謹賀新年 明けましておめでとうございます。今年はどのような年になるでしょうか。武道ではこのような年にするという決意がなければなるようにはなりません。自分の思いが実現する年となるように具体的なイメージをもってください。
桂浜の夜明けです。
- 2024/01/01(月) 07:30:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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年の初めに上達のためのヒントを記しておきます。
初心者の方は
1.自分の考えを入れず、教えられたことをそのまま受け取り素直に稽古する。
2.わからないことは質問する。自分で勝手に答えを出して自分の考えに基づいて稽古しない。
中級者は
1.教えられたことは必ず会得する。いつか身につくだろうと思っていたら永遠に身につきません。
2.自分で考えだしたことは「下手な考え休むに似たり」どころか、下手になる原因だと自覚し流派の教えに従う。
3.自分の置かれた立場を自覚し稽古する。
当たり前のことを書きましたが当たり前のことができないので上達できません。自分に甘い人が上達できるのなら世の中達人だらけになります。古武道は今ある自分に打ち克つことによってのみ上達します。
- 2024/01/01(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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上達するためには短期的、長期的な目標の設定が必要です。数か月単位で身につけようとするのか、まtら1年、2年単位で身につけるのかということを決めなければならないのです。
具体的には指導された箇所を正して身につけるということです。「手の内」を正すように言われているのに、ただ漫然と稽古していては直るはずがありません。自分で上達したと感じるのは動きに手慣れただけのことです。「鼠径部を緩める」ように指導されているのにつっ立ったままで形・手数に手慣れたとしても何の価値もありません。本気で正そうとしたときにはこれまで身につけたと思っていたことがかえって邪魔になります。
自分が何をしなければならないのかはっきりとした目標をもち稽古してください。
- 2024/01/02(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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Ⅰ はじめに
今回の研究に用いる廻国修業の英名録 は愛知淑徳大学矢野教授のご好意で電子データをいただいたものである。
英名録の多くは廻国する者が師事した師範名が記されているが本英名録には師範名は記されていない。英名録の冒頭に「柳藩 新陰流 田中健之助徳儀」と記されているので田中健之助は柳河藩士であると推定できるが、文久元年のものとさえれる「侍帳」 、「文久年間頃惣侍分限帳」 、文久3年ころのものとされる「列並所役人帳」 、元治元年ころのものとされる「元治元年四月分限帳」 、明治32年の作成と考えられる「文久・慶応・明治 家中変遷」 にも田中健之助の名前はない。
英名録に記されているのは限定された地域での廻国ではあるが明治3年(1870)の廻国について記されており、明治2年の版籍奉還の後であることから時代背景を考察することができる貴重な資料である。
本研究では田中健之助が明治3年に廻国した藩における剣術がどのような状況にあったのかを考察する。
- 2024/01/03(水) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅱ 柳川藩の幕末期の剣術流派
柳河藩の剣術流派を他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
弘化4年(1847)10月に柳河藩で試合した長州藩の渡部直八の『諸国剣道芳名禄』には大石神影流、家川念流、新陰流の3流派のみが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
嘉永2年(1849)閏4月に柳河藩を訪れた神道無念流斎藤新太郎の廻国修行の英名録『脩行中諸藩芳名録』によれば柳河藩の幕末の剣術流派には大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流があった。新陰流の師範は田尻藤太と加藤善右衛門で相師範である 。
大石進種次のもとに遊学した高鍋藩の石井寿吉の英名録には嘉永3年4月(1850)に大石神影流と試合し、嘉永4(1851)年6月に家川念流、電撃抜討流、新陰流と、嘉永5年(1852)5月に家川念流、新陰流と試合したことが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
大石進種次の土佐藩門人である樋口真吉は4回大石進のもとに赴いているが、4回目は嘉永5年(1852)、江戸の剣術家でのちに土佐藩士となる石山孫六とともに九州から江戸へ廻国修業する途中に立ち寄っている 。この時の廻国の試合相手の流派と名前は『諸兵家尊名鈔巻四』に記されている。柳河藩では家川念流、抜討流(電撃抜討流)、神影流
(ママ)(註:師範が田尻籐太であるので大石神影流ではなく新陰流)、匹田流(疋田豊五郎流)、家川念流と試合した。神影流の師範は田尻籐太のみが記されている 。
万延元年(1860)11月に廻国修行で柳河藩を訪れた土佐藩の武市半平太の『劔家英名録』には、家川念流、抜討流、新影流、大石神影流の4流派が記されている。新影流の師範は加藤善右衛門のみが記されている 。
以上からみるに柳河藩では大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流(神影流)の5流派が廻国修行者を引き受けている流派であり、他に廻国修行者を引き受けていない剣術流派があった可能性も残るが柳河藩が他流試合に積極的であったことを考えるとこの当時柳河藩の剣術流派は5流派のみが存在したと考えてもよいと思われる。
- 2024/01/04(木) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅲ 柳河藩の新陰流と加藤善右衛門について
1. 新陰流
柳河藩に新陰流とよばれる流派をもたらしたのは岡藩浪人で柳河藩槍剣師範となった村上傳次左衛門である。
村上傳次左衛門の略歴はその墓誌に記されている。現在墓石は地下に埋められて確認することはできないが、『剣士松崎浪四郎傳』に墓誌の漢文を書き下して載せられている。墓誌は以下の通り。
翁姓ハ源、名ハ長寛、伝次左エ門ト称シ、私カニ練乗院一道無三居士ト謚ス。豊後ノ人ナリ。世々竹田候ニ仕エ、世々勇悍ニシテ武略アリ。亦剣ヲ善クシ、最モ槍法ニ妙ナリ。宝暦中故有ツテ国ヲ去リ、諸州ヲ経歴シ、跋ミテ艱難ヲ嘗ム。其ノ習ウ所ヲ試ミ、遠トシテ到ラザル無シ。後ニ後筑(筑後ノコト)ノ北𨛗ニ至リ、子弟ヲ集メテ而シテ之ヲ誘導シ、駸々トシテ日夜倦マズ。声竟ニ肥筑ノ間ニ籍々タリ。是ニ於テ乎、柳川侯其名ヲ聞キ、聘シテ而シテ之ヲ迎ウ。終ニ師員ニ擢ンデラレ、寵遇殊ニ厚シ。寛政七年、禄ヲ辞シテ而シテ折地ノ里(元水田村)ニ老シ(隠居スルコト)又胤子(あとつぎノ子)長供ヲシテ北𨛗ニ往キ、襲ギテ師弟ニ課セシメ、而シテ翁在シマスガ如シ。是ノ日、余輩モ亦与ルコト有レリ矣。翁年八十ヲ踰エテ、尚剣ヲ舞ワスコト少壮ノ時ニ異ナラズ、或ハ跳躍シテ上ニ揚ル。試ミニ一撃スレバ便チ風雷ノ怒号スルガ如キ者有ル也。則チ其ノ平生養ウ所ヲ察スルニ足ル也。寛政十年冬十一月廿日、八十有七終スルニ病ヲ以テ卒ス。胤子長供乃チ其ノ考(亡父ノコト)ヲ追思シ、因テ師弟ト相謀リ、力ヲ鳩メテ而シテ石ヲ建テ、将ニ以テ朽ニ伝エントス焉。嗚呼君ノ寵遇ト而シテ父ノ美名ト、之ヲ無シテ伝エズシテ而シテ朽チシムルハ、臣子ニ非ザル也。因ツテ其ノ略ヲ記スト云ウ。 (原漢文)
文化六年己巳夏五月
粟生次郎右エ門長供弟子門弟子謹ミテ撰ス 。
この墓誌は書き下し文が『伝習館剣道部史』にも載っているが 、異同はなく( )の中の注も全く同じであるので『剣士松崎浪四郎傳』の書き下し分をそのまま載せたものと考えられる。
村上傳次左衛門墓誌のほかに村上傳次左衛門について言及したものに飫肥藩士佐土原友衛が記した『極内輪覚』がある。『極内輪覚』は柳河藩槍術師範加藤善右衛門に免許を授かった佐土原友衛が備忘録として記したものらしく大嶋流の代々の師範について簡単に記述している。
覚
聞きかき
一 大島伴六出生も終りも不詳
子 大島雲平中興開矩加州ニ止り門弟三千人あり、内三人上達、其壱人髙橋武兵 衛其後雲平紀州ニて死子孫今ニあり
髙橋武兵衛傍輩をアヤメ加州を立退讃州丸亀ニ行く、被抱候處右之仕合敵持ニ付被断、□は□□抱城内ニ□門人数あり、其後丸亀没落之節右之弟子松原権之助と申者は豊後岡ニ被抱、□□武兵衛高弟畑勘平ニ申ハ三□末修行不足之処有之、御□三ヶ年も三□教免許相免、御□ニ付先岡ニ参り三ヶ年間権之助ニ教免許ゆるす、其後権之助□末ニ松原萬右衛門門人吉田八郎兵衛門人粟生勘平と申人岡ヲ出村上一刀と改メ柳川江被抱大嶋流抜討流ヒロム、八郎兵衛門人と申義其頃は免許相済□□は則弟子取り候事也
これによれば村上傳次左衛門はもともと粟生勘平と名乗っていたらしく、その子が粟生次郎右エ門と名乗ったのは村上傳次左衛門の元の姓を名乗ったからだということがわかる。「大嶋流抜討流ヒロム」とあるが抜討流は愛洲陰流または新陰流の間違いである。
岡藩の記録に村上傳次左衛門または粟生傳次左衛門の記録は見出すことができないが、第四代目藩主・中川久恒の項に元禄5年(1692)3月、藩主・久恒は四代将軍徳川家綱の13回忌の法主「竹内曼殊院良尚法親王」の御馳走役を仰せ付けられており 、この御供幷御馳走場詰の児小性13人の中に粟生勘平の名がある 。村上傳次左衛門は元禄5年には生まれていないが、この粟生勘平は村上傳次左衛門の関係者ではあるまいか。父親であるとも考えられる。
村上傳次左衛門が柳河藩に伝えた剣術の流名は一定していない。村上傳次左衛門が橘軍八名で寛延3年(1750)に発行した『新陰流刀術印可』 には流派名は新陰流とあり、宝暦9年(1759)に塩見松次(後の大石遊釼、大石進種次の祖父)に宛てて発行した『愛洲陰流刀術截目録』 には愛洲陰流とある。足達右門が天明5年(1785)に村上一刀から授けられた奥意を記した『神傳印鑑 全』には愛洲神影流 とあり、村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が文化5年(1808)に発行した伝書『愛洲陰流刀術』(仮題) には愛洲陰流とある。大石進種次が文政5年に祖父の大石遊釼名代の足達右門から授けられた伝書には新陰流とある 。村上傳次左衛門は新陰流、愛洲陰流、愛洲神影流等の流名を用いていた。
2.加藤善右衛門
幕末期の新陰流剣術の師範は加藤善右衛門(1785~1871)である。安政4年7月に記された立花右馬助の署名がある『稽古改書調揃之扣』には「槍術師範家須」の中に加藤善右衛門の名があり、「剣術師範家須」には田尻藤太と加藤善右衛門の名が相師範として記されている 。
加藤善右衛門は槍術師範として名があり、「安政三年正月改之」と表紙に記された『旅弟子姓名録』は安政3年(1856)正月までに加藤善右衛門に入門していた他藩の門人の姓名録であるが、『旅弟子姓名録』には59の藩と天領の長崎が記され、446名の氏名が記されている 。
島田貞一氏の『槍と槍術』第7回には次のようにあり槍術で名のある人物であったことがわかる。
