謹賀新年 新しい年を迎えお慶びを申し上げます。
古い我をすて前へ前へと進むことで上達していきます。
今年はどこまで進めるか、楽しみにしましょう。
- 2025/01/01(水) 00:01:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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Ⅰ はじめに
大石神影流は柳河藩で大石進種次が愛洲陰流を改革して創めた流派である。愛洲陰流は宝暦年間に岡藩浪人である村上傳次左衛門(後号一刀)によって柳河藩にもたらされた流派で新陰流、愛洲神影流とも称していいる。
村上傳次左衛門はまた柳河藩に大嶋流槍術をももたらし大石進種次は柳河藩の槍剣師範として大嶋流槍術と愛洲蔭流剣術を指導した。大石進種昌は剣術で高名となったが、同じく村上傳次左衛門がもたらした大嶋流槍術の師範となった加藤善右衛門は槍術で高名となった。
本研究では大石神影流のもととなった愛洲陰流がどのような流派であったのか、また村上傳次左衛門がどのような人物であったのかを明らかにしたい。
- 2025/01/01(水) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅱ 柳川藩の幕末期の剣術流派と槍術流派
1.剣術流派
柳河藩の剣術流派を他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
弘化4年(1847)10月に柳河藩で試合した長州藩の渡部直八の『諸国剣道芳名禄』には大石神影流、家川念流、新陰流の3流派のみが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
嘉永2年(1849)閏4月に柳河藩を訪れた神道無念流斎藤新太郎の廻国修行の英名録『脩行中諸藩芳名録』によれば柳河藩の幕末の剣術流派には大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流があった。新陰流の師範は田尻藤太と加藤善右衛門で相師範である 。
大石進種次のもとに遊学した高鍋藩の石井寿吉の英名録には嘉永3年4月(1850)に大石神影流と試合し、嘉永4(1851)年6月に家川念流、電撃抜討流、新陰流と、嘉永5年(1852)5月に家川念流、新陰流と試合したことが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
大石進種次の土佐藩門人である樋口真吉は4回大石進のもとに赴いているが、4回目は嘉永5年(1852)、江戸の剣術家でのちに土佐藩士となる石山孫六とともに九州から江戸へ廻国修業する途中に立ち寄っている 。この時の廻国の試合相手の流派と名前は『諸兵家尊名鈔巻四』に記されている。柳河藩では家川念流、抜討流(電撃抜討流)、神影流(ママ)(註:師範が田尻籐太であるので大石神影流ではなく新陰流)、匹田流(疋田豊五郎流)、家川念流と試合した。神影流の師範は田尻籐太のみが記されている 。
万延元年(1860)11月に廻国修行で柳河藩を訪れた土佐藩の武市半平太の『劔家英名録』には、家川念流、抜討流、新影流、大石神影流の4流派が記されている。新影流の師範は加藤善右衛門のみが記されている 。
以上からみるに柳河藩では大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流(神影流)の5流派が廻国修行者を引き受けている流派であり、他に廻国修行者を引き受けていない剣術流派があった可能性も残るが柳河藩が他流試合に積極的であったことを考えるとこの当時柳河藩の剣術流派は5流派のみが存在したと考えてもよいと思われる。
2.槍術流派
幕末期の柳河藩の槍術流派についておもに他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門より免許を授かった飫肥藩の佐土原友衛 の嘉永2年(1849)から安政5年(1857)までの廻国修行の記録である『列国槍手名字簿』 によれば、柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、宝蔵院流があった。
