心と感情をごちゃまぜにしてしまうと稽古はなかなか進みません。
自分の「心地よい」「楽しい」とか「不快だ」という感情を自分の心だと思い、自分の心地よさのみを求める方も世の中にはいます。そのような方に、「この方向性でなければ道を外れる」と指導しても、「こちらの道に戻りなさい」と指導しても、自分にとって間違った方法が心地よいのですから修正することはありません。感情の奥にある自分の心に向かい合う事がないので、自分の我儘な心を妨げられると自分が不快に感じているのだという事に気付くことはないのです。また、正しく導こうとする者がいても、自分の心地よい、楽しいという感情を妨げられるのですから、正しく導こうとする者はその人にとって、心地よい楽しい感情を妨げる嫌な人にしかなりません。正しく導こうとしても「人の気持ちがわかっていない」(実は自分の感情とは異なる方向に指導されているというだけですが・・・)という拒否反応を示すだけです。
古武道の世界は感情ではなくその奥にある自分の心に向かい合わなければなりませんので、自分の至らないところがわかれば情けなくなり、自分が嫌になります。だからこそ向上していくことができます。快・不快という感情を優先している人はそのようなことには向かい合いたくはないのです。
稽古する資質があるかどうかなのですが、自分の感情のままに「楽しさ」「心地よさ」のみを大切にする方には古武道は遠い存在なのだと思います。
- 2018/09/01(土) 21:25:00|
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澁川一流柔術の師 畝重實先生は「心の武道」という言葉を用いられました。これは心のありようがそのまま技となって現れるといういみです。
最も浅く考えてしまう方は技は手順であるとして、流派特有の動きも身につけずに手順を覚えただけで〇○流だと演武をします。
浅い方は、見かけ上、流派の考えに基づいたような技をしますが、そこにはあまり心の働きはありません。
よく理解している方は流派の考え方を身につけ、その上で技を行い、また心の働きが外に現れるのだということを理解し、自分の心のありようを考えます。この段階に至らなければ畝先生の言われた「心の武道」ではありません。
同じ流派を稽古していても手順だけ覚えて、その流派を体得しているという人は私たちと同じ流派を稽古しているとは言えません。
- 2018/09/02(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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インターネットに次のような記事がありました。古武道の稽古にもかかわることだと思いますので記録しておきます。古武道もある意味で瞑想を伴いますので、同じような危険性があると思います。
救いは古武道は相手がいるので向上していけばいくだけ自分の未熟さが見えてくることにあります。また形稽古、手数の稽古を長く続けても自分の未熟さが見えてこず、逆に自信を持ってしまう人は手馴れただけで、真の上達はしておらず下記のような状態に陥っている可能性があります。
危険なのは素抜き抜刀術のみを稽古している場合で、想定を自分の都合の良いように定めて抜いていれば下記の状態になる可能性があります。
我(エゴ)を手放すことに役立つとされる瞑想やヨガを実践した結果、逆に「自分は平均よりも上だ」と感じる自己高揚の感覚が大きくなるという調査結果が発表されました。Mind-body practices and the self: yoga and meditation do not quiet the ego, but instead boost self-enhancement - ePrints Soton
https://eprints.soton.ac.uk/420273/Yoga and meditation boost your ego, say psychology researchers — Quartz
https://qz.com/1307380/yoga-and-meditation-boost-your-ego-say-psychology-researchers/仏教では、瞑想を行うことは自我を乗り越えることに役立つと教えられますが、一方で心理学者のウィリアム・ジェームズは「何かのスキルを訓練することは自己高揚(self-enhancement)を助長する」と主張しています。この「自己高揚」とは、自分が自信があるものについて自惚れることを意味します。ドイツのマンハイム大学が行った研究でもジェームズの説を支持する研究結果が示されています。
