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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

至らぬという思い

 少し上達したらその上達したところに心が居着き、少しでも上手であろう(みせよう)、技が有効であるようにしよう(みせよう)という思いが起こります。
 このような思いが起こった時には、逆にそれまで身についた業はなくなり下手になっていきます。自分は常に至らぬという思いを捨てず基本で習ったことを大切に、ゆっくり静かに地道に稽古していけば知らず知らずのうちに上達していきます。

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  1. 2016/12/01(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

まもりは停滞・下達

 組織の運営にしても、自分自身の稽古にしてもまもりに入った時は停滞し、下達するときです。
 組織は常に新たに常に前に進んでいかねば、気付かないうちに綻び滅んでいきます。日々新たに生まれ変わっていくので勢いがあります。同様に個人の稽古も同じで、日々新たに上達する心がなければ、とどまるどころか道からそれ、業とは言えない自己満足の動きになってしまいます。
 常に、前に前にと進まなければなりません。

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  1. 2016/12/02(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

武道史研究

 貫汪館で行う武道史研究は単に知識を増やすためではなく、それを今のありよう、将来のありようを考える資とするためです。
 これまで行ってきた研究は広島藩の武道史であり、廻国修行や居合の研究であって、いずれも現在の我々の稽古に結びつき稽古のありようを考える資となるものです。逆に言うと単なる知識のみに終わる研究は貫汪館にはあまり意味のないことです。
 みなさんの研究も自分の稽古につながるものであるよう望みます。

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  1. 2016/12/03(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

進む

 少し稽古が進んだ方に起こりがちですが、形・手数を稽古するときに間合いを詰めるため前に進むとき、ただ単に進むと思い進んでしまうと稽古にはなりません。たとえ形であり、手数であって相手が正面にしかいなくても、実際には澁川一流柔術の「前後」や「左右」のようにいずれに敵がいるとも限りません。
 少しもも隙なきよう、進まなければなりません。

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  1. 2016/12/04(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上段・附け

 大石神影流剣術において上段や附けの構えは、上半身を中心に切先が回ると最後は切先に体がとられて正対してしまいます。あくまでも臍下丹田が動きの中心でなければなりません。
 自分の動きを確認してください。

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  1. 2016/12/05(月) 21:25:00|
  2. 剣術 業

目付

 「阳剱」や「二生」など打太刀の刀を鎬で抑えるとき、初心者の方は打太刀の木刀に目を付けてしまうことがあります。目付は、相手の動きが分かるよう人になすべきです。末端に目を止めると全体の動きが見えなくなってしまうのでよくよく心してください。

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  1. 2016/12/06(火) 21:25:00|
  2. 剣術 業

張受

 大森流の「陰陽進退」や英信流の「虎一足」の張受が弱いのは右手で抜くからです。張受も抜付けと変わらず、「抜いて、受ける」のではなく、抜いた時には受けています。この理をよく研究して張受が抜付けと同質であるということを体得してください。

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  1. 2016/12/07(水) 21:25:00|
  2. 居合 業

深く呼吸する

 呼吸は深く臍下までを心掛けてください。呼吸の稽古は自動車を運転するときも、家にいるときもどこででも行うことが出来ます。臍下を意識し、そこまで息を吸い込むことを心掛けていれば何かが変化し始めます。

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  1. 2016/12/08(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

初心の内の動きの稽古

 昨日述べたような深い呼吸を行うことができるようになれば、呼吸に動きをのせることを心掛けてください。体の動きが主ではなく呼吸に体の動きを載せます。これができるようになれば基本が身についてきたといえます。反対に動きに呼吸がのらないようであれば次に進むことはできません。

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  1. 2016/12/09(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

阴剱

 仕太刀が車から大きく斬り込むときに体がとられるのは上半身で斬り込んでいるからです。あくまでも臍下丹田が中心で振らなければなりません。この動きができない方は真剣から車に構えるときにも上半身中心で構えている可能性があります。車の構えへの動きを見直してください。

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  1. 2016/12/10(土) 21:25:00|
  2. 剣術 業

納刀

 納刀で刀と鞘が一文字になるときは、鼠径部はさらに緩みながら行われるので、腰の位置は引力に従って下がります。初心者の方が納めようと思うばかり右手を一生懸命に伸ばしてしまい、腰が伸びるのは誤りです。
 右手は伸ばさないようにし、鼠蹊部の緩みを中心として体の他の部分をつかうように心がければ上達します。

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  1. 2016/12/11(日) 21:25:00|
  2. 居合 業

体の開き

 大森流の初発刀から当刀までの四本の形は体の開きの稽古です。したがって、すべての形においては体の開き、腰の角度は全て同じとなる必要があります。
 そうならないのは心の焦りで、速く抜こうとする思いが右手で抜かせ、右手につられて左腰が正対しようとしてしまうからです。抜付けは心と体を鎮め体と腰の動きを第一に稽古しなければなりません。速さはあとからついてきます。

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  1. 2016/12/12(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

半棒

 半棒は約4尺2寸で6尺棒に比べてかなり短く刀を自分の間合に入れなければ技を使うことができません。刀で斬られる間合で技を使わなくてはならず、多くの形が相手に斬り込ませて技を使うようになっています。
 この「斬り込ませて」というところが肝要で、斬り込ませるためには斬り込まざるを得ない状態にさせておかなければなりません。そのため半棒を遣う者は、臍下丹田に気を鎮め、その気は対する者を包み込むまで広がり、心身ともに隙がない状態になければなりません。

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  1. 2016/12/13(火) 21:25:00|
  2. 柔術 業

立膝に座す

 英信流の立膝は半身に座ります。半身に座るからこそ大森流との違いが生まれ、楽に速く抜けるようになります。正対してしまったら技の上で大森流と大きな違いはありません。
 さて、右足を前に出して半身になるためには左の鼠蹊部の緩みは不可欠です。ただ右足を前に出すと考えれば左足で床を蹴って正対したまま前に出てしまいます。左の鼠蹊部のゆるみがあれば溶けるように両足の感覚が広がり半身を生みます。工夫してください。