棚倉藩士ではじめ大嶋流を秋月藩士の間角彌(加藤善右衛門門人)に習いついで加藤善右衛門に習った棚倉藩士の伊原勝司の安政2年(1854)から安政5年(1857)までの記録がある廻国修行の記録である『金蘭簿』 によると柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新撰流、宝蔵院流が記されている。
安政6年(1858)8月の清水正熾による自序がある『藝王姓氏録』 によれば柳河藩の槍術として新撰流、真心流、大島流、宝蔵院流、夫木流、新陰流が記されている。
柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門の門人である津和野藩の原田康人 の文久2年(1862)4月13日から11月8日までの記録がある『英名録』 によれば柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新選流、新蔭流、宝蔵院流、新心流があった。
以上からみるに柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新選流、新蔭流、宝蔵院流、新心流があったと考えられる。
- 2025/01/02(木) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅲ 村上傳次左衛門の伝記
柳河藩に新陰流とよばれる流派をもたらしたのは岡藩浪人で柳河藩槍剣師範となった村上傳次左衛門である 大石家が柳河藩の槍術剣術師範となったのは大石家第十二代大石太郎兵衛種芳のときであり、大石太郎兵衛種芳の師が村上傳次左衛門である。村上傳次左衛門の略歴はその墓誌に記されている。現在墓石は地下に埋められて確認することはできないが、『剣士松崎浪四郎傳』に墓誌の漢文を書き下して載せられている。墓誌は以下の通り。
翁姓ハ源、名ハ長寛、伝次左エ門ト称シ、私カニ練乗院一道無三居士ト謚ス。豊後ノ人ナリ。世々竹田候ニ仕エ、世々勇悍ニシテ武略アリ。亦剣ヲ善クシ、最モ槍法ニ妙ナリ。宝暦中故有ツテ国ヲ去リ、諸州ヲ経歴シ、跋ミテ艱難ヲ嘗ム。其ノ習ウ所ヲ試ミ、遠トシテ到ラザル無シ。後ニ後筑(筑後ノコト)ノ北𨛗ニ至リ、子弟ヲ集メテ而シテ之ヲ誘導シ、駸々トシテ日夜倦マズ。声竟ニ肥筑ノ間ニ籍々タリ。是ニ於テ乎、柳川侯其名ヲ聞キ、聘シテ而シテ之ヲ迎ウ。終ニ師員ニ擢ンデラレ、寵遇殊ニ厚シ。寛政七年、禄ヲ辞シテ而シテ折地ノ里(元水田村)ニ老シ(隠居スルコト)又胤子(あとつぎノ子)長供ヲシテ北𨛗ニ往キ、襲ギテ師弟ニ課セシメ、而シテ翁在シマスガ如シ。是ノ日、余輩モ亦与ルコト有レリ矣。翁年八十ヲ踰エテ、尚剣ヲ舞ワスコト少壮ノ時ニ異ナラズ、或ハ跳躍シテ上ニ揚ル。試ミニ一撃スレバ便チ風雷ノ怒号スルガ如キ者有ル也。則チ其ノ平生養ウ所ヲ察スルニ足ル也。寛政十年冬十一月廿日、八十有七終スルニ病ヲ以テ卒ス。胤子長供乃チ其ノ考(亡父ノコト)ヲ追思シ、因テ師弟ト相謀リ、力ヲ鳩メテ而シテ石ヲ建テ、将ニ以テ朽ニ伝エントス焉。嗚呼君ノ寵遇ト而シテ父ノ美名ト、之ヲ無シテ伝エズシテ而シテ朽チシムルハ、臣子ニ非ザル也。因ツテ其ノ略ヲ記スト云ウ。 (原漢文)
文化六年己巳夏五月
粟生次郎右エ門長供弟子門弟子謹ミテ撰ス。
この墓誌は書き下し文が『伝習館剣道部史』 にも載っているが、異同はなく( )の中の注も全く同じであるので『剣士松崎浪四郎傳』の書き下し分をそのまま載せたものと考えられる。
村上傳次左衛門墓誌のほかに村上傳次左衛門について言及したものに飫肥藩士佐土原友衛が記した『極内輪覚』がある。『極内輪覚』 は柳河藩槍術師範加藤善右衛門に免許を授かった佐土原友衛が備忘録として記したものらしく大嶋流の代々の師範について簡単に記述している。
覚
聞きかき
一 大島伴六出生も終りも不詳
子 大島雲平中興開矩加州ニ止り門弟三千人あり、内三人上達、其壱人髙橋武兵衛其後雲平紀州ニて死子孫今ニあり
