手順を覚え、一通りできるようになれば形、手数は一つのグループは区切らずに続けて遣い稽古します。
大石神影流であれば「試合口」5本、「陽之表」10本、「陽之裏」10本を各5本10本は途中で区切ることなく初めから終わりまで続けて使います。無雙神傳英信流であれば大森流は初発刀から抜打まで、英信流表は横雲から抜打までを続けて遣います。澁川一流は形数が多く難しいところもありますが可能な限り履形は最初から最後まで、半棒のように形数が少ないものは当然、立会から千拂までを途中で区切ることなく順番を変えることなく続けて稽古します。
そのような稽古をしていれば、その理由もおのずからわかってきます。
- 2017/11/01(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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現代の学校教育を通じて、わからなければ何度でも教えてもらえるという考え方が身に付いていると思います。
しかし、古武道の世界では必ずしもそうではないという事はこれまでに何度か述べてきました。次があると思うから今現在の教えに100%集中することができません。わからなければ、また教えてもらえばよいと思っていたら、その場で身に付くはずのものも、身に付かなくなってしまいます。教えていただくときには、今この時しか教えていただくことはできないのだという覚悟をもって稽古に臨むだけで習得はずっと早くなります。
- 2017/11/02(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日は一度限りという覚悟を持って稽古に臨むべきだという事について記しましたが、もし、不明な点があれば何がわからないのかしっかり稽古をしたうえで、師に訊ねることは許されることですので記しておきます。
教えられたことを自分で自分のものにする努力をすることなしに漠然と質問しても、得るものはありません。そのようなときには教えられたことを受け取っていない場合が多く、何がわかっていないのかもわかっていないからです。教えられたことをしっかりと自分のものにする努力をしたうえで不明なところ、あるいは会得できたと思う事が正しいかどうかを質問するのであれば上達していきます。
- 2017/11/03(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館では7段までの段位制も採用していますが、6段以上を受審しようとする方は支部を持ち、支部長としてその支部の指導をしていることを条件としています。
これはいつまでも師の道場にいて責任を持たぬまま兄弟子として後進を指導していれば必ず心にゆるみが出て、いい加減な指導になり自分の地位に安住するようになるからです。更に悪い場合には後進が伸びてきた場合には自分の地位が脅かされるために保身に走り、できたように見せる動きをするようになり上達から遠ざかっていく場合もあるからです。
自分で支部を運営していこうとすれば、責任を持たねばならず、そのような気のゆるみが起きにくくなります。
- 2017/11/04(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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幕末には剣術の稽古道具も自作する方が多かったようです。記録を見ても、竹刀はもちろんのこと、面も面鉄は鍛冶屋さんに作ってもらっても、面布団などは自作して面鉄と縫い合わせています。籠手も自作する人があったようです。木刀や六尺棒なども明治になっても手削りのものが多く、同じ流派内で使っているものであっても、機械で作るわけではありませんので、若干の誤差があります。
現在はそのような時間的な余裕もありませんので、武道具屋で購入することになりますが、大石神影流の稽古に用いる鞘は塩ビパイプか、その他のもので自作しなければなりません。また柔術の稽古に用いる懐剣は、使用してささくれ立ってしまった木刀から作ることができますし、破損した部分によっては小太刀も作ることができます。破損した六尺棒から三尺棒や互棒、小棒も作ることが可能ですので、試みてください。
- 2017/11/05(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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江戸時代の随筆にはよく殺傷事件について記述されています。
よくあるのが手を切り落とされたという記述ですが、脇差や刀で斬りかかられた時に、自分をかばおうとして手をあげてしまい、その手を切り落とされてしまうようです。相手が冷静でない状態で間合いが遠い場合、手をあげなければ手を切り落とされることもなく、体も傷付けられることはなかったのだと思います。
