はじめに
貫汪館に入門してやっと一年半ほど経つ初心者である私は、未だに戸惑うことばかりであるが、その戸惑いが一番顕著だったのは礼法においてであろう。
入門当初、貫汪館で学ぶ三つの流れである大石神影流剣術、渋川一流柔術、そして無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法がそれぞれ違うということにまず驚きを禁じ得なかった。そもそも初めて武道の世界に足を踏み入れたということもあり、見慣れた現代武道の礼法との違いには他の誰よりもことさら驚いたものである。
それもそのはずで、現代の武道における礼法は安心して楽しめる整備された環境の中で育まれたのに対し、貫汪館での三流派の礼法は実戦から生まれ、またはそれを想定し、不測の事態に備え、さらに身分や場所の差異によって独自の形を成してきたものである。つまりそこには確かな「歴史」が背景として存在する。私自身、礼法の意味とその成り立ちを当初はあまり深く理解していないながらも、それぞれの礼法に含まれる先人たちの知恵と歴史を肌で感じた故の驚きと戸惑いであったと今では理解している。
武道における礼について
日本の武道は「礼に始まり礼に終わる」と言われているように、それぞれに礼法がある。剣道、柔道、空手などの現代武道やスポーツ競技において見られる礼が一般的だが、作法の違いこそあれ、相手への尊敬や感謝などの気持ちを形式の上で表現しているという点は共通している。これは社会に秩序をもたらすための道徳的な規範として受け継がれてきた儒教における思想の一つが現れているものである。つまり、日常生活における相手への尊敬の念や感謝などの気持ちを表す動作の延長線上にあり、「礼」の概念が武道という場に端的に表わされたものといえよう。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もあるように、人間関係を円滑にするための潤滑油的な役割をもつ「礼」は、長い歴史の中で一つの教えという枠を飛び越え、武道に取り入れられ、今では人としての在り方を広く問うものとなっている。
このように、他者への敬いの気持ちを保ち、決して相手の尊厳を奪わないということが武道の礼の基本だと考える。
次に無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法について考察する。
無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法は、大石神影流剣術、渋川一流柔術よりも動作が多いが、手数に惑わされず、その本当の意味を知るためには注意が必要である。一般的な「礼」という言葉に含まれる「敬う」という意味を柱として考えてしまうと、「手数が多いし、正座もするから、きっとこれが最敬礼なやり方なのだろう」と勘違いをしてしまう。そうではない。
例えば、大石神影流剣術の礼法において片膝だけをついたり刀礼がなかったりするのは、柳川藩で上覧を行う際に屋内の貴賓に対して庭で演武を行ったためという歴史的背景が存在するためであり、決して略式ではない。同じように、無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法にもまた何かしらの意味と背景があることを考えなければならない。
無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法について
無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法の大きな流れは、神前の礼、刀礼、帯刀し形を終えた後、ふたたび刀礼、神前の礼と順を追う。次に、普段稽古している中で常々師より注意を受ける点を踏まえながら細かく見ていきたい。
まずは神前の礼である。
右手に持った刀を神前に対して鎬が平行になるよう左手を添えながら正面に持ち、刃が地面に向くよう右手を持ちかえ、柄を後ろ向きに右腰脇に落ち着かせる。そして腰を折るのではなく、呼吸に合わせて全身を緩めるよう体を曲げていく。曲げていった体が呼吸と共に戻るのを待って、再び右手に持った刀を神前に対して鎬が平行になるよう左手を添えながら前に持ち、刃が上、柄が前に向くよう右手を持ちかえる。
続いて刀礼へと移る。
重力に逆らわず、力まず、柔らかく正座する。この時、刀は右腰脇にあり、地面と平行になっている。正座した時の下へと向かう運動が地面を通して再び自分に戻ってくるのを感じながら、刀の小尻を右斜め前方へと置く。その流れを止めることなく刃を自分の方に向けて、真っ直ぐ正面に音を立てずに置く。右手の指は鍔を押さえ下げ緒を絡めているので、柄が左になるよう右手で刀を置いた時には自然と体の左側に運動が回ってくる。そしてその傾いた力の流れを使い、肚を中心にして左側の栗形から右側の小尻へと下げ緒をぐるりと這わせる。這わせ終わったところで自然と体が起き、右手も太腿へと戻ってくる。
一連の動きが一旦自分の肚に収まるのをもって、刀に対する座礼へと移る。この時、手を先に出すのではなく、肚を軸に頭を下げるという正座から変化する動作の一環として手が出なければならない。倒れていく体を支えるように左手が前に出、さらに沈んでいく体を支えるように追って右手が前に出る。そして地面へと沈んだ力が再び自分に返ってくるのを受けると、自然と頭が上がり、右手が離れ、順に左手が離れ、体が起きるとほぼ同時に腿上に両手が戻る。