髙橋武兵衛傍輩をアヤメ加州を立退讃州丸亀ニ行く、被抱候處右之仕合敵持ニ付被断、□は□□抱城内ニ□門人数あり、其後丸亀没落之節右之弟子松原権之助と申者は豊後岡ニ被抱、□□武兵衛高弟畑勘平ニ申ハ三□末修行不足之処有之、御□三ヶ年も三□教免許相免、御□ニ付先岡ニ参り三ヶ年間権之助ニ教免許ゆるす、其後権之助□末ニ松原萬右衛門門人吉田八郎兵衛門人粟生勘平と申人岡ヲ出村上一刀と改メ柳川江被抱大嶋流抜討流ヒロム、八郎兵衛門人と申義其頃は免許相済□□は則弟子取り候事也
これによれば村上傳次左衛門はもともと粟生勘平と名乗っていたらしく、傳次左衛門の子が粟生次郎右エ門と名乗ったのは村上傳次左衛門の元の姓を名乗ったからだということがわかる。「大嶋流抜討流ヒロム」とあるが抜討流は愛洲陰流または新陰流の間違いである。
村上傳次左衛門の墓誌によると宝暦中(1751-1754)に岡藩を出たと記されているが、寛延3年(1750)に橘軍八長寛より荒巻藤吉に出された『新陰流刀術印可』 は発行者が村上傳次左衛門ではないが諱は長寛であり、長寛という筆跡が宝暦9年(1760)10月吉日に村上傳次左衛門が塩見松次(後の大石家第十二代大石太郎兵衛種芳)に宛てた『愛洲陰流刀術截目録』 のものとほぼ同じであること、伝書の内容も愛洲陰流のものと似ていることから橘軍八長寛とは村上傳次左衛門長寛のことと考えられる。村上傳次左衛門は宝暦以前に岡藩を出た可能性も考えられる。
現存する岡藩の記録に村上傳次左衛門または前名の宝暦頃の粟生勘平の記録は見出すことができない。しかし第四代目藩主・中川久恒の項に元禄5年(1692)3月、藩主・久恒は四代将軍徳川家綱の13回忌の法主「竹内曼殊院良尚法親王」の御馳走役を仰せ付けられており 、この御供幷御馳走場詰の児小性13人の中に粟生勘平の名がある 。村上傳次左衛門は元禄5年には生まれていないが、この粟生勘平は村上傳次左衛門の関係者ではあるまいか。父親であるとも考えられる。
村上傳次左衛門の事績を柳河藩の用人日記等から抜き出すと以下のようになる。
これらの史料からみると村上傳次左衛門は岡藩浪人で寛延3年(1750)頃には筑後に来ており武術を指導、宝暦4年(1754)には槍術を上覧し、また御目見えをしているのでこのころに柳河藩士として召し抱えられたと考えられる。以後寛政7年(1795)、84歳で禄を離れ、寛政10年(1798)11月20日に87歳でなくなっている。柳河藩に召し抱えられてから約40年間、武術師範として柳河藩に仕えている。明和元年(1764)から安永2年(1773)までの間に傳次左衛門から一刀と名を変え村上一刀と称している。
村上傳次左衛門が柳河藩に召し抱えられた経緯等は年不明であるが、立花織衛家文書の5通の史料の内に記されている。
端裏に一と記されている『村上傳次左衛門江御意伝達之覚』 には次のようにある。
村上傳次左衛門江
御意伝達之覚
其方儀此間天天叟寺寺内帳ニ在之候處、鑓致師範門弟中引立遂出精之段被聞召御満悦被思召候、依之今般人改支配被仰付、此段従拙者方可相達旨被仰出候事
十二月十九日 十時太左衛門
「天天叟寺寺内帳ニ在之」とは天叟寺の家族という扱いであり、この時点では浪人であったと考えられる。浪人の村上傳次左衛門が槍術の師範をし、門弟を引立てていたので柳河藩士に取り立てられたのであろう。そして宝暦4年(1754)12月19日に村上傳次左衛門ははじめて槍術門弟の上覧を受け御目見をうけている ので、この御意伝達は宝暦4年に出されたものではないだろうか。
端裏に四と記されている『村上傳次左衛門江御意之覚』 には下記のように記されている。
村上傳次左衛門江
御意伝達之覚
其方鑓致師範弟子中遂出精御満悦被 思召候猶又此後無怠出精候様ニ門弟中引立可申候、此段拙者方より可申達旨被仰出候事
十二月十九日 十時太左衛門
この御意伝達書は同日付で同一人物から発給されており、内容も重複する部分があるので、同じ時に出されたものと考えられる。明和8年(1771)から安永4年(1775)の間に記されたと考えられている分限帳 では立花勝兵衛組に配せられている。
村上傳次左衛門が高齢となって禄を離れた理由は端裏に五と記されていて、柳河古文書館の立花織衛家文書目録で〔御意伝達書〕 と仮題が付けられているものに次のようにある。