- 2018/09/03(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「至誠に悖るなかりしか」は海軍兵学校で教えられた五省の一つです。
自分が誠に生きても、他者はこれを邪な心で邪魔しようとすることがあります。また、誠に生きてもこれを利用しようとする者もいます。そのなかで誠を守っていけるかどうか。幸いに私は守って来ることができましたが、私が行おうとすることを邪魔しようとした者や利用しようとした者は逆に恨みに思っていると思います。人の世とはそのようなもので、誠を守って生きていけば生きていくほど、悪くいう者も増えるのだと思います。
- 2018/09/04(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日本には、私には理解できない言葉「想いにこたえる」というのも当たり前のように用いられるようになってきました。私にはかかわりがないことなので、この「想いにこたえる」ということの実態はわかりませんでしたが、どうやら「想いにこたえる」というのは言った人本人に対して行動するのではなく、その人の「想い」というものにこたえて行動するのだから、言った(想いをはなった)人間は、動いてくれた人に対して自分の為に動いてくれたと恩義を感じなくてもよいということらしいのです。
人が自分の為に働いてくれた人に恩義を感じなくてもすむ人間になれる便利な言葉ですが、私には理解できませんし、理解したくもない言葉です。
- 2018/09/05(水) 21:25:00|
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インターネットの記事に「最新トレンドの1つが、「Masculinity Undone:脱・男らしさ」です。」とありました。また次のようにも語られています。「ビジュアルが世の中に与える影響は大きなものです。それを提供する会社としての責任を強く感じています。」
その会社はそのトレンドにのってますます男が男でなくなることを助長していくということでしょう。
最近は一部の若い男性は体力も女性に劣るようになってきたと言いますから、さもありなんですが、男が男であることを捨てれば、何かあった時にはどうするのでしょう。男が何かあった時に守るべきものを護ることがない社会。男は楽でいいですが、いまだに女性は自分が女性であることを武器にします。男は男でなく、女性は何かあった時には旧来の女性像をもちだす。
やがては非常時には共倒れの社会がやってくるのだと思います。
- 2018/09/06(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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動物の保護活動をされている方が記されたものにつぎのような記事がありました。要約させていただくと
「電話で話すと大体の覚悟も伝わります。エネルギーも伝わります。 堂々とした人、落ち着かない人、 嘘を言ってる人。
電話で、と言うと中々時間がなくてって。電話する時間も無いのに犬を飼えるんですか? 質問だけでも丁寧にお答えしています。
一生を共にするのにメッセージやラインで済ますんですか? 文章ではどんな綺麗事も書けます。」
本当にそうだと思います。実際に行動も伴わないのに文章の奇麗事で終わらせようとする世の中になってしまいました。行動するには労力も苦労も何もかもが伴ってきます。ましてや、その活動を自分と仲間との資金で行い、公共団体からの助成金という庶民からも吸い上げた血税を使わなければなおさらのことです。
奇麗事を並べるのは血税を感謝の思いもなく使うために行われているようですが、きれいごとを並べる世の中から何が生まれるのでしょうか。行動よりも綺麗事を並べるほうが尊ばれる風潮があるように思います。針小棒大という言葉が尊ばれる時代でしょうか。
- 2018/09/07(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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最近刃物を利用した犯罪がよく起こるようになってしまいました。20年くらい前は今ほど刃物を使った犯罪がなかったか、あるいは報道されていないだけだったのかもしれません。その当時は柔術の稽古が実際に役に立つことはないだろうと思っていました。
