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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

直心影流之刀術ヲ修行有テ

 島原藩に一刀流をもたらした杉野甚五兵衛近長の孫である杉野甚五左衛門長堅もまた一刀流を指導しています。明和9年4月に深溝松平家が宇都宮にあったときに家督150石を継ぎました。深溝松平家が再び島原を領するときに島原に移り島原で文化14年に亡くなっています。
 杉野甚五左衛門長堅は天明年中に江戸で長沼四郎左衛門徳郷・西尾源左衛門克忠らに直心影流を習いそれを門弟に伝え冬は寒稽古ことして30日間夜暁より朝辰ノ刻まで勝負試合を修行したということです。
 形は一刀流の稽古をし、防具・袋撓をもちいたら直心影流の稽古をしたということでしょう。
 すでに述べているように長州藩の新陰流の師範は大石進に入門して防具・竹刀の剣術を学んでいますので長州の新陰流を稽古した武士たちは形は新陰流の稽古をし、防具・竹刀を用いたら大石神影流をしています。このようなことが島原藩の一刀流にも起こっていたということです。

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  1. 2024/11/01(金) 21:25:00|
  2. 武道史

中西猪太郎子正ニ随身シ

 昨日のべた島原藩の一刀流の杉野甚五左衛門長堅は直心影流を修行していました。その子の杉野甚五左衛門長穀も文化14年に150石を相続して一刀流を島原藩で指導しています。古文書が記された天保2年には物頭役を務め、銃卒ヲ預かっていたということです。
 この杉野甚五左衛門長穀は父が直心影流を江戸で修行したと同様に文化年中に江戸で中西猪太郎子正について新一刀流(ママ)を修行したということです。
 幕末に他流試合が盛んになると防具を付けた試合では次第に流派の特徴が薄くなっていきますが、島原で一刀流を指導した杉野家の稽古では防具・袋撓を用いた稽古は他に先駆けて直心影流の遣い方と、(中西派)一刀流の遣い方がミックスされていたのだと思います。

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  1. 2024/11/02(土) 21:25:00|
  2. 武道史

島原土黒山摩利支天神宮ニ独リ参籠シ

 島原藩の矢島武源太保敬は杉野甚五兵衛長堅の門人で寛政元年に免許を授かり、杉野家から独立して一刀流を教えています。島原藩ではこの時一刀流を教える家は杉野家と矢島家の二家となりました。芸能のように矢島家が門人に免許を出すときにいちいち杉野家にお伺いを立てるというようなことはしません。独立して一刀流を教えています。江戸時代の武家の武道の流派は家元制をとるところは少なく免許を得て独立して自分の弟子を育てる完全相伝制が広く行われています。むしろ農村地帯に行われた流派に家元制度がとられていた事例があるということが近年の研究で明らかになっています。
 矢嶋武源太は文化元年九月16日から6日間、島原の土黒山摩利支天神宮に参籠し修行しました。 文化二年4月に宅地のそばに道場を建て多くの門人を育てたということです。摩利支天神宮は明治二年に烏兎神社と名を変えて雲仙市国見町土黒庚1658に現存しています。
 文政10年に大石氏進とともに島原へ行き、鎗術・剣術の試合をした宝蔵院流と家川念流の笠間司馬の記録では島原藩には達人はいないとしながらも矢島武源太を余程修行を重ねた人だと褒め、60歳まで試合をしていたと書いています。また矢島武源太は一刀流と直心影流を兼ねているように記しているところから師の杉野甚五兵衛長堅は直心影流の免許も得ていたのかもしれません。あるいは矢島は江戸に出ていたという記録もあることから自ら直心影流を修めている可能性もあります。

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  1. 2024/11/03(日) 21:25:00|
  2. 武道史

刀術試合ヲ望ミ数多之人々ヲ相手トシ修行ヲ尽シ

 島原藩で一刀流を指導した矢島武源太には松尾紋次勝永・坪田嘉十郎陣政という門人がいました。文化11年2月、二人は相談して九州の廻国修行の旅に出ます。二人は剣術の達人がいると聞いたら言って試合を願い多くの人と試合をして5月に島原に帰りました。それ以来、矢島武源太の名が九州で知られることとなり剣術をする武士が矢島武源太の導場に来て試合を望んだということです。
 これに習い島原藩士が文化文政年間に廻国修行に出かけたということで、廻国修行の日記もこの古文書が記された天保2年には残されていたようです。いつか日記が表に出てくればよいのですが。

