本日、日本古武道振興会主催の明治神宮・奉納日本古武道演武大会で無双神伝英信流と渋川一流柔術の演武を行いました。
柔術の演武では周りの雰囲気が変わり、私たちの演武に集中してみていただいているのがわかります。柔術は相手がいるので、その技が有効かどうかがわかりやすく、私たちは演武では常に真剣勝負をしていますので、その雰囲気が伝わるのでしょう。居合は一般に行われている居合と異なり、きめを作らず、力まないので、一見力強く見えないのですから見えなくて当たり前と思っていたのですが、私たちの遣い方と全く異なる居合の遣い方をされる女性の師範の方が「あれは、どこ?素晴らしいわね。」と大きな声で話されるのが聞こえました。わからなくて当然と思っていたのに全く異なる遣い方をされる方にお褒めの言葉を頂き光栄に思いました。本部席の各流派の先生方がじっと私の居合を見ていただいているのは感じていましたが、どこで、どのような方が見ておられるかわかりません。
- 2006/11/03(金) 23:48:33|
- 居合・剣術・柔術 総論
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伝統文化活性化国民協会の会議に参加しました。
剣道を指導されている先生のお話を聞いていると、精神論が先にたち、子供たちがたとえ稽古を中断したとしても、それまでに養った武道の精神性は将来にわたって残るという趣旨のお話をされていました。
貫汪館では無双神伝英信流と渋川一流という古武術を稽古いたしておりますが、私は武道の精神はそんなに簡単に身につくものではないと考えています。ただ礼儀作法を身につけるだけなら何も武道をする必要もなく、囲碁や将棋、宗教教育であっても身につきます。
廿日市スポーツセンターを稽古のための道場として利用していて思うことは、剣道や柔道の先生方は日曜日に大会をされるのにもかかわらず、土曜の昼間から準備をして数時間で終わらせ、夕方にもならない時刻から道場が使われることもなく放置されている現状や、とにかく場所を確保してという発想から、メインホールで大会をするにもかかわらず、前日から武道場を控えの場として借り上げている現状をみると、柔道の「自他共栄」という言葉は所詮、柔道仲間の間だけの自他共栄であって、他の団体の活動場所を奪っているのではないかという配慮は全くなく、剣道も「礼」をうたい文句にしていても他者に対する礼は全く念頭にないのだと感ぜざるを得ません。他者に配慮があれば、合気道やその他の武道のように大会当日の早朝に準備をするという発想がもてるはずです。
私は武道の精神性というものは業が身につかなければ決して身につくものではないと考えています。平時の「礼」は戦時の「業」と密接不可分なものであり、「礼」が保てなければ争いが生じ、戦いの技を身に着ける者は戦いに至らせないための礼もまた必然的に身に着けるべきものであると考えています。武術の稽古の目標は心も体も自由になることですので、このことなしに精神のみを論じたとしても、それは武道の修行によって身についたものであるとは決して言えません。
貫汪館の皆さんは稽古なしでの精神論は無用と心得てください。
- 2006/12/01(金) 00:07:55|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日の伝統文化活性化国民協会の会議での交流会において、文化庁文化財部伝統文化課の主任文化財調査官の方とお話する機会がありました。
古武道が文化として文化庁で認められる可能性があるのかどうかという点について私の意見を述べつつ、調査官にお話をお伺いしました。はじめは私が無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術という古武道を教えているということで、少し距離をとってお話されていましたが、私の意見を聞かれながら、率直なご意見をお話くださいました。
第一に文化として認められるためには、形が昔のままに伝わっているのかどうかという点。流派の歴史が古いというだけでは認められることは難しいとの事。これには私から無形文化財とされている「能楽」の動きも明治維新以前と以降では変容している事などもお話しながら、古武道も現存する流派によって異なることなどもお話しました。形が大きく変容していないことがひとつの条件であるということがわかりました。
第二に文化として認められるためには、形の上手 下手がその流派内だけではなく、他者から見て判断できるのかどうかという点。能楽のように宗家であろうがなかろうが、その弟子の方が上手であるとか下手であるとか比較できるのかという点です。古武道における宗家制については西山松之助先生の『家元の研究』を引用してお話し、本来武術には宗家制など存在し得ないことをお話しながら、武術の動きというものは簡単に素人や初心者が見てわかるものではなく、むしろ上達したものにしか見えない事、素人や初心者に判断できるような動きであれば、素人や初心者に斬られてしまう事などをお話しつつ、自分の技量が上がれば他流派であろうと、異なる種類の武術であろうと、その動きの良し悪しは見えてくる事などをお話しましたが、武術の技量が上がれば上がっただけ他者の動きが見えてくることや、古武道の形は形を超えるために存在するのだという話などは興味深く聞いていただけました。また、素人や初心者が見てすごいと思うような動きは単純に力んだり、むやみに極めを作っているだけなのだということも、よく理解されておられました。
その他、多くのことを短時間ではありましたがお話いたしました。お話をして思ったことは、一つ目に古武道が国のレベルで、文化として認められるには時間がかかるけれども、県のレベルでは働きかけによっては可能であるということ。 二つ目に古武道を文化としての視点でお話する上においては、自分が行っている実技だけでなく、歴史や文化的背景、他の文化に関する知識をもっていなければならないことです。
実技がもっとも重要な古武道にあってはややもすれば、歴史や文化的背景を知ろうともせず、自分のみがもっとも尊いとして、歴史的に宗家制度など存在しないのにもかかわらず、宗家を詐称するようなことが行われ、文化としての古武道どころか、胡散臭い存在として見られることもあります。
今回、文化庁文化財部伝統文化課の主任文化財調査官が私に親しくお話してくださったのは私が古武道の実技だけではなく、歴史や文化的背景、その他の文化についても話ができると思ってくださったからだと思います。貫汪館で稽古する皆さんには実技だけではなく幅広い視野を持って稽古していただくことを望みます。
- 2006/12/04(月) 20:12:50|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流の稽古においても渋川一流の稽古においても、間違いをおかしやすく自分に戒めておかなければならないことは、決して師の影を追いかけてはならないと言うことです。
厳しいことを書くようですが、師といえども完璧な存在ではなく常に進歩上達の途上であり、本質を知ることなしに師の動きをただ真似してみても、それは物まねに過ぎません。ましてや師がこの世を離れられた後に残された映像や写真からのみ判断し師の動きはこうであった、ああであったと論じたところで、たいていは師の癖や未完成であった動きを追いかけているに過ぎないものです。
師のそばに仕え、常に師とともにあって師の教えを受けていた者には、師は自分の目指す方向を指し示されています。弟子は師の目指される方向を目指すのでなければ師に習い、師を超えることはできるものではありません。
例えば、無雙神傳英信流抜刀兵法の師、梅本三男貫正先生に関してはこのようなことを経験しています。
先生は晩年になられ、業、道に入り大いに変革され進化発展を遂げられていましたが残念なことにその途中、病に倒れられてしまいました。先生は業の変革期以前に、プロの写真家によって撮影されていた、御自分の上方からの「抜付け」の大伸ばし写真をたいそう気に入られ玄関先に飾られていました。私にも、「良い動きを捉えている写真だから。」と、焼き増しして同じ写真何枚かを授けて頂いていました。しかし、ある日突然にその玄関先の写真がどこかへ片付けられていました。
そのことについて先生にご質問したところ、「森本君、あの動きは良くない動きであった、今となっては恥ずかしくて掛けてはおれない。だから片付けてしまったのだよ。」と語られ、自分の目指しておられる方向を時間を掛けて話して下さいました。その後先生の業は飾ってあった写真とは、その本質的な動きにおいて全く異なったものへと進化発展して行かれました。また、同様に変革期以前に弟子の画家に描かせておられた御自身の手の内や刀の構え方などの詳細な動きに関しても否定され、「あれは、稽古の参考にはならないから。」と語っておられました。弟子の稽古の参考のために大森流、英信流の一人で行う形の全てを収めたビデオも作り配布されておられましたが、これについても全てを否定されました。
しかしながら、先生の弟子の中には先生の死後においても変革期以前の写真の動きを求められたり、画家の描かれたデッサンを稽古の目標にしておられたり、変革期以前に弟子に配布されたビデオを参考にされる方が多くありました。
また、先生はご自身の稽古のためにご自身の形のビデオをとられて研究されておられましたが、変革期以降に残されたビデオであっても変革期以前の癖や未完成の動きが残っています。それらの動きについては師に身近で仕えていた者には詳しくお話して頂いていますから、迷うことは全くありません。師の目指す方向を教わらず、知らず、ただ師の影のみを追い求められている方は哀れとしか言いようがありません。
貫汪館で稽古される皆さんもこのことをよく頭に入れ決して外見のみの物まねはなさらないで下さい。また、わからないところがあれば、しっかりと稽古された上で、何でもご質問ください。
『居合歌之巻』より
「師にとわすいかに大事を教へき心をすましねんころにとへ」
- 2006/12/15(金) 18:47:01|
- 居合・剣術・柔術 総論
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12月23日(土)、廿日市天満宮において本年最後の奉納演武を行いました。昨年の大雪とは違って今年は暖かく感じられるほどの気温の中での演武でした。
演武では柔術を稽古する子供達の業の素直さが特に印象に残りました。
子供達にとっては体重が自分の何倍もある相手を投げなければならないという心の力みから、どうしても腕力を用いようとして技が決まらない事が多いのですが、今回の演武はほとんどの子供達が心の力みなく、そして体の力みなく素直に技をかけていました。結果として、子供達は腕力を用いることなく、自分の体重を上手く利して理のある動きができ、自然に相手を制することができていました。子供達にとっては、何故業が掛かったのか不思議であったと思います。
演武前に「神様は素直な心を見ておられます。上手に見せようとしても、格好良く動こうとしても全て見抜かれてしまいます。拙くても良いから一年間稽古してきた素直な心で演武し、素直な心を見て頂きなさい。」と話していたのを心に留めて演武してくれたのだと思います。
この業への素直さは、居合においても、またしかりであり、正しい抜付けや斬撃、血振るいができたときには、全くと言って良いほどに、体(筋肉)に実感が残るものではありません。「抜付けた」「振った」という生の実感はほとんどが体の力みであり、実感を求めていては、上達からはますます遠ざかってしまいます。
柔術を稽古されている大人の方も、居合を稽古されている方も、今回の子供達の演武を参考にし、稽古に励まれてください。
H.Pの柔術の行事のページに厳島神社奉納演武の写真をアップしました。
- 2006/12/28(木) 00:39:15|
- 居合・剣術・柔術 総論
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明けましておめでとうございます。今年も今日から一年間稽古に励んでまいりましょう。
歳の初めに「融通無碍」という言葉を稽古のテーマとしてとらえていただきたいと思います。
無双神伝英信流抜刀兵法においても渋川一流柔術においても何物にもとらわれず、すらすらと対処するということの重要性は稽古を通じてよくよく理解されていることと思います。居合において「斬る」という一点のみにとらわれて腰を固めて安定させて斬っていては、その瞬間に動けない自分は斬られてしまいます。また、柔術においても腰を安定させて敵をしっかり投げようとしたのではその瞬間にかえって投げ捨てられ、斬り倒されてしまいます。
たとえ他から見て腰が定まって安定しているように見えていたとしても、そこに「定める、安定させる」という居付はなく、全てはすらすらと進んでいます。とどまり、固定されることはなく、活き続けています。
動きを固定してしまうもの、あるいは固定したくさせてしまうものは、無意識の心です。心を業の働きから見つめ直し、業を心から見つめ直して日々新たに、日々進んでまいりましょう。