- 2017/11/06(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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演武に臨むときには実際に演武しているとき以外の動きが大切です。
待っているときに、イライラ、そわそわして体を揺らしていたり、演武場に入るときに隙だらけでスタスタと靴を履いているときのような歩き方をしたり、視線が定まらなかったりしていたら、いくら演武に間違いがなかったとしても、それだけのことで稽古をしっかり積んでおらず、不安なのだという事がわかってしまいます。
そのようにならないためにも、これだけ稽古したと思えるほどの稽古は重ねてください。
- 2017/11/07(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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全くの初心者の方は形・手数の手順を覚えるのが精一杯ですから、「こう来たら、次はこう。こう動いた次は・・・。」と考えてしまうのもやむを得ないと思います。
しかし、数回道場で稽古したら、そのような途切れ途切れの動きをしてはなりません。武道の形稽古としては何の意味もないからです。武道における形稽古はどのような状況にも応じられるようになるための稽古でなくてはなりません。区切ってこれを行うのはパターンを覚えているだけでどのような状況にも応じられる稽古にはなっていないのです。
相手がどのように動くかわからないことを前提とした手数・形の稽古でなければなりません。
- 2017/11/08(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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『真佐喜のかつら』という嘉永末年頃と推定される随筆に下記のようなことが載っていました。
細川越中守の家臣永岡某という武士が小田原で宿泊したのこと。夕膳を終えたのちにその家の小女が「永岡殿は女の手で育った。」というのを伝え聞き、その小女を呼びわけを尋ねた。小女は「湯を飲まれた後、二度、箸の先をなめられたため。」と答えた。
そこで永岡某は、身分は低いけれども観察力が優れていることに気付き、その小女の親にしらせて江戸に連れて行き、細川侯の大奥に仕えさせたところ諸事利発で上の御心にかない、後には両親も豊かに暮らした。
私たちの稽古している武道でも、ちょっとした仕草で、その癖を読みとられるのかもしれません。
- 2017/11/09(木) 21:25:00|
- 武道史
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『真佐喜のかつら』という嘉永末年頃と推定される随筆に武道とは全く関係ありませんが、下記のようなことが載っていました。
武家町屋に限らず、構えの外へ鳥居の形を書き、往来の人が粗相をするのを防ぐことがあり、はなはだしきは神の御名などを書いている。それさえ恐れずに粗相をする者があり、獣に類する行いである。また、鳥居を描いたり神の御名を記す者はかえって神罰を恐れるべきではなかろうか。
最近の風習かと思いましたが江戸時代からある事とは知りませんでした。
- 2017/11/10(金) 21:25:00|
- 武道史
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『真佐喜のかつら』という嘉永末年頃と推定される随筆にそのころの盗賊について下記のように記してありました。「鬼平犯科帳」よりもひどい話かもしれません。真実かどうかはわかりません。
下総国香取郡萬歳村出身の元力士清力佐助は強盗となり多くの手下を従え、手下は鉄砲・弓矢・槍・刀を携行していた。富家へ押し入り金銀を奪っていたけれども盗賊の人数は多く武器を携行しているため、なかなか捕まえることはできなかった。ついに関東取締出役、両町奉行与力同心、加役方役人、堀田侯、その他の諸侯へも申付けられた。盗賊は強力なので追廻し、取り囲み、ただ、遠巻にしていたところ、嘉永2年4月28日に清力佐助は自殺した。
広島藩では農村地帯で武術の稽古をするのをソフトに禁止していますが、城下の役人では農村地帯の取り締まりに手が回らなくなり、やがて公認し、農民を使って農兵隊を作り治安維持に当たらせています。
- 2017/11/11(土) 21:25:00|
- 武道史
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元明元年から嘉永6年にかけて記された「きゝのまにまに」という随筆の記述です。この随筆には羽織の形の時代による流行などのファッションに関することも記されています。
関税三年4月に安房国恵美村西山というところで山崩れが起こった。山崩れの2.3日前におびただしく鳴動があったので、変があることを事前に知り財を運び牛馬を放ったので害はなかった。
崩れる前には鳴動があるのかもしれません。気を付けなければなりません。