村上一刀
同傳次左衛門
一刀内分逼迫ニ付今般御暇願出候口上書之趣達御聴被 聞召届候、然處御当家江被召抱候已来鎗釼術両藝共無怠令執行且門弟中心懸引立旁御満足被 思召候、仍御暇願之儀は被差留度被思召候、乍然當時一統役米被仰付諸士中も及難渋候得共、誠艱難凌相勤候砌ニ候、御附代格別舊功之筋目之者たり共被取分御取救も難被為相届御時節ニ候、仍當時其元ニ限格別訳可被為相立様も無之、乍御心外被任願御暇被仰付、御願仲住居可為勝手次第旨被 仰出候、此段中申達候様被 仰付之候、以上
八月
「一刀内分逼迫」とは経済的に困窮していたということであり、当時は柳河藩で「上り米」とも呼ばれる逼迫した藩財政を補填するため藩士の禄の何割か(禄高によりパーセンテージが異なる)を天引きする制度である役米もおこなわれていた。村上一刀とその子傳次左衛門は自ら禄を離れることを望んでおり藩も特別扱いはできないため「乍御心外」暇を与え、禄を離れた後も藩中に居住することを許している。禄を離れたのちは村上傳次左衛門墓誌 にあるように折地ノ里(元水田村)に隠居し、子の粟生次郎右衛門に武術の指導は任せている。
村上一刀(傳次左衛門)の子の傳次左衛門はその後、村上一刀が村上と名乗る前の粟生姓を用い、名もかえて粟生次郎右衛門と名乗ったと考えられる。粟生次郎右衛門の愛洲陰流は久留米藩の剣術下師範となった黒岩拾右ヱ門長保に伝えられ黒岩金右ヱ門と続いた 。宝暦12年(1768)11月6日の『〔六組諸願記録〕』 にある村上一刀からの息子の前髪執りの届を出した息子武之介と天明元年(1781)6月26日の『六組記録』 にある村上一刀の口上書にある息子の勝弥、そして寛政3年(1791)から同5年(1793)に記されたと考えられる『侍帳』 の「合力九石九斗 村上傳次左衛門」が同一人物と考えると15歳で元服したとすれば村上一刀がなくなった時に子の村上傳次左衛門(後の粟生次郎右衛門)は51歳前後だと考えられる。
- 2025/01/03(金) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅳ 村上傳次左衛門の剣術
1.流派名
村上傳次左衛門が柳河藩に伝えた剣術の流名は一定していない。村上傳次左衛門が橘軍八名で寛延3年(1750)に発行した『新陰流刀術印可』 には流派名は新陰流とあり、宝暦9年(1759)に塩見松次(後の大石遊釼)に宛てて発行した『愛洲陰流刀術截目録』 には愛洲陰流とある。足達右門が天明5年(1785)に村上一刀から授けられた奥意を記した『神傳印鑑 全』には愛洲神影流 とあり、村上一刀(傳次左衛門)が天明5年(1785)に米多比正見に出した『愛洲陰刀術甲冑伝』 には愛洲陰(流)とある。また村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が文化5年(1808)に発行した伝書『愛洲陰流刀術』(仮題) には愛洲陰流とある。大石進種次が文政5年に祖父の大石遊釼名代の足達右門から授けられた伝書には新陰流とある 。村上傳次左衛門は新陰流、愛洲陰流、愛洲神影流の流名を用いていた。
2.伝系
村上傳次左衛門が発行した伝書には流祖とした愛洲移香からの伝系にやや混乱がある。
寛延3年(1750)の橘軍八(村上傳次左衛門)の『新陰流刀術印可』では流派の伝来を足利日向守愛洲移香から上泉伊勢守藤原信綱へと伝わったとしている。しかし文化元年(1803)の村上傳次左衛門の子である粟生次郎右衛門が発行した『新陰流剣術陽巻』 では足利日向守愛洲惟孝から奥山左衛門大夫宗を経て上泉武蔵守信綱へと伝わったように変化している。理由は不明であるがこの伝書では石原傳次左衛門尉正盛の次の村上傳次左衛門の名は省略されている。
広島藩に伝わった信抜流は永山大学によって伝えられた。永山大学は村上傳次左衛門と同じ岡藩の人で心貫流を極め広島に来て流名を信抜流とかえて弟子をとった 。この信抜流の相伝者を文久3年(1863)の『信抜流相伝書』 にみると村上傳次左衛門の子の粟生次郎右衛門の伝書の相伝者とほぼ同じである。