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  1. 2016/12/14(水) 21:25:00|
  2. 居合 業

 稽古回数は大切ですが、理を知らずにただ稽古回数を重ねても上達できません。
たとえば「陰陽進退」の張受けや、「流刀」の受け流しなどは刀の鎬で行います。そのために右手の内はどのようであるべきかということや、「逆刀」で後方に間を切った時、さらに相手の刀は下りてくるので自分の刀をどのような軌跡でめぐらせるのかも理です。
 理を身につけずに行えば、ただ動いているだけで相手に切られない動きにはなりませんので心してください。

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  1. 2016/12/15(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

小手

 大石神影流では小手は全て小さな動きで切り込みます。しかし、此処を間違えて小手の上を刺すかのように動いたり、小手の上に木刀を置きに行くかのような動きはあやまりです。
 小手は上段から斬り込む動きを小さくしただけですので、上段から斬り込む動きを次第に小さくする稽古をしてください。

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  1. 2016/12/16(金) 21:25:00|
  2. 剣術 業

これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことについて

大石神影流昇段審査の論文を載せます。

1 はじめに
これまでに修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを記述するにあたり、大切なことを整理して考えるため“修行への取組”として、貫汪館段位審査規定「昇段審査実技審査項目および審査基準」のなかの審査項目に従って考えていきたいと思います。

2 修行への取組
(1)礼法
大石神影流剣術では、木刀を床の上に置いたり、お互いに正座で礼を行うという所作はありません。
演武の最初から最後まで、常に木刀は腰にあります。
大石神影流剣術が、道場稽古ではなく、神社の境内などで行われたこと、また、藩主に上覧する際に、その庭先で演武がおこなわれたことにも関係しているとのことですが、こうした歴史への理解も大切です。
常に帯刀(当然のように半身)しているという現代人にはない動作である、腰に刀を差した状態での動きを意識する必要があります。
(2)立姿勢・構え
立姿勢は、帯刀から抜刀、真剣等、いかなる姿勢においても、当然のように半身がとれていることであり、縦の正中線と横の手の内から刀の柄を通して切っ先への線が、臍下丹田で交わり、どこにも力みがないことです。
構えについては、真剣から上段にとったり、真剣から附けにとったりする全ての構えは、その位置に切っ先を持っていく「構える」ということではありません。
それは居ついてしまうことであり、心や上半身や下肢に力みがあったりします。
形を固めることではなく、全ての構えは、肚が動いた結果として、刀がたまたまそこに位置しているだけなのだという意識を持つことが大切です。
(3)手順(形)
大石神影流剣術の手数については、試合口からはじまり、陽の表、陽の裏と多くを学んできました。
しかし、手順を覚えようとするのみではなく、一つ一つを大切に習得していくことが必要です。
一つ一つを大切にするとは、呼吸に乗せた構え方をしっかり身につけて、本当に臍下丹田の動きが切っ先に繋がっているのか、中身がどうなのかを検証しながら稽古していくことではないでしょうか。
たとえ一人で稽古するときであっても、自分の動きが理にかなっているのかを検証しながらすることを身につける必要があります。
(4)目付
澁川一流柔術の論文の中でも記述しましたが、「道標」のなかで「目は相手の目に付けます。目には心の全てが表れるものです。」と明確に述べられ、単に相手の目を見るだけではなく、相手の目を中心に相手の動きの全てと相手の心の動きを読むことの大切さが示されています。
手数の稽古をする時、相手に集中すると考えて相手しか見えていないのは間違った目付です。
相手を中心に相手の前後左右上下、相手の心の状態、さらには現在・過去・未来にも目付が行われていなければなりません。
今目の前にあるものだけしか見えていなければ変化に応じる事が出来ません。
相手の剣を張ったり、抑え、左右に動く動きになると自分の目が相手からそれ相手の剣についてしまうこともありますが、しっかりと、いつそれているのか確認し稽古して修正していくことが大事です。
(5)気迫・気合(発声)
自然な気迫が備わっているためには、正しい姿勢が保たれていること、臍下丹田を中心にした深い呼吸ができなければなりません。
そして、心も体も隙がない状態であり、無理に作り出そうとしたものは気迫ではありません。
大石神影流剣術の手数では多くの形が攻めることを重視しており、脇中段や車、どんな構え、たとえ手数の手順がどうあれ相手を斬るための構えであるということです。
さらに、発声を正しく気合を込めて発することができること。
こちらから斬りこむ時は「ホーッ」、受けるときは小さく「ハッ」、応じて斬りこむ時は「エーッ」。口先や胸から発するのではなく、肚からしっかりと発することが大切です。
(6)間と間合
大石神影流剣術は、総長三尺八寸の木刀を用いますが、通常の木刀よりも長いもので、当然のように間合が遠くなります。
間合に対する自分の感覚を養うことが必要であり、さらに手数の稽古を打太刀・仕太刀で行うときにお互いに間合については、双方が繊細になり、間違っているときには修正しなければなりません。
有効な間合は人それぞれです。
いつもの相手はこの程度の間合だから、違う者が打太刀にたっても自分で決めた通りの間合いしかとらなければ相手の切先は自分に届いてしまいます。
仕太刀は打太刀の出様によって自分の動きを変えていかなければなりません。
常に繊細な気持ちが大切です。
(7)呼吸
大石神影流剣術のみならず、無雙神傳英信流抜刀兵法・澁川一流柔術のいずれの流派においても呼吸にのって動くことが大切です。
呼吸にのって動くためには呼吸が正しく行われなければなりませんが、呼吸するためには鼠蹊部のゆるみが不可欠となります。
鼠径部が緊張していると重心は高くなり臍下丹田での呼吸は難しくなります。

