澁川一流柔術では多くの形が最後に膝で受を抑えます。このときに相手との距離が離れ、自分の腰の動きが遅れる人が見られます。
原因は一つです。臍下丹田を中心として技をかけているのではなく、小手先で受けに技をかけているからです。臍下丹田からのつながりは途切れ肩が体から離れ、初心者のような動きをしているのです。すばやく動きたい、力強く感じたいという心がそうさせているのですから、自分の心から正さなければなりません。
- 2022/04/01(金) 21:25:00|
- 柔術 業
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「正義の根拠を学ぶことに武道を学ぶ意義がある」とは尊敬する先生からお教えいただいた言葉です。まさしくその通りだと感じてしまいます。ただ、今の時代に正義の根拠がわかり、正義とは何かがわかってくると息苦しくなります。それだけ正義面した偽物が多いのです。正義ではなく、自己の保身、私利私欲のために「正義」を利用するのです。
ひょっとしたら武道を稽古する人たちの中にそのような人たちの比率が高いのではないかと感じることもありますが、武道が身近なものゆえにそのようなことが見えてくるのだとも思います。同じように武道を稽古しても高潔な人もあれば、私利私欲に走る人もいます。武道を稽古することでかえって自分が見えなくなる人もあるのです。
学校における武道の必修化は 「正義の根拠を学ぶことに武道を学ぶ意義がある」を目指したものであってほしいのですが、はたしてどうでしょうか。現状は各種の武道の勢力拡大の場になっているような気もします。武の道は狭いものだと思います。道から外れるといくら武道を稽古しても「正義の根拠を学ぶこと」はできないのではないでしょうか。
武道の普及は如何にあるべきものなのか、また普及すべきものではないのか考えてみなければなりません。
- 2022/04/02(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の正式な演武には脇差または短刀を帯びて行います。はじめのうちは木刀の小太刀に鞘を作ったものや模造刀で十分です。
しかし稽古が進み年数もたち教えるようになったら真剣の脇差、短刀の購入も考えてみてください。同じように木刀で演武していても、脇差または短刀の真剣を帯びると模造刀のときとは不思議に気持ちが変わるものです。また、購入しようと思ったら購入前にどういうものが自分の好みなのかを書籍でいろいろ見て学びます。脇差や短刀は小柄袋や笄また鍔、鞘などに意匠がこったものが多く見ているだけでも何かを学ぶことができます。小さな空間ですが調和のある小さな世界が描かれています。武道の幅も広がります。
- 2022/04/03(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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吝嗇と倹約とは紙一重のようでここを間違えると人として信用されなくなります。
吝嗇とは必要な支出さえ惜しむケチであることを意味しているそうで、どんなことにもお金を使いたくないので交際費・割り勘のお金などもまともに出ささないことをいうようです。一方倹約は無駄・贅沢を省いて支出をできるだけ少なくすることを意味していますが、必要な出費のために節約しているのだそうです。
武士の在り方は倹約で、普段質素な生活をしているけれどもいざ合戦という時の資金としてお金を貯めていた武士の話が柳河藩にありますが、これは倹約です。藩のため主君のために必要なときには惜しみなく出します。
本来出すべきお金も出さずに自分のためだけにひたすらお金を貯えるのが吝嗇でこれは貪欲・強欲ともいわれ他人のことは犠牲にしても自分のことだけを考えて行動しますので武士が行ったことではありません。
「身に奉ずること薄きを倹約とし、人に奉ずること薄きを吝嗇とす。」貝原益軒の言葉だそうです。
- 2022/04/04(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道の形・手数は下手な演技とは異なります。攻防の稽古が形・手数であり下手な演技は攻防の振りと、攻防しているということをみえるように表現したものです。迫真の演技という言葉がありますが、演技は見る者がはっきりとそのように見えなければならないので迫真とは言っても本物の武道をする人がスラスラと行うようにしていてはならないものです。本物は武道を知らない人にははっきりと目に見えないからです。
そこが全く理解できない人は上達できません。形・手数の稽古をしているのに己に気もこもらず、相手との斬り合いであるという意識もなくただお互いに動作をタイミングよく行っている。相手との気の交わりもない状態です。また気がこもっていないと言うと、顔に表情を作ったり体を力ませたり、攻防においては不必要な「やっています」ということを見せる表現する。これではどうにもなりません。「刀を抜いてしっかり見て、これで敵が自分に斬りかかってくると考えろ。」という教えもありましたが、それも毎日行う必要があるかもしれません。人里離れた山に一人入り自分の命を考えてみる経験も必要かもしれません。何も険しい山に入る必要はなく人気がない場所に行って一人になるだけです。自分の生を感じて見なければなりません。
- 2022/04/05(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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軽い刀を重く使う方が重い刀を軽く使うよりもはるかに難しいものがあり、稽古になります。
初心者は重い刀を使うのは大変そうに考えます。重さを何とかしてコントロールして自由に用いようとするからです。重い刀を操ろうとするのです。しかし、あるレベルに至れば刀の重さそのもので刀は動くことがわかりますので力を用いる必要はありません。重さが技量をカバーしてくれるようになります。
軽い刀を使うにはは刀の重さに加えて自分自身の腕肩の重さを用い、さらには胸や背筋の重さを用いなければなりませんので、技術的にも高度な使い方が必要となります。丹田を中心として体の各部、刀の切先までを自分の一部として繊細な感覚で用いなければ軽い刀を重く使うことは出来ず、小手先でひらひらと使う域を脱することは出来ません。
一度軽い刀を重く使うことを覚えたら、重い刀を使うのはさらに楽になります。
- 2022/04/06(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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稽古年数は多くなり知識も増え、覚えた数の形・手数も増え、続けて稽古しているのに、ますます遠ざかっているということが起こります。