- 2007/01/01(月) 07:00:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流においても、渋川一流においても初心者の方が陥り易い罠に上手く見せようという無意識の心の働きがあります。
無双神伝英信流にあっては、始めのうちは一人で抜く形の稽古を稽古をします。そのため自分の動きが理にかなっていなくても、相手に斬られるということがありません。そこで中には少しでも上手く見せようとして、体を固めて、いかにも体の動きにぶれがないように見せかけてしまう方がおられます。対敵動作であれば、力みがあり、固まれば、そこを斬られてしまうので、体を固めてしまうことは無双神伝英信流の上達にとっては致命傷となってしまいます。
稽古を始めたばかりでは中心の自覚の自覚は難しく、体がふらつく事は当たり前ですので、中心が自覚できるようになるためにも体のふらつきは当然の事であると思ってください。むしろ、ふらつきこそが、中心を自覚するための方法であると思い、下手に見えること、自分自身が下手に感じる事こそ真の上達につながるのだという発想の転換をしていただきたいと思います。
渋川一流にあっては、はじめに稽古していただく受身に上手く見せたい、上手く感じたいと言う無意識の心の働きが現れます。子供達の稽古に良くあることですが、クルッとすばやく前周り受身ができたように見せたく、また、自分自身が感じたく、床を蹴って前周り受身に入るという状況が見られます。受身は突然投げられた時に使えなければ意味はありません。その意味から床を蹴るという予備動作は真の受身の妨げにしかなっていません。たとえ上手く見えなくても、何かをしたという実感を得られなくても、あるがままにまわっていく稽古をしなければなりません。
- 2007/01/16(火) 23:45:11|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「森本君、剣道は忘れにゃいけんの。」
これは無双神伝英信流の師、梅本三男貫正先生が晩年に私に語られた言葉です。
先生は戦前、戦中、戦後と現代剣道をされておられましたが、「戦後、子供を指導しているときに打ち込ませると軍隊時代の古傷が耐えがたいほどに痛むので、剣道は止めてしまった。」と私が入門した頃に話されたことがあります。
私自身は大学入学まで、現代剣道をしており、居合の稽古が進むとともに現代剣道と無双神伝英信流との間の耐え難い溝に悩み、きっぱりと現代剣道は忘れていましたので、先生の「森本君、剣道は忘れにゃいけんの。」という晩年の言葉は意外でもありました。
似ていながら異質なものは、それほどまでに人の動きに影響を与えてしまうものなのかもしれません。ここで細部まで書き尽くすことはできませんが、例えば刀を抜いて構えたときの左右の足の向き、腰の開き、手の内、膝・足首・股関節のゆとり等々、見えない人が見れば全く同じ事をしているように見えるものかもしれませんが、稽古が進めば全くといっていいほど異なっているという事が見えてきます。
一見類似した動きだけに余計に片方の影響を受けるのは避けがたいもののようです。梅本先生は現代剣道を始める時期が無双神伝英信流の稽古を始めるのよりも随分と早かったために現代剣道をされなくなって何十年も経つ晩年にまで現代剣道の影響を微妙に引こづられていたのだと思います。
私が居合をお教しても、本人が違うことを稽古しているのだと自覚していているのにもかかわらず現代剣道の経験者はその癖が抜けず、かえって全くの初心者のほうが早く刀の扱いに上達し、刀の間合いに熟達する傾向があります。もっとも現代剣道の熟達者にはお教えしたことがありませんので、現代剣道を突き詰められた方は別であるのかもしれません。
これは柔術にも同じことが言え、講道館柔道を学生時代に部活で稽古していたという方に渋川一流柔術の形をお教えしても、私達から見れば強引な力任せの技から離れられず、全くの初心者ほど素直に渋川一流柔術で求められる技に入っていける傾向にあります。また柔術は最終的には懐剣や刀を持った相手に素手で対するだけの業を身に付けなければならず、そのための体の備えでなければなりませんが、刃物に対する動きだということは講道館柔道を競技としてのみ学生時代に稽古された方には理解しづらいようです。しかしこれも講道館柔道を突き詰められた方は別であるのかもしれません。
話は変わりますが、かつて梅本三男先生に教えを受けた者で、居合の指導をするのに「あなた達は足運びが悪い。」と言って集団教授法を用いて「前、前。後、後。右、右。左、左。」と現代剣道の継ぎ足の稽古をさせた者がいたということを聞きましたが、何を先生から習われたものか・・・後進は決して道を迷わないで下さい。
ホームページに無双神伝英信流の講習会の案内を載せています。ご確認ください。
- 2007/03/16(金) 18:14:33|
- 居合・剣術・柔術 総論
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前回は無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生の短剣術のお話を、前々回は渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生の銃剣術のお話を書きました。
今回は銃剣道・短剣道から見た武道のスポーツ化ということについて考えてみたいと思います。
私自身が初めて銃剣道の手ほどきを受けたのは中学生の頃、戦時中は大日本帝国海軍軍人で、戦後は陸上自衛隊官であった父からでした。その時は銃剣はこのように使うものという教えしか受けませんでしたので、本格的に稽古を始めたのは大学卒業後、奈良にある航空自衛隊幹部候補生学校に入ってからのことになります。したがって銃剣道と関わってもう20年以上経ちますし、短剣道を始めたのは自衛隊退職後、旧軍人の方や退職自衛官の方と稽古するようになってからですが、もう20年近く短剣道と関わっていることになります。段位も自然にあがり、銃剣道も短剣道も七段を頂いています。この20数年の間に銃剣道は大きくスポーツ化していきました。
銃剣道はもともと銃槍とも呼ばれ、明治維新前後、各藩で、続いて陸軍で、まず、槍術の技法を応用して戦場での白兵戦用の武技として訓練されました。ついでフランス式の銃剣術が取り入れられましたが、日本人になじまず、再度、槍術等の理を用いて日本式の銃剣術が作られました。
戦場の白兵戦用の武技ですので、第二次世界大戦の終了までは簡単にスポーツ化することはなく推移しています。
私がはじめて銃剣道を本格的に習ったのは航空自衛隊幹部候補生学校でしたが、正課の銃剣道の訓練の時間だけでなく課外のクラブ活動でも銃剣道を選択していましたので、稽古時間だけは確保することができました。
その頃の銃剣道は既に床尾板打撃は禁じられていましたが、しっかりと刺突部位である左胸部(心臓)または喉を突かなければ有効とされず、心臓に剣が届かないような突きはたとえ防具を突いていても「軽い」とされていました。「一本」となる突きは、突き技の特性から、突かれた者の体が衝撃で後傾するような突きであり、前に出ようとしたときに突かれた場合は、身動きができなくなるような突きでした。しかし、銃剣道競技として国体の種目になっていた銃剣道の自衛隊以外への普及を図ろうとする全日本銃剣道連盟の「やって楽しい、見て楽しい・・・・・・。」という方針からどんどんスポーツ化され、防具を突いただけの、心臓に達しない、以前は「軽い」とされて「一本」とならなかった突きが「一本」となるようになり、体全体で突いていたものが、木銃が軽くすばやく、小刻みに動くように体全体で突くのではなく下半身と同時に木銃は前に出てはいるものの、上半身、肩から先で軽く早く突く動きに変わってっていきました。したがって木銃の先に重さはまったく無いような突きが主流となっていきました。特に銃剣道を盛んに行う陸上自衛隊での銃剣道の変化は早かったようで、航空自衛隊に居た私が退職後初めて陸上自衛隊の銃剣道を見たときには「これが同じ銃剣道?」と感じるくらいに変化していました。
もっとも私が大学生の頃に父から「今の銃剣道は自分が海軍に居た頃の銃剣道とは全く違う、あれでは役に立たない。剣道と同じで、白兵戦では使えない。」と聞いていましたので、陸上自衛隊での銃剣道の競技化・スポーツ化はそれほど銃剣道をしない航空自衛隊での競技化・スポーツ化よりも早かったのかもしれません。
「一本」となる突きの基準が変化すれば、「一本」をとるための最適な動きも変化するのは当然のなりゆきで、これは「剣居一体」の項でも書きましたが、現代剣道の試合が日本剣道形の動きとは全く異なっていることと共通します。
一方、短剣術は大正時代に銃を持たぬ砲兵の白兵戦用の武技として対銃剣用に始められたもので、試合は銃剣に対して短剣で行われるというものでした。私が短剣道を始めた頃も、その形が踏襲されていて、自衛官以外の銃剣道の団体戦では一名が短剣で出場しなくてはならず、私は日本武道館で行われる全日本銃剣道優勝大会の一般第一部(都道府県連盟)の試合に何度か短剣で出場し、また中四国大会にも短剣で出場しました。その頃は短剣は銃剣の突きを制しながら半身で入身し体を転じて相手の腕を制し刺突するという動きが行われていましたので、一瞬で勝敗がきまるため、無駄な動きはできず一瞬も気を抜くことはありませんでした。
ところが、短剣道も銃剣道と同じくスポーツとして一般に普及させようとする全日本銃剣道連盟の方針から急速にスポーツ化が図られることになりました。危険な銃剣対短剣の試合はなくなり、短剣対短剣の試合のみとなり、面部への打ちも振冠りを要さず、まるで剣道の打ちと同じになってしまいます。もともと白兵戦用の武技ですので、鉄鉢をかぶっている敵にはよほどの打撃力が無ければ頭上への打突は有効ではありませんが、まるで片手で行う剣道のように遠間から飛び込んで、短剣の竹刀で手首のスナップだけで面を打てば「一本」となるようになり、突きも剣道の打ちと同じように遠間から飛び込んで胴や喉を突くようになってしまい、相手の体に貫通する刺突は必要とされないために、より早く遠くから飛び込んで防具を打ち突くための体使いとなり半身が基本の短剣の試合が飛び込みやすいようにほぼ正対して行われるようになってしまいました。
このように競技として武道が行われるとき「一本」の基準が実際の武器を用いるときの有効な動きとかけ離れてしまうとそれは簡単にスポーツとなってしまいます。
我々も渋川一流の稽古において危険な技を制限した上での意治稽古を行っていますが、あらゆる攻撃を相手から受ける可能性があるとした上で、稽古しなければ、それはルールのもとでのスポーツとなってしまいます。
また、無双神伝英信流の稽古で、たとえ懐剣や袋竹刀を用いて稽古しても、剣を基準とした用い方をせず、ただ単に当てることのみにこだわった場合にはたんなるスポーツの競技となってしまうことを心しなければなりません。
- 2007/03/21(水) 18:02:05|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日、無双神伝英信流の稽古で呼吸についての指導を行いました。
呼吸の指導時のある特定の姿勢の状態では全身に無駄な力みや緊張が全く入らず、呼吸に集中することができます。指導の中で今まで腹式呼吸をしていると思っていた人であっても意外に胸の近くで呼吸をしていた事に気付かれた方もおられると思います。
形の中で行っていなければならないのは臍下丹田の呼吸で、臍下丹田の呼吸を行うには全身の何処にも無駄な力みや緊張がってはいけません。
先日、江戸時代から戦前まで4代にわたって難波一甫流を沼田の阿戸で伝えられていた宇高家において最後に難波一甫流を伝授された宇高良之先生から米国よりお手紙を頂きましたが、手紙の中で先生に呼吸の大切さを繰り返し御教え頂きました。難波一甫流は渋川一流の母流のひとつで、広島藩に広範囲に行なわれた最大の柔術流派で、「意治術」にその特徴があります。
「意治術」とは簡単に述べれば、いわゆる臍下丹田術で全身の無理無駄な力、力みを排除した上で呼吸法によって丹田から全身へ筋力に頼らぬ力を伝えていきます。
ここでは詳述は控えますが、無双神伝英信流抜刀兵法でも渋川一流柔術でも無理無駄を一切排除して深い呼吸を行うことが形の土台となります。しっかりと工夫してください。
- 2007/03/25(日) 23:43:27|
- 居合・剣術・柔術 総論
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本日、岡山県に刀匠上田上田祐定先生を訪ねました。
先生は、日本刀は「折れず、曲がらず、よく斬れる。」を第一義とされ、その後に美しさはついてくるものという信念を持たれ作刀しておられます。
古刀とそれ以降の刀の地金の違いは一目してよくわかるところですが、上田刀匠は「現代刀で古刀に迫ることの出来ない理由は日本刀の素材である地鉄にあり」と、日本刀の生命である地金を追求されるために自家製たたらにより鉄を作るところから刀作りを行われています。
現在、刀工の資格をもつ方は日本に約300名おられ、そのうち、刀工として生計を立てておられるのは約100名、さらに実質的に作刀だけでとなると、約50名と話してくださり、300名中、自家製鉄されておられるのは日本に7名であるとうかがいいました。