柳河藩は早くから仕合剣術、仕合槍術の発達した土地であった。先に記した剣術の大石進もそこに出現した名手であった。そして槍術では幕末の槍術界にもっとも大きな影響を及ぼしたのが同藩大島流の師加藤善右衛門清房である。天保のころから清房の道場へは諸国からの訪問が絶えず、いずれもその仕合の精妙に舌を巻いた。そしてやがて全国各地の数十藩から夥しい留学者がここへ来たのである。留学者の流儀は全くまちまちであった。たとえば長州藩から差遣わされたのは横地夢想流鍵槍の正統を継ぐ横地長左衛門であった。土佐藩から来たのは高木流素槍の名手岩崎甚八郎であった。下総佐倉藩から来たのは佐倉でもっとも由緒ある誠心流素槍の師家の跡継ぎの井口辰次郎(宗兵衛)であった。摂州高槻藩から来た藤井貞臣は佐分利流鍵槍の士であった。このように幕末には、もはやいかに優れた流派でも、他流仕合に優れなければ流儀を保持し得ないようになって来たのである。留学生は国元に帰るとそのあたらしい技をもって師範として門人を指導し、またそれを聞き伝えた他藩の士を新たに引き受けて教える場合も多かった。…中略…要するに江戸時代後期は、従来の閉ざされた諸藩の流派の時代から、開かれた諸流共通の仕合という技によって結ばれる時代へと移ったのである。
大嶋流槍術の伝系は柳河藩師範となった村上傳次左衛門から記すと
村上傳次左衛門源長寛後号一刀翁 ― 田尻藤太太神惟伸後号捨暦 ― 田尻藤太太神惟長後号捨水 ― 加藤六郎左衛門藤原信義後号捨助 ― 加藤善右衛門となっている 。
剣術の伝系は加藤家文書が失われており、加藤善右衛門が発行した伝書も未見であるため断定できないが、村上傳次左衛門の後、大石家では剣術槍術ともに大石遊釼、大石太郎兵衛、大石進種次、大石進種昌と伝承されたことから、剣術も同様に加藤善右衛門までは大島流鎗術と併伝して伝えられたと考えられ、伝系は大嶋流槍術の伝系と同じと考えられる。
- 2024/01/05(金) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅳ 廻国修行の経路と試合した流派・人数
田中健之助の英名録は明治3年4月21日から同年10月27日までの短期間の廻国の記録である。
廻国修行の経路は以下の通りであり明治3年に4月、7月、10月の3回にわたって廻国したと考えられる。島原藩での試合は日付がないが島原藩と大村藩との地理的な関係から考えて同一時期の廻国と考えられる。
明治3年(1870)
4/26, 小城藩 → 4/26-27, 久留米藩
?月/?, 島原藩→ 7/13,大村藩
10/13,武雄 → 10/19-20, 小城藩 → 10/23, 蓮池藩 → 10/27,久留米藩
- 2024/01/06(土) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅴ 各藩の剣術流派
各藩の幕末期に廻国修行者を受け入れていた流派を長州藩 渡部直八の『諸国剣道芳名禄』 、神道無念流斎藤新太郎の『脩行中諸藩芳名録』 、高鍋藩 石井寿吉の英名録 、土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』 、飫肥藩 矢野宗吾の英名録 、土佐藩 武市半平太の『劔家英名録』 によってみてみる。各藩ごとの試合が行われた年に長州藩 渡部直八の『諸国剣道芳名禄』の記録は①、神道無念流斎藤新太郎の『脩行中諸藩芳名録』は②、高鍋藩 石井寿吉の英名録は③、土佐藩 樋口真吉の『諸兵家尊名鈔巻四』は④、飫肥藩 矢野宗吾の英名録は⑤、土佐藩 武市半平太の『劔家英名録』は⑥と番号を置く。
1.小城藩
廻国修業の英名録から小城藩で試合を受け入れている流派を見ると
①弘化4年(1847) 新陰流、大石神蔭
(ママ)流、戸田流
①弘化5年 (1848) 柳生流、戸田流、大石神蔭
(ママ)流
②嘉永2年(1849)新陰流、戸田流、大石神蔭
(ママ)流
③嘉永5年(1852)4月 真陰流、戸田流、大石神影流
④嘉永5年(1852) 7月 戸田流、心形刀流、大石神影流
③安政5年(1858) 戸田流、大石新影流、心形刀流
⑤万延元年(1860) 大石神影流、戸田流、新陰流、心形流
(ママ「刀」なし) 上記のうち新陰流、柳生流、真陰流とあるものは師範名、門人名からすべて同一の新陰流である。小城藩では新陰流、戸田流、大石神影流、心形刀流が廻国修業者を受け入れている。
明治3年にも明治維新以前に廻国修業者を受け入れていた大石神影流、戸田流、新陰流、心形刀流の全ての流派が田中健之助を受け入れている。
心形刀流はもともと小城藩で大石神影流門人であった永田右源次(辻真平の実父)が師範となった。
2.久留米藩
廻国修業の英名録から久留米藩で試合を受け入れている流派を見ると
①弘化4年(1847) 神陰流、直心影流
②嘉永2年(1849)浅山一傳流、神陰流、直心影流、愛洲神陰流
③嘉永5年(1852) 4月 真神陰流、浅山一傳流
④嘉永5年(1852) 7月 浅山一傳流、真神陰流
③安政5年(1858) 直心影流、愛洲影流、津田一伝流
⑥万延元年(1860) 真神陰流、直心影流、津田一傳流
上記のうち、神陰流、真神陰流とあるものは師範名、門人名から同一の真神陰流である。また浅山一伝流は後に津田一伝流と流派名を変えている。愛洲神陰流と愛洲影流も同一流派と考えられる。したがって久留米藩では直心影流、神陰流、津田一伝流、愛洲神陰流が廻国修業者を受け入れているが、田中健之助が廻国した明治3年には真神陰流、直心影流、津田一傳流が受け入れている。愛洲神陰流は試合をしていないが。愛洲神陰流はもともと勢力の小さな流派であったようで、先述した岡藩浪人で柳河藩槍剣師範となった村上傳次左衛門の子である粟生次郎右衛門が久留米藩士に伝えた流派である 。
3.島原藩
廻国修業の英名録から島原藩で試合を受け入れている流派は
①弘化5年 (1848) 直心影流、一刀流
④嘉永5年(1852)一刀流(師範:矢野友之進)、一刀流(師範:矢島八馬)
⑤安政5年(1858) 一刀流、浅山一傳流、一刀流
上記のように島原藩では一刀流、直心影流、浅山一伝流が廻国修業者を受け入れている。しかし田中健之助が廻国した時には英名録には流派名は記されず「島原学校」とのみある。師範と思われる名前には引立役として都築五十馬、杉野友之、鈴木喜弥太、矢島□十郎の4名が記され、助負として杉野夏兵衛、長谷徳、牧宇左衛門、渋川鉄蔵、谷川清人、清水洗一の6名が記されている。
島原藩は早くから廻国修業者を送り出していたようで松平忠房(1619-1700)の島原移封から天保迄の島原藩の武芸の全部にわたり系統流派漏らすことなく詳述しているとされる天保2年11月に大原久茂によって編術された『深溝松平家藩中藝園録』 には「又曰松尾坪田之外ニ嶋原より刀術ヲ修行シ九州ヲ廻リシ者ハ井口十格、杦野惠左エ門、杦之長十郎、山羽弥一兵衛ホナリ是文化文政之間之事人其修行の次第ハ各野日記ニ見ヘタリ 」とあり、島原藩士が文化文政のころより廻国修業をしていたことがわかる。
これまでに地方の藩のなかには安政3年(1856)に設けられた幕府講武所よりも早い時期に各流派うち混じって槍剣術の試合稽古をした藩があることがわかっている。たとえば,石井寿吉の『英名録』には嘉永5年(1852)10月に津藩演武荘,伊勢講武荘,名張藩での試合が記されている。これらの試合では藩名・地名が記されているが流派名や師範名は記されていない。名張藩では槍術との試合も記録されているが同様に流派名や師範名は記されていない 。土佐藩の樋口真吉が津藩で試合を行った嘉永5年(1852)9月18日の『諸兵家尊名鈔巻四』の記録には流派名の記録はなく「津幡演武場」の押印のみがある 。同じ樋口真吉の日記の記録には津藩の武場の壁書が記されておりその最後に「諸流之花法ハ各同しからすといへとも試合ニなり候而は刺撃之二ツに帰し候間、相互ニ打解け彼長を取り己か短を補ひ、他流之批判妄ニ致間敷候事」と記されている 。これは土佐藩武市半平太の万延元年(1860)の『剱家英名録』の岡山天城藩、福山藩(誠之館)や同じく文久元年(1861)の『剱家英名録』の伊州藩(伊賀精武館)、津藩(津藩演武荘)と同じである 。これらの藩では試合や、稽古に関して流派を問わず防具着用の稽古がされていたと考えられる。
島原藩でも上記の藩と同じように明治3年には流派を問わずに稽古が行われるようになっていたため、「島原学校」とのみ記されたのではないだろうか。
4.大村藩
廻国修業の英名録で大村藩で試合を受け入れている流派を見ると
①弘化5年 (1848) 神道無念流
②嘉永2年(1849)神道無念流、片山流、
③嘉永4年(1851)一刀真流 兼片山流、影流、四天流
④嘉永5年(1852) 一刀流・片山流兼、新影流、四天流
③安政5年(1858) 神道無念流
⑤万延元年(1860) 神道無念流
このうち影流と新陰影流と記されているものは師範名が同じであるので同一流派である。また嘉永4年と嘉永5年にそれぞれ一刀真流 兼片山流としたものがあるが師範名は異なり門人名も異なることから同一の流れで異なる道場があったものと考えられる。
安政2年7月には大村藩は藩の剣術をすべて神道無念流にしたため 、それ以降は神道無念流のみが試合をしている。安政5年の石井寿吉の英名録では神道無念流の師範名は斎藤勧之助である。また万延元年の矢野宗吾の英名録でも師範名は斎藤勧之助である。
明治3年に田中健之助が大村藩を訪ねた時の英名録には師範名はなく取立の名だけが記されている。斎藤勧之助は明治4年の廃藩置県後に東京に帰った 。
5.佐賀藩武雄領
廻国修業の英名録から武雄領で試合を受け入れている流派を見ると
③嘉永4年(1851)大石神影流、直心影流
④嘉永5年(1852) 大石神影流
⑤万延元年(1860) 大石神影流
上記の2流派大石神影流と直心影流が明治3年に田中健之助が佐賀藩武雄領を訪ねた時、に試合に応じている。
6.蓮池藩
廻国修業の英名録で蓮池藩で試合を受け入れている流派を見ると
①弘化5年 (1848) 大石流 神(ママ)形刀流 兼
②嘉永2年(1849)心形刀流
④万延元年(1860) 1月心形刀流
⑥万延元年(1860) 11月心形刀流
蓮池藩では①②④⑥とも師範は富永清大夫である。富永ははじめ大石進種次の弟子である小城藩の五郎川大四郎について天保8年に愛洲神陰流免状をうけ、天保9年に江戸で伊庭軍兵衛に入門し天保10年に心形刀流表徳免状を得ている。天保10年から11年にかけて威張門人として大石進種次ほか柳河藩士と試合し、天保11年に柳河藩で大石進種次から大石神影流の免許を得ている。弘化4年には心形刀流『印状之事』を伊庭軍兵衛秀業より受けている。最終的に心形刀流を名乗ったものと思われる 。
天保10年から11年にかけて伊庭軍兵衛は大石進種次と水野忠邦の前で試合をしただけでなく、より密接な関係を持っていたと考えられる。伊庭軍兵衛は大石進種次の出府に先立ち江戸の柳河藩邸に稽古に出向き来たい旨を柳河藩邸に願出ている。
井庭郡(ママ)兵衛高人釼術為修行左之定日
之内月ニ六度稽古ニ罷越度、依而御門
札差図願出候間御帳場迄相達□□
一六三八五十日
伊庭軍兵衛は柳河藩の江戸藩邸での月に六日の剣術修行を望んでおり、これは他流試合ではなく、柳河藩邸で稽古がしたいということである。大石進種次が出府するということを知っていた伊庭軍兵衛が積極的に大石進との稽古を望んだということではないだろうか。大石進種次を江戸に呼んだと思われる水野忠邦の意向による柳河藩邸での修行とも考えられる 。心形刀流と大石神影流との関係の中で蓮池藩の富永清大夫は心形刀流のみを名乗るようになっている。
明治3年に田中健之助が蓮池藩で試合をしたとき富永清大夫は亡くなっており、師範は成富要である。
Ⅵ.まとめ
慶応4年1月に戊辰戦争が始まり、明治2年5月に函館の榎本武揚らが降伏して戊辰戦争が終結。同年6月には版籍奉還が行われて家臣は士族と称せられるようになった。明治3年(1870)2月には山口藩諸隊脱退兵士が鎮圧された。このような時期に田中健之助の廻国が行われているが各藩とも幕末期同様の稽古が行われていたと考えられる。
島原藩では各流派うち混じって剣術の試合稽古を始めている。これは各流派ごとにわかれていた試合に関する決まりが共通化されていたということであり近代剣道の始まりととらえることができる。