求めている物、見ている世界が異なるのです。異なった世界で真似事をし、その真似事が上手になっていったとしても真似事が上手になればなるだけ遠ざかっていくのです。異なった世界を見ているので、どうにもならないことです。こういう人を導くのは本当に難しく、こっちだと道を示しているのに自分は違うところで一生懸命にやっているのです。その一生懸命さを導く世界で求めればよいのに、変えようとはしません。梅本先生は「色が異なる。同じ色にならなければ。」ということも言われましたが、まさしくその通りです。畝先生は「やっていればできるようになる。」と言われましたがそれは示したように教えたようにやっていればできるようになるということであり、異なったことを一生懸命やってもできるようになるということではありません。大石先生はそもそも違う思いを持っている人には教えられませんでした。
師事するという言葉の意味を考えることがなければ、習得することもできません。
- 2022/04/07(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の初段の論文を載せます。海外の形で日本に来ておられますが、良く学んでおられます。日本語と英語で論文を書かれていますので、海外の門人は日本語の勉強を日本の門人は英語の勉強をしてください。
Title: 武道における礼と大石神影流剣術における礼法について
ほとんどの人にとって、礼法の意味はマナーと礼儀正しさです。英単語ではエチケットが似ています。しかし、武道の修行者にとって、それははるかに深い意味を持っています。 それは、稽古開始時の儀式だけでなく、道場の内外で行われるすべてのことで実証されています。
武道の修行者は、特に先生、稽古相手、道場に敬意を払う必要があります。 典型的な例として道場に出入りするときに礼をしなければなりません。 外から道場に汚れを持ち込まないように、靴を脱がなければなりません。稽古後に道場を掃除する必要があり、服も掃除する必要があります(もちろん服を正しく着用する必要があります)。 これが礼法の始まりです。
大石神影流剣術は1800年代初頭に大石進種次によって設立された日本の武芸です。大石神影流の具体的な礼法は、武神に頭を下げることから始まります。立っているときは片方の手を体の横に置き、もう一方の手を剣に置きます。親指は、鞘を握っている間、鍔に触れなければなりません。右足を一歩引いて、背中をまっすぐに保ってひざまずきます。ひざまずいて両手でこぶしを作りながら、親指をこぶしの上に置きます。腕を横に置き、この時鼠径部は緩んでいます(ほとんどの人はこの緊張が解けないため、これは難しい動きです。当然、腕と手は前に倒れ、床に触れて頭を下げます。礼をする時は背中を丸めませんが、自然に頭を下げ、目付も下がります。筋肉をリラックスさせる自然な形でひざまずく姿勢から立ち上がります。自然に立って稽古相手と対面します。前に説明したように片方の手を剣に置き、もう一方の手を体の横に置きます。背中や首を丸くせずに、鼠径部の筋肉をリラックスさせ、頭を下げます。呼吸は、すべての大石神影流の動きの中心的な部分です。呼吸は肚で行わなければなりません。これは、体がリラックスして心を鎮めるために不可欠です。すべての動きは肚から始めなければなりません。門人は彼らが知らないことを学ぶために先生に敬意を払わなければなりません。門人は先生の技と教えを信頼しなければなりません。
正しい考えなしに礼法を行うことは無意味であるため、心も礼法の重要な側面です。武道の修行者は稽古の機会に心から感謝すべきです。そうでなければ、それは身体に物理的に現れます。これには、道場への感謝、稽古相手の存在への感謝、そしてあなたを教える技術を持った教師の存在への感謝が含まれます。稽古中に感情的になりすぎないようにし、心をリラックスさせて純粋にするべきです。怒りや攻撃性などの感情は、稽古と生活に適さず、稽古相手や自分自身の怪我につながる可能性があります。自分の体をコントロールできるようにするには、最初に心をコントロールする必要があります。知らないことを学んでいる場合は傲慢になってはいけません。そのため、最初は完全に理解していなくても、先生の指導を受け入れて尊重する必要があります。武道の修行者は常に周囲を意識し、他人の空間を尊重するだけでなく、敵からの攻撃に備えて空気を読む必要があります。これを達成するのは非常に難しいので、日常生活の中で絶え間ない練習が必要です。しかし、不安に囚われてはいけません、心は明確でなければなりません。
大石神影流の稽古に使用されるのは木刀です。 それにもかかわらず、それは本物の剣であるかのように扱われなければなりません。稽古を通して剣と一体にならなければなりません、それにより自然に自由に動けるようになります。床に置いた刀をまたいだり、床に落としたりしてはいけません。刀はそれ自身が魂を持っているかのように扱われるべきです。
質問をすることは学習のプロセスにとって大切ですが、すべての質問は適切な瞬間にそして敬意を持って尋ねなければなりません。 たとえば、演武を中断したり、型の哲学に反論したりするのは失礼です。 日本の文化の大部分と武道において敬語のルールは重要で、それに敬意を払う必要があります。
このように行われるすべての礼法のポイントは、武道の学習と実践のため道場の内外で調和のとれた安全な環境を作り出すことです。 武道と礼法を学ぶ人にとって、それは生き方であり、日常の活動です。また教えを受けられること、技を学び次代へ受け継ぐため修行に人生を捧げた人々へ感謝を示すことでもあります。大石神影流剣術は、日本の文化と伝統に根ざしており、次の人に受け継がれ、後世に受け継がれていきます。
The literal meaning of Reiho (礼法), to most people, is manners and politeness; the translation to English is akin to etiquette. However, for the Budo practitioner it has a much deeper meaning. It is demonstrated in everything they do inside and outside of the Dojo, not just the ritual at the start of training.
The Budo practitioner must show respect to everything especially the Sensei, training partner/s and the training area (Dojo). Typical actions one must bow upon entry and leaving the dojo; one must remove their shoes as not to bring the dirt from outside into a respected space; one must clean the Dojo after training, one must also clean their clothes and of course wear them correctly. This is the beginning actions of Reiho.
