昨日は覚悟について述べましたが武道は本来生死がかかったものです。そこがなければ武道とは言いません。ただ形・手数を行っているだけでは武道ではないのです。というと浅はかに考える人は暴力的な動きになったりこけおどしの気合をかけたりするようになるのですが、そうではなく自分の生死、対するものの生死に思いが至っているかどうかです。
いかにもすするすると上手に形を遣っても生死の観念がない人が行う形はたんなる運動にすぎません。そこに生死の思いがないので武道にはならないのです。上手なダンスです。
至った人は生死を突き抜けたところにありますので今述べているところとは異なります。
- 2024/04/01(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法の兄弟子である森潔先生のお話はすでにしています。森先生は陸軍幼年学校からの軍人で大戦末期には本土決戦に備えて大陸から呼び戻されたほどの優秀な方でした。梅本先生よりも年上でしたが門人としての態度を崩されるのを見たことがありませんし、良く仕えておられました。古神道にも造詣の深い方でした
森先生のお話でいまだに強く心に残っているのは「天狗界に落ちてはならない。」ということです。私が高校生の頃であったか大学生のころであったか、「天狗界に落ちて強い弱いにこだわるようになってしまうと、そこから抜け出せないくなる。」というお話でした。森先生にとって武道とは心の修行であり技の習得は心の修行なしにはあり得ないものでしたから心をないがしろにした技だけの修行はするなということであったのだと思います。
私も生きている期間が長くなってきましたからいろいろな人を見てきました。武道の高段者の中には立派なことは言っていてもしていることは醜い方もたくさんおられます。一流一派の代表者であっても修行という観点から古武道の価値をマイナスにするために存在しているのかと思えるような人も見てきました。自分が誰よりも認められたいために行動して間違いを広める人も見てきました。また中身はないのに自分が権威者であるかのようにわずか2年足らず稽古しただけでその流派を肩書に用いているような人もいました。インチキ流派の代表者がさも古くからの流派のように装っているのも見てきました。
いずれも修行ではなく人よりも勝りたいという思いが先にあるのです。はじめは修行であったのかもしれませんが道をそれるようになってしまうのです。道をそれる危険性はどの時点にも潜んでいます。
武道は自分の至らぬところをよく知り求め続けなければ危ういものです。よくよく心しておかなければなりません。
- 2024/04/02(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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古武道を稽古し始めて他流派が演武される大きな古武道の演武会にも参加させていただいていろいろな方のご指導を見てきました。
厳しくしかりつけるように門人を指導される方、やさしく諭すように指導される方、緩急を使い分けておられる方など様々です。緩急を使い分けられる方はしっかりと指導されることはあっても𠮟りつけられるようなことはありませんでした。
無雙神傳英信流の梅本先生、澁川一流の畝先生、大石神影流の大石先生は諭すような教え方をされ𠮟りつけられることはありませんでした。梅本先生は大切なところは何度も口頭と動きで強調されましたが、畝先生と大石先生は大切なところは動きで一度くらい多く示される程度でした。畝先生と大石先生の教え方は理解できるレベルにある者でなければ会得することはむつかしくついていけず、また軽く考えてしまう恐れもあります。梅本先生の教え方はより理解しやすかったと思いますが理解しやすいだけに簡単に考え違う方向へ行ってしまう人も多くいました。本当のところは先生の動きからぬすむしかないのです。
貫汪館では諭すような教えをしていますが、そうすると自分ができているから強く言われないのだと解釈してしまう人もいますから難しいところです。
一番ひどい教え方は上から目線で「なんでできないのか」と叱責するような教え方ですが、すべての人は修行の途中です。自分が完全だと思うから上から目線で教えるようになります。そうなると教える人も習う人も上達しません。師も修行し弟子も修行します。
- 2024/04/02(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大きな演武会で何度か演武しているとなれてしまい緊張感を持って稽古し演武に備えることができなくなる人がいます。不思議なことですが一定数そのような方がいるのです。
あるお世話になっている先生は「演武は毎回恐ろしい。」と教えてくださいました。大家であってもそのようなものであるのに、まともに稽古もせず、自分ができていないのにもかかわらず反省もないのです。1回や2回一生懸命集中して稽古したことに下手な自信を持ち自分は大丈夫と思ってしまうようなのです。