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  1. 2024/11/04(月) 21:25:00|
  2. 武道史

希代之異人也

 島原藩で浅山一伝流を学んで中村宮門という方は相当な変わり者のようです。江戸定府花村小三郎某の養子となって花村となりましたが、江戸の八丁堀に剣術道場を建て指南していました。ある日、屋鋪の門前に高札を立て花村宮門兵衛武者所」と書いて一人座敷で白刃を振り回して籠りました。家族がそれを見て驚き、屋鋪の四方は取り囲まれ徒歩に宮門はからめとられました。それにより宮門は花村家を離れます。
 のちに中村宮門が文政3年9月に島原に親に会いに来た時には髪は総髪で「ヒフ」という衣を着て長い刀を差し、髭は胸の下肚迄覆っていたということです。さらに左右の耳たぶに穴をあけて象牙の輪を通しそこに袋をかけて垂れた髭をおさめており、山伏のような風体であったと記されています。その頃名を一心齋といっており、剣術は紀州藩士の鈴木斧八郎に無念流を習っていると答えたとのことです。その後島原を去り9月に江戸につきました。
 江戸で養子になったときに乱心したように見せたのは自由に暮らしたかったのかもしれません。

追記
 数馬先生に教わりました。この人が後に不二心流を開く中村一心齋なのだそうです。

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  1. 2024/11/05(火) 21:25:00|
  2. 武道史

流石之者ニテ其縄ヌケテ

 島原藩で新勘一傳流を教えた堀波衛門尚春はのちに数流を加えて復心流を起こし多くの門人を育てました。新勘一伝流の流祖は青木止水だけれどもどこの国の人か不明だと記されています。
 ある時、理由は不明ながら罪を得て召し取られ縄にかかりました。しかしその縄を抜けて島原を出奔してのちに紀州に到り300石で召抱えられたということです。
 島原には自由な人が多いなあと印象を受けます。火山の影響でしょうか???

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  1. 2024/11/06(水) 21:25:00|
  2. 武道史

御暇ヲ乞島原に残リ浪人シ

 新勘一伝流の岡野喜代左衛門増影は堀波右衛門尚治について稽古し、免許を授かった人で弟子をとって指導していた人です。新勘一伝流もまた完全相伝制ですので弟子をとって指導した方は複数あり、岡野はそのうちの一人です。軽輩であったということですが、長命な方で93歳でなくなっています。
 島原藩が一時宇都宮に移るときに岡野は暇をもらい島原に残って浪人となっています。島原藩では自ら望んで浪人になったという記録が多々あり、自由を求めた武士もいたのだと思わせられます。

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  1. 2024/11/07(木) 21:25:00|
  2. 武道史

四郎太調實ハ刀術ヲ好テ能稽古ヲツトメ

 堀波右衛門衛尚治は新勘一伝流を教え後に復心流を始めた人ですが、弟子の一人に黒木四郎太調實がいます。この黒木も門人をとって指導していました。復心流も完全相伝で、同時期に複数の復心流の師範がいます。御徒歩を務め質朴の人であったということですが、やはり暇をもらい禄を離れ島原有馬村に居住したということです。昨日記した岡野喜代左衛門と同時代の人ですので島原藩が一時宇都宮に移るときに浪人となったのでしょうか。
 黒木は浪人となった後、柳河藩を訪れ、大石進種次の祖父の遊釼の師である村上傳次左衛門と試合をしています。柳河藩に記録が残っており、柳河藩槍剣師範であった村上の方が黒木に勝っていたようです。宝暦年間のことです。

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  1. 2024/11/08(金) 21:25:00|
  2. 武道史