ここまでの動きを再確認すると、立っていた状態から座るために下方へと垂直運動がおこり、正座して刀を置く動作で円運動へと変わり、今度は前へ倒れていくという回転運動へと変わる。形や方向を変えながらも決して止まることなく、体の中心を感じながら一連の動きの中に全てを収める。
次に帯刀である。
自分の肚へと戻って来た運動を再び前への回転に変えながら下げ緒と共に刀を取り正面に立てる。左手を添えながら、刀を少し傾けることで力を使うことなく浮き上がらせ帯へと差し込む。下げ緒を通し、位置を整えた後、一度沈む力を使って蹴ることなく静かにその場に立ち上がる。
以上が始める時の刀礼の流れである。終わる時の刀礼と神前への礼の手順はこれの逆を行っていく訳だが、始める時と同じく注意深くやるべきである。
もしこれがただの儀式としての礼法であれば、もっと簡単に書くことができるだろう。
「刃を向けないように立って神前にお辞儀をし、正座して刀を置いてお辞儀して、今度は刀を帯に挿して立ち上がります。終わる時はその逆です」と。
しかし無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法は一行あまりで済むようなただの儀式ではなく、形を学んでいく中での基本が詰まっており、それはそのまま「大森流」や他の形へと繋がっていく。大森流は刀礼と同じく正座の姿勢が基本となっているが、その動きはすべて礼法に内包されていて、礼法の垂直運動、円運動、回転運動のいずれもが、大森流の「刀を抜く」「体を起こす」「立ち上がる」「座る」という動作の基本となっている。肚を中心とした礼法の動きをしっかり習得すれば楽に自然に動けるようになり大森流へと繋がっていくが、逆に礼法を正しく身につけなければ大森流はおろか、そのあとの多くの形も上達するのは困難といえるだろう。
ここで貫汪館館長森本邦夫先生の言葉を引用したい。
『無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法の質の高さは、形の質の高さを生みます。礼法を疎かにする方は形の稽古に入っても、形の質は高くはなりません。』
『初心者の方が礼法の稽古を行う上で気を付けることは、動きの結節点ごとに自分の体の状態を知ることです。自分の状態を確認する習慣をつけてください。』
『前に刀を置こうとしたり前にある下緒をと取ろうとするときに、体を用いることを先にし、そののちに体に連れて手が動くように心がければ、抜き付けにおいても柄手・鞘手が体と無関係に動くことがなくなります。』
貫汪館における教えの中で重要なのは「無理無駄がないこと」「肚(臍下丹田)で動くこと」、そして私欲にとらわれず「自分を客観視できること」である。無理無駄があり中心が振れ自分の思うままというのは、まったく自由に動けていないということでもある。
それを忘れることなく、無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法の「立つ」「座る」「礼をする」という簡素な動きの中に、自由に無理無駄なく動くための基本が含まれていることを再確認していかなければならない。
最後に
無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法においては、神や刀を真に敬う心を持つことを前提とし、またそれだけではなく、「力に頼らない」「無理無駄がない」「自然な動き」を基本とするすべての形に通じるよう体系づけられた業であることを常に念頭に置きたい。今後稽古を重ねていく中で、礼法そのものが道を見失わないための標と考え、疎かにすることなく一つの業として日々研鑽に努める所存である。
参考文献
1)貫汪館 ホームページ
2)森本邦生館長:「道標」
- 2016/09/01(木) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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大石神影流剣術の「阳剱」で仕太刀が打太刀の斬り込みに乗って打太刀の正面を斬り、左足を踏み込み腰で打太刀の太刀を抑え位を見る動きは安易に考えてしまうと肩から先で行ってしまいますが、そのような動きをすれば切り返されるのは経験されたことがあると思います。
「抑える」と文字では書きますが抑えているのは臍下丹田であって、動きは臍下からなされます。したがって木刀の角度も柄頭が下がり切っ先が上がります。
工夫してください。
- 2016/09/02(金) 21:25:00|
- 剣術 業
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六尺棒の礼式は初めに体前に六尺棒を立てますが安易に立ててしまうと感覚を養う稽古になりませんので注意してください。
立てるときには六尺棒が上の棒端から下の棒端まで引力の線と一致するように立てそれを体に感じたのちに前に倒していきます。これだけのことですが、感じることによって自分の体も臍下丹田に落ち着きます。
次をあせらずに稽古してください。
- 2016/09/03(土) 21:25:00|
- 柔術 業
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大石神影流の車の構えは切先を体の後ろに隠したまま進退します。進むときに切っ先が左右にぶれて体から出てしまうのは左右の手の内、特に右手の手の内が強すぎるためです。