Oishi Shinkage-ryū kenjutsu (大石神影流剣術) is a traditional school (koryū) of Japanese martial arts, founded by Oishi Susumu Tanetsugu in the early 1800s. The specific starting ritual for Oishi Shinkage-ryu starts by bowing to the Budo God. This means placing one hand by your side and the other on your sword with the thumb touching the Tsuba whilst gripping the Saya. One must kneel by taking a step back with the right leg and keeping a straight back. Once kneeling one must make a fist with both hands and with the thumb on top. Place the arms by the side and relax the inner groin muscle (this is difficult as most new students keep this tense), naturally the arms and hands fall forward to touch the floor whilst slightly lowering the head. Throughout bowing do not circle the back but naturally lower the head and the eyesight will also naturally lower. The shape of the body is made naturally via gravity if the muscles are relaxed accordingly. Rising from the ground, standing neutrally, and facing your partner, keep one hand on the sword as described before and the other by your side. Relax the inner groin muscle and lower your head without circling the back or neck. Once this is complete any Kata rehearsal is can begin. Breathing is a core part to all Oishi Shinkage-ryu movements. This is essential to helping the muscles relax and calming the mind. All movements must be initiated from the Hara. One must show upmost respect to the sensei teaching us things that we do not know, and we must trust in his skill and teaching.
The mind is also a very important aspect of Reiho because doing Reiho without the correct thought is meaningless. Budo practitioner should be sincere in their thinking otherwise it will manifest physically. One should not be emotional while training the mind should be relaxed. Emotions such as anger or aggression are not good for training or life and could lead to injury of your training partner or yourself. To be able to control your body you must first control the mind. One should not be arrogant if you are learning something that you do not know so you must accept and respect the teacher’s lesson even if at first you do not fully understand. Budo practitioner must always be aware of their surroundings respecting the space of other people but also reading the air, always prepared for an attack from an enemy. This is something incredibly difficult to achieve so it needs constant practice in daily life. However, this does not mean to be anxious the mind must be clear.
The sword used for training in Oishi Shinkage-ryu Kenjutsu is a wooden Bokken. Nevertheless, it must be treated as if it were a real sword. Through training, one must become one with the sword to allow for natural and flexible movements. One must not step over a sword placed on the floor or drop the sword to floor. It is to be treated as if it has its own soul.