今後は明治4年の廃藩置県以降の剣術の稽古がどのような状況にあったかを明らかにする必要がある。
本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
柳川古文書館 白石直樹様
肥前島原松平文庫の皆さま
心より御礼申しあげます。
- 2024/01/07(日) 21:25:00|
- 武道史
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鼠径部を緩めることの大切さは何度も述べており、道場でも指導していますが、できていない方が多くおられます。できておられないというよりも、できたつもりになっているために自分に気付かないのではないかと思います。
無雙神傳英信流・大石神影流の稽古でしっかり指導しているので理解されているだろうと思っていても澁川一流の稽古になると完全に足先で動く方がほとんどです。澁川一流の動きは簡素であるので力まず鼠径部が緩んでいれば体の入れ替えで足の位置は変わり自分の重さを用いることができるようになります。ところが何かしようとつっ立ち、技をかけようとして重心を上ずらせますので一生懸命やっていても小手先の技になり自分の重さは使えずかえって技は効かなくなります。。
無雙神傳英信流・大石神影流・澁川一流ともに共通するところであり、これができなければ流派に入ることができません。心して稽古してください。
- 2024/01/08(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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手の内の大切さも何度も述べていますが、これもなかなか身につきません。握ろうとしてしまうのです。
無雙神傳英信流と大石神影流の手の内が同じことは述べています。澁川一流も変化はしますが同じ手の内です。握る人は正しく技をかけることができません。親指の大切さを知らない人は技がかかりません。
澁川一流ではすべての技で親指は大切な働きをします。したがって居合や剣術が手の内が正しくなくてできない人には澁川一流は出来ません。いくら稽古しても手慣れた動きをしているだけで偽物なのです。
多くの人が大切なところを習得しようとせずに外形ばかりにこだわってしまいますが、鼠径部を緩め体の力みがなくなり手の内ができるようになれば、三つの流派は速やかに上達していきます。
- 2024/01/09(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨年航空自衛隊の幹部候補生学校の同期会に出席したときにある防大出身者が稽古する人が少なく大きな赤字があることを気にしてくれて「一般の人にうけるようにして人を集めれば。」と言ってくれました。今は同期は一般大出身者も防大出身者もみな退職して民間企業で働いているので、金銭感覚にシビアです。いかに収入を得るかということを考えています。そういう意味で心配してくれ「一般の人にうけるようにして人を集めれば。」と言ってくれたのです。
しかし伝えられてきたことを一般うけするように変えてしまったら存在意義がなくなってしまうのではないかと考えます。貫汪館で稽古している三つの流派はいずれも地味すぎるくらいに地味です。素人が見れば面白くない流派と見えるでしょうし、何をしているのかもわかりません。YouTubeなどを見ただけの素人に素人うけするように変えることはできると思いますが、それでは内容が変化してしまいます。「売り物」にこしらえなければならなくなるのです。
伝えられてきたものが変質していないところが貫汪館で稽古している3流派の価値なのですから、稽古してくれる人を集めるには我々の存在、我々がしていることに価値をみいだしてくれる人に届くような工夫が必要なのだと思います。必要としてくれる人たちにとどいていないのをどうするかということが課題です。
- 2024/01/10(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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現代居合道を稽古した経歴がある方の中には形・手数の習得(手順を覚えるレベル)に何年もかけるものだと思っている人がいます。週に何回も稽古していればそのようなことはなく、無雙神傳英信流では私は大学生のころには奥居合迄習っていましたし(奥居合ができていたということではなく)、澁川一流でははじめのころは3本くらいの形しか教えていただきませんでしたが、そのうち履形が終わるころになると1回で習う方の数は10本以上となっていきました。大石神影流は初日は試合口五本の稽古でしたが、次からは教えていただく手数の数はぐっとふえました。
無雙神傳英信流は稽古し始めて1年以内には英信流表を習っていましたし、奥居合の立技も膝を痛めていた期間(中学校の剣道の部活動の悪影響で高校生になってから、特に2年生のころには階段の一歩一歩が右膝に鋭い痛みを与えるようになっていました)に教えていただきました。また渋川一流の稽古では畝先生は前回教えたことが身についてきているかどうかを確認されてから次の形を教えてくださいましたので、稽古して来ていることを認められて教えていただく形の数は増えていきました。大石神影流は2回目の稽古で大石先生は私の試合口の手数をみられて「よく稽古してきている。良く稽古してきている。」と言われて多くの手数を一度に教えてくださるようになりました。三つの流派とも教えていただいたら「我」を入れずに復習して身に着けようと努力したからです。
貫汪館の支部で稽古している人も私が一度教えたら「我」をいれずに次回まで稽古していれば可能なはずです。もし可能でないとすれば「次にまた教えてもらえるだろう。」と安易な考えで習ったか、せっかく指導しても「我」をいれて、このほうが良いだろうと思って稽古したかのいずれかです。「まだ一度しか習っていないからできない。」と考えるのではなく、「すでに教えてもらったのだから次回までに正しく習得出来ておかなければならない。」と覚悟する人が上達していきます。
- 2024/01/11(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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はじめに正座を教え、礼法を教え、鼠径部を緩めることを教え、歩み方を教え、手の内を教え、刀の振り方を教えます。それから形・手数の稽古に入るのですが、形・手数の稽古に入ったら手順を覚えることにばかり集中し、最初に教えられたことを忘れる方が少なからずおられます。できているから次を教えるわけではありません。形・手数の中でそれらを稽古しなさいと形・手数を教えているのです。
したがって最初に教えられたことができていると思う人はいくら多くの形・手数を習ったとしても上達しません。もし完全にできていたならば形・手数は簡単に習得できます。基本ができないのに上達することはないのです。
基本というから安易に考えてしまうのかと思いますが、一生をかけて追い求めるのが基本です。
- 2024/01/12(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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自分の動きを確認するためには映像を用いてください。鏡だと動きながらですので実際のイメージとは大きく異なっています。
今はスマホできれいな映像が撮れますので。スマホスタンドがあればよいだけです。スマホを置く場所を決めてスイッチを押しておけばよいのですからこれほど便利なものはありません。ダメだと指導されて自分でわからなければ毎回ビデオに撮るのです。1回くらいビデオに撮って分かったつもりになり自分で修正できたと思っても完全に不十分です。人はダメなところに戻ります。ダメなところは自分の心が求めてダメになっているのですからすぐに直るはずもありません。
私は梅本先生がお亡くなりになった後、何度も先生の映像を見て、自分の映像を繰り返してみて本質的な部分を求めました。自分にダメ出しをする期間が何年も続いたのを覚えています。1.2回ビデオをとってみたからと言って修正できるものではありません。
と記しても実際に行動にうつさない人もいます。上達しようもありません。
- 2024/01/13(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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特に男性に多いのですが、何かしようとするときにぐっと力を入れたり、体を固めたり、動くという気配を前面に出す人がいます。すべてダメです。何もしてこなかった女性が稽古するとそのようにはならずに、教えたことを素直に行うので初めから無理無駄のない稽古をされ上達も速やかです。
自分ではわからないという方に少し例示しますので以下のポイントで自分自身がどうなっているかを確認してください。
居合
抜付けたとき、柄を握りしめたり固まったりしていないか。
斬撃したとき体から刀が離れていたり固まっていないか。
血振いしたとき体が固まっていたり前傾していないか。
「月影」で双方が別れ、刀を脇にとった時、固まっていた斬ろうという体制になっていないか。
剣術
阳剣で斬り込んだとに打太刀の刀を抑える時力んでいないか。
阴剱で打太刀の斬撃を鎬で受流し斬り込むときに刀が体(頭上)の真ん中を通っているか。
無二釼も同様に刀が体(頭上)の真ん中を通っているか。
柔術
履形で前に出て受の拳を抑えたときに肩から先に力みがないか。
受を倒して気合をかけるときに力んでいないかどうか。
上記はごく一例です。自分が常にニュートラルな状態であるかどうかを確認してください。特に男性は確認が必要です。自分がどのような状態にあるかどうかわからない人気付けない人は絶望的です。自分自身がわからないのですから人が正すことはできません。
稽古より前に、最小限の力でコップを持つ稽古や、衣類を持つ稽古から始めてください。落ちるか落ちないかの処を自分自身で感じてください。そこから始めなければ道場で正すことはできません。
- 2024/01/14(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨年の高知での前田さんのパーティーでテーブルが同じ人と話していた時のことです。私が古武道をする人間だと知るとその人の勤める会社の社長が剣道7段で8段を受けた時の社長の話をされました。現代剣道と剣術が同じものだと思っておられるようでした。・・・武道史を知らない人は現代剣道と江戸時代の防具をつけた剣術は同じだと考えられている人が99%くらいです。現代剣道を稽古される方の中にも竹刀の使い方と刀の使い方は同じだと誤解されている方がおられます。・・・。「打ちが少し軽かったので通らなかったと社長が言っていました。」すると隣の人が「しっかりと打たないと切れないからですかね。」ということを話されました。私は現代剣道が打って前に進むようには江戸時代の剣術は前に進まなかった。それは刀の使い方をしていたからで、現代剣道の動きがああなったのは競技化が進み一本の基準がそれで良しとしたために竹刀の使い方が刀の動きと離れたこと。真剣であれば触れれば斬れること、今テレビなどでしている試し切りは腕試しで江戸時代は刀の切れ味を試すものであったので同じ振り方と条件で刀を試したもpので何が何でも切ろうとするためのものではなかったこと。斬るためだけの刀をこしらえてパフォーマンスをすることはなかったこと・・・などを短時間で話さなければなりませんでした。
素人の人は現代剣道を基準にして過去の江戸時代の剣術を想像しますし、テレビで行われるパフォーマンスとしての試し切りを基準にして江戸時代を考えます。柔術然りです。
