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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

言葉

 流派にはそれぞれ固有の術語やそれに準ずる言葉があります。
 無雙神傳英信流には「抜付け」「運剣」「斬撃」「血振い」「張受け」・・・。
 大石神影流であれば「表面」「裏面」「張る」「乗る」「気先をかける」・・・。
 澁川一流では「意治」「返にとる」「柔」「当り」「活かし」・・・。
 
 このような術語は絶対に変えてはならず、変えてしまったら流派が変わったといっても過言ではないと思います。言葉をおろそかにしてしまうと中身も変化していきます。言霊は存在します。

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  1. 2023/02/01(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

打太刀

 打太刀は上位者が務め下位の者を導きます。逆は特別な場合を除いてありません。特別な場合というのは全く何も知らない者に形・手数を教える時や演武会などで仕太刀の遣い方を示し演武する場合などです。普段の稽古では必ず上位者が下位者を導きます。
 下位者が打太刀を務めれば適切な機会に斬り、突くことは出来ず、適切な心の間や間隔の間も取ることが出来ません。適切な機会に斬り突くことができない下位者が打太刀を務めるのですから将来的な上達の芽を摘むことになります。もし上位者が仕太刀を務め下位者が打太刀を務めるとしたら双方が相当な年数の稽古を積んだ後のことで双方とも免許皆伝、少なくとも中伝以上の位にある場合です。
 私自身は大石先生の仕太刀をしたことはありませんし梅本先生に対してもそうです。常に先生方に導いていただきました。
 打太刀と仕太刀は単に役割が異なるだけではありません。そこを間違えて稽古すると手慣れた動きができるようになるだけで上達することはありません。低いレベルで遊んでいるだけのことになります。指導者不在の時であっても上位者が打太刀を務めて稽古してください。

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  1. 2023/02/02(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

あさい、あまい

 稽古する人を見てここをよくしなければ上達はないと判断して指導しているのに、なぜか指導されたことを会得しようとせずにほかのことに興味関心を持って自分で判断して稽古する人がいます。
 理解が浅く自分に甘いのです。自分でできていると思っても師が良しと言われなければよくなっていないのです。できるようになってもいないのに、パパっと素早く動いて人の目を引こうとする殺陣の様なことをしたいのであれば流派の選択が間違いですし、年数をかけて稽古しているのにそうなってしまうのは慢心です。慢心が厄介なのは自分はできるようになっていると信じていることです。「師が指導されるのは99%出来ているのを100%にしようとして指導されているのだ。」と過信していることです。そうではなく全くできていないか、慢心して出来なくなっているので指導します。しかし慢心しているので自分ができていないとは思いません。自分自身を厳しく見つめればそのようなことにはならないのに残念なことです。

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  1. 2023/02/03(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

無理しない

 体調が悪いときにはいつも通りの稽古をしようとするとかえって調子が乱れることがあります。そういう時には集中して数本の形・手数の稽古をして後は見学にとどめてください。指導者の下で稽古するときにはあらかじめその旨を伝えて見学してください。見取り稽古の方が効果が上がることがあります。
 体に痛みがあるときも同様です。無理してこじらせては稽古そのものが続けられなくなります。また冠婚葬祭などがあるときにもそちらを優先させてください。

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  1. 2023/02/04(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

二度は言わない

 大切なことは基本的に二度は言いません。大切だから指導したのです。上達する人は指導されたことを会得しようと真面目に努力します。指導したことを求めずに自分がしたいことをするのなら師は必要ありません。流派で上達することはあきらめアニメでも見て真似をしてください。初心者の場合には大切なことは何かがよくわからないことがありますので二度目、三度目もあります。どのようにしたら上達できるのかも説明します。しかし多くは言いません。指導したことを求めないのは自分がその方向に進みたくはないのですから。
 稽古を始めて年数がたっている人は二度目を指導されたら恥です。何もわかっていないことになります。それでも指導した方向に進まなければほっておかれます。当然です。指導するだけ無駄だからです。無駄なことをするくらいなら上達しようと素直に努力している人を指導したほうが効率的です。できているから言われないのではなく無駄だから言われないのです。
 梅本先生はこのように指導されましたが先生の指導に従う人の方が少なく自分が好きなことをしたい人が多かったように思います。大石先生は一度言ってきかなければ指導はされなかったようです。畝先生は指導に従わない人には表面的な浅いことのみ指導されていました。自分は出来ていると錯覚する人ばかりでした。