Asking questions can be an essential part of the learning process but they must be asked at the appropriate moment and in a respectful way. For example, it would be rude to interrupt a demonstration or challenge the philosophy of the kata. A big part of Japanese culture and in budo is the Keigo system the essentially is different layers of the Japanese language to mark seniority.
The point of Reiho being conducted in this manner is to make a harmonious and safe environment inside and outside the dojo conducive to learning and practicing Budo. For those that commit to learning Budo and Reiho it becomes a way of life and conducting themselves in daily life. It is also to show appreciation for what is being taught and for those who have devoted their lives in learning the skill to pass it to the next person. Oishi Shinkage-ryu Ken Jitsu, is entrenched in Japanese culture and tradition, passing it to the next person keeps it alive for future generations.
- 2022/04/08(金) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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二兎を追う者は一兎をも得ず 幕末にヨーロッパから伝わった諺だそうです。日本では「虻蜂取らず」というのが古くから用いられていたものが今では西洋の諺に置き換わっています。
本質が異なることを同時に行うのは難しく、学問の世界であるならばまだしも自分の体を用いて行うことでは不可能なことがあります。たとえば同時に東西に歩きなさいと言われてできるかどうか、同時に空を飛び地に潜りなさいと言われてできるかどうかです。頭の中の空想であればできるかもしれませんが、一つの体が二つに分かれない限り不可能です。以前も述べたことがありますが、一人が自力本願の宗派と他力本願の宗派を修行して双方の僧侶になろうとするようなことです。もっと言えばキリスト教の牧師と仏教の僧侶とを同時に真摯に努めるようなものかもしれません。
不思議なことに海外の方には、同種の武術を何流も何流もといくつもの流派ができることを誇る方がおられます。それでは本質を会得するということにならず、すべて真似事をしていることになるということには気づかないようです。自分がしていることはカトリックの神父や司祭とロテスタント牧師の牧師を両立しようとしていることだとは思わないのです。儀式の真似だけなら両立できるかもしれません。
日本人でもそのような方はいますが、そういう人は多くの場合伝えられた流派を教えているのではなく、自分の中で流派の原理を統合して自分自身の流派となったものを様々な流派名を上げながら教えています。ある意味で流祖といってもよい存在です。二つの派に分かれた近縁の流派であれば、2流派の体得は可能かもしれませんが、近縁の流派であっても明治以降大きく変化してしまったものではまず不可能です。片方が片方の足を引っ張りどちらかは真似事にすぎなくなります。そのような場合、本質は体得できません。
明治以降に変化した流派でなくても2代で変化した流派も見たことがあります。2代前の方とそのお弟子さんたちとは全く異なるのです。明らかに現代剣道基準の動きに変化してしまっています。そうなったら同じ流派であっても両方を体得することは不可能です。
- 2022/04/09(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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指導は自分の言葉で習う人に応じて行わなければなりません。
自己流の解釈を加えず伝えられたことをそのまま伝えることが古武道では大切ですが、それは本質を伝えるということです。自分が体得できていれば年上の人、子供、力がある人、繊細な人、男性、女性それぞれに応じて表現は変わり説明も変わります。それができていなければ体得していないということです。知識を覚えているにすぎず、習う者は師を見ても何も得るものがないか悪癖を身につけるだけになってしまいます。
教えは体で理解し自分のものになったあとに、自分の言葉として発することができるようになります。理兵法で知識を誇るだけでは指導者は務まりません。自分のものになっているかどうか確認してください。
- 2022/04/10(日) 21:00:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日本の「柔術」という言葉の定義は海外からジュージュツが入り、それに柔術という言葉が用いられるようになって以来、あいまいになってしまいました。日本の江戸時代からある柔術をさすのではなくむしろ一般の人には格闘技としての意味合いを持つようになったのではないかとさえ思われます。
