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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

畝先生の想い出 調査

 畝先生は写真をよく撮られましたが、澁川一流の歴史を記録に残すために澁川一流の古い伝書や史跡なども写真に撮っておられました。江戸時代の伝書の写真や昔の師範の写真、戦後に行われた岡山での古武道演武大会の写真、畝先生が先生の師匠の法事を取り仕切られたときの写真などをよく見せていただきました。
 そのような資料の一つの流祖の首藤蔵之進とされる肖像も40年以上前に蔵之進の子孫の家の一つの仏間にあったものを先生が写真に撮られたものです。榊原健吉の肖像をもとに書き換えられたもののようですが、当時はまだ蔵之進を見たことがある方が御高齢で生きておられたので面影を想い出されて似たように書き換えられたのでしょう。先生は松山在住の首藤蔵之進の子孫が親子で先生を尋ねられた時にそのご子孫の顔が首藤蔵之進の肖像とされているものの顔によく似ているのに驚いておられました。私も同席していたのですが、本当によく似たお顔でした。

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  1. 2020/05/01(金) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

畝先生の想い出 怪我をさせない稽古

 畝先生の弟子の一人に、かなり乱暴な稽古をする方がおられたようです。本来、他武道の人であるようですが、その武道では自分の弟子に対して乱暴な稽古をすることがなされていたのでしょうか・・・。
 先生は半年ほど指導されたようですが、その人は自分で伝書を書かれたようです。その人が自分で教え始め、稽古で自分の弟子の肘を折ったり、鎖鎌の稽古で鉄の分銅を使い弟子の頭に打ち当てて救急車で運ばれたりしたことを話され、絶対にそのようなことはしてはならないと悲しそうにお話してくださったことがあります。
 先生に指導を受けるときは先生の技は私の肘の関節を取られても、手首を取られても、山に乗られたように身動きできないと感じることはあっても、痛みを感じるようなことはありませんでした。いつもその手前で動きを止められていたように思います。

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  1. 2020/05/02(土) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

畝先生の想い出 人を軽んじない

 畝先生の弟子の一人に「武道で初段二段の者などは相手にするに足りない。相手にできるのは五段以上の人間だけだ。」といっていた方があったようです。もともと他との勝ち負けを決め、勝つことを価値あることとする武道をされていた方のようでした。先生は非常に悲しいこととして話してくださいました。
 人を軽んじることは人の行いではない。武道の段位などというものは人の価値を決めるものではない。人にはそれぞれに尊いものがある。とお話しくださいました。
 先生はどんな人をも持軽んじられることはなく大切にされる方でした。

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  1. 2020/05/03(日) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

畝先生の想い出 試合

 畝先生の師匠である車地国松先生の道場では意治稽古はされても他流派との試合はされていませんでした。また大日本武徳会に所属されることもありませんでした。そのおかげで澁川一流が古武道として存続してこれたといえるかもしれません。もし大日本武徳会に加盟し乱取中心の稽古をしていたら、広島の他流派である渋川流や司箭流、真貫流などのように流派の実態はなくなってしまったでしょう。
 さて、話を元に戻します。畝先生の道場ではなく他の澁川一流の道場には戦前に他流派と大日本武徳会式の試合をする人がいたようですが、ある試合のときに、その他道場の澁川一流の人が寝技で故意に試合相手の肋骨を折ったことがあるのだそうです。それを聞かれた真貫流の新見亀太郎先生が畝先生の師匠の車地国松先生のところに来られ、「そのようなことはしてはならない。」と話され、車地国松先生は私の道場では試合を許していないと話されると誤解は解けたようです。
 畝先生は他者を傷つけるということは絶対にすべきことではないと話されました。澁川一流の礼式が相手を傷つけずに追い返すという理念を表しているのと同じ考えを畝先生は持っておられました。

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  1. 2020/05/04(月) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

畝先生の想い出 活かし 

 畝先生は澁川一流の活かしが有効であった話として実際に先生が用いられた時の話をしてくださいました。
 「池によその子供がおぼれたときにその親があわてて私を呼びに来られ、急いで駆けつけて澁川一流の活かしを用いて、子供が息を吹き返したことがあります。何かあったときには役に立つかもしれません。昔は活かしは秘であったので活かしをかけるときには相手の体の上に布を当てて活かすということもありました。」

