長谷川流の演武の部分です。(素抜き)抜刀術、太刀打、詰合を演じています。発表資料にも記しましたが、和(柔)は土佐藩では行われていません。
其時分ハ御再覧ニ罷出候者共ハ御人指ヲ以被仰付候ニ付、出勤可仕人数御書付相渡り申候。来何日と申時、出勤之人数右計差出申候。当朝ニ至リ三の御丸ヱ罷出候所、伊左衛門殿被申候者、只今御手本ニて書附、打太刀付等致出来候ニ付可相渡と被申、請取右御書付ヲ以出勤之面々御式臺之西之間ニて一通申合仕候処、私遣方不相見候ニ付、此段伊左衛門殿御尋申候処、御見分之義ハ先年ゟ毎々御覧被遊候ニ付、今日は長谷川流之居合兵法ヲ御覧可被遊旨被仰出候。其心得可被致ト被申候。先日粗御噂被成候ニ付、用意も少々仕候段相答、私義不調法無覚束奉存候へとも、御慰ニも相成候得は、難有本望至極ニ奉存候段申上侯。家芸弟子中相仕廻私罷出、長谷川流居合之業仕、夫ゟ鞘木刀世倅市兵衛打太刀ニて居合太刀打一通仕、居合詰合之業一通仕、是ニて一通相相((ママ))済申候故相退□申候。伊左衛門殿ニも不意之芸術御覧被遊、首尾能相済嘸御本望ニ可被存と召(本ノマヽ))申候。先ハ一通仕難有奉存段申上候。
- 2016/10/01(土) 21:25:00|
- 武道史
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この部分の面白いところは杉源介弟悦吾が大黒元左衛門のもとで10年修行し、自分のもとでも息子たちと5、6年稽古しているので将来は達者になるであると述べているところです。10年は多くの流派で免許皆伝に至る目安ですが、修行はその程度では終わらないというところでしょうか。多少形を覚えた程度ですぐに本などを書いて権威者ぶる者は当時は歯牙にもかけられなかったことでしょう。当時と今では稽古の質は問題になりません。
其後当御代ニ相成御再覧之節、長谷川流居合家芸弟子共仕廻跡ニ而御好被仰付候。其時ニハ同達者仕候者有之候へは御再覧御序ニ御覧可被遊旨被仰付ニ付、蟹井伝丞、長田左源次、両人書出し御覧被仰付候。右相済御好として御書付被相渡、久徳勝之進ハ岡田左源次を相手ニ仕、組合被仰付、其外之人数ハ爾来長谷川流をも仕候故、長谷川流可仕旨被仰付候故、市兵衛、弥平太、鳥飼四郎兵衛、土井勝之丞、仙右左近衛門、落合柳七かと覚申候。申合夫々長谷川流一通仕申候。又其後御再覧之跡ニて長谷川流居合之御好、市兵衛ニ被仰付仕候。其後も御再覧之跡ニて林益之丞ニ被仰付候。度々ケ様之義御坐候ニ付、常々無怠申合執行も相致申候。然ニ、杉源介弟悦吾義、常々長谷川流居合以懸大黒元左衛門方ヱ申入、冣早十ケ年余執行仕候。此節ニ至リ候而ハ為形宜相成、私方へも五六年以前ゟ世倅共申合一所ニ毎夜執行仕見分仕候。行々ハ尚々達者ニ可相成と奉存侯。自宅ニても稽古仕執行仕候。
- 2016/10/02(日) 21:25:00|
- 武道史
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最後に長谷川流が「表芸」になることを願っています。「土佐の居合か、居合の土佐か」という言葉が現代になって言われているようですが、当初はなんとか長谷川流を存続させようと努力している様子がわかります。このような先人の努力と質の高い(他の武術を併修し、その中での居合という認識を持った)稽古があったからこそ、今に長谷川流の伝統が続いています。
私存寄候処ハ、何卒表芸ニ相成候得は、行々御国の御為ニ相成申候ニ付、会所式日之時分私家芸之跡ニて御見分も被仰付候得共、尚又厚相成、林益之丞弟又ハ私甥ニて御坐候。是ハマダ未熟ニハ御坐候へとも、是又器用ニも御坐候て心欠申候ニ付、両人を差出申度奉存候。左候得は、いつ迄も御国ニ留り、影ニて仕義ハ一端も絶安きものニ御坐候へは久布流儀不調法なから唯今迄相伝リ居申義を絶し申も甚以残念成義ニ御坐候へは、一ツハ御国の御為ニ相成、又ハ先師へも勤ニも相成申義ニ御坐候へハ先御見分も被仰付被下度、御詮儀被仰付候ハヽ、於私別而本望至極ニ奉存候。私義も当年七十歳ニ相成、四五年跡より少々病気付、舌本叶不申、諸方ふくわゐニ相成、口惜義ニ御坐候。口述ニて申上義難調候ニ付、書付宜御賢慮願上候
卯二月
安達甚三郎
右長谷川流居合兵法申立書ハ 雑録ニ出