そのようなことは起こらないでしょうが、もし、格闘技の柔術を生業としている人が「柔術」を商標登録してしまったら、柔術という言葉を日本の伝統的な柔術を稽古している人たちは使えなくなってしまいます。
柔術という言葉だけでなく、古武術という創作武術を指す言葉があり、本来の「古」という意味からはかけ離れてしまったのですが、営業上集客のためにどうしても「古」をつけたいようです。「新武術」「創作武術」などとネーミングしてくれた方が一般の方が誤解を持たなかったのにと思います。稽古を始めようと思う方の中には、そのような「古」ではない「古武術」のイメージをもって道場に来られることもあるようですから、ここまで誤解が広まってしまってはもうどうにもなりません。残された「古武道」という言葉ですら創作武術の人達が用い始めているようです。集客するために古武術との差別化を図りたいのだと思いますが、このままでいけば「古武道」という言葉の意味まであいまいになっていきます。50年後はどうなっているかわかりません。
- 2022/04/11(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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古武道の伝授には免許制度があります。流派によってその様態は様々ですが、澁川一流柔術では中極意になったら師のもとで指導を受けながらも自分の導場を開くことができましたし、大石神影流でも大石雪江は中伝で他藩に指導に赴いていました。無雙神傳英信流でも中伝で補佐をして指導をした人もいます。流派によってさまざまで免許皆伝まで何十年もかかる流派もあります。
このような伝授のシステムは師が弟子の人間性と技量をみて授けるものであり、流派を次の世代へつないでいくために必要なシステムです。形の手順をすべて覚えたから教えてよいというものではありませんでした。
しかし、現代ではこの免許皆伝のシステムがなくなってしまったところもあります。修行途中で師がなくなり免許皆伝を授かれなかった人もいるでしょうし、そもそも免許皆伝を得ていた師が形は全て教えても、その人がさらに教えるとは思っていない場合もあるでしょうし、形の手順だけを習った悪意のある方は、免許皆伝でもないのに独立して教える人もいるでしょう。
現代居合道は流派を名乗っていても免許システムがない道場が多く、免許制度をやめてしまったか、心も技も師から認められていない人の弟子またその弟子が流派を名乗って教えているというところもあります。免許制度がない代わりに自分の師ではない人に審査を受ける段位制度もあります。普段の言動を身近に見ることができにくいため、伝授の形態が古武道の流派が持つものとは異なります。
貫汪館では無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流の三つの流派がありますが、流派本来の在り方を保っていきたいと考えています。段位制度は流派を維持する前提としてしっかりした基礎、技を各人が身につけるために設けています。段位の後に初伝や中伝・中極意、免許皆伝があります。そこまでしっかり稽古していただければ形だけは伝えているという保存会とならずにすみます。
- 2022/04/12(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」、人に疑われるようなことはしてはならないという意味です。以前も述べたことがありますが、演武会では特に心がけておかなければならないことです。
演武と関係ない話をしていて笑ったとしても状況によっては演武している流派を笑ったと受け取られかねません。また他流派が演武しているのに大きな声で話せば、その流派には全く興味がないということを意思表示しているとも受け取られかねません。
私自身が見分したひどい事例を挙げると、
流派の解説のアナウンスが行われているときに明らかに嘲笑をしたというものがあります。その人の知識ではおかしかったのかもしれませんが、武道史を深く研究もせずその流派について知りもしないのに嘲笑するということがどういうことかわかっていなかったようです。
演武中に演武している先生について、見ながら大きな声で「あれは(演武している先生を指して言っています)・・・・・。」と論じる。その人を指導している人と話しているのですが、指導者は制止することもなく、話を聞いていました。
こういうことは極端な事例ですが実際にあったことです。これらの事例は疑われる事というよりも行ってはならないことなのですが、古武道を稽古してそれなりの立場にある人が行ったことです。それらの人にとっては古武道は自己顕示欲を満たすためなのだと思います。古武道の地位を自ら貶める人たちも存在するのです。
行動には気を付けなければなりません。
- 2022/04/13(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道史の研究でお世話になっている先生に次のように教わりました。
「勝負付」の「仕合」が撃剣大会として行われる撃剣試合(チャンピオンシップ)となり、「勝負付」などは問題としない勝負合わせが武術性・演武性を温存した「地稽古」になっていった いわゆる廻国修行はほとんどは他地域の他の流派との「地稽古」です。日記には廻国修行での他道場での稽古にも「試合」「仕合」という字が用いられることもありますが現代的な意味での勝ち負けをはっきりさせる
試合ではなく
「試し合い」で、どちらがどこを打突したという記録をつけるものではありません。しかし嘉永4年の藤堂邸での試合のように勝負付があり、どちらがどこを打突したと記録するものもあります。このような試合がやがて近現代的な意味での撃剣試合(チャンピオンシップ)となるということです。