 活かしの細部は伝授のときにお話ししますが、ある活かしを用いれば「キュー」と息をして生き返ることがあるともお話しくださいました。私は実際に用いたことはありません。今は何かあった時、自分と無関係な人であればAEDや救急救命士に任せた方がよいかと思います。

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  1. 2020/05/05(火) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

畝先生の想い出 活かし2

 畝先生は戦前にトラックの運転免許を持っておられましたので運転手として叔父さんの運送会社を手伝っておられ、徴兵前には軍属として中国大陸で運転しておられました。そのまま徴兵され中国大陸で陸軍の軍人となられたとお話しくださいました。そんな戦場でのお話です。
 「戦闘が終わった時に中国兵がおぼれていた。すぐに活かしをかけたら息を吹き返したことがある。中国兵からたいそう感謝されました。」

 先生は敵味方ではあっても、命を救えるものは救いたいという思いを持っておられたのだと思います。

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  1. 2020/05/06(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

畝先生の想い出 日本古武道協会

 ずいぶん前のことですが、澁川一流も日本古武道協会に加盟させていただき、保存振興の手段の一つにしようと考え、当時の事務局長の花輪先生にお話をお伺いしました。その時に花輪先生から「とりあえず地元の流派ということで宮島で演武してみてください。」とお話しいただきました。
 花輪先生からそのようにお話しいただいてから、しばらくたって宮島の演武会のご案内が届き、日本古武道協会の会員ではないにもかかわらず、その後二回ほど澁川一流として宮島で演武をさせていただきました。たまたま東京に出張に行ったときに花輪先生にご挨拶しようと日本武道館にお伺いした際、花輪先生から「森本さんを代表として日本古武道協会に加盟してください。」とお話しがありました。私はその場で「広島には私の師匠もまだお元気でおられ、他の系統のご高齢の方もおられますので」と私が代表となることをおことわりしました。花輪先生は不思議な顔をされて「あなた適任者だと思うので考えておいてください。」とお話しくださいました。
 広島に帰り畝先生の元に行き、お断りしてきたことをお話しすると、先生は「私はもう高齢でそのような立場はよいので。森本先生がぜひ引き受けてください。先生が私の後継者なのだから。先生が澁川一流を後世に残していかなければなりません」とおっしゃいました。(畝先生は私を森本先生と呼ばれていたのは以前お話しした通りです。)
 畝先生の想い出は次の機会に。

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  1. 2020/05/07(木) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

強い、弱い

 貫汪館で稽古している方の中には初心者の方もおられ日本文化に疎い海外の方もおられますので、すでに述べてきていることではありますが、何回かにわたり心にとどめておかなければならないことを記していきます。

 貫汪館で稽古される方は強い、弱いの議論には意味がないと考えてください。素手と素手ならどちらが強いとか刀と刀とならどちらが強いとか、槍なら強いとか・・・。あくまで限定条件を付けたうえでのことでしかありません。私たちが稽古しているのは競技ではありませんので、そんなことに心を捕らわれている時間があるならば稽古してください。

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  1. 2020/05/08(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

他流派と比べない

 他流派と比べて自流派は、と技について述べることは避けなければなりません。
 他流派の本当のところは、その流派を最後まで稽古しなければわからないことで、また現在その流派を演武している人がその流派を最高のレベルまで体現しているかどうかもわからないところです。さらに言えば公開の演武では本当のところを秘していることさえ考えられます。
 他流派との優劣を述べれば必ず諍いが生じ、それは修行の目的からは真反対のことです。
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  1. 2020/05/09(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

理屈

 修行半ばで理屈をいろいろ述べるようになると、必ず上達から遠ざかっていきます。自分自身が自分が考えたことに居ついてしまうのです。また、その自分が考えたことも、そのレベルで考え出した中途半端なものでしかないのです。
 できるようになってから「ああ、こういうことだったのか。」とわかるのが理論です。それまでは下手な理屈をこねずただ修行するばかりです。

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  1. 2020/05/10(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