また、山口県熊毛郡上関町の吉田家に伝わる表題を『新影流伝書』とされている新抜之流の伝書 では愛洲惟孝の名はなく初めに岡山左衛門尉家次をもってきており次に上和泉伊勢守信綱、長尾美作守鎮宗としている。 岡山は奥山の間違いであろうが、この伝書でも奥山の次に上泉信綱がきて長尾美作守が記されている。
岡藩出身で広島藩で信抜流(心貫流)を教えた永山大学の伝系と村上傳次左衛門の子の粟生次郎衛門が記した伝系はよく似ており永山と同じく岡藩出身であった村上傳次左衛門はその釼術の伝系から岡藩に伝わっていた心貫流を修めていた推定できる。しかしながら岡藩があった現大分県竹田市の古文書が収蔵されている竹田市歴史文化館・由学館に心貫流関係の古文書はなく、幕末の廻国修行の英名録にも岡藩で他流試合をした流派に心貫流がないためそれ以上は不明である。
なお奥山左衛門大夫は正徳4年(1714)に記されたとされる『本朝武藝小傳』によれば上泉伊勢守の門人の丸目蔵人の弟子で心貫流を称したとあり、また明和4年(1767)に版行があり、寛政11年(1799)に改版があったとされる『日本中興 武術系譜略』にも同様の記述がある 。天保14年(1843)に版行された『撃劒叢談』にも同じく丸目蔵人の弟子の奥山左衛門大夫が心貫流を立てたとし、笊をかついだり、円座を負ったりする独特の稽古方法をすると述べているが、村上傳次左衛門の弟子の伝書にも広島藩に伝わった信抜流の伝書にも相伝者に丸目蔵人の名はない。
- 2025/01/04(土) 21:25:00|
- 武道史
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3.流派の体系
村上傳次左衛門が発行した現存する伝書は橘軍八(村上傳次左衛門)が発行した『新陰流刀術印可』 と『愛洲陰刀術甲冑傳』 である。『新陰流刀術印可』には形名があるが、『愛洲陰刀術甲冑傳』には形名はなく二十一箇条の項目が羅列してある。大石神影流成立以前の現存する伝書は村上傳次左衛門の子の粟生次郎右衛門が発行した『新陰流剣術陽巻』 、村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が発行した『愛洲陰流刀術』(仮題) 、大石遊釼の名代として足達右門が発行大石進種次に発行した『新陰流剣術陽巻』 のみであり、これらを表にまとめ比較する。
同じ形が記してある箇所を比較するため本来伝書にはないスペースをあけた。
表省略 村上傳次左衛門(橘軍八)が発行した伝書とその子粟生次郎衛門が発行した伝書、村上傳次左衛門の門人が発行した伝書を比較してみると基本的に形名とその体系が同じことがわかる。
一方、2)伝系 で論じたように岡藩出身で広島藩で信抜流(心貫流)を教えた永山大学の伝系と村上傳次左衛門の子の粟生次郎衛門が記した伝系は類似しており永山と同じく岡藩出身であった村上傳次左衛門はその釼術の伝系から岡藩に伝わっていた心貫流を修めていたと推定できる。
しかし同じ源流のものと思われる元禄6年(1693)発行の『新影流伝書』 によればその形名は「両燕帰、千人詰、剣之巻、乗太刀、車菱、心之無二剣、宝寿剣、石之唐櫃、剣無切」となっており、時代は下るが永山大学が伝えた文久3年ころと思われる信抜流(心貫流)の『神文前書』 にも同じ形名が記されている。「両燕帰」に異体字が用いられ「両燕皈」となっている違いしかない。
村上傳次左衛門の剣術の形名と同じ源流から発したと思われる流派の形名は大きく異なっている。
- 2025/01/05(日) 04:25:00|
- 武道史
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4.試合
先述の村上傳次左衛門に関する立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に二と記されているもの には次のように記されている。
村上傳次左衛門
其方儀御当地江罷越候以来、弥増武術之心懸不浅、一分之嗜者不及申、大勢之弟子 引立、其上三年以前従嶋原黒木四郎太と申浪人之剣術者、御家を心掛、師範等も可仕覚悟ニ而罷越候處、侍中之内誰そ仕合之儀望申候段承及、早速参會、其場之仕方始終具ニ被聞召届、御名目ニ相拘り候儀彼是神妙之至被遊御満悦候、仍為御褒美御加扶持只今被下置候御合力ニ被結、拾弐人扶持被為拝領、給人格且組付ニ被仰付候、此段可相達旨被仰出之、以上