・・・このあとに「小栗公由緒書」があるが省略する・・・
嘉永六丑晩冬、足達先生宅ヱ寄宿之節服部氏御蔵書得拝借、同七寅早
春写之
終
高野金三
- 2016/10/03(月) 21:25:00|
- 武道史
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貫汪館の無雙神傳英信流抜刀兵法・大石神影流剣術・澁川一流柔術の三つの流派ともに動きの中心は臍下丹田にあります。よく言われることですが臍下丹田には時別な器官があるわけではなく意識して求めなければ中心であるという感覚を得ることはできません。
臍下丹田を動きの中心として意識できるようになるためには鼠蹊部の緩みが絶対不可欠となります。
小さなころからの学校生活で鼠蹊部を緩めるのではなく、むしろ緊張させ伸ばすことを身につけていますので、貫汪館で求めるものを身につけようとすればよほど心して身につけていかなければなりません。立っているときはもちろん、椅子に座っているときも床に座っているときも常に求めていかなければすぐに戻ってしまいます。容易に身につくものではありません。
鼠蹊部を緩めることは座姿勢では立姿勢よりも比較的容易ですが、立姿勢では鼠蹊部を緩めるためには膝や足首も緩んでいなければなりません。道場外で工夫に工夫を重ねて身についていくものです。
- 2016/10/04(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法の形は座姿勢でその基本を養いますので鼠蹊部の緩みは比較的会得しやすいのですが、自分自身で難しくさせている場合があります。
それは座していても姿勢を作ろうと背筋をぴんと伸ばし意識を上へ伸ばしてしまう場合。このようにすると立って「気を付け」の姿勢をしていなくても鼠蹊部に緊張が走り緩まなくなります。
また、鼠蹊部が緩んで座していても動き出したら床を蹴って動く場合。
斬撃を上半身で行ってしまう場合。
大森流の血振いで立ちあがって下半身を固める場合。
英信流の血振いを上半身で行う場合
このような動きをすると鼠蹊部は緩まず臍下丹田が動きの中心とはなりません。工夫してください。
- 2016/10/05(水) 21:25:00|
- 居合 業
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大石神影流剣術の手数は無雙神傳英信流抜刀兵法の形と違い初めから立姿勢です。学校教育を通じて現代的な姿勢が身についている私たちには鼠蹊部を緩めて大石神影流の手数を使うのは難しいものです。
そのため基本として行っている素振りや構えの稽古を通じて鼠蹊部が緩むことを体得していかなければなりません。
もっとも役に立つのが「附け」「上段」の構えです。大石神影流では「附け」「上段」の構えは臍下丹田を中心に半円を描いて切先が上昇し、定まった位置に落ち着きます。但し、言葉にといらわれて「半円を描く」と思って木刀を動かせば小手先の動きになってしまい、求めるものはかえって遠ざかってしまいます。
臍下丹田は動きの中心ですので臍下丹田が働かなければ切先は動かないものと観念し、けっして形を求めることなく動かなければ動くよう意識を働かせて繊細に稽古しなければなりません。
- 2016/10/06(木) 21:25:00|
- 剣術 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法は抜き付けた時に相手に正対せず半身になります。
ところが抜き付けた時に半身ではなく正対してしまう方は自己の意識の中で「抜付け」ではなく「抜き斬」となっていることが考えられます。斬らねばならぬという思いが刀を大きく動かそうとし必要以上に右の方にまで切先を持って行っているのです。そのために柄手が深い角度で掛かっている方もいます。
必要な幅だけ切先は動けばよく、無駄な事をする必要はありません。
- 2016/10/07(金) 21:25:00|
- 居合 業
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形・手数は手順が決まっていますが、決まった手順を繰り返すだけで上達するものではありません。