これをかえていくのは至難の業だと思います。現在はYouTubeもありますが古武道を称する人たちがインチキをして人目を集めていますので間違った古武道のイメ―ジもますます広がっていきます。
- 2024/01/15(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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他流派の経験がある方の中には形・手数に対する基本的な考え方が全く異なっている人がいます。その基本的な考えを変えない限りは絶対に上達できません。貫汪館で稽古しているのは現代居合道ではなく、ましてやおかしな言い方ですがおどりの剣術や柔術ではありません。
無雙神傳英信流も大石神影流・渋川一流も形・手数は上達するための手掛かりであって形・手数を見事に行おうとはしていません。あくまでも自由になるための手掛かりです。したがって表に現れたものは結果であって、表に現れる姿・形を求めているのではありません。正しく求めていれば意図せずして流派の正しい動きとして表に現れているだけのことです。形・手数を見事に決められたように行おうとすれば鋳型にはめた動きを求めなければならなくなりそこには自由はありません。自由がなければ何かが実際に起こったときには対処できるはずもありません。「型にはめてはならない。」というのはそういうことです。
ところがかつて他の流派を稽古したことがある人、とくに現代居合道を稽古したことがある人は自分の動きを型にはめようとする考えから抜け出せません。自分が決めた通りの動きをしようとするのです。一人で行う居合ではそれが可能であっても、相手がいる剣術や柔術では通用しません。剣術では空間的にも時間的にも間がくるっていて実際には役立たない動きをしたり、柔術では受があえて技にかかってくれなければ全く役立たない形をしたりします。極端な場合には受身も自分が決めた通りの位置に手をつき背をつこうとしますので全く受身にもなりません。居合であっても素抜き抜刀術だけの現代居合道では可能なものが相手がいる太刀打ちや大小詰などの形ではレベルの低いお遊びのようなものにしかなりません。
基本的な考え方を変えるところから始めなければ上達は始まらず、変えることができれば上達しはじめます。
- 2024/01/16(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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上達を阻害しているのは自分自身です。形・手数をある程度覚えたら基本的な鼠径部の緩みや手の内をしっかり身に着けていかなければなりません。何度も記していますが基本を身につけていない形・手数は砂上の楼閣です。真似事なのです。
形・手数を稽古しているときに何度も鼠径部の緩みや手の内を指導されていたり、稽古のたびに鼠径部の緩みや手の内を指導されている方は形・手数の手順を見事にする稽古ではなく、まず指導されたことを正しく身につけることに集中してください。
- 2024/01/17(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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形数を誇る(五輪書にあるように)のは稽古している人にも言えることです。自分が流派の体型の中でいくら形を知っているかを誇りたいのです。また自分はこれだけ多くの形を稽古していると誇りたいのです。しかし、全く意味が無いどころか下手になり始める起点です。
無雙神傳英信流では抜き付けの際の鞘手が悪いと教えられ、流派の正しい鞘手を示されていればそこを重点的に稽古しなければなりません。すでにお話しているように私は鞘手の初動から手直しを受けた時には何十回も動き始めだけを先生にダメ出しをされながら稽古させていただきました。そしてその日の稽古時間内には終わらず宿題になりました。鞘手の動きはじめだけで数日はかかったと思います。それくらい正せないものです。鞘手の次は柄手で、柄に手が触れるまでに数日かかったと思います。しかし、形数を誇りたい人はそんなことはお構いなしに多くの形を抜くことを誇りたいので、基本は身に付きません。渋川一流も同じで蹲踞もできないのに形の稽古をするのはおこがましく、できなければ1時間でも2時間でも工夫しながら蹲踞の稽古をしなければなりません。大石神影流然りです。鼠径部が緩ますまともな構えもできないのに稽古した手数の本数を誇るのは自ら上達したくないと表明しているようなものです。まともな構えは自然な体制を伴いますので、それができるようになって初めて進むこともできますし肚から有声の気合を出すこともできます。
思いや考え方が正しければ上達しますが、異なればいくら稽古しても手慣れても上達はしません。
- 2024/01/18(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術三段審査課題
「柔術の歴史における澁川一流柔術の歴史とその特質について」1 はじめに
澁川一流柔術は、広島藩の農村地帯に生まれ育った江戸時代の柔術である。
澁川一流柔術を稽古する者として、どういう歴史的な意義を見出して将来をどう展望するのかという意識をもって、先行研究の成果をたどりつつ澁川一流柔術の歴史的な背景とその特質について検討してみたい。
2 江戸時代における柔術の背景
今日につながる武道は、各地で合戦が相続く15世紀後期から16世紀、弓術、剣術、柔術等の流派武術においてその原型が形成され、江戸幕府が成立してからは、武士としての覚悟を養成することを主な目的に「弓馬剣槍」が武士の表芸として修練された。柔術でいえば17世紀半ばまでには、楊心流や良移心当流、起倒流などが興ったと云われている。18世紀末からは諸藩で藩校が多く作られ、剣術・槍術・馬術・弓術・柔術・兵学・砲術などの稽古が奨励された。江戸初期からの流派でも19世紀にかけて中興や復古再編が行われている流派が多く、起倒流の形が中興・普及したのもこの頃で、起倒流と並んで今日の柔道の母胎となる天神真楊流も楊心流と真神道流を母体に19世紀初期に生まれている。(参考文献1 11~16頁)
文化9年(1812)に紀州藩士の太秦武郷が著した随筆「紀州柔話」に、正徳元年(1711)、渋川流の佐浪善四郎が楊心流の武光柳風軒の道場に他流試合を仕掛けたという話が出てくる。当時は、他流試合は「天下の法度」とされた時代であり、渋川流二代目友右衛門胤親は弟子の犯した過ちの責任を問われ、禁錮されることになったという。ところが天保10年(1839)、天神真楊流の門人が楊心流と他流試合を行ったことに対するお咎めがあった様子はなく、それどころか江戸の天神真楊流磯道場の「他流試合姓名控」によれば、天保年間(1830―1844)に既に柔術試合が盛んに行われていたことが明らかとなっている。この頃には在野の江戸の町道場も盛んとなり、地方から進学してくる者も多くなって、藩の枠を超えて広範囲のネットワークができたとされる。(参考文献2 41~49頁)
江戸時代は武士階層の下で武道の探求が発展した一方で、幕末に近づき武士階層を頂点とする体制の綻びとともに社会情勢が不安定になっていくに従って、その実践性・汎用性が改めて問われ、武道の復古あるいは革新が行われた。典型的な例でいえば、少し後になるが嘉永6年(1853)のペリーの黒船来航などは、国総体としては外交とともに軍事・防衛の現実が突き付けられ、市井の人々にも「武」というものを否応なしに意識させられた出来事だったのではないか。澁川一流柔術は、こうした時代背景のある幕末に生まれた柔術である。
3 広島における柔術事情
澁川一流柔術の流祖の首藤蔵之進満時〔文化6年(1809)~明治 30 年(1897)〕は、宇和島藩浪人と伝えられる叔父の宮崎儀右衛門満義に連れられて広島藩安芸郡坂村に移り住んできて、叔父から渋川流及び難波一甫流を習得し、更に他所で浅山一伝流を習い、澁川一流柔術を創めたと云われている。実技と伝書は今に伝えられているが、流派の成立過程の詳細については、よく分からないということであるが、天保10年(1839)頃、首藤蔵之進は柔術の縁で松山藩に仕えており、明治維新以後は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、澁川一流柔術を伝え残したという。(道標 2014/09/11)
首藤蔵之進が生まれ育った文化・文政、天保の頃の広島藩のお触れによると、文化 11 年(1814)の『郡中にて目明し等の所業に従う者あるを戒める書付』には、「農村の百姓の中には捕手の業を稽古する者もあると聞くが、農業を第一にして家業に勤しむべきところ、そのような業を習うとは甚だ宜しくないこと」とある。しかし、嘉永2年(1849)の『盗賊取締りのゆるみを戒め召捕え引出し方につき達』には「盗難の申し出も少なからずあり、取締りの制度も十分機能できていないのが実情だ」と治安維持に限界があったことを示しており、百姓たちにとっては自衛手段として武道が求められたとも考えられている。(参考文献3 141~142頁)
そこで、当時の広島の事情について、澁川一流柔術の母体となった渋川流と難波一甫流を通じて少し触れておきたい。
(1) 広島における渋川流について
渋川流は関口新心流の二代目、関口八郎右衛門氏業の弟子の渋川伴五郎義方により興された流派で、広島藩には森島求馬豊勝によって伝えられたという。この渋川流について『芸藩志拾遺』には「渋川流に森島求馬 藤井直蔵有り」、「渋川流にては崎田勘兵衛といふ者父子ともに該技術に精通せしを以て若干口俸を給して是亦門生教育を命せられたり…其他に新見基次郎といふあり 同流柔術を能くす」とある。また、『芸藩志』には安政2年の藩主の武芸閲覧において、柔術では新見基次郎の渋川流のみが閲覧を受けているということであり、広島藩では比較的有力な流派であった。(参考文献4 36頁)
また、こうした藩の公式記録の他に、江戸時代に紙問屋を営んでいたという商家に、天保から万延年間に至る渋川流柔術の目録や英名録などの伝書が多数残されていたという事例がある。その中の「渋川流柔術目録 参巻」に、渋川流を広島に伝えたとされる森嶋求馬を含む堺勘太までの伝系が記されており、「渋川流柔術目録 貮巻」には兵法劔之事として17の形名、小劔之事として8の形名が挙げられている。これらの形については「家伝」と記されており、これは堺家に伝わっていた難波一甫流の剣術の形を渋川流にとりいれたものと思われるとのことである。更に、久米久兵衛が師の堺勘太から習った形を書き留めたものと思われる「渋皮流柔術第次全」には、渋川流以外の流派名として難波一甫流、二階堂流、寶山流、富田流が挙がっている。ちなみに難波一甫流は大きく分けて徒手の技と剣術・槍術を含む流派であるが、このうちの徒手の形の主要な部分が「渋皮流柔術第次全」には全て含まれていると考えられるという。(道標 2013/12/10~14)
これらからは、渋川流の指導者が難波一甫流の業を習い、他流派の業を組み入れるなど、継承に伴い様々なエッセンスを加えて習合していく過程を垣間見ることができる。三つの流派から生まれた渋川一流柔術の成立にも同様の事情を想像することができるのではないか。
(2) 広島における難波一甫流について
難波一甫流は江戸時代初期に長州より広島に伝わり、代々広島城下で矢野家によって伝えられた。難波一甫流は、農村地帯にまで広がり、それぞれの地域において独自に発展していったという。例えば、沼田郡阿戸村では、矢野家に指導を受けた宇高宗助直常とその跡を継ぎ三代にわたって指導した有馬家(明治以降、正式に宇高と改姓)を中心として難波一甫流の稽古が盛んに行われており、『沼田町史』によれば、宇高宗助直常は、30年あまり沼田郡阿戸村で「武芸筆道」を指南したという。有馬(宇高)専三郎直次にかかる『宇高先生碑』によると、弟子は1500余名で各地に35の道場が設けられたとのことである。また、『宇高専三郎直次先生之墓碑建設費募集之辞』によると、長州征討のころ藩より農兵取立役を仰せ付けられ、その賞として大小刀の佩用を許されている。(道標 2014/08/24)