そうなってくるとやがて流派の価値観は関係なく共通した1本の基準が決まり、流派には意味がなくなってきます。流派の形を稽古する意味はなくなり始め、さらにはその1本の基準が競技のための1本に変化していき、動きも変化します。武術ではなく競技化していきました。その最終形態が打ち込んだ後に前に進んでいくという真剣では考えられない動きです。元の1本の価値観とは大きく異なっていきます。そのような剣道の動きが支那事変の経験で軍人から剣道は白兵戦に役に立たないといわれるようになり始め、軍隊では剣道が実際の役に立つような動きに改められ、一般でも剣道だけではなく居合や試し切り(刀を試すための古来の試し切りではなく斬ることを身につけるための試し切り)を身につけなければならないといわれるようになります。
古武道の流派が古武道として存在するためにはどうあらねばならないかがわかると思います。
- 2022/04/14(木) 21:25:00|
- 武道史
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澁川一流柔術の受はやられ役というわけではなく、捕を導く者なので正しく仕掛けていかなければなりません。そのためにはなぜそのような動作をするかということしっかり理解する必要があります。
履形の受の動きは中段への当身ではありません。まともにに指導を受けていない人は中段への当てなので手の甲を下にしてと想像して形を行っているようですが、当てではないのでそのような動きはしません。
込入は、ただ捕を押すのではありません。四留はなぜそのような動きをするのか、お教えしてある事を考えれば最適な動きが出てきます。受の動きがいい加減であると捕は形が求めている動きを身につけることができなくなりますので、受を務める方は理合をしっかり確認して稽古してください。
- 2022/04/15(金) 21:24:00|
- 柔術 業
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澁川一流柔術に構はありませんので特に問題はないのですが、大石神影流や無雙神傳英信流の太刀打などの稽古になると体を固めて構える傾向の方もおられます。
『五輪書』に「有搆無搆と云ハ太刀を搆と云事有べき事にあらず されども五方に置事あれバ搆ともなるべし」とありますが、 釼術は競技中心に発達した現代剣道とは異なり防具をつけての稽古以外は打突部位は限定されていません。したがって全方位に対処するためには構えてはなりませんし、ましてや特定の部位だけに対処するための構は自ら破滅を招いていることになります。ここが理解できなければ剣術の理解は難しくなってしまいます。
- 2022/04/16(土) 21:25:00|
- 剣術 業
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地図を渡して、その地図に基づいて遠方から携帯で、「その町に入るとすぐに警察署がある。」「そこから3ブロック進む。」「その角に銀行があるからそこを右」「5ブロック進んだら百貨店があるからそこを左。」「さらに2ブロック進む。」「さらに30メートル進んだらコンビニがあるから左手の路地に入る。」「路地に入って50メートル進んだら右手に目的地がある。」と指示するとします。全く同じ地図を持っていたら目的地にたどり着けます。しかし、導かれる方が自分はこの地図の方が好きといって異なった地図をみていたらどうなるでしょうか。
いくら正しく誘導しても異なる地図には目標となる建物もなく、路地もありません。そもそも異なった地図に3ブロックとか5ブロックといった整然とした街並みもないかもしれません。しかし、異なった地図を持って行った人は自分は正しく指示通りに動いているのに目的地にはたどり着けないと思うでしょう。
いくら懇切丁寧に指導しても上達しない、上達しないどころかかえって遠ざかる人はこのような状態です。見ているものが異なるのです。自分がその地図が好きなのでどうしようもありません。異なる価値観を持つ方を上達させるのは奇跡が起こらない限り不可能なのです。
そこを梅本先生は「同じ色でなければ」とか「思いが同じでなければ」と言っておられました。
- 2022/04/17(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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長船町の上田刀匠を訪ねてお話をお伺いしているときに師弟関係についてのお話がありました。
弟子にしてほしいと頼みに来た者があるときには必ず、「師匠が烏の頭が白いと言ったら、白いのだ。弟子が黒いということは出来ないということを話している。」と教えていただきました。武道もまたしかりです。
大切なのは修行中に会得もしていないのに自分の価値観で物事を判断するなということなのです。修行中に教えていることに対して弟子が勝手に自分の価値観を加えてしまえば、師に習うことにはなりません。中途半端な偽物に終わるのです。現代はここを勘違いする人が多く、個性だとか独自性と言います。まず会得してそれからのことです。修行は出来ないことができるようになるのを楽しめるものですが「我」を現そうとする人には「我」を抑えつけられる辛いもののようです。
- 2022/04/18(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日に続き、上田先生からお聞きしたお話です。「刀工の資格を取らせたもので、地元に帰って刀を作り続けない者があり、また師匠に自分の作品を見せに来ない者もいる。半分は破門にしました。」ということのようです。
師弟関係がわからないのは学校教育にもその一因があるのではないかと思います。「教えてもらうのが当たり前、より優しくより懇切丁寧に・・・。」広島県では一時期教員はサービス業という校長もいました。このような中で教育を受けていたから師弟関係がわからないのかもしれません。難しい問題です。
- 2022/04/19(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道の形稽古手数の稽古では相手とのつながりが大切です。手順を追うのではなく相手とのつながりの中で変化していくのです。初心の内はなかなか手順が覚えられないので、相手がこう動いたら自分はこう動く、その後さらにこう動くので自分は次にこう動きと形の手順を覚えますが、一度形の手順を体が覚えてしまえばそこから離れなければなりません。そのためには相手とつながっていなければならないのです。