たとえば大石神影流の「正当剣」では打太刀は仕太刀の胴を斬り、仕太刀が後方に間を切るのでさらに胴を突きます。この動きを胴を斬り突く一連の動きと考えてしまって動くと、間を切られたから突きに行くという意義が失われ、仕太刀の動きも決まった通りに素早く動くだけのものになってしまいます。また、「勢龍」や「左沈」においても打太刀が表面に斬り込んだところ仕太刀に後方に間を切られたからさらに片手で切り上げるという手数の意義を忘れ、見栄えだけを求めて一連の動作としてペラペラ刀を使ってしまうと、仕太刀もそのような動きに合わせるだけになってしまいます。
手数を通じて上達するためには手数の意義を考え一太刀、一太刀を大切に動かねばなりません。
- 2016/10/08(土) 21:25:00|
- 剣術 業
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昨日述べたことと関連しますが「素抜き抜刀術」においては仮想の敵をイメージし動くために自分に都合の良い想定にしてしまい、「一太刀、一太刀を大切」に遣わなくなりがちですので心しなければなりません。
たとえば無雙神傳英信流抜刀兵法の「初発刀」は敵が自分に斬りかかってくるので横に抜付け、その抜付けが功を奏したので、敵は後方に倒れるのを前に追掛けて斬撃する形です。ここをはじめから抜付け前に出て斬撃という一連の動作として稽古してしまうと、ただ流しているだけの稽古にしかなりません。大事なのは抜付けた時に、その抜付けが功を奏しているのかいないのかを瞬時に確認することで、これがなければこののちに稽古する「陰陽進退」の斬撃の動きや「向拂」の斬撃の動きが抜付けが功を奏さないので大きく前に出たり、大きく切り返すという動きもただ一連の動きとして行うだけになり、形を通じて上達することはできません。
自分の動きを確認してください。
- 2016/10/09(日) 21:25:00|
- 居合 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法・澁川一流柔術・大石神影流剣術のいずれの流派においても呼吸にのって動くことが大切です。
呼吸にのって動くためには呼吸が正しく行われなければなりませんが、呼吸のみの稽古をするには正座の状態で行う方が立ち姿勢で行うよりも理解が早いと思います。座り方については常々お教えしていますのでご理解していただいていることを前提に述べますが、正座で臍下丹田を中心とした呼吸するためには鼠蹊部のゆるみが不可欠となります。鼠径部が緊張していると重心は高くなり臍下丹田での呼吸は難しくなるからです。
臍下丹田で呼吸することが難しい方は右手の中指を丹田に当て左手の中指をその反対の背の部分(腰板の下)にあてて意識をそこにおろしてください。意識をそこにおいたまま静かに呼吸を繰り返して臍下丹田で呼吸できるようになるまで繰り返します。おおむね臍下丹田で呼吸できるようになれば立ち姿勢でもその感覚を確認します。
- 2016/10/10(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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しばらく、先日武道学会で発表した『教授館總宰餘業記録』から面白い記事を引用してお話しします。
文政11年4月23日の記事です。
林八郎次取立
鞘木刀 久万文六 詰合 棚橋左平太
小原久兵衛 林八郎次
奥居合 青木左膳 奥居合 山田太助 林八郎次は林弥内(弥太夫)の弟でおそらくは谷村亀之丞が初めに師事した師匠で、いわゆる無双直伝英信流と言われる系統の師の一人です。
当時は太刀打を鞘木刀とか木太刀と呼び、また無雙神傳英信流と同様に奥居合は奥居合であり奥伝とは呼んでいなかったことがわかります。
- 2016/10/11(火) 21:25:00|
- 武道史
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『教授館總宰餘業記録』の文政11年4月23日の記録に軍貝の記録があります。軍貝については全く知識がありませんでしたが、行軍の合図や合戦の始まりの合図程度に使われるものだろうと思っていました。しかし、記録に見るように文章を送ることができるもののようです。