呼吸の稽古には正座の状態で行う方が理解が早いと教えていただきましたが、それは、正座で臍下丹田を中心として右手の中指を丹田に当て左手の中指をその反対の背の部分(腰板の下)にあてて意識をそこにおろし、静かに呼吸を繰り返して臍下丹田で呼吸できるようになるまで繰り返して、おおむね臍下丹田で呼吸できるようになれば立ち姿勢でもその感覚を確認する方法です。
呼吸と動きがつながっていることが大切です。
特に、大石神影流剣術の「張る」動きは臍下丹田の呼吸あります。
手先で「張る」のではなく、呼吸を止めているために臍下中心に動けていないので、「張る」ときに短く息を吐き、その息に乗せて張ります。
本来、「張る」ことができなければ次の段階に進むことはできないところです。
しっかりと稽古しなければなりません。
(8)残心
大石神影流剣術の手数で、残心とは相手とのつながりです。
特に相手の正面を切り込んで後方に下がる場合、切先は相手の両眼の間を位置させるところを下がることに意識が行ってしまうと相手への残心がおろそかになり相手とのつながりが切れてしまう場合があります。
常に切先は相手に生きたまま指向していなければなりません。
(9)肚
初心のうちは、木刀を使おうとして肩・腕・手首を用いてしまい、体と腕と刀がばらばらになっていることがあります。
やはり、基本的な動きから身につけなければ手数の稽古をいくら行っても正しく手数が身につくことはないのです。
また、体を力ませているため各部が自由に動かないということも原因になり、特に肩に力みが入ると体幹と肩から先の動きはバラバラになってしまいます。
肩を用いない努力が大事です。
常に肚を意識し、肚が動いた結果に剣が動くことを感じとらねばなりません。
(10)無理無駄
大石神影流剣術は、剣による攻防だと、相手の剣をより強く張ったり払ったり、隙があるところへ直ちに切り込もうと考えてはいけません。
一見攻防の稽古に見える手数においても調和が大切です。
相手(敵)との調和を求めるならば、そうなるべくしてなる動きが生まれ、必要もないのに強く張ったり払ったりという動きにはなりませんし、手数の中で隙ができたところへは体が自然と動いて斬り込んでいるはずです。
相手との調和ある動きがあれば必然的にそうなるのです。
つまり、無理無駄のない動きが生まれます。

3 おわりに
大石神影流剣術の手数稽古で、しっかりした基礎を身についている形の上達は早いものです。
基礎とは正しい体の状態ができていることで、鼠蹊部の緩み、重心が落ちて肚で動く、手の内の状態などが整っていることです。
心を臍下丹田に沈めて動くこと。
相手がおらず、自分の身体だけを動かす時には出来るのに相手がいれば、相手との繋が     
り、調和を忘れ速く業を掛けよう、極めようという思いが先にたち、身体の調和を自らが乱し、小手先で業を掛けてしまう。これは結局のところ自分の心がそうさせてしまうのです。
出来なくて当たり前だからこそ、静かにゆっくり調和を乱すことなく稽古しなければなりません。
やがて業が身につき、意識しなくとも有効な動きが生まれてきます。
稽古に「我」を交えることなく稽古を続けること。
① 無理・無駄が無い心と体のあり方を求めること
② 師や兄弟子の教えに素直であること
③ 自分自身で工夫探求し、稽古を継続すること
という貫汪館での稽古への指針に従って、自分の稽古に対する取り組み方を常に見つめなおすことが重要です。
イタリア・ルネッサンスを代表する万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画作品だけでなく、さまざまな自然観察、科学実験をも重ね多くの書簡を残しています。今日、「ダ・ヴィンチの手記」として編纂されていますが、そのなかに次の言葉があります。
「流れる川に手をつけてみる。この手に触れる川の水は、流れ来る最初の水であり、最後の水である」
日々の稽古は、歴史という伝承を正しく受け、自らを律し上達していくことになるのではないでしょうか。
以上

参考:貫汪館ホームページ「道標」

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  1. 2016/12/17(土) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

澁川一流柔術昇段審査論文

これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことについて
~澁川一流柔術~

1 はじめに
これまでに修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを記述するにあたり、大切なことを整理して考えるため“修行への取組„として、貫汪館段位審査規定「昇段審査実技審査項目および審査基準」のなかの審査項目に従って考えていきたいと思います。