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  1. 2023/02/05(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

道を外れないように

 正しく稽古を重ねれば、人によく見られたいとか人に勝りたいとか権威を持ちたいという気持ちは無くなってきます。まさしく修行だからです。しかし武道の稽古を長年していても人にかっこよく見られたい、より強い権威を持ちたいと思う人がいます。しかも少なくない数なのです。無意識かどうかはわかりませんが権威を持ちたいという方は長年稽古してもその気持ちがなくなることはありません。武道はもともと勝ち負け、生き残りをかけた戦いに発したものなので正しく歩むには武道は細い道なのです。少し道を外れたら自分が気付かないうちにそうなってしまいます。
 常日頃、弟弟子や門人に対する自分自身の言動に気を付け、自分自身の業技に驕っていないか眼を光らせておかなければすぐに道を外れてしまいます。

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  1. 2023/02/06(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

実伝を受けても

 武道は実伝を受けることが大切です。過去にビデオで習いましたとか、伝書で復元して稽古していますという人に会う機会もありましたが、その人たちに共通して抜けていると感じられたのは「重さ」です。自分が作ったものなので流派の大切な部分が抜けて外側だけを形作っており、その流派を背負っている人としての重さがないのです。勿論実伝ではないので心の部分を伝えられていないことによる「軽石」のような軽さもあると思います。武道は心を中心として稽古していくものですので流派の心がぬけていれば仕方ないのだと思います。心がなければ形作ったものがいくら似たとしても似せているだけです。
 これは実伝を受けて稽古している人にも起こります。自分を空にして稽古を始めたのではなくこれまで持っていた知識や他流派、他武道の経験をもとに習得しようとする人たちです。すでに持っているものに継ぎ足そうとしているのですから心は流派の心を受け継ぐこともできず、形も心がないので似せたものにしかなりません。自分はいくら一生懸命稽古していると思っても異なるものの上に異なるものを足しているだけですので似せているにすぎません。しかし本人は異なるものに継ぎ足しているので経験がある分、合計したら自分は先に進んでいると錯覚してしまいます。細い道から外れて遠く離れていることに気付かないのです。自分ではできていると思っていますのでいくら指導を受けても心には響いてきません。

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  1. 2023/02/07(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

流派を演武する

 奉納演武や演武会では流派を演武します。流派の形・手数を自分の価値観に基づいて演武するのではありません。ここを間違える方がおられます。
 流派の教えをどれだけ体得しているかが演武する上で重要であり、自分ができないからといって自分の都合が良いように、見栄えが良いように演武すればそれは形・手数の手順は同じであっても伝えられた流派ではなく個人の流派です。慢心に陥る人には流派の教えではなく個人の自分の都合の良い演武をして自己満足する方がほとんどです。拙いという認識があるから上達します。自分がどのような思いで演武しているか省みてください。

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  1. 2023/02/08(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

演技

 物真似では上達ではないということは述べていますが、さらに進んで下手な演技をする人もいます。

 素抜き抜刀術で気迫がこもっているということを現すために顔を作る。
 素抜き抜刀術でやっている感を出すために動きの結節点で体を緊張させ力みを作る。
 剣術で有声の気合を出すために喉から声を出し、いがる。
 剣術で打太刀をしています感を出すために仕太刀を受けたときに無理な動きをして体を固める。
 剣術で打太刀をしたときにわざとやられましたという不自由な態勢を作る。
 柔術で受けをするときにやられました感を出すために自ら飛んでいく。
 柔術で気迫がこもっている感を出すために相手をにらみつける。

 上に述べたことは物真似にも入らないような素人をだますような動きですが、正しく稽古した人はそのような意味のない、むしろ武道の稽古に害になる動きはすぐに見抜いてしまいます。 不思議なことですがそのような動きを否定しているのに貫汪館でもそのようなことをする人が必ず現れます。もう20年位前のことですが稽古ではそのようなことをしなかったのに日本武道館での演武で相手を睨みつけ動きに節をつけて威嚇しているのかと思うようなことをした人がいるのです。友人を連れてきていたので「みせたかった」のです。それ以後稽古のときにもそのような見せる動きをし、顧問の先生に「あんたのは人が修行しているのではなく獣だ」と言われても気づきませんでした。演技がしたい人は演技で活動できる場があり、貫汪館の武道には不向きな人です。

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  1. 2023/02/09(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