上田刀匠のブログのアドレスは
http://bizenosahune.blog67.fc2.com/です。刀を作るための日々のご努力が良くわかります。御一読ください。
また、上田刀匠の備前長船日本刀傳習所のホームページのアドレスは
http://www.h7.dion.ne.jp/~e30kenta/framepage2.htmlです。こちらもご確認ください。
日本刀の製作過程がわかるDVDも出しておられます。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=A-00437307日本刀の製作過程が素人にも理解できるように作られていますので、余裕があればぜひご購入ください。
- 2007/04/04(水) 00:06:45|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日来、無双神伝英信流と渋川一流柔術の指導をしていて気付いたことがあります。
それは自分の体の外を自分の体と繋がったものだ(もしくは自分の体の一部、または延長線上にあるものだ)という感覚がもてるかどうかという問題です。これは先日述べた貫心流「糸引の伝」とも関連していますが、少し詳しく述べてみたいと思います。
無双神伝英信流の稽古をされる方は、刀を抜いて手にしたときに、それが体の一部と感じられるかどうか。よくよく自分自身の感覚と対話してみてください。例えば自分の指先を意識するとき、よほどのことが無ければ、指先を見ていなくても、目をつぶっていても指先は感じることができると思います。この感覚と同じものが刀を手にしたときに切先に存在するかどうか。刀を振り上げたときに自分の後方にある刀の切先を感じられるかどうか。刀を振っている最中にも切先までを感じることができるかどうか。
感じられるためには全身に無理がなく手の内が自然でなければかないませんが、手の内については自分の体の肘や手首の関節のごとく、硬からず弱からず、自然にというところは、よく稽古して頂いているので、詳述は避けます。
この感覚をさらに進めて正座して刀が腰にあるときに刀の柄頭から切先まで自分の一部として感じているかどうか。体の一部になっているかどうか。
このような状態を求めず、ただ刀を自由に振り回そうと腰を固め、刀という物体を扱う稽古をしていたのではいつまでたっても真の自由さはありません。
渋川一流にあっては子供達が陥りがちなのですが相手の手首を取ったら、手首を投げようとし、手首を極めようとします。しかし、この状態では物理的に相手を投げるに過ぎず、居合で言えば刀という物体を振り回しているに過ぎないことになってしまいます。
居合において手の内を通じて刀が体の一部となるように、自分の手の内を通じて相手を自分の体の一部とし、相手の中心までを感じられるのでなければ、相手をコントロールすることはできません。
初心者の方は外見上の完成を焦らず、しっかりとこの感覚を身に付ける稽古をしてください。
- 2007/04/06(金) 17:38:44|
- 居合・剣術・柔術 総論
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4月22日、午後1時30分から廣島護国神社において奉納演武会を実施します。初めて演武される方もおられますので、演武に際してこれだけは心していただきたいと思うことを述べます。
日頃の稽古では、足の位置や手の位置、重心の置き所や呼吸の仕方、目付けや動作の間等々に細かく心を砕いて稽古し、少しでも向上しようと工夫を怠られては居ないと思います。しかし、奉納演武にあっては自分の形の演武は真剣勝負であると心してください。
演武は廣島護国神社の儀式殿という一段高い場所で行いますが、常々述べていますように自分の演武は神々に見ていただくのみで、人に見てもらおうとするものではありません。
したがって、見栄えを飾ったり、未完成の形を少しでも上手に見せようとする心は道の上達にとって全くの妨げでしかありません。見た目は悪かろうとも、またおとなしく見えようとも、他者の目は全く気にする必要はありません。ただただ、日頃稽古している内容を意識せずに全て出し切るだけです。
先に「演武は真剣勝負である」と述べましたが、心や体を力んで、気迫あるように勇ましく見えるように遣えという事ではありません。無双神伝英信流の居合であれば想定の場と仮想の敵に集中すればするほど、心と体はリラックスし、形の手順はきまっていても、どのようにでも体は動く状態になることを意味します。受のいる渋川一流柔術の演武や打太刀のいる無双神伝英信流の太刀打や詰合の演武でも相手が手順どおりにくるから、これに応じて、こう動くというという動きではなく相手の動きにどのようにでも応じ変化できる動きを持つことを意味します。
稽古の目標は心も体も自由になることにあります。
- 2007/04/13(金) 18:20:53|
- 居合・剣術・柔術 総論
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本日、廣島護国神社において貫汪館奉納演武会を実施致しました。
全般的に良い演武をしていただいたと思いますが、今日の演武を見て今後の稽古の目標としていただきたいことを述べます。
まず、無双神伝英信流抜刀兵法の稽古をしておられる方ですが、緊張していたと言うこともあると思いますが肩が体から遊離してしまい斬撃力が弱かった方が見受けられました。これを解消するための意識のトレーニングですが、両手を左右に広げ、両手の指の先から両腰骨のあたりまで、神経の通った幕が蝙蝠の翼のように張っているとイメージしてください。そして、この幕は両手がどのような位置にあろうとも存在しています。まず、このようなイメージトレーニングをされてみてください。
次に渋川一流柔術の子供の演武ですが、生きた演武になりにくく、お遊戯的になってしまいます。子供を指導していただく方は受けをとる時、相手が子供だと思い、どうしても子供のやり易いように手加減してしまいがちです。心を鬼にして仕掛けてください。
次に、今回は指導者の方には主に武器術を演武して頂きましたが、これまでも言っているように得物を自由自在にすばやく扱おうとするのではなく自分の体の一部となるように心掛けてください。
柔術の経験年数の浅い方はどうしても方を手順どおりに行おうとして、生きた形が使えなくなてしまっています。稽古量を増やすことは勿論ですが、呼吸を心掛け、無理無駄遅滞無く技をかけるよう心掛けてください。
以上本日の奉納演武を見て思うところを記しました。個々の稽古目標については道場での稽古の時にお話いたします。
- 2007/04/22(日) 22:56:03|
- 居合・剣術・柔術 総論
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5月4日(金)、京都下鴨神社において下鴨神社主催 日本古武道振興会共催の奉納演武会があり、無双神伝英信流抜刀兵法の演武をいたしました。
演武流派は小笠原流、荒木流軍用小具足、関口新心流、兵法二天一流、双水執流、神夢想林崎流、直心影流薙刀術など、24流派に及びました。
無双神伝英信流の演武は小笠原流に続き2番目の演武でしたが、小笠原流は木馬での演武でしたので境内で行われ、無双神伝英信流が舞殿での一番目の演武となりました。
各流派ともすばらしい演武をされていましたが、なかでも直心影流薙刀術の演武は群をぬいており、演武される方全員が終始隙無く、形のための形ではなく実際に遣えるための活きた形を演じておられました。一緒に行っていた貫汪館の方も、「あれは、そのまま実際に遣える形ですね。」と感想を話していました。
貫汪館で稽古される方の中にはまだ、大きな演武会を見られたことがない方もおられますが、居合を学ぶ方も柔術を学ぶ方も、自分のおこなう武術のみに偏ることなく、広く様々な武術を見ることによって自分の修める武術を違った観点から振り返ることができます。ぜひとも機会を捕らえて見学され、他武術、他流派から学ばれるようお願い致します。
5月27日(日)、一般に公開する形式の貫汪館居合道講習会を行います。
貫汪館ホームページをご確認ください。。
- 2007/05/07(月) 23:30:29|
- 居合・剣術・柔術 総論
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5月5日(土)、京都白峯神宮において白峯神宮主催 日本古武道振興会共催の奉納演武会があり、前日の下鴨神社での演武に引き続き無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の演武をいたしました。
演武流派は前日とあまり変わりませんが、荒木流軍用小具足、鞍馬流剣術、立身流、天神真楊流柔術、琉球古武術、小野派一刀流、風傳流槍術、兵法二天一流、双水執流、神夢想林崎流、直心影流薙刀術など、16流派の演武が行われました。
無双神伝英信流の演武は中山博道先生系の神伝流とは異なる系であるということが最近になって理解されるようになり、そういった意味で私たちの演武を注目してみて頂けるようになっていますので、今後、演武会に出場する機会のある方は、しっかりと稽古を積まれてください。
澁川一流柔術は平成9年から演武致しておりますので、11回目の演武となりました。少しでも上達しているのか己に問い直さなければなりません。
直心影流薙刀術の見事な演武については述べましたが、居合では神夢想林崎流の演武はいつもの事ですが、その自然な動きには驚かされます。三尺三寸の長刀を文字通り「すっ」と抜いておられます。体の何処にも力み、滞りなく、凝り固まりもありません。貫汪館で無双神伝英信流の稽古される方は自分の体がどのような状態にあって動いているのか、よくよく感じてください。
5月27日(日)、一般に公開する形式の貫汪館居合道講習会を行います。
貫汪館ホームページをご確認ください。。
- 2007/05/08(火) 19:27:23|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ある高齢の剣道をされる方が植田平太郎先生を評して、このようにお話になられました。
「植田先生は剣道は非常に強くどんな方を相手にしてもひけをとらなかったけれども、居合はこれといって強さも無く、ひょうひょうとしたもので、ご自身の剣道に比べればたいしたものではなかったので、香川には植田先生の居合をするものはなくなった。」
これを聞いて、私はやはり植田先生の居合は本物であったと感じました。
一般には居合といえば、いかにも気迫を込めたように見える、力強く、角張ったものをイメージするようで、実際に世間にはそのような居合も多く、学会等でお会いする剣道の高段者の方のイメージもその域を出るものではありません。
しかし、居合が自由な動きを養うために形を中心として稽古する武術である以上、そのような「いかにも気迫を込めたように見える、力強く、角張ったもの」であっては稽古を通じて身につけるべき居合は死に物であって、パターンどおりにしか動けない体を作ってしまうものであることは貫汪館で稽古される方は熟知されていることと思います。
世間の見る目、常識に惑わされること無く、稽古されるよう望みます。
5月27日(日)、一般に公開する形式の貫汪館居合道講習会を行います。貫汪館ホームページをご確認ください。
京都白峯神宮奉納演武会の写真をホームページに載せました。
- 2007/05/12(土) 02:42:35|
- 居合・剣術・柔術 総論
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週末、徳島県剣道連盟剣道史編纂委員の坂本先生を案内して、広島県立文書館や貫心流、難波一甫流関係の史跡を巡りました。
貫心流は、廣島に発して徳島にも伝わりました。徳島の細六郎が、徳島における貫心流が混乱していたため真伝を求めて廣島の築山家に入門、許しを得てのち、細家が三代に渡り広島藩で貫心流の教授の中心となり、幕末に至っています。
難波一甫流も同じく廣島で盛んであった流派で、江戸時代に徳島にもたらされ徳島で変化しつつも終戦後まで教授されていました。
貫心流の細六郎が真伝を求めて廣島にやってきたのはすでに50歳をはるかにすぎてからで、当時徳島にも多くの門弟がおり、また江戸に出て教授もしており江戸の門弟も五百人にのぼっていました。
このように貫心流の師範としては功なり名を遂げていたにもかかわらず、すでに当時としては高齢になってから廣島に来て修行のしなおしをしているのですから細六郎の求道心の強さにはただただ心服するのみです。
現代は、すこし稽古をしたら自ら宗家を称して自分を権威付けるような人もおられるようですが、細六郎の求道心を我々は大いに見習わなくてはなりません。
5月27日(日)、一般に公開する形式の貫汪館居合道講習会を行います。貫汪館ホームページをご確認ください。
京都白峯神宮奉納演武会の写真をホームページに載せました。
- 2007/05/14(月) 00:09:17|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流の稽古でも渋川一流の稽古でも、いまだに錯覚をしたまま稽古を続けられる方がおられるように思います。