2 修行への取組
(1)礼法
渋川一流柔術は礼式から始まります。
礼式は「履形」、「吉掛」、「込入」、「四留」の形の始めにおかれ、争うことなく、相手を押し返すのみという澁川一流柔術の理念をあらわしています。
しかし、捕りは受けの突きを取り受けの肩を「もう攻撃はしない。争いはやめよう」と諫め、意思を示し叩き、受けの腰を押したのち片膝をついて、両掌を下にして胸の前に、受けも取りに押し出され体を回し捕りに正対し両掌を胸の前に、双方が気合いとともに両手を水平に広げるわけですが、この動作を形のまま再現しているのでは、意味がなく大切なものを見失っていることになります。
まず、双方とも体の正中線をしっかりと重心が両足の土踏まずから大地に根を下ろし、鼠蹊部の緩みとともに自然に膝が曲がり、肩も落ちていなければなりません。
また、捕りは受けを押し返し片膝をつきますが、上半身も下半身も無理無駄なく大地にあずけ、自分が天と大地の間に位置する気を感じること、左右の手は胸の前に、正しく壇中の前で臍下丹田からつながっていること(臍下丹田から背をとおり脇の下から腕をとおり手へ、決して肩との繋がりではない)が大切です。
そして、両手が開くのは臍下丹田を開くからであって、左右の手先を動かすわけではなく、結果として左右の手が動き、開いた後、両手が静かに体側に降りていくのも、気が臍下丹田により沈むことによってなのです。
(2)立姿勢・構え
よい姿勢、正しい姿勢とは、背筋をピンと伸ばし、胸を張った直立不動の姿勢と現代人は教えられてきました。
これは上半身を重視した姿勢です。
古武道では、崩しやすく中途半端な状態と言えるでしょう。
さらに姿勢を作ろうとすることは、相手に簡単に押し返されてしまいます。
姿勢を作ろうとするものではなく、あるがままに重心はまっすぐ下方に落とし、どのようにでも対応できる体の状態を求めることが大切で、それが正しい構えを生み出します。
姿勢を作ってしまえば、そこは動けない隙になってしまいます。
(3)手順(形)
諫めなければならないのは、「いち、にい、さん」などのように、手順に順番をつけ、リズムをとるかの如く、手順(形)を考え動いてしまうこと、また、相手の手首を、このように取り、相手の体を制する方向や、床に相手を倒した位置など、マニュアルのように動くことです。
いつも同じ相手と対するわけではなく、腕の長さ、身長や体格など千差万別です。
見た目、華麗に動いたつもりや極まってもいないのに極めたようなつもりになってしまい正しい形からは程遠く自己満足の力技になってはだめなのです。
最後の極めが、それまでの動きと途切れ別物になったりすることなく、正しい一連の動きは最初から最後まで途切れることなく極めているもので、ゆっくりとした動きであっても自然な動きであればあるほどの隙のない動きとなります。
 動きを区切って細部に囚われると本質を見失ってしまいます。
(4)目付
「目付け」はただ相手を睨みつけることではなく、自分の目線を受け(相手)の何処に置くか、「道標」のなかでは「目は相手の目に付けます。目には心の全てが表れるものです。」と明確に述べられています。
単に相手の目を見るだけではなく、相手の目を中心に相手の動きの全てと相手の心の動きを読むことの大切さが示されています。
目の前の相手の突いて来る拳に目を奪われ、拳にのみ目を付けてしまっては、相手に遅れをとり対応することはできません。
相手の拳を体を捌き返に取るにせよ、拳の出を抑えるにせよ、視覚的な事象面のみの動きではなく、その裏にある心の働きを感じる相手の心を読む自分の心眼によっておこなわれなければなりません。
薄幸の詩人金子みすゞの詩に『上の雪 さむかろな つめたい月がさしていて。したの雪 重かろな 何百人ものせてゐて。中の雪さみしかろな。空も地面もみえないで。』というものがあります。中の雪など誰にも見えない。しかし、それを思いやる心が大切です。
仏教に「達観の眼」という言葉がありますが、深くものを見る、肉眼で見るのでなく心の眼で見るという事で、詩はその精神を詠っています。
目付とは心眼を磨いていくことといえるでしょう。
(5)気迫・気合(発声)
気迫は、相手に働きかける力強い精神力で「気迫のこもった試合」といった積極的姿勢として使われますが、むしろ自らの内に発現して相手を諫める心の力のように思います。
また、渋川一流柔術では形の最後にかける「エイッ」という気合は、形の一連の流れとは別ものとして流れが止まった後にかけるものではなく、気勢が充実した結果としての気合であり、常に流れと一体です。
(6)間と間合
武道の『間合』は、相手が一歩踏み出さなければこちらに届かぬ距離を保ち、相手の心の動きをとらえることが出来たならば相手の動きに容易に対処することが出来る距離といわれます。
澁川一流柔術の稽古では、受けの仕掛けがあらかじめ約束された状態で行いますが、受けの仕掛けに合わせて動いてしまうパターン化された動きではなく、受けのどのような仕掛けにも無意識に対応できる適切な『間合』が大切です。
相手の仕掛けを起こそうという心の動きを読み、その動きを抑え、相手がどのような行動に出ても臨機応変な対応がとれる、そのための正しい間合いです。
(7)呼吸
正しい呼吸は、体幹と手足が全体として調和した動きを生み出します。
そして、すばやく動く、強くかけるといった間違った道ではなく、速さ、強さは動きの結果であって、ゆっくりとは自分の体の状態が認識できる速さが大切です。
調和の取れた動きを生むのは腹筋に力を入れて腹を引っ込めないこと、肚で呼吸ができていることです。
しかし、胸で呼吸をすれば上半身は浮き上がり、正しい姿勢は崩れてしまいます。
(8)残心
残心というと、技を掛けて相手と離れる際、相手を睨みつける目付と勘違いする場合がありますが、残心は、隙がなくいつでも相手に対応できるということに他なりません。
 相手から離れるという動きは、安心して相手からぱっと離れてしまうと、離れるという意識が隙を生んでしまいます。
あくまでも相手を抑える事が主となります。
残心とは相手を制した後にも油断せず、心も体も広くのびやかに自由に働ける状態にあることです。
(9)肚
澁川一流柔術には、相手を崩し、固める業が多くありますが、腕力で相手を押さえつけてはいけません。
押さえつけようという意識は下半身よりも上半身が強くなり、自分の重さではなく腕力のみで押さえつける動きになってしまいます。
動きの源は、「臍下丹田に力を込める」ということですが、これも勘違いして、腹筋に力を入れて腹を引っ込めてしまえば、下腹を力ませ、下半身を固め、自在な動きとはなりません。
大切なのは、臍下丹田の工夫ですが、下腹の腹圧は高め、相手を自分の臍下に納めて、相手を自分の身の内でコントロールすることです。
不必要な腕力を用いる必要はなく、自分の重さを利しているので相手を抑えるのに腕力を用いる必要はなくなります。
とても難しいことですが、大切なことです。
(10)無理無駄
体の力みが無理無駄を生みます。
したがって、まず体の力みを無くすこと、体の力みがなくなれば、体のそれぞれの部分はおさまるべき所におさまり、落ち着くべきところに落ち着きます。
「早く。強く。」という思いが先に立つと、体は力み無理な動きが生まれてきます。
臍下丹田により、体が自然に導かれる意識、自分の心を常に見つめ直すことが大切です。

3 おわりに
以上のように、修行への取組として、「貫汪館段位審査規定『昇段審査実技審査項目および審査基準』のなかの審査項目」に従って考えてきましたが、「これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないこと」を考えるに、もっとも重要なのは、臍下丹田を中心とした調和の取れた動きではないでしょうか。
心を臍下丹田に沈めて動く。
自分の身体だけを動かす時には出来る動きが、相手がいることで、速く業を掛けよう、極めようという思いが先にたち、身体の調和を自らが乱し、小手先で業を掛けてしまう。
帰するところ自分の心がそうさせるのであり、稽古に対する心掛けにが悪いといえるでしょう。 
出来なくて当たり前、静かにゆっくり調和を乱すことなく稽古していくことが大事です。
結果として、やがて業が身につき、意識しなくとも有効な動きが生まれてきます。
稽古に「我」を交えることなく静かにゆっくり体の調和を乱すことなく稽古を続け、常に自分の稽古に対する取り組み方を見つめなおしていかなければなりません。
以上