躑躅ノ花ヲ折取テ

 島原藩で何流かは不明ですが元禄2年12月に亡くなった150石の千本弥五兵衛は総髪にして常に朱鞘の刀を差し、特に抜刀(イヤイと振り仮名があります)の技に達していたということです。江戸に向かっていたある日渡しで船に乗っていた時に多数のツバメが飛んでおり、それを水棹で打ち、一度も誤りませんでした。
 この千本弥五兵衛の墓前に躑躅が咲いていたのを弥五兵衛の墓とは知らずに二人連れが躑躅の花を落ち取って帰ったところ二人のそれぞれの夢に「我ハ千本弥五兵衛ナナリ昨日汝等断ナク我墓ノ前ニ咲タル躑躅ノ花ヲ折取テ帰ル事無礼至極セリ早々返シ玉へ」と千本弥五兵衛が出てきたので二人とも下僕に折り取った躑躅を持たせ返しました。その後二人が墓を訪れるとたしかに千本弥五兵衛の墓であったということです。
 このような話は江戸時代にはよくあります。現代人よりも物事を感じる力がはるかに強かったのだと思います。

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  1. 2024/11/09(土) 21:25:00|
  2. 武道史

稽古場ノ梁之上ニ隠レ

 島原藩の補手の楊心流の中嶋可右衛門義陳は人の下にあることを嫌う人であり、それ故に「可右衛門」という名にしたそうです。可という字は文章でも「可成」(ならるべし)となり上につく文字であるからということです。
この可右衛門に三人の男児がありましたが三男は気質が剛建で父の手に余るほどの者であったため、捕手を教えてはかえって身を亡ぼす元になるだろうと捕手の稽古はさせませんでした。ある日、長男慶蔵、二男伊与助に捕手の奥義を授けるときに三男の可右(之)亟はいつの間には梁の上に隠れてその伝授を見ていたということです。

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  1. 2024/11/10(日) 21:25:00|
  2. 武道史

一ヶ月正銀二十五匁賜り

 島原藩の楊心流は中嶋坪右衛門義利が肥前平戸の産である大江千兵衛義時に習ったことが始まりです。この中嶋には子の中嶋可右衛門義陳や川井藤助孫春、川井弥惣助義照などの後を継ぐものがいました。孫の中嶋伊与助義易の時にいとまを賜り島原藩に中嶋の家は耐えたということです。
 島原藩の捕手楊心流の川井又治孫傳は川井藤助孫春の嫡子ですがはじめは肥前佐嘉西古賀の田中丹助重勝について楊心流を学び、つぎに中嶋坪右衛門義利の子である中嶋可右衛門義陳に学びました。
島原藩主松平忠雄公は肥前佐嘉にいた田中丹助のことを聞き、1ヵ月銀25匁で島原に呼ばれ島原藩士はこの田中丹助に学んだということです。このときに川井又治孫傳は田中に楊心流を習ったのでしょう。他藩の人にお金を出して滞在させて流派を教えさせるということがおこなわれていたということです。

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  1. 2024/11/11(月) 21:25:00|
  2. 武道史

ニレキ小僧

 川井又治孫傳の弟子の岩永成太夫武雅は深溝松平家が宇都宮に移ったときに藩主について宇都宮に行きましたが、しばらく宇都宮で浪人をしていました。土地の人たちに楊心流を教えていたということです。
 この頃にニレキ小僧という盗賊がいました。各地で押入強盗悪業を働き多罪であったということです。三河国二連木村の出身であるためニレキ小僧と呼ばれました。風体は絹布を着て金拵の脇指をさしていて風呂敷包を肩に掛けていました。大男であったようです。
ニレキ小僧は公儀お尋ね人であり大阪の同心が捕縛しようと宇都宮鹿沼までやってきましたが、曲者であるために追手の同心は捕まえることができずの嫡子である六右衛門武澄に依頼して召し取ろうとしました。
 岩永は宇都宮鹿沼で行き違いにニレキ小僧の喉を閉めようと襟をとったものの、小僧は大男であったために喉を閉めることができず、肘で水月に当を入れました。小僧の目がくらんで倒れるところを腰の十手で小僧の腕を打ち縄をかけて同心に渡したということです。岩の嫡子である六右衛門武澄は深溝松平家が島原に戻ったとき、ふたたび島原で召抱えられ郡方改役人を勤めています。
 この文書の著者は楊心流について以下のように述べています。