今お話している錯覚とは自己の力みを力が出ていると勘違いすることを言います。
たとえば、無双神伝英信流の稽古をされる初心者の方に最近「浮雲」をお教えしていますが、肩口に斬りこんだ後、敵を押し倒す動作で、この錯覚をする方が多くおられますので、注意してください。
相手を押し倒すには刀を通じて相手に力が伝わらなければ叶いません。そのためには上半身、肩、腕などの無駄な力を抜いて体を統一し体の中心軸をまわすだけでよいのです。このとき傍目には全く力が入っていないように見えますし、素人目に見れば、あれでは敵を押し倒すことはできないと映ります。
我師、梅本三男貫正先生の下にも先生の没後「敵を押し倒す動作の時、下半身をしっかり固め、自分の腕に力を込めて上半身を使って押し倒す動きでなければ相手は倒れない。」と言われる方がおられました。習っていないと言えばそれまでなのですが、それを弟弟子達にまで強要して悦に入っておられましたから、言う言葉もありません。
渋川一流の稽古でも、錯覚を起こしがちなのが、自分で力んで、力が相手に届いているような気持ちになることです。自分の肩や腕は力の伝達経路なのですから、そこに力みを持てば力は相手に伝達されることはありません。力が正しく伝達される時は力みの無い時ですので、自分の肩や腕に力が入った感覚はありません。
無双神伝英信流の稽古をされる方も、渋川一流の稽古をされる方も過ちを犯さぬよう稽古を続けてください。
5月27日(日)、一般に公開する形式の貫汪館居合道講習会を行います。貫汪館ホームページをご確認ください。
- 2007/05/24(木) 23:56:21|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日の講習会で貫汪館で主として柔術を稽古される方に「肩の力は抜くこと」「鞘の中で音が立たぬように抜き納めをすること」という条件を出して稽古していただきました。
その結果、随分と自分の肩の強張りを感じていただくことができたようです。刀を扱うときに肩に強張りがあっては体幹部の力は切先に至りませんし、柔術の技も力に頼っていないようで存外力がこもっているものです。
前述したように「剣居一体」(現代剣道と居合が一体であること)は極端に困難な事であると思っていますが、古武道であれば、全ての武術は一体であり、「柔居一体」は当然のことです。居合の動きでよくないところがあれば、それは柔術の動きにおいても良くない動きとして現れてきますので、今回「肩」に気付かれたのはそれだけで、柔術の上達につながっていきます。
今後は「肩」の存在はないと観念し、工夫を続けて下さい。
貫汪館のホームページの無雙神傳英信流抜刀兵法の行事のページに講習会の写真を載せましたので、御覧下さい。
- 2007/05/30(水) 18:48:04|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流の稽古をして頂いている初心者の方には先日来、英信流表の形の稽古をしていただいていますが、英信流は大森流よりも体遣いにおいて難易度の高い形が多く、随分と苦労されていることと思います。
私は常々、無理無駄なく、力み無く、体を固めること無く、動くことが形の稽古の上での絶対条件であるとお話していますので、初心者の方は、そのように形をつかうと自由に動けるどころか、体がぐらついて形にもならないとお感じのことと思います。
普通であれば、ここで体を固めて体がぶれないようにし、いかにもしっかりした動きであるかのように外見を繕ってしまいますが、貫汪館ではそのようなことは許されません。
間に合わせの動きは所詮間に合わせでしかなく、本質的に働ける体はできようはずもありません。ぐらつくからこそ、ぶれが生じるからこそ、動け、働きをなす体を養うことができます。ぐらつかず、ぶれないのは、ぶれず、ぐらつかない動きを直接的に求めた結果としてそうなったのではなく、動きの質が向上した結果としてそのようにに変化したにすぎません。
貫汪館は幸いに、何々連盟といった居合の競技をするような団体には所属しておりません。稽古の初期の段階から外見のみを追いかけてしまえば、貫汪館における本質的な上達とは全く無縁の、ぐらつかない、ぶれない動きでは無く、動けない固まった動きが身についてしまいます。
常に自分をいましめて、外見を求めることなく本質を追求してください。
- 2007/06/01(金) 19:53:38|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日は無双神伝英信流の稽古のなかでの間に合わせの動きについて述べましたが、渋川一流の稽古でも同じようなことが起こります。
渋川一流の稽古においても無理無駄なく、無理な力は一切入れず稽古するということが絶対条件ですが、柔術の稽古では常に相手が居るので、初心者の方が「捕」が「受」をきめようとすればするほど、どうしても動きを腕力、肩の力上半身の力で行おうとする傾向が生じます。
しかし、生の力に頼る稽古を続ける限り、決して業は生まれてはきません。初心のうちには無理せず、無駄なく、自然に動くことを求め、その結果、決まっていたという稽古を心掛けなければなりません。
「受」の関節をきめれるのも、また「受」を投げれるのも、全ては自分が理にかなった動きをした結果であって、決して直接的に「受」をどうこうしようとした結果ではありません。
- 2007/06/02(土) 19:53:43|
- 居合・剣術・柔術 総論
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前回の記述でも少し触れましたが、6月9日(土)、劇団夢現舎公演 No.20 『黄金時代(仮)』 を観に東京に行ってきました。
劇団夢現舎では数回、無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の稽古をしたことがあり、俳優さんたちとは顔なじみなのですが、舞台を見るのは初めてでした。俳優さんたちは居合や柔術の本質的な動きを非常に短時間で習得されるので、一体どんな舞台なのだろうかと、とても興味がありました。
演劇の内容は直接、観に行っていただくとして、とても興味深かったのはお芝居であるのに芝居を感じさせない演技といってよいかどうかわかりませんがそこで現実に何かが進行しているような錯覚に陥るような演技です。
演劇と、無双神伝英信流抜刀兵法・渋川一流柔術は何の関係も無いように思われるかもしれませんが、居合の稽古のとき、そこにまるで本物の敵がいるかのような想定がなければ、それは踊りになってしまいます。これは相手のいる太刀打や詰合でも同じ事で、手順が決まっているからそのように動くのではなく、毎回毎回新たな状況下にあると言うことを認識して稽古しなければ上達はありません。
柔術の稽古も同じ事で、「受」がいてくれるからと中途半端な動きで形を繰り返していたのでは何時までたっても上達はしません。相手を、刃物を持った敵と思い、しっかりと稽古をつんでください。
劇団夢現舎の公演は下記のH.Pで見ることができます。
公演は18日(月)までです、興味のある方はぜひお尋ねください。
http://www.mugensha.net/j/03next_stage/next_stage.html
- 2007/06/11(月) 23:40:18|
- 居合・剣術・柔術 総論
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渋川一流柔術の流祖 首藤蔵之進満時の墓は時宗のお寺にあります。
時宗の宗祖は 証誠大師 一遍上人で、浄土宗の一流、西山派の開祖証空上人の孫弟子に当ります。時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊とします。この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、生命を身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えが時宗の教えです。
一遍上人はすべてを捨て去るために、片時も留まることなく諸国を歩き続け16年間で日本国中をほとんど歩きました。上人は下記のように説いています。
「念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨、善悪の境界をもすて、
貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるヽ心をもすて、
極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、
一切の事をすてヽ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ、」
この言葉、流祖 首藤蔵之進満時は彼の柔術との関わりの中でどのようにとらえたのでしょうか。
- 2007/06/24(日) 00:26:01|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法も渋川一流柔術も稽古の大半は形稽古です。
いつもお話ししていますが、この形稽古を、決められた手順(形)を見事に行うという意識で稽古していたのでは決して上達することはありません。
無双神伝英信流の一人で行う形の稽古において、常にお話していますが、形の手順は決まっていてもいつ何時でも変化できる心と体の状態を稽古しなければ形稽古の意味はありません。たとえば、抜付けるときいつでも刀が返せ、変化できる状態にあるかどうか、抜付けてのち、体の前進のときいつでも後退できる状態にあるのかどうか。そのような心と体の状態無しに形を稽古してもそれは踊り以下のものにすぎません。外見はおなじであっても武術ではありません。求めるものは自由さであって外見の見事さではないのです。「止まって止まらず、動いて動かず」は術理であってただの観念論ではありません。
渋川一流柔術の稽古もしかり。たとえ二人で稽古していても、それが生きた形でなければ、すぐに返されてしまいます。この形はこういう手順だからという稽古をしていてはどのような状況にも対応できません。
ある居合の流派では形の変化の多さを誇ることもあるようですが、形稽古はいかようにも変化できる体使いを身につけるためにあるのですから、このように変化できる、あのように変化できるとして変化の形をこしらえて、その形を稽古して慢心していればかえって形に居着いて変化できなくなってしまいます。
全ては一つであり、一つは全てなのです。
下の写真は先日の調査の際撮影した史料である流派の流祖がある人物にだした印可状の一部です。この絵を見て自分を振り返って何も得るところがなければ・・・。形の稽古に打ち込む前に、様々な物に触れ経験し見識を高めてください。
- 2007/07/10(火) 21:23:39|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日の調査で、多くの流派の伝書・解説書に目を通しました。そこにあるのは、流派ごとの多様性です。
現在も柔術は各流派ごとの多様性が存在し、古武道演武会に赴けば各流各様であるということが分かります。しかし、明治維新以降、戦前まで柔術においても武徳会のもとで乱取の画一化が進められていきました。講道館柔道がその中心であったのですが、各流派にあった独自の乱取の技を恣意的に取捨選択し、全国的に統一していきました。結果、広島においても形と乱取の両方を稽古する古流柔術は形の指導をやめ、乱取一辺倒になり、流派の存続ができなくなっているという歴史的事実があります。形で稽古する技の90%以上は乱取では反則技ですから。
剣術はどうでしょうか。先日の調査で柳川市の郷土史家の藤吉先生は古い時代に大石神影流の稽古をした人は防具を着用しての稽古でも大石神影流独自の構え動きをされたとお話くださいました。今は剣道で各流各派の動きをする方を見ることがありません。全国的に統一されてしまったのは何故でしょうか。
居合は・・・? 幸いに無双神伝英信流は、流派の違いを無視し独自の基準で段位を授けるような何々連盟といった組織に所属せず、師 梅本三男貫正先生から伝えられた技をそのままに稽古できる環境にあります。ある組織では流派に関わらずその組織で定めた統一した形をまず稽古しなければならないようです。そのような稽古を先にしてしまったら、そしてそれが正しいのだとされたら、その後、流派の形を稽古したとしても流派独自の動きを身につけることは非常に困難なことになってしまいます。流派を名乗って違う手順の形をしたとしても、その体動は流派を超えて同じものになってしまいます。そこには流派の独自性はありません。
『正さ』とは各流各派の教習方法の中での『正さ』であって、正しいのはこれだと他から強制されるものではありません。様々な教習法があったから、多様性をお互いに認めることができたから武術が無用の長物とはならなかったのだと思います。
- 2007/07/11(水) 22:55:55|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流の稽古でも渋川一流の稽古でも指導していて、手本を見せ、やってもらっても、全く理解できていないことがあります。