参考:貫汪館ホームページ「道標」

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  1. 2016/12/18(日) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

大石神影流昇段審査論文

武道における礼と大石神影流剣術における礼法

1.武道における礼
 一般的に武道は「礼に始まり礼に終わる」と言われますが、貫汪館で武道を学ぶまで「礼」というものを稽古の初めと終わりに行う単なる形式的なものと考えていました。それまで武道というものにほとんど触れたことがなかったため、礼というと学校教育で教えられる「起立・気を付け・礼」という号令によって行う礼のイメージがあり、武道における礼もそれと同様のものと考えていたように思います。
 昇段審査を受けるにあたり武道における礼とはどのような意味があるのか、学んだことを述べたいと思います。

 「礼」という言葉・思想は古来、中国から導入されてきたものですが、中国の哲学的思考が日本ではより実践的な行動規範として取り入れられてきました。
 新渡戸稲造の『武士道』では「礼」とは「他を思いやる心が外へ表れたものでなければならない」「それはまた、物事の道理を正当に尊重することであり、それゆえに社会的な地位を当然のこととして尊重する意味も含まれている」また「礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく」と述べられています。
 また小笠原清忠の『武道の礼法』には「例えば先生に対して稽古を求めるのであれば、稽古の中に、その先生に対する礼というものが常にあって、全身全霊でぶつかっていき、そして稽古の最後には、心から「ありがとうございました」という挨拶ができる、そのような稽古でなくてはならないのです。」また「なぜお辞儀をするのか、その意味である”気持ち”が先に立つことが大切です。」とあります。
 礼法とは形式ばった堅苦しいものと考えがちですが、ただ形式を押し付けるだけでは意味がありません。相手を思いやり、敬意を払う心からの礼の気持ちがあり、それを表現する手段として礼法があるということです。

 武道で行われる礼法には神前への礼や刀への礼、お互いの礼などそれぞれの場面で用いられる礼法があります。
 上述した「武道の礼法」には「礼とは「時・所・相手」に応じて臨機応変に正しい生活態度として、現れるべきものでありますが、このためには、正しい生活態度とはどういうものかをわきまえていてこそ、社会生活に当たっても正しく臨機応変に行動することができるものなのです。」と述べられています。
 目上の人に対する礼と、同輩への礼が同じであってはいけないように、礼法とは相手との関係性によって変化するものでなくてはなりません。そのため、その場の状況や相手との距離感、間について常に考える必要があります。自分と周囲に対して気を配り、広い視野をもって行動することが求められているのです。これはそのまま武道の技の稽古にもつながるものだと考えられます。

 このように武道における礼とは心を表現する手段として用いられ、「時・所・相手」に応じた正しい礼法を身に着けることにより、「心」と「体」の両方を修めることを目的としていることが分かります。

2.大石神影流剣術における礼法
 貫汪館では3つの流派を稽古していますが、流派によって礼法が異なることも興味深いことです。
 大石神影流剣術の神前への礼は片足を着いた折敷の礼ですが、これは当時の稽古が神社の境内などの屋外で行われていたことに由来するそうです。

 右膝を着き左足を立て、両手を軽く握って地面につけて礼をします。このとき注意する点として『道標』の記述を抜粋します。
「左右鼠蹊部は十分に緩んでおく必要があります。またお尻の力みも無くさなければなりません。」
「大石神影流剣術では礼法は簡素なものであるため、それほど時間を掛けて稽古することはありませんが、神前に折り敷いて礼をする動きは簡単なようですが余程稽古せねば出来るようにはなりません。私はいまだに苦労していますが、この礼が正しくできるようになれば、立姿勢での下半身の緩みはできるようになるはずです。」
 大石神影流の武術では下半身が緩んでいることが非常に重要です。天から頭頂部を通り、両足の間から地中に向かう重力の流れを感じます。礼をするときは鼠蹊部が緩むことによって前傾し、前後の立ち姿勢においてもどこにも力みがない状態でなければなりません。このように礼法を稽古することによって流派の基本姿勢を習得できるように導かれていることが分かります。

 神前での作法について『道標』には「神座に向かって刀を振らない、抜き付けない。このような当然の作法を忘れてしまうのは神座に神を感じる心を持たないからだと思います。たとへば、そこに神話の絵に出てくるような神がおられたとするならば決して神に向かって斬りつけることも抜き付けることもないでしょう。」と述べられています。
 神前への礼をするときも礼をする対象である神の存在を強くイメージする必要があります。そこに神がおられるということを感じなければ、形だけの心のこもっていない礼となってしまいます。
 また神前の礼をしたのち、お互いに礼をして形の稽古に移ります。そのため稽古を行っているときも神前であるということを忘れないようにしなければなりません。

 貫汪館の武道は「肚から動くこと」を重要視していますが、礼法の動作も当然肚を起点とした動作でなければなりません。私自身この肚から動くということは非常に難しいと感じていますが、「肚からの動き」と「考えて動いた時」の動作の違いは少しずつ分かるようになってきたように思います。礼をするときも頭を下げなければと考えると、頭だけを丸めた姿勢となり、また立つことを考えて立ち上がろうとすると脚に力が入ります。頭でこうしよう、ああしようと考えて動こうとするとその部分が動きの起点となり力みが生じるのです。
 礼の「形」を目指して動くのではなく、肚から動いた結果として「形」が表れているということが重要だといえます。

 『道標』には「体が整わない原因のほとんどが心にあります。」「速く動こう、強く動こう、力を込めよう、こうしよう、ああしようと思えば思うだけ体の動きは乱れていきます。心に波風を立てていては体もまた整うことはありません。業の上での「無念無想」を求めるしかないのですが、無雙神傳英信流抜刀兵法であれば礼法の間に、大石神影流剣術であれば神前での礼の間に、澁川一流柔術であれば礼式の間に静かに心を整えて、そのまま形の稽古に入って我欲を出さずに動いてください。」とあります。
 礼法は頭で考えて動いていないか確認するチェックポイントでもあります。礼法を行うことで自らの心を整え、稽古でも常に肚から動くということに注意しなければなりません。