さて、日本の柔術は基本的に素手対素手で戦うために教習体系が作られているわけではなく、特に澁川一流柔術は最終的に刃物に対することができる技術が習得できるように形が組み立てられています。刃物も短刀または懐剣、刀といった日本の伝統的な刃物に限られてはいます。
今は柔術も素手対素手で行う武道だったのであろうと一般的な方は考えますが、江戸時代に武士は刀を腰に差し、盗賊は刃物をもって押し入るので、素手と素手で戦いましょうという武道は不完全なものでしかありませんでした。素手対素手で行う武道というイメージができたのは講道館柔道が盛んになってからだと考えます。
さて、このような時代になってしまったので、刃物に対する稽古をする澁川一流柔術は実用的な武道になってきました。素手と素手で稽古する形であっても、そのほとんどが、刃物に対する業として使えるようにできているからです。
この実用的な澁川一流柔術をどのように広報して稽古していただく人を増やしていくかが今後の課題です。
- 2018/09/08(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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『元茂公御年譜』より武道に関する記述を抜きだしていきます。鍋島元茂は小城藩初代藩主で武術にたけた人物であり、特に新陰流は柳生但馬守宗矩の弟子で十兵衛の兄弟子、三代将軍徳川家光の稽古の際打太刀を務めた人物です。佐賀県立図書館発行の佐賀県近世史料第二編第一巻を用います。
「公御聡明怜悧の御性質にて御一代文武の御執行厚く御多芸の御事常人の及び奉処に非ス、文学ハ長順を師とし給ひ、漢文章 易学御伝有、御能書にて筆道ハ藤木甲斐守、御兵法ハ柳生殿、御馬ハ上田殿、軍馬ハ加藤殿、御弓ハ中川氏、御鉄砲ハ井上殿、同薬方ハ毛利殿、短筒ハ和田殿、長刀ハ穴澤殿、組打ハ茨城殿、馬医ハ橋本氏、茶湯ハ玄端、御能ハ観世太夫、太鼓ハ服部氏、蹴鞠ハ飛鳥井殿、御鷹ハ荒井藤七入道、諸礼ハ武藤丹後森より御相伝、何も免状印可御取被成候付、御門弟も数百人に及へり、其外禅學ハ沢庵和尚、立花ハ池ノ坊、又音楽・連歌・医術迄委敷御極め被成候」p.6
修めた分野は広く、いくら文武に時間がさけたとしても、修業は並大抵ではなかったと思います。武術だけでも剣術、馬術、弓術、砲術、長刀、組打と広範囲に及びます。しかし、現代人も劣っているかというとそうでもなく、これでいくと、私も剣術、居合、柔術、自動小銃、拳銃、銃剣、短剣が多少なりともつかえ、SAMの運用の知識もあります。馬術はしなくても【大型自動二輪、普通乗用車、大型特殊車】の免許があります。
こう考えてしまうと、ことさら当時の人がすごかったわけでもなく、かける時間の問題だったような気もします。
- 2018/09/09(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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元和2年(1616) 公御年十五歳
「今年六月廿三日、三平様新陰流平法御入門、柳生又右衛門殿江御誓紙被成候、御打太刀ハ村上傳右衛門後宗傳と云・遠岳甚九郎後源右衛門と云 同時入門也」p.37
村上傳右衛門は葉隠の口述者山本常朝の伯父ですが、佐嘉藩祖・鍋島直茂によって元茂の家臣として付属させられました。鍋島元茂が柳生但馬に入門するための布石となっていたといわれますが、『元茂公御年譜』には「同時入門也」と記されています。
この当時、藩の存続をかけて色々な策略が用いられたと思いますので、何が真実であったかを判断するのは難しいと思います。
- 2018/09/10(月) 21:25:00|
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元和四年(1618)十月、数え年で十七歳のとき、元茂は柳生但馬守宗矩から免状を授かっている。
「今年十月、柳生又右衛門ゟ御兵法免状被差出
依兵法御執心、新陰流上泉武蔵守相傳之通、其上親候は愚意心持被相傳極意之儀、付残申上候由、以起請文、手利釼迄免し候、御指南尤候、云々