演武を真剣勝負であり自分の命はなくなってしまうかもしれないと考えればそのようなことは絶対に起こるはずもないのですが、不思議な現象です。
- 2024/04/03(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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一度教えられたらなにがなんでも会得する努力を自分自身でしなければいつまでたっても会得できるものではありません。現代武道は試合があるのでそういうところは自分自身に厳しい人が圧倒的に多いです。試合で負けたらそれまでの努力が無になるからです。古武道は真剣勝負を前提にしているといっても稽古する人次第であり形のお遊びになっている人が多いので本当に上達する人が少ないのです。
一度自分自身に問いかけてみればわかることです。何度も何度も同じことを指導されている人は本当に会得しようと死に物狂いの努力をしているかどうか・・・。現代武道を稽古している人たちは結果が如実に出るのでそのような稽古をしているのです。また教えてもらえるだろうは、何度死んでも生き返れるので平気だという自覚のない稽古をしていることになります。
- 2024/04/04(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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とくに素抜き抜刀術の稽古では相手を付けないためか前へ前へと心が焦り体がとられる方が多くいます。それは運剣の時によくあらわれます。前かがみになって体を進め真ん中を保つことができないのです。私はよく梅本先生に「森本君は銃剣道をするからすぐ突撃になる。」と言われていました。
心が前へ前へと焦ってしまい、体が前のめりになってしまうので、以前お話しした目の奥で見ることと併せて自分の心を体の少し後ろに置くことも試みてください。あくまでも感覚の問題です。
- 2024/04/05(金) 21:25:00|
- 居合 業
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仏教では一向専修と言い、称名念仏に専念することを言うようですが、なぜか武道にもこれを当てはめる考えを持つ人がいて居合や剣術、柔術といった複数の種類の武術を稽古することに疑問を持つ方もいるようです。これは学校教育のクラブ活動の影響もあるかもしれません。いくつものクラブに所属することは日本の学校ではまずありません。いろいろなことを楽しむという発想はなく、競技主体だからです。
江戸時代の武道を考えると武士にとっては必要とされるものであったために複数の種類の武術を稽古するのが当然でした。専修とは真反対です。馬に乗る身分の武士は馬術の稽古をせねばならず、そのような身分の武士は槍の稽古もせねばならず、当然剣術の稽古もしなければなりません。土佐藩の片岡健吉の研究については道標に載せていますが、居合、柔術、剣術、槍術、馬術などを同時並行で学んでいます。大石進種次は剣術、鎗術の師範をしており屋敷の後ろに馬場があり馬術も稽古しており城下に教えに行くときには馬に乗っていました。祖父や父から学んだ剣術には柔術も棒術も含まれ槍術には長刀も含まれていますので多岐にわたる武術であったといえます。古い流派である神道流や立身流には多くの種類の武術が含まれています。
貫汪館では居合・釼術・柔術の三つの流派を稽古していますが、偶然というか必然というか三つの流派は本質は共通で親和性が非常に高い流派です。したがって三つの流派を稽古しているからこそ各々の流派のレベルが上げていくことができます。自分はこれはできるけれどもあれはダメと考えている人は実際はどれもダメです。ダメな部分は共通しているからです。もし苦手だと思う流派があるとすればその流派を上達させれば他の流派も向上します。「専修」という考えは貫汪館にはありません。
- 2024/04/06(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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何度か述べていますが、稽古を続けるためにはお金がかかります。
稽古着は安く上げようと思えばインターネットを探せば安くつきます。無雙神傳英信流の袴さばきのためには袴の「投げ」(切れ込んだ部分)が江戸時代の袴のように深い方が適していますが、今はそのような稽古袴がないので、深くするためにはお店に頼むか自分で直さなければなりません。自分で直せば安くつきますがお店に頼めば数千円かかります。
模造刀は無雙神傳英信流では比較的長めの刀を用いますので身長が高い人は15万円以上かかります。普通の鞘木刀もそれなりにかかり、大石神影流の特注の木刀を作ってもらおうとすれば今は1万円以上かかると思います。鞘は塩ビ管などで自作します。