3.終わりに
 貫汪館のホームページ『貫汪館について』には稽古の指針としてこのように記述されています。
「古武道における「礼」は形式的なものではなく、相手の立場を尊重し人と人との調和のある関係を尊ぶ心から生まれるものです。「礼」がなければ調和はなくなり、有形無形の争いに至りますが、争いに至らないために稽古するのが貫汪館の古武道です。」

 武道を学ぶにあたり「礼」を失すれば、それはただの殺人術となってしまいます。相手の立場を尊重し周囲との調和を求めることで、争いを未然に防ぐということは、もっとも基本的で、もっとも重要な「技」だと思います。
 貫汪館に入門して、ちょうど一年になりますが、稽古をすればするほどその奥深さを知り、同時に自分の至らなさを実感しますが、これからも礼の心を忘れず稽古に励みたいと思います。

【参考文献】
1) 森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
2) 森本邦生:道標
3) 新渡戸稲造(著) 岬龍一郎(訳):武士道 PHP研究所 電子書籍版 2005年
4) 小笠原清忠:武道の礼法 財団法人日本武道館 初版第8版 2015年

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  1. 2016/12/19(月) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

大石神影流昇段審査論文

武道における礼と大石神影流における礼法について

1.概要
日本では過去から現在において、礼や礼法は重要視されてきた。本論文は武道の礼と、大石神影流の礼法についての考察を目的とする。
まず本論文の概略を説明する。はじめに礼とは何かを再確認するために一般的な礼法として、普段行われている挨拶をもとに礼法の本質とは何かについて考察する。次に武道一般における礼および礼法について述べる。そして最後に大石神影流を中心に、貫汪館での武道における礼法について考察する。

2.一般における礼と礼法について
現在、世界各地においてそれぞれ特有の礼法が存在するが、その中でも特に挨拶について注目してみる。
我が国日本においては腰から上体を曲げ、頭を下げるいわゆる「おじぎ」が最も一般的な挨拶であると言えるであろう。おじぎには立って行う「立礼」と座って行う「座礼」があり、また角度や細かな作法によっていくつかの種類に分けられる。
また欧米においては手と手をにぎり合う「握手」が一般的な挨拶と言える。さらに地域や世代、性別、相手との関係性によっては握手の他に抱き合ったり、ほおにキスを行ったりすることもある。日本においても親しい間柄で挨拶として抱き合うこともあるが、欧米ほど一般的には行われていない。その他挨拶の方法として変わった例としては、ニュージーランドのマオリ族はお互いの鼻を合わすのが挨拶であるという。
このように地域によってその土地独自の礼法(挨拶)が存在するが、それ以外に時代や職業によっても特有の礼法(挨拶)が存在する例がある。
たとえば魏志倭人伝の中で、倭人の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」という一文が見られる。筆者は漢文の専門家ではないため誤解が存在するかもしれないが、この一文は「身分の高い人に敬意を表すときは、手を打つことで跪き拝むことに代える」と訳しても間違っていないであろう。すなわち、古代の日本人は現在神社で行われるような拍手を人間に対しても行い、それが脆拝に代わるような礼法であったということがうかがえる。
また、現代の軍隊や警察など一部職業において、右手を額の高さに掲げる「敬礼」と呼ばれる礼法が行なわれている。
このように地域や時代によってさまざまな様式が存在するが、それら全てが「礼法」あるいは「挨拶」として一括されている。ではこれらさまざまな様式を一括して扱えるような、共通する要素とは何であろうか。それは相手に友好的であると伝える手段であるということであろう。すなわち、相手に対し無防備、非武装であることを示すことで、敵ではないことを伝える手段であるということである。たとえばおじぎは首を相手に差し出すことで無防備さを、握手は相手に利き手を預けることで無防備さと非武装を表すのである。また古代日本で行われた拍手は、手を打ち鳴らすことで手に何も持っていないことを表したという説もある。
さらに敬礼は、元々は兜の目の保護具をずらし顔見せる動作であったという。これも自らの身分を明かし、敵ではないことを表す動作であると言える。
したがって、礼法とは根源的には相手に対し敵ではないことを示し、友好的な関係を築くための作法であったと考えられる。