ただし、右手はただ緩めているわけではなく、左右共に切先までの働きを左右しています。工夫してください。
- 2016/09/04(日) 21:25:00|
- 剣術 業
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切先を相手につけて気先を掛けるのは比較的理解しやすいかと思います(理解できるのとできることは別ですが)。しかし「二生」のように下段に下ろして気先をかける場合にはただ前に進むだけではかえって切り落とされてしまいます。打太刀の構えの不十分なところへ気先をかけて前に進むには気勢が充実していることはもちろんですが、自分がいつでも相手を突き、斬ることができる状態になければなりません。切先は生き、体のどこにも歪みなく、どこにも隙がない状態で攻めて前に出ていくから打太刀は反撃できません。最後に打太刀が斬りかかってくるのはほかにどうしようもないから斬りかかってきます。そのような手数の稽古をしなければなりません。
- 2016/09/05(月) 21:25:00|
- 剣術 業
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大石神影流剣術の「正当剣」などで打太刀の右肘通りを切るときは右肘関節の上の筋を軽く切ります。これは死命を制するのではなく、自由に働かせないようにするためですので、稽古において注意しなければならないのは切った後の残心です。打太刀の左手はまだ使える状態にありますので、実際には肘通りを切った途にどのように打太刀が動くかわかりません。
心して稽古してください。
- 2016/09/06(火) 21:25:00|
- 剣術 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法はそのまま技につながっていきます。礼法の質が高ければそれに応じて形の稽古も高いレベルから始めることができ、礼法の質が低ければそれなりのレベルの稽古しかできません。
特に初心者が稽古しなければならないのは正座で、正しく座れなければ大森流は困難です。現代は畳での生活は少なくなり、ましてや正座をする機会も極端に少なくなっています。まず正座の自主稽古を十分に行ってください。テレビを見るとき、本を読むとき、いくらでも稽古できると思います。
- 2016/09/07(水) 21:25:00|
- 居合 業
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初発刀・左刀・右刀・当刀の四本の形を通じて養わなければならないのは体の開きです。ところが現代人は半身になって農作業を行う事も、肉体労働を行う事もあまりないために半身をとることが苦手になっています。一生懸命何かをしようとすればするほど無意識に正対してしまいます。
刀はどのように抜いて行くのかよく理を考えて稽古してください。
- 2016/09/08(木) 21:25:00|
- 居合 業
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大森流では抜付けたあとは斬撃をしますがこの斬撃が正しく行われたかどうかを判断するのに、刃音や体の力みに頼らないでください。よくわかっていない方は大きな刃音を刀が良く働いていると思ったり、体の力みを充実と勘違いしてしまいます。
正しく動けたかどうかは斬撃した時、体が臍下丹田を中心として動けたかどうか、どこにも力みがないかどうか手の内は正しいかどうかで判断してください。
- 2016/09/09(金) 21:25:00|
- 居合 業
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流刀で「柄を左斜向ふへ突出し刀尖を右膝頭上へ引付け(懐紙を出して血糊を拭ふは略す)右手で鍔際を逆手に持かへ」る動きと順刀で「左拳を左斜上へ突出し(刃部を向ふへ向け)刀尖を右膝頭上へ引付け(懐紙を出して血糊を拭ふは略す)右手を逆手に執りかへ」る動きは同質の動きです。
刀を膝上にとるときは峯部の横が膝の上に載るようにしながら刃は膝に接しないようにします。模造刀で稽古していると、模造刀は切れませんのでやや疎かになることがあるので注意してください。また動きの中心は臍下丹田であり肩腕の力みはなくなっていなければなりません。自分の重心が下りているか感じながら稽古してください。
- 2016/09/10(土) 21:25:00|
- 居合 業
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逆刀でニ撃目の後に「右足を一歩後へ退き左諸手上段に冠り残心を示」す時、刀に己をとられて自分の重心が上に上がってしまうと、それは残心ではなく隙になってしまいます。上がったものは下ろさざるを得なくなり急変には対応できません。
よく見せたいとか、「どうだ」という思が隙を作ってしまうのです。臍下丹田中心に刀が約45度の角度まで上がるだけのことですので不必要な思いは持たず稽古しなくてはなりません。
- 2016/09/11(日) 21:25:00|
- 居合 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法の斬撃後の気息を伺う動きについて植田先生は「後足を前足に踏揃へる時は何時も上体は稍前掛りに俯く事」と記されています。簡単に言えば倒れた敵に覆いかぶさるように前傾することです。