軍貝
ヶ条 森岡弥源太 敵備如何
通辞 服部忠兵衛
雁行答 鹿取榮平
忠兵衛儀一流ニ付下役栄平へ
相手申付之
「伏兵有哉」 岡儀内
通辞
「伏兵無答」 堀場丹藏
- 2016/10/12(水) 21:25:00|
- 武道史
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坪内清助は細川義昌の父島村右馬丞の無雙神傳英信流居合兵法の師です。文政11年八月二日の『教授館總宰餘業記録』には坪内清助について以下のような記録があります。
足達長十郎
山川久藏 両人召連出ル
坪内清助
右清助儀居合抜形幷和術遣形とも一見之
後、手許ニ呼出し、鍔壹枚令取之。数年藝術
出精によつて也 坪内清助は無雙神傳英信流抜刀兵法のみではなく小栗流和術にも優れていたことが分かります。
- 2016/10/13(木) 21:25:00|
- 武道史
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文政12年4月7日の『教授館總宰餘業記録』の記述に次のようにあります。
一
同七日八ツ時ゟ屋鋪稽古場ニおいて長谷川流
居合抜形申付之。一見遂屹之後、好ミ申付之。
令抜之手如左
山川久藏弟子
居合三本 麻田栄次郎 同し 五藤忠次郎
同し 増井茂之進 同し 三宮弥助
同し 坪内清助 同し 下村修
林八郎次取立
抜刀三本 祖父江十太 同し 間左平次
同し 高屋永之助 同し 棚橋左平太
同し 小原太兵衛 同し 林八郎次
如右一見畢而好申付之。令抜事如左。
奥居合三本 五藤忠次郎 同し 下村修
常ノ居合三本 麻田栄次郎 同し 三宮弥助
組合五ツ 増井茂之進 詰合五本 坪内清助
右山川久藏弟子也
常ノ居合三本 祖父江十太 奥居合三本 小原太兵衛
同し 林八郎次 鞘木刀五本 間佐平次
高屋永之助
詰合五本 棚橋左平太
右林八郎次取立也 演じた形の数は3本や5本など奇数です。細川義昌の父島村右馬丞が墓前などで演じた数も奇数です。奇数が好まれたようですが、時には偶数が演武されたこともあります。
- 2016/10/14(金) 21:25:00|
- 武道史
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文政12年5月13日の『教授館總宰餘業記録』の記述に次のようにあります。
日比禮八弟子
入身替合 仙石新八郎 同し 日比弘左衛門
日比八藏 後藤多喜吾
大町祐右衛門弟子
入身 大町小五郎 入身 小川喜八
替合 山岡繁三郎 突方 大町新藏
岩崎作之丞弟子
相寸 吉田四右衛門 入身 岩崎甚左衛門
近藤善平 替合 清水小助 日比禮八は槍術の藝家ですので、槍術の見分についての記述です。「入身」とあるのは長い槍に対して短い槍を手にして走り込み懐に入る稽古をしたことをさし、相寸というのはいわゆる相面試合でお互いに同じ長さの槍を手にして自由に突き合う稽古をしたことを意味しています。
- 2016/10/15(土) 21:25:00|
- 武道史
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文政13年2月4日の『教授館總宰餘業記録』の記述に次のようにあります。
足達長十郎弟子
長谷川流居合
林八郎次取立
抜刀三本 青木忠藏
久左衛門嫡孫
同 荻野忠兵衛
泰藏惣領
同 祖父江十太
平兵衛惣領
同 松井勝馬
同 萓野壽助
栄之進惣領
同 間左平次
小八嫡孫
同 高屋永之助
同 横田直馬
三兵衛ニ男
同 間助藏
同 岡本頼平
曽一右衛門惣領
同 松木次郎左衛門
同 平瀬清五郎
理右衛門惣領
同 山田太助
五兵衛惣領
同 棚橋左平太
抜刀十本 林八郎次 林八郎次はいわゆる無双直伝英信流の系図にはその名がありませんが、大江正路への系図にある林弥大夫(弥内)の弟です。谷村亀之丞はこの林八郎次取立の弟子として演武をしているので、初めは林八郎次の弟子で、師が早世したために林弥大夫に師事したのかもしれません。