ほかにも半棒や六尺棒、さらには稽古が進めば真剣や十手なども必要になります。
一度に支出しようとすれば大きな出費になります。しかし、1週間に千円貯めると1年は約52週ですので52,000円たまります。3年たてば約15万円。1週間に2千円ためれば1年で10万円、3年で訳30万円です。週に2千円ずつためれば、10年以内に真剣が買えます。この程度ならお酒やジュースをやめ、公共交通機関を使うのを少し控えて歩くだけで無理なくたまります。一度に大きな金額を支出するのは無理がありますが少しづつ節約すれば決して無理とはなりません。
何度も書いていますのですでに貯金ははじめられていると思いますが、できていない人は適切な稽古道具がないのですから、ある程度以上の上達は難しいことになります。普段の貯蓄とは別に武道用の貯金をしてください。
- 2024/04/07(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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繊細さがなければ技にはなりません。繊細さもなく相手を斬るとか柔術で相手に技をきめるとかと考えるとそれは武道の修行ではなく似た動きをする暴力となってしまいます。
ところが過去にそのような武道や格闘技を経験されたり力任せの動きが良いのだと思っていた方は「寒き夜に霜を聞」ことが苦手です。一生懸命しようとすればするほど繊細さは全くなく回りも見えなくなってしまいます。自分の心を知る努力をし動きの繊細さを心掛けるように努力して変化していかなければなりません。
不思議なことですが平均的に日本人よりもはるかに筋力の強いアメリカの支部で稽古している人たちの方が繊細な傾向にあります。何かが戦後の日本の教育から抜け落ちたか忘れさせられているような気さえします。
- 2024/04/08(月) 21:25:00|
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昨日と同じようなことなのですが、意識的にせよ無意識的にせよ「強み」をよしとされる方がおられます。このような方は「強く」抜付け「強く」斬撃しようと努め、力技をよしとし技にはなりません。柔術では技が決まる、決まらないにこだわり調和はなく結果としてそうなっているのだということに思い至らず相手を傷めつけようとします。
「まりに柳」の意味を深く考え稽古してください。
- 2024/04/09(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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この歌も同じような内容です。古語の「やがて」には「すぐに、ただちに」という意味があります。居合がうまくいかない人は「やかて」の部分のみを求め「心をしつめ」には意を用いません。抜こう抜こう、斬ろう斬ろうとするのです。そのため自分がしていることもわかりません。
すべては本人の心がなさしめていることなのですが、自分の心を疑うことなく、まだ技に慣れていないだけだと考えて稽古するのですが、できるようにはなりません。心と体は分けることは出来ぬものと知り稽古しなければなりません。
- 2024/04/10(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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理論的に物事を行おうとする大人はこれまで自分が経験してきたことに基づいて自分なりに貫汪館の古武道を理論づけようとする傾向にあります。しかし、それをすると自分の考えに基づく間違った理解をしてその間違った理解をもとに動こうとしているだけなので会得することはできません。これまでしたことがないことにこれまで自分が経験してきたことに当てはめようとするのですから別のものになってしまうのです。
初心者がなすべきことは示されたことを見たままにそのまま受け取ることです。わからなくても理論化できなくてもそのまま真似をすることなのです。それができなければ初心者の内から異なるものを身につけていることになります。
- 2024/04/11(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館は主催行事として広島護国神社奉納演武と廿日市天満宮奉納演武をおこなっており、渋川一流は日本古武道協会の正会員流派として2年に一度日本武道館で演武、また無雙神傳英信流と澁川一流柔術は日本古武道振興会に加盟しており浅草、下鴨神社、白峰神宮、熱田神宮、明治神宮などで演武をする機会があります。
この演武会は上達にとって大切なきっかけとなります。演武する形をきめ、その形の練度をあげていく稽古をします。演武する形の練度が上がれば当然演武しない形の練度も上がっていき全てが向上していくのです。いわゆる