八月
これによれば村上傳次左衛門は柳河に居住して以来多くの門弟を育ていることがわかる。また3年前に嶋原浪人の黒木四郎太が柳河藩の剣術師範になろうとして柳河藩士と試合しようとしていたところ村上傳次左衛門がこれに応じ見事な働きをしたことにより現在支給されている合力に加えて合わせて十二人扶持を支給し、給人格と組付を命じられている。内容から考えると村上傳次左衛門は柳河藩士という身分を得たのちに嶋原藩浪人黒木四郎太と試合をしている。
黒木四郎太は天保2年(1819)に島原藩士大原久茂によって印された『深溝松平家藩中芸園録』 に
黒木四郎太調實
黒木四郎太調實者者初メ周助卜呼、堀波右衛門尚春ニ随身シテ復心流之刀術ヲ修行シ其奥旨ヲ得タリ、是ヨリ調實其刀術ヲ以テ人々ヲ教導ス、爰ニヲイテ調實ニ従テ専ラ刀術勉習スル者、是永小左衛門光治・橋田久太夫武親等ナリ、調實後御暇ヲ乞ヒ浪人ヲ業トシ島原南有馬村ニ籠居シ安永年中卒スト云々
或人曰、四郎太調實ハ刀術ヲ好テ能稽古ヲツトメ其志シ浅カラス御徒歩ヲ勤メ其行迹質朴之人ニテ有りシト也
と記されており黒木四郎太が島原藩を致仕した浪人であることがわかり柳河藩の上記の資料の記述の正確さを確認できる。
同じく立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に三と記されていもの には次のように記されている。
村上傳次左衛門
其方儀門弟中稽古之節昼夜相手ニ成、其上御覧之節毎度致仕相、扨又志厚弟子中引立之趣委細被聞召、為抽儀被遊御満足候、仍為御褒美御上下被為拝領之旨被仰出之候、已上
六月
村上傳次左衛門が上覧のたびに試合を行っていることがわかる。このころの上覧は一門ごとに行われていたので村上傳次左衛門と門弟との試合、また門弟間での試合であったと考えられる。褒美として上下を拝領している。
大石神影流の伝書である『大石神影流剣術陰之巻』に種次自身が「幼ナキ時愛洲新陰流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ學タリトモ」 と記しており、村上傳次左衛門の流派では竹製の簡易な面と袋撓を用いて試合稽古をしていたものと考えられる。大石神影流では竹刀・刀の長さの上限を総長で地面から乳通りの高さまでとしているが、村上一刀が定めた長さは記録にはないが、村上傳次左衛門が記したと考えられる先述の『新陰流刀術印可』 によれば「一 太刀 弐尺三寸ヨリ五寸迄用之 一 脇差 壱尺八寸ヨリ九寸迄用之」と記されており脇差は通常のものよりも長いが、太刀は通常使われる長さとかわりはない。
- 2025/01/06(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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Ⅴ 村上傳次左衛門の槍術
1.大嶋流槍術の伝系
本論は村上傳次左衛門の剣術について論述するものであるが、村上傳次左衛門は先述のように柳河藩槍剣師範であったため槍術について簡単に言及する。村上傳次左衛門が記した槍術伝書は柳川古文書館に所蔵されておらず他にも見つけることができない。村上傳次左衛門が柳河藩へ伝えた大嶋流の伝書で見ることができるものは村上傳次左衛門から四代後の師範の加藤善右衛門が発行した伝書 のみである。伝系は遺憾のように記されており、
大島伴六吉綱 ― 大嶋雲平源高賢 後号草庵 ― 髙橋武兵衛正明 ― 畑勘平尉秀勝 後号成鬼 ― 松原番右衛門尉正武 ― 吉田八郎兵衛尉雅□ 後号衛水 ― 村上傳次左衛門尉長寛 後号一刀 ― 田尻藤尉太大神惟神 後号捨暦 ― 田尻藤尉太大神惟長 後号捨水 ― 加藤捨助尉藤原信義 ― 加藤善右衛門藤原清房
2.試合