さて、冒頭に記されている「足達長十郎弟子 長谷川流居合林八郎次取立」という言葉ですが、足達長十郎が林八郎次に長谷川流を教えたようにも受け取れます。足達家は林六太夫の実子で足達家に養子に行った安達甚三郎(林縫丞)以来、小栗流と長谷川流を教えていたのかもしれません。
- 2016/10/16(日) 21:25:00|
- 武道史
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昨日と同じ文政13年2月4日の『教授館總宰餘業記録』の記述に次のようにあります。
棒術の稽古が長谷川流の名のもとに行われていたことがわかります。『教授館總宰餘業記録』には山川久蔵門下が棒術を演じた記録はありません。
林八郎次取立
抜刀 荻野忠兵衛
同 平瀬清五郎
奥居合 祖父江十太
早抜 青木忠藏
同 棚橋左平太
棒太刀合 高屋栄之助
棒合 間左平次
詰合 山田太助
右打太刀 棚橋左平太
組合 林八郎次
右相手 青木忠藏
- 2016/10/17(月) 21:25:00|
- 武道史
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また昨日と同じ文政13年2月4日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。山川久蔵門下の演武です。文末の下村修は下村茂市のことで、細川義昌に免許皆伝を授けた人物です。細川義昌も田宮流(新田宮流)について幾分かは知っていたと考えられます。
山川久藏弟子
居合 坪内清助
奥居合 柴田團七
日比利兵衛
詰合 柴田助八
右相手 五藤忠次郎
組合 五藤忠次郎
右 下村修
早抜 三宮弥助
中村太兵衛
田宮流 増井茂之進
下村修
- 2016/10/18(火) 21:25:00|
- 武道史
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天保2年4月10日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。林八郎次の弟子として谷村亀之丞の名前があります。この林八郎次は前述したように林弥太夫(弥内)の弟であり、谷村亀之丞ははじめ林八郎次の弟子であり、師の没後に林弥太夫に師事したことをにおわせる部分です。
林八郎次の弟子である松木次郎左衛門は最後に「口ノ業」を演じていますが、口というのが物事の初めという意味だと解釈すれば「口ノ業」は大森流ということになるでしょうか。
同十日八ツ時ゟ山川久藏幷林八郎次弟子共
を呼長谷川流居合令抜之、其次第如左
山川久藏弟子
三宮弥助 柴田團七
島村衛守 下村修
林八郎次弟子
松木次郎左衛門 青木忠藏
生駒彦八 谷村亀之丞
右所済而好申付之事如左
鞘木刀五本 三宮弥助
島村衛守
奥居合五本充 柴田團七
下村修
詰合五本充 谷村亀之丞
生駒彦八
- 2016/10/19(水) 21:25:00|
- 武道史
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天保3年6月6日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。槍術師範2人と山川久蔵の業前の見分を行い褒美に教授館總宰から鍔が渡されています。弟子をとる芸家の業前の見分があるのでは師といえども気を抜くことはできないと思います。
一同五日九ツ時ゟ岩崎作之丞、大町祐右衛門等ニ鎗術
遣方申付之。山川久藏へ居合業前申付之。
孰も一見之。畢而後手許ニ呼寄せ鍔壱枚充遣之。
且直ニ申渡之条如左有之也
一鍔 蓑荷千鳥之透 岩崎作之丞
其方儀積年家業出精ニ相勤弟子とも
導方手廣いたし今日ハ遣方をも申
付之。今以達者ニ相見へ旁満足ニ存而
依之遣之
一同 日透 山川久藏
其方儀積年家業出精ニ相勤弟子
とも導方も行届殊ニ今日ハ業前申
付之。今以達者ニ相見へ旁満足ニ存而
依之遣之
一車地之透 大町祐右衛門
其方儀積年家業出精ニ相勤弟
子とも導方も行届殊ニ今日ハ遣方
申付之。今以達者ニ相見へ旁満足ニ存而
依之遣之
- 2016/10/20(木) 21:25:00|