- 2017/11/12(日) 21:25:00|
- 武道史
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『事々録』という天保2年から嘉永2年にわたる19年間の風聞雑話を集めたものに、武道に関することではありませんが、渋川伴五郎の逸事が載っています。
詳しく述べればきりがないので省略しますが仙石騒動と言われるお家騒動に絡み、権力を握っていた仙石左京一派から、その反対派であった神谷転を逃すために渋川伴五郎が尽力して寺に頼み込んで虚無僧にしたというものです。師弟関係にあったかどうかはわかりませんが、当時の道場経営者は、武道の指導以外のこともしなければならなかったのだとわかります。
仙石騒動についてはインターネットで調べれば詳しく出てきますのでお調べください。
- 2017/11/13(月) 21:25:00|
- 武道史
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『事々録』に載る武術の師千葉某の逸事です。弘化三年の出来事ですから、千葉周作か千葉定吉のことでしょうか。
吉原の門前を門人が通ったところ、忘八に引き留められたけれども持ち金がないので明日来るといった。ところが忘八が笑ったので腹立たしく、翌日4.5人で面と小手をつけ腰には稽古の太刀(竹刀)を帯びて遊郭にやってきた。二階へ上がったところ遊女も恐れて相手ができず、早く返そうと茶菓子を出したが、帰らずその後十人余り同じような格好でやってきて、二階で剣術の稽古を始めて数国して帰った。またその時、茶りぃうも老いていった。
後千葉某は奉行所に呼び出されたが、遊郭に赴いた弟子の名前をすべて言った。物を壊したでもなく、暴れたわけでもなく、茶代も置き、身分も浪士であるためおとがめはなかった。
千葉某はこのようなことを弟子がするのをあらかじめ知っていたのかもしれません。
- 2017/11/14(火) 21:25:00|
- 武道史
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『事々録』に載る弘化三年の盗賊のお話です。
甲府勝手方小普請 澤甚五左衛門の弟富八郎は盗賊をして江戸へ呼び出され、吟味中に逃走した。高田穴八幡裏手に住み、盗賊をしていたところ、目明しがふと見つけ宵のうちにその家に入り、自分も盗賊で浅草で大きな仕事をするので手伝いがほしいと持ちかけ、まだ早いのでと落語を聞きに入り、あやまって突き当たったふりをして富八郎を押し倒した。示し合わせていた捕り方が折り重なって捕まえたが、突き倒した際、富八郎が目明しの胸を突き、この胸への突きがもとで目明しはなくなってしまった。
柔術の心得があり当てを入れたのでしょうか。
- 2017/11/15(水) 21:25:00|
- 武道史
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『享保通鑑』という書に武術の上覧について載せられています。
享保10年8月12日、御座之間において柳生備前守、柳生播磨守による徳川吉宗への上覧が行われ、柳生備前守は時服五を、柳生播磨守は時服二を授けられた。
同日、御黒書院において小野次郎右衛門、小野助九郎、次郎右衛門門弟の松平半十郎の上覧が行われ、小野次郎右衛門は時服三を、小野助九郎と松平半十郎は時服二を授けられた。
また、同日、同所、鎗術では山本加兵衛、同務兵衛、加兵衛の弟である山名主膳の上覧が行われ、山本加兵衛は時服三を、同務兵衛と山名主膳は時服二を授けられた。
柳生は上覧の場所も違い、授けられた時服の数も違います。別格だったのでしょうか。
- 2017/11/16(木) 21:25:00|
- 武道史
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同じく『享保通鑑』という書に宝蔵院の鎗術の上覧が載っています。
享保10年9月24日、南都宝蔵院が参府したので上覧を仰せつけられ、布衣以上のものは見物した。南都宝蔵院に時服三を、宝蔵院内明宝院には銀三枚が授けられた。
- 2017/11/17(金) 21:25:00|
- 武道史
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同じく『享保通鑑』という書に馬術について載っています。
享保12年5月9日、御目付等が松平左京太夫家来の騎射を下見した。
その内容は20人全員が1かけのうちに馬上で鉄砲を撃ち、次に矢を1本放ち、次に6.7寸周りの青竹を1本または2本斬り馬上で納刀、次に左右に対して2本矢を放つ。
今行われている流鏑馬とは異なっていますが、戦場での武技としての騎射なのでしょう。
- 2017/11/18(土) 21:25:00|
- 武道史
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武術に関することではありません。百井塘雨という方が記した『笈埃随筆』は安永初年から天明末年にかけての諸国遍歴の随筆ですが、この中に芸州広島についての記述があります。