来たれば即ち迎え、去れば即ち送り 対すれば即ち和す 五五の十 二八の十 一九の十 というところなのですが、この言葉をもってしても相手が進むのを事象ととらえ、来るのを見て迎え、去るのを見て送ってしまえば意味はありません。そこを間違えると武道の形・手数にはなりません。相手とつながっていますので自ずからそのようになっていきます。
- 2022/04/20(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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いくら良いものを見分して経験しても、ダメなものを見てダメなものの中に身を置いていればダメなものに引っ張られます。どうにもならない真実のようです。
できれば良いものばかりを見てダメなものからは身を遠くに置くことが理想です。頭でわかっているつもりでも体はダメな方に魅かれていきます。口先では良いことが言えても、行っているのはダメなことです。ダメなものの方が魅力的に見えたり影響力が大きいのかもしれません。武道だけでなくすべてのことに通じるのではないかと思っています。
- 2022/04/21(木) 21:29:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館では無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流の3つの流派を稽古していますが、特別な苦労はなく3つの流派を習得できます。それは3つの流派がすべて汎用的な体の用い方をするからです。
具体的に言うと、居合も柔術も剣術も手の内は共通しています。鼠径部の緩みも共通しており、目附も共通、異なる所があるのかと思うくらい共通したつかい方をしているのです。
競技として特化した武道はそれぞれの競技に最適化した使い方をしますので、競技武道にも共通したところはあるかもしれませんが、差が大きく一つのものとして稽古するのは大きな困難があります。古武道と一緒に稽古したときには、いずれかがいずれかに引き寄せられてしまうと思います。それほどに競技化した武道は個々に特化しています。現代武道ではよほど才能に恵まれた人でなければ江戸時代の武士のように多くの人が剣術も居合も柔術も槍術・なぎなたも一通りは使えるというようにはなりません。
もし貫汪館で稽古される方がいずれかの流派を難しいと感じるとしたら、稽古量が足りないか、偏ったつかいい方になっています。
- 2022/04/22(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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何度も同じことを指導しても昔習ったことが身から離れないのと、稽古で昔習った似たような形の動きをしてしまうのは別の問題です。後者は心が流派に入っていないからおこることです。つまり入門さえしていないということになります。
これまでの経験があるから新たなことを習うのは難しくはないだろう。これまでやってきたことと同じようなものだろう。知識が豊富になるだけだという自分自身に対する甘い考えが自分を入門さえさせていないことになります。何年たっても入門さえしていないのですからその道において上達することができないのです。
- 2022/04/23(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術に構はありませんので特に問題はないのですが、大石神影流や無雙神傳英信流の太刀打などの稽古になると体を固めて構える傾向の方もおられます。
釼術は競技中心に発達した現代剣道とは異なり防具をつけての試合中心の武道でもなければ、打突部位も限定されていません。したがって全方位に対処するためには構えてはなりませんし、ましてや特定の部位だけに対処するための構は自ら破滅を招いていることになります。ここが理解できなければ剣術の理解は難しくなってしまいます。
- 2022/04/24(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大きな演武會に行くと様々な流派を学ぶ人々が来ておられ、様々に学ぶべきことがあります。
ある流派の方はその流派の中で演武する人たちの中でも稽古年数は長いのに、見られていないところで自流派の人たちの履物をそろえておられました。そのようなところを貫汪館で学ぶ人たちは見ているでしょうか。
ある流派の方は道をさりげなくあけてくださいます。近くになったときにそうされるのではなく、かなり離れたところからそのような行動をとられます。さりげなくです。気づかれている人はいるでしょうか。
演武する方全員が歩かれているとき、しっかりした流派では歩くときのそれぞれの位置が自然に定まっています(師匠や兄弟子をたてるという意味です)。そこまで見ておられますでしょうか。
形はそれぞれの流派で異なっています。学ぶべきは演武会場の外での態度です。そこに気付く人は技も伸び、気付けない人は技が伸びることもありません。
- 2022/04/25(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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稽古をされる人たちの中にはいろいろな方がおられます。無雙神傳英信流の弟子の中では私がいつまでたっても年齢が下の状態が続きました。梅本先生には高校生で入門させていただいたのですが、入門する人には30代や40代、50代の人が多く若い人が入ってこなかったのです。そのうちそれほどの数もいなかった兄弟子たちも一人去り二人去りで、私は古い門人になりました。それでも私は若い方です。若いといっても弟子であった期間は長いのですが、年長者を立てて稽古してきました。たとえ私との経験年数が10年や20年違っても年齢が上の人を立てるのが当然であり、学ぶこともあると思っていたからです。年長者を上座に、道場を出るときには最後に忘れ物などがないか確認して、集合写真を撮るときには自分は端のほうに、気を付けることは色々ありました。