- 武道史
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天保4年5月8日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。千本抜を命じています。この時期には槍術も数多く入り身をさせたり弓術も多く射させたりしています。この時期に何があったかは不明です。
一同八日屋鋪へ山川久藏弟子ともを呼出し於稽
古場ニ居合千抜本申付之。遂見分事
如左
居合千本抜 山川久藏弟子
抜刀千二拾本
木刀三拾本 小崎竹次
同 三宮弥助
同 下村衛守
同 山田留之進
右畢而後久藏を坐鋪ニ呼寄せ奥内庭
令見之。且右弟子ともへ酒肴幷茶菓子等
遣之也。
- 2016/10/21(金) 21:25:00|
- 武道史
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天保5年4月25日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。この日は前述の千本抜と異なり、終日稽古を命じられています。拾五篇とあるのは15回と解釈できるのではないかと思いますが、無雙神傳英信流の形全てを15回繰り返したということになるでしょうか。
「痛処ニ付八ツ時ゟ仕舞」とあるのは故障が生じて(捻挫や怪我などで)続けることができなくなったということで、幕末の記録にはよくあります。当時の武士は無理はしませんでした。
一同廿五日早朝ゟ居合山川久藏、體術清水善平等
弟子ともを呼出し終日稽古申付之。如左見分之
山川久藏弟子
拾五篇 小崎竹次
同 桑山幸馬
同 三宮市藏
同 麻田栄次郎
同 五藤来馬
同 三宮彌助
同 寺田左右馬
痛処ニ付八ツ時ゟ仕舞
九篇 岡田九郎
半日
拾五篇 下村衛守
同
七篇 下村茂市
同
同 山田留之進
同
同 乾善平
…中略…
山田助之丞、山川久藏、清水善平、下村茂市四人同列ニ呼
寄之。今日ハ終日稽古申付之。業前致見分之処孰も
出精致すと相見へ、猶又以来とも出精可致之様
申聞之
- 2016/10/22(土) 21:25:00|
- 武道史
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天保6年4月22日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。この日は特定の人物だけを呼出し業前を見分しています。山川久蔵門下では小牧克助の一人だけです。演じた形は抜刀五本と奥居合六本だけです。また「殊ニ傳授も相済趣」という文面からは小牧克助がある段階の許しを受けていることが分かります。小牧克助の名は土佐の居合の歴史の表に現れることはありませんが、表に現れなくてもこのように表彰を受けるレベルの人たちは多くいたのだと考えられます。
同日八ツ時ゟ左之者共業前見分可致之旨兼而
申付之処、即罷出ニ付孰も於稽古場ニ申付之。
一見畢而好をも申付之処、如左有之
鎗術 山田源三郎弟子
表五本 庄三郎惣領
仕合位三本 深尾弘人与力 北村藤右衛門
仕合弐本
右相手 山田喜万太
原吉藏弟子
同 治左衛門惣領
表五本 深尾弘人与力 坂部清左衛門
打鎗 原吉藏
同 清水善平弟子
表七本
古傳表三本 右同人騎馬 竹内新之介
鎗合三本
右相手 清水小助
釼術 手嶋早太弟子
木刀拾本 北村藤右衛門
刃引
打太刀 近藤馬次
居合 山川久藏弟子
抜刀五本 五藤主計騎馬 小牧克助
従是好
北村藤右衛門
入身突方入替を以三本允
山田喜万太
坂部清左衛門
右同三本允
原吉藏
竹内新之介
右同三本允
清水小助
釼 北村藤右衛門
相寸
近藤馬次
奥居合六本 小牧克助
右孰も済而再手許ニ呼寄之。褒詞申聞事如左
北村藤右衛門
其方儀数年鎗術釼術出精
致、殊ニ傳授も相済趣、今日ハ業前
申付之処、達者ニ相見江満足ニ存る。猶又
以来迚も心懸よ
坂部清左衛門
竹内新之助
其方とも数年鎗術出精致、殊ニ
傳授も相済趣、今日者業前申付處、
達者ニ相見へ満足ニ存る。猶又以来
とても心掛よ
小牧克助
其方儀数年居合致出精、殊ニ傳
授も相済趣、今日ハ業前申付之處処、
達者ニ相見江満足ニ存る。猶又以来