この際大切なのは両足を揃えたときに体の重さは両足の足心を通って床に下りていくこと。切先は倒れた敵についていることです。上半身に力を入れていたり、切っ先が開いていれば隙ができますので注意してください。
- 2016/09/12(月) 21:25:00|
- 居合 業
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先日伊勢の皇學館大學で行われた日本武道学会第49回大会で発表した
『教授館總宰餘業記録』にみる土佐藩の居合について
を分割して載せていきます。
Ⅰ はじめに
土佐藩では林六太夫がもたらした長谷川流の居合が行われ,幕末には山川久蔵を中心とする流れと林八郎次・谷村亀之丞を中心とした二つの流れがあった。
先行研究(榎本鐘司;北信濃における無雙直傅流の伝承について−江戸時代村落の武術と『境界性』−,スポーツ史研究 7号,pp.21-36,1994)では北信濃における同系統の流派が和・棒術中心の武術であったことが明かにされているが,『教授館總宰餘業記録』1)(資料1)からは土佐藩においては居合を中心として稽古された様子が見て取れる。『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』の「口述」2)(資料2)には「六太夫儀兵作弟子ニ相成、居合不己而諸芸執行仕、兵作ゟ伝受請申候由。其後御国ニて抜合懇望之人エハ稽古為致申由伝承仕侯。」とあり,林六太夫は江戸で修行し荒井兵作より諸芸の伝授を受けたものの,居合を指導したことがわかる。
『教授館總宰餘業記録』は文政11年(1828)3月から天保12年(1841)1月までの剣術・槍術・居合・弓術・馬術・軍貝等の武術の式日を中心とした記録であり土佐藩で行われた長谷川流がどのようなものであったかを理解することができる。
本研究では『教授館總宰餘業記録』を中心に土佐藩の居合について明らかにしたい。
- 2016/09/13(火) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅱ 土佐藩と長谷川流について
1. 『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』の「口述」にみる長谷川流
土佐藩の長谷川流の流派名に関しては現在「無双神傳英信流」「無双直伝英信流」という名称が用いられるが,『教授館總宰餘業記録』および『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』の「口述」には「長谷川流」とのみ記してあるため,本発表においては「長谷川流」で統一する。
- 2016/09/14(水) 21:25:00|
- 武道史
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『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』は嘉永6年(1853)に旧長岡郡須恵村の庄屋である高野家の高野金三郎が足達家に寄宿,その間に服部氏の蔵書を書き写したものであるが,長谷川流の土佐藩への導入とその後について記されている。
それによると「口述」は林六太夫の三男で、小栗流師範の足達茂兵衛の養子となった安達甚三郎(林縫丞)によって長谷川流を正式に見分を受ける土佐藩の表芸として取り上げられることを願うために記されたものである。
足達甚三郎は天明4年(1784)に亡くなっており3),「私義も当年七十歳ニ相成四五年跡より少々病気付、舌本叶不申、諸方ふくわゐニ相成」と記され,文末に卯年とあることから「口述」は天明3年(1783)に記されたと推測できる。
以下、「口述」によって長谷川流が土佐藩で稽古されるに至った経緯についてみてみる。
- 2016/09/15(木) 21:25:00|
- 武道史
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(1)長谷川流について
「口述」では長谷川流の元根は「奥州林崎初助卜申者」にあるとし,それよりだんだん相伝し「長谷川主税助卜申者江戸ニて導。居合計ニて無御坐、諸芸ニ達し江戸中長谷川流ト人の唱申由。」と記し,長谷川主税助が居合を相伝しただけでなく諸芸に達して江戸で教授していたとしている。さらに長谷川主税助には多くの弟子があったが「荒井兵作と申者諸業達者ニ仕、諸業不残相伝ニて諸人を導申侯よし。」と記し,荒井兵作が長谷川主税之助から相伝された諸芸を教授していたことが記されている。
『北信濃における無雙直傅流の伝承について−江戸時代村落の武術と『境界性』−』には「滝沢家や松代側の史料では長谷川英信は和の相伝者であり,新しい林崎流系統の居合は小菅(荒井)正継によって加えられたことになる。」4)とあるが,土佐藩では土佐藩に長谷川流が伝えられた時から長谷川主税助は居合の相伝者とされていたことがわかる。
(2)林六太夫の江戸での修行
林六太夫は15歳の時に江戸への供を仰せつかり、江戸で武藝を学んでいる。長谷川流については「其時分六太夫儀兵作弟子ニ相成、居合不己而諸芸執行仕、兵作ゟ伝受請申候由。」と記し,荒井兵作より居合だけでなく諸芸を伝授されたとしている。
林六太夫は享保17年(1732)7月17日に70歳で亡くなっているから5),寛文3年(1663)生まれで江戸に出た15歳の頃は延宝5年 (1677)である。