村上傳次左衛門は『剣士松崎浪四郎傳』に載せられている墓誌に「剣ヲ善クシ、最モ槍法ニ妙ナリ」 とあるように槍術に秀でていたように考えられる。村上傳次左衛門が試合稽古をしていたことは先述の立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に三と記されていもの に「其上御覧之節毎度致仕相」と記されており、村上傳次左衛門は柳河藩槍剣師範であり、史料には剣術とも槍術とも特定して書かれていないことから剣術・槍術ともに試合をしたと考えられる。
村上傳次左衛門から四代後の師範の加藤善右衛門の槍術に関して日本武道館発行の月間武道に連載された島田貞一氏の『槍と槍術』第7回には次のように記されている。
柳河藩は早くから仕合剣術、仕合槍術の発達した土地であった。先に記した剣術の大石進もそこに出現した名手であった。そして槍術では幕末の槍術界にもっとも大きな影響を及ぼしたのが同藩大島流の師加藤善右衛門清房である。天保のころから清房の道場へは諸国からの訪問が絶えず、いずれもその仕合の精妙に舌を巻いた。そしてやがて全国各地の数十藩から夥しい留学者がここへ来たのである。留学者の流儀は全くまちまちであった。たとえば長州藩から差遣わされたのは横地夢想流鍵槍の正統を継ぐ横地長左衛門であった。土佐藩から来たのは高木流素槍の名手岩崎甚八郎であった。下総佐倉藩から来たのは佐倉でもっとも由緒ある誠心流素槍の師家の跡継ぎの井口辰次郎(宗兵衛)であった。摂州高槻藩から来た藤井貞臣は佐分利流鍵槍の士であった。このように幕末には、もはやいかに優れた流派でも、他流仕合に優れなければ流儀を保持し得ないようになって来たのである。留学生は国元に帰るとそのあたらしい技をもって師範として門人を指導し、またそれを聞き伝えた他藩の士を新たに引き受けて教える場合も多かった。…中略…要するに江戸時代後期は、従来の閉ざされた諸藩の流派の時代から、開かれた諸流共通の仕合という技によって結ばれる時代へと移ったのである。
大石進種次が剣術で日本中に名を知られたのと同じように同時代の加藤善右衛門は村上傳次左衛門伝来の槍術で試合を行い日本中に名を知られている。加藤善右衛門の他藩の門人を記した安政3年の(1856)『旅弟子姓名録』 には他藩の門人446名の名が記されている 。加藤は柳河藩の槍剣師範であり村上傳次左衛門が伝えた剣術も指導しており他藩からの廻国修行者の剣術の他流試合も引き受けている。
大石進種次もまた村上傳次左衛門が伝えた大嶋流槍術を指導しており、長州藩夢想流鍵槍の師範であった横地長左衛門は加藤善右衛門に入門したが、はじめ大石進種次に槍術を習おうとして天保10年(1839)6月の内演説に次のように記している。(下線、読点は筆者による)
前略…私儀文政六年未年六歳ニ而家督仕、誠ニ幼少ニ而亡父教諭を請候間も無之、巧者の門弟申合追々執行仕且々門弟取立仕候得共、彼是無覚束相考片時も無油断相働候、然所、筑後柳川御家中大石進と申者剣槍当時西国無双にて所々ゟ入込候門人数多抜群之達者も段々有之由伝承り候、私方兼流之槍術同流と申事ニ御座候間彼方江入込稽古仕候ハヽ切磋之益ニ而流儀自得ニも至り可申欤と奉考候何卒当八月より来子ノ八月迄十三ケ月之間御暇被差免被下候奉願候…後略
村上傳次左衛門が柳川藩にもたらした剣術も槍術も大石進種次に伝えられている。
- 2025/01/07(火) 21:25:00|
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Ⅵ.まとめ
1.愛洲新陰流
村上傳次左衛門の経歴や伝書内容、試合稽古等を考えると村上傳次左衛門は岡藩で心貫流を学んだ後に廻国修行等を経て独自の剣術を編み出し、それに新陰流、愛洲陰流、愛洲神影流などの流派名をつけたと考えられる。
2.試合
村上傳次左衛門は形稽古と試合稽古を剣術・槍術ともに並行して行っており、上覧の際にも必ず試合を行っている。他流試合の記録は宝暦年間と思われる島原藩浪人の黒木四郎太との試合の記録しかないが、墓誌に「諸州ヲ経歴シ、跋ミテ艱難ヲ嘗ム。其ノ習ウ所ヲ試ミ、遠トシテ到ラザル無シ。」(下線は筆者)とあったことから廻国修行をなし他流試合を行ったことが考えられる。剣術の試合の道具は大石進種次が「幼ナキ時愛洲新陰流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ學タリトモ」記したように竹製の面と袋撓であったと考えられる。小手については記されておらず不明である。