広島の府には家猪が多く、犬のようだ。ということなのです。家に犬を飼うように猪を飼っていたという事です。
「宮島には鹿と猿の二種多し」とも記されています。幕末の廻国修行日記にも猿の存在が記されています。宮島には元々猿がおらず、小豆島から連れてこられたのだと言われていますが、江戸時代にいた猿は一度絶滅したという事なのでしょうか。
- 2017/11/19(日) 21:25:00|
- 武道史
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同じく『笈埃随筆』に記された話です。
享保年間、松平大膳家士に小池仁左衛門という力の強い武士がいて、小田原甲冑氏明珍で冑をもとめた。明珍が出してきた冑を、これでは役に立たないと言って指ではじいたところ、鉄条は反り返り、針は抜けてしまった。
実用しない時代なので、形だけの兜になっていたことも考えられますが指ではじいただけで鉄が曲がったのですから相当な力であったのでしょう。
- 2017/11/20(月) 21:25:00|
- 武道史
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『在臆話記』は、仙台藩士であった岡鹿門による、嘉永5年の昌平黌入学以降の記録でで、この中に以下のような記述があります。
水戸老侯が一刀流第一の千葉を召し抱えようとしたが応じなかったのでその高弟の金子某を召し抱えた。金子は曾澤憩齋の娘婿となった。あるとき、曾澤憩齋と書工の福田半香が拇戦をし、曾澤憩齋が勝ち、「拳は剣と同じで水戸藩に召し抱えられて拳に負けては勝利おぼつかない。」といった。その場にいた金子はそのとき、曾澤憩齋に「藩命名をあげて愚弄するのはただならぬことだ」と憩齋と口論になった。
金子はその時、弟子を連れていたがその弟子がこれを聞いており、師に無礼を働く者を見捨ててはおけぬと曾澤憩齋を視察した。
岡鹿門はこれを「殺気世上の先鞭」と述べています。今でもこのようなことは起こりがちですので、口と筆は慎まなければなりません。
- 2017/11/21(火) 21:25:00|
- 武道史
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岡鹿門の『在臆話記』に武術について次のような記述があります。
安部井茂松の導きで会津の日新館を見た。規模は壮大で大成殿という三字の額がある。左右の房舎は和学、神道、兵学(長沼流)天文、算術、礼容、医学の七科を教える。大成殿は講堂である。堂の後ろに武場を設け弓馬剣槍を教え、中庭に大池を設け遊泳術を教える。
七十歳の老人志賀與三兵衛は槍術の名人で武者修行として西国諸国を巡った。
九州では柳川の剣、久留米の槍術といい、関東では会津の槍、笠間の剣という。藩法では文武二道に達しないものは減禄される。
- 2017/11/22(水) 21:25:00|
- 武道史
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岡鹿門の『在臆話記』に武術について次のような記述があります。
会津はもともと上杉、蒲生、加藤、三氏の旧領地で三氏の士で民籍に移ったものがなかなか服しない。そこで藩法には切棄御免という法があって、士人に逢って馬を降りなかったり、士人に失礼があったり、言語が不敬であった場合には三人までは切ってもその罪は問われない。
岡鹿門はこれが武士道であろうか、と疑問に思っています。
- 2017/11/23(木) 21:25:00|
- 武道史
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岡鹿門の『在臆話記』に武術について次のような記述があります。
東宮賜謁にあたり、旧君主伊達伯爵より急いで仙台に来るように電報があった。賜謁は伯爵邸で行われたが、玉座がある部屋は狭隘であったため、賜謁は玉座室外で、立拝で行われた。立拝は和漢にはなく維新欧米の礼を用いられたものである。
武術の礼法に関しても、欧米の影響を受けた部分はないか考察する必要もあるのではないかと思ってからもう長い年月が経過してしまいました。実技だけの門人だけでなく、学問上の門人もいたら、と思いながら、いかんともなりません。
- 2017/11/24(金) 21:25:00|
- 武道史
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江戸時代の記録を見てきていますが、稽古への取り組み方について道を間違われてはいけないので記しておきます。
稽古は、只一生懸命に、必死に行っても武術としての上達はありません。間違える方は生真面目な方に多いのですが、決められた形の手順を、ただそれだけを必死になって手順が上達するように稽古されますが、そこに武術としての上達はありません。
ゆっくりと感じる動きであっても、相手がいついかなる時に変化してもそれに対応できるような心と動きを内包した稽古をしなければ武術としての上達はないのです。こう述べると生真面目な方は瞬発力、判断力とのみ考えられがちなのですが、動きながら常に相手の心・動きを感じて稽古することが大切なのです。事前に読む稽古を絶えず行う事が大切です。