演武慣れしている人には当てはまりませんが演武のたびに新たな課題を与えていますので演武慣れも起きません。真摯に取り組んで自分の課題を見つける人には可能なことです。
演武にコンスタントに参加しているかいないかの差は大きく数年で大きな差が開いてしまいます。残念ですが同じ稽古年数はあっても演武会に参加できない人の上達は演武会にコンスタントに参加している人の上達の早さに及ばないのです。
- 2024/04/12(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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自分自身の本当の実力を知るとほとんどの方はショックを受けます。自分で自分を感じて自分の実力を知ることはむつかしいので、自分自身を多かれ少なかれ過大評価しているのです。
そうならないためには自身のビデオを撮って研究する必要があります。自分の姿を見れば必ず落ち込むはずです。そうならなければ自分自身を過大評価しており自分自身も見えていません。私は梅本先生がお亡くなりになった後は先生の教えを求めるだけではなく先生の映像と自分自身の映像を見比べどうすべきかを確認しました。
いつも同じようなことを指導される方は稽古のたびに毎回ビデオを撮り、研究してください。それでもわからなければ機会があるたびに質問してください。
- 2024/04/13(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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初心者の方は形の手順を間違えずに覚えたらそれで良しとする人もおられます。またかつて現代剣道をされ日本剣道形を昇段審査のために稽古したことがある方も手順ができればよしとされる傾向があります。
しかし、本当の稽古はそこからです。たとえば無雙神傳英信流では正しく座れているのか、鞘手・柄手が正しくかかっているのか(そこからでなければ抜付けはできません)。ここを会得するだけでも相当な年月を必要とします。大石神影流では正しく立ち、構えているのか、例えば上段や、附けに取るときに臍下中心に動けているのか。これがいい加減だと後の動きは全ていい加減です。渋川一流ではそもそも初めの蹲踞が正しくできているのかどうかから見直さなければなりません。
手順を覚えた初心者がなすべきことは質を高めていくことです。でなければ見栄え良く動こうとか、(棒で殴りつけるような動きをして)力強く打とうとか、相手が痛がるようにダメージを与えようというような武道の本質からは遠ざかっていくことをし始めます。
- 2024/04/14(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日述べたことに関連しますが、初心者の方が形・手数を覚えたら繊細に稽古することを心掛けなければなりません。アニメや最近の刀を扱う映画に影響を受けている方は速さ強さを心掛ける傾向にあります。したがって繊細な動きができず自分自身のダメな動きに気づかないのです。これは「面白い」といってもよいくらいなのですが何度同じことを指摘しても速さ強さという思いがあるので自分がしていることがわからないのです。
一生懸命物事に取り組むことを教えられてきているためか、一生懸命自分がしたいことに取り組むので自分のしていることがわからないのだと思いますが、すべきことは繊細に稽古して自分のダメな動きに気づくことです。自分自身がわからなければ道をたがえます。
- 2024/04/15(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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居合の抜付けは鞘の内から切先が自分の後方にあるところからということを述べていますが、素手の柔術、大小詰、大小立詰は少なくとも相対した時から技は始まっていなければなりません。
相対した時には相手と和していなければならないのです。相手がかかってきたそこから技をかけるでは遅すぎます。心がけなければできないことではありますが日常生活で対人関係がうまく取れている人はそれを応用してください。武道は日常生活と不可分のものです
- 2024/04/16(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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形・手数の稽古において打太刀や受けを務める方は間合(空間的距離)を大切にしなければなりません。優しい方は仕太刀や捕を傷つけないようにと思い、仕太刀に木刀が当たらないようにしたり、渋川一流の履形や吉掛では相手にとどかない手の出し方をしますが、それでは仕太刀や受の稽古にはなりません。