よく見せたいという思い

 人によく見られたい、よく見せたいという思いがあるうちは真の上達はしません。そういう思いがあると必ず外形を作るために不必要なところに力を入れメリハリのある動き、カクカクした動き、不必要に素早い動きをしようとして体にいらない力を入れてしまいます。
 無理無駄のない動きは見えにくいものです。また簡単にみられるようではならないものです。見せようという思いやよく見られたいという思いがあれば上達からは遠ざかっていきます。
 子供たちは純粋に上手になりたいと思って稽古します。まっすぐに上達していきます。

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  1. 2020/05/11(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

プライド

 下手なプライドがある方は上達できません。昨日述べたこととも共通しますが、自分の至らぬところを指摘され自分自身で正していくのが修行の在り方ですが、下手なプライドがある方は自分がいつも正しいと思っているので至らぬところを指摘されても、それを自分が批判されたと受け取り挙句の果てには先生が間違っていると考えるのです。「自分はこれでいい。」とか「自分のやり方はこうだ。」と考えてしまうのがその表れです。
 下手なプライドがあれば、至らぬところ、間違っているところを他者が正すことはできませんし、流派の稽古を通じて上達することもありません。

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  1. 2020/05/12(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

辻真平

 辻真平は小城藩(佐賀県小城市)出身で剣道形制定の5名の主査のうちの一人です。父の永田右源次より心形刀流の指導を受け免許皆伝となっています。永田右源次がどこで心形刀流の免許を受けたかはまだわかりません。
 辻真平は12歳から19歳まで藩校興譲館の相門引立方を命じられたということですので、小さいころから父親にしっかり稽古をつけられていたことがわかります。
 父の永田右源次の心形刀流の記録はかなり明治維新に近くなってから廻国修行の英名録に出てきます。小城藩では最後に取り入れられた流派であろうと思います。一昨年末に小城市で小城藩の古武道についてお話ししたときには気づきませんでしたが、永田右源次はもともと大石神影流を稽古していた人物であったことを見逃していました。斎藤新太郎の嘉永二年(1849)の廻国修行の英名録には小城藩の大石神影流の江副兵部左衛門の門人としてその名が記されていますので、そのころ心形刀流も稽古していたのかもしれませんが、名乗れるほどではなかったのだと思います。
 辻真平の父である永田右源次は大石神影流の防具着用の剣術でその基礎を練ったことになります。したがって辻真平の防具着用の稽古の基礎は大石神影流にあったと考えることができます。
 大石進種次は江戸で心形刀流の伊庭軍兵衛と親交があり、九州では大石神影流を学びまた心形刀流を兼ねて学ぶ武士がありましたので永田右源次は江戸に行くことなく近くの藩で心形刀流を学んだ可能性もあります。
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  1. 2020/05/13(水) 21:25:00|
  2. 武道史

できるのがあたりまえ

 私が教わった古武道の世界はできるのが当たり前の世界です。できたからと言って褒められることでもありませんし。素晴らしいことでもありません。できなければならないのです。
 今の時代はほめて伸ばすということが言われ、若い人や外国人の人はほめられなければ稽古をする気が起きないような人もいるようですが、それは心得違いです。武道の世界では自分が至らぬところを斬られてしまいます。したがって至らぬところを指摘していただいているのは熱心に導いていただいているということなのです。 修行は自分が自分を律していかなければならず、自分の至らぬところを自分自身で正していかなければならぬものです。師は自分が気付けないところを指摘してくださいます。それは大変ありがたいことなのです。
 
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  1. 2020/05/14(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自己中心的な行為

 欧米ではヨガや瞑想を行うことによってかえって自己中心的になる人が増えているという研究があるようです。呼吸、身体や精神活動に焦点を当てた集中は自己本位な行動として特徴づけられるというのです。
 それはそれらの活動をする目的が自己を増強することつまり健康や精神的超越にあるためで、本来の無我の境地を目指すものとは異なっていることによるらしいのです。同じことをしていても目的が異なれば結果は異なってくるのでしょう。
 武道も全く同じだと思います。人に勝ることばかりを追求すれば古武道にどんな肩書を持っていても、また〇道八段といっても自己中心的で醜い人もあり、一方、同じように免許皆伝や〇道八段にも素晴らしい人がいるのは稽古の目的の違いによるのだと思います。
 稽古を重ねることで自分がますます強くなっていくと感じる稽古ではなく、稽古をすればするほど自分の至らぬところが見えてくるような稽古を心がけてください。
 