元和四年午十月吉 柳生又右衛門尉宗矩
鍋嶋三平殿
此後、神妙釼棒心西江水御相伝之免許等、段々被差出候」p.68
入門から約二年の修業で手利釼までの伝授を許されています。「御指南尤候」とは指導の許しということでしょうか。江戸時代初期は免許皆伝までの期間が短い傾向にありますから、このように短期間で「御指南尤候」となったのもことさらに元茂に資質があったということではないと思います。私の道場にもかつて2年たらずの稽古で人の10年分以上の上達をした方がいます。
- 2018/09/11(火) 21:25:00|
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元和6年 公御年十九歳
「家光公御兵法柳生但馬守宗矩師範之節、御打太刀ハ同門の高弟、元茂公と木村助九郎也、或時家光公より両人の御打太刀へ平法の勝利書立差上候様被仰出時、助九郎ゟは奉書紙三枚に書付差上候、元茂公よりハ、善ト思事悪シ、悪ト思事悪シ、善悪トモ悪シ、不思善シ、と御書付被差上候へハ、甚御感被遊候由、其後 家光公より、御持扇に平法の意味御書付被遊候を 元茂公へ被為拝領候、扨又右御太刀ニ付、元茂公御一生之間、八木千俵ツツ毎歳御拝領被成候」p.73
いつも道場でお教えしていることと同じ考え方を鍋島元茂はもっていたようです。無念無想ということですが、技の上での無念無想ですので、宗教的な無念無想よりも良いかと思います。ただ、この出来事が元茂19歳のときであるというのが、元茂の非凡さを物語っています。
- 2018/09/12(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「木村助九郎ハ真剣十本を無刀ニ而取之之由相聞へ紀州頼宣卿より五百石ニ而被召出、彼御家中と相成候」p.74
真剣で斬り込んでいった打太刀がどこへでも、どのタイミングでも自由に斬り込むのを取ったのであれば素晴らしい業の持ち主であると思います。もしそうでないとしたら無刀で相手の刀を取る技そのものが珍しかったのかもしれません。もしその程度であったとすれば、それほどのことでもないように思います。
- 2018/09/13(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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これも元和6年 元茂19歳のときの話です。
「或時、家光公御稽古上りに但馬守殿に、紀州守(元茂)が太刀を其方無刀にて取事可成やと 上意有、御所望ニ付御立合い、但馬守 元茂公の御太刀を取て被懸御目、当時鍋島紀伊守か打ツ太刀を無刀にて取候者、今日本に但馬守ならて御座有ましと御申候由、然ハ宗矩の次にハ元茂公の外ハ天下に並ふ達人無りしと申伝候」p.74
鍋島元茂が斬り込む太刀を無刀で取ることができるのは柳生但馬守しかいないといっていて、したがって、鍋島元茂は柳生但馬守に次ぐ腕の持ち主であるといっています。これを読むと、自由に斬り、突きかかってもよいのかとも考えれらますが、太刀の動きの鋭さをいったものかもしれません。興味深い点です。
- 2018/09/14(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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元和9年 元茂22歳のときの話です。
「元茂公御稽古有長刀之一流、飯篠長威より同若佐森・同山代守・穴澤浄見・同紹句相伝之極意免状・印可差上候
夫長刀目録日者極意向上長刀迄相伝申、其頗透得兵法之工案、獅子洞出寅乱入、此ニ長刀吾家之至要也、然ば御執心之処不浅、不残伝授申処明白也、雖然以油断為敵、但以鍛錬得妙者也、以来執心申上輩於有之ば、堅以誓神可有御相伝者也、仍許状如件
穴澤紹句
現真印
元和九年七月朔日
鍋島紀伊守殿」p.88
何歳から稽古を始めたかわかりませんが、22歳で穴澤流長刀(なぎなた)の修業を終えています。女性がなぎなたを用いるというのは幕末あたりからの風潮のようで、この頃はまだ、長刀は戦場の武器で男性が用いています。
江戸時代後期には免許を授かるまでに、一般的に約10年の修業が必要ですが、江戸時代初期には数年で免許ということもよくありますので、22歳で免許というのはことさらに早いことでもないと思います。。
- 2018/09/15(土) 21:25:00|