とても心掛よ
- 2016/10/23(日) 23:25:00|
- 武道史
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天保6年4月23日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。この日初めて田宮流(新田宮流)が坪内清助取立として正式に見分を受けています。
演武の内容は「表」「立合」「表籠手仕合」「真法釼」「居場引」です。文末に坪内清助が手元に呼び出されますが、同時に久保雄五郎も呼ばれ「其方儀尓来武藝致出精弟子共導方手弘有之趣猶又導方等致出精候様被仰付之」と声を掛けられています。久保雄五郎は坪内清助のもとで演武していますが、弟子をとる立場にあったのでしょうか。
一同廿三日武藝式日也。然處御用閊有之を以被差
流之由聞之
同日於稽古場ニ田宮流居合坪内清助取立之
者とも見分可致申付之。且白札以下之者共をも同様
申付之。一見畢而好をも申付之事如左有之
表 谷勘太
同 谷神馬
立合 寺田左右馬
右相手 坪内清助
表 坪内清助
同 坂本左吉
同 池田文吾
同 松前善次郎
同 大久保左之助
同 吉本楠馬
同 濱田庫次
同 伊藤楠之介
同 村山雄七
同 嶋崎櫲之吉
同 松前重藏
表籠手仕合 川崎寅治
同 岡本傳右衛門
同 村山平市郎
同 荒川寅之介
右相手 久保雄五郎
真法釼 黒原庄助
同 中嶋茂左衛門
同 細井菊作
屋敷前番
同 達助
右相手 川崎寅治
真法釼 小川駒吉
同 柿内茂八
同 岸本喜藏
同 大久保景藏
右相手 久保雄五郎
居場引 池田泰吉
右相手 嶋村繁之介
立合 武市宅治
右相手 池田来吉
表 久保雄五郎
臺籠手 嶋村繁之介
従是好
居場引 寺田左右馬
立合 坪内清助
右相手 川崎寅治
表 村山雄七
同 岸本喜藏
同 黒原庄助
同 大久保景藏
真法釼 松村重藏
同 池田来吉
同 嶋崎櫲之吉
同 武市宅治
同 村山平市郎
右相手 久保雄五郎
居場引 荒川寅之介
同 小川駒吉
右相手 川崎寅治
立合 嶋村繁之介
同 川崎寅治
同 久保雄五郎
右相手 池田来吉
右孰も再見之後、坪内清介を手許へ呼出し褒
詞申聞之。且久保雄五郎をも令呼出之附頭取仙石左大夫
役場ニおゐて令申聞之。其義如左
坪内清助
其方儀今日者双方武藝弟子とも稽古
方之義致世話満足ニ存。猶又勤事間ニ
導方等出精致せ
久保雄五郎
其方儀尓来武藝致出精弟子共導方
手弘有之趣猶又導方等致出精候様
被仰付之
- 2016/10/24(月) 21:25:00|
- 武道史
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天保8年5月9日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。この日7名が矢羽を授かっていますが、その内の一人に坪内清助がいます。坪内は無雙神傳英信流抜刀兵法、小栗流和術、新田宮流のほかに、弓術においても優れた技量をもっていたようです。
一同九日附之者共へ矢羽を遣之。人数如左有之
坪内清助 大町元之進
田中権左衛門 松吉清八
土居忠之丞 雨森七三郎
乾儀平次
- 2016/10/25(火) 21:25:00|
- 武道史
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天保9年4月26日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。島村右馬丞は細川義昌の父で、居合は坪内清助に習います。「山川久蔵弟子」となっているのは土佐藩では又弟子も弟子と数えられたのだと思います。
さて島村右馬丞は天保9年に坪内長順より無雙神傳英信流抜刀兵法の皆伝を受け、弟子を取り始めていますので、これに合わせて見分が行われたのだと思います。
一同廿六日屋鋪稽古場ニおいて諸流藝術申付之。
我等も出張也。人数如左有之
居合 山川久藏弟子
抜刀 小林半兵衛
詰合 島村右馬丞
右相手 小林半兵衛
- 2016/10/26(水) 21:25:00|
- 武道史