これは理解できるレベルに至っていないから、知らないから、見えていないということです。
以前、私の演武を見られた方が稽古に来られ詳細にわたって説明すると、「見たときには理解できていなかった。異なった理解をしていた。」と話されました。見ただけでは理解できていなかったのです。
勿論、相応のレベルにある人であれば、見ただけで、理解することができますが、そのレベルにない者は伝授されなければ、見て取ることは難しいのだと言わざるを得ません。
かって無双神伝英信流の居合の師 梅本三男貫正先生の弟子でありながら随分と長い間ご指導から遠ざかられていた人が居ました。その方は先生の業が飛躍的に向上される以前の教えしか受けられていませんので、先生の入神後、先生の晩年の抜付けをビデオで見られても、かつての理論で先生の動きを説明してはばかられませんでした。いわく「抜付けは両肩甲骨をくっつける」
先生はこのような動きを完全に否定され「絶対に行ってはならないこと」とされていましたので、ビデオの中でそのような動きをされようはありませんし、実際にそのような動きをされてはいないのです。しかし、その方にはそのようにしか見えない。つまり、「知らないものは見えない」のです。
歌に
「師にとわすいかに大事を教へき心をすましねんころにとへ」
「道を立深く執心する人に大事のこさす大切にせよ」
- 2007/07/14(土) 22:04:28|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法の稽古でも渋川一流柔術の稽古においても、指導されたことをただ漫然と繰り返していたのでは真の上達はありません。
指導されたことは、何を意図して指導されたのか、何を目指して指導されたのかという本質を受け取る稽古をしなければなりません。
無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生は稽古のさいに、よく言葉を用いて指導されました。例えば「脇をしめる。」という言葉を用いられました。これは多くの人が刀を振り冠るさいに体幹ではなく肩から先の部分を用いて刀を動かそうとし、刀と体の中心がつながらないために表面に現れた事象を直そうとされた指導でした。したがって「脇をしめる。」という言葉は指導のための方便であり、ある程度のレベルになれば「脇をしめる」と意識しなくても無理無駄な力が入らなければ「脇はつながる」ものです。
しかし、先生の弟子の多くは、いつまでたっても「脇をしめる」ということに居着き、力を込めて脇をしめようとされていました。そのほうが脇がしまるという実感が得やすいからだと思うのですが、それは逆の方向に働き、体の自由な働きを阻害してしまう原因となってしまいます。私はそのような例をたくさん見てきたので同じ指導をするのに「脇をしめる」という言葉をもちいてはいません。
言葉は所詮、言葉に過ぎず、全体をあらわすことは不可能です。言葉を通じて何を伝えたいのかを理解する力を養っていただきたいと思います。
渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生の指導は梅本三男貫正先生の指導とは対照的に、言葉を用いず動きで示されました。
「こう。」「こう。」と言われ動きで私の至らぬところを教えてくださるのですが、こちらがその動きを見取る力が無ければ、とても業は身につきません。示してくださるのは多くても2回くらい、その間に何を示して頂いているのかを見取らなければなりません。漫然と見ていたのではとても身につくものではありませんでした。このような指導方法は言葉による誤解を防ぐためには最も良い方法なのですが、受け取る側の力が無ければ受け取ることはできません。
私は、両先生の指導方法を人によって使い分けて指導していますが、どうか本質を受け取る稽古をしていただきたいと思います。
- 2007/07/18(水) 17:42:26|
- 居合・剣術・柔術 総論
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長年稽古していても、「感じる事と想像する事」の違いがおわかりになられていない方がおられますので、道場で指導していることではありますが、あらためて述べてみたいと思います。
たとえば時に応じて、「天地人を貫いており、己の体の中心を通っている線を感じる」というお話をしますが、これを感じることができないために、実際には存在しないものと思い込み、感じようとする努力もせず、自分の考えを優先し、「体の中心を貫く線を想像する」というかってな解釈をされてしまうことがあります。たとえ初心者には感じ取れなくとも実際に存在するものであるので、私は「感じる」という表現を用いています。それを追求すること無しに想像して作り出して、それで良しとしていたのでは、いつまでたっても稽古は進みません。
また、「腕の重さを感じて」とお話する時に、たとえ今まで腕の重さを感じずに生活していた人であってもそれを「腕の重さがあると想像」していたのでは稽古はそこから進むことはありません。実際に腕の重さは存在しており、自分に感じ取れるだけの繊細さが備わっていないだけなのですから。
「感じる」とは存在するものを認識することであり、「想像する」とは存在しない物を自分の思いで作り出すことをいいます。
無双神伝英信流でも渋川一流でも極意は己の内にあります。無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生も 渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生も己を磨き内なる極意を見出すことを大切にされました。決して自己に備わっていない物を一枚一枚身に付けて(作り出して)いくわけではないのです。
よくよく工夫してください。
- 2007/07/21(土) 00:38:01|
- 居合・剣術・柔術 総論
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道場における稽古のみが業を進化させるのではなく、むしろ日常生活における武術とは全く関係のないようなことが、業を進化させるということも頭の片隅においていただきたいと思います。
行住坐臥という言葉もあり、日常生活すべてが修行につながりますが、私の趣味というか暇な時間があるときの暇つぶし(暇な時間はないのですが)が思いもしないことに自分自身の動きに気付きを与えてくれたということを御紹介するために私の作品の写真を掲載してみます。
もともと私自身は文化的な趣味一つ無く、書画も全くだめ、ただの武骨な人間なのですが、あるとき、あるきっかけから、がま口の財布を作ってみました。なぜか、はまってしまい、今までに作ったがま口の財布やバッグは数知れず。全てはもらわれていきましたので、手元には残っていません。
がま口の財布やバッグ作りで針仕事(ミシンが使えないので)をしていたら、あるとき針が自分の剣の動きの至らぬところを教えてくれました。なるほどと腑に落ち、それ以後剣の動きは進化しました。
皆さんも何気ないことにでも真剣に取り組んでいたら、何かが起こると思います。
作品1
一昨年の夏、唯一の道楽である愛車ZRX1200Sでの金沢、佐渡島ツーリングの際、金沢で手書き友禅を体験し、二枚の壁飾りを縫って作ったポーチ
作品2
雛祭りのタペストリーを二枚使って作ったハンドバッグ
作品3
着物のはぎれをインターネットのオークションで買って作った春用のハンドバッグ
作品4
時間があれば行く、山口県柳井市のやない西蔵で機織をして作った生地を用いて作ったポシェット(ちなみに私は柳井縞の会の会員です)
- 2007/07/29(日) 15:55:28|
- 居合・剣術・柔術 総論
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何をどのように教えても、全ての手段を尽くして教えても、上達されない方がおられます。
自分ではそうしているつもり、努力をしていないわけではない、でも先生や先輩方からは「違う」と指摘される。自分では違いが分からない。そのように思われていると思います。
そのような方に共通して言えることは自分の内なる動き、働きを感じることが苦手であるということです。厳しい言い方をすれば、いままでの人生で形作ってきた自分の価値観が絶対的な物になっており、無心になって何かを感じることができなくなっているのです。
外に現れるのは内側の働きの結果であって、決して短絡的に外側の動きを求めている訳ではありません。したがって、外見は似ていても異質な動きは異質なのであって、たとえ外見は似ていなくても、同質の動きというものが存在します。求めるのは外見の向上ではなく本質の向上であって、本質の向上無くしては形を通じて自由な働きを得ることは不可能です。
今まで何度も繰り返していますが、形作ろうとすることは脇に置き、自分の内なる動き、働きを感じる努力を優先してください。
そのため、もし上達を望むのであれば、あらゆる努力をしてみてください。
自分の価値判断を捨て純粋に鳥の囀りを聞き、風の音を聞き、太陽の温もりを感じ、花の美しさを愛で、蝶の舞う様を美しいと感じてください。無心になって心にふと落ちる時に上達は始まります。
- 2007/07/30(月) 23:47:12|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法でも渋川一流柔術でも、指導する際に統一したマニュアルがあるのではなく、一人一人の動きを見たうえでその人にとって最適な指導方法をとっています。
貫汪館の武術が現代武道のような集団教授法をとれないのは、外見を身につけて欲しいわけではなく、個に応じて本質を身に付けていただきたいからなのです。したがって、ある人には上といい、ある人には下というように全く反対の事を言っているような場合がありますが、これは個に応じた指導をしているためであって、会得していただきたい本質は同じものです。
個に応じて指導しているがゆえに、その指導には全身全霊を用いており、いいかげんなことは一言たりともお話はしていませんし、魂をすり減らす思いでお教えする場合さへあります。
しかしながら、指導者として最善の方法は示すものの、受け取る側がそれをまともに受け取らず、このくらいで良いと思ってしまえば決して上達することはありません。
最近はこれまでの経験から、稽古したいと来られても、カルチャーセンターに通うような気持ちがで来られた場合には、稽古は厳しいとお話して他に行って頂く様にしていますので、いい加減な気持ちで稽古する方はおられませんが、(ある時、カルチャーセンターの講師をしておられた方にかつて道場でおこった事をお話すると、「そんな方はカルチャーセンターにもいない、ひどすぎます。」と言われたことがありました。)まだまだ探求心が十分とは言えない状況を目にすることもあります。
初心者の方には、「それで良い。」は指導者が言いますので、決して自己満足で指示された稽古を中断されないようにお願い致します。
大事をは皆受取と思ふともみかかさるには得る道はなし
- 2007/08/01(水) 22:20:58|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日、無双神伝英信流の稽古の際に、姿勢を正すのに鏡は常日頃の使用は勧められないとお話いたしました。
初心者の方に鏡を見ていただいたのは礼法後、立ち上がる時に左に傾いているのが体感として、どうしても分からないようでしたので、稽古を始められて2ヵ月半、初めて鏡を見て、確認していただきました。本来、動きのひずみは自分の体に問えば分かるものなのですので、あえて鏡を見ていただいて形を正すという稽古はしていないのです。
鏡を見て姿勢を正す稽古をすると、どうしても陥りがちになるのが、外見を正そうとすることです。左に傾いていれば左側面に力を込め体を立て直し、右に傾いていれば右側面に力を込め体を立て直し、前傾していれば腰にぐっと力をいれ反ろうとする。このようにすれば軍隊式の姿勢のとり方と同じで一見しっかりした姿勢が出来上がったように感じられ、見た目も真っ直ぐになったように感じられます。しかし、それば貫汪館の武術で求める自由に動けるということとは正反対の稽古方法となってしまいます。
たとえば左に傾いている時には、おうおうにして右に無理無駄な力がこもって、つっぱっているからであり、また前傾しているのは背面に無理無駄な力がこもって、こわばっているからなのです。これらを取り除くことがなければ道場で求めている姿勢は定まることはありません。
外見を正すのではなく、内面を感じて正す稽古。そのため、鏡の使用をあまりお勧めしていないのです。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/08/12(日) 12:25:13|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日、無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生のお墓にお参りしてきました。