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  1. 2020/05/15(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

悪癖

 大石神影流の手数の稽古で、仕太刀の最後の動きだけがどうしても脚を突っ張って腰が高くなる癖の人がいました。途中の打突の動きはそのようなことが起こらないのです。
 原因は以前稽古していた現代武道の形稽古の最後のきめに合ったようです。形稽古が華としての存在であるだけの武道であればそれでよいのですが、形稽古を通じて上達するためにはいわゆる「きめ」という固まった状態を作ることはできません。考え方を正していくことでいわゆる「きめ」の悪癖はなくなっていくようです。

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  1. 2020/05/16(土) 21:25:00|
  2. 剣術 業

朱に交まじわれば赤くなる

 武道の世界は、特に古武道の世界は自己顕示欲の塊のような人も多く、そういう傾向を持った人が短期的に稽古に来ることもあります。そういった人は自分は他と違うということを言いたくて、さかんに奇抜な人目を引くような情報発信をします。情報発信の意図がそこにあるのでそういう方と交わっていると自分もそのような傾向の人間になっていきます。とかく注目を浴びるような人と違う言動を始めてしまうのです。
 注意してください。

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  1. 2020/05/17(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

防具着用稽古

 大石神影流では稽古方法の一つとして防具を着用した稽古をしますので、各支部でも手数の稽古が進んで流派の動きを身につけた方は支部長の判断をあおぎ防具を購入してください。
 防具を着用する稽古は勝敗を決めるためではなくあくまでも手数の稽古の延長ですのでことさらに防具を着用した稽古を意識して抵抗を感じる必要はありません。打ち込まれたらなぜ撃ち込まれたのか、手数の稽古は正しくできているのかということを考え、打ち込めても、今のは勝負を争おうとして打ち込んでいなかったか、大石神影流の理に照らして正しい動きであったかを顧みなければなりません。防具は高価なものを購入する必要は全くありません。身を守ることができればよいので手軽な値段のもので大丈夫です。
 現代剣道と大石神影流の防具着用稽古のもっも大きな差は現代剣道は打突の後に前に進みますが大石神影流の防具着用稽古では手数の稽古と同じで打突後に前に進むことはありません。打突後には可能な限り切先は相手の面につけます。
 以前も述べたことがありますが打突後に前に進む動きは長尾先生のご研究で明らかなように大正末年ころから出始めた動きです。その頃を境として現代剣道の動きが生まれています。したがって、いくら古い様式の稽古をしているといっても現代剣道式に打突後に前方へつぎ足などで進む動きをするのは???ですので、特に現代剣道の経験がある方は気を付けて稽古してください。
 
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  1. 2020/05/18(月) 21:25:00|
  2. 剣術 業

長刀

 大石神影流の長刀はおそらくは大島流に由来します。大石進種次の末の子の大石雪江・板井真澄の弟子であり久留米で大石神影流を教えた福原作十郎は薙刀の流派を作り女学校で教えたということですが資料を発見できません。久留米は空襲になっていますので残っていないのかもしれません。また福原作十郎は懐剣の形もこしらえたということですので、これも女学校などで教えたのかもしれません。資料を見てみたいものです。
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  1. 2020/05/19(火) 21:25:00|
  2. 武道史

揚心流薙刀

 昨日,、大石神影流にまつわる長刀の話をしましたが、柳河藩のとなりの久留米藩の揚心流薙刀は加藤田平八郎が上妻郡の祈祷院に隠棲していた元熊本藩士の星野平左衛門に習って久留米で教えたものです。加藤田平八郎の門人帳を見ると女性が稽古をしている人たちの大多数を占めます。加藤田平八郎の子の加藤田大介も薙刀を教えたようです。
 柳川でも揚心流薙刀が教えられていたようですが、これも星野平左衛門の流れです。江戸時代の揚心流の資料は見つからず、柳河藩に揚心流を伝えたであろう人物の名も柳河藩士の中にはみあたりません。明治時代になってからの資料では女性ばかりが稽古しています。

