけたとしても心がけずに安易に座っていたら再び固くなってきて正しい座り方ができなくなってしまいます。心がけていないので当然のことで、それだけ熱心さは少ないということですから仕方ありません。いいかえれば流派の教えよりも自分がしたいようにしているのです。
 外国の方はそもそも正座する習慣がないので、正座を身につけるために今日は1分、明日は1分半、その次は2分というように次第に慣らしていくそうです。私も高校生の頃に正座を今日は5分、明日は7分、明後日は15分と稽古したことを覚えています。英信流の立膝は私には難しく、そこそこになるまでに1年はかかったと思います。小さな子であればできたことも体が硬くなってできなくなることもあります。再びできるようになるためには稽古しかありません。
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  1. 2022/05/24(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

頭も固くなる

 体を使わずに年齢を重ねると体は固くなります。同様に頭も固くなるようです。計算ができなくなるとか物忘れをするということではなく思考の柔軟性がなくなるのです。
 こうでなければならない、こうあるべきはずだという強い思いがあり他を受け入れられなくなります。年を取ってから稽古を始める人の習得のむつかしさは体の固さだけに原因があるのではなく頭の固さにも原因があります。年を取って稽古を始めた方でも若い人と同じように上達される方は頭に柔軟性がある方です。それまでの人生でいろいろなことを経験され何度も初歩から物事を習っている人は比較的高齢になっても柔軟性があるように思います。頭の固い人は年だから体が硬いのは当たり前だと思込み、正座や立膝の稽古を家でされない人が多かったように思いますが、初歩からと頭を空にできる人はそうなるようにと努力をされていたのが見て取れました。
 頭が固くなるのは若いころから稽古していても同じです。常に自分には未知のものが多く存在するのだという意識を持ち続けて稽古しなければ、それまでに会得したことだけにしがみついてしまいます。 

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  1. 2022/05/25(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

立身新流「稽古掟」 1

 以前史料調査したもののなかに『立身新流抜合序之之軸』というものがありました。このなかに「稽古掟」が記されています。流派に関することはわかりませんのでわかる所だけを紹介していきます。

 刀取ル時、心静カニス可キ事

 もっともなことが記してありますが、どのくらいの方が刀を取るときに心静かにと心がけているでしょうか。せわしい日常生活の中での稽古なので稽古に来られるときにもあたふたと来られるのが実情ではないかと思いますが、刀を取るときにも心がざわついていたら稽古にもなりません。この掟に記してあるように稽古に出かけようとして刀をとるとき、またせめて稽古のときに刀袋から刀を取り出すときには心を鎮めていなくてはなりません。
 幸い無雙神傳英信流には正しく礼法が伝わっていますので伝えられたとおりに帯刀するまでの礼法を行えば心も体も鎮まるようになっています。礼法をおろそかにしないでください。 

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  1. 2022/05/26(木) 21:25:00|
  2. 武道史

立身新流「稽古掟」 2

刀抜ク時敵有リ、思無邪之事

 抜付けるときにはしっかりと敵を見定めて抜かねばならないということを言うのでしょうか。素抜き抜刀術では敵の想定が大切ですが、下手をすると敵にお構いなしに自分の都合の良いように刀を抜くことがあります。しっかりと敵を想定して敵に抜付けなければなりません。
 後半の思無邪之事は流派が持つ独自の意味があるかもしれませんが、普通に解釈すると抜くときには邪な濁った心ではなく、素直な心で抜きなさいということでしょう。

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  1. 2022/05/27(金) 21:25:00|
  2. 武道史

立身新流「稽古掟」 3

度々心新ニテ、真ニ為ル可キ事

 稽古の掟なので、これは何度も何度も初心に戻り、新たな心で稽古すべきだと解釈すべきでしょう。
 人によっては長く稽古を続けていると、ある程度できることに慣れてきて自分を疑わなくなり手慣れた動きで良しとするようになってきます。これが修行にとって大きな妨げとなってしまいます。そこから上達しなくなってしまうのです。下達することもあります。
 これは演武に関しても同じです。大きな演武會に何度も出ていると、緊張感がなくなり、いつも通りでよいと思ってしまうのです。演武会を通じて向上しようという意識が薄れてしまいます。お世話になっている大先生が演武は毎回おそろしいと教えてくださったことがあります。このような気持ちを持ち続けなければなりません。