- 2017/11/25(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日に続いて気になることを記します。
心が鎮まらないままに稽古しても、体も鎮まらず、体が鎮まらないままに稽古していても常に隙だらけの稽古ですので、隙を作ることを稽古していることになってしまいます。このような稽古を繰り返していてはいくら時間をかけても一生懸命稽古しても上達はありません。澁川一流柔術や大石神影流剣術が何となると自分で感じていても、無雙神傳英信流抜刀兵法が苦手だと思う方はたいていこのような状態にあります。無雙神傳英信流抜刀兵法の動きは繊細なため、心が鎮まっていなければ必ず大きな崩れが生じてしまい、うまくいかないと感じるのです。ほかの二つの流派ができているわけではなく、同じレベルにしかないのですが自分自身が繊細でなければ崩れを感じていないにすぎません。
心が鎮まらない状態というのは、気ばかり焦り体がついていかない状態という事も出来るでしょうし、魂が鎮まらず体からはみ出している状態と言えるかもしれません。
- 2017/11/26(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日、無雙神傳英信流の動きが繊細であると述べましたが、他の二つの流派もそうあらねばならないものです。ただ、居合は刀が鞘に納まった状態にあるため、我儘が効きにくい、我儘であれば動きが成立しないという事なのです。
無雙神傳英信流抜刀兵法は比較的長めの刀を用い、鞘を外す動きではなく「抜き付け」る動きとならなければならないので我儘な動きをすれば形とはなりません。
自分の動きをビデオに録り、不肖私のビデオと比べてください。その際に刀の動きを見てはいけません。臍下丹田を中心とした体の動きだけを見てください。違いが分かったらなぜ違うのかを何度も何度もビデを見て研究してください。ただ見るだけではなく、どうすればよいのかという答えを自ら得るのです。
お手元にあるDVDは今現在での私の全ての無雙神傳英信流抜刀兵法の形の演武を収めたものです。死蔵せず、活用してください。
- 2017/11/27(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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二人で組んで行う形、特に木刀や棒などを手にする形の稽古はやってはいけないことがあります。無雙神傳英信流抜刀兵法であれば太刀打や詰合、澁川一流柔術であれば六尺棒や半棒などの形での稽古のことです。
二人で組んで稽古をしているときに、相手にお構いなく自分の構えを正したり、手の内を正したり構えるときの動きを正すことは絶対にしてはなりません。二人で組んで稽古する意味が全くないからです。そのようなことをしていたら、せっかく二人で組んで稽古しているのに大切な相手との関係が身に付くはずもありません。また、稽古に付き合ってくれる相手にも大変失礼なことです。
基本は自分一人の稽古で身につけるものです。もし、二人で組んで稽古をするときにそのようなことをしなければならないのであれば、基本も身についていないレベルにしかないという事になります。猛省しなければなりません。
- 2017/11/28(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法は座れなければ稽古が始まりません。故に基本の習得のために初心の間には1か月から3か月基本の稽古ばかりを繰り返していただいています。少なくとも正座の基礎はその期間に身につけなければなりません。
また英信流の立膝その座り方も正座以上に鎮でいなければなりません。英信流の稽古が始まったら少なくとも1年間は毎日立膝で座る稽古をして身につけなければ立膝で行う稽古は砂上の楼閣にすぎません。
座ることくらいできると思っていたら、それ以上進みません。
- 2017/11/29(水) 21:25:00|
- 居合 業
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大石神影流剣術、無雙神傳英信流抜刀兵法の太刀打・詰合、澁川一流柔術の六尺棒や半棒などの構えは全て相手との関係から生まれてきます。
自分一人の基本の稽古で一人で構えをとったとしても相手との関係から構えは生まれるものである以上、目の前に相手がイメージできていなければなりません。ましてや実際に手数や形の稽古を行い相手が目の前にいるのに、自分だけのことを考えて、相手との関係を無視して切先の位置や構えに至るまでの動きを自己完結させていては武道になりません。
- 2017/11/30(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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