Ⅳ 村上傳次左衛門の剣術
1.流派名
村上傳次左衛門が柳河藩に伝えた剣術の流名は一定していない。村上傳次左衛門が橘軍八名で寛延3年(1750)に発行した『新陰流刀術印可』 には流派名は新陰流とあり、宝暦9年(1759)に塩見松次(後の大石遊釼)に宛てて発行した『愛洲陰流刀術截目録』 には愛洲陰流とある。足達右門が天明5年(1785)に村上一刀から授けられた奥意を記した『神傳印鑑 全』には愛洲神影流 とあり、村上一刀(傳次左衛門)が天明5年(1785)に米多比正見に出した『愛洲陰刀術甲冑伝』 には愛洲陰(流)とある。また村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が文化5年(1808)に発行した伝書『愛洲陰流刀術』(仮題) には愛洲陰流とある。大石進種次が文政5年に祖父の大石遊釼名代の足達右門から授けられた伝書には新陰流とある 。村上傳次左衛門は新陰流、愛洲陰流、愛洲神影流の流名を用いていた。
2.伝系
村上傳次左衛門が発行した伝書には流祖とした愛洲移香からの伝系にやや混乱がある。
寛延3年(1750)の橘軍八(村上傳次左衛門)の『新陰流刀術印可』では流派の伝来を足利日向守愛洲移香から上泉伊勢守藤原信綱へと伝わったとしている。しかし文化元年(1803)の村上傳次左衛門の子である粟生次郎右衛門が発行した『新陰流剣術陽巻』 では足利日向守愛洲惟孝から奥山左衛門大夫宗を経て上泉武蔵守信綱へと伝わったように変化している。理由は不明であるがこの伝書では石原傳次左衛門尉正盛の次の村上傳次左衛門の名は省略されている。
広島藩に伝わった信抜流は永山大学によって伝えられた。永山大学は村上傳次左衛門と同じ岡藩の人で心貫流を極め広島に来て流名を信抜流とかえて弟子をとった 。この信抜流の相伝者を文久3年(1863)の『信抜流相伝書』 にみると村上傳次左衛門の子の粟生次郎右衛門の伝書の相伝者とほぼ同じである。
また、山口県熊毛郡上関町の吉田家に伝わる表題を『新影流伝書』とされている新抜之流の伝書 では愛洲惟孝の名はなく初めに岡山左衛門尉家次をもってきており次に上和泉伊勢守信綱、長尾美作守鎮宗としている。 岡山は奥山の間違いであろうが、この伝書でも奥山の次に上泉信綱がきて長尾美作守が記されている。
岡藩出身で広島藩で信抜流(心貫流)を教えた永山大学の伝系と村上傳次左衛門の子の粟生次郎衛門が記した伝系はよく似ており永山と同じく岡藩出身であった村上傳次左衛門はその釼術の伝系から岡藩に伝わっていた心貫流を修めていた推定できる。しかしながら岡藩があった現大分県竹田市の古文書が収蔵されている竹田市歴史文化館・由学館に心貫流関係の古文書はなく、幕末の廻国修行の英名録にも岡藩で他流試合をした流派に心貫流がないためそれ以上は不明である。
なお奥山左衛門大夫は正徳4年(1714)に記されたとされる『本朝武藝小傳』によれば上泉伊勢守の門人の丸目蔵人の弟子で心貫流を称したとあり、また明和4年(1767)に版行があり、寛政11年(1799)に改版があったとされる『日本中興 武術系譜略』にも同様の記述がある 。天保14年(1843)に版行された『撃劒叢談』にも同じく丸目蔵人の弟子の奥山左衛門大夫が心貫流を立てたとし、笊をかついだり、円座を負ったりする独特の稽古方法をすると述べているが、村上傳次左衛門の弟子の伝書にも広島藩に伝わった信抜流の伝書にも相伝者に丸目蔵人の名はない。
- 2025/01/04(土) 21:25:00|
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