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寛永五年 元茂27歳のときの話です。
「五月十六日、元茂公 毛利甲斐守(長府 秀元)殿ゟ鉄砲之薬方御伝授ニ付御誓神被進候」
「六月廿七日、元茂公、井上外記正継ゟ砲術八十五ヶ條御相伝相澄」p.121
火薬の作り方と砲の扱い方は別の術ととらえられていたのでしょう。時代が下ると火薬を扱う鉄砲はやけどの元ともなり大けがもしかねないので比較的身分が低い者が扱いますが、この当時はまだ身分の高いものも銃砲を扱っていたようです。
- 2018/09/16(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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同じく寛永五年 元茂27歳のときの話です。
「十一月、元茂公より侍従様へ御書付を以被仰上候控
内々存上條々
一 御家を寡被相抱義を被思召御分別候ハヽ、諸事共ニ可然候ハんと奉存候事
一 御国を御預り之国と被思召可然候する哉事
一 御家中の困窮、百姓のくたびれハ積而御身の上と可被思召上哉之事
一 縦理之前ニ候ても、家中・百姓窮鼠終候ハヽ、只御悪事之根源ニ而候ハん哉之事
一 縦御無理之義御座候共、不被思召寄間ハ、申出仁有かたく見及申候、事極り候ハぬ先ニ可被聞召付事、付 目附衆数多御座候へ共、分別之高下より御高量入可申事
一 右之通御座候条、天然御気任ニ成申と被思召、連々御心を以御心ニ御糾明可被遂候儀、専用存候事、
已上
十一月七日」p.122
これを読むと鍋島元茂は家臣や百姓に対する思いをもっています。しかし積極的にこれを守ろうとしたかどうかは読み取ることができません。
- 2018/09/17(月) 21:25:00|
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寛永六年 元茂28歳のときの話です。
「今年、元茂公南蛮流短筒の砲術御相伝相澄候、免状
鉄砲之根源可致傳授之胸、度々斯蒙芳名、不残心底尽書紙儲高覧也、若御家人等被仰知度於被思召ば、右致調進所巻々之打ち、従小短之巻・中短之巻拾弐長丁以下、以牛王宝印之裏全致他言他見間敷之旨、血判被仰付、翌日可有御教傳而已
日東短筒元祖
和田八左衛門尉
平光吉判
寛永六巳林鐘吉辰
進上
元茂公
右之後、南蛮流短筒、御家中吉富五郎兵衛ニ御伝被遊」p.124
短筒(拳銃)が戦場で用いる火縄銃とは別の独立した武術として存在しています。江戸時代初期には武術の細分化が始まっているのだと思います。鍋島元茂はこの免状を得ていますが、その後は家臣に伝えさせたのでしょうか。
- 2018/09/18(火) 21:25:00|
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寛永六年 元茂28歳のときの話です。
「今年、沢庵和尚配流武州東海寺、元茂公兵法ニ付而、兼而禅学之大意御聞被成候師也」p.125
柳生但馬守宗矩とのつながりで沢庵和尚にも師事するようになったのだと思われます。禅の境地はどのようなものであったかは伺えません。沢庵和尚は臨済宗ですが鍋重元茂はじめ代々藩主の菩提寺は臨済宗ではなく黄檗宗です。なお、黄檗宗はもともと臨済宗で、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていたようです。
- 2018/09/19(水) 21:25:00|
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寛永十年 元茂32歳のときの話です。
「元茂公へ日置流雪荷射術、御家中ゟ数十人御入門申上る、何も誓紙有
元茂公御一生武芸御達人ニ而御座候打ち、射術之義、余の御藝ゟハ御不得手の由、然乍馬上の御弓ハ勝レて御達者ニ而余人ハ中々不奉及由、兼而御馬御達者の故、騎射ハ格別ニ被遊と申傳候」
全ての武芸に優れていても苦手なものがあったのでしょう。元茂は弓術は苦手であったようです。しかし、元茂は馬術が達者だったので騎射が得意だったということです。確かに馬に乗るのが下手であればいくら馬に乗らない状態での弓術が上手でも騎射はできないと思います。
もし、元茂が馬に乗らない状態での弓術も得意であったとすれば騎射はもっと素晴らしいものであったのではないかと思います。
- 2018/09/20(木) 21:25:00|