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  1. 2020/05/20(水) 21:25:00|
  2. 武道史

鹿島藩並木軍八

 大石神影流の鹿島藩の師範について簡単に記します。
 佐賀藩の支藩である鹿島藩の大石神影流の師範は並木軍八です。並木は『鍋島直彬公伝』によると文久元年に武術熟達の褒賞を受けており、『藤津郡人物小志』によると発句に優れ、小鳥の飼育に妙を得ていたといいます。孫の幾哉は維新後に裁判官を務め、判事として小倉や北海道で勤務し盛岡で弁護士をしたようです。大石神影流の資料は鹿島にはなく森岡に眠っているかもしれません。
 鹿島藩の剣術はいくつかの時期を経て最終的に家流(藩主の流派)に統一されますが、大石神影流は最後まで残り家流と大石神影流の並立となった後、慶応3年に家流に統一されます。ただし、大石神影流は革張りの胴、鉄の最新式の面、竹刀も最新式の竹刀、家流は大石神影流以前に行われていた旧来の流派の袋撓、小手も薄い革嚢であったため、防具着用の稽古では二通りの道具を用いていたようです。直心影流もすでに入っていて家流に統一されていますので、旧来の直心影流の防具は大石神影流のものと比べるとやはり時代遅れのものだったのでしょう。
 大石進の防具は基本的に大島流槍術で用いられたものを改良したものと考えられますので丈夫であったのだと思います。

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  1. 2020/05/21(木) 21:25:00|
  2. 武道史

高鍋藩 石井寿吉・柿原篤次郎

 高鍋藩に大石神影流を持ち込んだのは石井寿吉と柿原篤次郎です。二人は『宮崎県史料』によると藩費で丸2年の予定で嘉永3年に柳川藩に留学して大石神影流の免許皆伝となりました。『高鍋町史』によると高鍋藩では大石神影流の前には雲弘流、心影流、示現流、淵水流が行われたようです。のちに津田一伝流も導入され、元治2年には藩の流派は大石神影流と津田一伝流の2流派となっています。ただし足軽の間には大示現流という流派も行われていたようです。
 『高鍋藩史話』によると石井寿吉は維新時奥羽に出兵し、その帰りに大聖寺藩で藩士の要望で剣術の試合をし、藩主から酒魚を賜ったということです。
 槍術も嘉永の初めごろに柳河藩の大島流の加藤善右衛門に学んだものが高鍋藩に大島流をもたらしています。
  
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  1. 2020/05/22(金) 21:25:00|
  2. 武道史

多度津藩 稲田誠治

 多度津藩で大石神影流の師範をしたのは稲田誠治です。多度津は小さな町で、稲田姓が二件あるものの稲田誠司とはかかわりがない他地域から転居された方でしたので、稲田に関する原史料はみつかっていません。
 多度津町教育委員会に問い合わせをしたところ詳細に調べてくださり、稲田誠司はたしかに大石神影流の師範をしており柳河の大石進のもとに修行に行ったほかにも、熊本にも廻国修行に出ているようです。小城藩の大石神影流江副七兵衛も訪ねています。
http://kanoukan.blog78.fc2.com/blog-entry-4238.html
 多度津藩は剣術では一刀流、柔術では竹内流も行われ、中上流の鎖鎌も行われていたようです。

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  1. 2020/05/23(土) 21:25:00|
  2. 武道史

結ぶ

 大石神影流の「張る」動きの前には「受ける」動きがあります。この動きは単に受け止めるではなく打太刀と「結ぶ」動きです。「結ぶ」ということを深く追及してください。
 結ぶゆえに張ることができます。

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  1. 2020/05/24(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

手順をおわない

 演武会では手順を間違えまいとして形にとらわれた演武をする方が多いように思います。しかももう何年も稽古しているにもかかわらず、そのような方がおられます。常々言っているように形は間違えてもかまいませんが貫汪館で稽古している流派の根幹をわすれて手順の見間違えずに行っても、それは無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流ではありません。真似事にすぎず真似事であれば貫汪館で稽古する必要はありません。
 大切なことは何かをよく考えて稽古してください。
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  1. 2020/05/25(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