『北信濃における無雙直傅流の伝承について−江戸時代村落の武術と『境界性』−』には「兵作(荒井兵作,荒井清鉄,荒井勢哲清信,小菅精哲斎正継)はこの頃に80歳ほどであったと記されるのであるから,元和・寛永(1615~1644)の頃の生まれとなる。すると長谷川英信もこれと同時期,あるいはこれ以前の人とみなければならない。」4)と記されており,「口述」の記述はおおむね合致していると考えられる。
(3)林六太夫による土佐藩への伝播
林六太夫の「其後御国ニて抜合懇望之人エハ稽古為致申由伝承仕候。」とあり,林六太夫は土佐では長谷川流の居合のみを教授したことがわかる。
林六太夫が和を教授しなかった理由は不明であるが,『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』6)には林六太夫は小栗流ヲ教授した朝比奈丹左衛門可長の弟子で中伝を得たと記されている。また『土佐史談第六拾四號』の「朝比奈丹左衛門と小栗流諸藝家」には「林六太夫は既述の如く長谷川流居合の功労者として知名であるが、朝比奈丹左衛門の高弟の一人で、小栗流和術をも傳授した。楠瀬六右衛門貞次はその弟子で皆傳を得たものである。」7)とあり,林六太夫が小栗流和術を教授していたことがわかる。林六太夫は長谷川流の和を教授する必要を感じなかった可能性がある。
- 2016/09/16(金) 21:25:00|
- 武道史
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(4)林六太夫以後の伝承
林六太夫の長谷川流の高弟には茨木十太夫,渡辺利,片岡直助の3名がいたが,養子の林安大夫(土佐藩林家第3代)8)も修行をしており足達家に養子に行った足達甚三郎(林六太夫三男)も小栗流のみならず実家の長谷川流を修行していた。林安大夫も門弟をとっていたが,足達甚三郎も息子たちに長谷川流を指導し,また小栗流を稽古する者で長谷川流を習いたいものには長谷川流を教えていた。
(5)長谷川流の見分の経緯
武芸御目附森本伊左衛門より藩主による小栗流上覧の再覧のさいに長谷川流の「御好」の可能性があるので準備するよう指示を受け,その後の小栗流上覧の再覧の時に長谷川流を演じている。
その後も度々再覧の時に長谷川流を演じる。
演じられた形は「長谷川流居合之業」「居合太刀打」「居合詰合之業」である。
(6)表芸
長谷川流を土佐藩の「表芸」とされるように申し立てを行う。その際,大黒元左衛門(元右衛門カ)の弟子で足達甚三郎の子供たちとも稽古している杉悦吾と甥の林益之丞を芸家としたいと申し立てを行う。
以上のような『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』の「口述」の記述から長谷川流が『教授館總宰餘業記録』の式日における見分の対象となった経緯が明らかとなった。
- 2016/09/17(土) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅲ 『教授館總宰餘業記録』について
1.資料の所蔵先とその内容
本研究に用いる資料は高知県立高知城歴史博物館所蔵で,教授館總宰であった山内豊道により文政11年(1828)3月から天保12年(1841)1月までの剣術・槍術・居合・弓術・馬術・軍貝等の武術の式日を中心とした記録である。
『教授館總宰餘業記録』には式日における師範名と弟子の数について記され,日によっては演じた内容も記録されている。
2.教授館について
教授館(はじめ教授場)は宝暦10年(1760)に藩主山内豊敷によって設けられた。文久2年(1862)に文武館(後に致道館と改称)が設けられるまで続いた。
教授館には武術の稽古場はなく,武術は各師家の屋敷でこれを教授させた。生徒の15歳より40歳に至るまで文武師家について学ばせた。武術については式日が概ね3か月ごとに設けられ,槍剣柔術抜刀は土佐郡帯屋町南会所で総裁や文武目付等による見分が行われた9)
- 2016/09/18(日) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅳ 『教授館總宰餘業記録』の内容
1.『教授館總宰餘業記録』に記された長谷川流の居合の師範
山川久蔵ならびに林八郎次・谷村亀之丞の3名が記されている。
(1)山川久蔵について
山川久蔵幸雅は安永3年(1774)に土佐藩の二百石の山川久左衛門の二男として生まれた。前名を錠八・政之丞といい文化5年に山川武八の養子となった。文政3年(1806)に居合指南役となり,弘化3年(1846)に老齢のため居合指南役を差し許され,嘉永元年(1848)に57歳で亡くなっている10)11)。
天保5年(1834)に坪内清助から島村右馬丞に出された『居合根源之巻』12)によると,その伝系は以下のようになっている。
林崎神助重信―田宮平兵衛尉業正―長野無楽入道槿露齊―百々軍兵衛尉光重―蟻川正左衛門尉宗續―万野圑右衛門尉信貞―長谷川税助英信―荒井勢哲清信―林六太夫守正―林安大夫政詡―大黒元右衛門清勝―松吉八左衛門久盛―山川久蔵幸雅―坪内清助―島村右馬丞
- 2016/09/19(月) 21:25:00|
- 武道史
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(2)林八郎次について