実は先生の神道の師である、ある方より、先生が帰幽された後、私に「墓は魄のとどまるところ、先生の魂は岩城山にお祭してあるので、梅本先生の業を受け継がれている先生(私のこと)は岩城山にお参りするのが良いのです。また岩城山におもむく時間が無い時には思いを岩城山に向けて祈念すれば、梅本先生の魂に心が通じ、導いていただけます。」とお話いただいていましたので常日頃は岩城山にお参りし、先生のお墓には年に数度しかお参りはしていないのですが。
先生は帰幽される5ヶ月前、ある御遺言を私に伝えられました。そのとき先生は病状もかなり悪くなっておられ床に寝ておられましたが、起き上がられて、私を応接間に導かれました。先生はご自身で「幽界にいるのか、この世にいるのか分からぬ時がある。半分は向うに居り、半分はこちらに居るような気がしている。」と話されましたが、はっきりと、ある事を伝えられました。
その後、数年はあえて先生の御遺言にふたをして生きてきましたが、結局、状況は先生のお話になったとおりになり、御遺言通りに生きざるをえなくなりました。今、考えるとその時、先生のお話になった事は全く正しく、そのようにならざるを得ない予定されたものであったように感じます。
8月16日(木)は居合の稽古を通常通り廿日市市スポーツセンターで行います。ご見学の方はお越しください。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/08/13(月) 18:50:39|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日、渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生のお墓参りに行ってきました。
いつも、お墓参りの前に先生の御長男の住んでおられる御家にお伺いし、仏壇にお供えをしてから御墓参りをしています。その御家で渋川一流柔術の稽古を付けていただきましたので、なんとも言えず、懐かしいというより、今でも先生のおられる場所のような感じがします。
先生のお墓は坂町の小高い岡の上にあり、そこからは瀬戸内海を見渡すことができます。先生がなくなられて以来、墓参を欠かすことはなく、常に身近におられ、見守ってくださるのを感じています。
先生は夏に御中元を、冬に御歳暮をお持ちした際、また、どこかに出かけた時にお土産をお持ちした際に、よくご自身の経験をお話くださいました。
「森本君はよくありがたいものをもってきてくれるが、私も師匠の車地國松先生にはお中元、お歳暮を欠かしたことは無かった。先生はお歳をめされてからは、あまり出歩かれなくなられたので、先生にとって必要な物、喜んでいただけるものを考えてお持ちした。時々、仕事の帰りにも、いい刺身があれば『先生、今日はいいお刺身がありました』といってお持ちし、いい西瓜ができれば冷やしてお持ちした。喜んでいただけるのが何よりだった。」と。
私も、奥様を先になくされた先生にとって体に良いもの、美味しい物、必要な物を選んでお持ちしていましたので、私の思いをくんでお話になったのだと思います。
先生は安易に弟子は取られませんでしたが、私には「師弟といえば親子も同然、子が困っている時に親が助けるのは当たり前の事。」とお話くださり、本当によくしてくださいました。私も実の親以上に思いお仕えしましたが、至らぬことばかりでした。
先生がお亡くなりになったあと、お嬢様が「父は晩年になって『いい弟子ができた。いい弟子ができた。』と喜んでいました。」とお話くださった事がすくいです。
8月16日(木)は居合の稽古を通常通り廿日市市スポーツセンターで行います。ご見学の方はお越しください。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/08/14(火) 18:08:58|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法の稽古をされる方にも渋川一流柔術の稽古をされる方にも私自身は指導者として、道場以外でも常日頃、どうしたら上達していただけるだろうかと思案しています。
私自身の経験から述べれば、無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生は私が入門した頃は、色々な言葉を用い、あるいは道具を用い説明してくださいました。しかし、先生ご自身は天才肌であったために、自分がこう努力したということを教えてくださるのではなく(先生ご自身は教えられなくてもできていたという事が多かったようです)、自分の動きを自分で考えるとこうなっていたので、このように動きなさいという教え方でした。
したがって説明されることとご自身がされていることの差も多く
「脇をカチカチになるくらいぎゅっとしめなさい。」(先生ご自身は脇は自然にしまっていましたが、カチカチではなく自然でした)
「刀を構えた時には両手首にボルトが通っているくらいに真っ直ぐにしなさい。」(言われたとおりに意識すると外見は似たようにはなるのですが、固くなってしまい自由さはありません。先生は内面から整っていたので、自然にそのような形になっていたのです)
等々、よく先生の動きを観察すると先生の言葉に(動きにではなく)忠実になろうとすればするほど、先生の本質に迫ることは難しくなってしまいました。
晩年、飛躍的に業が進化された先生はほとんど言葉を用いては説明されないようになりました。私もそのほうが理解できました。(私のレベルが少しは上がっていたのかもしれませんが)。
一方、渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生は始めから言葉で示されることは無く、すべて動きをもって示してくださいました。しかし一つの形をを見せて、あるいは掛けていただけるのは、多くても3回くらいまで、集中して見なければなりませんでしたし、掛けていただける時には感覚を忘れないように集中しなければなりませんでした。今でも先生の業は私の目と体に焼きついています。
私自身は稽古は365日と思っていましたので、それでも良かったのだと思います。先生方の動きは私の体の中に宿っています。
前置きが長くなりましたが、私にとっての指導上の問題は、仕事の都合で、週に一回しか稽古できないような人達にどのように上達していただくかと言う事です。少なくとも家で一人稽古をしていただくということを前提にして・・。
言葉を用いれば言葉に居付き、現代教育になれた現代人に見て取れというのも難しく。
ある程度進んだ人には「自得」といって自分で見て取っていただき、道がそれている場合にはそれを修正する程度にしていますが、初心者の方にはそれは難しく。
様々に思いをめぐらせていますが、今、居合も柔術も初心者の方に欠けているのは「間合」についての工夫であろうと思います。居合の形の稽古をはじめた初心者の方は、どうしても動かない敵を斬りに行こうとしています。その結果形の条件としての間が崩れ動きが崩れる方が多く居られます。はじめに説明したとおり、敵が斬りかかってくる、その間であるということを忘れないで頂きたいと思います。
柔術では一つ一つの形で相手に技を掛ける時に「間合」は異なります。この「間合」が数センチ崩れただけで同じ業を掛けても筋力を必要としてしまうことが多くあります。全般的に初心者の方は間が遠いのですが。
盆休みががあけた後は、間合いについての工夫を心掛けて頂きたいと思います。
明日、16日(木)の居合の稽古は廿日市スポーツセンターでいつもの時間に行います。
貫汪館ホームページの会報のページに月刊『武道』3月号と6月号の記事を載せましたのご覧下さい。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/08/15(水) 12:20:32|
- 居合・剣術・柔術 総論
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木曜日の無双神伝英信流の稽古をみていて、初心者の中に稽古の方法を間違え、このままでは取り返しがつかないことになってしまいそうな方が居られますので、くどいようですが稽古に当たって絶対に心しておかねばならないことを述べます。
無双神伝英信流でも渋川一流でも武術の業というものは、今までの日常生活で無意識に慣れてしまった動きとはまったく異質な動きを求めています。たまたま、日常生活の動きが武術の動きと本質的に同じである方が居られるかもしれませんが、そのような方はいまだ見たことがありません。
ところが、稽古を見ていると、道場内での動きが日常生活の動きの延長線上にあり、動きを本質的に変えようとはしない稽古をされている方がいます。本質が変わっていないのに外見だけを真似することは、その流派を学ぶということではなく、自身では出来るようになっていると思われていても、無双神伝英信流や渋川一流という武術の視点から見た場合、それは全く上達を意味しません。それどころか、下手に猿真似ができれば、後の向上にとって、マイナスでしかないのです。
稽古は今までの生活では体験したことが無く経験したことが無い(したことが無いのでその動きに不慣れだという意味ではなく)本質的な動きを身につけようとしているのですから、始めは自分の動きがおぼつかなく、頼りないのがあたりまえで、このおぼつかなさ、頼りなさが無ければ初心者にもなれていないということを意味しています。
人は何十年も生きていれば、いまさら赤ん坊のように立てばすぐに転び、歩めばすぐに躓くような思いはしたくは無いだろうと思います。しかし、その経験無しには新たな業を習得することは不可能です。
また、形の稽古をはじめれば、私の動きを見て居合は速くなければ、強くなければならないのだと勘違いされ(私の動きは自分ではとても満足できないくらいに遅く弱いのですが)それまでの稽古を台無しにされ、直接的に速さ強さを求めようとされる方が居られます。しかし、今の私の動きは速さ、強さを求めてきた結果ではありません。師が稽古の指標として示された無理無駄の無い動きを求めてきた過程で、自然とそのような動きになってきただけで、自分の体感でも、速さ、強さは感じることがありません。むしろそれらを感じてしまった時には自分の動きの調和が崩れてしまっている時なのです。
初心者の方は、くれぐれもこのことを忘れず、本当の意味での初心者として稽古されてください。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/08/18(土) 10:23:03|
- 居合・剣術・柔術 総論
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本日の無双神伝英信流の稽古では、幸いなことに皆さんそれぞれに進歩さていました。
先日「太刀打」を厳しく指導した方は今日の稽古ではその成果が出ており、「太刀打」の稽古でも「詰合」の稽古でも相手との関係において常に主導権をとるという意識をはっきりもたれており、動きもそれにつれて各段に向上していました。ある程度体がつかえるようになった人は、意識の持ちよう一つで、段違いに向上します。「大森流」「英信流表」の形にもその成果が現れ、一昨日に比べれば、格段の進歩でした。
また先週、動きが日常生活の延長線上にしかなかった方も、稽古の後半、気付きを得られ、ずいぶん稽古内容が良くなってきました。
どの方にも、あてはまるのですが、自分を知ることが上達のための重要なポイントとなります。
それは鏡やビデオで自分の姿を見て外見を作るのとは異なります。自分自身の内なる自然を、妥協することなく深く深く感じることにあります。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/08/23(木) 23:20:40|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法、渋川一流柔術に共通して形の稽古というものは非常に繊細で同じ事をしているつもりでも、ほんの僅かでも歩む道がくるってしまえば、取り返しのつかないことになってしまいます。
ゆえに、渋川一流の稽古においても私がよしと思う方にのみ指導者または兄弟子として初心者を指導して頂いています。稽古年数が長く、たとえ手順を正確に覚えていても動きの本質ができていなければ、指導的立場には立って頂いていません。何も知らない初心者の方に、間違った方向付けをしてしまいかねないからです。
これは無双神伝英信流においてはとくに当てはまることですので、居合の稽古では道場では私以外に指導的立場にある者はいません。一人で行う居合の形であっても兄弟子であるからということで、形をお手本として見させていないのは、間違った動きを良いものとして植え付けたくはないからです。太刀打にあっても打太刀が遣方を導きますので、動きのできていないものが打太刀にたてば必ず、遣方の動きはおかしくなってしまいます。