愚曰、楊心流捕手之元祖ハ前文二記ス如ク秋山四郎兵衛義昌ナリ、此人イツノ頃ニヤアリケン天下ノ為万民ヲタスケント入唐シ彼ノ地魏国(ギノクニ)ニイタリ処ノ武官ニ随テ医術内外金瘡死活等之法ヲ学テ帰朝セシヨリ楊心流捕手死活ノ術始リヌト云々、サレハ此死活ハマツ人ヲシメ殺シテ又イカスノ法ナレハ人多ク入込之場所又ハ一間之屋敷内ニテモ狼藉(ロウゼキ)乱心之者抔有リテ妨タケヲナス時其者ヲ取ヲサユルニ刀ヲ抜テ切ル事ハヤスケレ𪜈武士之刀ヲ抜テ人ヲ切リタル時ハ其身モ又済サルモノナレハ事ヲ穏便ニスマサンニハ此楊心流捕手ノ死活程能業(ワサ)ハ有ルヘカラス、殊更江戸抔ニテ諸大名登城之時行列ヲ妨ケ狼籍スル者アル時ハ供奉之従士其者ヲ捕ヲサユルニハ此楊心流捕手之術心得有テ然ルへキコトナラン、徒士ヲ勤ル壮年之族ハ専ラ修行有テ嗜ナムヘキ芸術ナラン

以上で島原藩の武道史については終わります。

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  1. 2024/11/12(火) 21:25:00|
  2. 武道史

同質になる

 流派を稽古するということはその流派を稽古する者全員が同質でなければなりません。同じ流派を稽古しながら本質が全く異なるということはなく、それでは同じ手順の形をしながらも異なる流派であることになります。梅本先生は色が同じでなければと言われました。
 個性を否定するのかといえばそうではなく、同じ本質でありながら表に現れるものはそれぞれの身長や体重などの個性に応じて異なるものです。たとえば広島のお好み焼きといえばお好み焼きであって、お好み焼き屋と言いながらピザしかなかったり、カレーしかなかったらそれは広島のお好み焼きではありませんが、広島のお好み焼き屋さんでも同じお好み焼きでありながら店によって味が異なるようなものです。
 ここがわからなければ流派武道での上達はむつかしいと言えます。

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  1. 2024/11/13(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

生まれ変わる

  新たなことを身につけようと思ったら、生まれ変わるほどのことがなければ身につきません。多くの人がこれまで身につけてきたことの上に新たなことをしようとしますので身につかないのです。
 自分はこれまで○○年間何々をしてきたから同じようなことはすぐ身につくなどと考えているので近づくことすらできず似たことはしているけれど違うという状態になってしまいます。生まれ変わるといっても何も宗教的なことを求めているわけではなくまっさらな状態で稽古に臨めばよいのです。

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  1. 2024/11/14(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達はわかりにくい

 貫汪館で稽古している流派は3流派とも上達はわかりにくい流派です。したがって師が指導します。自分自身でよくなったと思うときはたいていダメな時で心の力みを集中力が高まったと思い、筋肉の過度な緊張を力強さと勘違いしています。無理無駄がなくなることを上達としていますので実感は薄くなっていきます。
 それ故師が良し悪しを言言います。師を信頼して従うものは上達し、自分の感覚を優先する者は遠ざかります。

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  1. 2024/11/15(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

余分な筋力をつけない

 お世話になっている研ぎ師の先生からお聞きしたことですが、師匠から筋肉をつけてはならないと指導されたそうです。
 私自身は幹部自衛官時代にウエイトトレーニングをしていましたので依願退職後に広島に帰り梅本先生に指導を受けることが増えると、初めは斬撃をしても筋肉の力強さを感じていたのですが、しばらくすると逆に余分な筋肉が邪魔をして繊細な動きができなくなっていることに気づきました。今は筋力は半分もないと思うのですが、刀は楽に振れるようになっています。
 技が完全に身についたのちの筋力トレーニングは害悪をもたらさないのではないかとも思いますが、いまだに完全に身につくには程遠い状態なので試すこともできません。

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  1. 2024/11/16(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