このように、広島城下で農村地帯にまで武士階層以外の者も武道を積極的に稽古し、それに藩がお墨付きを与えていたという当時の様子が分かる。
4 澁川一流柔術の特質
(1) 仕掛け方による形の分類から
澁川一流柔術に限らず古流柔術全般に云えることであろうが、形には棒や刀をはじめ様々な武器を前提としたものも多く含まれている。徒手で自己の身を守る形については最終的に刀に対して身を守る形につながっており、捕(剣術で云う仕太刀)が武器を用いる棒、十手、分童、鎖鎌などは、刀に対する形が大半を占めている。これは澁川一流柔術が素手と素手による勝負を主眼としたものではなく,懐剣や刀に対して身を守るように体系付けられた流派であることを意味している。
そして、澁川一流柔術では、形が仕掛け方によって分類・グループ化されており、決められた順番で稽古を重ねていくことで、より全体の体得が深まるように工夫されている。例えば、仕掛け方によって分類すると次の通りになる。
ア 素手で仕掛けられるのに対して素手で応じるもの
・履形 ― 中段・下段を突いてくるのを制す形
・吉掛 ― 肩を突き押してくるのを制す形
・込入 ― 両手で胸襟を掴み押すのを制す形
・四留 ― 両手で両手首を握り押すのを制す形
・拳匪 ― 両手で合掌する手首を掴むのを制す形
・枠型 ― 両手で右手を掴み引くのを制す形
・引違 ― 四つに組み押してくるのを制す形
・袖捕 ― 両手で両袖を掴むのを制す形
・二重突 ― 両手で前帯を掴み押すのを制す形
・一重突 ― 右手で前帯を掴み押すのを制す形
・片胸側 ― 右手で胸襟を掴み押すのを制す形
・壁沿 ― 胸襟を掴み壁に押すのを制す形
・睾被 ― 馬乗りになるのを制す形
・上抱 ― 後方より抱きつくのを制す形
・裏襟 ― 後方より裏襟を引くのを制す形
・御膳捕 ― 並座して右手で左膝を押さえるのを制す形
イ 武器で仕掛けられるのに対して素手で応じるもの
・打込 ― 懐剣で上段より打ち込むのを制す形
・両懐剣 ― 両手の懐剣で打ち込むのを制す形
・御膳捕 ― 対座して懐剣で打ち込むのを制す形
・三尺棒 ― 三尺棒で打ってくるのを制す形
・鯉口 ― 行き違いの際、抜きつけようとするのを制す形
・居合 ― 上段より刀で斬り込むのを制す形
ウ 武器で仕掛けられるのに対して武器で応じるもの
・互棒 ― 懐剣で打ち込むのを短棒で制す形
・三尺棒 ― 懐剣で打ってくるのを三尺棒で制す形
・三尺棒御膳捕 ― 対座して懐剣で打ち込むのを三尺棒で制す形
・六尺棒 ― 六尺棒対六尺棒の基本の形
・六尺棒裏棒 ― 六尺棒対六尺棒の応用の形
・刀と棒 ― 刀で斬りかかるのを六尺棒で制す形
・小棒 ― 懐剣・刀で斬りかかるのを小棒で制す形
・十手 ― 刀で斬りかかるのを十手で制す形
・分童 ― 刀で斬りくるのを分童鎖で制す形
・鎖鎌 ― 刀で斬りかかるのを鎖鎌で制す形
エ その他
・胘入-罪人に縄をかける
・居合(抜刀術)
アの「素手で仕掛けられるのに対して素手で応じるもの」は、素手の攻撃に対して素手で防御して反撃するということになる。言わずもがなのことだが、こちらから相手に対して攻撃を仕掛けるという想定にはなっていない。イの「武器で仕掛けられるのに対して素手で応じるもの」は、素手で武器に対処するという著しく不利な状況の想定である。ウの「武器で仕掛けられるのに対して武器で応じるもの」はイよりは幾分ましな状況かと思えば、刀や懐剣といった刃物に対して木製の棒などで対応するのであるから決して分がよいとは言えない想定である。胘入などは奉行所の捕り方の業として分けて考えるとしても、いずれもあくまで受け身での不利な状況下での已むを得ずの護身の業であるといえる。
(2) 稽古する順番から
稽古する順番ということで云えば、最初に稽古する形は上記の分類アの履形であり、始めに稽古して身につけるべき形として、様々な想定の下で相手との間合いを掴む稽古になる。履形では受(剣術でいう打太刀)の中段または下段への仕掛けに対して、捕は前方に出てその手を制することになっている。この仕掛けは形の上では素手でなされるが、刃物を持っている相手という想定となれば、相手の攻撃を見てかわすだけでは攻撃を受け続けるだけになってしまうため、相手の心の起こりを読んで、受の手が動き始めるのを制することが肝要であるということになる。
相手がすれ違いざまに抜付けに刀で斬り付けようとするのを捕りおさえる形のグループを鯉口、上段から刀で斬り下ろして来るのを捕りおさえる形のグループを居合というが、これら稽古が進んだ後の段階で行う稽古に繋がるような履形の稽古にしなくてはならず、初心のうちから高度な動きの基礎を養わせているとされる。(道標 2006/10/19)
刃物に対する素手での形は分類イの打込に始まるが、その際は、間合いの工夫とともに「斬らせて捕る」という事、心も体も虚しくして、ただそこに在る状態になる事が求められる。素手で刃物に対することは非常に困難で、軽く触れられただけで致命傷になる可能性があるので実際には非常に怖く緊張するが、しかし、刃物の遣い方に慣れている者が相手であれば尚更にこちらが身構えると動きを読んで異なるところへ仕掛けてくることになるので、目の前に集中するあまり緊張して却って身体を固めてしまうことのないよう、相手が打ち込みたい様に打ち込ませることが肝要だ、という考え方を採っている。(道標 2011/12/15)
最初に稽古する履形で習う身体の遣い方と形の動きがすべての基本となり、そのバリエーションと応用に繋がっていく。剣術でいう無刀取りに当たるような居合という形に至るまで、これらの形のグループを本来稽古すべき順番で行うと、無理なく練度を高めていくことができるように組まれており、稽古体系としても整理されたものであることがよく分かる。
(3) 心身の運用から
澁川一流柔術では、自分の体のどこかに無理があっては、敵に対応する前に自分が崩れてしまっており自然に技を掛けることは困難になってしまうので、全身の無理無駄な力を静かに無くしていくことが業の基本として常に求められる。
履形から例に取れば、負投などの投げ技の理想は、自分の上を相手が独りでに転がって落ちることにあり、タメをつくり下肢で踏ん張って相手を持ち上げてそれから投げ落とすのではなく、重心を操作することによって行う。また、形の最後に相手に膝や手をかけて押さえる動きが多くあるが、決して脚力や腕力で行っているわけではなく、全て自分の重心をコントロールして、自分自身の重さを用いることとなる。(道標 2006/11/07、2010/04/23、2009/12/12)
このように、業の基本が、身体を緊張させ力を込めることではなく、全身を緩ませて無理無駄な動きを省き、自然体をとることにある。投げ技においては、腕力で投げないで落とす、体勢を崩し転がす、というような動きを求めており、臍下丹田のいわゆる肚を働かせて自分や相手の重心を操作するということが基本である。分類アの壁沿のように自分が押さえつけられた状態から脱するのにも同様の原理を利用する。
この点、無理無駄がないこと、肚で動くこと、無念無想であることの三つが澁川一流柔術において形の要諦に挙げられると思う。外形的に見れば、澁川一流柔術は、形が素朴で飾り気がないのが特徴といえる。
5 おわりに
明治15年(1882)、嘉納治五郎が講道館を設立し、起倒流と天神真楊流を合わせて講道館柔道を作り上げた。柔術が形稽古中心であったのに対して、乱取り中心で試合形式も取り入れた柔道を中心に、大正末から昭和初期にかけて武道の競技化・スポーツ化が非常に進んだ。(参考文献1 17~21頁)
澁川一流柔術の今日的意義は何かと考える際、客観的な歴史的資料から跡付けることができる系譜が江戸時代の創始から現代まで連綿と続いている数少ない古武道の一つであるということは、まず認識しておく必要があると思う。とりわけ上記の澁川一流柔術の特質で述べた、形を中心とした稽古体系、力を排した無理無駄のない動きへの志向などは、近代から現代にかけて武道の競技化・スポーツ化が進められてきた過程とは正反対である。時代の波にのまれて廃絶する柔術流派や伝系も数多い中、正反対の方向を敢えて選択することで古武道として生き残ってきたとも言えようが、やはりそれは奇跡的だと思う。
澁川一流柔術が流祖 首藤蔵之進満時から、宮田友吉國嗣、車地國松政嗣、畝重實嗣昭、森本邦生嗣時と伝承されてきたこれまでの先人たちの献身の歴史を踏まえ、先に述べたような貫汪館の伝える澁川一流柔術の特質を生かした稽古をどう充実させ、流派武術を後世に受け継いでいくのか、これは我々稽古する門人一人ひとりに課せられた大きな宿題である。
≪参考文献≫
1)魚住孝至「武道の歴史とその精神 概説」国際武道大学附属武道スポーツ科学研究所2008年7月
2) 中嶋哲也「幕末における柔術試合の台頭とその実態 天神真楊流・磯道場「他流試合姓名控」を手がかりに」講道館柔道科学研究会紀要第16輯 2017年
3) 森本邦生「澁川一流柔術」武道学研究47-(3) 2015
4) 森本邦生「広島藩伝渋川流についての一考察 ―広島市安佐北区阿佐町岡本家文書を中心として―」武道学研究37 2004
- 2024/01/19(金) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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貫汪館 澁川一流柔術四段課題
「澁川一流柔術指導上の留意点について」 まず澁川一流柔術について述べ、その上で指導する上での留意点、および結語を記述する。
1.澁川一流柔術について
これまで学んできた澁川一流の特徴を以下の9項目に整理した。
(1) 江戸時代末期に成立した柔術で、学ぶ技には素手対素手だけでなく、刀や懐剣といった刃物に対し、棒や素手で応じるものもある
(2) 稽古では基本的に、指導する者(受)と学ぶ者(捕)の二人が行う
(3) また受と捕の位置関係も、立位対面、着座対面、後方からの攻撃、高い位置からの攻撃などがあり、幅の広い想定がされている
(4) 技は想定に応じてひとかたまりの形としてまとめられている
(5) 形の最初には原則として礼式が配置されており、その中では相手(受)を傷つけない調和の世界が表現されている
(6) 技は基本的に攻撃してくる受の手首を捕るところから始まり、捕の動きの中で受のバランスを崩すことで、受を制する
(7) 技は筋力に頼らなくてもよいように組み立てられており、女性や子供でも習得が可能である
(8) 技の決まりには、気合(発声)を掛ける
(9) 形の最初と最後には蹲踞し、礼法を行う
澁川一流柔術には、裏の形や、意地稽古と言われるものがある。加えてまだ学んでいない形も多く、上記特徴から外れるものもあるかもしれない。今後も修行を継続し、澁川一流柔術の理解と習得に励む所存である。
2.指導上の留意点
澁川一流の指導をする上での留意点を上記の(1)から(9)までの項目に沿ってまとめる。
(1)江戸時代に成立した、対武器の技も含んだ武術であること
澁川一流は江戸時代末期に成立しているので、当然刀を腰に差した武士がいた。特に幕末は体制が崩れていたので、治安もよくなかったであろう。そういう時代、環境において、素手対素手だけの現代柔道のような武術はありえない。
したがって、指導をする際には、常に刃物をもった相手を想定していることを理解させることが大切である。
具体的には、自分の中心線を受の攻撃から外すことが大事になる。最初に学ぶ履形では、受は拳で突いてくるが、その際にも突ききられるまえに手首を抑えたり、返にとる場合は確実に突きの線上から体を外す必要がある。