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寛永十一年 元茂33歳のときの話です。
「元茂公、加藤勘助殿ゟ軍馬御相伝幷馬上条々大坪流奥秘迄不残御相伝相済候」
鍋島元茂が修めた武術は新陰流だけでなく多岐にわたりますが、現代人も自動車の運転ができ、自動二輪に乗れる人もいると考えると、現代人もあながち劣りはしないと思います。
車両の運転は武術ではないと思われますが、移動手段、運搬手段と考えると、馬術と変わらないものがあると思います。
- 2018/09/21(金) 21:25:00|
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時は流れて正保三年 元茂45歳のときの話です。
「柳生但馬守卒去、三千石を領す
法名 西江水大通宗活大居士 七十六歳
元茂公へ兵法之奥義不残御相伝有之通、返り誓紙まいらせ候時、病気差重り筆を取候事不相叶、村上傳右衛門傍ゟ筆をとらせ漸く判を取て 元茂公へ差上候也、此但馬守ハ 将軍家御若年之頃より御兵法之御師範ニ被 召出、御打太刀ハ元茂公数年御勤被成候、年頃怠りなく御稽古有、其法の有所悉く伝させ給ひとも、宗矩ニハ及はせ玉ハす、常々御心を労し玉ふより外ハ、此上ハ只御心ニ自ら得させ玉ふより外ハ有へからす、去なから宗矩もむかし或師ニ附て禅を参し聊得る所有、我術少し進ミ候と覚へ候、不言之妙ニ至りてハ、禅をたとへて術を喩し候ニハしくへからすと被申上しかハ…以下略」p.385
『肥前武道史』で黒木先生が述べられた「乱れ花押」の部分です。柳生但馬守宗矩は死期が迫っているために筆を取れないので村上傳右衛門が宗矩の手を取って花押を書かせています。
他の文章の部分はしっかり書かれているので、最後の花押の部分だけが記されていなかったのでしょう。沢庵とのかかわりも記されています。
また、ここにも鍋島元茂が3代将軍家光の打太刀を務めたと記されています。
以上で鍋島元茂について終えます。次は小城藩二代藩主鍋島直能について『直能公御年譜』からみていきます。
- 2018/09/22(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日本武道学会第51回大会で発表した「小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について」を数回に分けて載せていきます。
Ⅰ.はじめに
江副七兵衛は佐賀藩の支藩である小城藩の大石神影流師範である。小城藩の初代藩主鍋島元茂と二代藩主鍋島直能を祀る岡山神社のそばには江副道治(七兵衛)の石碑があり,そこには天神真楊流体術 大石神影流剣術 八天舞相流棒縄術 江副道治と刻まれている。
旧江副家は石碑のそばにあったらしいが現在は公共の駐車場になっている。現存するのは旧家にあった史料の一部であるが,その中に『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』がある。本研究ではこの二つの史料を用いて小城藩にどのような人物が来訪して試合をしたか,また江副七兵衛がどのような地域に出向いて試合をしたかについて明らかにしたい。
- 2018/09/23(日) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅱ.小城藩の武術流派について
1.小城藩の成り立ちと新陰流
(1)小城藩の成立
小城藩の立藩の時期は諸説あり判然としていないが,江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂(1580-1657)の長男・元茂(1602-1654)が祖父直茂から一万石を与えられたことに始まる。のちに,幾度か加増をされて最終的に七万三千石となった。家臣は勝茂から七十七氏、勝茂の父である藩祖・直茂から八十三氏が元茂に譲られ,佐賀藩の支藩となった1)。
(2)小城藩と新陰流
小城藩初代藩主鍋島元茂は広く文武を修めており『元茂公御年譜』には「公御聡明怜悧の御性質にて御一代文武の御執行厚く御多芸の御事常人の及び奉処に非ス、文学ハ順長老を師とし給ひ、詩文章易学御伝有、御能書にて筆道ハ藤木甲斐守、御兵法ハ栁生殿、御馬ハ上田殿、軍馬ハ加藤殿、御弓ハ中川氏、御鉄炮ハ井上殿、同薬方ハ毛利殿、短筒ハ和田殿、長刀ハ穴澤殿、組打ハ茨城殿、馬医ハ橋本氏、茶湯ハ玄端、御能ハ観世太夫、太鼓ハ服部氏、蹴鞠ハ飛鳥井殿、御鷹ハ荒井藤七入道、諸礼ハ武藤丹後守より御相伝、何も免状印可御取被成候付、御門弟も数百人に及へり、其外禅學ハ沢庵和尚、立花ハ池ノ坊、又音楽・連哥・医術迄委敷御極め被成候」2)とあり,文武両道に秀でた藩主であった。