技を少し覚えると、すぐに教えたくなる方も世間一般にはおられますが、貫汪館にあっては、まず自分の稽古に専念していただきたいと思います。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/06(木) 23:11:45|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日、日本武道学会に出席するために上京し、学会が終わった翌日、東京都杉並区高円寺南2-7-1拓都ビルB1F にある
劇団夢現舎で居合の稽古をしました。
午前中は広い場所を借りていただいて「太刀打」の稽古、午後は稽古場で大森流を陰陽進退まで稽古しました。
「太刀打」の稽古は劇団の皆さんは初めてでしたので、手順を覚えることに苦労されたと思いますが、流石に日々の演劇のための稽古の質が高いので、要所要所の難易度の高い体遣いもかなりのレベルで習得されていました。
午後は大森流の稽古をしましたが、抜付け以外の動きは非常によく稽古されていました。私が反省しなければならないのは抜付けの教え方にありました。
私自身、抜付けの動作が以前に比べてどんどん楽に自由になっており、抜いていっているという実感はほとんどありません。抜付けの動きは、あえて言葉にすれば「体が楽になっていけば(いたら)抜けていた」という感じであり、傍から見ればスッと速く抜いているという様に見えるらしいのですが、実際は速さを感じることはありません。
今回の講習では「見たとおりにやってください。」と教えましたので、見たとおりにやられたら、意図的にスッと速く抜くという動きになってしまったのだと思います。結果として皆さん切先が伸びず、ちじこまった動きになっており、固い動きになってしまいました。いくら速く抜けても敵との間合いが計れてなければ敵を倒すことはできません。
私は自分が自分の動きで抜かず、ゆっくり静かに(自分の感覚ではそうなのですが)見た目に分かるように抜くべきであったのかと思っています。はじめゆっくり静かに正確に抜く稽古をしなければ、できあがるものは全くの別物になってしまいます。次回の稽古ではここを主として会得していただきたいと思っています。
来年の夢現舎の公演予定は下記のようになっています。
2008年
2月1日(金)~21日(木) No.21 『続・遺失物安置室の男』 アトラクターズ・スタジオ
8月 エジンバラ国際フェスティバル参加 英国・エジンバラ
11月8日(土)~9日(日) 凱旋公演 於 紀伊國屋サザンシアター
(協力:国際アルファ通信) 稽古が終わって、JALで羽田空港から広島空港まで帰り、そこからZRX1200Sに乗って高速道路を走り、約1時間かけて廿日市に帰ったのですが、そのとき不思議な感覚を覚えました。
バイクに乗ると軽い前傾姿勢であるのにもかかわらず、全身がすーっと楽になったのです。それは上田先生に打って頂いた刀で居合を抜いている時と全く同じ状態です。
バイクに乗るのも稽古の一つと考え工夫して乗っていたのでそうなったのかもしれません。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/07(金) 22:30:39|
- 居合・剣術・柔術 総論
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一昨日の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古、本日の渋川一流柔術ともに稽古する方の良い動きを経験することができました。
まず、一昨日の居合の稽古の話ですが、「詰合」の拳取の方の稽古で、ある方が遣方をされる時に今までは打太刀の拳を取る手の内がどうしても弱かったのですが、初めて私が身動きできない動きをされるようになりました。これまでの稽古は静かに無理なく無駄なくをひたすらに追求していただいており、速さ強さなどは全く求めてもおりませんでした。その無理無駄のない動きがやっと功を表しはじめたのです。
本人は全く力を入れていないのに私の腕は動かそうにも動かない。体のほんの僅かな働きでこうも違うものかと驚かれていました。拳取の動きができたら岩波で私を投げることもでき始め、膝で押さえられたら身動きもできないほどに定まってきました。
本日の柔術の稽古では、今まで動きがへなへな、ふらふらだった子供が返投げで私を投げて膝で腕を押さえたのですが、この動きも非常によく、腕を動かそうにも動きませんでした。
居合の動きができるようになったのは女性で、柔術の動きができるようになったのは小学校4年生の女の子です。
二人とも筋力で私を押さえつけようとは全く思ってもいませんから(不可能だということも分かりきっていますので)、はじめから素直に、指導される通にただひたすら努力を重ねてきました。結果として静かで無理無駄のない動きが速さ強さを生みだし始めたのです。今は始まりに過ぎませんが、やがて業は大きく成長していくことと思います。
二人の動きには強さを生み出そうとするいわゆるタメなどはありませんし、すらすらと動きは流れています。その自然な流れこそが、速さ強さを生み出します。男性の皆さんはどうしても無意識のうちに筋力に頼ろうとしがちです。今一度自分の動きを見つめなおしてください。
特に、男性の初心者の方は何かの動きをしようとするとタメをつくってから強く動こうとしがちです。タメは常に変化し続ける彼我の関係を有する武術にあっては隙以外の何物でもありません。居付いた隙はすぐに斬られてしまいます。また、タメを作って充実していると感じるのは体の力みを感じているに過ぎないのだと気付かねばなりません。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/08(土) 22:11:20|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日所用があって岡山県長船町の刀匠 上田祐定先生のもとへ行ってきました。
今、使用している二尺八寸二分の刀を打って頂いた刀匠です。夏も終わり再び居合刀から真剣の使用に戻りましたが、やはり上田先生の真剣でなければしっくりきません。先生の肩は腰にさしただけで、体の感覚が全く異なり、数段上達します。私の真剣は貫汪館のホームページの無雙神傳英信流抜刀兵法のトップページに載せている刀です。
上田先生は現代の多くの刀工と異なり日本刀は「折れず曲がらず、よく斬れる」がその条件であるという立場から地金の工夫をされ、砂鉄から自家製鋼されています。
お訪ねしたときは、ちょうど折り返し鍛錬をはじめらるところで、見学させていただきました。最近はお弟子さんも多く日本一の刀鍛冶集団になっておられるので、横座にお弟子さんが座られ上田先生が指導、向う槌も弟子三人で鉄を鍛える様子は迫力に満ちています。
そして何よりも弟子の皆さんが「親方」を大事にされその指示を聞き漏らすまいと一生懸命になっておられる姿に感銘を受けました。それはあるべき武術の道場そのままの姿でしたから。
修行中は当然、収入はありませんが、親方の上田先生が全くのボランティアで後継者を育てられ、炭代、鉄代、寝所の全ての出費をまかなわれます。それぞれの弟子は生活費は自分で何とかしなければなりませんが、弟子が玉鋼で作った包丁も生活の足しになるようです。現在全ての刀匠が刀を打つだけで生活できているわけではなく、上田先生は弟子達が生活に困らないようにとまず、包丁作りを指導されます。
いつも上田先生をお訪ねして思うのですが、先生にある思いは「良い刀を作り、その技術を後世に伝える。」ということのみです。現代の古武道家も「業をひたすら磨き、後世に伝える。」ことのみを願い、地位や名誉を必要としないという立場になければならないと思います。
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- 2007/09/13(木) 23:04:25|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武術において気迫で相手を抑えるという事を聞くことがあります。しかし、無双神伝英信流においても渋川一流柔術においても気迫で相手を抑えるなどということが可能でしょうか。
無双神伝英信流抜刀兵法にあっては想定では、すでに敵に斬り掛かられつつあるという状況がほとんどであり、この敵を気迫で抑えることができるならば、居合の技術は不要といっても過言ではありませんん。また、渋川一流柔術においても女性や子供が自分に危害を加えようとしてやってくる敵に気迫で勝ることができるというならば、護身の技術も磨き上げる必要はないでしょう。気持ちが萎縮しないことは必要ですが、不利な状況にあるからこそ業が必要になるのであり、業に裏打ちされた心の状態があれば自ら鬼気迫るような気迫を出そうとすることは全く必要ありません。
勝海舟の話をまとめた『氷川清話』に心のありようについて以下のようにあります。文中の白井亨は幕末の防具着用の剱術の全盛期に生きた人ですが、当時一流の剣術家といえども40歳、50歳になると体力の衰えとともに剱の腕も衰えていくのを見て嘆き、兄弟子で形を通じて達人となった寺田宗有に入門し道を得た人で、江戸でただ一人、大石神影流の大石進に勝ったと伝えられています。
「無我無心は禅機の極意だ。人一たびこの境に達す、真個敵なしだ。かつて白井亨という剱の達人があつておれもたびたび就いて教えを受けおおいに裨益した事があった。この人の剱を使うやほとんど一種の神通力を具えていた。その白刃を提げて立つや凛として犯すべかrざる神気刀尖より迸りて向などに立って居れなかった。おれも是非この境涯に達せんと必死に練磨したけれど、たうたう達しなかった。
おれもひどく感心して話すと、白井は笑って、足下が多少剣道を解しおればこそ自分の切先もそう恐ろしく感ずれ、無我無心の人には何とも感ぜぬものよ。ここに剣法の奥儀は存するよと諭した。おれもますますその人の及ぶべからざるを知了した。」
この文書から気迫とは何かを考えてください。
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- 2007/09/15(土) 19:19:24|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今月初め、
、劇団夢現舎で居合の講習会を行いましたが、夢現舎の俳優の方から講習会の感想文が届きましたので、連続して掲載します。皆さん武術に対する感性が高い方ばかりなので、感じられた内容もレベルが高く、貫汪館で稽古されている皆さんにも大いに参考になると思います。
「居合の時間(稽古)は、いつもわくわくして楽しみです。今回は午前中から夕方までの長時間、稽古ができてとても有意義でした。
午前中は木刀を使っての太刀打、形を稽古してみて普段芝居の稽古でする殺陣と共通する部分や違いを発見しました。体の使い方を教わるたびに新たな発見をして驚き感心してしまいます。
体の使い方で、「下がる部分があるから上がる部分がある。」というのがとても印象的で、身体は連動しているんだな―と改めて思いました。実際はまだまだそのように上手に身体を使えませんが、それを知っているのと知らないのでは大きな違いだと思います。
それぞれ個人のの身体で違いがあるので、自分で一つ一つ探っていく必要があると思いました。まだまだ、かたい所や力が入ってしまうところが多々ありますが、一つ一つ大事に自分の身体を扱っていくようにしたいと思います。
次回も楽しみにしております。その時までには今回教わった事の一つでもできるようになっていたいと思います。」
「先日は私達のためにご指導くださいまして有難うございました。
新たな発見あり、忘れていた感覚の再認識ありと、とても収穫のある稽古となりました。やはり無駄な力を抜くというのが自分の課題でした。
そして、ふと気がついたのですが、自分は普段の行動(歩く。自転車に乗る)でも肩や体のどこかに無駄な力みがあったのです。
こういった普段の力みを見直していけば、きっと居合でも自然と無駄な力を抜くことができると思いますし、それがまた、夢現舎の芝居にもつながっていくものと思います。
またご指導いただける日を楽しみに致しております。有難うございました。」
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/16(日) 17:52:27|
- 居合・剣術・柔術 総論
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劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文を続けて掲載します。稽古は今月初めの講習会で4回しかできていませんが、非常にレベルの高い方々で、すでに数年分に匹敵するものを身につけておられます。貫汪館で稽古されている皆さんも大いに参考にしてください。
「先日はお忙しい中、朝から長時間ご丁寧に教えていただき有難うございました。
何回か教えて頂いているのに、何故かこういうことに緊張する私ですが、先生の立ち姿を見て不思議と落ち着くことができ、そして新鮮な、初めて先生の動きを見て圧倒された時のような気持ちになりました。
先生の仰って下さる事が、普段の芝居の稽古で言われていることと重なり、相変わらずできなかったり、仰って下さっていることを多分全部はとらえきれていないことを反省しつつも発見と驚きがたくさんあり、楽しんで稽古を受けることができました。