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  1. 2022/05/28(土) 21:25:00|
  2. 武道史

立身新流「稽古掟」 4

師之直シ、能(よ)クヨク聞キ覚ユ可キ事

 当然のことが記されています。師匠に手直しを受けたらこれをよく聞き理解して自らを正していかなければなりません。江戸時代にも師の手直しをまじめに受け取らず、聞き流していた人もいたのかと驚きますが、現代では話していても聞いていない人、何度も何度も同じことを手直ししても自分の考えで大したことはないと直そうとしない人もいますが、このような態度では上達は難しいものです。指導者は全てを見たうえで、ここを直さなければ上達しないというところを指導します。しかし受け取る方が軽く考えていたら上達することはありません。
 師の話をよく聞き、自分わどうすべきなのかを理解して正していける人は上達が速やかです。

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  1. 2022/05/29(日) 21:25:00|
  2. 武道史

立身新流「稽古掟」 5

相イ弟子批判、之(これ)無キ事

 当時、兄弟弟子の業の批判をすることが行われていたのでしょう。修行中なのですから誰にでも過不足があります。自分ができると思っているところがあり、それを兄弟弟子ができないということもあります。また反対もあります。批判が出るということは自分の方が優れているという思いがあるからだと思います。
 兄弟弟子の優れたところをみるようにしていけばこのようなこともおこらなくなります。人それぞれ持っているものが異なりますので後輩にも自分よりも優れたところがあります。

立身新流「稽古掟」についてはこれでおしまいです。

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  1. 2022/05/30(月) 21:25:00|
  2. 武道史

世保流「注意」1

 世保流は幕末に廿日市の河内一滴斎が伝えた流派で戦後まで稽古されていましたが無くなってしまいました。残念なことです。戦前の郷土誌の本に世保流は清和天皇から伝わると書いてあったので河内一滴斎が作った流派であろうと考えていたのですが、その伝書の伝系を見るとどうも清和天皇の後裔である世保貞頼を流祖としているらしく伝系の初めには世保流師範旧士族杦山頼蔵が記され次に河内次郎(一滴斎)がしるされていました。
 河内一滴斎は澁川流の師範をしていたという史料があり、また物外の弟子で免許を授かってもいました。世保流も学んだのかもしれませんが、伝書の中の形名に難波一甫流の伝書にある形名のグループも記され形名もそのままですのでもとになった世保流に色々付け加えたのかもしれません。これまでにみてきた物外が発行した伝書は難波一甫流の伝書で不遷流となっているものはありませんし、物外が発行した伝書の内容は難波一甫流のものですので、河内一滴斎は物外から難波一甫流を習ったと考えられます。河内一滴斎は勤王の商人としても知られていたということですので物外の影響を受けていたのかもしれません。幕末に流行り病で亡くなったということです。河内一滴斎についてはいつかまとめたいと思います
 さて世保流の伝書に「注意」という項目があります。参考になることも記されていますので記していきます。

身体に疵傷アリ精神不快の節ハ如何ナル事情アルト雖モ決シテ勝負ヲ争フベカラズ

 河内一滴斎は澁川流の道場を持っていて他流試合(廻国修行)にも応じています。当時の試合のルールはわかりませんが、河内の道場を訪れたものが何十人も相手に稽古をし、また次の日に次の道場を訪れることをしていますので今の柔道とは違い、相撲のルールのように手や膝をついてもだめというルールではなかったかと想像しています。剣術の試合・稽古もそうですが体調不良の場合には試合も稽古もしていないようです。柔術も同じであったのでしょう。無理をしてけがをこじらせては大変です。精神不快のときが入っているのも興味深いと思います。精神不快の場合には感情のコントロールが難しくなるからでしょうか。

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  1. 2022/05/31(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
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