万が一棒で殴りかかられても、間合いを正しく読めないのですから大丈夫と思ってしまい正しく対処できませんし、刃物で突きかかられても普段の稽古がいい加減であれば避けることもできません。つまり、自分が相手のためと思ってしていることは実際には何かあったときには役に立たないことを身につけさせているひどいことをしているのです。いい加減な間合いで稽古させられている人は道場に稽古に来ているゆえに命を失うことにもなりかねません。
打太刀・受を務める人は自分の責任を考えなければなりません。もし仕太刀や捕が未熟であると考えるのであればゆっくりと仕太刀や捕が対応できるように動けばよいだけのことです。役に立たない無駄な稽古をしてはなりません。
- 2024/04/17(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流の師 梅本三男先生が初めに教えてくださったことです。しかし当時の私には理解できていなかったとしか言えません。強さ速さは求めて至るものではなく無理無駄がなくなった結果として次第に自然に身についていくのですが、それが本当にわかってはいませんでした。
学校体育やクラブ活動でスポーツをしてきた方にもわかりにくいところがあります。速さ強さは求めるものだからです。無理無駄がなくなった結果として速さ強さが自然に身につくというところを求めなければ流派に入ったとは言えません。また体力とともに衰える業といえるかどうかわからないものしか身に付きません。外見・見栄えを求める殺陳として楽しみたいのであればそれでよいのですが(貫汪館にいる場所はありませんが)、せっかく縁あって貫汪館で学ぶ方は道を間違えないでください。
- 2024/04/18(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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古武道を勘違いされている方は入門の時点から考え方を改めていかなければならない場合があります。勘違いというのは現代武道、パフォーマンス、アクションなどに影響を受けて古武道に派手な速さ、力強さ、神秘的な技を身につけなければならないと思っておられるのです。
派手な速さは相手を無視していますのでコケてしまいます。触れれば斬れる刀に大きな筋力で殴りつける動きはありません。またオカルトのような神秘性もありません。述べているように無理無駄な動きをなくしていき、自然に動けるようにしていきます。そのためには繊細さが必要です。繊細な稽古をして自分を正していけるかどうかなのです。それが理解できることが上達の始まりです。
- 2024/04/19(金) 21:25:00|
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ある程度稽古が進んだら江戸時代に記された武道の古典を読んでください。私は梅本先生から『武術叢書』を紹介していただき高校生の頃に読みました。江戸時代の人がどのような心で稽古していたのか、また生活していたのかが理解できます。私たちは江戸時代に成立した武道を稽古しているのですから江戸時代のことを知らなければなりません。江戸時代に記された文章は高校生の頃に習った平安時代の文章よりも意味を理解するのは簡単です。
ただし技について書かれた部分は各流派各様ですから、そういうものだというくらいの理解にしておいてください。他流派の技についてはその流派を稽古していない者が理解できるものでもなく、また自分自身は異なる流派を稽古しているのですから技は異なっています。ここを勘違いする人もいるので気を付けてください。
- 2024/04/20(土) 21:25:00|
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自分の感覚ほどあてにならないものはありません。感覚はどんどん研ぎ澄まされていくもので今の時点で良しとしていることは稽古が進めば過去を振り返ってなんと鈍感だったのかと思うようになります。また、その時点で感覚が研ぎ澄まされたと思っても先には先があります。かぎりはないものなのです。
それを知ると知らないのでは大きな違いがあり、今に安住するのか先に進むのかの分かれ目となります。まだまだ研ぎ澄まされていくものだまた研ぎ澄まさなければならないと思って稽古を続けなければなりません。
- 2024/04/21(日) 21:25:00|
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言葉は人の行動を規定してしまうことがあります。いわゆる言霊なのかもしれません。自分自身で深く探求せずに「わかりません。」という人は「わからない。」というところに安住するのでそこで閉ざされます。自分で深く深く探求したとしてもわからないのであればまだ探求が足らないので、言うとしたら「理解できるのですがまだできません。」です。説明しているのに理解できないとしたらそれまでの人ですので先には進みません。またたんに「できません。」であればできないことに安住します。たかが言葉ですが口から発せられる言葉には大きな意味があります。