 澁川一流柔術の師畝重實先生は常に上半身の体は緊張がない状態で肚は常にゆったりと満ちた状態にあられました。技をかけるときにも上半身の緊張はなく、肚は常にゆったりとしておられ、緊張させたり引っ込められることはありませんでした。
 自分が柔術の稽古をするときにどのような状態にあるのかを確認してください。

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  1. 2024/11/17(日) 21:25:00|
  2. 柔術 業

はらを引っ込めない

 梅本先生の体の状態も畝先生と同じで上半身は常にリラックスしてはらを引っ込め(へこませ)られることはありませんでした。
 稽古されている方がはらを引っ込めようとするときには以下の動作の時ですので気を付けてください。

 ・帯刀するとき
 ・抜付けるとき
 ・血振いするとき
 ・納刀するとき

これらの動きの時にはらを引っ込める方が多いように感じます。気つけて下さい。

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  1. 2024/11/18(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

不安に感じて体を固めてはならない

 無理無駄がなくなり体の緊張がなくなることを不安に感じる人もいるようです。
 柔術の受をとるときに体を緊張させる方はたいていこのような方です。無理無駄がない状態であれば自然に受身が取れるにもかかわらず体を緊張させることによってバタンと倒れてしまうのです。体は柔らかく使うことによってダメージを分散できます。不安に思い身体を固めることで余計にダメージを受けてしまいます。

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  1. 2024/11/19(火) 21:25:00|
  2. 柔術 業

自分の価値観を壊す

 いわゆる頑固な方はかたくなに自分の価値観を守ろうとします。新たなことを習っているのに自分の価値観で自分の都合の良いように変えてしまうのです。自分ができていないと感じることを恐れ、これまで生きてくるうえで培った自分の価値観で動くので遠ざかるばかりです。何のために稽古しているのかを考えればわかることなのに新たなことを身につけるためであっても自分を壊すことはしないのです。
 このような方を教えるのは至難の業です。指導者は焦らずに自ら気付くのを待つしかありません。

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  1. 2024/11/20(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師弟関係

 最近は師弟関係がわからない人もおられるので私の経験を述べます。
 私にとって最初の古武道の師は梅本三男先生ですが、師は絶対でした。先生のご指導と違うことをしようと思ったことはありませんし、先生がご指導してくださったことはなにがなんでも会得しようとしました。自分はそうは考えないなどということはありませんでした。当然ご指導を受けてもできないことはあります。しかしできないことがあっても何がなんでも会得しようと努力をするのです。できないからといって先生の指導が違うと思ったこともありません。自分の努力が足りないからできないのです。
 畝先生は師弟関係は親子関係と同じでこの危機に際しては親は命を懸けてでも子を守ると言われましたが同時に弟子ができることは師を選ぶことで後は師に従わなくてはならないとも教えてくださいました。師を師と思わない者が多かったのです。
 ここが理解できない人は師弟の間柄で物事を習得することは無理です。

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  1. 2024/11/21(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師弟関係2

 畝先生に柔術のご指導をいただいたのは梅本先生にご指導をいただいた後で初めからから師弟関係はわかっていたつもりです。
 畝先生が形を行われ、それを会得しようとひたすら努力しました。先生にご指導を受けるのは週に一度でしたからその時に先生の動きを目と心に焼き付けて次の稽古までに会得する努力をするのです。形・手順の外側だけ真似すれば事足れりとするようなものではありません。形とはそのように薄っぺらいものではないのです。短期間で形を数多く覚えたなどという人もいるようですが、真似をしただけでは何の価値もありません。中身が全く異なるのです。大切なのは流派の形の本質を会得することです。
 1週間稽古してもできないことは先生に質問しました。また先生は見せてくださいましたが、やっておればできるようになると話されるのが常でした。つまり、稽古せよということです。ひたすら稽古です。稽古しかありませんから居合と柔術さらには銃剣道の稽古までしていましたから月月火水木金金では曜日が足りませんでした。師に教えていただいたら会得するというのが稽古でした。何とかなるだろうという考えでいたら、師を軽んじていることになります。

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  1. 2024/11/22(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古が続く続かない