安物買いの銭失い

 ことさら高価な稽古道具や稽古着は買う必要がありませんが、あまりに安いものを買うとかえってお金を失うことがあります。
 20年位前ですがオークションで学校体育の剣道への貸し出しの中古の袴を格安で売っていたことがあります。オークションに出していたのは学校向けにレンタルをする業者でした。中古とは言っても数度しか授業で着用していないという袴です。手元に届いたら生地はごわごわ、まるでプラスチックの薄いものかと思えるような品物で、居合に使うといっぺんで膝は破れ、使い物になりませんでした。お金をすてたようなものです。
 木刀もお土産で買うようなものは要注意です。一度打ち合わすとひびが入ったり折れることがあります。六尺棒や半棒しかりです。帯についてはすでにお話ししていますが、安物のヘラヘラのものでは刀も落ち着かず稽古になりません。模造刀は猶更です濃州堂で購入する居合刀が自分にとって高価だからと、居合刀をオークションで買い、長さも合わなければバランスも悪い、柄の形状もよくない模造刀を買うとかえって損をすることになりかねません。
 安いに越したことはないのですが、品質がしっかりしたものを購入しなければなりません。

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  1. 2023/02/10(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

返信する

 昨今は手紙を書く習慣がなくなったからか若い人の中にはe-mailに返信できない人がいます。大切なことを連絡しているのに「確かに受け取りました。」という返信ができないのです。これは武道にとっては致命的です。
 武道は他者があって成立します。一人で行う形があったとしてもそこには他者が存在します。この他者との関係の上に成り立つのが武道です。返信できない人は「受け取った。わかった。」で自己完結し送信した相手のことは頭から消えています。簡単な日常生活でのやり取りができないのですから武道はおしてしるべしです。
 過去に手順にこだわり外形にこだわり、どうだすごいだろうと現わすような稽古をした人にそのような傾向を持つ人がいます。武道ではないのです。そこを脱却しなければいくら美辞麗句を述べたところで無雙神傳英信流、大石神影流、澁川一流の門に入ることすらできません。

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  1. 2023/02/11(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

言葉に誠を込める

 言葉は意思疎通の道具です。しかしそこに誠がなければ人を欺く道具となります。特に師弟関係において師が導いている時に形式的に「はい。」「わかりました。」「かしこまりました。」などという返事をすることはしてはなりません。わかったのかとおもっていても全く言葉と異なることをしていて失望することがあります。
 そのような返答をする理由はいくつかありますが、わかっていないのだけれども師を煩わせてはならないと遠慮して返答している場合。自分が指導を理解できない能力の低い人間だと思われたくない場合。何もわかっていないのに自分でわかっているつもりになっている場合。そもそも言葉を大切なものと思っておらず、全く誠がこもっていなくてもそのように形式的に返答しておけば良いと思っている場合などがあります。
 わかっていないのだけれども師を煩わせてはならないと遠慮して返答している場合には救いようがあります。自分が能力が低い人間だと思われたくない場合には、いずれ化けの皮がはがされるときに後悔することがあります。わかっているつもりになっている場合には、いつか何もわかっていないことに気付かされる時も来ます。形式的に返事だけしている誠がない人は形・手数も形式的に外側が大切と思っているので一番厄介です。すべてが形式で中身はないのです。形・手数も外側が似ていればよいと考えるのです。
 わからない時には丁寧な言葉遣いで何がわからないのかを師に話し問わなければなりません。真面目に稽古しているのであれば遠慮は不要です。

 師にとわすいかに大事を教へき
                  心をすましねんころにとへ



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  1. 2023/02/12(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

流派の教え

 流派にはそれぞれ固有の教えがあります。その差が大きいか小さいかは流派の特性によるものです。したがって良い悪いで論じるものではありません。それぞれのやり方があるというだけのことです。
 特定の流派を習いながら、その師に当時流行りの「古武術家」と称される人物の柄の持ち方を論じた人がいたということを聞いたことがありますが、貫汪館でも随分前にその人物の影響を受けた門人が誰でもできるような○○理論に基づいて教えられるべきだといったこともあります。古武道をまともに習ったことがない人物が何代にもわたって積み重ねられた方法を知らずに自分の発想でこれが良いあれが良いというものが理論であるならば誰でも流祖になれ、また簡単に廃れていきます。流派は売り物ではなくその時の人目を集めればよいものではなく代々の師範によって築き上げられてきたものです。また特定の人物だけが上達すればよいという指導法ではなく、求める者であれば上達できるように組み立てられているものです。
 自分ができないからといって教えられたことを求めず自分の勝手なことをするのは流派を稽古しているのではなく自分のわがままを育てています。一つ一つの課題を解決して身につけていくことによって流派のなかで上達していくことができます。その課題が大変だからといって放棄してしまえば上達はありません。稽古は自分の持つ課題を一つ一つ解決して自由になっていくことです。