- 2024/04/22(月) 21:25:00|
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斬撃の稽古では刀を振ろうという意識を捨てなければなりません。刀を振ろうという意識がある限り自分とは異なる存在のものを小手先で何とかしようとしてしまい自分と刀が一体となりません。
理想は無念無想の状態で振るのですが、そこまでいかなくても臍下丹田をはたらかせた結果連動して体が動き体と一体となった刀が動くというところを求めなければなりません。斬撃の稽古は単なる素振りではなく求めるにかぎりはないものです。
- 2024/04/23(火) 21:25:00|
- 居合 業
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歴史を学ぶ意義は過去から今を考えることができ、さらには未来を考えることができるからです。したがって過去を考えようとしないものは同じ過ちを繰り返します。自分は大丈夫、正しい判断ができ正しく実行できると思っていても歴史は繰り返します。自分に自信がる人ほど同じ過ちを繰り返します。大きくは一国の運命を左右し、会社組織などの運営などにもかかわるところだと思います。
貫汪館の支部の運営についても同じことが言えます。各支部長は組織運営をするにあたっては歴史に学ばなければなりません。過去に同じような失敗も成功も繰り返されています。各支部長が集まったときに過去の話をしていますが、そこから組織運営を学んでいただくためです。個人の一生の中でも過去の失敗を繰り返すまいとします。組織運営も同じことですので、組織の運営について歴史から学び、また各支部に起こったこと、本部に起こったことなどから学ぶように努めてください。
- 2024/04/24(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館内の各支部、本部の各員は密接に連携をとってください。
本部の稽古にあっては稽古日に全ての人が来るわけではなく、ある人には伝わってもほかの人には伝わっていないということがります。そういう場合に伝えられた人がその場にいなかった人に伝えなければ知らないままになってしまいます。責任をもって伝えてください。
各支部間の連携も同じです。講習会に常に来ている人には伝わっていても来ない人には伝わらないことがあります。支部長が講習会に参加するのは当然のことですが、どうしても参加できなかった場合には参加した支部長にどういうことが行われ、伝達されたのかを聞いてください。支部員にも伝わりません。
他流派の中には先代がなくなった後に組織がバラバラになってしまうところもあります。一つには権力争いがあると思いますが、日ごろからの連携がないために起こることだと思います。心にとどめてください。
- 2024/04/25(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「廻国修行」という言葉と「武者修行」という言葉があり学問の世界では「廻国修行」という言葉が用いられ、一般の方には「武者修行」という言葉のほうがなじみがあるように思います。はっきりしない言葉ですので武道学会の大家の先生方に聞いてみました。
廻国修行という言葉を用いる一つの理由の一つは
「修行したのが武者とは限らず、農民と武士の境界にあった人たちもいるので」という理由です。
確かに武道武術といえば武士をイメージしますが、農民と武士の境界にあった人たちが多くいるのです。
もう一つは
・「武者修行」は、武を職とする武士になるための「武術修行」とも言い換えられますが、またより広い意味内容をふくんでいるようで、境界のはっきりしない言葉。
・「武術修行」は、遊学制度で江戸や京の著名武術師匠に随身して修行をしたり、廻国しながら演武場で他流のものと「仕合」(地稽古)をして修行する、そのさいには一定の手続きが定まっている。そういった修行の用語。
・「廻国修行」は、上記の修行の場合もあるが、それに付随して各地に地方(じかた)の門人を獲得することを目的とする場合もある。
ということをご教授いただきました。
確かに武者修行という言葉は試合して回るだけではなく
各地を旅して、各地の人物にあったり状況を見て回ることにも使われる用語ですので
曖昧な言葉なのだと思います。
- 2024/04/26(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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打太刀の稽古をするように言われた人は、打太刀の稽古をさせていただいているのだという覚悟を持たなければなりません。後輩を教えるという感覚で打太刀に取り組んではならず自分の最高の技を演じてください。