3.大石進種次と大石神影流への影響
大石進種次は試合によって高名となった。文政7年2月、大石進種次は弟の志摩助とともに島原藩を訪れて試合をしている 。また大石進の父である大石太郎兵衛は同年に廻国修行中の川崎八郎と試合している 。また同じころに川崎八郎は柳河藩の家川念流師範立花内膳、新陰流師範田尻藤太、抜討流師範寒田安左衛門も川崎八郎と試合している 。立花内膳は柳河藩でご両家と呼ばれる家の一つで千石を領している高禄の家柄である。柳河藩の各流派が高禄の師範を含めて江戸の師範たちよりも早い時期に他流試合を引き受けていることがわかる。
柳河藩槍剣師範である大石進種次は文政11年(1828)6月、「武術出精ニ付」30石から60石に加増されている。藩政日記には「但別而剣術之方他方迄称シ候段被聞召届被遊御満悦候由」と記されており 、大石進種次の剣術が他藩から称賛されていたことが加増の理由であることがわかる。これは大石進種次が藩命によって天保3年(1832)に出府して男谷精一郎と3月24日に試合 をする4年前のことである。
村上傳次左衛門は槍剣術の稽古方法としての試合を柳河藩で盛んにし、柳河藩の各流派が他流試合を行う素地を作ったと考えられる。
また、村上傳次左衛門が柳河藩にもたらした愛洲陰流を受け継いだ大石進種次が『大石神影流剣術陰之巻』に
鉄面腹巻合セ手内ヲコシラヘ、諸手片手突胴切ノ業ヲ初メタリ、其後江都ニ登リ右ノ業ヲ試ミルニ相合人々皆キフクシテ今ハ大日本国中ニ広マリタリ、夫ヨリ突手胴切ノ手カズヲコシラヘ大石神影流ト改る也、シカル上ハ諸手片手突胴切ノ試合ヲ学モノハ伊予イヨ吾コソ元祖タルヲ知ルベシシ
と記しているように大石進種次は村上傳次左衛門が用いた試合のための道具や袋撓を改良し、さらに試合に突き技や胴切りの技をとりいれた。大石進種次が出現したのは村上傳次左衛門が柳河藩の槍剣師範であったからだと言える。
Ⅶ.おわりに
大石神影流の源流である愛洲陰流を柳河藩にもたらした村上傳次左衛門は稽古に試合を取り入れていた。また、その経歴によれば宝暦年間(1751-1764)、またそれ以前に諸国を廻国して他流試合を行っていたことがわかる。島原藩の記録では享和3年(1803)に島原藩士が長崎に出向き他流試合をおこなっている。また文化文政のころから島原藩士はさかんに他藩に出向いて他流試合を行うようになった 。『剣道の文化誌』には寛延3年(1750)の伊勢・亀山藩士の仙台藩狭川派新陰流との手合わせ、宝暦11年(1761)の熊本藩士の廻国修行、明和年間(1764-1672)の神道無念流の戸賀崎暉芳の廻国修行、天明2年(1782)の人吉藩士の廻国修行について記されている 。九州の中には宝暦(1751-1764)頃には柳河藩以外にも他流試合を引き受けていた師範、藩があるのではないかと考えられる。引き続き調査を行いたい。
村上傳次左衛門が用いた剣術の試合のための道具はわかるが槍術の試合のための道具は現在のところ不明である。大石進種次が剣術の試合に用いた道具は槍術用のものを改良したとも考えられているため引き続き調査を進めたい。
無念流の戸賀崎暉芳の廻国修行、天明2年(1782)の人吉藩士の廻国修行について記されている 。九州の中には宝暦(1751-1764)頃には柳河藩以外にも他流試合を引き受けていた師範、藩があるのではないかと考えられる。引き続き調査を行いたい。
村上傳次左衛門が用いた剣術の試合のための道具はわかるが槍術の試合のための道具は現在のところ不明である。大石進種次が剣術の試合に用いた道具は槍術用のものを改良したとも考えられているため引き続き調査を進めたい。
本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
柳川古文書館 白石直樹様
大分県の武道史研究家 狹間文重様
心より御礼申しあげます。
- 2025/01/08(水) 21:25:00|
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