また、日本刀や懐剣といった刃物に対する場合には、間合が非常に重要になる。稽古の際に、危険だからといって当たりもしない遠間で木刀を振っては本来の意味をなさない。厳しい環境下を想定していることを忘れてはならない。
指導者は澁川一流が生まれた環境をよく理解させ、自分自身も含め、大雑把な動きにならないようによくよく留意する必要がある。
(2)受と捕の二人で行う稽古方式
上位者は受となり、捕を指導することになる。したがって、受は技を正しく掛けさせるために、正しい間合、適切な攻撃を行わなければならない。受の中途半端な攻撃は捕の技をおかしなものにしてしまう。くれぐれも気をつけて、捕を正しく導く必要がある。
また指導にあたって、下位者が受をすることは原則として、あってはならない。ただし、どのような技であり、どこに効くのかを確かめるためには、下位者が受をとる場合も必要である。その際、上位者は十分に受をとることができない下位者に技を掛けていることをよく意識して、ゆっくり正しく、かつ下位者を傷つけることのないように技を掛けなければならない。
また下位者にも同じく、相手を傷つけないように配慮させることが必要である。
(3)幅広い想定
ここでも受は、想定とその意味合いをよく留意することが必要であり、捕にも理解させなければならない。どのような得物と対しているのか、どのような瞬間に技をかけなければ意味をなさないのか。基本的には3次元的な位置関係とタイミングが重要である。想定による空間軸、時間軸の違いを明確に認識しておかなければならない。またそのために、履形を基本とする技がどのように変化するのかをよく理解しておくことが大切である。それを正しく伝えることが指導者には必要である。
一方で、ここが澁川一流の非常に面白いところでもある。想定が違うが、基本的に同じ動きをすれば、技がかかるという体験は衝撃的である。うまく指導をして、学習者の興味を高めていくことも、指導者には重要な留意点である。
(4)形の体系
澁川一流では多くの形が体系化されている。基本となる履形から始まり、吉掛、込入、打込、両懐剣、互棒、四留、拳匪、枠型、引違と四段に進むまでにこれだけ多くの形を学んできた。形が進む毎に技を成立させる条件が難しくなっている。履形や吉掛は受の突きに対応する技であるが、込入になると受は捕の両襟をつかんでおしてくる想定である。基本的に手首をとることで技を掛ける澁川一流では、受の手首の位置が捕の体軸から遠いほうが初心の者には技を掛けやすい。それが込入では、受の手が捕の体に接しているため、技を掛ける際に筋力でどうにかしようとしてしまいがちとなる。筋力を排すには、体軸と手や足の連動がより精細に働かなくてはいけないようになっている。懐剣への対応(打込、両懐剣)や、両手首を捕まれている想定(四留、拳匪)へと進むごとに、その精度を高めていかねばならない。
このように基本的な技からより高度な体の使い方まで、段階的に技を習得できるように体系化されていることが澁川一流の特徴であり、そのことを常に意識して指導に当たらねばならない。当然、それぞれの想定の意味合いをよく把握し、捕を導かねばならない。
(5)礼式による調和の世界観
基本的に、各形の最初には礼式と呼ぶ一連の技が配されている。礼式はそれぞれの形が想定する受の動きに対し、捕はやわらかく受け止め、傷つけずに受を送り返し、最後に受と捕が気合を合わせることで終わる。
この礼式が設定されている目的は明白である。礼式以後に学ぶそれぞれの技の根幹には、受を傷つけないという考えがあるということ。また、最後に受と捕が気合を合わせているように、受と捕がつながっており、一体となることの重要性、つまり調和の世界を現している。
この礼式は極めて重要である。澁川一流においては、相手に打ち勝つことよりも、傷つけることなく、調和を保つことに重きを置いているのである。この考えに共感できない人には澁川一流を教えることはできないと知る必要がある。
また、形の稽古をしている際に、常に受の状態を考え、傷つけないような配慮ができない人も同様である。要するに力任せに技を掛けようとする者は、この礼式の精神に反している。この点は特に注意して、導いていかねばならないことである。
礼式によって、相手との調和、一つになる工夫を行う。留意すべき大事なポイントである。
(6)技の基本(手首を取り、体全体の動きで受のバランスを崩し、制する)
実にさまざまな技が用意されており、基本と考えている手首をとる技だけでなく、襟や首、足をとることから始まる技もある。しかし、いずれの技であっても、力任せに受を押し倒すものではない。手首だけでなく、襟や首、足にしても、手を掛けるべきポイントがあるが、力任せに圧したりするものではない。先に礼式で学んだように、受とのつながりを大事にして、自分の動き全体で受のバランスを崩し、結果として受を制する形に至る。筋力の代わりに使うのが重力、つまり自らの体重や、相手との位置関係である。
重力を味方にするためには、鼠径部、膝、足首を緩く保つ必要がある。それぞれの箇所を筋力で固めてしまえば、それがブレーキとなってしまって重力をうまく働かせることができない。当然、前腕や上腕に力を入れてしまっても同じである。これはなかなか理解しがたい事実であるので、稽古の中で繰り返し体験させなければならないことである。指導者は常に留意する必要がある。また指導者自らの状態も常に点検し、余計な力が入っていないか、確認する必要がある。技は流れの中でかかっていくものであって、筋力で極めるのではないのだ。
またうまく重力を味方につけても、受も同じ体の使い方をしているため、普通にしていては技は相手にかからない。この時に大事になるのが、相手の中心に働きかけることである。相手とつながっている手首、襟、首などを介し、また捕自体の体軸の移動によって、受の中心(丹田)を動かさなければならない。これも力任せに行わず、全身の動きの中で行うことが大切である。
特に初心者は、分かりやすい手先の動きだけに捕らわれて、力任せに技を掛けようとする傾向が強い。足を止めて、鼠径部を緩めず、一生懸命関節を極めようとして前腕や指先の力を込めている場合がある。しかし、むしろ大切なのは、足運びや肚の動きである。相手との接合部である前腕部や指先に余計な力は不要というよりは、不可なのであるが、初心の者には分からない。優しく迎えるという礼式の心を忘れてしまっていることも合わせて、注意することが必要だ。
相手のとのつながりを大切にして、相手の中心を動かすように、心と体の働きで相手を崩していく。足の踏み位置や体軸の回転によって、受のバランスを崩していく。腕の筋力だけなら容易に抵抗できる場合でも、相手の重力やよい位置取りによって、簡単に崩されてしまうことは、繰り返し経験させないと分からないことである。力を抜き、優しく相手に接する心身の構えを頭と体で理解させなければならない。
(7)筋力不要の技
先に述べたように、筋力は不要である。普通の日常生活を送ることができるレベルの筋力さえあればまったく問題がない。むしろ、難しいのは、普段の日常生活で余分な筋力を使う癖をもってしまっていることである。筋力で体を固めてしまっている部位があったり、生活の癖で姿勢が悪くなってしまったりしている。つまり、現代社会で獲得がむずかしいのが「自然体」である。余分な力を抜き、鼠径部を緩め、膝や足首も緩め、足裏に重心を落とす感覚でいること。相手の手首をとっても、襟や首に手を回しても、基本的な姿勢は変わらない。
そういう体を作っていくことができれば、筋力を使わない技を掛けることができる。逆に言うと、いつも自然体でいることを訓練する必要がある。日々の生活が稽古であると言われる所以である。
またこの自然体は、形の中で、受が技を掛ける前の捕の状態である。つまり、相手が懐剣で襲ってこようが、刀で肉薄してこようが、自然体で待つことが求められている。このように筋力不要ではあるが、筋力以上に心や体の能力を要求するものである。それも筋力のように付け足そうとする能力ではなく、無理無駄をそぎ落とそうとする能力を要求している。無理無駄は本人には気づかないものである。指導者は注意して観察し、無理無駄をその場で指摘することが必要となる。
加えて、筋力を使わないために、実際に技が効いているのかどうか、技を掛けている当人にはよく分からないという事態が生じる。
何らかの達成感や充足感を得るために、力を込めたり、気合をことさら大きくしたりする人がいるが、その点も十分に注意する必要がある。
(8)気合(発声)
澁川一流では、有声の気合を発する。受が技を掛けるとき、あるいは捕が技を決めるときに発するが、ただ大きな声を出しているのではない。無理に大きな声を出そうとすると、体をこわばらせ(力を入れてしまい)、その結果として重心が高くなってしまう。この点をよく留意して指導を行う必要がある。
だが、気合を正しく伝えることは難しい。結果として大きな声が出ているだけで、その内面は分からないからだ。
鼠径部を緩め、胸や喉を緊張させないのはもちろん、腹も緊張させずに、腹の奥から出す息に音を載せるのだが、呼吸が正しくできていないと気合を発することができない。
静かなゆったりとした呼吸を求められるのであるが、これは気合を発する時だけ注意してできるものではない。形の間中、ゆったりとした呼吸をすることではじめて、最後の呼吸の流れに載せて気合を発することができる。逆にいうと、気合によって呼吸と動きを一致させることができるのだ。呼吸と動きの一致、つまり体を練ることにつながるとても大事な教えである。
気合を十分工夫することで、自然と体の中心である臍下丹田中心の動きを実現することができ、呼吸と動きが調い、技が効き始める。
指導者は気合が形の流れ、呼吸の流れから途切れたものになっていないか、体が緩んだ状態で、腹から発せられているかをよく見極め、指導しなければならない。
(9)蹲踞、礼法
稽古の最初と最後には互いに礼をするが、澁川一流では蹲踞し、両拳を床に着ける礼法になっている。シンプルな礼法であるが、ここでも留意点は多い。
まず立位の状態から蹲踞に移るが、臍下丹田を中心とした立ち方、自然体が出来なければ蹲踞に移れない。
次に蹲踞であるが、現代の生活では蹲踞の姿勢をとることもないので、ぐらつく人もいる。このとき、筋力でぐらつきを止めようとするのではなく、体の緊張を解いてゆったりと臍下丹田に体をあずけるように、体軸をまっすぐ立てるようにすることが大切である。
つまり、立位から蹲踞に移る際にも、臍下丹田を意識して、ゆっくりとお尻を下ろすことが必要で、それができれば体軸のぶれをなくすことができる。
礼をする際も、臍下丹田を中心とした角度が変わるだけである。緩めている鼠径部をさらに緩めるようにして、上体の角度を変えていき、拳を床に着けると頭も下がっているという状態になる。これが礼となる。
礼から戻るときも臍下丹田を中心とした角度が戻るだけであり、立位に戻るときもやはり臍下丹田を中心に、ゆっくりと最小限の力で戻る。このような動きになるように、指導者は急がずゆったりと礼法を行う必要がある。
また、この礼法を行うときに、相手をよく見て、心を通じさせることが大切である。指導者が導かねば、単なる形式になりかねない。指導者がまず心を落ち着け、心を通じさせるように、お互いの関係が途切れないように、相手をよく見て礼法を整えなければならない。
澁川一流で大切にしている調和を伝えることができる最初の関門であり、また自然体を学ぶ上でもおろそかにできない動きである。
澁川一流の心と体を礼法から学ばせるように留意することが必要である。
3.結語
これまで学んできた澁川一流の理念や技を今回の論文である程度整理ができた。しかし、まだ学んでいない多くの形があり、記載してきた内容も指導者として十分に体現できているとは言いがたい。なお一層の稽古を通して、膨大な体系をもつ澁川一流柔術を学ぶとともに、次の世代の人たちへ伝える努力をしていく所存である。
相手と争わず、調和を理念とする澁川一流柔術は、デジタル化がすすみ人との距離感を現実的な意味でうまく取れない現代人にとって、生身の人間を相手に心を通じ合わせることの大切さを学べる貴重な文化財である。