あれから皆で、ああでもない、こうでもないといいながら復習しています。すぐに物事の本質はとらえられないでしょうが、少しずつ前に進んで生きたいと思っております。
また稽古していただける日があることを願っております。どうぞ先生もお体ご自愛くださいませ。」
「先日はお忙しい中、ありがとうございました。
いつも先生の稽古は始まる前は緊張するのですが、やっていると楽しくてしかたくなってきます。
でもまだまだ力が抜けません。
一人でくり返し稽古しているときは、「力をぬく」「バカになる」を意識してできるのですが、いざ相手と向かい合ったりすると、たちどころに力んでしまっています。しみついた殺陣の動きになってしまったりするので頭で考えすぎているのかもしれません。
「バカになる」も「軸で動く」も、どれも芝居に通じていて勉強になります。
今後ともお忙しいとは思いますが、稽古を付けていただきたいです。時間がありましたら、是非お願い致します。そのときにはもう少しバカになれるようにしておきます。
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- 2007/09/17(月) 18:29:58|
- 居合・剣術・柔術 総論
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劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文の5回目です。感想文は今回で終了です。
「早いもので劇団夢現舎居合道講習会も4回目となりました。
今回は一日がかりの長丁場にもかかわらず、いつもと変わらぬ熱心なご指導有難うございました。
広島と東京という距離のため、年間に数回しか実現できない講習会ですが、回を重ねるたびに先生の教えが自分の身体の中に積み重ねられてゆくのを感じます。たとえば、一年前の稽古で終了間際に軽く説明を受けた「右刀」「左刀」「当刀」が難しく感じられたのですが、今回久々にやってみたところ自分で思っていたよりスムーズに動いた事に驚きました。勿論、「出来た」と言って憚りのないレヴェルには到底及びませんが、それでも戸惑うことなく素直に身体が反応してくれたような気がしました。これはおそらく先生の言われる「力を抜く」感覚や、その動きの構造を四回目にして身体で理解し始めたからではないかと思います。
稽古の後、日常の生活に戻った際にも、それはふっとよみがえってきました。ちょっとした些細な行動を何気なしに居合の観点から省みると、その動きの中にはなんと無駄の多いことか。すると最近忙しさにかまけていろんな事が雑になっている自分が見えてきました。知らず知らずに上ずった生活や心身状態にあった己を点検することが出来ました。だからといって、それがすぐに修正できるほど私は達人ではありません。まずは一つずつ気付き、それを受け入れてゆくしかありません。そしてそれらを修正してゆくことこそ自分が精進してゆくための課題となり、今後の修行を続ける上でいいモチヴェーションになります。しかしながら、道は気の遠くなるほど長いです・・・。
また、今回は初めて太刀打を教えていただきました。シンプルな形の中にあらゆる動きに対しての想像力、相手との間合、呼吸が重要で、どれをとっても舞台の上で必要な物ばかりです。まるで演技そのものといっても過言ではないくらい応用できるものが詰まっています。ただ、やあらめったらに刀を振るのではなく、その動きの本質を考え、想像することがとても楽しく重要なことだと思います。
思うに、おそらく剱も芝居も想像力を広げ、それを活かす事がとても大切だと感じます。それこそが人間の許された特権であり、、思いやる心であり、愛に通ずるものではないでしょうか。その力を養うために修行があり、遂行するためには気張らず、あせらず、欲を出さず、ぐっと気持ちをはらに落として、自分の奥底に眠る自分本来の姿、自分にしかない能力を発見してゆくことではないかと思います。
・・・と偉そうな事を並べましても、まだまだ始まったばかり。あまり頭で考えずに稽古を重ね、少しずつ身体にしみこませてゆこうと思います。今回の稽古で最後の最後に先生が仰った一言が、今でも何度も頭によぎります。
「要領が分かってきて、稽古に慣れてきた時こそ要注意です。」
次回の稽古を今から楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。
以上で今回の、劇団夢現舎での講習会の感想文は終わりです。貫汪館で稽古される皆さんも、俳優の皆さんの稽古に向かわれる姿勢を見習ってください。
話は変わり、写真を見てください。
8の数字が並びました。88888km。5年半で走行した距離です。自動車を通勤に使うことはほとんどありませんので、稽古への行き返り、武道史調査で使った車の距離数です。よく走ったものだと我ながら思います。この数字、稽古場所の七尾中学校に着いたときに並びました。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/20(木) 17:02:17|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今までに経験したことの無い新たな動きを稽古するとき、あるいは今まで身についた悪癖を要求される動きに直したいとき、なぜか人は「新たな型にはめよう」と思いがちです。
貫汪館では無双神伝英信流抜刀兵法の動きも渋川一流柔術の動きも、繰り返すことによって、動きを型にはめようとはしていません。これは貫汪館で稽古をされた方ならお分かりであろうかと思いますが、求めている動きは筋力や瞬発力を必要とするものではなく、本来ならばごく自然に行えるものであり、もともと人に備わっている動きを業として現そうとしているに過ぎないからなのです。
もし、稽古において肩こりや筋肉痛が生じるとすれば、それは「新たな型にはめよう」として無理な動きを繰り返しているためであり、それをもって稽古をしたという満足感を得たとしたなら、それは大きな間違いです。
無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生は「正しく動けば体は喜ぶ。」という表現をされました。また渋川一流の師 畝重實嗣昭先生は言葉はあまり用いられませんでしたが、私達が動きに苦労していると、不思議そうな顔をされ「こう・・・。」と言ってごく自然に、そうであるのが当然で、何らの造作も無く技をかけて見せてくださいました。その動きは少しでも気を抜いて見ていたら、そのまま見過ごしてしまう動きでした。
「道場で稽古をしたら、体が楽になった。」と感じて家に帰れる稽古を心がけてください。
貫汪館H.Pの無双神伝英信流の行事のページに居合道講習会(詰合)の写真を載せました。 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会への御参加有難うございました。次回は12月に実施する予定です。日程は近日中にご連絡いたします。。
- 2007/10/04(木) 17:45:49|
- 居合・剣術・柔術 総論
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新作のがま口バッグが完成しました。
生地は着物の反物をオークションで購入し、春先からこつこつと・・・。縫い上げてはいたのですが、金具をつけず持ち手を作らず、しばらく寝かしておいてしまいました。
写真を撮ってみても思うのですが、私のようなただ、武道ばかりしてきた武骨な人間がよくこのような物を作れるようになったものだと我ながら感心します。
思えば大学卒業後、航空自衛隊の幹部候補生学校に入校、始めは高射整備幹部として今はモニュメントとしてしか存在しない地対空ミサイル ナイキJの組み立てなどを自分でも行っていましたから、そのころから若干、器用になり始めたのかもしれません。
武術という視点から、今、振り返ってみれば、ミサイルの組み立ても、がま口バッグ作りも、草木染も、友禅染も、バイクの野宿のツーリングも、刀を用い、棒を振り、相手を押さえ投げる事もなんら変わるものではないと思うのが不思議です。
10月14日(日)午後2時から安芸高田市吉田歴史民俗資料館主催の公開講座が行われます。今回の講座は私が「宍戸司箭の武術ー司箭流の長刀と貫心流の剣術ー」と題して講演します。
場所は甲田町ミューズ(広島県安芸高田市甲田町高田原1446-3)で行われます。
http://www.akitakata.jp/site/page/institution/public_hall/kouda02/guide/広島藩伝の司箭流・貫心流には現在のところ継承されている方を探し当てることが出来ませんので、文献のみからの講演となりますが、始めて使うパワーポイントを用い、なるべく分かり易い講演にしたいと思っています。
興味のある方は安芸高田市吉田歴史民俗資料館(0526-42-0070)まで事前にお申込ください。受講料は無料です。
- 2007/10/08(月) 18:52:46|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日曜日に無双神伝英信流の指導をしていて気づいた稽古の方法について少し述べます。
ある程度、形の稽古が進み、手順も覚えており、如何に動かねばならないかも良く理解していながら、動きに歪みがある場合、これを意図的に修正しようと、その歪みの部分を集中的に稽古しても結局のところ総体的に見た場合には何も改善されていません。
むしろ、無理なく、あるがままに稽古していけば、ひずみも自然に正されていくものです。
そのように日曜日に指導をすると、その人のひずみのあった動きは本人が気づかぬうちに自然に修正されていました。本人が気づいていないわけですから、「直りました。」と言っても、本人は何故そうなったのかはわかりません。結局のところ意識にひずみが生じ、その意識のひずみが身体にひずみを生じさせていたからです。作為的に意図的に何かをしようとしていた所から生じた体・動きのひずみですから、それがなくなったとき体・動きのひずみがなくなっていたわけです。
渋川一流の稽古においても、ずいぶん稽古をされているにもかかわらず、ここをあしよう、あそこをこう動かそう、という思いが身体のひずみを生んでしまい結局、業が上手く掛からない状況を散見します。
自分の心のゆがみ・ひずみに自分自身で気づかなければなりません。
10月14日(日)午後2時から安芸高田市吉田歴史民俗資料館主催の公開講座が行われます。今回の講座は私が「宍戸司箭の武術ー司箭流の長刀と貫心流の剣術ー」という演題で講演します。
場所は甲田町ミューズ(広島県安芸高田市甲田町高田原1446-3)で行われます。
http://www.akitakata.jp/site/page/institution/public_hall/kouda02/guide/広島藩伝の司箭流・貫心流には現在のところ継承されている方を探し当てることが出来ませんので、文献のみからの講演となりますが、始めて使うパワーポイントを用い、なるべく分かり易い講演にしたいと思っています。
興味のある方は安芸高田市吉田歴史民俗資料館(0526-42-0070)まで事前にお申込ください。受講料は無料です。
- 2007/10/09(火) 16:23:53|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法の稽古にも渋川一流柔術の稽古にも共通して言えることですが、指導されたことを疎かに考えて、ただ回数をひたすら重ね繰り返していれば上達するだろうと思っていると、上達するどころか武術としては全く使い物にならない動きが形作られていきます。
そのときに指導したことはその人の全てを見た上で、今の段階で此処を直しておかなければ、あるいはここを伸ばしておかなければ、先々絶対に行き詰まってしまうという事を見越した上で指導しています。決して思いつきで言っているわけではありません。指導するということはまさに精神をすり減らす思いで指導しているのです。
指導されたことをしようとしても出来ないのと、あまりたいした事と受け取らずに聞き流していて出来ないのでは大きな差が生まれてきます。無双神伝英信流の我師 梅本三男貫正先生の師である尾形郷一貫心先生は「君子は上達し、小人は下達する。」と述べられましたがまさにその通りです。
形の稽古は諸刃の剣で、形によって求められている動きを、そのままに稽古していけば自由な動きが身についていきますが、少しでも我意を交えて稽古していくと素人目に上手に見えても、まったく自由がない体が作られていってしまいます。
そこを見抜いた上で個々に応じて指導していますので、指導された事は、かならず、求めに求めて稽古してください。昔の師は二度教えて出来なければ、道場を出て行ったと聞いています。それが出来るようにならなければ次の指導はないという意味です。本来、武の修行は、それほど自分自身に厳しさを求めるものなのです。
- 2007/10/15(月) 22:39:10|
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