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天保9年5月4日の『教授館總宰餘業記録』の記述です。山川久蔵と坪内清助は無雙神傳英信流の師弟関係にありますが、山川は無雙神傳英信流を、坪内は田宮流をそれぞれ弟子に演じさせています。
面白いのは「皆傳ニ而者無之候得共」という文でこれは本来正式な場において打太刀は皆伝者が務めるということを意味しているのだと思います。
『教授館總宰餘業記録』の記述についてはここで一区切りです。
居合 山川久藏弟子
居合三本
大小詰五本 奥宮仁左衛門
右相手 小林半兵衛
右半兵衛皆傳ニ而者無之候得共相手ニ出る也
坪内清助取立
真法釼五本 久保雄五郎
右相手 村松楠太郎
右楠太郎皆傳ニ而者無之候得共相手計ニ
出る也
- 2016/10/27(木) 21:29:00|
- 武道史
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一度形や手数を習ったら、習ったものは、次の稽古日までに修得する覚悟をもって自主稽古をしてください。そのためには何度も教えてもらえると聞き流していては無理で、一度教えられたことはその場で自分の感覚の中に取り込むようにし、もし自主稽古までに日があき忘れそうであればメモしておかなければなりません。
広い場所がなければ稽古できないので稽古は道場のみで行うと考えるのは間違いで、大石神影流であれば小太刀を両手で持って稽古出来ますし、居合の稽古は刀なしでもできます。また柔術の稽古はイメージトレーニングでいくらでも稽古できます。
上達したい方は必ず行ってください。
- 2016/10/28(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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兄弟子として「打太刀」を務め、「受」をとりなどしたときに後進に対して過ちを正す場合があります。この時に絶対してはならないのが「自分が考えたことを指導する」ことです。
あくまでも師はこのように教えられていると導くべきであって、未だ流派を許されていないにもかかわらず自分の考えで「こうしたほうが良い」「ああしたほうが良い」などと導けば、後進を惑わせるだけでなく流派を乱すことになります。
自分の考える上達できる指導をしたいのであれば、流派を許されたのち(十分に身につけたのち)自分の道場で自分の門弟を導けるようになってからにしなければなりません。また、そのようになっても師の教えから大きく異なることを良しと考えるのであれば、新たな流派を名乗る必要が生まれてきます。江戸時代であれば当然のことでした。
- 2016/10/29(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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何か新しいことを始めたらゼロから始めなければなりません。自分がこれまで持っている知識や経験を頼りに会得しようとすればかえってそれが邪魔をして、理解・体得することができなくなってしまいます。特に歳を取って稽古を始められる方、あるいは他の武道を経験していて異なる事をしようとする方に多くおられるようです。
同じ居合と言っても流派が違えば全く理論が異なり、現代剣道の経験があるとしても現代剣道の理論が大石神影流の理論と異なる事も多くあります。
- 2016/10/30(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流剣術の「附け」は切先を相手の左目につけますが、構えはあくまで臍下丹田を中心として半円を描き切先が下りてきたときに切っ先が相手の左目につきます。
はじめから(真剣の構えから)切先を相手の目につけようとして歪な形になりながら附けの構えをとるものではなく、まず臍下丹田を中心として半円を描きながら上昇していきます。
- 2016/10/31(月) 21:25:00|
- 剣術 業
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