また、筋力をつかわず、さまざまな状況で自然体で対応をしていく技の数々は、体験すると非常に面白く楽しいものである。
多くの人に学んでもらえるような手段を考えることこそが、指導上の最大の留意点であるように思われる。
<参考文献>
1) 森本邦生「道標」貫汪館HP
2) 小笠原清忠「武道の礼法」日本武道館 2010年
- 2024/01/20(土) 10:25:00|
- 昇段審査論文
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米国テキサス州エルパソ支部に所属する方の論文です。同じテキサス州ですがエルパソから1000kmくらい離れた町に住んでおられますので普段はエルパソ支部長はインターネットを通じて指導し、また遠隔地に訪ねて行って指導されています。英文ですが最近のグーグル翻訳はかなり正確になっていますので大意は理解できると思います。
Muso Shiden Eishin Ryu Iai Heiho
Ni-Dan Essay Exam
The Path of Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho_ A Journey of Concentration and GrowthIntroduction:
Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho, the Japanese martial art of drawing and cutting with a katana, is more than just a physical practice; it is a lifelong journey of self-improvement and mastery. As I reflect on my journey in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho, I have come to realize the importance of concentration and continuous growth. In this essay, I will explore what I have learned from my practice of Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho, focusing on the aspects that demand my concentrated attention. Additionally, I will outline my goals and intentions for the future to continue progressing in this art.
The Power of Concentration:
In the world of Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho, concentration is the cornerstone of excellence. The ability to fully immerse oneself in the present moment, to be aware of every detail and nuance, is essential. Concentration allows us to connect with our inner self and the essence of art. Here are some key aspects of concentration in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho:
• Mushin (No-Mind): Achieving mushin, a state of mind devoid of conscious thought, is a fundamental goal in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho. It allows for quick and decisive responses to any situation. To concentrate on mushin, I must learn to silence distractions and maintain a calm, clear mind.
• Zanshin (Awareness): Zanshin, the state of continued awareness after an action is complete, is vital in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho. Concentrating on zanshin ensures that I remain vigilant and ready to respond to any potential threat. It requires a deep connection with my surroundings and a heightened sense of focus.
• Kata Precision: The forms or kata in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho demand meticulous attention to detail. Each movement, from the initial draw to the final resheathing of the sword, must be performed with precision. Concentration on perfecting these movements is crucial for mastery.
• Breath Control: Concentrating on proper breath control is essential for maintaining energy and focus throughout a practice session. Deep and controlled breathing not only enhances physical performance but also calms the mind.
What I Have Learned:
Through years of practice, I have discovered that Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho is not just about mastering physical techniques; it is a means of self-discovery and personal growth. Concentration in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho has helped me develop qualities that extend beyond the dojo:
• Discipline: The regular practice and the demand for concentration have instilled discipline in my daily life. I have learned the importance of setting goals and consistently working towards them.
• Patience: Progress in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho is often slow and incremental. Concentrating on improving each small aspect of my technique has taught me the value of patience and perseverance.
• Respect: The traditional nature of Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho emphasizes respect for one's teachers, fellow practitioners, and the art itself. Concentration on respect has deepened my understanding of the cultural and historical aspects of Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho.
• Inner Peace: The mindfulness and meditation aspects of Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho have helped me find inner peace and tranquility. Concentrating on the present moment has reduced stress and anxiety in my daily life.
Moving Forward:
As I continue my journey in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho, I am committed to furthering my practice and personal growth. To do so, I will concentrate on the following areas:
• Advanced Techniques: I will focus on mastering more advanced Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho techniques, including higher-level katas and more complex movements. Concentrating on these aspects will challenge me and push me to improve.
• Teaching and Sharing: teaching is an essential part of the journey in any martial art. I will concentrate on becoming a better instructor and sharing my knowledge with newer practitioners.
• Physical Conditioning: Concentrating on improving my physical conditioning through regular exercise and strength training will enhance my overall performance in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho.