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  1. 2023/02/13(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

居合に用いる刀

 島村義郷(細川義昌の父)の居合刀の内の一振は飛騨守氏房です。土佐での居合刀の概念は粗末な刀身を使うことではなく居合用の拵とするということだということはすでに述べました。飛騨守氏房は田舎鍛冶が作る刀ではなく名のある刀です。
 さらに島村義郷は自分の居合刀の内の一振りを常の差料にもしています。つまり拵も粗雑なものではなく普段腰に差していてもおかしくない拵であったということです。
 流派によって考え方は異なります。江戸時代は明治以降と異なり全てが画一化した考えで動くことはなく個性の時代です。

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  1. 2023/02/14(火) 21:25:00|
  2. 武道史

無理しない

 無理して体を壊し、治療して治ったとしても歳とってから再び痛みなどが出てくることがあります。
 いつもお話ししているように江戸時代には片岡健吉の稽古記録や廻国修行の日記にみるように「イタミショ」「風邪」「足痛」などと記して稽古を休んだり試合を休んだりしています。
 長い目で見て一生稽古をするつもりであれば、体調が悪いときには稽古を休んでも良いと思ってください。道場に出ることは出来ると思ったら見学をしてください。やる気があるときに見学にとどめておくと体を動かして稽古する以上に指導されていることがよく理解できます。
 体のどこかを稽古で痛めたとしたらどのようなことをした結果痛めたのかをよく考えてください。そこが至らぬところですのでそこから正していくことによって上達していきます。自分の体が弱いからさらに鍛えなければならないと無理を続ければ回復に長い時間がかかり、悪癖も身につき良いことはありません。

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  1. 2023/02/15(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

To be better citizens.

 米国で教えたときに古武道を稽古する目的について"We practice to be better citizens." と答えたことがあります。これが適切な英語であったかどうかわかりません。言いたかったのは戦いに強くなるためでもなく、権威を身につけるためでもなく、自分の不足するところを知り、当たり前のことが当たり前にできるようになるために稽古するのだということでした。稽古している人もその人の奥様も理解されたように思いました。特に奥様の表情からそのように受け取りました。
 日本でも同じです。兎角武道は特別なことをしているのだという錯覚を持ち「偉く」なる人が多くいます。「自分は特別なのだ。」という意識です。そのような人に限って弟子に偉そうに接したり、一般の人とは異なるのだという態度をとろうとします。10代や20代の前半であれば陥りがちなことですが、ひと年とってそのような自分を感じたら、そこから本当の修業をしなければなりません。

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  1. 2023/02/16(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

不思議な人たち

 この世の中には普通に考えたらこうなのだが・・・という普通の人が思いつかないことをする人が一定数います。普通に考えたら異常なのですが、その人たちにとっては異常なのは良識を持つ普通の人たちで自分は至ってまともだと考えるのです。したがって普通の人たちが、その人達がおかしいと考えても考えるだけ無駄になってしまいます。
 古武道の世界であれば、○○流を表しながら実際は△△流に基礎を置いたり、○○流をまともに習っていないので□□流を習って、その理論を取り入れて○○流はこうなのだと断言するのです。また後足で砂をかけて出ていった流派を弟子を取って教えたり、まともに習ってもいないのに、あそこには本当のことは伝わっておらず自分だけが本当のことを伝えているとしたり。2年足らずしか習っておらずまともな伝授をえていないのに流祖はこのように書いているからほかのところはダメで自分だけが正しく伝えているとしたり、自分は6.7回も通って全伝を得たのだと公言してはばからなかったり。
 古武道の世界には一定数居る人たちです。このような人たちと交わりを持てば悪い影響を受けてしまいます。怖いもの見たさで会ってみようとすることもも禁物です。見ただけで悪影響を受けてしまいます。

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  1. 2023/02/17(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