林八郎次は林家第5代の林益丞誠の二男として寛政11年(1799)に生まれた。兄は林家第6代の林弥内(弥大夫)政敬である。文政12年(1829)に長谷川流居合心掛け厚きをもって3人扶持で馬廻末子に取り立てられ,のちに池田政承と名乗った。天保2年(1831)に33歳でなくなっている13)14)。林八郎次の師は不明である。
(3)谷村亀之丞について
谷村亀之丞自雄は谷村家第4代谷村自煕の二男として寛政13年(1800)に生まれた。文久2年(1862)に居合導役・馬術導役となり同年に63歳で亡くなっている。師は林弥内(弥大夫)政敬である。
嫡子林彛吉自修も文久2年(1862)に居合導役となったが同年に亡くなっている15)16)。
2.弟子・取立
『教授館總宰餘業記録』では山川久蔵の門下の人数もしくは名前・演武の内容をあげる場合には「山川久蔵弟子」と記している。
一方,林八郎次の場合には文政11年(1828)4月23日の初出から「林八郎次取立」と記されており,「林八郎次弟子」と記されているのは文政13年(1830)3月23日からの記述で天保2年(1831)に亡くなる前の4月10日の記述まで「林八郎次弟子」となっている。
谷村亀之丞の場合には天保5年(1834)4月10日の初出時には「谷村亀之丞弟子ともを」と記されているが,それ以降,天保11年(1840)10月23日まで「谷村亀之丞取立」と記され同年12月23日の最後の記述で「谷村亀之丞弟子」と記述されている。
「弟子」「取立」の意味するところは『教授館總宰餘業記録』には記されていない。山川久蔵の弟子である坪内清助は天保5年(1834)に島村右馬丞に伝書を発行しており,いわゆる家元制とは異なった制度かと思われる。稽古回数によって褒賞を与える奨励法17)の関係で稽古回数の取りまとめを存命中の師が行っていたことによるものかもしれない。
- 2016/09/20(火) 21:25:00|
- 武道史
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3.演じられた形
(1)山川久蔵
山川久蔵の弟子が演じた形の項目は次のように記述されている。「居合」「大森流」「常ノ居合」「長谷川流」「奥居合」「奥ノ居合」「木刀」「鞘木刀」「詰合」「組合」「大小詰合」「早抜」「居合千本抜」「田宮流」
上記の形を現在行われている「英信流表」「英信流奥」「太刀打」「詰合」「大小詰」「大小立詰」というカテゴリーで分類すると,「居合」は一人で行う居合の形の総称と考えられる。「常の居合」は奥居合とは別で英信流表と考えられる。「長谷川流」は大森流・田宮流を除く長谷川流の総称と考えられる。「奥居合」「奥ノ居合」は同一と考えられる。「木刀」「鞘木刀」は同一と考えられ,太刀打のことと思われる。「組合」と「大小詰合」は同一で「大小詰」「大小立詰」のことと考えられる。「早抜」は英信流表を連続して抜くことと思われる。「居合千本抜」は居合の形を千本抜くことと考えられる。
1)長谷川流
山川久蔵が長谷川流という流名で指導していた形は英信流表・太刀打・詰合・大小詰・大小立詰・奥居合である。
- 2016/09/21(水) 21:25:00|
- 武道史
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2)大森流
大森流は細川家文書の『神傳流業手付』18)(天保12年(1841),坪内清助より島村右馬丞宛)に「大森流居合之事」として「此居合と申ハ大森六郎左衛門之流也。英信流此居合格段意味無相違故ニ話而後に守正公翁是を入候。六郎左衛門は守正先生の剣道の師也。真陰流也。上泉伊勢守信綱之古流五本之仕形有と云ふ。或は武蔵守」とあり、その来歴は長谷川流とは異なり土佐に長谷川流をもたらした林六太夫が真陰流剣術の師から習い,これを長谷川流に附け加えたものだということがわかる。
大森流に関してはその成立過程を語ると思われる『大森流居合術名覚』19)という伝書がある。『大森流居合術名覚』は慶応2年(1866)に下村茂市から嶋村善馬(細川義昌)に出された伝書で,その伝系は以下のように記されている。
上泉武蔵守無楽齊―上泉孫次郎義胤― 一宮左太夫照信―柳生石但宗嚴―柳生但馬守宗雉―柳生十兵衛三嚴―伊藤一刀齊景久―伊藤典膳正忠―大森六郎左衛門正光―林六太夫守正―林安太夫政詡―大黒元右衛門清勝―松吉八左衛門―下村茂市定
この伝系は一見すると一つの流れのように見え,人名にも誤字が多いが,以下のように考えられる。
上泉武蔵守信綱―上泉孫次郎義胤―大森六郎左衛門正光
長野無楽入道槿露斎―上泉孫次郎義胤―大森六郎左衛門正光
一宮左太夫照信―大森六郎左衛門正光
柳生石但宗嚴―柳生但馬守宗雉―柳生十兵衛三嚴―大森六郎左衛門正光
伊藤一刀齊景久―伊藤典膳正忠―大森六郎左衛門正光
つまり、大森六郎左衛門は,上泉孫次郎に新陰流・無楽流を習い,一宮左太夫照信に一宮流を習い,柳生十兵衛三嚴に柳生新陰流を習い,一刀流の伊藤典膳正忠(小野典膳忠也カ)に一刀流を習った。そのうえで大森流の居合を編み出し,これを教授した。
大森流は土佐に長谷川流をもたらした林六太夫の頃から長谷川流に取り込まれて稽古されており,大森流だけが独立して教授されたわけではないため,長谷川流の見分の際に大森流も演じられたものと考えられる。
3)田宮流