鍋島元茂は『元茂公御年譜』にあるように柳生但馬守宗矩に師事し,正保3年(1646)に『兵法家伝書』をさずかり3)4),また起倒流乱も寛永16年(1639)38歳で茨木専斎よりの相伝を終えている5)。
小城藩二代藩主鍋島直能も柳生但馬守宗矩の教えを受け,宗矩死後は父元茂の教えを受けた。小城藩三代藩主・鍋島元武も新陰流の教授を父・直能に受けたが,直能のあとをついだのは弟の元敦で,以後,西小路鍋島家と呼ばれる元敦の家系が小城藩で新陰流を指南し,元辰―元鄰―元常―元陳―元澄と指導が続けられ,小城新陰流と称されて幕末に至った6)。
- 2018/09/24(月) 21:25:00|
- 武道史
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2.幕末の小城藩の剣術流派
幕末の小城藩の剣術には柳生但馬守宗矩より伝えられた新陰流を中心として大石神影流,戸田流,心形刀流などが盛んに稽古されており,それらの流派が廻国修行者を受け入れて試合をしている7)。
大石神影流と小城藩とのつながりは深い。大石神影流を開いた柳河藩の大石進種次の祖父・大石太郎兵衛種芳は柳河藩において愛洲陰流剣術を指南していた。小城藩士・五郎川大四郎が文政年間にこれを習い小城藩に伝えたのがその始まりである。ついで大石進種次より皆伝を得た小城藩士・江副七兵衛が大石神影流を慶応元年(1865)まで教授している。大石神影流は一流派として小城藩に影響を与えただけではなく,新陰流、戸田流にも影響を与えた。すなわち新陰流からは水町蔵人が大石進のもとに留学し皆伝を授かり,戸田流からは庄藤兵衛が留学して皆伝を授かって帰藩し,それぞれの流派に新式の竹刀・防具による、突き技,胴切の技を導入している。
戸田流は納富家が伝えていたが、納富家からは大正、昭和に納富教雄、五雄と二代にわたり剣道範士を出している。7)心形刀流は永田右源次が師範をしていた。その次男が剣道範士となった辻真平であり、大日本帝国剣道形制定時の主査五人のうちの一人であった8)9)。
- 2018/09/25(火) 21:25:00|
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Ⅲ.江副家文書と江副七兵衛について
1.江副家文書(写真4)について
江副石碑から江副七兵衛が指導した武術は天神真楊流体術,大石神影流剣術,八天舞相流棒・縄術の三種の武術であることがわかるが,現存する武術関係の文書は大石神影流関係文書,天神真楊関係文書,真之乱流伝書,その他である。
(1)大石神影流関係文書
・『大石神陰流刀術截目録』(天保11年11月,大石進種次→江添(ママ)七兵衛)
・『大石神陰流刀術陽之巻』(天保11年11月,大石進種次→江添(ママ)七兵衛)
・『釼家姓名録』(天保10年~天保13年の廻国修行英名録)
・『諸国釼家姓名録』(天保8年(1837)~弘化2年(1845)までの試合記録)
(2)天神真楊関係文書
・『天神真楊流兵法起請文前書』(ひな形か?差出人なし 江副誠道治あて)2通
・『天神真楊流形手数』(慶應2年正月以後,江副氏,形目録)
・『天神真楊流形手数』(明治15年6月,兎耳山内,形目録)
・『天神真楊流柔術之誌』(天神真楊流形目録,北辰真楊流柔術形之巻一,北辰真楊流柔術之巻二,
北辰真楊流柔術之誌三,北辰真楊流柔術之誌四)
(3)真之乱流伝書
・『真之乱流平方序』(文化14年5月,納富源右衛門教幸→森永文右衛門)
(4)その他
・『江副系図』(従五位下民部大輔良政から江副七兵衛の子 政治まで)
・『虎巻小切紙』(一寸タイマツノ事等々)
・『諸書抜書』(享保元年10月,江副七兵衛敬被差による諸書の抜き書き,)
・『武芸小傳抜書』(武芸小傳の抜き書き)
・『神陰流兵法口伝』(新陰流兵法口伝,上泉伊勢守新陰流兵法五十箇條,新陰流兵法秘歌)
・『剣法居合 八形変化 左右変形 記』写し(天保7年3月,窪田清音→五郎川是一郎)
- 2018/09/26(水) 21:25:00|
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2.江副七兵衛について
江副七兵衛は『江副系図』によれば「兵部左衛門、中頃七兵衛、初政一郎、法名實相院道林、慶應元丑七月十日死去」とある。『小城着到』によれば馬乗士四十二石である10)。