3.武道における礼法
武道は礼に始まり礼に終わると言われるように、一般に武道は礼を重視すると思われている。実際に剣道や柔道、弓道など各武道では礼法を重視し、試合においては非礼な行いをした場合ペナルティを与えられることもあるという。しかし改めてよく考えてみると、礼と武道とは一見して関連がないようにも思える。礼とは第2項で述べたように、もともとは敵ではないことを示す作法であったと考えられるが、武道とはそもそも戦いの技術であり、敵対している相手に対する技術であると言える。ではなぜ武道において礼が重視されるのであろうか。ここでは筆者の考える、武道において礼を重視する意義を述べていく。
第一に、仮に武道を学ぶことで素晴らしい技術が身につくとしても、そこに礼がなければただの暴力に成り下がるということがあげられる。
武道を身につけることは武道を学んでいない人より強くなるということであり、ともすればそういった人の脅威になる危険性をはらんでいる。他人より力があるからといって傍若無人に振る舞うのは他人と協力し社会生活を営む人間として忌避すべきことであり、そのように導く武道が存在するとしたら、それは淘汰されるべきであると筆者は考える。したがって、戦いの技術を身につけることが目的の一つである武道を学ぶ者は、その責務として礼も学ぶ必要があるのではないだろうか。
次に、礼とは武道の観点から見ると大変合理的な手段であると考えられる。
上で筆者は武道を戦いの技術と書いたが、自分から積極的に相手と戦うように教える武道は少ないのではないだろうか。弓道などの特殊な武道は別にして、多くの武道はいたずらに争いを起こすのではなく、争いが起こってしまったとき、その争いをいかに安全に終わらせるかを教えていると筆者は考える。
さてこのような観点から武道を捉えると、そもそも争いを起こさないことが最も理想的であると言える。実際に難波一捕流の掟には「夏は日方冬は日隠を通候心得にて万端相慎み候事」とあり、争いを起こすことを避けるよう教えている。また貫汪館に伝わっている澁川一流には、攻撃してきた相手を押し返すのみの「礼式」があるが、これは相手と争わないという澁川一流の理念を表すものである。その他の流派においても争いを避け、争いを起こさないような教えが残されている。剣道や柔道といった現代武道は古武道を下敷きに発生したものであるので、現代武道も古武道と同様に争いを起こさないことを重視しているであろう。
第2項で述べたように、礼法とは相手と敵対せず友好的な関係を築くための作法である。礼を尽くすことにより相手と敵対しないことで争いを避けることは最も安全に争いを収める手段であり、武道の観点からみると大変合理的であると言える。
次に、武道の技と礼法とは本質的に共通しているという点が考えられる。
戦闘の場においては、間合いをはかり自分に有利で相手が嫌な場所に身を置き、相手の動きや心を読むことが大事であるが、これらは外に現れる形は違っても礼法に共通する。相手との間合いをはかることはそのまま相手との失礼ではない距離感をはかり、双方にとって心地よい場所に身を置くことにつながり、相手の動きや心を読むことはそのまま相手が何をして欲しいか読み、先回りして礼を尽くすことにつながる。
したがって、礼法において何かできないことがあるとすれば、それは同時に戦いの場においても技に不足があるということであり、日常において礼を尽くすということは、武道の稽古を行っているのと同じであると言える。
また、古武道においてはその流派が稽古されていた時代、地域の作法を残しているという点で貴重な意義が存在する。
その他まだまだ武道において礼を重視する意義や理由は存在するとは考えられるが、本論文においては主にこの四つについて注目した。

4.貫汪館の流派、特に大石神影流から見た礼と礼法について
ここまで広い意味で礼と礼法について見てきたが、ここでは主に大石神影流を中心として、貫汪館における礼と礼法について考察していく。
一般に古武道の礼法としてイメージされるものとは違い、大石神影流には正座での礼が存在しない。これは大石神影流が神社の境内などの屋外で稽古されていたことに由来する。また上覧の際にも庭先で演武を行ったため、神前や上座に対する礼は右足を引き、右膝を下ろし左膝を前に向ける折敷の礼となる。これも大石神影流が生み出された当時の状況を表すものとして大変興味深いものであるし、古武道の礼とは必ず正座をして行うものだというように、先入観を持つことは危険であるということも示している。
また大石神影流流祖、初代大石進が長沼無双右衛門と試合を行った際、大石進の突きの激しさと当時の面の不完全さから、大石進の突きによって長沼の眼球は抉り出されてしまった。しかし、その後長沼は大石進に入門している。自分の眼球を潰した相手を恨むことなく逆に入門したという事実は、大石進の技の素晴らしさとともに、その人格の素晴らしさをも表しており、その逸話から、試合相手といえども大石進は礼を尽くしたであろうことが推察される。そこで大石神影流を学ぶ我々は、流祖の思いを受け継ぎ、同様に他者を敬い、礼を尽くさなければならないと考える。
また第3項において、礼法と武道の技は本質的に共通していると述べたが、貫汪館においては動作そのものの本質も共通している。つまり、普段構えや手数などを稽古する際の注意点と全く同じことに注意する必要がある。例えば立つときや立ち上がるときには鼠蹊部や脚に力を入れないこと。膝を下ろすときは脚の力で曲げるのではなく、緩むことにより重力にしたがって降りていくこと。礼をするときは鼠蹊部やお尻に力が入らず、肚を中心に動くことなどである。
手数の稽古では相手がつくため未熟な身では相手につられて心や動きが乱れてしまうが、礼法では心が落ち着きやすく、その分自分に向き合うことが比較的簡単だと言える。したがって、特に初心の段階には礼法の稽古を十分につむことが重要である。
さらに貫汪館の稽古では、手数の手順を追わず、我や作為を無くし、相手と調和し、無理無駄がなくその場の状況に合わせて自然に生まれる心や体の動きを求めることを大切にしている。したがって、礼法においても同様のことを大切にしなければならない。いくら折り目正しく礼法の作法を行ったとしても、そこに心がこもっていなければ本当に礼儀正しいとは言えないのではないだろうか。あるいは、外国人のように違う文化圏から来た人に対し、相手に歩み寄るのではなく自分にとって正しい礼法を貫くのは相手に敬意を持っているとは言えないのではないだろうか。本当の礼とは、多少作法にのっとっていないとしてもその場の状況や相手に合わせたもので、また頭を下げようと思って下げるのではなく心がこもり、自然に頭が下がるようなものではないかと考える。そして貫汪館で古武道を学ぶ身としては、そのように礼ができるような心を求めていく必要があると痛感している。

5.まとめ
以上、さまざまな観点から礼や礼法について見てきたが、礼や礼法とは武道において大切なものであって、特に貫汪館の門人にとっては技に直結する大変重要なものであることがわかった。
貫汪館で学ぶ古武道は、一部の現代武道のように日常から切り離された試合の場を目的に行うものではなく、日常生活の延長線上にあるものである。したがって、日常生活の中で存在する礼は満足にできなければならない。貫汪館で古武道を学ぶ者として、礼法の本質を求めこれからも精進していきたいと思う。

参考文献
1)小笠原清忠:武道の礼法 財団法人日本武道館 初版第1版 2010年
2)森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
3)森本邦生:道標

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  1. 2016/12/20(火) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

心が邪魔をする

 打とう、突こう、斬ろう、抜こう、投げよう、抑えよう、このような思いが、心と体の調和を乱してしまいます。
 しかし、初心者の方にはそのような思いを強く持つことが上達に繋がるのだと心得違いをしてしまう方もおられます。それは体の力みを力強さと勘違いしているのと同じことで意味がないばかりか上達を阻害してしまいます。
 打てるのも、突けるのも、斬れるのも、抜けるのも、投げられるのも、抑えられるのも、総ては正しく動いた結果であり、無理無駄のない動きが、そういう結果を導き出しているのです。
 技の上での無念無想を求めてください。