田宮流に関しては長谷川流とは別に教授された流派であると考えられる。田宮流の『教授館總宰餘業記録』の初出は文政13年(1830)2月24日で一通り見分した後に「右之通いつれも済而後好申付之輩左のことし」と記され,再覧の際に最後に増井茂之進と下村修(下村茂市)の2名によって演じられている。足達甚三郎が小栗流の見分のあとの再覧で長谷川流を演じたように,田宮流が表芸とはなっていないため山川久蔵門下で田宮流の稽古をする者に演じさせたと考えられる。なお,山川久蔵が田宮流を教授した記録は現在のところ見出すことができない。
次に田宮流の記述がでてくるのは天保3(1832)年5月で5巡目に下村茂市と坪内清助によって6巡目に坪内清助と増井茂之進によって演じられている。その次に田宮流の演武があるのは天保6年(1835)4月23日であるが,この時には田宮流は表芸となっていたようで「稽古場ニ田宮流居合坪内清助取立之者とも見分可致申付之」と記されている。
田宮流については4.に再度述べる
- 2016/09/22(木) 21:25:00|
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(2)林八郎次
林八郎次が演じた形の項目は次のように記述されている。「抜刀」「口ノ業」「常ノ居合」「奥居」「鞘木刀」「鞘木刀事」「詰合」「組合」「大小詰」「大小詰合」「棒太刀合」「棒合」「早抜」
上記の形を分類すると,「抜刀」は一人で行う居合の形の総称と考えられる。「口ノ業」は口が物事の初めという意味もつことから初めに稽古される「大森流」のことであると考えられる。「常ノ居合」は「奥居合」と対比できることから英信流表と考えられ,「鞘木刀」「鞘木刀事」は太刀打のことと思われる。「組合」「大小詰合」は柔術的な技法である「大小詰」のことと考えられる。
上記から林八郎次が長谷川流で指導していたのは山川久蔵と同じ大森流・英信流表・太刀打・詰合・大小詰・大小立詰・奥居合であるが,「棒太刀合」「棒合」がこれに付加されている。
長谷川流の棒については細川家文書の『神傳流業手付』(天保12年(1841),坪内清助より島村右馬丞宛)にも「棒合」「太刀合之棒」が記されている。島村右馬丞は山川久蔵の孫弟子であるが,前述のように山川久蔵の弟子は棒術を演じていない。
(3)谷村亀之丞
谷村亀之丞の門下に関しては演じられた形は記されていない。
- 2016/09/23(金) 21:25:00|
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4.田宮流
(1)坪内清助長順
前述のように田宮流ははじめ山川久蔵門下の増井茂之進,下村茂市,坪内清助の3名によって長谷川流の見分の際に演じられていたが,天保6年(1835)4月に坪内清助取立の者によって行われている。
坪内清助はのちに傳左衛門と名のるが,天保12年(1841)に父傳次長成の跡目を継ぎ,慶応2年(1866)に亡くなっている。『御侍中先祖書系図牒』の坪内清助の項に居合の事績に関する記述はない20)。
『教授館總宰餘業記録』には文政11年(1828)8月2日の記述に「足達長十郎 山川久藏 両人召連出ル 坪内清助 右清助儀居合抜形幷和術遣形とも一見之後、手許ニ呼出し、鍔壹枚令取之。数年藝術出精によつて也」とあり,坪内清助が小栗流と長谷川流に長じていたことがわかる。
(2)演じられた形
前述のように山川久蔵弟子として田宮流が演じられたのは文政13年(1830),天保3年(1832)の2回であるが,形名は記録されていない。次に田宮流が演じられたのは天保6年(1835)であり,この時は坪内清助取立の者によって演じられており形名も記録されている。演じられた形は「表」「立合」「表籠手仕合」「真法釼」「臺籠手」「居場引」である。
次に田宮流が演じられるのは天保9年(1826)であるが,この時は坪内清助取立の2名によって「真法釼」だけが演じられている。
(3)新田宮流
土佐藩に田宮流が伝えられた経緯についてははっきりしないが,天明元年(1781)に生まれ天保4年(1833)に亡くなった新田宮流の松村善蔵茂達があった21)。その墓碑には「君性敦厚有才識而不求知於世文學武技努在古意其少也學真心陰流剣法伴水流剣法新田宮流抜刀法皆救奥」とあり22),新田宮流を修業したことがわかる。
また,細川家文書に文政13年1月吉日に松村善蔵茂達から坪内清助にあてられた『新田宮流兵法家傳書上』23)『新田宮流兵法家傳書下』24)と天保元年8月15日に松村善蔵茂達から坪内清助にあてられた『新田宮流秘書』25)があることから,『教授館總宰餘業記録』に記された田宮流は水戸の和田平助正勝が創めた新田宮流の事と思われる。松村善蔵の師はこれらの伝書から鈴木三郎兵衛であると思われる。
- 2016/09/24(土) 21:25:00|
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Ⅴ まとめ
1.土佐藩では長谷川流の居合が林六太夫によって伝えられた当初から長谷川主税助は居合の相伝者であるとされていた。
2.土佐藩に長谷川流を伝えた林六太夫は長谷川流の居合(棒術を含む)のみを教授した。
3.長谷川流ははじめ「表芸」ではなく見分を受ける流派ではなかった。
4.文政11年(1828)から天保12年(1841)ころまでの長谷川流にも和の形はない。
5.大森流は新陰流・無楽流・一宮流・新陰流(江戸柳生家)・一刀流から大森六郎左衛門が編み出したと考えられる。
6.土佐藩では長谷川流以外に新田宮流が稽古されていた。
Ⅵ おわりに