阳剣

阳剣は打太刀の動くのを感じて斬り込むのではありません。正面に斬り込むべくして斬り込みます。表面上は打太刀の動きを感じて斬りこむのですが、深い稽古においては斬り込むべくして斬り込むようになります。打太刀に近づく前から、打太刀がどのように動こうと斬り込んでいます。
 工夫してください。

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  1. 2020/05/26(火) 21:21:00|
  2. 剣術 業

手の内

 澁川一流の師 畝茂實先生には稽古をつけていただくときに技をかけていただいたので、先生の手の内は私の体が良く覚えています。また、無雙神傳英信流の師 梅本三男先生には手の内を教えていただくときに私の前腕を柄と仮定して持っていただいたのでその手の内も体が覚えています。お二人の手の内ともにお二人の内部からその手の内を通じて私に何か暖かいものが流れてくる手の内でした。体という重いものを扱うのと、刀という体に比べて軽いものを扱うということの差はありながら同質の手の内であったのだと思います。

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  1. 2020/05/27(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

語らない

 「ああだ、こうだという時間があれば稽古をしなさい。」口から何でもかんでも思いついたことを軽く出してしまうから、深く求めることができなくなってしまいます。
これは、語らずにはすまないタイプの一部の西洋の人たちに言わねばならないことですが、最近の日本人にもこういう方が増えてきていると思います。梅本先生は禁言の行ということにも言及されていました。

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  1. 2020/05/28(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

言わない

 昨日のことにもつながりますが、流派のことを、昔のことでも、最近の出来事でも流派の外の人間にあれこれと言わない。しったかぶりをしない。
 貫汪館の門人が話せば、話した人間の理解不足や誤解や聞き間違いで,正しくないことであったとしても貫汪館以外の人には、真実であるかのように受け取られます。一度口から外に出たことは取り返しがつきません。

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  1. 2020/05/29(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師弟

 宮本武蔵の『五輪書』に「師は針、弟子は糸となつて、 たへず稽古有べき事也」とありますが、まさしくそのような状態でなければ、流派を会得しようとしたときには不可能であると思います。
 私自身は私が師事した先生に教えを請おうと決めて入門したわけですので、当然のことですが、教えていただけることが喜びでした。したがって「先生はこういうけれど、自分はこう考える」などということは思ったこともなく、先生に指導を受けたことができるようになるまで求め続けました。
 しかし、そうでもない方もおられます。正しくできれば楽に行えるにもかかわらず「このほうが自分には楽だからこうしよう」、体の力みが阻害しているにもかかわらず「体が硬いのでできるはずはない」、極端な例は膝に故障があるわけでもないのに「正座は直接技に関係ないから、あしが痛くなる正座はしたくない」などと考えられるのです。私には思いもよらないことでした。時間つぶしの趣味で稽古しておられるならそれで良いのかもしれませんが、真摯に稽古している方と、そのような方が混在する場合、真摯に稽古している方を優先して指導しています。

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  1. 2020/05/30(土) 21:25:00|
  2. 武道史

少心のゆがみにつゐて、 後にハ大にゆがむもの

 これも『五輪書』の宮本武蔵の言葉ですが前を少し記すと「日々に其道を勤と云とも、心の背けば、 其身ハ能道とおもふとも、直なる所よりみれば、 実の道にハあらず。 実の道を極めざれバ、少心のゆがみにつゐて、 後にハ大にゆがむもの也。」となります。
 自分では稽古しているつもりでも心がその道から離れていれば正しいと思っていてもやがては大きなゆがみを生じるということになるでしょうか。窪田清音も同じニュアンスのことを言っていますが『五輪書』を読んでいたのかもしれません。
 大切なのは少しのずれがやがては大きなずれとなっていくということで、こうなってしまってはいくら稽古してもその甲斐はありません。
 我意を挟まず正しく稽古を重ねてください。

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  1. 2020/05/31(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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プロフィール

貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができないので貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。よろしくお願いします。

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