 本部でも支部でも稽古が長く続く方と、1、2年も稽古するとといなくなる方がいます(中には数か月も持たない人もいます)。求めるものが違う人たちなので仕方ないことです。
 自分の至らぬところを知ることができる人は求めても求めてもできていないところがあることを知り求め続けることができます。修行です。しかし求めることが違い、形・手数の手順を覚えることが目的の人たちはそれで目的を達成しています。手順を覚えたら映画やアニメのようにかっこいい素早く力強い動きを求めようとします。貫汪館で稽古している三流派にはそのような動きはありません。自分が良いと思うことを否定され、新たな形・手数を教えてもらうことがないのですから嫌になって続きません。求めるものが違うからです。
 また相手に勝たなければならない競技スポーツの感覚で始める人は全く異なることに気づいてすぐに去っていきます。触れれば斬れる刀ですから、軽い、浅いなどとは言うことができず、相手の刀に自分を触れさせることはできず、繊細に注意深く動かなければならないのです。ルールに守られることもないので感覚の繊細さが大切ですが、競技スポーツのように思っている人にはそのようなことは理解できずに相手を斬りに行くことに自分の目的を置きます。しようとしていることが異なるのですから続くことはありません。
 古武道は競技やパフォーマンスではなく修行なので、修行だと思って始める人しか長続きしません。修行だと思える人は己の至らぬところを知ることができる人で、己の至らぬところに直面してもそれを克服しようとする人です。

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  1. 2024/11/23(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

胴切り

 大石神影流の特徴の一つに胴切りがあります。大石神影流剣術陰之巻には以下のように記されています。

刀ノ先尖ハ突筈ノモノナリ胴ハ切ヘキノ処ナルニ、突ス胴切ナクテハ突筈之刀ニテ突ス切ヘキノ胴ヲ切ス大切ノ間合ワカリカネルナリ

 競技の現代剣道をイメージする人は胴を自分から切りに行くと考えるようですが、手数にあるように面に斬りこまれるのに応じて居り敷いて胴を切ります。居り敷きますので太刀筋は袈裟と同じようになります。また応じて居り敷いて斬るので間合いは近くなります。
 防具着用の稽古をするときに考え違いをして自分から胴を切りに行こうとはしないでください。

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  1. 2024/11/24(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

外形を作らない

 初心者の方が形・手数の手順を覚えると、次にその形・手数を上級者のように速く、力強く見事に行いたいと思ってしまうようでその時点で多くの方が長い時間をかけて基本の稽古を続けて身につけたことを捨て去ってしまわれます。
 大切なのはそれまでに身につけている基礎の上に積み重ねていくことなのですが、自分がしたいことを優先させてせっかく身につけた基礎を壊し、土台のない空虚なものを作ろうとされるのです。
 上達するための稽古はゆっくり正しく稽古をすることです。ここがわからない人は自己満足はしていても上達ではなく道をそれていきます。

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  1. 2024/11/25(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指導は段階的に行っている

 指導は上達するようにその人に応じて段階的に行っています。寝返りもできない赤ちゃんが立って走れるわけもないので、いきなり立って走れとは言いません。しかし多くの人が寝返りをすることを教えているのにいきなり立って走ろうとするため上達しません。指導されていることよりも自分の興味関心があることをしようとします。しかもまだ寝がえりの段階なので、何も見えていない段階ですからめちゃくちゃなことをして自己満足しており、指導されることの意味さえ分からない人がいます。
 また思慮が深くない人は段階的に教えているにもかかわらず、胸と言ったら肚を忘れ胸にのみ集中し、手の内と言ったら肚を忘れ脇を忘れ、内筋を忘れて手首のみを気にしすべてを失ってしまいます。指導されたことを身につけようとせずに上を目指そうとしても道ををそれるばかりです。

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  1. 2024/11/26(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