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  1. 2016/12/21(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

 素抜き抜刀術ばかりを稽古してきた方は、自分一人の動きの工夫は稽古していても、対人関係の中での稽古は苦手のようです。 
 相手があればその都度その都度に相手の動きに応じて自分の位置やタイミングなどは異なってきますが、一人稽古ばかりして、自分にとって都合の良い動きばかりしていると、対人関係においてもそれを行い、まったく形にならないのです。
 人が変わろうが、タイミングが変わろうが自分にとって都合の良い動きをしてしまいます。これも「我」の一種です。自分を顧みてください。

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  1. 2016/12/22(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

つま先の開き

 大石神影流剣術では現代剣道のように両つま先を前に向けることはせず、体の開きと同じように後足の先は開きます。
 稽古されている初心者の方を見ていて気になるのは、体はこれまでの癖で正対しようとしているのに、無理やり後足のつま先を開いていることです。膝は前を向こうとしているのにつま先を無理やり開いているので膝をひねった状態になっているのです。
 鼠径部を緩め体が半身になっていたら、それに伴って膝は開きつま先も開きます。自分の膝に無理がないかどうか確認してください。

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  1. 2016/12/23(金) 21:25:00|
  2. 剣術 業

附け

 大石神影流の「附け」の構えは突くことを前提とした構えです。したがって「附け」の構えが本物になるためには実際に突く稽古をしなければなりません。
 手数の中では「附け」の構えから突くことはありませんが、それは変化を教えているのです。実際に突けるようにもなっていないのに、自分の「附け」の構えについて論じるのは空想でものを言っているに等しい状態です。大石進種次先生のように毬や小石を吊るして稽古しても良いですし、植木があればその葉を突いて稽古することもできますし、地面に細竹を立てて突く稽古をすることもできます。
 「附け」の構えは大石神影流の特徴の一つですから疎かにすることはできません。

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  1. 2016/12/24(土) 21:25:00|
  2. 剣術 総論

形数

 貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術の三つの流派を稽古しています。形数は無雙神傳英信流抜刀兵法が約80、澁川一流柔術が約400、大石神影流剣術が約80です。
 3つの流派を稽古しているのですから、これは決して多いわけではありません。以前、土佐の片岡健吉の修行について記しましたが江戸時代の武士の稽古から見れば普通であるといえます。ましてや、これ以外に馬術、弓術、水術などを修行している武士も多いのですから貫汪館で習う形数はその当時に比べればむしろ少ないとも言えます。
 稽古される方の中に形数を誇りに思ったり、形の多さが重荷になることがないよう努めてください。

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  1. 2016/12/25(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

朱に交われば

 人は得てして楽な方に流れます。自分よりも優れた方のお話を聞いたり、お付き合い願ったりするのは堅苦しく、息が詰まることかもしれません。したがって、気が楽である、楽しい、といった人とだけ付き合いたいという思いも生じてきます。
 しかし、気楽に付き合える人とだけ交わっていれば、自分の向上はありませんし、ましてやより気楽に自分よりも下の者とだけ付き合っていたら向上どころではありません。
 自分がどのような思いで稽古しているのかにもよりますが、せっかくのことなら向上できる道を歩んでください。

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  1. 2016/12/26(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達したければ

 上達したければ、一度指導を受けたことは徹底的に会得できるまで稽古しなければなりません。指導者は全体を見通したうえで今何をするのが向上に結び付くかを考えたうえで指導します。それほどの指導を安易に受け止めていたら向上はありません。
 一度聞いて、それを自分なりにしたらそれでよいと考える方が上達するはずもなく、自分のやりたいように稽古するのであれば、指導を受けに来る意味もありません。
 一度指導を受けたことは「よし」と言われるまで工夫に工夫を重ねてください。

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  1. 2016/12/27(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

悪癖を正す

 ダメな動きを正すことなく何度も何度も繰り返していると、それは癖となって身についてしまいます。
 悪癖を正すためには徹底的に自分を疑うしかなく、直ったと思っても何度も何度も自分を疑ってあらさがしをしなければなりません。一度身に付いた悪癖は身につけるのにかかった2倍の時間をかけて直すしかありません。これは他のスポーツや武道で身についてしまった癖が貫汪館の武道の稽古に出るのを直すにも同じことが言えます。
 常に自分を疑い、自分の悪癖と戦ってください。

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  1. 2016/12/28(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

求め続ける

 初心の内は指導されたことができているかどうかを自分で判断してはなりません。右も左もわからない、人の動きも見えない、ましてや自分自身の動きも見えないのが初心者です。その初心者が自分の善し悪しを判断できることはないのです。
 自分で判断できたとしても、それは指導を受けたことができたのではなく、自分が指導されたと勝手に思っている内容を自分の価値判断でできたと思っているにすぎないのです。
 師から「それでよし。」と言われるまでは求め続けなければなりません。

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  1. 2016/12/29(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

気は世を蓋う

 形にばかりとらわれる方は、自分の内に閉じこもり、相手に何も届くものはありません。力抜山兮気蓋世(力は山を抜き気は世を蓋う)は垓下の歌の一節ですが、初心者の方は後半の気は世を蓋う状態を求めねば自分自身の天地との調和もありませんし、稽古を通じての相手との調和もありません。
 気は呼吸と共にあります。深い丹田呼吸によって気は現れ、自分の周囲を覆います。貫汪館の皆さんには初心の内から呼吸法を教えしています。疎かにせず稽古を重ねてください。

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  1. 2016/12/30(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

顧みる

 年末には1年間を顧みて、こうした方がよかったと思うことが多くでてきます。それを次の年に活かせるか活かせないかは、どのくらい深くそれを考えて、どのような対策を立てるかによります。
 思っても動かなければ何も生まれず、思いが浅いのに動いてしまっては異なった方向に行ってしまいます。
 どのような方向に進んでいけるのかは自分次第です。

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  1. 2016/12/31(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができないので貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。よろしくお願いします。

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