眼を怒らせ声をいがらせる

 形・手数の演武で目を怒らせ声をいがらせる人がいます。何度も述べていますが絶対に行ってはならないことです。目を怒らせるのは大石神影流の試合口で位を見る動きをするまでもなく内面を見透かされます。演技がしたいのですからそのような方は貫汪館の武道には向きません。また声をいがらせるのも肚で呼吸が出ていないのでただ怒鳴っているだけです。吐く息に音が載るのが有声の気合ですが肚で呼吸ができないのをごまかしているのです。無雙神傳英信流は無声の気合ですのでごまかすことすらできません。
 そのようなごまかしの一つに「大家ぶる」こともあります。いかにもその道の大家であるかのような技をするのです。しかし素人は騙せても見る目を持った人には気持ちの悪い演武でしかありません。
 ごまかすことを身につけてしまうと正しい道に戻ることは出来なくなってしまいます。できないからこそ上達するのです。

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  1. 2023/02/18(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

知る者は言わず言う者は知らず

 武道は体で理解していなければ理解しているということにはなりません。いくら教えられたことが頭に知識として蓄積されていても体で体現できなければ理解していることにはなりません。真摯に稽古している方は指導されたことが頭ではわかっていても自分が体で理解できていないということがわかっているので語りません。できていないのに語る人は自分ができていると増上慢になっている人です。わかっていないからこそべらべらと自分の知識を披露して自分がいかに素晴らしいかを喧伝します。心の奥底では自分が何もできないことを知っているのでそれをごまかしているのかもしれません。
 武道に関しては「知る者は言わず言う者は知らず」は真実です。

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  1. 2023/02/19(日) 21:25:25|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

奥居合

 奥居合は無雙神傳英信流で一番最後に稽古する形です。私の師である梅本三男先生は奥居合を一度、外側の形だけを大きな中学校の体育館で稽古するときに、そこに稽古に来ていた人に通り一遍教えてくださいました。私が大学生の夏休みのことです。夏休みは2か月ありましたので、その2か月で一通り覚えました。それ以後は誰にも教えられず、私は先生の晩年に個人的に先生の道場で教わったのですが、先生がお亡くなりになったあとに数人いた兄弟子に「この形はこのように習いました。」と話すと、どなたも習っておられませんでした。奥居合とはそのような位置づけの形です。
 それまでの積み重ねがなければ奥居合の真似事をしても無意味なのです。大森流、太刀打、英信流表、詰合、大小詰、大小立詰の後の奥居合です。素抜き抜刀術の大森流、英信流表さえ満足にできないのに奥居合の真似事をしてしまったら本質が身につかないどころか、大森流や英信流の表もだめになっていきます。物事には順番というものがあり、できない物を一足飛びにやってしまったら無理があり、必ず崩れていきます。本来なら育つものを枯らせてしまうのです。
 澁川一流の早手や裏も同じです。途中でそれらを教えてしまったら、それまで稽古して積み重ねてきたものが崩れてしまいます。
 大石神影流の神伝截相も同じです。
 順番通りに正しく稽古することなく、身についてもいないのに次の形を稽古したりさせたりしたら必ずダメになってしまいます。

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  1. 2023/02/20(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

変わらないことにメリットがある

 変われないことの理由の一つに「変わらないことにメリットがある。」からなのだそうです。過去にその人が稽古していた流派や武道に基礎をおいて新しいことを習おうとしている人の変われない理由が「変わらないことにメリットがある」のだとしたら納得できる部分が多々あります。
 私自身は無雙神傳英信流を稽古するうえで過去に習った悪癖を抜くのに苦労しました。捨てない限りは新しいことが入ってこないからです。捨てようと努めました。しかし、これもできる、あれもできると言いたい人には変わらないことにメリットがあるのは当然です。外側だけを真似すればよいのです。「この人は才能がありあれもこれもできる人だ。」と思われたければかつて稽古したことを捨てません。よくわかる理由です。
 貫汪館で稽古しているのに過去をすてようとせず、上達せずに真似事ばかりしている人の理由は「変わらないことにメリットがある。」からだったのです。無意識の領域でこの心を持っている人は自分自身の心を深く見つめて気づかない限りは上達は不可能です。

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  1. 2023/02/21(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