無理な動きをしない

 無理な動きをして体にひずみが生じ、その歪で何かをしているという充実感を得て安心する人がおられます。自分の体に力強さを感じなければ安心できないようです。しかしそれは根本的に間違っています。
 無理無駄がないことが名人・達人の定義と梅本先生はおっしゃいましたが、そのようなことを言われなくても澁川一流の師匠の畝先生、大石神影流の師匠の大石先生もそのような動きをされていました。無理無駄がなくなればなくなるほど体に力が入ったとは感じられなくなり、普段の生活で体を動かしているのと刀を手にしていても素手で対応していてもその差はなくなってきます。しかしそれが不安になるようなのです。
 幼稚園のころから日本人は体を緊張させる良い姿勢というものを身につけさせられてきています。真面目に育ってきた人ほど良い姿勢は体を緊張させる軍人のような姿勢だと刷り込まれてています。動きの結節点結節点で体が緊張していないと不安になるのです。上達のためにはそこから脱するところから始めてください。

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  1. 2024/11/27(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

変質はあっという間

 以前もお話したことがあると思いますが、正しく流派が伝わっていたとしても変質するのはあっという間です。悲しいものです。
 今はもうなくなられましたが、ある県の剣道史を研究されている先生と知己を得てお教えいただくとともに私が知っていた情報をお伝えしていました。その先生は現代剣道をされる方でしたが、その県で行われていた古い流派をよく知っておられました。御自身で稽古されることはなかったものの十分すぎるくらいに見ておられたのです。私がお会いした時はあの流派もこの流派もなくなってしまったとおっしゃっていました。
 あるとき、先生が昔よく見ておられた流派が演武するのを見て「あれでは価値がない、あれは現代剣道だ。稽古する意味もない。」とおっしゃいました。動きが先生が見られていた古武道流派としての動きではなくなり、現代剣道に代わっていたのです。形の手順が残っていても基本的な動きが変わっていたらもうそれは古武道とは言えず模倣です。その先生はそれを嘆かれたのです。
 澁川一流に本質的な動きを変えて我流にする人があり、無雙神傳英信流には他流派に習った理論を取り入れて自分が正統だという人もいました。
 私が亡くなった後に「三つの流派には見るものはなくなった。」と嘆かれることがないよう、本物の稽古をしてください。

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  1. 2024/11/28(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自分の思いを捨てる

 上達するためには自分が持っている思いを捨てるところから始めなければなりません。何度も初めから説明しているのに何か月も、また何年もたってから、「わかりました。」と言われることがあります。
 同じことを繰り返し何度も説明していても理解できないのは初めから自分が持っている思いが強すぎるからです。自分にとって都合の良いところしか聞いていないか都合の良いように曲解しているのです。
 上達の条件は自分の思いを捨て心に何もない状態で指導を受け入れることです。

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  1. 2024/11/29(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達させるのは自分自身

 日本の学校教育を受けてきた人は教えられることを待つ傾向があります。しかし武道は一人で立つために稽古します。スポーツの試合などでコーチや監督から指示やアドバイスを受けながら競技をするものではないので、一生に一度あるかないかの武道が必要となるときにこうすれば勝てるとアドバイスしてくれる者は誰もいません。
 梅本先生の道場では課題を与えられたら黙々とその課題を解決するために稽古していました。自分を見つめることができない人は同じことを繰り返すので進歩はなく、自分自身の課題を解決しようとする人は進み、また新たな課題を与えられます。
 畝先生は教えてくださったら次の稽古では先生が教えられたことが正しく身についているかどうかを確認されて次を教えてくださいました。週に一度の稽古ですから、居合や銃剣道の稽古の後にさらに柔術の稽古をして身につけて次の稽古に臨んでいました。柔術の稽古は毎日していたということになります。
 大石先生の指導も畝先生と同じでした。ただし確認していただいたのは最初の試合口だけで、あとは稽古してきているのはわかっているとおっしゃって次を教えてくださいました。大石先生にご指導いただいたのは月に一度か二度でしたが、新しい手数を教えていただくときにもよく稽古してきているとおっしゃってくださいました。手数の手順ではなく本質的なところを見ておられました。
 上達するかどうかは自分自身が与えられたことを身につける努力をするかどうかにかかっています。自分の思いで稽古してもそれは道から離れるだけで稽古しているとは言えません。細い道です。すぐに道からはずれてしまいますので余程自分自身に気を付けて稽古しなければなりません。

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  1. 2024/11/30(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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