土佐藩での居合の状況がわずかながら明らかになったが,今後,「表芸」とそうでない流派の置かれた状況や「弟子」「取立」の違いや教授館の後に設置された致道館における居合教授の実態などを明らかにしていかなければならない。
- 2016/09/25(日) 12:03:36|
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「『教授館總宰餘業記録』にみる土佐藩の居合について」で用いた『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』の「口述」を数度に分けてあげていきますので参考にしてください。林六太夫が江戸で武藝を習得したことがわかる箇所です。
私実父林六太夫義、豊間((ママ))公ゟ御奉公相勤、十五歳之時江戸御供被仰付、役儀相勤申候。其砌、御奉公之間ニ武芸幷諸芸執行仕度段奉願候処、聞召被為届役儀相仕廻候得は、他出仕色々芸術修行仕由、不絶物語仕候。豊房公、豊隆公御代迄右之通他出仕芸術心掛申候。豊房公之御時ゟ故実方被仰付、御近習幷外様共指南仕候様被仰付、豊常公迄相蒙り相勤申所、病気大切ニ相煩九死一生之躰ニ罷成申時分、故実方弟子之内御用可相勤者有之候ハゝ名書差出候様被仰付候ニ付、依右、草野茂太夫、宮地安衛門、大黒後文丞(本ノマヽ)弟早之丞、右三人を書出申候様覚申候。早丞儀ハ後ニ志東加左衛門養子ニ相成申候。依右、茂太夫、安右衛門、早丞、故実方伝授も段々相済申由ニて、右三人ニ御用筋被仰付、六太夫儀不慮ニ病気全快仕、七八年も息災ニ罷在候。
- 2016/09/26(月) 21:25:00|
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南山大学の榎本先生の御研究では北信濃においては長谷川英信は居合の相伝者ではないとされていますが、土佐では当初から長谷川英信が居合の相伝者とされていたことがわかる部分です。また、林六太夫は荒井兵作から居合だけではなくすべての武術を伝授されていたことがわかります。
「数々執行仕武芸之内長谷川流ト申居合兵法御坐候。元根ハ奥州林崎初助卜申者此道ニ志し居合之道致成就。夫々段々相伝リ長谷川主税助卜申者江戸ニて導。居合計ニて無御坐、諸芸ニ達し江戸中長谷川流ト人の唱申由。主税助弟子数々有之中ニも荒井兵作と申者諸業達者ニ仕、諸業不残相伝ニて諸人を導申候よし。其時分六太夫儀、兵作弟子ニ相成、居合不己而諸芸執行仕、兵作ゟ伝受請申候由。」
- 2016/09/27(火) 21:25:00|
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土佐藩で和(やわら)が行われず、長谷川流の居合だけが行われた理由が記され、小栗流の足達家においても長谷川流の居合が稽古されていたことがわかる部分です。
「其後御国ニて抜合懇望之人エハ稽古為致申由伝承仕候。及老年ニ而も十人計も執行被致方も有之。茨木十太夫、渡辺利、片岡直助、此三人就中致出情心懸宜執行仕候ニ付、諸芸達者ニ仕候故伝受も仕候。兄安太夫義も若輩之時分ゟ執行仕、常々心欠一所ニ口伝等も承り申候。私義ハ若輩之時分ゟ茂兵衛養子ニ相成養家之芸術執行仕、稽古仕廻り候得共、実家之居合諸業等執行仕。安太夫ニ至而も稽古望之人も有之、私共一所ニ稽古仕候。不調法ニ候へども実父仕芸術ニ付、師伝等も安太夫ゟ承り不絶執行仕候。何卒此一流絶申も残念ニ付、せめてハ業一通成共覚居申様ニと存、世倅共へ家芸稽古之間ニハ稽古為致申候。家芸執行被致方ニも長谷川居合懇望之人も御坐候而、四五人も世倅一所ニ家芸之間ニハ執行為致申候。」
- 2016/09/28(水) 21:25:00|
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当初、長谷川流は藩の「表芸」ではなく、見分を受けることもありませんでしたが、「表芸」となるきっかけとなった部分です。
「然ニ先殿様御時、武芸御目附森本伊左衛門殿ヱ御用筋、或ハ式日用ニ付切々罷在候時分、武芸之物語様々被申候。安太夫殿ニハ心易く切々参会も仕ニ付、兼而長谷川流居合兵法之義も承り居申候。素リ不絶執行可被致と被相尋侯ニ付、私実父仕候芸之義ニ候へは絶申も残念ニ存候故、業一ト通り成共世倅共エ家芸之間ニハ覚居申様ニと申聞、不絶稽古為致申候と相答申候。尤成義ニ御坐候。随分御扶持尤ニ候と被申候。」
- 2016/09/29(木) 21:25:00|
- 武道史
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長谷川流は土佐藩の「表芸」にはなっていないが、小栗流の見分を一通り済ませた後の再覧の際に演武するようになる可能性もあるので、長谷川流の道具(鞘木刀や居合刀)を用意しておきなさいという記載がなされています。
其後諸武芸御再覧前ニて罷出候時分被申候ハ、先日も粗御噂も申候長谷川流抜刀之義、御用ニ付御前へ罷出候時分能御序も有之、御咄も申上候。御前ニも先年豊隆公渋川伝五郎と申者関口流和術之御咄なども被仰出候。此度御再覧被遊候御序ニハ長谷川流をも御好等も可有御坐哉と被存候ニ付、長谷川流之道具用意被致可宜候。万一御覧可被候旨被仰出候時分、不都合ニ付、たとへ御覧不被遊とも用意方ハ可被致と被申侯。奉畏と申置侯。
- 2016/09/30(金) 21:25:00|
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