• Mental Resilience: I will work on strengthening my mental resilience, especially in high-pressure situations, by practicing mindfulness and meditation outside of the dojo.
• Community Engagement: I intend to become more actively involved in the Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho community, attending seminars, workshops, and competitions to learn from others and broaden my perspectives.
Conclusion:
In conclusion, my journey in Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho has taught me the profound significance of concentration in the pursuit of excellence. I have discovered that Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho is not merely a physical practice but a path towards self-improvement and personal growth. As I move forward in my practice, I am committed to honing my skills, deepening my understanding of the art, and sharing my knowledge with others. Muso Shinden Eishin Ryu IAI Heiho is not just a martial art; it is a way of life that demands dedication, continuous learning, and unwavering concentration.
- 2024/01/21(日) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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大石神影流で「張る」ことができない人の多くが受けるときに手・木刀を自分に引き付けています。体が縮まった状態から張ろうとしていますので張るときには自分の体がますます硬直化ししてしまい、力は自分の中にこもり相手の刀や体を崩すことができません。
受けるときには緩んでわずかに伸ばすのです。伸ばしたところから体の中心に戻ってきますのでその動きの中で相手を崩すことができそのまま中心から相手を突くことができます。これは巻き落とすときも、槍合でもまた長刀合での薙刀の最後の動きでも共通しています。体を固めようとする癖がある人には難しいと思いますが努力してください。
- 2024/01/22(月) 21:25:00|
- 剣術 業
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できない人は上達しますが、いくら指導しても指導されたことをしようとしない人は上達しません。指導に従おうとせず自分の考えに基づいて稽古するのですから流派の教えから離れるのです。いくら自分が上達していると思っていても自分自身の勝手な価値観に基づいて上達していると勘違いしているだけで、自分勝手な価値観に基づく上達ですので流派の教えにはかなっておらず遠ざかっているのです。
一方できない人は愚直に指導されたことを体得しようと努めている人です。自分の過去の経験や悪癖から離れようと努めているのでいつか会得できる日が来ます。 この違いは非常に大きいので初心者の人、中級くらいになりかけている人は自分自身に気をつけておかなければなりません。。
- 2024/01/23(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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教えられたことが演武会でできなかったら真摯に反省する必要があります。反省せずに自分のレベルはしょせんこの程度と思うようでは上達はしません。対外的な演武会は流派を代表して出ています。教えられたことを自分ができないということは流派に泥をかけていることになると思わなければならないのです。
その思いがなければ何度演武会に出ても上達することはありません。今回はここまでできたではなく、「できなかった。」なのです。無理なことやできそうもないことは指導していません。覚悟を決めて稽古すれば一晩であっても会得できます。それができなかったということは覚悟が足りないのです。
「今回は真剣勝負に負けて斬られたけど、次回はもう少しまともに戦う。」ということはあり得ないのです。覚悟もなければ深い反省もなければ上達することはできません。上達には覚悟が必要です。
- 2024/01/24(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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すばらしい他流派に比べて貫汪館では私から流派の核となる本質を学ぼうとする人の割合が少ないように感じます。私から習ってはいてもすべてを受け取ろうとはせずに自分の考えを加えているので不純物にしかなっていないのです。
これは毎年10月に行われる立身流の奉納演武に参加させていただいて強く感じることです。 稽古年数が少ない人も多い人も全員本質的なところを宗家から学んでおられます。したがって誰がみても全員がその流派に所属しているということがわかります。貫汪館で三流派を稽古している人でそのような人の比率は残念ながら少ないのです。かつて他流派や現代武道をしていたからというのも言い訳になりません。立身流にもそのような方はたくさんおられるからです。真摯に純粋に習おうとしているかどうかの違いだと思います。
居合の師 梅本先生が言われたことがあります。「今一緒に稽古していても色が全員違う、同じ流派であれば同じ色になるはずだ。」全員が思い思いにバラバラなことをしていて先生に習おうとはしていなかったのです。今の貫汪館も同じ状態です。それでは流派を伝えていくことはできませんし、流派が伝わることもありません。形骸化した形・手数のみが残ってしまい中身はなくなり流れとは言えないものが残ります。
古武道界でその流派に所属する方達だけが素晴らしいのではありません。同じように招待されている棒術の流派しかり。お世話になっている先生の柔術流派しかりです。貫汪館で稽古している人の覚悟のレベルが低いのだと思います。自分の興味関心があるところのみを見て私が伝えたいところは見ていないのです。修業とはそんなに甘いものではありません。
- 2024/01/25(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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柔術の稽古で手順を習い手順を覚えたら次は業が使えなければならないのに、いつまでたっても手先の動きにとらわれ、手順にとらわれ小手先の技を使って相手の全てを崩すことができない人が多くいます。相手の手・腕に技をかけてもそれは相手の全てを崩すためであり、また相手の心を崩すためでもあります。
自分が大きな相手を包含しさらには周りの環境をも包含する円の中心となっていればできるはずなのに、いつまでも習った手順を追い、特に演武会などでは間違えまいとして小手先の動きにばかり意識が行き自分ではなく相手を中心としてしまっている人は考えを改めなければなりません。
- 2024/01/26(金) 21:25:00|
- 柔術 業
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過去に何かの武道をしたことがある人、まじめすぎる人は集中しすぎてはいけません。演武などで集中して形・手数に取り組もうとすればするほど過去が頭をもたげてきますし、まじめすぎる性格から過度の動作をしようとしてしまいます。
そこを脱するためには、何かしようとするときには心も体も和らげるように心がけてください。心も体も開放して過去にとらわれず、まじめすぎる心にとらわれないようにするのです。
- 2024/01/27(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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形・手数の手順を正しく行うことは武道ではありません。形・手数の稽古を通じて自由になることが武道です。しかしどのように指導しても形・手数に居つき一生懸命手順を間違わずに正しく行おうとされる人もいます。この部分はいくら否定してもそうしようとされるので成長する過程で身に着けた癖なのだと思いますが、ここをなくさなければ何も会得できません。
形・手数の稽古を通じて自由になっていかなければならないのに、形・手数の手順にこだわりかえって不自由になっているのです。どんどん不自由な自分を作っているのです。また、いくら見取り稽古をさせても手順のみをみて自分の形・手順にこだわり自分の価値観に基づいて稽古を続けているだけですので流派が求めるものは身に付いていないのです。大切なのは何も考えずにそのままに習うことです。
- 2024/01/28(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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支部長や稽古年数がある程度ある兄弟子は門人や弟弟子を教え、導くようになりますが、この時絶対にやってはならないことが言葉数多く言葉で理論を説明し納得させようとすることです。
言葉数多く説明すると自分自身が頭を使うことになるため体の動きが異なったものとなってしまいます。異なったものを示しても門人や後輩はなにも会得できません。それどころか間違ったものを身に着けてしまいます。また指導した本人も自覚はなくても正しい動きはできなくなっています。
なすべきことは自分の最高の動きを示すことであってそれ以外にはありません。言葉が多く出る人は往々にして昔自分自身が頭の中で形作ったダメなことを説明しており、自分が発する言葉で自分自身が下手になっているのです。教えたがりの人にもこのような人がいます。気を付けなければなりません。
- 2024/01/29(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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私が大学生になり筑波に赴く前に梅本先生に教えていただいたことの一つは「目上の方に手紙を書くときには筆で書きなさい。」ということでした。私は悪筆ですので筆で手紙を書くことは躊躇しましたが、それ以降梅本先生にお手紙を書くときには必ず筆を用いました。先生も私に手紙をくださる時には必ず筆でしたためてくださいました。月に一度は筆文字の手紙で居合をご指導いただいていました。今も宝物として残してあります。
私は悪筆ですが、夏休みに帰省して稽古にお伺いした時には兄弟子の前で「森本君は筆で手紙をくれるのだ。」と皆さんに手紙を見せて褒めてくださいました。何度も述べている兄弟子の森先生が喜んでくださいました。
大石先生に入門のお願いしをしたときにも梅本先生の教えに従い筆で手紙を書きました。何度も書き直しましたが、何とか体裁の良いものとなりました。大石先生も筆文字の手紙を気に入ってくださいました。その後お電話した時には「ぜひいらしてください。」といっていただけました。
- 2024/01/29(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道は行動の学問です。指導を受けたら直ちにその場で直さなければなりません。言葉で「直します。」「気を付けます。」といったところで言葉より先にその場で正す努力をしなければ、何の意味もありません。言葉が先にでるか行動が先かなのですが、言葉だけが先になる人は頭で考えて武道をしようとする人なので上達の速さは遅くまた道を外れる傾向があります。指導を受けた瞬間に正そうとする人は求められることを真剣に会得しようとする人なので上達は速やかです。わずかの差にしか見えないのですが大きな違いです。
- 2024/01/30(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「演武」という言葉を、演芸か何かと混同して忌避し、自分は現代武道のような競技をしているのではなく武士が行っていた武術を稽古しているので形の「演武」という言葉は用いないという方もおられるようですが、「演武」という言葉は江戸時代から用いられています。武道場を演武場といった例は数限りなくあります。
そもそも上記のような考え方には大きな問題があります。自分は古武道を稽古している。古武道は他の武道と異なり特別なものなのだ・・・。
武道を演じるということはない。俺はそんな言葉は使わない。
上の考え方は古武道を稽古する人にありがちですが、最も危険な考え方です。たかが居合のみを稽古したり、剣術のみを稽古する人が自分は古武道を稽古しているので特別だと思っていたとしたら江戸時代の武士からすれば噴飯ものです。居合しかできない、剣術しかできないという武士はおらず、馬に乗らなければならないものは馬術の稽古もしなければならず、槍を持たなければならないものは鎗術の稽古もしなければならず、身分の高い武士は兵学も学ばなければならず、片岡健吉の稽古日記をに見るように複数の種目の武術を稽古するのが当然のことであり、素抜抜刀術しかできないという武士などいませんでした。江戸時代の武士からすれば「1種類の武術しかできないのにそれで役に立つと思っているの。」ということになるでしょう。
演武場という言葉も知らず、おれは古武道を稽古しているのだから特別だと思っていたとしたら特別に変です。古武道は歴史を伴うからこその古武道であり、歴史を正しく知らないものが俺は古武道を稽古していると自分を特別視していたらおかしなことです。
貫汪館で稽古されている方には歴史を学んでいただいています。歴史をおろそかにしないでください。また決して自分を特別視しないでください。
- 2024/01/31(水) 21:25:00|
- 武道史
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