恥を知らぬ人たち

 この世には普通の人から見たらおかしな感覚の持ち主の人たちがいます。しかしその人たちから見たら普通の人たちがおかしいのですから絶対にかみ合うことはありません。
 先日、以下のようなことがわかりました。
 稽古をはじめて1年たつかたたないうちに兄弟子に自分の言動を注意されたことで道場を去っていった人物が大石神影流を教えているというのです。おどろきました。道場に入ったのもその人物の勝手な都合で、入れてやらざるを得ない状況でしたので慈悲の心を持ったのが間違いでした。道場に籍を置いている間も、自分の動きたいように動くだけで、形・手数の真似事をしているだけでした。何も身についていませんでしたが、やめるとも言わずに勝手に去っていったにもかかわらず、教えているのです。
 世の中にはこのような者もいるということを頭においたうえで道場を運営しなければなりません。

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  1. 2023/02/22(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

袴捌

 無雙神傳英信流において袴捌は大切な動きです。お話ししているように形は実戦のひな型ではなく、自由に働くことができるように能力を開発する大切な手段でもあります。
 無雙神傳英信流の袴捌は臍下丹田を中心に体を開き肩肘の力みをなくし、膝足首を力ませず自然で楽な状態を状態を身につけるための大切な動きです。
 よく見られるダメな袴捌は手先で袴を動かすことです。体の中心を働かせずに手先で袴を動かそうとするので初動で両手が内側に動いたり体を開く動作(実際には手先で開いていますが)の後に袴を投げ出すような動きをします。袴の布の重さを体で感じることができていないのです。ダメな動きをする人は体を床におろしていくときにも体の重さが体を沈めるのではなく膝をまげて自分の体重に抗いながら床に膝をついていきます。
 ダメな動きを重ねればダメな動きが身につき、それが自分の中で基準となってしまいます。無雙神傳英信流の業は刀に触れてから後ではなく居合とは関係ないと思われる普段の丁寧な動きの中で養われていきます。

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  1. 2023/02/23(木) 21:25:00|
  2. 居合 業

何度でも手直しを受ける

 いくら稽古しても手直しを受けなければ少しの角度の狂いが稽古すればするほど自分を道から遠ざけていきます。手直しを受ける回数が上達の速さを決めるといっても過言ではありません。自分自身でいくら稽古しても毎日何時間稽古してもそこには「我」があるので、それだけ上達するわけではありません。かえってまっすぐに下手になっていくこともあるのです。
 お話ししていることですが、私は大学生の時は地元を離れていたので居合の師のもとで稽古できるのは夏休みの2か月間、秋休みの1週間、冬休みの数日(道場もお休みでしたから)、春休みの1か月間でした。日曜日は道場はお休みでしたので夏休みは50日くらい、春休みは24日くらい師に指導を受けることができました。大学には古武道場がありましたのでほぼ毎日稽古できました。住んでいた農家の納屋の隣は公園でしたので朝も稽古でき、気が向いたときに何時でも稽古できました。
 毎日稽古して毎日狂いが生じ、広島に帰って手直しを受けまともになり、以前の位置に戻り、少し進み、少し良くになったかなと思った頃にはまた師の元を離れ、大学の古武道場で稽古し、広島に帰って手直しを受けまともになり、少し進みの繰り返しでした。それでも1年間に直接師から指導を受けることができるのは100日近くありました。それゆえに大きく道をそれることもなく修正していただけました。そのような修行の過程があったので私が大学生の時に梅本先生から「森本君の居合はだれが見ても梅本の弟子だとわかるし、これからも道を違うことはない。もしほかのことをしても私に習った居合は体から離れることはない。」と言っていただけました。その時にそばにおられた高弟の森潔先生も嬉しそうに微笑んでくださいました。森先生は陸軍幼年学校から士官学校へと進まれた方で非常にまじめな方であり、私をかわいがってくださっていました。梅本先生から自分の弟子だとわかるといっていただけたのはこれ以上にない褒め言葉でした。
 大阪支部は頻繁に私を招聘してくださいますから、大阪支部の方全員に手直しをすることができ、支部長の指導も適切で全員まっすぐに上達していただいています。支部の方も一度指導したことを次の指導までに直そうと稽古されていたのがわかるくらいに上達されています。支部によっては私から直接手直しを受ける機会が少ない支部長や何年も私から指導を受けていない支部員もいます。あまりに道をそれてしまうとそれが身についてしまい直そうにも直せず、笑うしかないこともあります。私が微笑んだからといって良いという意味ではなく、どうにもならないという意味のときもあるのです。
 1年それていれば直すには最低でも1年かかります。ふつうは2年以上かかります。2年それ続けていれば直すのに最低2年はかかります。ふつうは4年以上かかります。3年4年はよって知るべしです。1回指導したくらいでは直らないのです。指導を受けた本人が直ったと思うのは自分に甘すぎるのでそう思っているにすぎません。自分が良いと思い込んで歪んできたものは簡単に治るはずはないのですから。
 