しかし、それとは反対に経験年数が浅いのに年齢が上だというだけで自分のほうが先輩だという態度をとる人もかなりいました。人間性の問題だと思います。自分がどのように動いているかを考えてください。
- 2022/04/26(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流の技が身についているかどうかを自分自身で確認するには抜付けのときの左手首を確かめるのが簡単です。
抜付けのときのいわゆる鞘引き(一般に行われている鞘引きとは異なります。上田平太郎先生は「鞘を後へ十分引込め」と記されており、一般に行われるように小尻を振りません)のとき、自分の左手首が折れているかどうかを確認してください。無雙神傳英信流でのこの時の手首は折れてはいけません。鞘を握りしめるから手首が折れます。正しく動けば前腕の内側と手のひら側とは平になります。これができなければ四六時中刀を持っていないときにも稽古してください。ヒントは握らないことです。
できていないうちは自分はまだ初心者だと思い稽古を重ねてください。「強く」とか「しっかり」という思いがあったり見栄えを考えていれば手首は折れます。
- 2022/04/27(水) 21:25:00|
- 居合 業
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自分では礼を重んじたつもりがかえって無礼になることがあります。
極端な例を挙げます。ある演武會でお世話になっている流派の先生をお見かけしたとします。挨拶しなければと思い、その先生の前に行き「元気だったか。」と言ったとしたらどうでしょう。挨拶するという動作はしていますがその内容はかえって無礼です。
ある先生にお世話になっっており御歳暮を贈ろうとします。広島は牡蠣が名産だから牡蠣を贈ろうと思い、スーパーで買った牡蠣を一粒だけ冷蔵便で送ります。お歳暮を贈ろうと思ったことは良しとしても行っていることは無礼です。
このように極端な例を挙げるとお分かりになると思いますが、自分が行っていることでこれほどまでではないものの近いことをしている可能性もあります。気を付けなければなりません。
- 2022/04/28(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館で稽古している無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流の3つの流派の上達速度は男性に比べて女性の方が速い傾向があります。
いくつかの要因があるように思いますが、男性は力で何とかなると意識的にも無意識にも思い、技を身につけようとするのではなく筋力で何とかしようと思うのに対して女性は筋力が少ないので指導されたとおりに稽古し、指導されたことが体で理解しやすいことが挙げられると思います。つまり男性が上達しようと思えば筋力に頼らない稽古をしなければなりません。指導を受けたように行って、それが正しく効果的だという体験を積むことです。しかし、男性の中のある程度の割合の方が筋肉を力いっぱい使うことや筋肉を緊張させることに達成感を覚える人がいますので、このような方はまず心の面から入れ替える必要があります。
また女性は男性に比べ指導されたことへの集中力があるようにも感じます。男性はなぜか同じことを繰り返すうちに会得していないのに自分の考えを加え始め寄り道をするのですが、女性は目標に対してまっすぐに稽古をする傾向が強いように思います。稽古に対して素直なのです。常々言うように素直さは上達するための大きな資質となりますので、それだけで速やかな上達が期待できます。
又表現が難しいのですが、男性には時々体がふにゃふにゃで芯がない人がいるのですが、女性でそのような人を見たことはありません。体がふにゃふにゃで芯がない人は体を用いて仕事をしたことがあまりないのかと思いますが、そういう意味では女性の方が中心から体の端まで意識が通っている人が多いのかもしれません。
他にも多くの違いがあるように思います。女性の上達の速さを観察して、どうしているのかを見つけることができれば男性もそれに見習い速やかな上達をすることができます。
- 2022/04/29(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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よく言われることですが「他人を変えることは出来ない」というのは武道の指導においても当てはまります。
指導者がいくら上達させようと手を変え品を変え万策尽きるまで指導しても上達しない人がいます。ここで無理やりにでも何とかしたいと思っても無駄な努力に終わってしまい疲れ果てるだけです。なぜなら本人が変わりたくないからなのです。
口先では上達したいと言ったとしても、教えられたことを全て暗記したとしても、また流派で教えられていることは素晴らしいと言ったとしても、本人が変わりたくないものを変えることは出来ません。指導者はその人がほかの人と同じ年数稽古しているから、ほかの人よりも長く稽古しているからと思って何とかしようと思うのですが、本人が心の奥底から変わりたいと思わなければ変わることも上達もできないのです。
本人が変わりたいと思う時が来るのを待つしかありません。
- 2022/04/30(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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