大石神影流『諸国門人姓名録』11)には江副七兵衛について「大四郎跡師範 後八太夫相持 毎度五ケ年入熟(ママ)」と記されている。大四郎とは江副七兵衛の小城藩での師である五郎川大四郎のことで「右文政年中三ケ年入熟ニ付皆相伝セシメ依之 師範家ト成る」と記されている。つまり,江副七兵衛は小城藩で五郎川大四郎に師事しながら,柳河藩の大石進種次のもとでも稽古をしていたと考えられる。
- 2018/09/27(木) 21:25:00|
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Ⅳ.『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』について
『諸国釼家姓名録』(写真5)は天保8年(1837)から弘化2年(1845)までの記録で,一部には小城藩から出て他地域に赴いての試合の記録があるものの,多くは小城藩に試合に訪れた者の姓名を記し,その約半数には試合相手の技量を「上」「中」「下」という記述で記している。記録の日付に前後があり,また,試合場所等が記されていないものがあることから,江副七兵衛自身が備忘録のように記したものではないかと考えられる。
『釼家姓名録』(写真6)は天保10年(1839)から天保13年(1842)までの間に他地域に赴いて試合をした記録で,その冒頭に師の五郎川大四郎の添え書きがある。
『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』は試合をした年が重なっているため二つの資料をあわせて年代順に表1にまとめる。
表1 江副七兵衛の試合記録
1.『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』を合わせて表とした。
2.『諸国釼家姓名録』は日付が前後して記されている箇所があるが、並べ替えて日付順とした。
3.『諸国釼家姓名録』で明らかに試合をした年の記述間違いと思われるものも、前後関係から訂正した。
4.『釼家姓名録』で日付の記載のないものは、推定される年の最後に記入した。
5.『釼家姓名録』の記述は斜体の太字とした。
6.流派名で漢字の記述間違いと思われるものも記述された通りとした。
7.流派名や所属する藩が記載されていないもので、推定できるものは既述した。
表は省略
- 2018/09/28(金) 21:25:00|
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Ⅴ.『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』の分析
1.試合相手の評価
『諸国釼家姓名録』には試合したと考えられる173名のうち,86名について試合相手に対する主観的な評価が江副七兵衛によって記されている。評価とその評価を受けた人数および流派と所属する藩を表2にまとめる。1人だけ〇という評価があるが「上」と同じ評価と考える。また,「中ノ中」と「中」は同じ評価ではないかと思われる。
試合相手の評価は「上上」「上」「〇」を合わせると18人,「中ノ上」「中」「中ノ中」「中ノ下」を合わせると43人,「下」「下下」を合わせると25人である。中間的な評価が最も多く,次に否定的な評価が多く,肯定的な評価は否定的な評価よりも少ない。
また、試合相手の出身地や流派による評価のかたよりはあまりないようであり,同流派の大石神影流であっても「下」と評価されている者もある。
- 2018/09/29(土) 21:25:00|
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2.小城藩での試合場所
小城藩に試合のために訪れた者たちと江副七兵衛が試合をした場所を表3にまとめる。
小城藩藩校の興譲館には講武場と呼ばれる武術の稽古場があったようでるが,試合場所は寺(の境内)を用いたと思われる場合が多い。藩校興譲館の一部である致人堂での試合の記録もあるが,致人堂どのような建物であるのかは不明である。
なお、南品は記述の内容からすれば小城藩内にある場所ではないかと思われるが,現在の地名に当てはまるところはなく,現存する寺院にその名はない。
- 2018/09/30(日) 21:25:00|
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