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  1. 2023/02/24(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

順序

 無雙神傳英信流でできもしない者が英信流奥を稽古したら下達します。英信流奥居合はそれまでの着実な積み重ねがあって初めてできるようになる形です。集大成といってよいと思います。秘するのではなく、真の上達のためなのです。それを大森流、太刀打、英信流表の形を覚えた程度で奥居合を稽古したらそれまでの稽古もグダグダになってしまいます。
 同様に澁川一流柔術でも、教えるべき時期でもないのに当の形を教えたり、できもしない者が早手や裏を稽古したら下達します。すべての積み重ねがなく裏や早手を稽古しても、それまで身につけたと思っているものが崩れていきます。物事には順序があります。順序を無視して稽古しても身につけたと思っているものは全て絵空事です。
 
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  1. 2023/02/25(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

神傳截相

 大石神影流の神傳截相は免許皆伝を授けるときに稽古する形です。俗にいう必殺技でも何でもありません。それまでに稽古したような形も含まれています。神傳截相も無雙神傳英信流の奥居合や澁川一流の裏、早手と同じ位置づけにあります。とくに神傳截相は技というよりも心法の稽古ですのでそれまでの積み重ねによって養われた心がなければたんなる真似事であり、それまでの積み重ねも崩してしまいます。

 無雙神傳英信流の奥居合、澁川一流の裏・早手、大石神影流の神傳截相を稽古したいと思ったらしっかりと稽古を積み重ね、私が稽古してもよいと思う力を身につけ教えを受け、許しを得てからはじめて自分自身で稽古してください。そうではないのに私の指導を直接受けてもいない者が私の目の届かないところで一人で或は支部員と稽古してもそれまでの積み重ねを崩すだけです。手順を知っているからといって稽古するのは慢心でしかありません。

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  1. 2023/02/26(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

芯がない

 無理無駄がないことが名人達人の定義だと梅本先生は教えてくださいました。しかしこれを安易に解釈してはいけません。稽古を積み重ね積み重ねして無理無駄がないところに至るのです。
 昨年の日本武道学会で片岡健吉の稽古記録について発表しましたが、発表抄録は皆さんの手元にも届いていると思います。それをお読みになってもわかると思いますが、私たちが週に1回稽古したとしてもその10年の稽古は片岡健吉の1年分の稽古くらいかそれ以下でしょう。自分はもう20年稽古しているといっても2年にも満たない位です。その程度で無理無駄なくといっても無理なのです。ただの芯のないフニャけた居合にしかなりません。なぜかここを勘違いする方が一定数おられます。無理無駄を目指しはしますが稽古に稽古を重ねてそうなっていくのです。初めから芯のないふにゃふにゃな居合をするのではありません。・・・と書くと今度は力んだ居合をする方が出ます。正しい稽古を重ねに重ねて芯ができてきますが、芯がなく力むのは芯がなくふにゃふにゃであるのと変わることはありません。

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  1. 2023/02/27(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

礼式で全てがわかる

 澁川一流は礼式でその人のすべてがわかります。
 受と捕の立位置で間合についての感覚がわかり、立ち姿で臍下丹田を中心とした身体感覚があるかどうかわかり、蹲踞で膝が悪い人でなければ臍下丹田の動きになっているかどうかがわかり、礼で拳を突いたときに意識が指先まであるかどうかがわかり、再び立ち上がるときに臍下丹田の動きか、単に脚力を使っているだけかどうかがわかります。またすべての動作を通じて呼吸が適切であるかどうかもわかるものです。
 ここまでの動作でさえそうなのですから礼式の続きの動きは猶更です。澁川一流の礼式は無雙神傳英信流の礼法と同じ位置づけのもので礼式ができていなければ形に入っても礼式によって身につけるべき基礎ができていないのですから形をいくら稽古しても真似事にすぎません。
 各支部でここが理解できていなければいくら柔術の稽古をしても無意味です。理解できていないと思ったらいつでも私を招聘してください。日曜日1日だけであれば土曜日の本部道場での稽古の後にいつでも赴くことは出来ます。

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  1. 2023/02/28(火) 21:25:00|
  2. 柔術 業

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

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無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
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