教えるという感覚で打太刀を務めると動きも心もいい加減になるため自分自身の打太刀の稽古にはなりませんし、仕太刀をする後輩はそのいい加減な動きを見て習いますので仕太刀の稽古にもなりません。打太刀を務めるということは責任重大なのだと自覚して稽古してください。
こう書くと自分の動ける最速の速さ強さとで打太刀をせねばと勘違いする人もいるのですが、常々お教えしている通りです。
- 2024/04/27(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術の形は正しく相手と自分が和して動けば相手を制することができるように作られています。したがって相手を制することができる出来ないは相手と和して正しく動けているかどうかにかかっています。決して自分が技をかけて相手にダメージを与えるわけでもなく、相手を動けないようにするわけでもありません。
ここが理解できない方は、自分が相手を制しよう相手に技を極めようとし、相手に技が極まったというところに自分自身の価値観を置いてしまいますが、これは初心者の域を出ていない状態です。たとえば大人と小学生低学年が素手と素手で稽古すれば大人はどんなに無理無駄がある動きをしても小学生低学年の子を制することができます。体重差も腕力も段違いだからです。相手に技を決めよう、決まったというレベルで稽古の成果をとらえようとする人はこの域から出ていません。
今の自分の動きは相手と和しておらず動きがダメであった。今の動きは相手と和して動きも比較的正しかったと考える人は上達していきます。低レベルの稽古をしていたらいつまでたっても柔術が「暴」のレベルから離れることはなく道に至ることはありません。
- 2024/04/28(日) 21:25:00|
- 柔術 業
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他流派の居合や現代居合道を経験して貫汪館で稽古を始められた方の中には決められた手順を見事に行うのが形の稽古であると考えられている人がいます。しかし無雙神傳英信流の表面に現れる形とは正しい理を体得した結果であって決められた形を求めるものではありません。ここを間違えていると大石神影流でも澁川一流でもいつまでたっても死んだ「かたち」を求めてしまいます。自由になるための形稽古が居つかせ不自由になるための形稽古となるのです。
以前お話したことですが、居合の演武会で梅本先生が私に「皆、動かない敵に切り付けて据物斬りをしている。想定というのは敵が自分に斬りこんでくるのをイメージすればよいのであって敵が自分に斬りこんでくることをイメージできずに、敵の目鼻姿形を正確に思い描いて動かない敵に抜きつけてもそれは居合ではない。」といわれたのですが、まさしくそのようにされているのです。動かぬ仮想の相手(人形)に抜付け斬撃してそれが見事であったとしても居合ではありません。こう書くと「我」をもとに敵に強く早く手先を用いて抜付けようとされる人もいます。しかも早く早くと焦るので柄頭を右方向に抜いて切先が敵にとどいていないのです。深く物事を考えられない人もいますので困ったものです。
さて先に書いた据物を斬る延長で二人で稽古する太刀打も決まった手順を見事にしようとし、柔術・釼術も理や相手の動きに関係なく決まった手順をひとりよがりに見事に行おうとするので武術の形・手数にはなりません。思いが異なれば違うものにしかなりません。
- 2024/04/29(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術には中途半端に技をかけるとかえって危険な技がありますので念のために記しておきます。いくつかを例示するにとどめますが、稽古の際にはしっかり指示を聞いて守ってください。
「負投」で相手の肘を傷めない方法については常に説明している通りですが投げるときには必ずしっかりと投げてください。中途半端に投げると相手は頭から床に落ち、頭の向きによっては首を傷めてしまいます。しっかりと投げて相手の背中または足の裏が畳につくようにしてください。
「蹴込」も蹴る場所は本来の場所とは異なる場所を蹴り相手を傷つけないようにしていますが、後方に投げるときには早めに強く相手の体を蹴って、相手の体が背中から床に落ちるようにしてください。中途半端に蹴ると相手の体は回らずに肩から畳に打ち付けられてしまいます。
「返り投」は受身がむつかしい形ですので受身に熟練した方しか投げることはできませんが、「負投」と同じで中途半端に投げると頭から落ちてしまいます。相手が体の側面から畳に落ちるようにしっかり投げてください。
吉掛の「落投」や込入の「擔投」「投手」「片手投」も同様です。しっかり投げなければ頭から落ちてしまいます。背中から落ちることができるようにしっかり投げてください。
- 2024/04/30(火) 21:25:00|
- 柔術 業
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